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韓国三大未解決・カエル少年事件について

1991年、大韓民国大邱(テグ)市で起きた男子小学生5人の失踪事件、韓国三大未解決事件のひとつとされる通称“カエル少年事件”について記す。

尚、筆者はハングル語を解さないため、誤記や誤訳が生じるおそれがある。調べて書く行為を通じて文化理解を深める目的も兼ねているためご容赦願いたい。

 

事件の発生

1991年3月26日、この日は地方選挙により臨時の祝日だった。

韓国・大邱直轄市達西区の城西(ソンソ)国民学校に通う9歳から13歳の5人の少年が「臥竜山(ワリョンサン)サンショウウオの卵を拾いに行く」と言い残し、朝8時半ごろに家を出たきり戻らなかった(*)。夜になっても帰らないため保護者らは連絡を取り合ったがだれも消息がつかめない。一晩待ってもだれひとり帰宅しないことから、翌27日午前、警察に5人の失踪を通報した。

のちに“サンショウウオの卵を拾いに行く”という少年らの言葉が、報道で“カエルを捕まえに行く”と歪曲されて伝えられたため「カエル少年失踪事件」という呼称で広く知られるようになった神隠し事件である。

(*現在の大邱広域市。金泳三・キム・ヨンサム元大統領はそれまでの軍事政権による中央集権的体制からの脱却を図り、国軍や行政改革に着手した。1995年の行政区分見直しに伴い「直轄市」から「広域市」に改称された(広域市は全6都市。なお首都ソウルは「特別市」)。大邱慶尚北道の内陸部に位置し、およそ100万世帯・人口250万人が暮らす国内第4の大都市。/国民学校・クンミンハッキョ。現在の初等学校、小学校のこと。学制も1995年に改正された。)

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事件当初、家族や地元警察による山中や付近の捜索で何も発見されなかったことから、警察は「貯水池付近で遊んでいた」「市街で信号待ちしている5人を見掛けた」などの目撃証言を重視し、下山して市内に潜伏している可能性が高いとして、空き家やビニールハウス、宿泊施設などの滞在可能な場所、ゲームセンターなどの一斉捜索を行った(家出説)。

5人一斉にいなくなるという前代未聞のニュースはすぐに全国を駆け巡った。家族もテレビ出演して情報提供を呼びかけ、5人の顔写真が公開されるとやがて「新聞売りの少年に似ていた」「チョコレート売りの少年2人と印象が近い」など全国から浮浪少年などの目撃情報が集まるようになった。特集番組には外国人グループ等による拉致凶悪犯による誘拐、人身売買を懸念する声なども寄せられた(拉致・誘拐説)。

国民的注目を集めるなか、盧泰愚(ノ・テウ)大統領も早期解決を期して警察に大号令を掛けた。捜査範囲を大邱から全国に広げ、各地の駅前やバスターミナル周辺などでの聞き取り調査にも乗り出した。失踪から約7か月後、軍を動員した大規模捜索も行われたが少年たちの足取りは依然としてつかめなかった。

企業各社は協力して最大4200万ウォンという破格の懸賞金を設置。またテレフォンカード(公衆電話カード)、菓子などの食料品、タバコ、ハガキといった様々な日用品に写真入り広告がつけられるなど国家総出の大キャンペーンを行い、映画製作や歌、小説のテーマに扱われるなど、老若男女を問わず全国民の関心事となった。

その反面、ハンセン病患者の治療に少年らの遺体が用いられ施設内に埋葬されているといった悪質な通報も行われ(人体生薬説)、通報を基に強制捜査に及んだ警察の強引な手法も問題視された。

児童被害の事件では、統計上、実の両親ら近親者による犯行の割合が大きい。96年1月の捜索番組では、心理学博士のプロファイリングにより少年の保護者のひとりに疑惑の目が向けられ、自宅の床板を剥がすなど行き過ぎた追及が騒動を過熱させた(保護者説)

1993年9月、懸命な捜索活動を続けてきた少年らの親たちが記者会見を開き、事件の長期化による生計のひっ迫から生業への復帰を宣言。これまでの捜査協力への感謝と共に「今後は警察の捜査と国民の情報提供に依存するしかない」と涙ながらに語った。

その後、新たに男児を授かった家族などもある一方で、息子との再会を果たせぬまま病没する親もおり、時の流れを感じさせた。捜索は延べ32万人が動員されたが、その安否さえ知れない膠着状態が続いていた。

 

発見

失踪から11年6か月余が経過した2002年9月26日、臥竜山中腹へとドングリ拾いに訪れた付近の住民が地面から露出した子供靴と人骨らしきものを発見する。

その日のうちに照会されると、5家族が抱いていた微かな希望は脆くも砕け散り、事件名から“失踪”の二文字が消えることとなった。しかし遺骨発見により「カエル少年事件」は終結とはならなかった。警察は“遭難事故”との推察を示したが、遺体の状況や鑑定から他殺の疑いが強まり“犯人捜し”の再捜査が行われた。

 

新情報も出たものの犯人特定に結びつくことはなく、2006年3月25日に15年の公訴時効を迎えて事件は迷宮入りを余儀なくされた。だが所轄の城西署では時効満了後もカエル少年事件担当チームが置かれ捜査が継続されている。

 

少年たちが遊びに向かったとされる臥竜山は達西区の北/西区西部に位置し、北面に琴湖江を臨む標高300メートルほどの緩やかな低山。当時は南面に4~5つの谷があり、西面には3つの貯水池があった。“サンショウウオの卵”がどこにあったのかは分からないが、城西小学校から北へ2~3キロメートルほどの距離である。冒険心に駆られる少年たちにとって臥竜山は大人たちの目の届きにくい、格好の遊び場だった。

 

■遺骨発見と再捜査

遺体発見現場周辺では大々的な発掘捜査が行われ、遺骨と衣類や靴のほか、弾頭や実弾など12点(遺骨近接は2個。その後の発掘により周囲から100数十点に及んだ)、あんパンの袋が発見された。上空では再びマスコミ各社による取材合戦が行われた。失踪当時は低山の周囲を桑畑と田んぼが並ぶ農村地域で“村はずれの裏山”といった風情であったが、その後、龍山地区などの周辺開発により市街化が進んだ。発見当時も臥竜山周辺は学校の新設や新たな墓地の改葬工事が進められていた。

発見直後の会見で、警察は「常識的に見て他殺の痕跡は薄い」として、遭難後の低体温症による自然死とする見解が述べられたが、ジョンシク君の叔父は「山を知り尽くしている子どもたちが迷子になるなんて考えられない」と強く否定した。

OhMyNewsの記事によれば、失踪当時、遺骨発見現場から5、600メートル地点に40世帯規模の村があり、200メートルほどの場所にも5世帯ほどが暮らしていたとされる。古くからの周辺住民は「射撃場の悪影響や山火事の影響でハゲ山になった箇所が多かった」「山中で迷っても夜になれば村の灯や近くの高速道路が目に入るだろう」と遭難説に否定的な見解を述べている。

また発見された体操服の上着左右の袖が結ばれており、警察はこれを「寒さを紛らわせるため」としたが、“拘束された”ともとれるかたちだったことから他殺説を提起する保護者もあった。子ども同士でふざけて縛っていた可能性も否定はできない。

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                                                 (wikimedia

キム・ヨンギュ(11)

キム・ジョンシク(9)…腕に防御創と見られる骨折

パク・チャンイン(10)

ウ・チョルウォン(13)…頭蓋骨の左右に1センチ、4センチ程度の穿孔

ジョ・ホヨン(12)

警察は、発見現場から300メートルほどの場所に1994年11月まで大邱第50師団の予備軍射撃場があったことから、打ち損じの実弾を少年たちが拾っていた可能性を示唆した。また過去に臥竜山で赤鹿の猟師が出没していたとの住民証言もあったことから、近隣の猟銃所持者らへの聞き込みを行うとした(猟師説)。

 

30日夕刊『文化日報』は、白骨発見直前の25日に「臥竜山にカエル少年5人は埋まっている」と電話でタレコミがあったと報道。「当時の政権や社会状況を正すための政治信念からの犯行」などとされ注目を集めたが、その後、警察の調べで当該人物への取り調べを行ったが推測情報だったことが明らかになった。

聯合ニュース』では、遺体発見前の2002年8月に関連が疑われる情報提供があったと発表。旧達西区役所付近で靴磨きをしていたハン氏によれば、7月に「軍に服役していた当時、突然現れた5人の少年に向けて誤射し、一人が死亡、一人にけがを負わせてしまったため、隠蔽のため別の場所で絞首・銃殺した」と少年殺害を匂わせる三十歳程の客がいたと報じた(元軍人説)。

捜査機関はこうしたマスコミの過干渉、警察不信の種となる煽情的な報道に対して不満を示した。

 

遺骨を鑑定した慶北(キョンブク)大学法医学チームは、生前に外傷を受けていたと見られる痕跡が10か所認められたとし、死因について「頭蓋骨内部の出血」によるものと推定、「精神異常者や性格異常者が鋭いドライバー等凶器で殺害した可能性がある」という所見を提示した。

尚、頭蓋骨左右に穿孔がある遺骨について「銃創ではないか」とする意見に対しては「通常、被弾による貫通による骨折は、内側と外側で形状が異なるため、この頭蓋骨の穴を弾丸によるものとみなすことは難しい」と説明された。

 

すでに他殺説を裏付けるような証言として、失踪同日に山に入っていた別の少年グループの一人が「10秒間隔で2回、悲鳴を聞いた」というものがあった。

また少年の旧友から「射撃場近くで“弾頭拾い”をしてよく遊んでいた。いっしょに行く予定だったが、自分は途中で引き返した」との証言が得られ、別の同級生からも「自分は彼らとそれほど親しくなかったが、当日10時頃に射撃場へ行くと言って山に入るのを見た」との裏付けがなされていた。

カエル少年失踪より以前に“弾頭拾い”をしたことがあるという近隣住民は、「射撃が始まるときは警告放送のサイレンが鳴るので近寄らなかった」「しかし訓練終了後を見計らって、進入禁止の標識を越えて拾いに行くこともあった」と少年時代の体験談を語っている。

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少年たちがカエルでもオオサンショウウオでもなく親に隠れて弾頭拾いに訪れていたという話の信憑性は高まり、誤射や流れ弾、あるいは陸軍関係者による「犯行」までもが疑われる事態に発展した。

陸軍当局は50歩兵師団の調査を実施し、会見を行った。射撃位置と発見場所の位置関係について、250メートルの距離、射撃方向から45度ずれているとした上で、当時、高さおよそ150メートルの尾根に遮蔽された地形であったとし、仮に射撃訓練があっても少年たちに直接被弾した可能性はないと説明した。

施設は1956年・71年・81年と段階的に敷地が拡張されてきたが、(失踪当時と同じ)81年度施設より以前には防護設備が乏しい状態で、流れ弾の飛散も考えられるとした。また記録に残っていないが、敷地外に一時的な簡易射撃場が設けられた可能性もあるとして、周辺地域に使用済み弾頭が埋没されたとも考えられた。

少年らが遺骨となって発見された現場ではなく、射撃場周辺で弾頭拾いをした可能性も指摘されていた。被弾させた軍関係者が少年たちを埋めたという疑惑である。しかし陸軍当局は、根拠となる記録日誌類は保存期限3年で処分されているが職員らに聞き取りした結果、事件当日は「選挙による臨時祝日で射撃訓練を実施していないと推定される」と説明した。

使用の弾丸についても岩やコンクリートに当たった場合は弾頭形が崩れることを指摘し、発見された弾頭と軍が無関係であることを示し、非公式射撃の可能性については「銃器携行での領内離脱は武装脱営になるため、そのようなことはあり得ない」として退けた。

しかし当時、在韓米兵も施設を利用していたことや、当該記録の早期抹消の可能性、非公式射撃などに関する疑念のすべてが払拭された訳ではない。関係者による犯行と軍内部での証拠隠蔽を疑う説は特にネット上の事件フォーラムで根強く議論の対象となった(軍隠蔽説)。

 

■その後 

ヨンギュ君の父は「決して家出するような子どもたちではなかった。警察は目撃者の証言をもとに見当はずれの捜査に集中し、方向性をずらしてしまった」と当初の警察の見立てに対する不満を露わにした(東亞日報)。

また遺族らは「通報を受けて到着時にはすでに発掘が終わった段階だった。なぜ遺骨発見初期の状態のまま見せてくれなかったのか」と、これまでの捜査過程で警察への不信感を募らせている様子も窺わせた。2005年8月、少年たちの遺族らは「全国迷児・失踪家族を捜すための市民の集い」とともに、国を相手取って4億5000万ウォンの損害賠償請求訴訟をソウル中央地裁に起こした。

 

上の動画はKBSニュースがカエル少年事件の報道をまとめたダイジェスト版で、失踪時の捜索キャンペーンの様子や遺骨発見時の報道を見ることができる。

再び報道が活発化し、新たな情報提供もある一方で、根拠に乏しい情報や「犯人は吸血して生きるモンスターである」「神の啓示によって少年の埋葬場所を警察に通報していたが無視された」といった合理性を著しく欠く通報者(霊媒師など)も相次いだ。しかし“初動捜査の失敗”に対する批判を受けて、警察はそうした虚偽情報に対しても慎重な確認の手続きを踏まざるをえなくなっていた。

他殺説として様々な憶測が飛び交ったものの、警察は「あらゆる可能性を視野に入れて」対処した結果、犯人像を絞り込むことさえ難しくなり、真相解明の糸口をつかむまでに至らなかった。 

 

■時効とのたたかい

1954年に成立した韓国刑法は当時の日本法を参考にしたもので、殺人罪時効は15年とされていた。時効成立を前に遺族からは「犯罪として罰することはできなくなる。だが、たとえ犯人がすでに死んでいたとしても霊に化けてでも、息子たちを殺した理由を教えてほしい」という悲痛な声もあった。2006年3月の慰霊集会では「時効を過ぎればたとえ犯人が検挙されても罪には問えない。このような悔しいことが二度と繰り返されることのないように」と時効の延長・撤廃を訴えた。

同じく三大未解決事件とされる1991年1月にソウルで発生した“イ・ヒョンホ君誘拐殺人事件”、86年から連続強姦魔によって繰り返された“華城連続殺人事件”も本件と同じ2006年にすべての公訴時効が成立することになっていた。

日本では2005年に公訴時効改正(最長15年から25年に延長された)が成立し、韓国内でも時効期限の見直しを期待する世論は高まっていた。2005年8月にもウリ党議員から殺人罪時効を20年に延長する刑事訴訟法改正案が提出されていたが、政局に左右されて国会での法案審議は足止めされ、はたして改正が果たされたのは三大事件の時効成立後、2007年のことだった。

 

2011年11月、障碍者と13歳未満の児童を対象とした性的暴力犯罪に対する時効撤廃を盛り込んだ「ドガ二(坩堝)法」を制定。

2015年7月、殺人罪の時効を廃止する刑訴法改正案「テワニ法」が成立した。1999年、大邱でキム・テワンくん(6)が何者かに硫酸を掛けられ49日の闘病後に死亡した事件が2014年に時効を迎えてしまったことにより発議されたものである(2007年改正は遡及して適用されなかったため、テワンくん事件の時効期間は15年のままだった)。

 

2019年10月、華城連続殺人事件の現場に残されていたDNAを最新手法により再鑑定した結果、5件目(1987年)で採取されたものと別の強姦殺人事件ですでに釜山に収監中のイ・チュンジェ受刑者(56)のものとが適合したことが京畿南部地方警察庁の捜査本部より明らかにされた。受刑者は義妹に対する強姦殺人で無期懲役刑となっておりすでに25年間服役していた。11月2日、水原(スウォン)地裁において開かれた8次事件(ユン・ソンヨ被告再審裁判)にイ受刑者が「証人」として出廷し、義妹のほか14人の殺害と30件の強姦事件について公開自白した。しかしすでに全件で時効が成立していることから新たな罪状が付されることはない。

上の動画では華城事件の真犯人解明にDNA鑑定が大きな役割を果たしたこと、迷宮入りしたイ・ヒョンホくん事件・カエル少年事件でも再鑑定が進められていることなどを伝えている。

 

■所感と妄想

イ・ヒョンホくん誘拐事件の悲劇の直後に起きた謎の集団失踪に国民の不安が高まり一層関心が寄せられた本事件。いくつもの家族がメディアに登場したため、多くの国民にとってヒューマンドラマ的な受容を喚起した側面や、家出・浮浪少年という社会問題との接合も注目を集めた背景であろう。

日本の失踪事件と照らし合わせても保護者に対して向けられる疑惑や外国人による拉致説、トンデモ説、警察による初動捜査に対して家族が抱く違和感など、似たような問題点がいくつも見受けられて興味深い。登場人物ばかりを執拗に疑っていても真犯人を見失うことにつながりかねない。

遺体発見後の警察の対応は「遺骨発見」で事件の幕引きを図ったような印象は拭えないし、軍についても報告書然としすぎていて家族の求める真相解明とは噛み合わなかった。とはいえ、弾丸の種類が6種類かそれ以上あったとみられることから、かつて敷地外で非公式に臨時射撃が行われていたものと考えてよいと思う(普通の猟師であればそれほど複数種の銃器を用いないし狭い範囲で百数十発も打ちまくることは考えづらい)し、カエル少年たちが薬莢拾いに訪れたことも事実であろう。

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筆者が妄想する犯人像は、二十歳前後の男性である。軍人かもしれないし、かつての村の若者かもしれない。山で出会ったカエル少年たちと気さくに語らい、「もっと薬莢が見つかる場所がある」とか「こっそり銃に触らせてやる」とかひと気のない場所へとおびき寄せて、次々と手に掛けた。金銭目当てでないこと、レイプや誘拐目的であれば単独・少数行動を狙うと考えられることから、反社会性の発露、興味本位の突発的な犯行だったのではないか。

5人を山から移動させたとは思えず、その日のうちに5人を埋められる穴を掘ったものと考えられる。スコップは下山して家まで取りに戻ったか、あるいは近場の農作業小屋から失敬したものか、いずれにせよ田舎の野山で犯行に及ぶのだから近隣の事情に通じた者の犯行であろう。いつ捜索隊が現れるやもしれず、その晩のうちに撤収。幸いすぐには発見されなかったものの、捜索キャンペーンが始まる。

しかし世間の目は“殺人事件”としての捜査ではなく当てどもない“浮浪少年”捜しへと向かった。また若者が村を離れるのは奇妙なこととも思われず、ひょっとすると開発の余波を受けて一家丸ごと程なく転居したかもしれない。また軍関係者であれば何年も経たないうちに退役や転任していよう。あるいはキャンペーンの拡大がプレッシャーとなり、発覚をおそれていつしか自殺した可能性などもあるが、他言しなければ真相は闇の中だ。

 

時効問題もあるため犯人逮捕・真相解明が被害者・遺族への報いになることもない悲しく罪深い事件である。皮肉なことだが“サンショウウオの卵少年”ではなく、キャッチーでどこか愛らしい、そしてサンショウウオよりはるかに身近で親しみやすい“カエル少年”というネーミングが付された偶然は運命的なことのように思える。私たちは毎年カエルのなく季節が来るたび、切なくも5人の少年たちが生きていたことを思い出すことができるのだから。

カエル少年たちのご冥福とご遺族の心の安寧をお祈り申し上げます。

 

 

■参考

OhMyNews

東亞日報

・KBS

・the hankyoreh

・国民日報