富山県「人形山」の民話について

前回取り挙げた富山県砺波地方に伝わる「ヒンナ神」について調べていたところ、砺波の南に位置する飛騨高地の北部、現在の富山県南砺市五箇山から岐阜県白川村にまたがる「人形山(にんぎょうざん)」に伝わる民話を目にしたので今回はそのお話を。

尚、人形つながりではあるが、ヒンナ神とはおそらく直接的な関係はないと思われるのであしからず。

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 ■人形山について

 人形山は日本三百名山新日本百名山にも数えられる登山者に人気の山で、麓の五箇山白川郷の合掌造り集落は1995年ユネスコ世界遺産に登録されており、観光地としてもよく知られた地域である。

奈良時代、越前の僧・泰澄大師(たいちょう、682-767)が白山とともに開山したとされる修験道の山である。かつて人形山山頂から移遷された白山宮本殿は、祭神は白山菊理媛命とされ、十一面観世音菩薩妙理大権現の御神体を安置する。本殿は富山県最古の木造建築物、国の重要文化財であり、その祭礼で奉納される“こきりこ節”の歌と踊りは無形民俗文化財に指定されている。

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人形山

 人形山は、古くは“ひとかたやま”と呼ばれ、その由来には悲しいエピソードが残されている。

むかし越中の山間にある平村に母親と娘姉妹が三人で暮らしていた。

早くに夫を亡くした母親は、毎朝、権現様が祀られている山頂を仰ぎながら拝むことを日課とし、一生懸命に働いて娘たちを育てていた。しかし無理がたたったのか、母親は病気がちになり、幼い姉妹が看病しながら母の代わりに働いてどうにか家を支えた。

母親の病は春になっても良くならず、姉妹は「南無白山権現」と唱えながら母の治癒を願い、いつも山頂を仰いで手を合わせていた。

そんなあるとき親孝行な姉妹の夢枕に権現様のお告げがあり、いいつけ通りに谷川を遡っていくと病気を癒す温泉を探し当てることができた。喜んだ姉妹は険しい道を代わる代わるに母親を背負って、毎日その湯治に連れて通った。そうして秋になる頃には母親の容態もみるみると良くなった。

姉妹は権現様に大変感謝し、山にあるという権現堂へ二人でお礼参りに行こうと思い立つ。親に断りを入れることなく山へと向かったが、ようやく権現堂にお参りを済ませる頃にはもう日が傾きかけていた。その帰り道、幼い姉妹は思いがけない霧と吹雪に見舞われて遭難してしまう。

ふもとの家では母親が二人の無事を祈っていたが、待てど暮らせど帰ってこない。やがて雪が降り積もり、里山に長い冬が到来する。

 

待ちわびていた春を迎え、村人たちは真っ白だった山が少しずつ山肌を見せる様子を毎日眺めていた。もう田植えも間近というある日のこと、村の者が山を見て何やら騒ぎ立てる。

「“ひとかた”だ!」

山の中腹にかかった残雪が、まるで人の姿に、さながら手をつないだ二人の娘のように見えたのだった。

 幼い姉妹は知らなかったが、その山は僧が心身を鍛える修験の霊場で「女人禁制」の厳しい掟があった。その禁を破ったために姉妹は山の怒りに触れてしまったのか。山肌に現れる“ひとかた”の残雪は、信心深い母親を憐れんだ権現様によるせめてものとりなしなのか。

姉妹の“ひとかた”の話は村の人々に語り伝えられ、いつからかこの山を“人形山”と呼ぶようになった。

 はたして実際に“ひとかた”に見えるかどうかは各人でご確認いただきたい(筆者は心があれなので見えなかった…)。

 

 

この人形山の民話はかつてJNN系列で放映された『まんが日本昔話』第533話でアニメ化されており、下の非公式ファンサイトのコメント欄では感想などの他、物語のルーツについて若干の議論がなされている。

nihon.syoukoukai.com

そこで気になったのが、この話を「子どもの間引きではないか」と推察する投稿である。

 

お住まいの方やゆかりのある方からすれば心外に思われるかもしれないが、民話について様々な解釈の余地があることは非常に興味深く、こうした考察や検証も民話を学ぶ醍醐味だと筆者は思う。

真相は権現様でもなければ分からないため、筆者には諸説を否定するつもりは全くない。ここでは間引き説に対する検討、および個人的な所感などを記していく。以下、地域や民話・郷土史を中傷する意図のない、空想にすぎないのでお目こぼしをいただきたい。

 

 

先ずはじめに感じたことは、はたして間引き・捨て子が行われていたとして、そのような呼び名をつけるか、後世まで子捨てにまつわる名前が残るだろうか、という疑問である。

 

過去エントリ『河童にまつわるエトセトラ』でも触れているが、古事記に書かれたイザナギイザナミの国産み神話においても「我が産める子よくあらず」として蛭子(ひるこ。胞状奇胎か奇形などの先天的疾患のある嬰児か)を葦の舟に乗せて流した記述があることからも、古代より「子捨て」の慣習は人々の営みとして広く普及していたと考えてよいと思う。 だが「子捨て」が背徳感ぬきに行われていたかというと、やはりやむを得ぬ事情の場合に限られたであろうし、「生命を神にお返しする」という弔いの心情から山海川へ葬ったのであろう。

仮にむかしの村人が自分たちの行いへの戒めや罪の意識などによってそう呼ぶようになったとしても、後世の村人たちや為政者はそうしたネガティブな歴史を継承することを嫌い修正すると考える方が自然ではないか。

 

旧来の地名には、その土地の素性(自然地形、開墾者・開拓者の名、職業集団や施設に由来するもの、移民者がかつて住んでいた地名をなぞったもの、周辺地域との関係性・位置関係など)が付された名称が多い。下の『週刊現代』記事にもあるように、旧地名が示すネガティブな印象を払拭するため為政者や都市開発を担う企業などがポジティブなイメージを上書きするために新地名をつけることも多い。

gendai.ismedia.jp

たとえば北海道は先住民によるアイヌ語の呼称に由来する地名が多いことで知られるが、現在の支笏湖(しこつ)は大きな窪地を意味する「シコッ・ペッ」と呼ばれたことから、その周辺は「志古津」「支笏」の地名が採られた。しかしこれが「死骨」に通じて縁起がよくないとして、文化2年(1805)、函館奉行所によって「千歳」の地名に変更された歴史を持つ。

人形山の民話の成立年代は判然としないものの、仮に子殺しにまつわる名称が何世紀にもかけて残されてきたとすれば、いまごろ人里に近い山という山はそのほとんどが“子泣き山”やら“姥捨て山”を示唆するような名称でいっぱいになっているようにも思うのだ(*)。

 

(*余談であるが、丹波新聞、2019年4月掲載の興味深い記事を紹介させていただく。兵庫県篠山市内の松尾山に「ガンコガシ」「ガンコロガシ」と呼ばれる場所があり、棺に老人を生きたまま入れて谷底へ落としていたという「姥捨て山」のごとき伝承が残されている。村の長老たちは子どもの頃から親や年配者にそう聞かされてきたというが、地元の郷土史家は「口減らしは考えられない」と歴史から紐解いていく。

tanba.jp

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一読者としては、村の子どもに危険な場所を知らせる意味や霊地としての供養・山の管理を怠らないようにといった村の教訓があったようにも思われるし、記事中の郷土史家・酒井勝彦さんは寺のご住職という本職もあり、「間引き」「姥捨て」に対して否定的な認知バイアスがあるのではないか、という印象もぬぐえない。)

 

 

人形山の民話に伝わる姉妹像について、山歩き沢歩きする体力があり、大人社会の道理にはまだ疎いとされることから、年の頃は六~十二歳前後かと想定される。やむを得ぬ事情こそあれ、ここまで育てていれば子捨てよりは丁稚奉公や人身売買の方が良心的であり現実的のようにも思える。

「間引き」の調査研究の多くは、寺請制度が確立され人口動態が把握できるようになった江戸時代以降の子殺しが対象とされている。地域でいえば冷害などによる飢饉の影響が大きかった北関東・東北地方の農村に多かったとされ、食糧不足による口減らしといった緊急避難的なケースのほか、望まれない妊娠に伴う堕胎・嬰児殺しも少なくなかった(*)。記録には乏しいが、中世以前であったとしても「子捨て」が行われるとすればやはり物心もなく親心もつかない嬰児が中心だったのではないか。

それとも「母親思いの幼い姉妹」像は想像上の産物で、実態は嬰児のうちに捨てたといった仮説ならば成り立つのかもしれないが、ここでは民話に基づいて幼い姉妹は実在していたと考えて話を進めていく。

 

(*また余談になるが、民俗学の父・柳田國男明治20年から2年間余り、13歳からの多感な時期を長兄が世話になっていた下総の布川(現在の茨城県利根町)の旧小川邸で過ごし、代々学者の家系であった小川家の土蔵で万物の書物を読み漁ったという。このとき後年の研究の手引きとなった赤松宗旦『利根川図志』に出会うとともに、近くにある徳満寺で見た『子返しの絵馬』に強い衝撃を受けたことを自伝的エッセイ『故郷七十年』に記している。

その図柄は、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている。

 利根川周辺も古くより川の氾濫や飢饉に見舞われてきた農村地域が広がる。子返しの絵馬は、間引き行為の浅ましさ・おぞましさを伝えることで抑制や戒めを図る目的で書かれたものである。柳田は身をもって飢饉のおそろしさを知り、その後、飢饉の根絶を志して農商務省へ入省。飢饉の影響が大きい東北地方を中心に全国を周り、『遠野物語』の執筆など日本の郷土研究・民俗学の理論化に邁進することとなる。

また江戸時代の「堕胎」「間引き(嬰児殺し)」「捨て子」については、文末に付した豊島よし江氏のレポートをご参照されたい。生命の選別について非常に考えさせられる内容となっている。)

 

 

はたして飢餓はあったのだろうか。伝承のある五箇山地域は、縄文中期とみられる土器が各所で出土しており、およそ4000年前から人々が暮らしていたと考えられている。白山の豊かな水の恵みがあったほか、稲作がなかった時代にも山岳地域での狩猟・採集に適した土地だったと見ることができる。

後世にあっても、山岳地形により作付面積は非常に限られ、稲作の占める割合は少なく、穀物は焼き畑による稗・粟・蕎麦栽培が主であり、貨幣経済が浸透する以前では食料の不足分をやはり狩猟・採集で補って生活してきたと考えられる。栽培に適した土地ではなく、豪雪地帯であることからも決して村全体が豊かな暮らしとはいかなかったかもしれない。だがもともと食糧自給の方策が分散されていた結果、冷害などによる凶作時にも平野部の稲作専業農家のような直下型のダメージからは回避され、山や川からの恵みを得ることで飢えを凌ぐ手立てを取りえていたのではないかと推測する。

gokayama-info.jp

上の世界遺産五箇山観光情報サイト『五箇山彩歳(さいさい)』によれば、16世紀後半、加賀藩前田家の領地とされた時期には、養蚕、製紙、塩硝(火薬の原料)、蓑づくりで金銭を得て年貢を納め、残った金をコメや食料、生活物資の調達に充てたとされている。とりわけ塩硝製造は戦国時代から品質にすぐれることで知られ、明治4年の輸入開始まで貨幣獲得のための基幹産業であり、外貨獲得につながる輸出品だったことから加賀藩による庇護もあったとされる。

現在は山里の情緒ある集落風景として知られるこの地だが、見方を変えれば山岳地形によって外界から遮断された「火薬製造工場群」だったという歴史は非常に面白い。

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五箇山・相倉集落

また南砺市の公開資料・千秋謙治「砺波農民の相馬中村藩への移民」(2009)によれば、天明の飢饉や疫病によって大幅な人口減・人口流出が続いた相馬中村藩(現在の福島県南相馬市・相馬市)では人手不足による農地の荒廃が深刻となり、文化8年(1813)から弘化2年(1845)までの間に北陸など他領から8943人、1974戸という大規模入植を進めたとされる。判明した分だけでも富山県全域で413人、うち現在の南砺市から231人、の移住が確認されている。もちろん入植を選択する背景には、長子相続の法や貧困(耕作地・食料生産の不足)などがある訳だが、南砺にかぎらず江戸時代の北陸地方は“人余り”の状態であったといわれている。

白河藩(現在の福島県白河市)藩主だった松平定信は、寛政の改革に着手する前年に、女が少なければ越後から呼び寄せて百姓に嫁がせるといった人口政策を唱えている。江戸期には北前船による北海道との交易から入植者や開拓者がおり、上述のように北陸地方から北関東~東北各地へ農地復興の移民が必要とされ、明治期からはハワイ・南米などの国外へも大規模な移民が続けられた。

 

 

間引き説に対するもうひとつの異論として、宗教的背景がある。

人形山民話の軸は、「姉妹の死」による悲話ではなく「母娘の信仰」にあると筆者は考えている。

民話に登場する母親のように、古より山を仰ぐ「遥拝」のアニミズムがあったことは想像できる。そして既述の通り、奈良時代以降、白山の一帯は霊場として修験者が入山するようになる。修験者にとって山は俗界と切り離された聖地にあたり、産褥や月経の穢れを負った不浄な存在として女性の立ち入りを厳しく禁じていた。中世、白山修験は熊野に次ぐ勢力とされるほどの隆盛を誇り、『源平盛衰記』『平家物語』には白山の僧兵による強訴と激しい衝突によって加賀国守が排斥される騒動が記されている。そうした荒ぶる僧兵が往来する霊場に立ち入って子捨てをしたとは俄かに考え難い。

マタギの世界にも「女人禁制」の習わしが伝えられているが(現在では山親方の裁量により女性マタギを認めている団体もある)、女人禁制の掟から現代社会の文脈にも適う合理性を導くことは難しい。山中の過酷さや体力面への配慮、あるいは煩悩や性被害への危惧から、女性を遠ざけたとする側面も間違いではないだろう。だが次第に、仏教や神道から抽出された男系的社会観の表れ、男性社会と女性社会を境界(結界)で分かつことによる役割論の形成・強化、ときに山に入る男性性の社会的権威付けといった意味も備えていったのではないか。修験や狩猟といういわば男性共同体のホモソーシャルを維持・強化するための隔離(異性の排除)という側面が強いものの、翻してみると一部には衆道・男色の営みなども含まれていたかもしれない。

 

江戸後期の北陸地方では“人余り”の状態だったと先に述べたが、その理由として、かの地に根付いていた浄土真宗が間引きを禁じていたことが挙げられる。浄土真宗(時代・政情・派閥により呼称が統一しておらず、ここでは一般的な歴史用語として用いる。真宗一向宗とも)はすでに中世後期には台頭しており、本願寺八世・蓮如(1415-1499)は、惣村的相互扶助と教義を結び付けた「講」の推進やその教えを分かりやすく説いた「御文」による布教などによって教団は急速な発展を遂げた。1475年、加賀国守・富樫政親真宗三派の統制を画策するも反対一揆に遭い、1488年、砺波郡の石黒光義と結んで国内統一を試みるが、やはり抑えきれず自害に追いやられている。戦国の権力闘争のさなか、およそ1世紀に渡って真宗系の百姓や国人衆が実質的な支配を握り「百姓の持ちたる国」とも呼ばれた(加賀一向一揆)。天正8年(1580)に織田信長石山本願寺(十一代宗主・顕如)を降伏させた後も、白山麓の鳥越城(現在の石川県白山市三坂町)を拠点とした山内衆が抵抗を見せるなどした。こうした宗教を介した地縁的結束は江戸後期からの各地に移民するようになってからも守られ、現地でも浄土真宗を拠り所としたことなどから「真宗移民」とも呼ばれた。

南砺五箇山地域は外界と閉ざされた地形でありながらも、人々が息づき、古代からの土着的山岳崇拝、渡来の仏教と融合された修験道、中世以降の浄土真宗、と途切れることなく信仰がつむがれたまさしく神仏混淆の地であることが分かる。上に貼付した兵庫県に伝わる「ガンコガシ」の逸話ではないが、古からの霊山に子捨てという宗教的禁忌は相いれないと筆者は考える。

 

 

 さて歴史を遡っていくと大きな問題に突き当たる。

泰澄大師による開山で山頂に創建された塔堂は兵火による消失を受け、祠を立てて安置したが、平安時代の終わり、天治2年(1125)に旧平村上梨集落の市郎右衛門先祖が神託を受け移遷したものであり、現在の白山宮本殿は文亀2年(1502)に再建されたものとする由緒が存在する。つまり鎌倉時代にはすでに山頂ではなく平村にお宮が存在しており、戦国時代には現在に伝わるそのままの姿で白山宮本殿が成立していたのだ。

母親が毎朝山頂を遥拝していたのは1000年前の話なのだろうか。それとも祠が平村に移築されてからも、麓の人々の慣習として遥拝が残ったということなのか。前者よりは後者の方がまだ説得力がある。だが1000年前の、移遷前の出来事として考えなければ、姉妹が「山頂の権現堂にお礼参りする」というストーリーは完全に破綻する。

 

さらに雪国にお住いの方や登山家、写真愛好家ならすでにご承知のことと思うが、 新潟県や長野県など雪の多い山地などではこうした山の雪渓・残雪の織りなすかたちにさまざまな呼称が付けられており、現在では「雪形」と呼ばれることが多い。地元住民以外に広く知られるようになったきっかけとして博物学者・山岳写真家の田淵行男氏による図版『山の紋章 雪形』(1981、学習研究社)が挙げられる。

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五竜岳の武田菱

山肌の地形によって冬場を通じて見られる雪形もあるが、気象予測の未発達な時代には春の訪れを知らせ、寒暖の変化を知らせる農事暦としての役割を担うこともあった。里山の人々は、雪形の出現時期に合わせて種まき、田植えを行ったり、雪解けの時期から冷害の有無や水不足の予測を立てるなどの慣習として後世まで伝えられた。山里の人々の一年の暮らしを占う重大な役割から、そうした雪形をそのまま山の名称としているケースも少なくない。たとえば信州・白馬岳は「代掻き(田に水を張って土を平らに整える農作業)」の目安とされた「代掻き馬」の雪形から「代馬」、「白馬」の名がとられたとされている(下の白馬ハイランドホテル記事では「代掻き馬」以外にも白馬岳に見られる多くの雪形を紹介している)。

www.hakuba-highland.net

 

はたして筆者の個人的な見解では、「人形山」の“ひとかた”は、間引きにつながるものではなく、農事暦として田植え時期を知らせる雪形のひとつとして考えている。さらに言えば、ひとかたの雪形から着想を得て物語化したエピソードであり、権現堂の移設を把握していない内容から五箇山地域に伝わる民話ではなく、非・地元人による創作ではないか、という考えに至った。

農事暦説が正しいかどうか、真相は“山”の中だが、創作だから悪いとか事実でなければ語る価値がない等という考えは毛頭ない。もしかすると行方不明の姉妹があって村人たちが“ひとかた”に二人の鎮魂を祈ったという事実があった可能性も無きにしも非ずなのだから。たとえ事実がどうであれ、“ひとかた”から様々な想像できるのだからそれはそれで面白いな、と感じている。そうした逸話が全国の山々に幾つあるのかは定かではないが、今日では「雪形」によって冬季から山開きの時期にあてた観光ビジネスのコンテンツのひとつとして利用され、山里の暮らしを潤しているにはちがいなく、筆者も今まさに人形山を訪れたいという気持ちに傾いているのである。

 

 

参考:

■探検コム 中絶と間引き

https://tanken.com/mabiki.html

■豊島 よし江『江戸時代後期の堕胎・間引きについての実情と子ども観(生命観)』

http://file:///C:/Users/PCUser/Downloads/2016_01_12.pdf

 ■中川 正『関東における北陸人集落の繁栄 ー近世末期移民門徒の現在ー』とやま経済月報・平成14年4月号

http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2002apr/tokushu/index.html

■渡辺 礼子『明治・大正期に砺波地方から北海道へ移住した人々の足跡をたどる』

http://museums.toyamaken.jp/documents/documents026/