河童にまつわるエトセトラ

河童(※)は日本で最もメジャーな妖怪・未確認生物のひとつ。

子どものような体格で緑色の肌、鋭い嘴、手足には水掻きを備え、背に亀のような甲羅を背負い、頭に皿のあるおかっぱ頭、といった亀や蛙を想起させる両生類らしき図像的特徴は概ね江戸時代後半に完成した。

エピソードは多岐にわたるが、相撲を好む、馬や人を川へ引きずり込む、胡瓜を好むといった特徴は一般的にもよく知られる。

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河童withコロナ マスクには「いっしょにがんばろう」とある

現在も日本各地に多くの伝承が残り、商品CMや水環境保全のマスコットキャラクターに起用されるなどポピュラーな妖怪であるが、そのルーツは一様ではない。

「カワッパ」「カワタロウ」「ガアタロ」「カワロウ」「水虎」「河伯」など時代や地域によって呼び名が異なり、同一の起源ではなく、積年の研究や伝播に従い、元来は別個にあった事象が川や水辺にまつわる奇譚・怪異現象として十把一絡げとされて、“河童”伝説の名の下に封じ込められてしまった印象を受ける。

“河童”として一括りにされたことにより、各伝承の起源や流布の推移といった個別の研究がおざなりにされたきらいもあり、民俗学分野における“河童”創成の功罪ともいえよう。“河童”の再構築、旧来の伝承をそれぞれの謂れの元に帰する作業は優れた学士にお任せするとして、以下では、“河童”にまつわるいくつかの起源、エピソードについて検討したい。

 


河伯

 中国神話に登場する黄河の神。亀や竜に乗った仙人の姿で描かれる水神。千葉県夷隅川河伯神社、宮城県阿武隈川の安福河伯神社など。農耕稲作と関係の深い川神への在来の信仰がやがて河伯信仰と習合していったとしても不思議はない。

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河伯 倣趙孟頫 九歌圖

1145年に成立した朝鮮半島に現存する最古の歴史書三国史記』によれば、高句麗(前37-668)の祖・東明聖王(高朱蒙)は、河伯の娘・柳花が日光を浴びて受胎し五升ほどの卵で生んだとされる。光精受胎による聖性によって権威とし、農耕を司る水神の血統と融合させることで崇敬を集めた。

水神と人との原初的起源については、石田英一郎らによる『河童駒引論』に触れねばならない。ユーラシア大陸各地に残る水神信仰と比較すると、日本の河童同様に水神は「馬」を川に引きづり込むという逸話が各地で多く確認された。川に引きづり込む対象が「馬」であったことは、農耕に欠かせざる道具としての「馬」を水神に捧げる、いわば「生贄」であることを意味し、古来より農耕民は川の氾濫に翻弄され水神を崇め祀ってきた関係性を示している。

『河童の駒引』同様に各地に残る典型的伝承として『河童の詫び状(証文)』というものがある。何度懲らしめられても「もうしない」と口約束ばかりで逃がされるとすぐにまた同じように悪さを繰り返す河童がいた。村人たちは「次捕まえたら生かしてはおけない」と怒り心頭。しかし心ある僧が「殺すのは忍びない」と村人たちに許しを請い、二度と言い訳できないようにと河童に証文を書かせると、以来悪さをしなくなり、お詫び、感謝の贈り物をするようになった(仕事を手伝うようになった)といった構造を持つ。この話を、灌漑・治水技術の進歩に伴って、川の氾濫を抑え、便利に水利を得られるようになったことの反映と見る説が存在する。怒りを鎮めるために馬を捧げるような畏怖の対象だった水神が、近世以降の技術革新によって人間と親交を結び実りをもたらす友好的存在とみなされ、新田開発が進み溜池や水路が増えると、やがてこどもの水難除けへと信仰のされ方も変化していったと考えられるのである。

 

②水虎 説

 明代中国で編まれた『本草綱目』に記される湖北省の川にいたとされる妖怪。3,4歳児のような体格で、表皮は矢も通さないほど固い鱗に覆われており、膝頭は虎の手に似ていたとされる。下の絵はそうした特徴を示した作品だが、我々の目から見れば河童というより鬼や獣人に近い印象を受ける。

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鳥山石燕『今昔画図続百鬼』水虎

儒者・古賀侗庵(とうあん)は和漢の河童に類する記録・伝承をまとめた『水虎考略』(1820)を著し、現代に伝わる河童研究の基礎のひとつとなっている。そこでは大陸における水虎も河童によく似た妖怪、あるいは河童の仲間とされている。地方によって、河童を水虎と呼んで同一視している場合もある。

青森県津軽西北部の古田川周辺およそ80か所では、竜宮神の眷属として“お水虎様”と呼んで祀り、供物として胡瓜を捧げるなど、こどもの水難除けを祈願している。意匠は河童と同じか、亀に乗った女神とされるものが多い。これは明治期、日蓮宗実相寺の僧らによって水神信仰が広められたものとされている。中国発祥の水虎の名が、日本発祥の河童の体に付される和漢折衷が起こった事例といえよう。

 

水子・口減らし・水難 説

 『古事記』におけるイザナギ(伊邪那岐)・イザナミ(伊邪那美)の国産み神話において、はじめに生まれた子は「我が生める子よくあらず」とし、淤能碁呂島(おのごろじま)から葦の舟で流されたとあり、『日本書紀』では、三歳になっても脚が立たなかったため天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ)に乗せて流したものとされる。水蛭子と記されることから、手足の奇形や胞状奇胎とする説もある。中世には、海を渡ってくる縁起物であるエビス(夷・戎)信仰と重ねられ、海神・漁業神・漂着神とされ、蛭子(ヒルコ)はエビスの読みに転じている。

“オカッパ頭”やその体格からして河童は文字通り“童”であり、蛭子のように育成困難とみなされた赤ん坊、夜這い(不貞)などによる望まれぬ妊娠による堕胎、死産、水難や流行り病で命を落としたこどもの亡骸だったと考えられる。河童が人を殺めるために抜くとされる「尻子玉」は、水死体の肛門括約筋が弛緩し臓腑がはみ出た状態(まるで内臓を抜き取られたように見える)が由来とされる。そうした“事故”現場に子どもを近づかせない目的もあるにはあったろう。だが岸に上がった遺体を見つけて「河童の仕業」だとすれば、やむをえぬ事情があってそうした肉親は罪の意識から幾許かは解放されるであろうし、犯人捜しや親への責任追及のような村落の「諍いの芽」を摘むことで共同体の秩序は保たれる。貧しさゆえ苦しさゆえの間引き・口減らしであればなおさらである。川辺に水神や水難除けとして祀ってやることで、親や村人たちも邪な考えを抱かずに水子達の供養ができる。村落にとってある種の「安全装置」として河童伝承は身近に必要とされていたのかもしれない。

 

④人形,被差別民 説

アイヌの伝説に、“ミントゥチ”と呼ばれる河童と類される言い伝えがあり、本土におけるミヅチ(蛟。水+精。竜や蛇の姿で表される水霊)がその語源とされる。

江戸時代、本土から多くの交易船が行き交うようになりパヨカカムイ(疱瘡、伝染病の神)がやってきた。アイヌを率いていたアイヌラックル(オキクルミ)は61体のチシナプカムイ(ヨモギで編まれた人形)に魂を吹き込み、パヨカカムイと戦わせ、60体は敗れたが最後の一体がミントゥチを全滅させた。この戦いで水死したチシナプカムイたちがミントゥチになったという。身丈は12,3歳のこども程とされ、肌は紫か赤色に近く、頭に皿はなく、手足は鳥か鎌のような特徴を持つ。魚族を支配する神とされ、漁運をもたらすと引き換えに水死者の被害をもたらす。山の神として狩猟運をもたらすとも信じられており、若い男の姿をしたミントゥチが婿入りし家が栄えたが、怒らせると地域の食料の恵みを一切さらって他所へ移ってしまったという伝承も残る。「山側の人」という意味のシリシャマイヌとも呼ばれる。濃霧の中、前を歩く人影を見掛けるが呼びかけに応じず、足跡は鳥のようで不思議に思っているといつの間にか人影が見えなくなり水中に引きづり込まれる、といった河童らしいエピソードもある。

また左甚五郎は邸宅建造の仕事を請け負うが大工の人手が足りず、期限に間に合わせるため人形に魂を吹き込み手伝わせ、事を成すと人形を川に捨てて、それが河童になったという逸話(熊本県天草)や、真宗寺建立の際に人手不足に窮した武田番匠がヘラの木で人形を作って弟子に仕立て、事を成すと人形を川に流すと河童になり近くの赤淵を本拠とした話(大分県直入郡)など、人形に職人の作業を手伝わせる定型説話が多く残る。人形に魂を吹き込んで使役させるという形式は、陰陽師が用いた「人形(ひとがた)」の呪術に由来するとも考えられる。人手不足を補うために被差別民を集めて、土工として手伝わせ、やがて彼らが川べりに住まうようになったと解することもできよう。

 

柳田國男による明治・大正期のサンカ研究は、異界へと追いやられ漂泊を続ける山人を原日本人ではないかとする考えを土台として追究を試みた。しかしその情熱はやがて薄らぎ、1930年ごろには定住生活をする農耕民=常民を基本研究の対象とするようになった。渋沢敬三は『本邦工業史における一考察』(1933)において、大工・左官・鋳鉄師・錠前直し・羅宇屋(煙管の竹管)・鋸目立・算盤直し・砥屋・下駄歯入れ・雪駄直し・櫓替え・輪替え・蝙蝠傘直し、竹細工など「古来種々の漂民(特殊部落の中の漂泊し歩くものを仮にかく名付けた)」が出職(出張販売・出張サービス)を行っている点は比較経済の上で軽視できないとし、旧来の手工業を大きく担った国内の漂民=非常民の活動研究が「ほとんど欠如され」「資料の甚だ乏しきが上に乏しきこと」を指摘している。年に2、3度歴訪し岩穴や仮小屋に寝泊まりして箕直しや籠笊をつくる「テンバ」、絹機織りの筬を削る「筬掻女(おさかきめ)」、井戸掘りや池づくりを請け負う「黒鋤」「河原者(京都の井戸掘り)」といった技能工も、墓掘りやサンカ、隠坊(遺体を火葬する火夫、墓守)等と同じように特殊部落の人によって担われ、「下がり職」として卑しめられた。漂民の中には特殊部落内に定住する者、一部落あるいは一村を形成し、屠殺解体業や皮革製造、鍛冶屋などを興した者もあったが、旧来の手工業において特殊な生産階級として漂民が専業的特権を為してきたと述べている。小松和彦氏らによる河童の人形起源説=被差別民との接合は、柳田民俗学の“やり残し”であった非常民論に対する大きな成果と言えよう。

  

⑤山童 説

 上のミントゥチ伝説には、九州・西日本における河童・山童(ヤマワロ,ヤマンボ)の習合とも共通項が見られる。

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鳥山石燕『今昔画図続百鬼』山童

人間の悪意に目敏く、銃を向ければ祟られて一家が死滅するとされる。山童は誰もいないはずの山深くで人の歌真似をしたり、木をなぎ倒す音や爆発音を真似て山仕事をする人間を驚かしたといわれ、東日本における天狗や貉の類とも類似性を持つ山の怪である。木樵は山童に大木を運ぶ仕事の手伝いをさせて褒美に飯を分け与えると手伝いに通うようになったが、先に食料を与えてしまうと仕事をせずに逃げてしまうといった愛嬌のあるエピソードも残る。

山童伝承も地域によって相違あるものの、夕方山に入って朝に川へ戻る(宮崎県西米良)ものや、秋の彼岸に山に入り、春の彼岸に川に戻る(熊本県南部)といった時季折々に合わせ移動を伴なう生活を営んでいた。彼岸に賑やかに山を下りてくる山童に出くわすと病や怪我の祟りがあるとされ、彼岸の外出を控える慣習もあったといい(葦北郡佐敷町)、柳田國男は地域や季節によって信仰の対象が水の神(稲作)から山の神へと変化したという見方を示している。これは春は農耕に携わり、冬は山で生活を送る産鉄民の営みを表している。山童は、片目や片足の特徴で描かれることが多く、三日三晩鞴(フイゴ)で炉に風を送りながら火の番をすることで目や足を悪くする者が多かったことを示すものとされる。④人形説とも関わる部分だが、田の神の依り代・山の神の権現たる案山子もそうした山の産鉄民を表しており、河童=案山子という説も成り立つ。そう思って見れば、案山子の頭の笠、背の蓑をモデルチェンジしたものが、河童の皿や甲羅と見えなくもないだろう。

 

⑥山人,サンカ 説

 ⑤山童、季節移動説を論ずるに山の民、サンカを想起せずにはおれない。現代に伝わるサンカもまた事実と創作、研究と仮説、その対象がないまぜになり、実態をつかみづらい存在である。しかし̚漂泊民(非定住民)であること、官憲の行政文書による位置付けが住所不定の犯罪者集団であった(人に悪さを働く)こと、柳田國男イタカ及びサンカ』(1911年)には「サンカには地方毎に必ず一の親分あり其権力は中々に強力にして時としては部内の美女を選び二三人の妾を持つ者あり」と統率された集団関係であった記述もみられることなど⑤山童説や⑦海賊説と関連してくる。

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西宮傀儡子 下川辺維恵,摂津名所図会

 ③における蛭子・エビス信仰との関連、④人形説、そしてサンカのごとき漂泊民であったことから“傀儡子(くぐつし、かいらいし)”のイメージとも結びつけることは可能ではないか。傀儡子は人形芝居や猿楽など古典芸能の礎ともされるが、和風サーカス団ともいうような移動式芸能集団である。男性は操り人形を駆使した演劇のほか、奇術、剣舞、相撲、滑稽芸を披露し、女性は歌唱、巫女のほか売春婦・遊女という側面もあったといわれている。また寺社の神事として奉納されていた「相撲」は河童の特技へとつながる。

  

⑦海賊 説

福岡県宗像市北九州市などに伝わる海の妖怪・海御前は、河童の女親分と言われる。大積浜に流れ着いた美しい女官の遺体を村人が懇ろに弔った。女官は壇ノ浦の戦いに敗れた平教経の妻(あるいは母)とされ、女官たちは手下の河童に、武将たちはヘイケガニに化身したと伝えられる。彼らは源氏しか襲わなかった。また延宝3(1675)年にまとめられた久留米藩の地誌『北筑雑藁』では、平清盛筑後川支流の巨瀬川の河童の主・巨瀬入道となって、年に一回は水天宮に祀られる継室・二位尼時子に逢瀬に訪れ、川が氾濫するという記述がある。平家の落人伝説は山間部に多く残るが、死してなお河童に姿を変えて流布されていることには驚かされる。

 

延享3(1746)年、菊岡沾凉が著した『本朝俗諺志』に仁徳天皇の治世(3世紀末)に中国・黄河から東シナ海を渡って九州・八代の浜に流れ着き、播磨川流域を拠点とした九千坊河童といわれる一団の言い伝えが残る。加藤清正の寵愛した小姓に手を掛けた咎で清正の怒りを買い、大敵である猿(馬の守り神)を遣わして播磨川を追われた。関雪和尚の命乞いによって有馬公が治める筑後川に移り、久留米の水神宮の護役として人々を水害から守ることを誓った。幕末、有馬家高輪下屋敷ついで日本橋へと水神宮が遷され、九千坊河童も移動した。

 

安政2年頃にまとめられた赤松宗旦『利根川図誌』に名を残す、利根川流域を拠点とし、関八州の河童を統括した女傑・禰々子(ねねこ、祢々子)河童もまた各地で悪さを働き、江戸に進出してきた九千坊の一味も退けられた。その後、九千坊河童は再び筑後川流域へと戻り、その支流である巨瀬川の田主丸馬場の蛇淵を本拠とした。一方の禰々子河童は武芸の達人であった水普請役・加納久右衛門に負かされ、加納邸内の祠に収められた。後年には縁結びや安産の神として信仰を集めたという。

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禰々子河童(利根川図誌, 赤松宗旦)

 ここで河童民話の類型として多く見られる『河童の妙薬』にも触れておきたい。河童の手のようなものを拾った(あるいは河童の手を引っ張りぬいた人の元に「返してほしい」と河童が尋ねてきて、どうするのかと尋ねると「こうするのだ」と骨接ぎやら塗り薬やらで元通りに治してしまい、お礼にその骨接ぎの施術法や薬の作り方を教えてもらうというものである。

男が毎日水藻を採っていた。与田浦の河童が「なぜそうするのか」と尋ねると「近くに医者がないので脚の悪い母のために乾かして薬にするのだ」と答えた。すると河童は『そういうことなら薬草の水藻と鮭の脂を混ぜて練ったものを塗って湿布にするがよい。十三枚も貼る頃には治る』と教えた。男は河童に言われた通り母親に湿布薬を続け、十三日もするとすっかり歩けるようになり、その薬は大層評判を呼んだ。佐原扇島・本世堂医院では打撲によく効く膏薬「十三枚本生散」として昭和四十年代まで販売され、かの地の船着き場は“十三枚”と呼ばれた(千葉県佐原)。

  こうした伝承に見る河童は、現在一般的に想像されるような妖怪変化の類ではなく、一種の属性をもった人々を示す暗喩だったと想像できる。農耕民(定住民)ではない水に近しい職業民として、漁師、水運夫、あるいは④での例から類推するに(井戸掘り、水路工事、新田開発のために集められた)土木作業員といった人々が当てはまるかもしれない。九千坊河童、禰々子河童のような統率された組織集団であったことを踏まえるならば、職能人材を管理・斡旋する現代でいうガテン系人材派遣組織のような形態ともとれる。また人に悪さを働いたという特徴を重視するのであれば、単なる職種を示すだけではなく、船による漂泊民、ある種の“海賊”を思わせるものがある。力仕事の人夫だったとすれば彼らが“相撲好き”だったことや、仕事や喧嘩で負った怪我を早く治すための骨接ぎ術、膏薬などに精通していたことも幾分納得しやすい。

 

但し『河童の世界』を著した民俗学者・石川純一郎氏によれば、『河童の妙薬』および河童伝承の流布には漂泊の薬売り、香具師、接骨医などの口上や宣伝が媒介とされたと指摘しており、生物学とその周辺史・民俗社会学を研究領域とした中村禎里(1932-2014)らはその説を支持している。

 

⑧渡来人 説

 河童は、八坂神社(祇園社)の主祭神祇園精舎の守護として知られる牛頭天王(ごずてんのう)の眷属ともいわれる。牛頭天王は中国・朝鮮の文献には存在しないものの、平安時代にはすでに疫病の神として祀られ、薬師如来垂迹、素戔嗚(スサノオ)の本地とされている。素戔嗚が曽尸茂利(ソシモリ,牛頭山)へ赴いたことで免疫されて日本に戻り防疫神とされたと考えられ、朝鮮から渡来した人々の信仰が日本の神話と習合したのではないかという説がある。つまり渡来人の神が牛頭天王であったことが転じて、渡来人を河童とみなす説である。

 

あるいは素戔嗚といえば八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の説話が知られており、これは現在の島根県斐伊川周辺の産鉄地・産鉄民を平定したことを意味するとされる。この素戔嗚の神話と牛頭天王が重ねられて、山の民=河童を従えたということなのかもしれない。それともただ八坂神社の神紋が木瓜紋であることなどから生まれた説なのか。

 

 ⑦で挙げた九千坊河童について、河童小説を多く遺した戦中・戦後の流行作家・火野葦平(1907-1960)は、昭和32年4月皇居吹上御苑内花蔭亭に招かれ、天皇の御前にて徳川夢声司会による会合に参加し自身の河童論を披露している。

「(略)ともかく、カッパの大群が九千坊という大将に率いられて、インドのヒマラヤ山の南麓、デカン高原の北、その間にあるタクラマカンという砂漠を東に移動して、蒙古を通り、中国を抜け、朝鮮から海に出た、そして、九州の八代の徳の洲という所から、上陸したと言われまして今でも徳の洲には上陸記念碑があります」というと皆大笑い、陛下も笑われた。(『河童会議』1933)

火野は、応神天皇の御代(実在したとすれば4世紀後半ごろ)に弓月君を中心として百済から集団で渡来した「秦氏」を九千坊河童となぞらえて紹介している。放談会での笑い話のつもりだったのか、あるいは調査研究がなされた上での考察なのか、氏の心づもり定かではないがきわめて興味深い説である。近年、都市伝説や超古代史系の文脈で秦氏ユダヤ人説が持ち上げられているが、それらをつなぎ合わせると河童=ユダヤ人説という壮大な(以下、自粛)。

 

小説家・岡本綺堂は『飛騨の怪談』において、飛騨山中の山𤢖(やまわろ)について、元寇で九州に出兵した飛騨伴官朝高が連れ帰った蒙古兵の子孫であろうとする説を扱っており、彼らは地元で使われる言葉の意を介さなかったのではないかと考えられる。

また中国から渡ってきたフランシスコ会修道士にも、トンスラと呼ばれる頭頂部の剃髪、洗礼時に頭に水をかけることなど、河童のイメージにつながる特徴がある。もしかすると南蛮由来の医学の一部は『河童の妙薬』逸話へとつながるかもしれない。さらに筑後豊前豊後肥前天草肥後といったキリシタン大名の勢力分布と、かの地での河童伝承の多さが一層の相関性を感じさせるのである。

いずれにせよ四方を海に囲まれた島国とはいえ海の向こう(外界)からいくつもの異人が来訪していたことは確かであり、彼らの生活の様子などが常民には異聞として語り継がれたとしてもおかしくはないだろう。 

 

 

⑨座敷童との関係

 座敷童は岩手をはじめ東北地方で見られる絣の着物やちゃんちゃんこ、小袖姿といった童子の妖怪として広く知られる。足跡を残したり、物音を立てたり、枕を返したりといった悪戯を好み、住み着くとその家に富貴をもたらすとされる。千葉徳禰(1916-2001)が1952年に発表した座敷童に関する調査研究によれば、岩手に座敷童として居ついたものは元々淵猿といって河童の一名であり、海や淵、あるいは井戸から現れたという。④ミントゥチの婿入り逸話と同じく、座敷童が去った家は没落するとする例もあり、村落内の貧富の差や富の移動を説明する機能を持つ。もし河童と座敷童が共通起源だとすれば、河童は漂泊する性格を、座敷童は定着(土着化)する性格を示しているのであろうか。

 

 

⑩渦

 ここまで山・川・海の漂流民、被差別民、あるいは神や精霊としての河童についていくつか述べてきたが、全ての説を同一の対象として見るとやはり多くの齟齬が生じる。各地域によっての環境・風土、地域の歴史や流行、情報の追加や書き換えといったものによって、その土地の河童像がそれぞれ入り混じり変化していったと考えるべきであろう。

最後に流体力学・流体工学の研究者・松井辰禰氏(1916-2010)へのインタビュー記事『河童の正体は渦』の中で面白い談話があった。自身の出身・福岡東部での思い出と交えながら、

「渦があってね淵というよどんだところと外側のながれとの間のシアレイヤーには渦が出来るんだね。その渦の低圧で(人が)水の中に引きずり込まれる。ちょうど渦の中心の低圧に尻がくると尻が抜かれるって感じがするわけだ。それでぼくはカッパというのはね渦のことを言っているじゃないかと思うんだ」

と自説を唱え、同じく流体工学の専門家、聞き手・望月修氏も自身の渓流釣りでの体験から

「思うに、落ち込みにできるいろいろな大きさの泡によって発生する音の周波数が重なり合ってできた合成音を、人が可聴範囲の周波数だけをフィルタリングして聞いてしまい、人間の呼びかける声と間違うのではないかというわけです。それに自然の中の静寂にある種の緊張感をもって神経が研ぎ澄まされているときだからこそそうやって聞こえるのかもしれませんね」

と答えている。

はたしてそうした川辺で起こる現象がそのまま“河童”と直結したかは分からないが、たしかに「渦」は④で触れた蛟(ミズチ)、水神の具象である竜が絡み合う様子、水中へと吸い込まれる様子のように見えるし、地面から滾々と水が湧き出る様子などを見ればなんらかの生命体、目には見えない存在を感じずにはおれない。宮沢賢治の『やまなし』を挙げるまでもなく川辺での音は想像以上に多様で単なる獣ではない何かの存在を仮定した方が心休まるやもしれない。川が氾濫する様子やなぜか川に巻き起こる「渦」や「泡」といったものから得体のしれない存在、神や妖怪は誕生したのかもしれないと感じた。

 

 

参考:

・『河童の正体』河童学位論文館 斎藤 昌男

・『河童とは何者?』港横濱カッパシティ 三瀬 勝利

・『河童の姿を追って:民俗伝承における庶民の心』椎名 愼太郎

・『河童の民話における土木技術者の位置づけに関する民俗学的研究』(2016, 『実践政策学』第2号)中尾 聡史, 森栗 茂一, 藤井 聡

・『河童の正体は渦 パイオニアインタビュー2005 松井辰禰先生』望月 修(『ながれ 24』,2005)