福岡大ワンダーフォーゲル部羆事件/クリル湖襲撃事件

福岡大学ワンダーフォーゲル部羆事件

1970(昭和45)年7月、北海道日高山脈カムイエクウチカウシ山で発生した羆襲撃事件で、犠牲となった3名は福岡大学ワンダーフォーゲル同好会(のち部に昇格)に所属していた。

(Wandervogelはドイツ語で渡り鳥。主に登山など野外活動を推奨する自然主義運動を指す。日本では昭和に入ってから学生サークル活動として広まり、ワンゲル、WVなどと略される)

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当時主流だったキスリング型ザック。横幅が広い

18歳から22歳の同好会メンバー5人は日高山系縦走合宿のため、7月14日に北海道上川郡新得町に到着。その足で登山計画書を提出すると、午後から芽室岳に入山した。予定では13日間で[芽室岳~北戸蔦別岳~幌尻岳~七つ沼カール~エサオマントッタベツ岳~春別岳~札内川九の沢カール~カムイエクウチカウシ山~ペテガリ岳]を巡り、下山する予定だった。

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23日、提出していた計画書の予定より大幅に遅れていたため、当初の中間地点・カムイエクウチカウシ山登頂後に、縦走は打ち切って下山する旨を話し合って決めた。

25日、一行は春別岳を経て、九の沢カールにてテント設営。16時半ごろ、夕食を済ませてテント内で寛いでいると、テントから6~7メートルの距離に羆が接近していることに気付く。

5人はこのとき危機意識を持たず、興味本位に観察していた。30分程すると、羆は外に放置していたキスリング(帆布製の大容量リュック)を漁り、中の食料に手を付け始めた。一行は隙を見てキスリングをテント内に移し、焚火、携帯ラジオや金物音を立て、懐中電灯を羆の目に当てる等して追い払う事に成功し、就寝した。

21時頃、5人は羆の接近に気付く。羆はテントにこぶし大の穴を開けて去って行った。一行は羆の再襲撃に備えて見張りを立て、2人ずつ2時間交替で睡眠を取った。

 

26日3時起床。一行がパッキング(荷詰)も終わりに差し掛かった4時半頃、上方よりまたしても羆が出現。睨み合いが続いた後、徐々に距離を縮めて来たため、一行はテント内に避難。羆がテントに手を掛け侵入しようとしたため、5人はポールを支え、幕を引っ張る等して抵抗。やがて一行はテントを諦めて、入口反対側から一斉に脱出。50メートル程逃げて、振り返ると羆はテントを倒し、残されたキスリングを漁っていた。
リーダーは「九の沢を下り、札内ヒュッテか営林署に連絡し、ハンター要請を依頼して欲しい」とメンバー2人に下山を指示した。2人は道中の八の沢で北海道学園大学・北海岳友会の一行(約10人)と出会う。北海岳友会の一行も同じく羆に襲撃され、下山の最中だった。2人は一行に「ハンター要請」の伝達を頼み、一行から食糧2日分、地図、コンロ、ガソリン等を借り受けた。

事件後、北海岳友会メンバーは「あの時、我々と出会っていなければ、3人を助けに戻らなければ、(被害メンバーは)死なずに済んだかもしれない」と語っている。

 

2人は13時ごろ、リーダーら3人と合流(道中で鳥取大、中央鉄道学園の一行とも遭遇している)。夕食、テント修繕・設営を済ませた17時過ぎ、またしても羆が現れる。50メートル程離れて様子を窺っていつつ、メンバー2人を八の沢カールにいる鳥取大の幕営地に遣り、宿泊を依頼させた。羆は立ち去る様子もなく、夜も近いことから残った3人は先の2人と合流し、八の沢カールを目指した。

しかし18時半ごろ、後方から羆の追撃を受けて一行はパニックとなり分散してしまう。メンバーの叫び声や「チクショウッ」といった声が聞かれ、集合の号令をかけたが3人しか集まらなかった。3人は鳥取大テントに向けて助けを求めた。鳥取大は焚火やホイッスルなどで羆への警戒を行い、その後、川沿いを下山。3人は安全と思われる岩場へ身を隠し、ビバーグ(風雨をしのぐだけの簡易宿営)した。

 

27日朝、視界5メートルの濃霧に見舞われ、はぐれた仲間2人の捜索は困難だった。3人は8時から下山を開始したが、15分ほど下ると2~3メートル眼前に羆が現れる。一人が羆に追われて逃げ出し、残った2人は八の沢から沢を下った。13時、2人は五の沢にある砂防ダム工事現場へ到着して生還した。

 

すでに鳥取大のメンバーによって通報はなされていたが、27日は乱気流、28日は濃霧によりヘリでの捜索はできず。ハンター、地元山岳関係者らにより捜索隊が組まれ、29日、八の沢カール周辺のガレ場(岩石の急斜面)でメンバー2人の遺体、ユニフォームが発見される。

遺体はともに衣服が剥ぎ取られており、一人は顔面右半分を完全に損傷、胸部、背、腹部に無数の爪痕。もう一人は更に傷みが激しく、顔で判別することは不可能な状態だった。腹部が抉られ、内臓が露出し、頸動脈は切られていた。周囲の岩には、引きずられて出来たと思われる小さな肉片が広範囲に付着していた。

 

夕方、カール下方で羆が現れ、ハンター10名による一斉射撃により射殺された。推定3~4歳の金毛の雌、体長約2メートル、重さ約130キロ(後の解剖では胃の内容物に食害の形跡はなかった)。
翌日、鳥取大のサイト地だった付近から、残る一名の帽子、遺体が発見された。やはり衣服は剥がされており、顔面左半分が陥没、全身に無数の傷。腹部は抉られ、内臓が露出。死後硬直が残っていた。

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本件は生存メンバーの証言のほか、子細な登山記録が残されている。また、はぐれたメンバーの一人は熊に追い立てられた後、鳥取大が残していたテントに避難した際、死の直前にメモを書き遺していた。外に出ることへの不安、羆再来の恐怖と、避難により得られたほんのささやかな安堵が綴られていた。

27日

4:00頃目がさめる。外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時まで、テントの中にいることにする。テントの中を見回すと、キャンパンがあったので、中を見ると御飯があった。これで少しほっとする。上の方は、ガスがかかっているので、少し気持ち悪い。もう5:20である。またクマが出そうな予感がするのでまた、シュラフ(※寝袋)にもぐり込む。

ああ、早く博多に帰りたい。

 正直に言えば筆者には、事件発生の背景に「熊になじみの薄い九州の学生だから」「若者らしい好奇心や体力任せな行動、侮りがあったのではないか」といった偏見があった。だが福岡大ワンゲル部による事件報告書(保存版「福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃事件報告書」|YAMA HACK)を読んで印象は変わった。

 

 7月に入ってから日高山系に入山した51パーティー、276人は羆との遭遇報告はなく、発生当時も30前後の一行がおり、福岡大がはじめて羆に遭遇したテント設営地点も他大学の一行に教唆されたポイントだった。

地元派出所・営林署に入山手続きをした際にも事前に羆についての注意喚起もなかった。さらに先月に行方不明登山者が出た際に行われた捜索ではハンターは同伴していなかったという。
羆の生息は予測できたであろう地元民でも「羆が人を襲う」ことは当時それほど意識されていなかったのである。実際にこの羆は食害には及んでおらず、遺体を弄った痕跡からはまるで犬がボールを転がして遊んでいたかのような印象さえ感じさせる。羆は警戒心が強い性格とされるが、きしくも「人をおそれない羆」が存在したということだ。

 

1984年、野生生物情報センター・小川巌氏による実験では、猟犬のように「背を向ける者」を追いかける性質が確認され、ザック袋を与えると好奇心を抱いて弄り1時間以上も執着していたという。

事件発生前の行方不明登山者がその後発見されたか否かは確認できない。事件を起こした羆がなぜ福岡大の一行を襲ったのかについて推論を述べるとすれば、もしかすると以前に行方不明登山者と接触していた、あるいは遭難登山者のキスリング(中の食料)に手を付けていた可能性をも感じさせる。

3人は八の沢カールで荼毘に付され、現在も慰霊プレートが設置されている。

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■クリル湖星野道夫氏襲撃事件

1996年8月8日、ロシア・カムチャッカ半島の南端部に位置するクリル湖で写真家・星野道夫氏が羆に襲われ死亡した事件。

星野氏は、アラスカの大地でグリズリーやカリブーの大群、クジラやホッキョクグマなどの野生動物や、厳しくも恵み豊かな美しい大自然を主な被写体とし、第15回木村伊兵衛賞ほか実績と経験を備えたその道のプロフェッショナルである。

www.michio-hoshino.com

 7月25日、星野氏はテレビ番組『どうぶつ奇想天外!』(TBS、1993~2009)の撮影のため、番組スタッフ3名、現地ガイド2名とともに、クリル湖畔グラシ—ケープを訪れた。「羆と鮭」に関する星野氏の持ち込み企画だった。

 

クリル湖周辺は世界有数の羆の生息地として知られ、個体数は600~800頭と言われる。雄大な自然と動植物の営みが手つかずのまま守られ、世界遺産にも登録されている。夏季には7種類、最大で500万匹もの鮭が遡上する魚類資源の豊富さが羆の個体数を支えており、本来単独行動を好む羆たちがあちらこちらで姿を現す。

 

保護区域のため銃器類の所持・使用は認められていないが、付近には鮭観察タワーや宿泊小屋などの施設が備えられている。到着時、小屋の食料が漁られた形跡を発見したが、スタッフとガイドの5人は予定通り宿泊小屋を利用した。星野氏は小屋から数メートル離れた地点に一人でテントを張って宿営した。

 

27日、星野氏の近くでテント泊していたアメリカ人写真家が金属音で目を覚ますと、宿泊小屋の食糧庫に羆がよじ登り、飛び跳ねている姿を目撃する。体長2メートル超、重さ250キロ、額に赤い傷のある雄の羆だった。アメリカ人写真家が大声を出して手を叩くと、羆は地上に降りて星野氏のテントに接近した。

「テントから3メートルのところに羆がいる。ガイドを呼ぼうか」

星野氏はテントから顔を出し、アメリカ人写真家の問いかけに了承した。

駆け付けたガイドは鍋を叩きながら熊除けスプレーを噴射するなどして対抗。直射できなかったが、やがて羆はテントから離れていき事なきを得た。アメリカ人写真家はこれに危険を感じて鮭観察タワーへと移っている。

 

ガイドは星野氏に小屋で宿泊するように説得したが、星野氏はテント泊を続行した。「鮭が川を上って食べ物が豊富だから、羆は襲ってこない」との見識に基づく氏の判断だったとされる。 

その後も近隣で羆の出没は続き、8月6日には再びテント近くに来たところをガイドが熊除けスプレーで追い払う一幕もあり、人間への接近を執拗に繰り返していることが窺えた。ガイドは星野氏に小屋への移動を再三勧めたが、このときも聞き入れなかったとされる。

 

8日深夜4時、星野氏の絶叫が聞こえ、スタッフが「テント!ベアー!ベアー!」とガイドに叫んだ。懐中電灯を照らすと、星野氏を咥えた羆が森へと引きずっていく姿があった。ガイドが大声を上げてシャベルを叩いて大きな音を立てたが、羆は一度頭を上げただけで、そのまま森へと消えていった。テントは破壊され、星野氏のシュラフ(寝袋)は引き裂かれていた。ガイドが救助を要請し、その後、ヘリコプターによる上空からの捜索で羆を発見し、射殺した。森の中で発見された星野氏の遺体は食害に遭っていた。

 

TBSの作成した遭難報告書によれば、その羆は地元テレビ局の社長によって餌付けされており、人の食料の味を知っていたこと、人に対する警戒心が薄かったことが判明している。また背景に、この年、鮭の遡上が例年より遅れており、食糧不足も影響したとされた。遺族の意向により、後日『極東ロシアヒグマ王国~写真家・星野道夫氏をしのんで~』と題して放映され、追加報告書の作成は見送られることとなった。

 

 現在、クリル湖南岸のシユシュク岬には星野氏の追悼碑が設置されている。下のリンクは2011年にクリル湖を調査に訪れた考古学研究者によるエッセイである。同地での羆との関わり方が記されており、番組制作に携わった現地ガイドの行動(シャベルを叩く等)は基本的に誤りはなかったことが確認できる。

hoppo-let-hokudai.com

クリル湖にかぎらず,カムチャツカのヒグマはあきらかに人間をおそれており,つねに一定の距離を保とうとする。私たちの行く手にヒグマがいても,15〜20m以上離れた位置から大きな声を出したり,スコップを叩いて音を出すだけで走り去っていくのが通例である。クリル湖にかぎらず,カムチャツカの踏査においては,ヒグマがつくった「道」を使うのがもっとも歩きやすい。必然的にヒグマに出会うことになるが,早めに相手を発見し,一定の距離をたもったうえでこちらの存在を知らせれば必ず逃げてゆく。

 過去に地元テレビ局社長がどのような認識で行動したのかは不明だが、この悲劇における最悪の過誤は羆の営みを歪ませてしまった「餌付け」行為に他ならず、人に近づくことに慣れた羆の側もまた被害者なのである。

 

被害に遭われたみなさんのご冥福と関係者さまの心の御安寧をお祈りいたします。