いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

島根県隠岐の島『蟹淵と安長姫』について

島根県隠岐諸島は最大の島・島後(どうご)。その北部にある隠岐の島町中村の元屋(がんや)地区には、次のような民話が残されている。

昔々、この村に1人のきこりがいました。

この川の奥に入り、淵の後ろの山で木を伐っていました。

つい誤って、斧を淵に落としました。淵に波が起こり、水煙が立ち上がりました。

怖くなり、帰ろうとするときこりを呼び止める声がしました。

「私は安長姫である。もう一度斧を投げ込んでくれ」

水の神様をお助けしようと、恐る恐るまた斧を投げ込みました。

明くる日、川下に大きな蟹の死骸が流れてきました。

きこりはそのことがあってから日に日に富が栄えました。村の人は川を安長川、淵を蟹淵と呼ぶようになりました。

 [隠岐島後民話・伝説案内板No.8]

 

■蟹淵をさがせ 

上の伝説が記された案内看板は下の地図位置(元屋川の中流)に掲示されている。周辺は農地が広がっており、この奥が「蟹淵」とされる。

 

調べてみると、元屋川水系は、小敷原山にある3つの水源から成り、西側から安長谷川、中央に元屋川、東側から東谷が合流して村へと注いでいる(元屋川水系 河川 - 川の名前を調べる地図)。安長谷川、樵はこの源流を上って杉を求めたに違いない。だがマップ上で遡ってみても深い森に覆われて、さすがに淵の位置までは分からなかった。

 

■茶山版と角川版

kanbenosato.com

歴史文化体験施設・出雲かんべの里ホームページでは、昭和57年(1982年)7月30日に収録された明治30年生まれの島民・茶山儀一さんによる語りが「蟹淵の主」のタイトルで保存・公開されている。解説によれば、昭和11年発行の横地満治・浅田芳朗編『隠岐島の昔話と方言』(郷土文化社報告第弐輯)が初出ではないかと記載されている。

 

茶山版では、「青い毛の生えたような蟹の爪」が浮かんでくる様子が臨場感をもって語られ、姫の言うには大蟹の名を「マエニケ」と呼んでいる。蟹の討伐後には「われはこの村の、あるとこの長者の娘であったけど、故あってここの身を沈めて主になっておる、が、元屋の人の雨がなくて日照りが続いたときには、ここに来て祈願をさっしゃい。必ずやご利益が現する。間違いないけん」と姫は言い残し、蟹淵へ雨乞いする習わしとなったという。

のちにTBS系列「まんが日本昔ばなし」で1990年11月3日(第772回)『蟹淵(かにぶち)』のタイトルで放映されており、文芸は同番組のメインライターの一人だった沖島勲氏、演出・作画は山田みちしろ氏(亜細亜堂)が担当した。こちらの出典は、角川書店が発行した「日本の伝説50」シリーズ『離島の伝説』(1980)に収録された酒井董美(ただよし)『年老いた木樵りと魔蟹』である。

角川版では、どこまでが伝承なのか、脚色があったのか分からないが、より物語背景や樵が淵に近づく動機を明確にしている。“長者の娘”は樵が幼い頃に可愛がってくれた人物とされ、その後、行方不明になってしまった。いつからか淵に魔物が棲みつき近づく者を帰さないのだと噂が立ち、だれも淵のそばへ寄り付かなくなった。かつて娘に少なからぬ憧れ・好意を抱いていた老樵は、そんな噂を振り払わんと一人で蟹淵へ伐りに入ったとされている。

 

酒井董美氏は、上の茶山氏の語りを収録した人物で、口承文学(民話・昔話)の研究者として知られる。『隠岐島の昔話』のレポートによれば、昭和40年代後半に行った島前・中ノ島にある海士中学校、本土の奥出雲にある横田中学校へのアンケート調査を比較し、家庭内で昔話を聞かせてもらった経験のあるこどもが少ない(海士19パーセント:横田58パーセント)として、隠岐島民話の伝承状態を大変危惧していた。

島根大学退官後は山陰民俗学会会長、上述の出雲かんべの里館長を務めた。氏による『隠岐島の伝説「蟹淵の主」を考える—横地満治氏収録本と茶山儀一氏の語りの比較を中心に』と題された論考も存在するが、所収は『島根大学法文学部紀要 文学科編』(1991)とのことで、残念ながら筆者は当分見られそうにない。島根県立古代出雲歴史博物館のサイトでも酒井氏の民話や民謡のデータが公開されており、こちらの解説では、雨乞いの部分はなかったが『隠岐島の昔話と方言』に収録されていた内容とほぼ同じとしている。

 

柳田国男『日本の昔話』

 なにか得やすい情報は他にないかと調べてみると、柳田国男『日本の昔話』に『蟹淵と安長姫』の題で所収されており、奇遇にも我が家の本棚に新潮文庫版があった(恥ずかしい話、かつて読んでいたことさえ失念していた!)。

底本は昭和5年3月アルス社から刊行された『日本昔話集(上)』(下のリンク・旧仮名)であるから、蟹淵の昔話は上記の『隠岐島の昔話と方言』(昭和11年)より少し早くに世に出ていたことになる。なぜ酒井氏は柳田版を初出としなかったのかは不明だが、全国各地で集めた民話・伝承を子ども向けに読みやすく書き下した説話集であるから、「口承文学」の枠から外したのかもしれない。柳田版の語り手がだれだったのかは記されていないが、内容は茶山版と大きな違いはない。

dl.ndl.go.jp

 柳田版では、茶山版と同じく樵は「年とった樵」「爺」とされ、安長姫は「絵にあるような美しい若いお姫様」と紹介されている。「昔から、この淵に住む者だが何時の頃よりかここには大きな蟹が来て住むことになって、夜も昼も私を苦しめていた」と姫から蟹の追撃を依頼された樵は「水の神をお助け申したい」と再び山上から滝壺へ斧を投げ込む。姫は喜んで「これから先は富貴長命、何なりともそなたの願うまま」と言って姿を消す。その後、この川の流れはどんな旱(ひでり)でも水が絶えず、この水の神に雨乞いをするときっと雨が降った、と話を締めている。蟹を倒して救ってくれた礼として、姫は樵に繁栄をもたらし、川は村を潤し、雨乞いの場として祀られたことを示している。

 

■「スーちゃん」の藤野版

1997年頃に開設された藤井和子氏のホームページ『スーちゃんの妖怪通信』でも『蟹淵の主』というタイトルで記事を書いておられる。このサイトの素晴らしいところは、在野の研究者ながら奇談や昔話・口承文学の保存のため、自ら各地へ赴いて聞き取りし、「語り部」「取材日」「場所」「同行者」「取材者」などを記した“学術調査資料”たりうる蒐集が為されている点である。2004年以来、更新は途絶えてしまったようだが、135話もの収録・公開に謝意を示すとともに賛辞を贈りたい。

聞き手は藤井氏、語り手は藤野ミヨコ氏(昭和10年、1935年生まれ)、聞き取りは2004年10月3日、場所は隠岐の島町教育委員会で、同委員会の方が立ち会っている。藤野氏は結婚して昭和34年(1959)から元屋に移り住んだ。当時の安長川上流にあった蟹淵は、小さな淵とはいえ暗く淀んで、何メートルかの滝もあったという。安長の杉材は橇(そり)に乗せて麓の村へと運ばれており、山は何百年と続く佇まいをそのまま残していた。

日本列島改造の時代(田中角栄日本列島改造論』発表は昭和47年)になると林道や作業道の開発が進み、蟹淵にも砂防が築かれて、不要となった岩石や土砂が投げ込まれた。平成元年に調査に訪れた酒井董美氏を藤野氏(と保育所の同僚ら)が案内した際には、淵のかたちはかろうじて残っていたが浅く小さくなっていた。酒井氏は「大きさは学校の教室の半分くらいもあろうか。その水面のあちこちに樹木が生えており、およそこの伝説のような雰囲気ではないように思われる」と綴っている。

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岩倉の乳房杉(樹齢800年とされる神木)

さて藤野氏の語ったものは茶山版、柳田版といささか様相が異なる。

老いた樵の話の前段に、角川版のように“長者の娘”の前フリが付される。

元屋の長者に美しい娘がおりました。

年頃になると、どこからでも縁談の声がかかり、

降るほど縁談が舞い込んできた、幸せなお嬢さんでした。

 なかなか頭を縦に振らなかったのですが、

ようやく西隣の五箇村の若者との間に縁談が整ったのです。

ある日、

五箇村へ行って来ます”

と言いおいて出かけたまま、

再び戻ってくることはありませんでした。

“ああ、あの娘さんも神隠しにあったのだろう”

と、みんながしばらく噂をしていましたが、

そのこともいつの間にか忘れられた形になっていました。

まさかの「神隠し」、花嫁失踪事件とでもいうべき展開である。気になるのは「あの娘さんも神隠しにあったのだろう」と以前にも似たようなことがあったかのように噂されている点である。結婚前の憂鬱、俗にいうマリッジブルー封建社会にももちろんあったと思うが、こうなると崇敬の対象・自然崇拝的な「水の神様」とはまた違った背景を想像させる。

尚、旧五箇村島後島の北西部に位置し、2004年10月1日に五箇村を含む島後の4町村が合併して、現在の隠岐の島町が新設された。聞き取り日が合併の翌々日だったこともあり、島内では「西隣の五箇村」という共通認識が強く残っていたためこうした語りになったものと考えられる。

 

 さらに、注目したいのは、その娘が淵の主となり、樵の前に姿を現した場面で、「ここにはガイ(大きくて凶悪)な蟹が住んじょって、わしはその蟹に、夜な夜な虐められ苦しめられて暮らしてきた」と、老いた樵に追撃を依頼する。柳田版のように「夜も昼も」虐められるというのなら、一日中悪さをされて困っている印象だったが、「夜な夜な」となると性的虐待のニュアンスを感じ取ってしまう。

またしめくくりでは、蟹を退治したお礼に、娘は「困りごとができたら開けてみよ」と「巻物」を渡している。蟹淵で雨乞いをすれば雨が降ることや老樵が裕福になることに加えて、喧嘩やもめごとが起きても巻物にその解決策が書いてあったという。つまり旱の心配を除き、樵に繁栄をもたらしただけでなく「村の秩序」さえ救ったことになる。

 

■所感

隠岐島の蟹淵に関するいくつかのバージョンを見てきたが、表現や構造上の細かな違いをあげればきりがなく、筆者自身は成立年代や話の確かさにさほど関心はない。話し手と聞き手がつなぐ伝言ゲーム的な認識の差や解像度のちがい、曖昧さが生じることも昔話の楽しみだと考えている。ひとはテープレコーダーではない。聞き手が様々な人生経験を積み、やがて子や孫、あるいは藤野さんのように育児施設や出雲かんべの里のような公共の場で話して聞かせるとき、そこには新たな意味が重ねられている。

 

「蟹」と「姫」について述べ、筆者の一解釈にて終わりとしたい。

①蟹とはなにか

 かつて谷川や水路で得ることができた沢蟹はこどもにもなじみ深い生物だった。そのせいもあってか昔話の類型として、蟹の報恩譚(蟹の恩返し)というものが各地に存在する。代表的な類型としては、「娘が日頃から蟹に米つぶをやるなどして可愛がっていた。あるとき蛇が現れて娘を脅かす。そこに蟹が現れて蛇をずたずたと切り裂き、娘を救う」というようなものだ。

このとき「蛇」は「男根」や「刀」を象徴していることは明白である。棒状でうねうねと動く無足の蛇に対して、多脚(サワガニは十脚)で硬い甲羅とハサミ(「盾」と「矛」)を持つ蟹は対概念として娘を救う側として描かれるため、多くの報恩譚のモチーフに起用されたと考えられる。

対照的に『蟹淵』では姫を虐める悪者として描かれている。たしかに現代人の感覚では、双ハサミを持つ蟹はカマキリのように狂暴なイメージを持つかもしれない。だが蟹=沢蟹に対する古くからの考え方では、こどもでも捕まえられるたんぱく源、ひとがつかまえようとこそこそ逃げ回ることから、『猿蟹合戦』のように軟弱者のイメージも重ねられていた。

だが蟹淵の魔蟹は2~3メートルともされる巨大さを誇るとされ、よもや捕らえたひとも食いちぎるのではないかとすら想像させる。はたしてなぜ蟹淵の蟹は「救世主」にはなれず「魔蟹」として伝えられたのか。民話としては忘れ去られているが、蟹の背後に、やはり対概念としての蛇が存在したのではないか、と筆者は考えている。

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いずれの話でも樵に名前がないことは共通しているが、茶山版だけ蟹に「マエニケ」という名前が付されている。マエニケがどんな意味を内包しているのか想像もつかないが、語り手が物語の筋に無関係な脚色をしたとも考え難い。方言や言語学の知識がないので単なる妄想になるが、たとえば「マエニ家」や「マエニイケ」が変容したものであったり、なにかしら物語の起源に由来した語なのではないかとも思われる。

 

②安長姫は実在したか

昭和初期に採集された民話と平成の半ばに採集されたものでは、古くに語られたものの方がなんとなくオリジンに近い要素が濃いようにも思われる。また藤野ミヨコ氏が保育士をなさっていたことから、一種の“昔話のプロ”であり、他の先生方や年配の方たちに繁く教えてもらったり、子どもたちに語り聞かせるために推敲して面白く脚色した(脚色されたものを教えてもらった)可能性もあるだろう。 

だが“神隠しにあった花嫁”の物語は、大変に興味深く筆者の心を刺激してやまない。“長者の娘・某=姫”は霊的存在としての神ではなく、実在した人物と考えると、前述の「蛇」は結婚が決まった五箇村の若者であり、対となる「蟹」は娘が好いた駆け落ち相手だったのではないか。

藤野氏の意図や物語の起源から外れた拡大解釈になってしまうかもしれず不愉快に感じる方もいるかもしれないが、インスパイアされて生まれた二次創作だと思ってお許し願いたい。

 

元屋の長者に美しい娘がおりました。

年頃になると、方々から縁談の話が舞い込んできました。

 なかなか首を縦に振らなかったのですが、ようやく西隣の五箇村の若者との間に縁談が整ったのです。

ある日、

五箇村へ行って来ます”

と言いおいて出かけたまま、再び姿を現すことはありませんでした。

“ああ、あの娘さんも神隠しにあったのだろう”

村の人たちは、やはりかつて同じように縁談を控えた若い娘が姿を消したことがあったのを思い出して噂し合いました。

 

はたして以前に消えた娘はどうなってしまったのでしょうか。

結婚が嫌で海へ身を投げてしまったのか、はたまた島の外へ自由を求めて渡ったのか。生きていようと帰るに帰れぬ事情があるのでしょう。

長者の娘もやはり同じ思いでした。

ぐずぐずと渋る娘に業を煮やした父親が五箇村の良家との縁談を取り決めてしまったのです。

長者の娘にはすでに心に決めた想い人がありました。

しかし父親が貧しい樵との結婚を許してくれるはずもありませんでした。

娘は樵と駆け落ちすることを決め、人目を忍んで当てどなく山へ入ります。

あるときは娘の婚約者が探しにきましたが、樵は娘が見つからないように追い払って守りました。あるときは山賊まがいに食い物や荷を奪うこともありました。

そんなことを繰り返せば、山奥に入る村人もいなくなります。

“もう長くはもつまいね”

“ならばいっそ、添い遂げましょう”

2人は滝壺へと身を投げました。

きっと幸せになると誓い合ったのに、その望みは自ずと絶たれてしまいました。

それからどれほど経ったか、ある老いた樵は、他の樵の寄り付かないという山奥へ杉を求めて入ります。

そこで樵が見たものは、淵に打ち上げられた若い女と滝壺にはまったままの青く膨れあがった...

 

やがて村人たちの知るところとなり、娘を水神、男を神使いの蟹に擬えて丁重に祀った。

 

 

 

 参考;

蛸島 直『蟹に化した人間たち』愛知学院大学 大学紀要人間文化 第27号

http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__27F/02__27_98.pdf