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気になる事件と考えごと

赤いフェアレディZの女—富山・長野連続女性誘拐殺人事件

若い女性二人を標的とした身代金誘拐。その事件の行方はマスコミを通じて全国的なセンセーションとなった。

 

富山-岐阜

1980年(昭和55年)2月23日、富山県婦負(ねい)郡八尾町の県立高校3年長岡陽子さん(18歳)は卒業を控え、友人とともに進学予定だった金沢市にある調理師専門学校へ寮の下見に訪れた。しかしその帰り、19時過ぎに富山駅で友人と別れて以降、行方が分からなくなった。

翌24日朝、心配する母親のもとに陽子さんから電話が入り、「富山駅で女性にアルバイトに誘われた。昨夜は遅くなってしまったので事務所に泊めてもらった」と話した。母娘は以前からの予定のため9時前に富山赤十字病院で落ち合う約束を交わしたが、陽子さんは姿を見せず、その晩も帰宅してこなかった。

 

25日正午ごろに陽子さんは母親の勤め先に電話を入れ、「まだ女性の会社にいる。女性は『家まで送る』と言いながら忙しくしていて約束の時間に間に合わなかった。社長は酒を飲んでしまい昨日も送ってもらえなかった」と伝えた。

泣きながら早く帰宅するよう懇願すると電話口の陽子さんも泣き始め、「今日は一緒に家に行って話をしてくれる。必ず帰る」と話したが、そこで通話は途切れ、結局その日も家に戻らなかった。

母親は娘から「北陸企画」という社名を聞かされており、26日朝に夫婦で富山市内にある同ギフト会社を訪問する。

赤いスポーツカーで事務所に現れた男に事情を聞くも「関係ない」「何も知らない」と追い返される。家族は東町交番に「娘が誘拐されているかもしれない」と相談し、巡査は「北陸企画」の経営者男女を呼び出して双方の事情を聞いたが、そういう女性について何も知らないと言い張って埒が明かない。結局、誘拐の確たる証拠もなく、陽子さんの両親は地元八尾署に家出人捜索願を届け出た。

しかし27日10時ごろになって女性の声で自宅に電話が入り「娘のことで相談がある。11時半に『越州』というレストランに来るように」と言われ、伝え聞いた父親は誘拐を確信して警察に通報した。

警察が待機する中、父親は指示通り店に足を運んで相手の出方を待ったが、結局その日、電話や接触は何もなく音信はぱったりと途絶えてしまった。

 

3月6日、岐阜県古川町(現在の飛騨市)・数河高原付近の雑木林でアマゴ釣りに来ていた町民が若い女性の絞殺体を発見する。

岐阜県内に家出人該当者がなかったことから富山県警にも照会をかけ、8日、父親が確認して遺体は陽子さんと特定された。遺体は除雪壁の外側、旧道と戸市川の斜面にもたれかかるようにして倒れており、首には布紐で絞められた痕跡があった。発見当初は岐阜県側での目撃情報や交友関係の洗い出しが行われた。

 

長野‐群馬

ときを同じくして3月5日の夜、長野市長野信用金庫石堂支店に勤める寺沢由美子さん(20歳)が帰宅途中に消息を絶つ。

17時半頃に同僚と退勤後、信金最寄りの喫茶店山と渓谷」に立ち寄り、18時頃に別れて店を出た。その後、18時35分に「千石前」発のバスに乗車した知人がバス停前で由美子さんを見かけたのが最後の目撃となった。

翌6日、由美子さんの父親の勤務先に女から電話が入り、そのときは席を外していたため応対できなかったが、その晩、自宅に女から電話が入る。

「娘を預かっている。明朝10時、姉に現金3000万円を持たせて長野駅の待合所に来るように。警察に通報すれば二度と連絡は取れないものと思え」

寺沢家は決して資産家というわけではなく、急に言われてそれほどの大金をかき集められようはずがなかった。父親から通報を受けた県警は営利誘拐と断定し、犯人を刺激することのないように記者クラブに通告して報道協定が結ばれた。

結局、自宅にあるだけの現金10万円を姉に持たせて所定の待合所に向かわせると、10時半過ぎに構内放送で駅案内所の電話に呼び出しがかかった。姉が10万円しか用意できなかったことを告げると電話口の女は「お金と妹とどっちが大事なの」と言って電話は切れた。

その後、自宅に電話が入り、群馬県高崎駅へと呼び出された。高崎に移動した姉は喫茶店の電話を介して転々と移動を命じられた。しかし電話口の女は警察の追跡を疑い、「翌日にも同じ喫茶店に来るように」と命じながらも、そのまま連絡は途絶えることとなる。

高崎駅周辺で115名の捜査員が出動しており、指示のあった喫茶店などには数人の刑事が変装して入店、店の周囲には刑事以外の警官も張り込み要員に駆り出されていた。

 

由美子さん事件の公開捜査は3月27日。行方不明からおよそ1か月後の4月2日、長野県小県(ちいさがた)郡青木村・修那羅峠付近の林道脇崖下から遺体が発見された。

 

逮捕

富山県警は陽子さん事件について、彼女が連れてこられた可能性が高い「北陸企画」を依然として注視しており、3月8日から共同経営者の宮崎知子(当時34歳)、北野宏(当時28歳)への任意聴取を行う。しかし両者は被害者たちとの面識を否認し、言い分の食いちがいから疑惑を排除できずにいたが、すぐに事件解明とはならなかった。

だが複数の現場で赤いスポーツカーに乗る女の目撃情報が得られ、北野が前年に購入していた日産「フェアレディZ」での犯行が強く疑われた。とりわけ赤色は富山県内でも3台しか車両登録のない希少モデルだった。乗っていた女の容貌やティアドロップ型の眼鏡を掛けていた特徴は宮崎と一致していた。

1976 Datsun 280Z, front 6.16.19Kevauto, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons 

 

フェアレディZを乗り回す北野と宮崎の姿は長野市内でも再三目撃されており、2人は身代金受け渡し場所に指定された高崎市内の喫茶店にも3月7日に出没していたことが判明する。2人が事件前に偽名で訪れていた旅館宿からは浴衣の帯が紛失しており、凶器での使用も考えられた。

報道協定は長期に及んでいたが、3月27日に『週刊新潮』が両事件の関連性と重要参考人とされる男女の詳細を伝えるすっぱ抜き報道を行う。やむなく長野県警は協定を解除して公開捜査に切り替えた。犯人逮捕や誘拐被害者の安否が確定していない段階での報道協定解除は本事件が初であった。

さらに富山・長野両県警は身代金電話の逆探知はうまくいかなかったものの、女の声の録音に成功しており、3月28日、科警研での声紋鑑定により「宮崎の声、訛り、アクセントの特徴が身代金要求電話のものと酷似しており、ほぼ同一人物」との結論が導かれた。

「北陸企画」の前で宮崎が陽子さんと一緒にいるのを見たとの情報も入り、玄関ガラスからは陽子さんの指紋が検出され、フェアレディZから頭髪が発見される。もはや富山事件への宮崎の関与は確実だった。

一方で北野は一貫して両事件への関与を否認し、被害者との接点やアリバイが解明できていなかったため、富山県警は逮捕状の請求に踏み切れずにいた。

しかし声紋鑑定の結果と、由美子さん失踪の前後に北野・宮崎が行動を共にしていたとの状況証拠から、時系列より先んじて長野事件での身代金誘拐(営利目的拐取)の容疑で逮捕状が請求された。3月30日、宮崎が陽子さん殺害と北野との共謀を自供する。

警察庁は富山・長野の両事件を広域重要事件111号に指定。富山-岐阜合同捜査本部と長野県警にも捜査本部が立てられていたが、各県警の競争心や意見の食いちがい等で捜査方針が立てづらかったとの指摘もある。

4月1日、宮崎は由美子さんの殺害についても認める供述を始め、供述に基づいて2日に青木村の峠道に遺棄されていた由美子さんの遺体が回収された。

営利目的拐取および殺人・死体遺棄事件の共謀共同正犯として、長野地検は4月20日に、富山地検は5月13日に北野、宮崎をそれぞれ起訴。両地検は最高検察庁とも協議の上、関東からの証人出廷の便宜から長野地裁での併合審理を求めたが、両地裁は双方譲らず自局での一括審理を求めた。長野と富山では高等裁判所の管轄も異なることから、最終的に最高裁の判断を仰ぎ、両被告人の在住地で最初の事件の発生地であることから富山地裁での併合審理を決定した。

 

女と男

宮崎知子は1946年(昭和21年)、富山県新川郡月岡村(現在の富山市上千俵)の自転車屋の家に生まれた。母親は夫を亡くし男児1人と女児1人を育てていたが、金物修理夫の既婚男性(当時47歳)と同棲するようになり、34歳のとき知子を授かった。両親は入籍せず内縁関係だったため、知子は戸籍上は母親の婚外子となった。13歳になって庶子の認知を受けたため、父親とその正妻の間に生まれた長男も知子の腹違いの兄ということになる。

両親とも近所づきあいはなく店の客足も芳しくなかったため、一家は生活保護で暮らしていた。知子は父親に懐いていたが、母親は亡夫の子らを可愛がったとされる。学業の成績は優秀だったが、てんかんの発作を起こすようになり不眠症睡眠薬を常用しており健康面に不安を抱えていた。性格は内向的で友だちもほとんどなく、「父は金沢ではその名を知らない者はいない大地主」などと自慢する虚言があったとされている。

1961年、富山女子高等学校へ進学し、周囲が勧める家政科ではなく普通科を選択。水泳部で体力をつけた甲斐もあってかてんかん発作も落ち着き、親元を離れたい一心で進学コースに進級。東京経済大学に合格していたが、学費捻出ができないとして進学は断念を余儀なくされた。

卒業後、富山の保険会社で事務職に就いたが半年ほどで辞め、埼玉在住の異父きょうだいを頼って上京。事務職などを転々とした後、化粧品会社の美容部員となった。

かつては内向的で目立たない少女だったが、この頃にはミニスカートを履きこなし、すっかり垢抜けていた。1965年ごろに自動車セールスの男性と知り合って同棲を始め、男の仕事の都合で転居を繰り返すうちに妊娠が分かり、69年8月に23歳で結婚。

ティアドロップ型の眼鏡が流行っていた

同年長男を出産後、夫婦は知子の実家で同居生活を送ったが、夫が教材セールスマンとして働き始めると転勤・転居の機会が多くなった。埼玉県上尾市で暮らしはじめた直後、知子は再び体調を悪化させ、卵巣嚢腫のため子宮を摘出。術後の感染症で再手術となり、数か月の入退院を要した。長男は実家に預けていたが、その間、夫が同僚女性と不倫していたことが発覚。さらに会社の金の使い込みで逮捕され(のち不起訴処分)、74年に協議離婚に至り、息子を引き取った。元夫のDV、女癖の悪さも聞かれ、知子本人は復縁を望んでいたとも聞かれるが夫婦の綾は元には戻らなかった。

富山の実家で両親と長男との生活が始まり、知子は市内の電気店で働くようになったが、腸癒着性腹壁ヘルニアにより再び入院・手術となる。元夫から養育費を得てはいたが、生活再建や息子の将来を考えてか、74年12月に富山結婚相談所に「身長170センチ以上」「年齢30‐50歳」の相手を希望して登録している。75年1月には父親が77歳で死去しており、ひょっとすると父親を安心させて看取ってやりたい思いもあったのかもしれない。

77年9月までに知子は13人と見合いしたが、縁談はまとまらなかった。今も昔も結婚相談所には結婚以外にも性行為目的の男と金目的の女が集まるもので、いつからか彼女の目的も売春が主となっていた。

 

1977年(昭和52年)9月、売春仲間の女が宮崎知子に北野宏を斡旋する。

北野は1952年富山県射水郡小杉町(現在の射水市)生まれ。やはり家族関係は複雑で、母親の駆け落ち相手との間にできた子どもだった。父親は結局家を出て、母親と祖母に育てられ、地元工業高校を卒業後、大阪や東京でも電気工として勤めていたが、腎臓病を発症して入退院を繰り返すようになり、会社勤めがままならなくなった。

地元富山に戻って療養後、下請け仕事をこなすようになり、宮崎と知り合った当時は新婚8か月の既婚者だった。貯金は200数十万、夫婦は地元の県営住宅で暮らしていた。

男は「腎臓病で40歳までの命」と周囲に語っており、平凡な幸せよりも一攫千金や「太く短く」生きてみたい思いに駆られていたと見える。「男の甲斐性」に浮気相手を求めたが、年上で頭が切れ、体の相性がよかった宮崎に骨抜きにされる。

後の公判では「冷凍機の販売、大宮の企業への出資、金沢の父親の遺産などの話を聞かされて、宮崎を《金持ちで仕事のできる女》という印象を抱いていた」と証言している。

宮崎は金目当ての売春でありながら「お互いのことを詮索しない」「私生活に干渉しない」「行動を束縛しない」「お互いの立場を尊重する」といった条件を北野に提示していたという。今でこそよくある愛人契約だが、結婚こそが女の幸せ、良妻賢母が女の目指す道と考えられていた当時、宮崎の提示した「自由恋愛」は異色なもので週刊誌などがこぞって取り上げた。

後に本件を題材とした小説『フェアレディZの軌跡』(1983, 栄光出版社)、北野と宮崎の男女関係に焦点を当てた小説『脅迫する女』(1987, 勁文社)を著した井口泰子は、2人が惹かれあった理由について「宮崎にとって北野は好みのタイプであるスマートな二枚目で、母性愛をくすぐられ、北野もそれに刺激されたのだろう」と述べている。

自分と同じく病魔のせいで富山に引き戻されることを余儀なくされた、自分の言うことを何でも真に受けてしまう頼りない年下男に捨て置けない憐憫と愛着があったのか。

情交を重ねた北野は女実業家が口にする夢のあるプランに出資を決め、78年2月に「北陸企画」の共同経営を始めた。設立当初こそ収益を上げたがすぐに業績不振に陥り、宮崎も事業への意欲を失っていった。

しかし他にもプランがあるとの口車に乗せられていた北野は、会社が傾いてからも宮崎のためにフェアレディZ(280Z)の購入費用を工面している。自身のセドリックを下取りに出し、友人、妻や親戚、サラ金からも融資を受けて返済の目途の立たない負債は300万円に膨らみ、「北陸企画」の事務所も80年2月末で閉じることとなった。

フェアレディZの軌跡

北陸企画の経営が傾き始めた78年10月、宮崎は顧客の保険外交員の要望から結婚相談所で関係を持った男性に生命保険(死亡時4000万円)の加入を斡旋した。だが受取人が彼女自身であったことから保険金殺人を思い立つ。79年3月にはさらに別の生命保険(死亡時5000万円)にも加入させ、機を窺って山菜採りに男性を誘った。富山県中新川郡上市町の山中、かつて修験道の地として知られた険崖での転落死を偽装しようと目論んだが、結局適当な場所を見つけられず実行に至らなかった。

経営はますます窮地に陥っており、保険金を諦めきれなかった宮崎は薬局でクロロホルムを購入(クロロホルムは毒劇物指定されており薬局は販売の事実を否認した)。知人女性の協力を得て「乱交パーティーの練習」を口実に男性を富山市岩瀬浜の海岸に誘い出し、クロロホルム吸引で昏倒させて海での溺死を計画した。しかし麻酔効果が生じず、このときも殺害は未遂に終わった。

余談だがコナン・ドイルの小説などにより無色・無刺激で揮発性の高い麻酔薬「クロロホルム」を使用した犯罪場面は定番とされているが、実際に麻酔効果を得るためには呼吸9回分程度の吸入が必要になるという。そのためハンカチに数滴垂らした程度の分量の気化では足りず、「気を失う程度」にコントロールするには熟練を要し、現実には瞬時に昏睡させる麻酔効果を与えることは不可能とされている(襲撃のショックや気道を塞がれた呼吸困難等で意識を失う可能性はある)。体力差に劣る相手に用いるには尚更不向きかもしれない。

北野はこの保険金殺人未遂事件への関与も否認していたが、弁護人との接見では「山の下見には同行した。海での殺害失敗は後から聞かされ、恐ろしくなって辞めさせた」と話していた。5月23日付で富山地検に追送検されるが、最終的に起訴猶予とされた。

後に宮崎は、離婚して富山に帰ってからは推理小説を多く読み、犯罪の手法についてヒントを得たと語っており、実家からは約60冊の推理小説が押収されている。

 

裁判

宮崎は誘拐殺人を認めた後も、北野や別の男との共謀を仄めかすなど供述を変遷させ続けた。北野の供述では、詐欺まがいの手口である人物を介して大金が手に入ると宮崎から聞かされて共に行動していただけで、宮崎が単独で動いている間、自分は彼女が何をしていたのか全く関知していないという立場を取り、「気晴らしの旅行」と話していた。しかし警察では、女性単独犯行ではありえない、北野が犯行を知らなかったはずがないとの見方で調べが進められ、4月6日までに北野からも由美子さん殺害の自白、後に事前共謀の自白を得た。

 

1980年(昭和55年)9月、富山地裁で初公判が開かれた。

検察側は、北野が主に殺害と遺棄の実行犯、宮崎は誘拐や送迎を担った共謀共同正犯とした。だが宮崎はそれまでの自供を覆して、以前北野と身代金誘拐の計画をしたことがあり北野の依頼で陽子さんを迎えに行ったり預かったりはしたが、誘拐ではなく売春斡旋だと認識しており、殺害と死体遺棄は北野の単独犯行だと主張。一方の北野は全て宮崎がやったことで一切の無実を主張し、愛人同士が罪を擦り付け合う展開は世間の耳目を大いに集めた。

また81年10月から11月にかけて宮崎は心身に不調をきたし、富山刑務所で2度の自殺未遂を図った。その後も体調不良で審理が中断され、裁判長職権により公判の継続の可否を巡って精神鑑定を依頼。診断結果として、軽い抑うつ状態、ヒステリー性人格障害、既往症が認められたほか、全体的な知能指数は138との診断もなされたという。これは100人中およそ2人程度、分類法によっても上位2.3%~6.7%の非常に高い区分である。

 

富山事件では、2月23日19時半頃、目的のバスが来るまで駅ビルで時間つぶしをしていた陽子さんに宮崎が声を掛け、フェアレディZに乗せられたものとみられた。レストランで一緒に食事をとり、アルバイトなどの口実で気を引いて「北陸企画」に連れ込み、時間が遅いなどの理由で泊まらせていた。

翌24日、陽子さんを事務所に残したまま、宮崎は長男の授業参観に出向いており、家族で買い物をした後、夕方頃に事務所へ戻ったとみられ、近くの薬局では睡眠薬を購入していた。婦負郡細入村のドライブイン「キャニオン」で2人は夕食をとったが、手持ちの金がなく「借用書」を書いて店を出た。

陽子さんは再び事務所で一夜を過ごしたとみられ、翌25日、正午ごろに自宅に電話したが途中で通話は途切れた。宮崎は陽子さんを車に乗せて夕方に事務所を出たとみられ、ラーメン店で食事を済ませ、「キャニオン」に立ち寄って昨夜の未払い分を支払い、数河高原の喫茶店に21時半ごろまで滞在した。喫茶店からおよそ4キロ地点の古川町の戸市川沿いに死体が遺棄されていたことから、付近で首を絞めて殺害したと考えられた。後にフェアレディZの助手席から被害者の失禁痕が確認され、車中での殺害と特定される。

北野や当時の妻の証言では、25日夜には自宅でテレビを見るなどして過ごし、長時間の外出はないとされた。3月3日からの長野行きには北野も同行していたが、宮崎から「政治資金絡みの儲け話」で「東京の男」と接触すると聞かされ、宿での待機を命じられていた。北野は宿のテレビで見た内容なども詳述でき、同行中、宮崎が頻繁に電話を掛けていたが取引相手との交渉だと信じ切っていたという。

3月5日18時半頃、バス待ちをしていた由美子さんを言葉巧みに誘い出し、宿泊中のホテルまで車を取りに行った。宮崎は「6日の日の出前に連絡を入れる」と言って出ていったが、11時過ぎまで連絡はなく、その間、心配になった北野は長野中央署に「女の乗った赤いフェアレディZの交通事故はなかったか」と問い合わせていたことも判明した。宮崎は長時間生かしておけないと考え、松本市方面で夕食の後、翌朝の出勤までには送り届けるとして車中で由美子さんに睡眠導入剤を与える等したとみられる。6日未明から早朝にかけて帯紐で首を絞めて殺害し、修那羅峠付近の崖下に遺棄した。

6日から7日にかけて由美子さんの家族に度々電話を掛けて高崎へと呼び出したが、7日には高崎の有料駐車場の使用、喫茶店での電話機の使用が確認された。宮崎は警察の動きを察し、北野に「金を受け取れなかった」と言って8日までに富山に戻った。

 

捜査機関には北野の関与を示す物証がほとんどなく、「一緒に長野に行った」ことまでしか立証できなかった。殺害や遺棄について女性では困難と想定されていたが、現場検証や解剖医の証言から「女性一人でも不可能ではない」ことが明らかにされていく。

初公判から4年半後の85年3月、第125回公判に至り、検察側は冒頭陳述の大幅な変更を行い、殺害や死体遺棄の主犯を宮崎、北野は共謀共同正犯と改め、後に訴因変更。長野事件では北野がアリバイ工作を担ったとの主張に切り替えた。北野の弁護団と家族は、遅きに失しており、依然「共謀」とする主張は遺憾だが、「この姿勢は英断」と検察側の仕切り直しを評価。

宮崎は依然として北野主犯説を唱えたが、それまでの偽証や元交際相手に口裏合わせを求めていた事実なども白日の下に晒されつつあった。また取り調べ段階での北野の自白には、犯人しか知りえない事実「秘密の暴露」が一切含まれておらず、自白強要と調書捏造の疑いが色濃くなっていた。アリバイ証拠や目撃証言を組み立てていくと、北野が長時間宿を抜け出たり、長距離移動をしながら実行犯になる隙がないことが証明されていった。

88年2月、富山地裁(大山貞雄裁判長)は宮崎による単独犯行を事実と認定し、宮崎知子に求刑通り死刑、求刑無期懲役とされた北野宏に対して無罪を言い渡した。宮崎は即日控訴。北野は釈放となるが、富山地検は無罪判決を不服として控訴する。

 

1989年(平成元年)11月、名古屋高裁金沢支部控訴審が開始された。検察側に新証拠はなく、宮崎との間に共謀がなければ北野が長野へ同行するのは不合理だとし、これまでの主張と証拠の再評価をもとめた。冤罪を認めることができず、引っ込みがつかなくなっていることは明白だった。

宮崎は、心神耗弱による責任能力の欠如を争う構えを見せた主任弁護人を解任。それまで否認していた富山事件への共謀を認め、殺害の実行犯は北野だとする新主張を展開した。もはや「かつての愛人」は、検察側が主張するような一心同体ではなく、自分の代わりの生贄を供するかのような変貌ぶりで量刑の減軽を求めた。北野側の弁護団は、宮崎側の主張は責任転嫁であり、検察の振舞いは控訴権の濫用だと糾弾した。

92年3月、濱田武律裁判長は、検察側と宮崎双方の控訴を棄却し、原判決を支持。宮崎は上告して引き続き死刑回避を求める一方、名古屋高検は上告を行わず4月15日に北野の無罪が確定した。

宮崎の弁護団は、下級審での事実誤認や量刑不当に加え、死刑制度の違憲性を主張。二審での精神鑑定の却下など審理が尽くされてはいないとし、宮崎は反省の念から日々読経・写経に勤しんでいるとして情状から減刑をもとめた。

98年9月、最高裁判所第二小法廷(河合伸一裁判長)は上告棄却を決定。10月9日、宮崎の死刑が確定する。

男の責任: 女高生・OL連続誘拐殺人事件

警察・検察は客観的証拠に基づいて事実を明らかにできぬまま、宮崎の虚言に踊らされて、「男として責任を取れ」と北野に自白を迫った。長期勾留、愛人に騙されていた事実、功名心に駆られて恫喝じみた取調官たちに疲弊、憔悴した男は半ば自暴自棄となって道義的責任を認め、虚偽の自白に陥っていたのだ。宮崎は捜査陣営の予断と北野主犯のストーリーにつけ込んで、裁判所まで手玉に取ろうと悪あがきを続けたのだった。

宮崎は口のうまさや人間洞察、臨機応変な頭の回転の速さをもつ典型的な詐欺師だった。北野を長野に連れだったのも予め「身代わり」として準備していたかのようにさえ思える。だが一方で、どこに行くにも人目に付きやすい真紅のスポーツカーを乗り回し、誘拐時も被害者と外食に出る、睡眠薬の購入も後手に回るなど、計画性のなさや杜撰さを露呈していた。過剰な自信がそうさせたのか、計算高さと矛盾した衝動性のアンバランスさが際立つパーソナリティの持ち主である。

事件から6年後には富山事件の遺族に謝罪の手紙を送る一方で、「私は悪いなんて思っていない」「50万払うから減刑の嘆願書を書いてほしい」と願い出る等被害者感情を逆なでする内容の手紙も送っていたという。

事件後に家族が離職させられるなどし、無罪確定後も風評被害に晒された北野は「あなた方の持つペンの力はいつでも人を抹殺できることができる反面、無実の人を社会復帰させたり、私のような冤罪被害者を二度と出さないようにもできる」と訴え、マスコミや報道姿勢の在り方に一石を投じた。

また富山弁護士会黒田勇は「北野宏を救う会」の会長として救援活動を支え、後に主任弁護も務めた。記者へのレクチャーや検察偏重になりすぎない捜査報道を訴え、冤罪予防として富山の当番弁護士制度立ち上げに尽力した。

 

明確な時期は不明だが、宮崎は獄中結婚や養子縁組などにより何度か姓が変わっており、90年代には今市4人強盗殺傷事件の元死刑囚・藤波芳夫(2006年執行)の養子となっていた。

藤波は若い頃から窃盗、暴行、覚醒剤など前科11犯の無法者で、逃げ出した元妻との復縁を求め、それを拒む元妻の実家を逆恨みして襲撃した。無関係の親類少女2人を登山ナイフで切りつけて重傷を負わせ、車で家屋に突っ込み、駆け付けた親類男性2人の胸や腹を刺して失血死させた上、貴金属やカメラ、現金700円を強奪した凶悪犯である。

一審・死刑判決後に死刑廃止団体「麦の会」に入会。89年にはキリスト教に帰依した。生前から遺書をしたため、刑執行の当日にも「わたしは取り返しのつかないことをしてしまいました。被害者にお詫びします。キリストに出会えて本当によかったと思います」と教誨師に反省と感謝を伝えている。

宮崎は90年代半ばから「麦の会」代表を務めており、活動を通じて人間的に魅せられた部分があったのか、制限の少ない文通相手を求めてなのか、養子になった理由は定かではない。また名誉棄損やプライバシー侵害のメディア被害が多かったこともあり、出版社や作家を相手取り多くの損害賠償請求を起こしている。2023年までに5度の再審請求を繰り返していることからも生存への強い執着が窺える。

女が一目惚れして貢がせた車「フェアレディ」の名は「美しい貴婦人」を意味する。事件を通じて見れば、それは彼女の上昇志向や虚栄心といった性格を象徴しており、皮肉なことに大きな借金となって窮地へと追い詰め、自身の首をも絞めることとなった。

 

被害者のご冥福をお祈りいたします。