相模原市・津久井やまゆり園殺傷事件について

2016年7月に発生した相模原市障碍者福祉施設殺傷事件、通称“津久井やまゆり園事件”は、2020年3月に植松被告の死刑が確定し、事件裁判としてはひとつの区切りを見た。本事件はその規模も深刻甚大ながら独自の信念に基づいたテロリズムともいえる犯罪ケースであり、障碍者をめぐる環境といった多くの問題提起を孕んだ社会事件と捉えられ、その根本的な問題の解消には至っていない。重大な罪を犯した死刑囚、そして「標的」とされた重度障碍者らは、壁の向こう側の世界に存在するのではなく私たちと同じ社会に生きている。自分とは直接的関係がないといって「なきもの」のように扱ってしまえば、それはもはや植松の考えや差別行動に(消極的ながらも)支持・加担していることと変わりないように私は思う。事件について改めて振り返り、未だ据え置かれたままの課題について考えてみたい。人権思想・生命倫理に触れる内容のため、公序良俗の範疇から逸脱した表現なども含まれるが、いかなる偏見・差別を助長する意図はない。 

 

■判決後

JNNドキュメンタリー『ザ・フォーカス』では、事件で被害に遭った元施設入居者・尾野一矢(かずや)さんと家族の歩んだ4年間を追っている。

神奈川県警は「施設にはさまざまな障碍を抱えた方が入所しており、被害者の家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」として、犠牲者を匿名で公表し物議を醸した。一矢さんも首や腹など5か所を刺され一時意識不明となる重傷を負った。尾野さん一家は「何も恥ずかしいことはない。障碍がある人も普通の人間」「重度の知的障碍がある人たちのことを広く知ってほしい」との意向により、事件直後から実名・顔出しで取材に応じてきた唯一の被害者家族である。下のNHKのリンク記事では、一矢さんの津久井やまゆり園入所までの経緯や障碍者の自立生活支援などについても触れている。

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事件発生から4年後の2020年、一矢さんは仮入所していた施設を離れ、重度訪問介護のヘルパー支援を受けながらアパート暮らしを始めた。重度の障碍がある人間にも様々な生き方があることを示し、本人も家族も(辛苦な思いだけでなく)日々小さな幸せを得ながら暮らしていくことで、植松の主張に対する自分たちなりの回答になるとの思いから「多くの人に支えられながら一矢が幸せに暮らす姿を見てほしい」と父・剛志(たかし)さんは語っている。

 

 

2020年10月23日から25日にかけて都内で行われた『第16回 死刑囚表現展』では、植松死刑囚の応募作が初出展となり注目を集めた。尾野一矢さんの父・剛志さんは、植松の出展作について感想を求められ、「死刑確定後も罪に向き合っていないのは明白だ。展示自体も彼の主張に感化される人々が現れる恐れがあり、有害でしかない」と失望を示している。

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本展覧会は、死刑廃止派の市民団体「死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金」が、死刑囚が拘置所で許されうる外部社会とのコミュニケーション手段とする目的のために2005年から行われている。代表・太田昌国氏によれば、凄惨な事件の背景には、死刑囚の「個人的資質」以外にもその時代性や政治や法のあり方といった「社会的文脈」が含まれており、重大事件を起こした死刑囚が何らかの表現を社会に還元することによってそうした社会が孕む問題を捉え直すために有効だろうとしている。植松死刑囚の展示作品について、考えをダイレクトにメッセージ化した「文章」という形だが、鑑賞者がそれに触発されて事件を起こすような短絡的な思考プロセスには至らないとしており、作中では(意思疎通が困難な人を独自の「心失者」という造語で表してはいるが)「特定の個人」を中傷するものではなく比較的一般的な文言で記されているため一概にそれを「なきもの」にすることはできないとの考えを示した。展覧会では、来場者アンケートや選考委員の批判的意見も死刑囚には伝えており、寄せられた意見に対する制作での葛藤やフィードバックも回を重ねるごとに見られるようになったという。そのため「一回の展示そのものだけ」を切り取るのではなく、それまでのやりとりのプロセスも含めた上で、こうした犯罪はなぜ起こったのか、今後抑止するにはどうすべきか、更生の道はどこにあるのかといったことを全体的に考えていく道筋になっていけばよい、と述べている。さらに「被害者から“表現する自由”を奪ったのは加害者であり、彼らの表現を展示することは二重三重の被害を生んでいるのではないか」という意見に対して、(被害者や遺族に共感して憤る感情は当然理解できるものだとした上で)加害者でも被害者でもない第三者の冷静な立場でこの犯罪とは何だったのか、どうすればなくすことができるのかを考える機会として捉えてほしいと語っている。

 

もう死刑確定によって君は社会と隔絶され、君の声が社会に出ることはなくなってしまう。そういう状況において何か社会に表現するなら、この表現展に作品を出展するというのは貴重な機会だ

下は、 植松死刑囚に出品を薦めた月刊『創』(つくる)編集長・篠田博之氏による展覧会に関する記事である。もしかすると最初で最後になりかねない出品、社会に向けた自分にできる最後のメッセージかもしれないと考えたとき、植松は事件の数か月前に構想し、公判でも述べた意見からなる「人が幸せになるための7つの提言」を提出した。

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安楽死:意志疎通がとれない人間を安楽死させます。また移動、食事、排泄が困難になり、他者に負担が掛かる場合は尊厳死することを認めます。
大麻:嗜好品として使用、栽培することを認めます。楽しい草で「薬」と読みます。約250種類の疾患に効果があり、簡潔には楽しい心で超回復する。
カジノ:カジノ産業に取り組むため、小口の借金を禁止します。支払い能力を越えると理性を保つことができません。その現金は幻影で、実際にはありません。
軍隊:軍隊を設立し、男性は18歳から30歳までに1年間の訓練をすることを義務づけます。「鉄は熱いうちに打て」それと同様に人間も精神が柔軟なうちに試練を与えられないといけません。
SEX:婚約者以外と性行為をする際は避妊することを義務付けます。性欲は間違った快感を覚えてしまうと相手を深く傷つける犯罪になります。
一、避妊をする、二、清潔にする、三、相手を慈しむ
美容:美は善行を産み出すため、整形手術は保険を適用します。しかし整形しても子どもは容姿は遺伝子を受け継ぐので交際前に報告します。
環境:深刻な地球温暖化を防ぐため遺体と肥料にする森林再生計画を賛同します。人糞を肥料にしなければ農作物は育ちませんし、遺体を肥料にしなければ森林破壊は止まりません。

その内容は、事件前から収監後の取材、公判中も繰り返し述べられた植松の持論をまとめたものである。現実にそぐわない短絡的で粗雑な提言であり、独善的な見方に支配されていることが分かる。表現技法にしても鑑賞者の琴線に触れるような技巧やアイデアが凝らされているとは言い難く、へりくだったような文語的表現はあるものの凶悪犯罪者としての植松しか知らない鑑賞者には「俺の話を聞け」という態度がはっきりと透けて見えることであろう。これを見て怒りに打ち震える方、憐れみを覚える方、人によって色々な感情が引き起こされると思う。だが私の場合、もしも植松が来年も出品するならばどんな作品をつくるのか、10年後、20年先も刑が執行されなかったならばその心境や信条は変化するものなのか、という好奇心は否応なく触発される。死刑囚らの表現が発表の場を与えられることで、私たちが何がしか触発されたという時点でコミュニケーションとして成立している(社会に届いた)ことは事実である。

 

 ■事件の概要

2016年7月26日未明、神奈川県相模原市緑区にあった県立の知的障碍者福祉施設津久井やまゆり園」に元施設職員・植松聖(さとし)(当時26歳)が侵入し、刃物で入所者19名を刺殺、職員も含め27人に重軽傷を負わせた。警備員は1名常駐していたが管理棟での仮眠が許されており、このとき侵入に気付かなかった。2階建ての居住棟が2棟、各フロアが男女別に隔てられ、計8つに区分され、各ブロックに夜勤が一人ずつ配置されていた。植松は女性職員が夜勤を担当する「はなホーム」の窓を割って侵入。支援員室で作業する夜勤職員を結束バンドで拘束し、携帯電話を奪ったうえで施設内を連れ回し、「こいつは喋れるのか」と職員に確認したり、就寝中の利用者に「おはようございます」と声掛けして反応を見るなどして、意思疎通が困難とみられる入所者を次々と刃物で刺していった。やがて「選別作業」を半ばで辞めて手あたり次第の様相となったが、6ブロック目で職員に逃げられて個室に籠られたため、凶行を断念。現場から車で逃走した植松はコンビニエンスストアで付着した血液を洗い流し、菓子パンを購入。2時50分、自撮り写真と共に「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!」とTwitterで投稿している(犯行前に送信したつもりが、失敗していたため再投稿したとされる)。同日3時過ぎ、植松は津久井署へ出頭し、緊急逮捕された。逃げのびた職員は2時45分に110番通報を行い、3時16分まで通話状態を保持し、電話口で植松の出頭を知らされたという。

死亡者は、41歳から67歳の男性9人、19歳から70歳の女性10人で多くは寝ていたベッドの上で発見された。凶器は、ナイフ、柳刃包丁など複数の刃物(計5本を持ち込んでおり、切れなくなると交換して用いた)。死因は、19歳女性が腹部を刺されたことによる脾動脈損傷に基づく腹腔内出血、40歳女性が両肺を刺されたことによる血気胸、残り17人が失血死とされ、傷の深さからも明確な殺意が認められた。窓ガラスを割るためのハンマー、職員を拘束するための結束バンド、粘着テープ(これらは前日にホームセンター等で購入)、(以前から所有していた)替えの刃物類はスポーツバッグに入れて持ち運んでいた。

  

■生い立ち、事件までの流れ

植松聖は1990年に生まれ。小学校教員の父、漫画家の母との3人家族で、1991年に多摩から相模原市緑区千木良地区へ転入。育った家は津久井やまゆり園からわずか600m程の距離だった。一学年30人ほどの小さな学校で、成績は「中の下」、人物評には「明るく人懐こくて、目立ちたがり」とある。あだなは「さとくん」。父親の影響で「小学校の先生」に憧れていた。学内にも障碍児童がいたが、被告の口から「(障碍者について)否定的な言葉を聞いたことはない」とする同級生がいる一方、低学年のときに「障碍者はいらない」という内容の作文を提出していた。幼馴染の証言では、猫がいじめられているのを必死になって止める優しい一面もあったとされる。

中学時代は不良少年と交流するようになり、飲酒・喫煙、万引きに加わったり、器物破損といった反抗的行動が目立つようになったが、両親は「思春期にはよくあること」として見守った。「料理が面白そう」だと感じて、東京都八王子市の私立高校調理科へ進学。1年生の夏から1年以上交際した女性によれば、根が純粋で、催しのときクラスに号令をかけるような「リーダー的存在」だったという。1年の頃はよく物に当たる、2年生では部活で部員を殴りつけ1か月の停学処分を受けるなどして、相模原市の公立高校の福祉課へ転校しており、「目立ちたがりで何も考えていない。ただの馬鹿だった」と自省している。当時を知る同級生は、下校時などに障碍者を見掛けると「シンショウうるせーなあ」「生きている価値が分からない」といった悪態をついたり、内向的な生徒について「あいつシンショウみたいで気持ち悪いよな」と馬鹿にすることもしばしばあった。一方で交際した女性は、別れてからも良好な人間関係があったらしく、3年になる頃には粗暴さが抜けてきて成長を感じていたともいう。交際当時は「優しく連絡はマメだった」とし、お互いに実家を行き来する親公認の仲だった。被告はデートのことも両親にオープンに話していたようで、家族仲は良さそうに見えたという。女性の母親も交際当時は「はきはき挨拶ができる明るい良い子」という印象をもっていた。

2008年、AO入試帝京大学文学部教育学科に進学し、教職の勉強になるからと学童保育のバイトもし、入学当初は単位も取得していた。フットサルサークルではだれとでも分け隔てなく付き合い、後輩にも慕われる人気者だった。だが周囲の証言からは、この時期から素行に変化が生じていたとされる。

「高校時代はまじめでおとなしい印象でしたが、二十歳ごろにははっちゃけた感じになっていた。入れ墨をいれ、『彫師になりたい』と言っていたようだ」

「大学に入ると髪を茶髪に染めた。服が派手になり、チャラくなって弾けていました。入れ墨をいれ、危険ドラッグも吸い始めた」

「強い人間に憧れがあって、自分を強く見せようとして入れ墨や薬に手を出すようになった」

「明るく面白く、みんなと騒ぐのが好きな性格。2年の夏ごろから頻繁に飲みに行ったりマージャンをしたりし、冬になると危険ドラッグを使うようになった。気分がハイになって陽気になる程度で、異常な行動はなかった」 

 大麻、違法ハーブの吸引が常習化しており、20歳前後で両肩から背中にかけて入れ墨をいれた(彫師によれば、就職を控えているから見えない位置にしてほしいという注文があったという)。常連だったクラブ関係者は「(2013年頃から)植松らの間で危険ドラッグが流行っていた」と語っている。この頃から言動が荒っぽくなり、学友らが距離を置くようになるなど周囲の交遊関係も変化していったとされる。

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大学4年の春には母校の小学校で1か月の教育実習を行い、当時受け持ったクラスの児童は「話し方はとても温かくて、生徒に親身に接していた。誠実な感じで介護には向いているような印象を受けた」と語っている。総合評価はBだったが、勤務・指導態度はA評価で「子どもとの時間を大切にしていた」と記述されている。2012年3月に大学を卒業。小学校教諭一種免許を取得したものの、「深く考えていなかった。甘い考えで小学校なら教えられるかなって。理解していないとやっぱり教えるのは難しいなと思った」として採用試験は受けず、教職の道を断念している。地元の友人の話を聞いて運送会社で自動販売機補充のルートドライバー職に就くが、体力面のきつさから、ほどなく離職を考えるようになる。その頃、植松は津久井やまゆり園で働く幼馴染の男性(深い付き合いはなかったが幼稚園時代からの級友)と偶然再会し、園での仕事について話が及ぶと興味を示した。8月には就職説明会に参加し、9月27日には津久井やまゆり園の採用内定を得ている。志望動機には「学生時代に障害者支援ボランティアや特別支援実習の経験および学童保育所で3年間働いていたこともあり、福祉業界へ転職を考えた」とあり、「明るく意欲があり、伸びしろがある」と判断されて採用が決まった。園に欠員があったため12月から非常勤として就労を開始し、2013年4月から常勤職員となった。働き始めの頃、植松は大学時代の後輩に「仕事は金のためじゃなくてやりがいだと思う。障害者の人たちはきらきらした目で接してくれる。自分にとって天職だ」と語っていた。

両親に関する情報は多く出ていないが、2012年前後に植松一人を千木良の家に残して八王子市内のマンションへ転居している。父親は勤め先の学校が八王子にあり、毎日5時半過ぎの始発バスで通勤していたとされる。近隣住民は「父親は駅で顔合わせても挨拶しないで目を背けるような人だったけど、彼は笑顔の絶えない好青年だった。家の前の道路にゴザを敷いて上半身裸で日光浴してたから、背中の入れ墨にも気づいてたけど、周囲を威嚇するようなこともなかったしね。最後に顔合わせたのは事件の4日ぐらい前の朝。車で出かけるときに目が合って、いつも通りニッコリ『おはようございます』」と、父親とは対照的だった植松の印象を振り返っている(2016年8月2日、AERA)。母親が野良猫に餌付けして近隣トラブルになり居づらくなった説、息子と折り合いが合わず出ていった説などが囁かれるが、近所の人に転居理由は伝えていなかった。植松の大学卒業や就職を機にして、という見方もできるが、生活が荒んでいった時期、教職の道を諦めた時期と重なることからも何がしかの家庭内不和が推測される。

2013年5月頃、植松の支援技術の未熟さ、終業時間前の退勤といった服務上のだらしなさについて主任や課長より指導が入る。植松に謝罪や改心の姿勢も見られず、その後も利用者の手首に腕時計の絵を描くなどして厳重注意を受け、支援部長や園長からも指導されることもあった。同年12月31日の入浴支援中、同僚職員が植松の背中一面に般若面の入れ墨を確認し、ホーム長に報告。2014年1月、施設を運営する「かながわ共同会」は対応を協議の上、津久井警察署と会の顧問弁護士に相談。弁護士は「入れ墨を理由に解雇することは困難」とし業務中に見えないように指導する、入れ墨の露出があった場合は懲戒の対象とする旨を本人に伝えるよう園に助言を行う。園は弁護士の指導に沿って植松と面談を行い、入れ墨と反社会的勢力とのかかわりの有無等について確認した。植松は入れ墨を露出しないことを了解し、今後も仕事を続けたい旨を伝えている。自身のTwitter上では、入れ墨の自撮りと共に「会社にバレました。笑顔で乗りきろうと思います」との投稿もあった。また同プロフィールページの背景には「マリファナは危険ではない」と書かれた画像が使われていた。

施設勤務から2年ほど経つと、植松の発言に変化が見られたという。「障碍者はかわいそう。食べているごはんもひどくて人間として扱われていない」と旧友に語ったという。2015年6月頃には「突然『意思疎通できない障害者は生きている意味がない』と私に言うようになりました。あんなに仕事に満足していたさとくんがそんなことを言うようになったので仕事で何かあったのかなと思いました」と高校時代の友人を驚かせている。2014年8月から事件当時まで交際していた女性によれば、交際当初は入所者について「あのひとはかわいいんだよ」と好意的に話していたが、2016年の措置入院前には「あいつら生産性がない」と否定的な発言が目立つようになっていた。この時期、アメリカ大統領選挙でトランプ氏(元大統領)が掲げた中南米移民に対するメキシコ国境の壁建設の公約に、これだこれだ、と興奮して共感していたことが記憶にあるという。さらに「ニュー・ジャパン・オーダー」と題して「7つの提言」の草稿のようなものを文面に記すようになる。女性は「過激な発言で民衆を動かす先駆者になりたいのだろう」と感じていたという。2015年6月頃から彫師(植松に施術した人物とは別人)の下へ弟子入りした時期もあったが、「障碍者を皆殺しにすべきだ」といった主張を繰り返したことで口論になり、ドラッグの常習が疑われたことで破門にされた。同時期、八王子駅付近の路上で通行人から「死ね」と言われた等として友人と二人で暴行に及び、傷害容疑で書類送検されている。

2016年2月14日、植松は衆議院議長公邸に赴き、大島理森(ただもり)衆院議長(当時)に宛てて手紙を渡したいと土下座をして訴えたが、休日だったため対応してもらえず、翌15日に再度訪問し座り込みなどを始めたため、協議のうえ止む無く衆議院議長への手紙は受理された(後に植松は、安倍晋三総理大臣(当時)宛で自民党本部にも持参したが断られたとも証言している)。手紙には施設への襲撃を企てた犯行予告と受け取れる記載があったため、警視庁を通じ津久井署、管理法人へ身分確認の問い合わせを行う。その際、津久井署には手紙の写しが電信されている。16日、津久井署が来園し、襲撃予告と受け取れる内容の手紙が渡されたことを伝え、総務部と「本人には問い合わせの件は伝えない」「単独行動をさせない」「夜勤担当からできるだけ外す」「警察巡回の強化」等が協議され、共同会本部にも伝えられた。17日、津久井署が改めて来園し、危険性や警備の強化について説明があり、勤務予定の確認、セキュリティや今後の対応を協議している。

同じ2月17日、植松はLINEを使って「彼らを生かすために莫大な費用がかかっています」等と障碍者尊厳死を訴える内容のメールを友人たちに一斉送信していた。その後、同級生らに直接電話を掛けて犯行計画を打ち明け、「俺だって殺したくないけど、誰かがやらないといけない」「職員を結束バンドで縛るから見張っていてくれ」等といった犯行への勧誘もあった。計画を取りやめるよう説得を試みた同級生は「お前を殺してからやる」などの反論に合い、けんか別れしたという(2016年8月6日、産経新聞)。

2月18日、園が職員から聞き取りを行い、以下のような報告があった。事態を重く見た園と共同会は面談を行うことを決め、津久井署に施設内待機を依頼した。

・ときどき不適切な発言はあったが、気にならない程度だった。18日の勤務中は特にひどく見受けられた。

・2月に入って、特に12日頃からひどくなっている様子が伺える。「税金の無駄」「安楽死させた方がいい」「生きていても意味がない」

・12日、夕食介護中に「障碍をもっている人に優しく接することに意味があるのか」と職員にしきりに訴えた。

・18日午前、メディカルチェックを行う看護師に「本当にこの処置はいるのか。自分たちが手を貸さなければ生きられない状態で本当に幸せなのか」と質問。

・18日午後、看護師に「生きていることが無駄だと思わないか。急変時に延命措置することは不幸だと思わないか」と質問。

 2月19日正午、園長・常務理事・事務局長が植松と面談。園長より過去の発言や手紙について確認された。このとき植松は「自分はフリーメーソンの信者」「世界には8億人の障碍者がいる。その人たちに使っているお金を他に充てるべきだ」等の持論を展開し、それらの発言に対して共同会側から「ナチスドイツの思想と同じだ」と指摘があった。植松は「(園内での)発言は自分が思っている事実であり、約一週間前に手紙を出した。自分の考えは間違っていない。仕事を続けることはできないと自分も思う」と述べ、その場で辞職願を記入・提出し、鍵の返却や荷物の整理を行った。面談中、「重度障碍者の大量殺人は日本国の指示があればいつでも実行する」などの発言を繰り返したため、警察官職務執行法第三条に基づき、津久井署員が植松を保護。精神保健福祉法第23条に基づき、津久井署より相模原市に通報。市保健所職員による調査と指定医による緊急措置診察が実施され、手紙の内容も踏まえ、主たる精神障碍を「躁病」と診断。思考の奔逸、手紙を渡しに行くといった衝動行為、興奮、気分の高揚、被刺激性亢進が見られ、それらの影響により「他害に至るおそれが著しく高いと判断」され、北里大学東病院に措置入院となった。東病院では20日の尿検査で大麻成分が陽性となり、担当医の一人は「大麻使用による精神および行動の障害」「非社会性パーソナリティ障害」、もう一人の指定医は「妄想性障害」「薬物性精神病性障害」と診断した。診断の中で「2週間前にヒトラーの思想が降りてきた」等の発言があった。

経過観察のなかで妄想や興奮が消失し、本人が「あのときはおかしかった。大麻吸引が原因だったのではないか」と内省でき、他害のおそれはなくなったとして、3月2日「措置入院者の症状消退届」を相模原市に提出。退院後は「家族と同居」とされ、八王子市の両親の住所が記載されていた。3月3日、植松はホームに退院の旨を入電。生活2課長と、退職したこととこれまでのお礼、退職手続きの進捗などについて話している。園は津久井署に植松が退院し、千木良に戻ってきている旨を伝えると、署は「特定通報者登録」(電話番号登録から、110番通報を受けると早急に当該案件と分かる仕組み)と防犯カメラの設置を助言。総務部長は特定通報者登録を行っている(夜間の登録固定電話は警備員室、登録携帯電話は警備員が所持)。翌日、津久井署員が家を訪ねたが不在、八王子の両親宅に入電すると「ここにいる」と答えたため面会には行かなかった。3月8日、園は課長級以上の職員15名に「植松元職員に係る対応について」を、それ以外の職員(常勤128名・非常勤80名)に対して「休日夜間の防犯対策に係る対応について」を通知し、注意喚起を行っている。3月10日、警備会社と津久井署の助言を受け、共同会は16台の防犯カメラ設置(施設内6・外10)を決め、建物を所有する神奈川県は4月13日付でそれを承認。4月26日取り付け工事、5月9日、津久井署がモニターと画像範囲を確認。津久井署はモニター台数を増やすよう助言したが、園はモニターの常時監視は想定しておらず「抑止効果」が目的と認識していた。

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3月24日、植松は東病院を外来受診し、不眠、気分の落ち込み等を訴えており、面接ののち抗うつ薬などを処方。同日、ハローワーク相模原で雇用保険受給資格を申請(説明中、変わった様子はなく、のちに90日分の失業給付が支給された)し、後日、担当職員が訪問して面談した際も冷静に対応し、必要十分な回答がなされたとされる。3月31日の外来受診時、就労可否等証明書(週20時間以上の就労は可能とする)を受領(次回5月24日の外来予約をしたが、その後受診なし)。5月30日、植松は退職金受給手続きのためにホームに来園。染髪のほか取り立てて報告なし。また退院後は月に2、3回の頻度で八王子の両親宅を訪れていたとされ、入院前より話しやすい感じだったという。

7月25日未明、相模原市内で知人と会った植松は「暴力団組員がお前を追っている」と知らされる。当初、イルミナティカードの聖なる数字「1001」に準えて10月1日の犯行を企てていたが、この情報を受けたことから心理的不安を感じ、計画を前倒ししたと供述している(2017年2月22日共同通信)。その足で、早朝に新宿に移動し、犯行に使われたガムテープ等を買い揃えた。同日午前、相模原市緑区内のファストフード店で無断駐車されたままの植松の車が通報され、署に呼び出しを受けたが、その際は「特異な言動は認められなかった」。夜、大学時代の後輩と食事。予定では27日に会う約束をしていたが、朝になって植松から前倒しの連絡があった。理由を聞くと「時が来たんだよ」と意味深な返事をしたという。後輩は(植松とは)「サークル仲間で兄妹の関係」と思っており恋愛感情はなかったが、交際相手が別にいた植松は彼女に密かに好意を抱いていた。焼き肉を食べながら、件の「7つの提言」の自説を語り、「俺が無職になってから冷たくなった」「身長を伸ばしたい。顔を小さくしたい」と話し、「彼女がいるけど、大事な日に(後輩)を選んだ」と告白めいた発言もしている。「今日で会うのは最後かもしれない」「昔の自分は嫌いだったけど、今の自分は好き」「今の俺、最強じゃない?オーラ出てない?」と笑った。別れ際、「今日は来てくれてありがとう」と握手を求め、「4,5年経ったら帰ってくる。俺、ちょっと用がある」と言って立ち去った。後輩は普段と様子が違ったので自殺のおそれを抱き、植松と親しい男性に相談の電話もしている。植松は歌舞伎町のホテルに戻ると大麻を吸引しデリバリーヘルスを呼んだ。靴を履いたままだったのでデリ嬢が尋ねると「インソールだから恥ずかしい」と、自身の低身長へのコンプレックスを吐露し、帰り際に「僕のこと、忘れないでくださいね」と告げた。26日深夜1時頃にチェックアウトした植松は中央自動車道から相模原の津久井やまゆり園へと向かった。

 

■公判

逮捕後、2016年9月21日から約半年にわたって精神鑑定を受け、2017年2月24日、死亡した入所者19人の「殺人容疑」、入所者24人に重軽傷を負わせた「殺人未遂容疑」、施設女性職員2人への「逮捕・監禁致傷容疑」、施設男性職員3人への「逮捕監禁容疑」、「建造物侵入」、「銃刀法違反」の6罪状で起訴された。起訴直後から植松は報道各社と接見を開始(1日1件15分と定められている)。自分の判断で危害に及んだことについて「遺族の皆様を悲しみと怒りで傷つけてしまったことを心から深くお詫びします」と植松の謝罪は大々的に報じられた。しかし謝罪は就寝時の襲撃という手段に関してのお詫びだとし、国の負担となっている重度障碍者安楽死させるべしという主張を変えることはなく、接見をしない期間も新聞や雑誌などで批判する論者に向けて自説を唱える書簡を送りつけるなどしていた。2017年9月、公判前整理手続きが行われ、検察・弁護側双方の主張内容や争点が確認され、弁護側から再度の精神鑑定が要請された。2018年1月、横浜地裁は弁護側の要請を認め、再鑑定は2018年8月まで行われ、1度目の鑑定と同じく「パーソナリティ障害」との鑑定結果が出された(3度目の鑑定要請は却下された)。

2020年1月8日、横浜地方裁判所で植松の初公判が開始。約2000人が傍聴席を求めて列をなし、手続きに手間取ったため開廷が20分以上遅れた。本人は起訴内容の事実関係を認めたが、「皆様にお詫び申し上げます」と述べた直後、証言台で自身の右手小指を嚙み千切ろうとするハプニングを起こし退廷を命じられた。1月14日に接見した篠田博之氏の伝えるところによれば、植松は「言葉だけの謝罪では納得できないと思ったから」証言台でそうした行動に出たとされ、自分なりの謝罪のつもりだったという。翌朝、第一関節を噛み千切ったため、10日の第2回公判では両手がミトンにくるまれていた。初公判前日の神奈川新聞の取材で、植松は「無罪を主張するのは弁護士の優しさです」「自分の言いたいことは言わせてもらう。弁護士の主張は全く別」と意見の相違を強調し、どのような判決になろうとも控訴はしない方針を明らかにしていた。

公判でははじめから被告の「刑事責任能力の有無」が最大の争点とされた(刑法第39条)。弁護側は、大麻などの薬物乱用による精神障害の影響下にあったため心神喪失心神耗弱状態にあり刑事責任能力に乏しかったとして、無罪か減刑が相当と主張した。検察側は「被告に病的な妄想はなく、犯行は被告個人の特異な考えに基づいて行われた」として大麻の影響は限定的だったと指摘。事前準備や侵入時に施設職員の配置状況を確認するといった犯行の計画性、意思疎通ができない入所者を選別して殺傷に及ぶなど(心神喪失状態になく)制御された行動を取っていると主張した。

第12回公判では都立松沢病院・大沢達也医師が出廷し、植松を大麻中毒だと認定した一方、犯行への影響について「影響がないか、影響を与えないほど限定的だった」とし、人格について「元来は明るく社交的だが、頑固で自己主張が強い」と分析。背景に障碍者を取り巻く状況への問題意識があった経緯から、植松の持論が「病的に飛躍しているとは言えない」とし、妄想や幻覚によって引き起こされたのではなく「犯行は被告個人の強い考えによって行われた」と述べた。

第13回公判では清話会中山病院院長・工藤行夫医師が出廷し、犯行の約1年前から大麻の使用頻度が増え、過激な主張や自身を「選ばれた存在」、国のために殺害を実行した自分は「救世主だ」と語るなど異常行動が顕著になったと指摘。当時の植松に見られた幻聴や被害妄想、大麻による昂揚感が持論形成や犯行に影響を与えたと述べた。大麻濫用以前の言動と比べると「明らかに不連続で異質な状態。この変化が自然に生じたとは考えられない」と指摘し、大麻精神病状態が(公判中の現在も)持続している可能性を示唆した。第14回公判では美帆さんの母親ら被害者遺族、被害に遭った夜勤職員による意見陳述が行われ、被告に深い反省を求める声などが上がった。

3月16日、判決公判が行われ、青沼潔裁判長は、犯行の計画性、合目的性のある行動、違法性の認識から「犯行時の被告は完全責任能力を有していた」と判断し、求刑通り死刑を言い渡した。犯行動機について、「障碍者を殺害すれば不幸が減り、安楽死によって障碍者に使われていた金を他に回せば世界平和につながり、自分は先駆者になれる」という考えがあったと認定。「抵抗が困難であったろう入所者たちを順次殺傷した犯行様態の悪質性も甚だしい」と非難したうえで、「死刑をもって臨むほかない」と結論した。

閉廷宣言直後に植松は挙手して発言機会を求めたが認められず。閉廷後に接見した『神奈川新聞』記者が言いたかった内容を確認すると、「『世界平和のためにマリファナが必要』と伝えたかった」「重度障害者の家族は病んでいる。『幸せだった』という被害者遺族は不幸に慣れているだけだ」と説明した。

2020年3月27日、弁護人が横浜地裁裁判員裁判判決を不服として控訴したが、植松は30日付で控訴を取り下げ、3月31日死刑が確定。4月1日、取材に対して、死刑を確定させた現在の心境について「安楽死する人の気持ち」「絶対死にたくない、でも死ぬべきだと思っているところが同じ」と話した。両親は控訴取り下げに反対していたとし、「葛藤はあったが裁判をやめることの方が大きな仕事だと思った」「(自ら控訴取り下げるという判断は)自死に近い」とも語った。4月7日、執行設備のある東京拘置所に身柄を移送された。

 

■支援施設のありかた

津久井やまゆり園は、神奈川県が1964年に開設し、2005年から指定管理者として社会福祉法人「かながわ共同会」が運営する大型福祉支援施設であった。事件当時の施設入居者は、長期入居者149人、短期入所者8人。利用者は障碍支援区分4~6に該当する、食事・入浴・排泄などに介護が必要な重度の知的障碍者だった。所在地である千木良地区は、相模湖に注ぐ相模川沿いに位置し、山間部ながら通りには住宅が連なっており、近郊には総合病院や湖畔近くにはレジャー施設なども点在する。事件後、施設全体に被害が及び「改修だけでは適切な支援を継続するのは困難」として、県は現在地での全面建て直しを決定。2018年5月に解体工事が始まり、2020年12月現在も工事中(2021年完了予定)で、入所者らは横浜市港南区芹が谷の仮園舎などへ移って生活している。毎日新聞では事件から約1年後の旧施設内部の様子が公開されている。今日の福祉的観点では地域密着型の中小規模グループホームが推進されているが、こうした立地に大型入居施設を建てたことも、健常者と障碍者を分離させてきた社会政策の名残を感じさせる。

なお、名称の「やまゆり」は県花であり、施設目的の類似性や親和性を持たせるため、共同会が指定管理者として運営する津久井やまゆり園と愛名やまゆり園(厚木市)、県直轄の中井やまゆり園(中井町)の三園舎に使用されており、芹が谷の新園舎にも継承される。

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2016年8月6日、施設を運営するかながわ共同会が事件後、初めての家族説明会を開いた。その際、参加者からは事件を防げなかった点を疑問視する意見などもあったが、多くの家族から園の再生を願う声が相次いだとされ、参加者の中には「利用者の平常を一刻も早く取り戻してほしい。できることは何でも協力する」との発言もあったという。私はこうした利用者の反応に正直驚いてしまった。筆者の中では無意識的に、非難が轟々と上がり、入所者の多くが一斉に他所へ移ったものと想定されていたからだ。それだけこれまで入所者の家族から感謝されていたことを示しているのであろう。たしかに前掲の尾野さん一家やNHKの特設サイト『19のいのち』で語られているエピソード等からも、施設を「第二の我が家」のように慕っていた入所者や家族が寄せる施設への信頼が随所に感じられる。医療や介護といった福祉の現場は、切迫したやむを得ない事情がなければ積極的に利用することは少ない。在宅での支援には限界があったり、他の施設で断られてやまゆり園にたどり着いた利用者もいた。ここがイヤなら移ればいいという簡単なものではない。被害者・犠牲者の記事に目を通す中で、私自身にそうした利用者の家族の視点というものが抜けていたことに改めて気づかされた。

2017年10月、神奈川県は津久井やまゆり園の再生によって新たな障碍福祉のあり方を示すとして、『津久井やまゆり園再生基本構想』を示し、「千木良地域及び芹が谷地域の施設は県立施設とし、運営については、引き続き指定管理とする。なお、指定管理については、利用者の安定的な生活を支援するとともに、意思決定支援における偏りのない選択を担保するため、現在の指定管理期間である平成36年度までの間は、芹が谷地域の施設についても、現指定管理者である社会福祉法人かながわ共同会を指定管理者とする方向で調整する」と決定。2019年6月には、これまでの大規模入居型施設を見直し、津久井やまゆり園と芹が谷の施設を定員各66名に縮小し入所者を分散させることを決定した。

2019年7月、同じかながわ共同会が管理指定を受けて運営する「愛名やまゆり園」利用者の親族から性的暴行を疑う通報が入り、10月に元園長・高橋英行が逮捕される。元園長は、被害に遭った小学6年の女児(12)の親とも面識があり、前年11月から12月にかけて親が不在の自宅を訪れ、複数回にわたって性的暴行を加えたとされる。調べに対して「体を触ったことは間違いないが、性交したことは覚えていない」等と供述している(2019年10月16日、産経新聞)。通報を受け、高橋元園長は7月末時点で退職届を提出していたが、かながわ共同会は8月の理事会でそれを受理せず理事職解任と園長降格に留めた。逮捕後も解雇はせず、11月5日に起訴されたことを受けて同15日に懲戒解雇と決定。同会は令和元年度事業報告の中で、「7月に愛名やまゆり園元園長の個人的な不祥事が発覚し、その後、逮捕、起訴されたことにより、園及び法人の信用は大きく失墜した。このため、急遽、中期計画にコンプライアンスの徹底に係る各種施策を追加し、信頼回復に向けて取り組んだ。」と記載している。

2019年8月には同じ愛名やまゆり園で障害者虐待防止法に抵触する事案が通報され、市が調査したところ、「お風呂で利用者に対し水をかける」「食事制限がある利用者に対し、御飯を大量に食べさせる」「御飯をお盆にまき散らし食べさせる。箸1本で食べさせる」「夜中に長時間、1~3時間に渡りトイレに座らせる」といった事案が確認された。「元園長の不祥事に続いての今回の不祥事は、弁解の余地はございません」と謝罪文を公表し、厚木市の調査によれば「虐待内容の大半は、虐待疑いの通報と同一の職員によるもの」としている。

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2019年12月、神奈川県・黒岩祐治知事は「社会福祉法人として、人権を尊重し、全ての人の尊厳を守る立場にある、かながわ共同会の道義的責任は看過できない」と判断、これまでの方針を見直し、「津久井やまゆり園」「芹が谷やまゆり園」について共同会と指定管理期間を短縮する協議を行い、新たに指定管理者を公募すると発表した。

2020年1月、県は「指定管理者としての利用者支援の状況や、法人としてのガバナンス体制、施設設置者としての県の関与等について、専門的見地から検証する」ことを目的として、第三者委員会による「津久井やまゆり園利用者支援検証委員会」を設置。2020年3月に行われた定例記者会見で黒岩知事は、事件直後の検証委員会について、早期再開に向けた防犯警備や再発防止に主眼を置いてしまい、植松の犯行動機の一因となった「当時の園の実態」にまで踏み込めていなかったことに反省の色を滲ませ、以下のように発言した。

本来、検証というのは、あの当時、彼が言っていた、植松被告人が言っていた、最後まで変えなかったのですけれど、「コミュニケーションがとれない人間は生きている意味がない。」というその言葉。それを自分が見ていた。そういう支援をやっているではないか。彼は言っても意味がないじゃないかと思った、そこの部分です。犯罪に至った、起こした、彼のその部分、心の部分の検証までは実はあの時やっていなかった、支援の在り方そのものを検証していなかった。
 そのうち裁判が始まりましたから。裁判が始まると、やはり、その当時のことにあまり触れられなくなってきますから。そこはある種、われわれは置きざりにして前にきたのかなといったことだったのです。

5月、コロナ禍の影響により現地でのヒアリング調査はできなかったものの、津久井やまゆり園利用者支援検証委員会による中間報告が提出され、一部利用者に「虐待の疑いが極めて強い行為が長期間行われていた」との指摘がなされる。これを受けて共同会の草光純二理事長は、身体拘束の要件を厳守しなかったことは認め「再発防止に取り組む」とする一方で、居室の24時間施錠については「食事、トイレ、入浴時には開錠しており、事実ではない」と反論。「利用者や家族に信頼される支援を目指す」とのコメントを発表した。

6月、神奈川県は、直轄する中井町・中井やまゆり園で、再任用の60代男性職員が男性入所者に対して「適切な手続きを経ずに身体拘束を行う」「拘束中、下あごのあたりを一回叩く」「膝で大腿部あたりを数回蹴るような行動」が身体的虐待と認定されたことを発表した(県立中井やまゆり園職員による入所者への虐待について - 神奈川県ホームページ)。

9月、虐待疑いがあるとの匿名通報を受け、神奈川県は愛名やまゆり園に抜き打ちで立入調査を実施。ミトンをはめられた入所者がドアノブにテープを貼られた居室に閉じ込められていた疑いという内容で報道もされた。これについて上述した2019年の愛名やまゆり園虐待事案で検証委員を担当した特定非営利活動法人サポートひろがり代表・山田由美子氏は10月21日に他の元検証委員と現地に赴いて事実確認し、自身のnote上で、新聞記事にあった内容は誤りだと指摘している。ミトンは医師の指示により自傷防止の目的ではめられていたが入所者にドアの開閉能力はあったとし、居室から出入りすることは可能だったとされる。

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またこの通報と県の立入調査を受けて、共同会は社内向けに9月7日付で文書を発信し、情報提供者は園の職員と推察されるとしたうえで、「もし、職員が事実とは異なる情報を外部に通報し、許可なく園内の写真を提供したのであれば、極めて遺憾であり、懲戒処分の対象にもなりうる」との考えを示した。10月8日、リークされたとみられる文書を基に各社がこの文書について報道し、共同会が職員の内部通報を萎縮させる狙いがあったのではないかとの見方で論じられた。山田氏は、「虐待通報の職員」が処分された訳でも、職員による「虐待通報」全般を諫めたり禁じたりする内容でもなく「事実とは異なる情報を外部に通報」したことを問題視しているのだとして、ミスリードを誘う報道の見出しや伝聞に基づく記事について疑義を呈している。たしかに見出しだけ見て「共同会が職員の通報を抑止させようと文書を発した」かのような印象をもつ可能性はあり、報道側はそうした見立てで世論の誘導を狙ったふしはあるが、私には共同会側の文書にも職員に「外部通報は懲戒処分」とミスリードさせたり萎縮させたりする狙いはあったように感じられる。黒岩県知事は10月8日の定例会見で文書に関する記者の質問に答え、「共同会は一部のメディアへ園の内部情報を提供したことを問題視したものであって、法人としても虐待通報を妨げるという主旨ではなかったが、文面に通報という言葉を用いるなど、誤解を与えてしまったことは反省していると、こういう言い方で、この文書を速やかに職員向けのサイトから削除したとあります」と報告し、共同会のガバナンスに問題があるとの見方を示した。

 

津久井やまゆり園の事件前の対応を振り返ってみると、共同会は植松が措置入院から退院した後、県に防犯カメラの設置許可を申し出ている。申請には「利用者の安全を確保し、不審者の侵入、備品の盗難などを防ぐ必要があるため」と記載されており、植松に関する津久井署とのやりとりについて県に報告されていなかった。「不審者の侵入」という記述で必要十分と考えたのか、犯行予告に警戒する事態を県に悟られたくない意図があったため報告や詳述を怠ったのかは分からない。県側は、2014年に共同会の他施設で盗難事件があり防犯カメラを設置していた経緯から、他施設でも同様に防犯体制を整備するものと判断したとしている。この県の推察は結果的には誤りだったが、業務として誤った判断といえるものではない。皮肉にも設置した防犯カメラは施設に侵入する植松の姿を捉えてはいた。何が足りなかったかといえば、県への詳細な報告をしておらず、カメラ設置を「抑止目的」と捉えてモニタリングを軽視した共同会側の危機管理意識にあることは間違いないが、県と指定管理者との信頼構築の不備もこの“水際での失敗”の背景にあったと言えよう。たとえ話にはなってしまうが、共同会が直ちに植松の犯行予告を県に報告し、県がその脅威を認め、夜間警備を増やしカメラモニターをチェックする人員配置を組むといった対策が講じられていれば、被害を最小限に食い止められていたかもしれない。そしてここまで見てきたように、神奈川県とかながわ共同会との関係は事件後も良好とは言いがたいように私には見える。 

www.nhk.or.jp

植松が衆議院議長に宛てた手紙には「障害者は人間としてではなく、動物として生活を過ごしております」「施設で働いている職員の生気の欠けた瞳」と書かれ、さも津久井やまゆり園で非人間的な扱いをする支援実態や劣悪な労働環境が存在していたかのようにも読める。自分の主張の正当性を認めてほしいがゆえに誇張して表現したのかもしれないし、植松の目には事実そのように映っていたのかもしれない。

しかしここで自治体が悪い、法人が悪い、といった視野狭窄を起こしてしまってはならず、管理者・運営者・監督者が利用者の幸福のため、現場で働く支援者のためにどう手を携えてモデリングしていけるか、バックアップし続けていけるかが問われている。厚生労働省が発表した平成30年度『都道府県・市町村における障害者虐待事例への対応状況等(調査結果)』によれば、福祉施設従事者等による虐待の相談・通報は2605件、虐待判断件数592件、被虐待者数777人、虐待者数634人とされ、虐待による死亡も2人確認されている。さらに作業所などで働く重度ではない障碍者に対する使用者による虐待に目を向ければ、平成30年度で541事業所、900人が虐待と認められ、その種別としては身体的虐待こそ多くはない(42人、4.4%)ものの、経済的虐待(賃金未払や最低賃金未満での労働など)が791人(83%)に上る。こうした数字を見るに職員個人の特性だけに虐待の責任を求めるには無理があり、虐待が疑わしい人員さえ転換することがままならない、技能実習や研修にさけるコストがなく係わり方が改善されない、時間や制約の厳しい就業管理が職員に過剰なストレスを与えた反動、など福祉業界をめぐる実態の集積として虐待が生まれやすい環境から抜け出せていない現状が見受けられる。

憶測になってしまうが、植松が津久井やまゆり園に勤め始めた当初、周囲に語った「障碍者の人たちはキラキラした目で接してくれる」「あのひとはかわいいんだよ」といった言葉におそらく偽りはなかった、そう感じていた瞬間はあった、と私は考えている。未熟なりに支援の仕事に喜びややりがいを感じていたからこそ、何かのきっかけでその信頼関係が裏切られたときより大きな反動となって“憎悪”に変わった。植松が標的としたのは直接的には入所者、重度の障碍者であり、その行為は議論の余地なく重罪である。だが凶行の最中に夜勤職員に「この後、厚木に行く」と語っていたことからも、その矛先は元来、かながわ共同会に向けられていたものではないかと私は思う。

 

■報道のありかたと匿名性

2020年1月7日、横浜地裁における事件の初公判前日、事件で亡くなった女性(19)の母親が、娘の名前「美帆」と明かし、手書きの手記と写真4枚を弁護士を通じて公開した(下のハフィントンポスト記事に写真と手記全文)。

「裁判の時に『甲さん』『乙さん』と呼ばれるのは嫌だったからです。話を聞いた時にとても違和感を感じました。ちゃんと美帆という名前があるのに。どこにだしても恥ずかしくない自慢の娘でした。うちの娘は甲でも乙でもなく美帆です」

裁判では、遺族らの申し立てを受けて被害者個人が特定されないよう匿名措置がなされ、亡くなった入所者を「甲」、生き延びた被害入所者を「乙」、負傷した施設職員を「丙」と分類し、アルファベットと組み合わせて甲A、甲B…と呼ばれた(刑事訴訟法第二百九十条第二項)。美帆さんの母親の申し立ては第3回公判で認められた。また第9回公判において、植松は「匿名裁判は、重度障害の問題を浮き彫りにしている」「施設に預けるということは、家族の負担になっていると思う」といった主張を行っているが、これらは的外れの意見である。匿名を望んだ遺族は報道による人権侵害や二次被害を懸念したためであり、入居型施設で生活しようが植松のように独居していようが親にとって子どもは何がしかの負担を伴う。権威者であれニートであれ別なく生まれながらにして親や家族に大なり小なり負担をかけている存在なのである。

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事件発生後、7月26日夜に神奈川県警が19人の犠牲者に関する情報を記者クラブに発表したが、「A子さん19歳」「S男さん43歳」といったアルファベットと年齢の表記だけだった。過去に匿名が求められる事案の際、実名を示したうえで「強い匿名希望あり」と付記し、実名で報道をするか否かの判断は報道機関に任されていた。県警によれば「知的障害者支援施設であり、遺族のプライバシー保護の必要性が極めて高い。遺族から報道対応する際、特段の配慮をしてほしいとの強い要望があった」ためだという。このとき十分な説明なく、多分に「障碍者」であることを理由として、警察が行った例外的な匿名措置は“逆差別”というきらいもある。国が、犠牲者が知的障碍者であったことについて、緊急に特例を要する事情だと判断したということだ。報道各社は、公的機関(この場合、警察)が得た情報は、市民の共有財産であり、公開されることが原則であるとして説明を求めた。下の記事では、尾野剛志さんがこの匿名化のいきさつを語っている。

ironna.jp

報道は、市民の「知る権利」に奉仕する役割を担っている。権力の濫用を監視し、市民が必要な情報を報じることが期待されており、いわば国民の代議的な責務を負うことが、報道の自由を認められる前提になっているともいえる。冤罪事件や公害問題、さまざまな消費者事件などを取り挙げ世論形成を生み、国家権力や大企業の横暴を阻止してきた功績もある一方で、記者クラブ制度による均質化した報道と独自取材力の低下、営利目的に流されがちな煽情的な番組制作や人権侵害とも映る過剰なメディアスクラムなども指摘されている。

被害者や犠牲者遺族からすれば、事件前から何十年と障碍者差別を経験して、凄惨な事件に巻き込まれたうえ、報道されれば更なる差別の増加や「行き場を失う」恐怖がこみ上げる心情は十分理解できる。二重三重の被害が想定されたのである。報道側の姿勢が被害者側にとって好ましく思われていない(通常の匿名措置では不十分とされた)ことは事実であり、つまりは報道と市民との信頼関係が未成熟であることの裏返しだと捉えることもできる。秘密や約束が守られ、不必要な取材によって人権侵害には及ばないものと信じられていればこそ協力関係が成り立つのであり、そうした合意形成に向けて何が問われているのか、どのような取材・報道を心掛けるべきなのか、は報道に課せられた命題である。障碍をもつ子どもの親でもある衆議院議員野田聖子氏はロイターの取材に対し、「障害者の家族には2通りあって、1つは積極的に障碍児であることをアピールして、世の中を変えていこうというポジティブな人もいるが、『声なき多数』は社会に対して非常にネガティブで、家族に障碍児がいることを知られたくない、騒がないでほしいと思っている」と述べた(2016年9月23日、ロイター)。報道には、そうした“声なき多数”を守り、寄り添い、ときに彼らの代弁者になるといった社会的役割を全うしてほしいと切に願う。

  

 ■その心的性質と優生思想について

2016年の事件当時、街頭やSNSで表面化していたヘイトクライム、差別犯罪として大きな注目を集めた。またインターネット掲示板などでは植松の自論に同調を示すカキコミが少なくなかったことも象徴的である。最後に植松の犯行に至る内面・心性について考えてみたい。

事件そのものを見ると、直接的な怨恨のない特定集団に対する襲撃という点では、2001年に起きた大阪教育大学付属池田小の無差別殺傷事件(宅間守)が思い起こされる。宅間の場合は、自らの不遇を呪い、「エリートでインテリの子をたくさん殺せば確実に死刑になると思った」という主張に見られるように、社会憎悪を示すために(自身とは対極にある)恵まれた境遇に育つ未来ある小学生を巻き添えにした凶行は、「死刑」という手段を得るための壮大な「自殺」と見ることができる。こうした大量殺人犯の場合、「最終的に自らも死ぬこと」を覚悟した上で犯行に及ぶため、不遜で自暴自棄、文字通り怖いものなしの胸中で被害を拡大させやすい。植松の場合は、社会全体に向けての憎悪はさほど感じられず、犯行前こそ手紙で政治家に刑罰の減免を請うたように、殺人が法に触れることは理解しているものの死刑になる意志があっての「自殺」的願望からの凶行とは言えないように思う(逮捕後の面会などでは死刑になる覚悟はあったとしている)。だが死刑判決後の控訴取り下げについて「自死に近い」と述べる等、逮捕後に弁護士や面会者から量刑判断についての知識を得たのか、死刑を受け入れる姿勢を見せている。

また、自分の主張が正しく世の中の方が間違っているとして、犯行を自己正当化しようとする「歪んだ正義」が増長し、衆議院議長に宛てた手紙からも擬似的な「パトリオシズム」に陶酔しているさまが窺える。自分の存在価値を、自らの掲げる「革命」に捧げるために、権力者の許諾を求めていた。失業して生活保護を受けながら狂乱した「負け犬」の大量殺人者ではなく、理想国家のために命を捧げる「憂国の士」に上書きしようと考えたのである。国民の多くには理解してもらえないだろうが、尊敬する政治家は分かってくれる、後世の人々は自分を認めて讃えてくれるに違いない。植松は自分の置かれた現実の境遇から目を背けるかのように、自らを「救世主」とするロールプレイに耽っていった。その空想は獄中で自身の手によってマンガ化されている。しかし植松の歪んだ愛国心は、津久井やまゆり園を辞めることになった面談後の「措置入院」によって期待を裏切られることとなる。精神科医斎藤環氏は「精神科に入院というのは、行為を束縛されるという以上に、スティグマ性を帯びさせる。つまり『お前は頭がおかしい』という烙印を押されたとその意味で二重に屈辱なんです」と指摘しており(衝撃の相模原障害者殺傷事件について話を聞けば聞くほど深刻だと思う3つの問題点(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース)、第8回公判で植松自身は独断での実行まで決意していたわけではないが「安楽死は、措置入院の前から考えていました。家族の同意がなくても安楽死をすべきだと考えるようになったのは措置入院の最中です」「国の許可はいただけませんでしたが、正しいことなのでやるべきだと思いました」と証言している。

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2007年、アメリカのバージニア工科大学銃乱射事件で33人を射殺したチョ・スンヒ(当時23歳)は犯行後に自殺したが、彼が遺したメモにもやはり自らを英雄視する記述が散見される。「後世の弱く無力な者たちを鼓舞するため、俺はキリストのように死ぬ」「モーセのように道を開き、人々を導く」、手紙とその体にはイシュマエルIsmailと書いてあった(*)。彼もまた自らの不遇や行いを、聖書の登場人物に準えることで自己正当化しようとした。

(*イシュマエルは、創世記にある「信仰の父」アブラハムエジプト人奴隷ハガルの間にできた子。神の使いにより「主は聞き入れる」を意味するイシュマエルの名を授かり、「彼は野生のロバのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」との預言を受けた。やがてアブラハムの正妻・サラも子・イサクを授かり、確執が生じたためハガルとイシュマエルは放逐される。荒野を彷徨い飲み水も尽きたハガルとイシュマエルは死を覚悟したが、神の使いが現れて命を助ける。イシュマエルはハカンの荒野に暮らし、子をなして国を築いた。ユダヤ教では邪な存在としてみなされており、新約聖書にイシュマエルの記述はほとんどなく西洋文化圏では「放浪」の象徴として扱われる。一方、イスラム圏ではイシュマエルは神の庇護を受けた者、アラブ人の祖として重要視されている。創世記21章

大麻や違法ドラッグの使用について、筆者は犯行動機に直接つながるとは考えていない。幻覚作用や酩酊状態が暴力性につながるとは考えづらいからだ。むしろ薬効の影響が大きかったと考えられるのは、昂揚感によって得られた自己肯定感が上記のような自己「英雄視」に、感覚器官の変質によって政治家が自分を認めてくれるといった誇大妄想につながったと考えられる。植松本人は「国が障碍者に資金を投入するのは無駄」だと考えるようになり、「社会の役に立ちたい」ためにそうした主張を唱え、犯行に至ったとしているが実際にはそれほど合理的な思考を辿ってはいないのではないか。あくまで推論になってしまうが、「障碍者はいらない」という植松の持論の核は、あるいは大麻によってもたらされた「悟りの境地」のような錯覚によって確信づけられていったにしても、津久井やまゆり園で直面した「実態」に素直に追従できず、「このままではいけない」という危機感や「自分が津久井やまゆり園でやっていること・やってきたことを否定したくない」という自己防衛が一緒くたになって導き出された考えではないかと私は考えている。

本稿の冒頭で、植松の犯行について政治に係るイデオロギー的な変化を求める強硬手段として「テロリズム」という語を用いた。事件前の2014年頃はイスラム過激派組織IS(Islamic State。ISIL、ISISとも。日本国内では「イスラム国」と表記された時期もあったが、国家として認められておらず、誤解を与える表現としてISの略称が用いられるようになった)の動向が活発化しており、日本人拘束者が出るなどして盛んに報道された時期でもある。直接的にISの主張に同調せずとも、政治・宗教的イデオロギーに殉じて交戦するさまやかりそめにも「国家」体制を樹立といった報道によって、テロリズムという表現手段は植松にも少なからぬ影響があったと考えられる。手前勝手に「国のため」という使命感さえ抱き、政治家たちが言外しない“内なる意志”であるかのような妄執を肥大化させ、その意志を汲んで実行する手先として彼らから認められたいという倒錯した承認欲求が見え隠れしている。作家・雨宮処凛氏は、「強者に認められたい」という感情のあまり「先回りして実行した」植松の行動を流行語に準えて“忖度殺人”と名付けている。

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その優生思想について。2001年から2005年まで津久井やまゆり園の元職員でもあった専修大学講師(社会思想史)の西角純志氏も植松との面会を続けた人物で事件についてさまざまな発言を行ってきた。氏によれば、植松はヘイトクライムやT4作戦(*)について知らなかったとされ、収監後に面会者らによってもたらされた後付けの知識で持論を補強していったとされる。また篠田氏のレポートによれば、処置入院中に「ヒトラーの思想が降りてきた」と語ったことも、自ら著作物などからヒトラーや優生思想に関する知識を得ていた訳ではなく、津久井やまゆり園での面談時に職員から「ナチスの思想と同じ」と指摘されたことに由来して生じた発言だった(収監後、『アンネの日記』を読んだ植松は、「ヒトラーとは考えが違う」とし、T4の障碍者殺害には肯定を示しつつ、「自分のことを障害者差別と言われるのですが、差別とは違うと思う」と主張している)。そうした意味で植松はだれかの受け売りではなく、自然発生的に獲得した、いわば“野生の優生思想”の持ち主ともいえる。私たちは、そうした歴史や本事件を通じて優生思想の仕組みを理解し、人類にとっての普遍的問題として後世に伝えていかなければならない。優生思想には、優れた才能や生活を追求する積極的優生主義と劣った能力や生命を排除する消極的優生主義とがある。植松は後者に準ずる考えに至ったが、19世紀末の優生主義者たちが進化論といった「自然科学」や当代の価値観に依拠した思想であったにすぎないように、植松自身も生産性や経済合理性という極めて限定的な側面でしか障碍者に対する価値判断をしていない。そこには自身の劣等感が裏写しになり、自分よりも「より劣った存在」を見出したかったかのように見える。東京大学先端科学技術研究センターでバリアフリー研究を行う福島智教授は「でも本当は、障害のない人たちも、こうした社会を生きづらく不安に感じているのではないでしょうか。なぜなら、障害の有無にかかわらず、労働能力が低いと評価された瞬間、仕事を失うなどのかたちで、私たちは社会から切り捨てられてしまうからです。では、私たちは何を大切にすればいいのでしょうか。人間の能力の差をどう考えればよいのでしょうか。そもそも、人間が生きる意味とは何でしょうか。」と議論を呼びかけ、誰もが排除されない・孤立しない社会の営みの重要性を説いている。そして「より劣った存在」を見出したいと考えるのは、植松一人ではないということを忘れてはならない。改めて言うまでもないことだが、私たちはルッキズムや男尊女卑、人種・宗教、年齢や生き方など、どれほど気をつけていても、自身の価値観を構成するうえであらゆる面で何かしらの偏見をもって生きていることは否定できない。言い換えればこの世に一人として同じ人間などいないのである。それゆえ優れたものを追求する/劣ったものを排除する、といった思考様式を突き詰めれば、一者しか残らないのだ。世界人口77億人全員が裕福な暮らしを実現することはできないし、世界に日本人しかいなくなったとて戦争はなくならない。私たちは他者との差異にどう向き合い、どんな態度を選択するのか、どうやってお互い殺し合わずに生き延びるかの調整を絶えず行っているといっても過言ではない。共生の理想論を振りかざすつもりはないが、壁の向こうに「他者」を追いやったり、自分自身の「殻」に籠ったり、「暴力」で従わせるといった極論は破棄して、いつ何時も現実と折り合いをつけて生きていく術を学んでいかなくてはいけない。

“過去に目をつむる者は結局のところ現在においても盲目になります”

1985、Richard Karl Freiherr von Weizsäcker

 

(*T4作戦は、1939年から41年にかけてナチス・ドイツ下で実施された障碍者安楽死政策。公式資料に残されている犠牲者だけで7万人、非公式には20万人が犠牲になったとされ、ガス室や焼却施設、人員などは後にホロコーストユダヤ人虐殺に転用されている。種の進化論と社会動学を融合させた社会進化論に基づき19世紀末には人為的に劣等遺伝子を斥け民族の退化を防ぐべきとする優生学の考えが進歩主義思想として受け入れられていった。1910年代には社会的損失の観点から精神疾患や遺伝病者への断種、治療不能者の安楽死などが議論された。「統合失調症」の名付け親で「精神遺伝学の父」とされる精神科医優生学者のエルンスト・リューディンは1930年代にナチスの人種主義と優生思想を結び付け、人種衛生・民族浄化racial hygieneの概念を発展させた。1907年、アメリカ・インディアナ州での断種法を皮切りに世界各地で優生政策が執られ、日本では1915年からハンセン氏病患者に対する優生手術が行われるようになり、1940年には国民優生法により遺伝病者への断種が認められた。1948年に制定された優生保護法では性犯罪被害や経済的事情のほか、遺伝病以外に精神疾患も対象として中絶・避妊手術が合法化された。1996年の法改正まで「不良な子孫の出生防止にかかわる条項」は存続され、強制手術は1万6000件、同意に基づく優生手術は80万件以上あったとされる。)

 

 

 

参考:

谷口 茂『優生思想とその批判 ー問題の普遍性ー』

http://file:///C:/Users/PCUser/Downloads/anncsp_50_161.pdf