いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

「ヒンナ神」「雛」「鐘馗」について

■ヒンナ神について

ヒンナ神とは、富山県砺波地方に伝わる憑物の一種とされ、同地出身の郷土史家・佐伯安一氏が『礪波のヒンナ神』(1949)、『礪波民俗語彙』(1961)などにその伝承を記している。

ヒンナ神を祀ると、祀った者の欲しい物をすぐにもたらすとされ、次々に用事を言いつけなければ「今度は何だ、今度は何だ」と催促しにくるため、すぐに財産家となった。そのため周囲で急に裕福になった家などがあると「あの家ではヒンナを祀っている」などと噂された。


“ヒンナ”は「人形」を意味し、その材料には「三年の間に三千人に踏まれた墓場の土」が用いられたとされる。

更に念の入ったものとなると、七つの村の七つの墓場から持ってきた土を人の血で捏ね、自分の信じる神の形にして、人のよく通るところに埋めて千人に踏ませるという。
同類の伝承では、三寸(約9cm)ほどの人形を千個作って鍋で煮ると、一つだけ浮かび上がってくるものがあり、“コチョボ”といって千の霊が宿った人形だといわれている。

 

こうした神の力を人形に宿し、祀った人に使役させる仕組みは、陰陽道の「式神」の呪法、丑の刻参りの“藁人形”などにも近しく思われる。

しかしヒンナ神には数多もの欲望が込められているため、一度でも祀るとその者に憑りついて死ぬときには非常に苦しみを味わわせ、死して尚も離れず、遂には地獄に落ちるといった代償があるとされている。

(似たような仕組みをもつ伝承として過去エントリ『河童にまつわるエトセトラ』にて「河童-人形説」に触れているのでよければそちらもご覧いただければと思う。)

 

これを解釈すると、村落共同体内部での「貧富の格差」によって生じる軋轢・妬み嫉みから生成された概念とも考えられる。

貧しい者にとっては富める者に対して「どうせ最後には罰が下る」と溜飲を下げることができ、富める者にとっては貧しい者からの嫉妬や略奪の被害を回避する効果もあったのではないかと推測できる。

人形ではないが「座敷童」伝承でも、家の繁栄や没落は当人の才覚や努力によって得られるのではなく、「神の恩寵(外からの見えざる力)」によってもたらされるというよく似た思考様式が共通している。

突き詰めればムラ社会やイエ制度に根付いた発想、流動性が低い村落内での人間関係を維持するために編み出された“知恵”のようにも感じさせる。

 

 

 ■ひとかたとひいな

源氏物語』十二帖・須磨の終わりには、光源氏が三月の上巳(じょうし)の節句にお祓いを薦められ、海で禊(みそぎ)を行う場面に「人形(ひとかた)」が登場する。

いとおろそかに軟障(ぜじょう)ばかりを引きめぐらして
この国に通ひける陰陽師召して祓へせさせたまふ
舟にことことしき人形のせて流すを見たまふによそへられて
知らざりし大海の原に流れ来て ひとかたにやはものは悲しき

(とても簡素に垂れ幕の間仕切りだけを引いて囲い、須磨の国に通う陰陽師を呼んでお祓いを施させなさった

舟に仰々しい人形を載せて流すのをご覧になると、自分の身の上と重なって思われ

「見知らぬ大海原に流されては 身代わりとて物悲しいものよ」と詠まれた)

上の引用部で人形は「ひとかた」と呼ばれ、穢れを人形に負わせて海や川へ流す、あるいは焼き払う厄払いの儀式で、陰陽道でいう「撫物(なでもの)」、今日の「流し雛」の原型と考えられている。

庶民の間では、草花あるいは木や紙、布で形代(かたしろ。霊を宿すための代理品)をつくって、こどもの枕元に置き、厄払いのために海川へ流す風習となった。海や川へ流すのは村の共同体から「外」に送り出すためである。藁舟や藁人形を流して疫病や流行り風邪を祓う「疫神送」「咳気送」も同様である。

 

源氏物語の五帖・若紫などに登場する「雛(ひひな、ひいな)」は幼児のままごと遊びに用いられる“お人形さん”を指しており、ヒンナ神の「ヒンナ」はこの「雛」に由来していると考えられる。

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今日の上巳の節句(いわゆる「桃の節句」)では家に飾ることで家人の災いを避ける「守り雛」の形式が一般的だが、その成立は江戸時代ごろとされている。それまでの紙雛や玩具としての人形から、宮中の殿上人を模して細工を凝らした雅な雛人形へと様変わりした。海川に流さずに毎年家で飾る用途となり、武家や商家の「嫁入り道具」として家財のひとつともされた。また同時並行的に17世紀の人形芝居や人形浄瑠璃文楽の隆盛が人形制作の職能を飛躍的に進歩させたと見ることもできる。

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しかし、穢れを祓う「流し雛」と家内に飾る「守り雛」が同源のものかどうかははっきりとしておらず、源氏物語にあった上巳の節句の禊の儀式が平安時代以降も脈々と継承されてきた形跡は認められていない。そのため作中の流し雛は、お祝い事としての「ひな祭り」のルーツとはいえないとする説もある。詳しくは下のひな祭り文化普及協會の記事・雛祭り起源考に詳しい。

hina-matsuri.jp

今日の「雛人形を早く片付けないと婚期が遅れる」といった俗説も、ルーツを紐解けば、「人形をそのままにしておいては厄払いが済んだことにならない」と解釈されたためかもしれない。

 

 

 

■鐘馗について

季節変わって五月、端午の節句では五月人形や鯉のぼりを飾ることで知られるが、疫病除けや学業成就の神様として「鐘馗(しょうき)」の人形や掛け軸を飾る風習も残っている。

 

鐘馗は中国の唐代に実在したとされる人物である。

9代皇帝玄宗が瘧(おこり、マラリア)に臥せっていた際、宮廷で「虚」「耗」という小鬼たちが暴れ回り、寵愛する楊貴妃の宝を盗まれる悪夢にうなされていた。夢の中で玄宗が助けを求めると、破帽子に角帯をつけた髭面の大男が現れ、瞬く間に小鬼たちを退治して一飲みにしてしまった。大男は鐘馗と名乗り、身の上を明かした。かつて武徳(618~626)の時代に科挙で優秀な成績を収め「状元」の称号を受けたが、大きな体と鬼のような強面が災いして称号を取り消されてしまった。それに絶望して自殺したが、初代皇帝・高祖が手厚く葬ってくれたのでその恩に報いるため、天下の災いを除くことを誓いに立て参じたのだ、と告げる。

夢から覚めた玄宗は病が治っており、呉道玄に命じてその姿を描かせ、邪気払い・息災祈願としてその図絵を臣下の者に与えたとされる。

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日本では平安末期-鎌倉初期に成立したとみられる辟邪絵(へきじゃえ。古くから信仰された疫鬼を追い払う善神の絵)・地獄草子益田家乙本(上図。国宝、現在は奈良国立博物館所蔵)に確認されている。

東洋の画題とその所以・故事などを解説した金井紫雲編『東洋画題綜覧』(1941-1943)には下のような解説が付されており、まさしく今日に伝わる“鬼”の図像的源泉だったように思われる。

其の像は巨眼多髯にして黒衣を纒ひ、冠を着け、剣を抜いて小鬼を捉へてゐる、古来日本では端午の節句に、此の像を懸けて、魔を攘ふことにしてゐる、その形も虎に騎るあり、馬に跨るあり、正面あり、横向あり、雲中にあるもの、帷幕をかかげて姿を現はしてゐるもの、さまざまに画かれてゐる

また近畿地方では魔除けとして屋根の上に10~20cmの鐘馗像を備える家もある。

江戸時代の京都三条で原因不明の病に伏した奥方が居り、医師が手を尽くしたが回復しなかった。困り果てていたところ、向かいに住む薬屋の屋根に鬼瓦が載っているのに気付き、鬼瓦が払い除けた災いがこちらに降りかかっているのではないかと思い至る。深草の瓦職人に鐘馗像を焼かせて鬼瓦に睨みを利かせる位置に据えたところ、奥方はたちまち全快したという謂れが残る。

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向かいの屋根に既に鐘馗像がある場合には、鐘馗の睨み合いにならないよう目線を逸らして据えたり、鐘馗の睨みを笑い飛ばす「お多福」を据えることもあるとされる。邪推するに瓦屋のセールストークの類が発祥のようにも思われるが、“鐘馗さん”と呼ばれ、そのユーモラスな逸話とともに今日でも人々の暮らしの中に根付いている。

 

 

参考:

■SUZUKI collaboration 

https://www.scollabo.com/index.html