『悪魔の詩』訳者殺害事件とイラン革命について

本稿では、1991年に発生した茨城県筑波大学構内で起きた助教授殺害事件、通称“『悪魔の詩』訳者殺人事件”を取り扱う。

本件では「イスラーム思想」「イラン革命」に絡む思想犯罪の可能性が指摘されており、状況的に見てもそれ以外のケースを考察することは難しく思われる。また浅学な筆者はイラン革命になじみが薄いこともあり、当時のイラン最高指導者ホメイニー師が一創作物を敵視し、著者のみならず、出版関係者、各国の翻訳者にまで「死刑宣告」のファトワを下した背景とは何なのか、という核心が見えてこない。

 

そのため事件概要ののち、世界大戦後のイラン近代史を大まかに振り返り、仮に革命思想が当事件に関与している場合、どのような経緯でつながりうるのか、悪魔の詩』と革命イランにおけるイスラム思想との齟齬について理解を深めるための、思考の“補助線”とすべく検討していきたい。

尚、筆者に特定の国家・民族・思想・宗派・個人を批判・賛同する意図はないが、イスラム圏の情報にアクセスすることが難しく偏った内容になってしまうが、文化理解のための私的ノートであることを了承いただきたい。

 

■事件概要

1991年(平成3年)7月12日早朝、筑波大学人文社会系A棟7階のエレベーター前の踊り場で同大助教授・五十嵐 一(ひとし)さん(44)が倒れているのを清掃作業員が発見。氏はイランをはじめとしたイスラム比較文学の研究者で、前年、サルマン・ラシュディ著『悪魔の詩』の翻訳を行っていた。発表直後から同書がムスリム社会からの激しい批判にさらされていたため、事件発生当初から思想犯による国際テロの疑いも取り沙汰されていた。

捜査は個人に対する怨恨、思想的報復の両面から行われたが、未解決のまま15年後の2006年7月11日公訴時効を迎えている。

国外逃亡の場合、時効は凍結となり逮捕されれば裁きを受ける可能性はあるが、茨城県警は2009年に五十嵐さんの遺留品を遺族に返還している。

 

・首には左に2か所、右に1か所、頸動脈を切断する深さまで切られており、「イスラムの処刑法」とする見方もある。右側の腹や胸に3か所の刺し傷があり、肝臓に達するほどのものもあった。死亡推定時刻は発見前日となる11日深夜(22時から12日午前2時までの間)と断定。遺留品のバッグにも防御創のような多数の切り傷、当時愛用していたメガネにも血しぶきが付着していた。

・現場では、犯人のものと思われるO型血痕、27.5cmサイズの中国製カンフーシューズの足跡などが見つかっている。犯行後はエレベーターは使用せず、非常階段で3階まで降りたとみられ、以後消息は不明。

・事件のあった11日最後の講義は正午に行った「ギリシア語」で内容は通常通り、翌週までの課題も出されていた。

・五十嵐さんの学内の机の引き出しから事件の数週間前に書かれたとされるメモが発見される。壇ノ浦の戦いに関する四行詩のようなものが日本語とフランス語で書かれており、「壇ノ浦で殺される」に対記されたフランス語では「階段の裏で殺される」と書かれていたとされる。これにより五十嵐さんは自身の身に危険が迫っていることを察知していたのではないかとする憶測を呼んだ。

 

■被害者について

五十嵐 一さんは1947年新潟県新潟市出身、東京大学理学部数学科卒業、同大学院美学芸術学博士課程修了。妻で文学博士の雅子さんとはゼミで出会っている。

大学院修了後、イランへ留学し、王立哲学アカデミー研究員を務め、現地でイラン革命を体験。帰国後『イラン体験 落とされた果実への挽歌』(1979,東洋経済新報社)を発表。言語学イスラム研究、東洋思想、神秘主義哲学などの横断的研究で知られる井筒俊彦氏に師事した。

悪魔の詩 上

悪魔の詩 上

 
悪魔の詩 下

悪魔の詩 下

 

 1986年より筑波大学助教授として勤務。1990年『悪魔の詩』を邦訳、『イスラーム・ラディカリズム 私はなぜ「悪魔の詩」を訳したか』(法蔵館)を発表。

執筆活動のほか、劇団「グループ・TZ」を主宰し自作の音楽史劇や喜劇などを公演、ロックバンド「ザ・エマーム」でボーカルを務めるなど芸術活動にも積極的であった。

事件当時、五十嵐さん一家は、五十嵐さん夫妻、雅子夫人の両親、中学三年の長女、小学6年の長男という6人暮らし。当時、雅子さんは一さんの翻訳作業を手伝いながら専業主婦をしており、事件後は講師や学校関係の仕事に従事しながら家族を支えた。 

 

■事件後について

・時効を一年後に控えた2005年の取材に対して妻・雅子さんは「つらい日々が続いたが、子供を育てなければなりませんでした。同時に、人とのかかわりを大切にしながら社会に貢献する主人の志を、どう受け継いでいったらいいのか、と考えました。毎日悲しんだり思い出に浸っていてはいけない、と自分を励ます日々でした」と振り返っており、犯人の国外逃亡の可能性についても言及している。(2005年7月6日,毎日新聞)

・『週刊文春』1998年4月30日号では、事件当時、東京入国管理局筑波大学に短期留学していたバングラディシュ国籍の人物を容疑者として捜査していたと報じている。1969年生まれで第三学群情報学類に属しており、遺体発見当日の7月12日12時34分成田発ダッカ空港行きビーマンバングラディシュ航空073便に搭乗したことが伝えられている。

しかし五十嵐さんとの接点が解明されなかったこと、また当時の中東諸国との政治的問題に発展しかねないと考えた政府の意向により身元確認の申請は提出されず、捜査は打ち切られた、としている。

・元CIAインテリジェンスアナリストで中東軍事情勢の専門家ケネス・M. ポラック氏はイランとアメリカの外交関係・核問題などを扱った著書『The Persian Puzzle:The Conflict Between Iran and America』(2004)において、『悪魔の詩』翻訳者殺害にイラン軍部・イスラム革命防衛隊(※)が関与したとする見方を示している。

・2018年『五十嵐一を偲ぶ会』が行われ、知人関係者、教え子らおよそ80名が出席。元教え子・伊藤庄一さん(事件当時筑波大4年生)は取材に対し「先生は『狙われている』と話していたそうです。先生なりに覚悟はしていたのではないでしょうか。事件後、警察の警護の申し出も断っていたと聴きました。学問の場に警察を入れたくなかったんだと思います。『生涯一学徒』というのが口癖で、学者として純粋だった」と語っている。(2018,週刊朝日オンライン)

 (※1979年帰国を果たしたホメイニー師は、旧帝政下で置かれた国軍とは別に、「革命とその成果の守護者」と定義される革命体制に忠実な独立軍「イスラム革命防衛隊」を組織した。革命防衛隊の中でも“ゴドス軍”は国外の民兵や武力組織への支援・指導、反体制派の暗殺、破壊工作などの特殊任務を担当しているとされる。)

 

ここでは捜査打ち切りの有無や真犯人像といった一未解決事件に残された謎については、「イスラム教過激派の関与が疑われる」という見解を述べるにとどめたい。

五十嵐さんのご冥福とご家族の心の安寧を心よりお祈りいたします。

 

 

 

イラン革命前夜

第一次大戦後のイラン国内の政情と革命イランの最高指導者ホメイニー師が台頭するまでを振り返る。

第一次世界大戦によってカージャール朝ペルシア帝国は、北はソ連、南はイギリスによる進駐を受け、イギリス資本による石油資源の独占を許していた。1921年、将校レザー・ハーン(即位後、レザー・シャー)はクーデターによりテヘランを奪還すると、イギリスとの治外法権協定を破棄・撤廃。1924年に国軍司令官・首相となり支持を集めると、カージャール朝の廃止を議決して自ら皇帝に即位し、民族主義を掲げるパフラヴィー朝を成立させる。内政面で国家の近代化を図ったが、独裁色を強め、イスラームの伝統の軽視による反発もあった。第二次大戦においては中立を宣言するも、枢軸国寄りの政治態度により、英ソの侵攻を受けて退位を余儀なくされ、帝位は息子モハンマド・レザー(パフラヴィー2世)に継がれた。

戦後イランでは反英的立場(民族主義・反植民地主義)をとったモハンメド・ムサッデク氏が主権回復運動の旗手として国民的支持を集め、1951年民主選挙によってイラン首相となり、石油国有化法を可決させて、AIOC(Anglo-Iranian Oil Company。英国資本のエネルギー開発会社。現BP社)による石油利権支配を終結させた。しかし英米をはじめとする国際石油資本による反発・市場からの締め出しもあり、イラン政府は財政難に陥り、ムサッデクは対抗策としてソ連と接近する。しかし政治基盤であった「国民戦線」の分裂などにより国内での求心力は低下、さらにイランの共産化を警戒した米英による内政干渉工作によって1953年、皇道派による軍事クーデターが勃発し(アジャックス作戦)、ムサッデクらは失脚する。

 

これにより権威を回復した皇帝パフラヴィー2世は、親欧米路線を推し進めるとともに、農地改革、労使間の再分配、婦人参政権、教育の普及、国営企業の民営化などに着手し、産業社会への転換を図った(白色革命)。しかし近代化の基礎構造に乏しかった当時のイランで恩恵を享受できたのは一部の市民だけであり、急速なインフレによって貧富の格差は拡大。王室や高級官僚らに汚職がはびこり、土地を分け与えられた貧農たちは灌漑を維持する資力がないためやむなく棄農しスラム化するといった悪影響が生じた。またヒジャーブ(顔や体を覆う布)の禁止、一夫一妻制の導入など女性の権利回復を唱えたが、こうした世俗化政策はイスラーム法学者らを中心に非難を浴びることとなる。その背景として、ウラマーイスラム法学者、知識人)の政治介入を禁じていた最高指導者アーヤットラー・ブルージェルディが1961年に亡くなったこと、同年『宗教法の諸問題の解説』を著したホメイニー師がアーヤットラーの地位に昇進したこととも関連している。

1962年、それまでムスリムに限られていた参政権の範囲を自由主義的なバハーイー教徒にも拡大する法改正を試みる。バハーイー教は19世紀半ばにイランで生まれた「バーブ教」をルーツとする。バーブ教の開祖セイイェド・アリー・ムハンマド(1819-1850)は、自らをイスラムシーア派十二イマーム派の教えにある“マフディー(救世主)”、“隠れイマーム(十二代イマームムハンマド・ムンタザルが死すことなく幽隠しているとする考え)”の再臨であると宣言し、「バーブ(門)」を名乗った。これに憤慨した十二イマーム派聖職者らはバーブ教を異端者、背教者と断じ、弾圧ののち1850年バーブを銃殺した。弾圧から生き延びて国外追放となったバーブの高弟ミルザー・ホセイン・アリーが、かつてバーブが到来を予言していた新預言者「バハー・ウッラー」を自称し、1863年に興したのがバハーイー教である。そうした経緯から、シーア派十二イマーム派は自分たちと同じ参政権が異端宗徒に対して与えられることは容認しがたいものであった。

ルーホッラー・ムーサーヴィー、のちにホメイニー師と呼ばれる人物は、1902年、イラン中部・ホメインの町に暮らすサイイド(預言者ムハンマド直系の子孫)である法学者の家に生まれる(法学者はニスバ=帰属で呼ばれるのが一般的である)。早くに父親を亡くし、シーア派の学問的中心地コムでイスラム法学を修め、上級法学者アーヤトッラーの称号を得た。その信条は、「生きることの本義は簡素、自由、公共善にあり」とされる。第二次世界大戦中の1941年頃からパフラヴィー2世による西欧化政策に異を唱えるようになり、イスラムの世俗化とその独裁性を厳しく非難し、バハーイー教徒の参政権拡大の法改正を撤回させるなど反体制派の中心人物となった。

しかしパフラヴィー2世は軍事クーデター以来、アメリカCIAの支援を受けて諜報機関SAVAKを立ち上げ、政敵を監視下に置くことで政情の安定を図る開発独裁体制を固めていたため、反体制派に影響力を強めていたホメイニー師はその槍玉として拉致され、1964年に国外追放とされる。

 

イラン革命とイランアメリカ大使館人質事件

追放となったホメイニー師はイラクにある聖地ナジャフに移り、ガイバの間はイマームに代わって法学者が信徒の統治をせねばならないとするシーア派の理論をさらに発展させた「法学者の統治論(ヴェラヤティ・ファキーフ)」を唱え、帝政イラン打倒を掲げる反体制派のシンボル的存在となる。「ガイバ」とは、最後の「イマーム=模範」となるべき特別な指導者が肉体的な死後も「幽隠」しており再臨するという思想である。ホメイニー師は、かつてのシーア派イマームたちの殉教を「被抑圧者」の抵抗の象徴とし、独裁によって貧困を強いられている状況と自分たちの反帝政運動をそれに重ね、イスラームによる被抑圧者たちの解放革命だと標榜したのである。

イスラーム統治論』では、西欧社会をすなわち「植民地主義者」と断じて、300年以上をかけて利益獲得のために多様な手段で反イスラムの宣伝と陰謀が行われてきたと糾弾している。その影響は、宗教学界で養成される布教者、大学や政府の宣伝、印刷出版所における植民地主義者の代理人らに及び、真理と正義を求める人々による本来のイスラムの宗教を捻じ曲げてきたと説いた。そうした植民地主義者」たちがこれまでイスラムが持つ活力と革命的性格を奪い、自由を求めるムスリムの幸福のための「イスラム法規範に則った統治」を阻止してきたとして革命の正当性を主張している。

 

1970年代に入るとオイルショック等によりイラン経済は不調に陥り、貧富の差がますます拡大。パフラヴィー2世は自らの称号を「アーリヤー・メヘル(アーリア人の栄光)」と定め、父レジャー・シャー霊廟建設やイラン‐ペルシア建国2500年祭典によってイラン・ナショナリズムの発揚を目指したが却って求心力は低下。二大政党制から一党制への転換によって、元来の社会主義支持者だった農民層や中産階級が反体制運動に加わる事態を招き、さらに反体制武装組織モジャヘディーネ・ハルグやイラン共産党も参加してデモやストライキが激化していく。1978年のパリ亡命後もホメイニー師はイラン国民へ帝政打倒を呼びかけ続け、12月に起きた反政府デモはイラン全土でおよそ2000万人ともいわれる規模にまで拡大した。翌1979年1月16日、度重なる暴動にもはや収拾がつかなくなったパフラヴィー2世は休暇と称して家族とともにエジプトなどへの亡命の道をたどった。

 

これを受けて1979年2月、ホメイニー師は15年ぶりの帰国を果たすとイスラム革命評議会を組織しパフラヴィー政権に代わる公式政府となった。国民投票により98%の支持を得、4月1日イラン・イスラム共和国樹立を宣言。ホメイニー師は終身の最高指導者(*)としてイランの国家元首となった(イラン革命)。

(*革命イランの統治機構は、行政・立法・司法・軍・報道など全般にわたって最高指導者にその実権がある。大統領は最高指導者の権限外の行政を担う長という立場)

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その後、パフラヴィー元皇帝は癌治療の名目でアメリカ入国を求め、「人道的見地」からそれを認めたアメリカ政府に対し、イラン革命政権は強く抗議。10月22日の受入れ以降イスラム法学校の学生や暴徒らがテヘランアメリカ大使館で抗議デモを行い、11月4日には大使館に侵入しアメリカ人外交官、海兵隊員ら52名を人質にとって占拠し、元皇帝の身柄引き渡しを要求した。抗議デモ、占拠騒動に対してイラン革命政府は黙認の態度を決め、国際法を無視した横暴に対し諸外国からは大きな非難を浴びた。

(1980年1月、アメリカ政府とカナダ政府の緊密な協力により大使館からの脱出した6名の領事部員グループは、カナダ大使らによって匿われCIAの手引きによりテヘラン脱出に成功。その出国劇は2012年にベン・アフレック監督により『アルゴ』として映画化された。)

 

これに対してアメリカ国内では在米イラン大使館などへのデモや在米イラン人への迫害事件が起こり、やがて人質救出のために軍事的手段をとらないカーター政権に批判が集中。1980年4月イーグルクロー作戦と呼ばれる空母と艦載機による人質奪還を試みるもトラブルが重なって失敗。却ってイラン革命政府は態度を硬化し、大使館占拠を支援することとなる。ところが同年7月パフラヴィー元皇帝が亡命先のエジプトで亡くなり、大使館占拠の根拠が失われたためアメリカとイランは妥協点を探るべく交渉を続ける。その後、共和党ロナルド・レーガンがカーターを大統領選で敗り、カーター退任の1981年1月、444日ぶりに人質は解放された(イランアメリカ大使館人質事件)。以来、40年以上にわたって両国の国交は断絶されたままである。

 

■イラン・イラク戦争(1980~1988)

革命直後から長きに渡って続いたイラン・イラク戦争へと移りたい。 

イラン革命後、周辺アラブ諸国では「イスラム法の施行による公正な社会の建設」「イスラム自体の敵に対する大同団結」を主張するホメイニー師の思想的影響力(イスラム原理主義)が波及することへの警戒感が強まっていた。ときを同じくして1979年、アラブ帝国再興(アラブ民族社会主義)を掲げるイラクバース党から大統領に就任したサダム・フセインは、粛清により独裁体制を確立し、中東最大の軍事大国へと軍備拡張を続けていった。イラク多民族国家だが、人口の過半数シーア派が占めており、革命思想が流入する事態を避ける必要があった。

 

1980年9月22日、イラク軍が失地回復の名目でイランの空軍基地に奇襲を仕掛け、1975年に結ばれていた国境画定のためのアルジェ協定が破棄される。ホメイニー師は、民族主義を西洋起源の思想であるとしてフセイン政権をイスラムの教えに敵対する勢力とみなし反撃に高じた。しかし抗戦を示したイランであったが、革命直後で国内の指揮系統が混乱していたこと、兵器整備や補充調達が困難に陥ったことなどから、準備に勝るイラク優位に戦局は進んだ。

イスラム革命の拡大に加え、石油危機の再来をおそれた米英仏ソ中などの大国は、当時サウジアラビアに次ぐ石油輸出国だったイラクを積極支援。周囲のアラブ諸国は、同じイスラム教でもスンニ派が多く、王政・独裁制が敷かれていたため、やはり革命思想の流入をおそれてイラク支援へ回った。

東西諸国から制裁措置を発動されたイランは自国民による人海戦術で対抗し、20万を超える義勇兵が前線に加わったとされる。また当時のCIAの報告によれば「中国はイランにとって最大の武器供給国だが、皮肉なことに中国にとって最大の武器取引相手はイラクである」とあるように、武器輸出国に利をもたらすばかりの戦争でしかなく、結果として冷戦構造における代理戦争の様相を呈し泥沼化していった。イラン側への政治的支持を表明した国は、イラクと敵対していたイスラエルイスラム教でも少数派のアラウィー派系政権だったシリア、独自のイスラム社会主義を掲げるリビア、反米的共産主義をとる北朝鮮であった。

 

1982年4月、シリア経由のパイプラインが止められてイラクが石油輸出を封じられると、イランはたちまち攻勢を仕掛けて旧領土を奪還。その一方で、同年6月、レバノン内戦の再燃、イギリスのフォークランド戦争、翌年はアメリカによるグレナダ侵攻、ソ連アフガニスタン侵攻の長期化など、各地で情勢不安が起こったため、欧米の関心がイラン-イラクから一時的に逸れることとなる。

1983年4月、レバノンの首都ベイルートアメリカ大使館にワゴン車を使った自爆テロが行われ、大使館職員17名を含む63名が死亡、120人が負傷した。同年10月、ベイルートに置かれたアメリ海兵隊基地で同じくワゴン車を使った自爆テロが起こり、241名が死亡。同日、フランス空挺隊基地にも同様の自爆テロが襲撃し、64名が死亡した。これらの自爆テロやシリアへの報復失敗の余波で、アメリカ世論はレバノン撤退へと傾き、1984年2月米軍撤退、フランス、イタリア両軍も引き上げた。軍備に劣る苦肉の策が、結果的には大国を撤退へと動かし、自爆テロの有効性が認められてしまったのである。

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米軍撤退からイラン-イラク間の戦闘は再燃し、イラクの毒ガス兵器、化学兵器使用が判明すると世界的非難が一層高まった。1984年11月、アメリカはイラクと国交回復して公式の援助を開始する。一方、イランは、イラク北部で自治を求め紛争を続けてきたクルド人(*)反政府勢力に反乱を仕向けていたが、1986年、アリ・ハサン・アル・マジッド率いるアンファール作戦が開始され(~1988)、およそ2000のクルド人居住区を破壊、延べ5万人から18万人余りが銃撃や化学兵器によって大量虐殺された。

(*クルド人は国家をもたない世界最大規模の民族集団のひとつとされ、トルコ、イラン、イラク、シリアにまたがる高原地帯クルディスタン地方におよそ2500万人が居住し、当時イラク人口の1割以上を占めていたとされる。油田地域の占有とアラブ人移住を企図したこの殲滅キャンペーンによって150万人のクルド人らが難民として強制退去を余儀なくされた。1988年に起きたハブラジャ事件など化学兵器による大量虐殺について、当時イラク支持だった欧米諸国はほぼ黙認の対応をとった。アメリカは化学兵器による虐殺はイランの仕業であると主張するサダム政権に同調し、1990年の報告書で「両軍が化学兵器を用いたがクルド人虐殺はイラン軍による爆撃である可能性が高い」と指摘。国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチによる1990年代前半の調査によれば、アメリカ政府はイラクによるハブラジャ攻撃について十分認識していたとその対応を非難した。またヨーロッパの企業・研究機関がイラク側に化学兵器及び元となる原料を卸していたとする指摘もある。)

同年8月内戦中のレバノンアメリカ軍兵士がシーア派系過激派組織「ヒズボラ」によって拘束される(上述のベイルート自爆テロヒズボラによるものとされる)。ヒズボラの後ろ盾であるイランと国交断絶中であったアメリカ政府は、非公式ルートを通じてイラン政府側と交渉を行い、人質救出の条件として極秘裏にイスラエルを介して武器輸出を行うことを約束した。アメリカ国家安全保障局はこの武器売却で得た収益を、親米のサンディニスタ独裁政権が倒れ左傾化が進む中南米ニカラグアで内戦を行う親米反政府ゲリラ「コントラ」への支援に当てていた。12月、秘密裏に行われたイランへの武器輸出およびニカラグアへの資金流用が暴露されレーガン大統領への非難が強まる。当時議会の多数派を占めていたのはレーガン大統領ら共和党ではなく民主党だったために秘密裏に交渉が進められたものとみられる(イラン・コントラ事件)。

背景として、冷戦構造が激化していた1979年にイラン、ニカラグアと親米独裁政権が立て続けに革命を受けて倒れたことや、イランアメリカ大使館人質事件に対する(米国民から見れば)前カーター政権の弱腰な対応が1980年に新保守主義者のレーガンを大統領に導き「強いアメリ」の再現のために強硬姿勢を崩せなかったことなどが起因していよう。

 

1987年7月、国連安保理が598号決議を採択し、即時停戦などを求めたが、交戦状態は止まず。10月にはアメリカ船籍の石油タンカーが攻撃を受けた報復として米軍はイランの2つの油田を爆撃。この攻撃による原油不安などをきっかけとして先進各国に株価の大暴落が連鎖し、ダウ平均株価は前週末から508ドル下落率22.6%を記録した。1929年の「ブラックサーズデー」(下落率12.8%)を凌ぐ「ブラックマンデー」と呼ばれ、世界恐慌の引き金となった。

1988年2月、イランとイラクは相互に都市攻撃を再開したが、アメリカがペルシャ湾に出動し4月にイランと交戦、第二次大戦後にアメリカ海軍が行った最大規模の水上戦といわれる。同年、それまでイランに寛容だったサウジアラビアが翻意し、断交を通告。同7月、イランは安保理決議598号の受諾を表明し、8月20日停戦が発効。両国の犠牲者は推定で100万人程度とされ、経済的にも甚大な被害を及ぼした。

www.theguardian.com

 1960年代前半からホメイニー師の側近を務め、次期指導者とされていたフセイン・アリ・モンタゼリ(1922-2009)だったが、1980年代後半には両者の間に緊張関係が生じていた。モンタゼリは、ホメイニー師の亡命先からの帰還を先導した立場だったが、そもそもウラマーイスラーム法学者)は政治については監督者に徹するべきという考えを持っており、国政への直接的介入について前向きではなかったとされる。また革命初期に投獄や拷問を受けた経緯から、伝統を重んじる法学者としては希少なリベラルな信念を持つ人物として知られる。

革命の理想とはかけ離れた軍事政府化、多くのムスリム同胞の屍が積み重ねられていった状況に対して、「人々の権利の否定、不正、そして革命の真の価値観の無視は、革命に対して最も深刻な打撃を与えました。復興が行われる前に、まず政治的およびイデオロギー的な復興がなければなりません...これは人々がリーダーに期待するものです」と後のインタビューに応えている(Baker Moin,『Khomeini』2000,Thomas Dunne Books)。

1989年、革命を失敗と見なすモンタゼリの考えはホメイニー師に対する批判と捉えられて失脚。アリー・ハーメネイー師の最高指導者就任後も、モンタゼリは公然と革命や政府に対する批判を行い、1997年から6年間にも及ぶ自宅軟禁状態に置かれた。2009年の彼の死について公式報道では「暴徒の聖職者」として伝えたが、人権擁護の考えや政府批判の立場は国内外に広く支持されていた。同年暮れのモンタゼリの葬儀参列者たちは同年のイラン大統領選に抗議するグリーンムーブメント(緑の革命)と合流し、マフムード・アフマディネジャド大統領とハメーネイー師に対する抗議デモへと発展した。

 

 

■革命のつづき

カージャール朝はもとより、オスマン帝国時代から西欧キリスト教世界とイスラーム世界の文明衝突は繰り返され、第一次世界大戦というエポックによってイラン地域の統治体制が一層大きく揺らいだ。そうした変化は、植民地主義の増長と捉えられ、パフラヴィー朝ではナショナリズムによる抵抗が試みられるが、第二次世界大戦の大渦によって否応なく欧化の波に飲み込まれていった。

それに呼応する民衆運動として社会主義の流れが生じ、ホメイニー師はこれを一国民国家の問題ではなくイスラームの危機として捉え、パフラヴィー朝のみならずその背後にある西欧キリスト教世界という強大な敵対勢力への打倒(反帝国主義)を掲げた。このイデオロギーファンダメンタリズムと呼ぶべきか、ポピュリズムに列するべきか、筆者には判断がつかない。だがイラン国民にとってこの革命は、王室の強権的な支配構造から政治的主体性を取り戻し、イギリス、ソ連アメリカといった大国からの影響に曝されてきた時代に終止符を打つことを意味した。

 

さらに革命思想の輸出を試みたことについて考えると、クルアーンに基づきムスリムは単一の共同体を形成するというイスラーム主義を唱えること、国境なきイスラーム主義により革命の主体を「被抑圧者たち」へと広げ、世界中で蜂起を促すことで、より大きなパラダイムシフトを企図したという見方もできる。

これはイラン国内ではシーア派が国民の大多数を占めるものの、ムスリム全体で見ればシーア派は少数派で、全体の1割強の人口しか持たないことにも起因しているのではないか(*)。もちろんイラン一国で西洋社会の打倒を唱えていても無謀にしか映らず、勢力の拡大が必要だったには違いなく、革命思想の積極的な拡散によってイスラーム社会全体におけるイニシアチブを握る意図があったようにも受けとめられる。

(世界のムスリム人口は18億人以上いるとされ、そのおよそ8割をスンナ派が占めるといわれている。スンナ派ムハンマド以来の慣行を護持する民を意味する。「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドアッラー使徒なり」の文言に表される通り、神の唯一性に基づく世界観・存在論聖典クルアーンコーラン)の信仰箇条においてはシーア派と大きな違いはないとされる。シーア派は第4代カリフ・アリーの子孫のみを正統なイマームとみなす宗派であり、スンナ派に比べて聖者信仰や神秘主義的な傾向があるとされ、既述のガイバ(幽隠)のようにイマームがやがて救世主として再臨するといった終末論的な特徴もある。)

parstoday.com

五十嵐氏はホメイニー師の功績を、イスラーム主義を徹底する覚悟にあったとして、その主張を以下の3点にまとめている。

一、イスラームスンナ派シーア派の区別を超えて、すべて一族同胞である。
二、イラン・イスラーム革命は精神革命であり、物質的利益を目指すものではない。
三、イスラームに敵対する勢力は、断固これを排除する。

イラン・イラク戦争終結したが、ホメイニー師にとってはイスラームの敵と妥協するかたちで革命の終わりとする訳にはいかなかった。そこに『悪魔の詩』という一本の矢が天に向けて放たれたと見ることはできないだろうか。

悪魔の詩』に対するファトワは、出版関係者・翻訳家といった西洋社会のすべてに向けられていなければならず、その執行は全ムスリムに委ねるという勧告のかたちであった。すなわちホメイニー師は悪魔の詩』に西洋社会との衝突の火種を、“革命のつづき”を見出したのではなかったか、と筆者は考えている。

 

■『悪魔の詩』について

1988年9月、サルマン・ラシュディが小説『The Satanic Verses 悪魔の詩』を英ペンギンブックス社より発行。タイトル『悪魔の詩』とはイスラム聖典クルアーンコーラン)を指す。

出版権を買い付けたピーター・マイヤーは原稿を読んだときの率直な感想をGQ誌の特集記事の中でこう述べている。

ニュージーランドからイギリスへ向かう飛行機の中で一気に読んだ。イスラム教の知識がなく、作品の全ては理解できなかったけれど。恥ずかしながら侮蔑的ととられかねない表現があることにも気づかなかった。でもそれが“西洋人の異文化への無知”の典型だったのだと思う

筆者は上で「天に向けて放たれた」矢と表現したが、『悪魔の詩』はイスラーム社会に向けられた批判でもなければ、西洋社会に向けたオリエンタリズムの書物でもない。宗教的観点を用いて移民社会とアイデンティティ・クライシスを扱った現代文学であり、その切っ先は両社会に対して向けられているといってもよい。

本書は出版直後からムスリム社会からの激烈な反感を買い、インドと南アフリカでは発禁処分、12月イギリス・マンチェスターではイスラム系移民らによる数千人規模の焚書デモが巻き起こり、パキスタンの首都イスラマバードでは暴動により5人の死者、カシミールでは1名の死者と100人の重傷者が出るなど、世界各地に糾弾の動きが飛び火した。当時の想いをラシュディ氏は以下のように振り返っている。

あれがいちばん悲しかったよ。僕は、僕自身がその一員でもある移民の文化に、声と血肉とを与える作業に5年を費やした。なのにその結果生まれた本は、ほとんど読まれることもなく、まさにそこに書きたかった人々、その本を真に理解してくれるであろう人々によって焼かれていたのだから(GQ誌)

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イスラム法学者・解釈学者タバリー(838-923)らは、コーラン53章“星(アン・ナジュム)”にはかつて神の預言としてイスラーム以前の多神教の神々を認めるかのような記述があったという伝承(ガラーニークの逸話)を残しており、後に預言者ムハンマドはそれを神の啓示ではなく悪魔によるまやかしとして章句を取り除いたとされる。

作品内では、主人公の2人のインド人青年を大天使(預言者ムハンマドをモデルとする)と悪魔に準えており、夢の中で大天使が悪魔の囁きに導かれていくかのような内容は、すなわち唯一神アッラーを悪魔と重ねた物語とも読むことができる。またムハンマドの12人の妻たちの名を12人の売春婦に当てはめて登場させるなど、イスラム社会からの反発を狙った挑発とも取れる揶揄が散りばめられている。

  

1989年2月14日、イラン最高指導者ホメイニー師は、『悪魔の詩』出版に係わった者の死刑を宣告した(ファトワ)。ラシュディの処刑者には、外国人である場合は100万ドル、イラン人である場合は2億リアル、という高額懸賞金が掛けられ、事実上、世界中のムスリムに発せられた宣告であった。同年3月、英国政府はラシュディ氏を保護下に置き、イランとの国交断絶に踏み切る。

イスラーム・ラディカリズム: 私はなぜ「悪魔の詩」を訳したか
 

 抗議が世界的広がりを見せていた1989年2月、出版者パルマ・ジャンニ氏、翻訳の任に当たった五十嵐一さんらが東京・日本外国特派員協会で『悪魔の詩』日本語訳出版記者会見に臨んだ。そこで一人のパキスタン人男性が会見席に乱入するという一幕があり、パルマ氏は「言論と表現の自由」を主張して対決的な論調を示すと、列席していた在日パキスタン協会のライース・スィビキ会長がパルマ氏に対して死刑宣告を突き付けるという騒動があった。

五十嵐さんは、同年4月『中央公論』(『イスラーム・ラディカリズム 私はなぜ『悪魔の詩』を訳したか』)において、

ラディカルなものには興味がある。ところでイスラームは、その成立以来、今日にいたるまでラディカリズムの伝統を持つ。ゆえに私はイスラームに惹かれるのである。
もっとも、私の信奉するラディカリズムとは、暴力的な事柄を愛好したり実践する、単に過激な言動や思想的傾向を指して言うのではない。この言葉の語源であるラテン語のラーディークス radix が、根本とか根元とかを意味するのに則して、およそものごとの根本にまで遡及し、根源的に考えたり反省しつつ実践する態度を指す。考えてみれば学問、文化、芸術とは、常識や偏見を掘り起こし、打ち破り、真に深いがゆえに新しい位相を切り拓く行為であったはずである。したがって、ラディカルな学問とかラディカルな芸術という呼び方は、一種の同語反復かもしくは本質形容詞なのであり、すべて学問、文化、芸術は本来的にラディカルでなければならない。その限りでは、小なりといえども生涯一学徒、一芸術家を目ざす私にとって、ラディカルであることは身の証しに他ならない。

私は終始ラディカリズムの本義に則してこれを称揚してきたのであって、表面波の暴力主義を全肯定したことなど一度もない。したがって一見して暴力的と映るホメイニー師の声高な言動の背後に潜む、イスラームの法的センスの複雑微妙な倍音を聴き分けるのと同程度の深さで、ラシュディ師の一聞して冒瀆的と思える小説に対しても、文学的、文体論的にラディカルな分析を加え、これを文学作品として高く評価してきたつもりである。

「一読者として興味を覚え、かつ一イスラーム研究者としても、同宗教に対する冒涜の書ではないと判断したからこそ、翻訳を引きうけたのであって、何も言論出版の自由、表現の自由のためにひと肌脱いだわけではないのである」

と翻訳受諾に至った真意を語っている。

会見での騒動やその後のファトワを受けて地元警察が身辺警護を打診したが、「本を読んでもらえば、誤解されるようなことはないから心配ない」と申し出に断りを入れたとされている(1991年7月25日号,『週刊文春』)。

 

1989年6月、ホメイニー師が死去。ファトワは発令した本人にしか解除することが許されないため、『悪魔の詩』に関する宣告は永続されることとなる。

1990年2月9日ホメイニー師の後継者アリー・ハーメネイー師が演説の中で「執行されるべきである」とファトワの有効性を改めて強調。

1991年7月、五十嵐氏殺害。イタリア、ノルウェーなど各地で出版者、翻訳者、図書館や書店等が襲撃される。

1993年、トルコ語翻訳者の集会が襲撃され37人が死亡。

1998年、イラン大統領モハンマド・ハータミーがファトワの撤回はできないが、国として関与せず懸賞金も支持しない立場を表明。

 

サルマン・ラシュディ氏について

1947年、インド・ムンバイ(ボンベイ)で裕福なイスラム教徒の家庭に生まれる。 父は弁護士、母は教師。14歳からイギリスで教育を受け、パキスタンへ一時移住した後、ケンブリッジ大学で歴史を専攻。ロンドンの広告会社に勤めたのち、1975年『Grimus』で作家デビュー。イギリス人女性と結婚し、イギリスに帰化。2作目となる『Midnight’s Children(真夜中の子どもたち)』(1980)で英ブッカー賞受賞(世界的権威のある文学賞。1993年に同賞25周年の最優秀賞も受賞)し、名声を得る。

インドではその内容がネルー=ガンディー王朝への批判とみなされたため、氏は同国を離れることを余儀なくされた。第4作となる『The Satanic Verses 悪魔の詩』(1988)以後、イスラム社会からファトワを受け、潜伏や亡命生活を経ながらも精力的に執筆活動を続ける。

2007年6月、文学への貢献を評価され英女王からナイトの称号を授与されている(「イスラム侮辱」で死刑宣告を受けたラシュディ氏に爵位 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News)。2013年の回想録『ジョセフ・アントン』では冒涜する権利を主張し、表現の自由を追求する立場を示している。

殆どの小説はインドやパキスタンを舞台にしており、物語技法として現実を表現するために非現実的虚構を用いる“魔術的リアリズム”と呼ばれる手法に近いとされている。2002年の論集『Step Across This Line』において、イタロ・カルヴィーノトマス・ピンチョンら現代作家の影響を認め、初期にはグラスのほかジェームズ・ジョイスホルヘ・ルイス・ボルヘスルイス・キャロルミハイル・ブルガーコフからの影響もあったと説明している。

ラシュディ氏の作品は、自身がインド生まれのイスラム教徒として若くしてイギリスに渡り、多感な時期を寄宿舎生活や高等教育を受けて過ごすなかで、非西洋人の移民であることで感じる差別や疎外、異なる宗教観・社会観を否応なく経験し、自らの中に芽生えた“二重性”を文学表現に投影したものともいえるのである。

ラシュディ氏は主人公(や自分)と同じような移民の読者に、そのような相反するものを背負い込む生きにくさや葛藤は理解されるものと信じていた。しかし現実においては、移民の多くは社会的・経済的に過酷な暮らしを余儀なくされており、現地社会に適合することはより一層困難であった。差別や排斥を受けながら、旧郷の縁故やイスラームへの一層の傾倒によってようやくアイデンティティが保たれていたのである。

いわば生活苦を強いられている多くのイスラム系移民からしてみれば、氏は恵まれた環境で学び西洋社会に順応した“似て非なるもの”。その目には、イスラームの幸福を捻じ曲げながら、ゾンビや吸血鬼のようにあちら側の世界へムスリムたちを引きづり込もうとしている“植民地主義者”のように映ったかもしれない。

ホメイニー師の掲げた革命理論の実践とイスラーム主義の輸出はモンタゼリの言うように不完全なものだったかもしれないが、ムスリム同胞団によるクトゥブ主義や2000年代以降に活発化したイスラム過激派やグリーン・ムーヴメントなどとも関連付けることが可能かもしれない。非イスラーム圏(西洋文明)に対する排他性を帯び、イスラーム復興あるいはイスラーム式の近代化を模索するムスリムのための政治闘争である。

 

英国での爵位授与に対する反発デモ、イラン、パキスタン政府から英国政府への抗議などの動きを受けて2006年7月、radio netherlandsでラシュディ氏に関する番組がつくられた。そこでのインタビューの一部について、小林恭子氏の記事を引用させていただく。

イスラム教あるいは宗教が本来暴力的なものだ、という見方についてどう思うか?

私たちがイスラム教の過激主義と呼ぶところの現象には、ほとんど神学理論がないと思う。何を言っているかを見ると、コーランの内容にはほとんど関係ない。宗教というよりも政治哲学が入っている。世界中の他の国に対する嫌悪感や自分たちになされたことに対する怒りなどの方が多い。…キリスト教を含めて、どの宗教にもこういう問いを発するべきだ。つまり「宗教なのか、それとも政治運動なのか」と。今日、この2つの間の境界線が非常にあやふやになっている

政治哲学にも曝されることのない宗教は歴史上存在しているのか、そもそもそうした純粋な神学的理論の構築は可能なのか。それ以前に、自ら義勇兵として戦地に赴く若者、自爆テロに身を投じる過激派に純粋な神学理論や政治哲学が必要とされているとは筆者には思えず、ラシュディ氏の概念的な言い分にはややミスコミュニケーションな印象を抱かざるをえない。

自爆テロを担う当の人々は、カリスマ的リーダーの叱咤激励に鼓舞され、死後も家族の身の上を保証してもらえたり、達成の暁には英霊として祀られるといった自己犠牲的ロマンチシズムの上に成立するのである。そのときイスラーム思想であれキリスト教原理主義であれ、神学理論でも政治哲学でもなく、彼らの最期を飾る舞台装置のひとつに過ぎない。

 

五十嵐さんにとって、かつてイランで「移民」として募らせた感情が作者・登場人物への共鳴意識となり、『悪魔の詩』翻訳を宿命的な仕事と予感させたかもしれない。ファトワが現実のものとなり、身に危険が及ぶことは重々承知していたことのようにも思われる。その一方で、芸術家・表現者としてイスラーム思想に精通、もとい心酔していたからこそ、読めば分かってもらえるという自負があり、話せば分かり合えるといった希望的観測も働いたのではないか。実行犯は『悪魔の詩』を読んでいたのか、襲撃された五十嵐さんに相手を説得する猶予はあったのか、はたしてその真実は神のみぞ知ることとなった。

 

 

 

参考記事

www.dailyshincho.jp

 

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