いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

戸塚ヨットスクール事件

ヒトは生まれてから10数年にわたって親の保護を必要とする特殊な動物だと言われる。だがしつけと虐待、教育と体罰の線引きは非常に曖昧で、今日も尚、その一線を越える事件が頻発する。40年前、愛知県で起きた戸塚ヨットスクール事件は、当時の日本社会が直面していた少年の非行・登校拒否児童の問題に一石を投じることとなった。

 

世界に通用するヨットスクール

1983年(昭和58年)6月13日、愛知県警は美浜町戸塚ヨットスクール校長・戸塚宏(42)、同校コーチら12人を逮捕した。同校の訓練生(13)が死亡した事案について、ヨット上で角材で殴りつけるなどしたとする傷害致死の容疑である。

 

戸塚は1940年に朝鮮・清津で生まれ、終戦後は両親と日本に引き揚げた。父親は愛知でセメント会社重役をしており、不自由なく育てられた。子どもの頃は優等生でおとなしく、親から叱られることもなかったとされる。59年、名古屋大学工学部に進学。ヨット部で厳しい鍛錬を積み、4年時には主将を任されるまでになった。
1975年に沖縄海洋博の開催記念で行われた「太平洋-沖縄・単独横断ヨットレース大会」で、すでに初の太平洋単独横断でその名を知られていた堀江謙一氏らを抑えて優勝し、一躍時の人となった。戸塚は翌76年から子どもたちにヨットの楽しさを教えたいとジュニア向けの短期訓練を開講。77年には愛知県美浜町で「戸塚ヨットスクール」を開校し、「世界に通用するヨットマンを養成する」と謳った。

 

訓練生の中に不登校児童がおり、短期間の訓練後に復学を果たしたエピソードがマスコミで美談として報じられると全国から大きな反響が寄せられた。家庭内暴力や登校拒否などいわゆる「情緒障害児」に悩む親たちが子どもたちの更生を求めたのである。当初はヨットマンの養成を目的としていた戸塚も社会的反響とニーズ、自身の教育的使命観から、集団生活とヨット訓練によって心身を鍛え、少年少女の歪んだ性根を叩き直して社会復帰させる「更生塾」の特色を強化していった。最盛期には100人以上の児童・若者らが集団生活を送ったとされる。

 

教育荒廃と世相

当時、登校拒否児童は全国で4万数千人といわれ、校内暴力や家庭内暴力といった「非行」とともに社会問題視されていた。今で言う「引きこもり」の第一世代とも重複するが、発達障害の社会的認知や支援はおろか実態把握も当時はあまり進んでおらず、「学校に通えない」という括りで素行不良者らと共に「情緒障害児」として混然一体に扱われていた。
家庭でも学校でも手に負えず、能動的に学ぼうとする意欲がないとして教育支援型のフリースクールからも見放され、困り果てた親たちが最後に救いの手を求めたのが子どもの社会復帰と自立を促すことを謳った「更生塾」であった。
不登校や非行は貧困家庭にもあったが、矯正を希望する親たちの多くは経済的に不自由がなく、教育熱心だがその方法に悩みを抱え、むしろ子どもを正しく導いてやれない自分たちに責任の非を感じていた。指導者のやり方を「信じる」よりほかないと思い詰め、ある種、新興宗教にでも傾倒するように藁をもすがる思いであった。
 

多くの企業リーダー本を著したノンフィクションライター・上之郷利昭はヨットスクールに泊まり込みの取材を続け、『中日新聞』『東京新聞』紙上に半年間にわたってルポを連載して大きな反響を得た。

入校者は問答無用で丸刈りや短髪にさせ、寮生活は規律第一を徹底させ、若者らがそれまで経験したことのないハードな肉体改造、海上訓練は過酷を極めた。違反者には厳しい体罰をも辞さないスパルタ式であったが、そうした訓練を通じて心身の健康を回復した、自立心が芽生えたという訓練生は延べ600人にも上ったとされている。
登校拒否児らは入校に際して当然激しく抵抗し、自宅から拉致まがいのやり方で学校へ連行されてくる。むせび泣く訓練生にもコーチは「泣けば許されると思ってるのかあ!」と怒鳴り散らし、歯向かおうとすれば問答無用に海へ放り投げ、容赦のない鉄拳、足蹴が乱れ飛ぶ。そんな場面を尻目にしながら周りの生徒たちは黙々と訓練に励む「日常風景」を包み隠さず描いた。脱走すれば連れ戻されてリンチに遭い、押し入れに外から釘を打ち付けられて監禁された。
血の通った熱血指導によって、反抗的態度や無気力だった子どもたちが次第に大きく変化していくさまを肯定的に描き、加筆修正して刊行された『スパルタの海—甦る子供たち』(1982、東京新聞出版局)は話題を呼び、育児に悩める読者たちから入塾希望が殺到したという。83年には伊東四朗主演・東宝東和製作で映画化もされたが戸塚校長の逮捕と公開予定が重なり、完成後も未公開のまま長年お蔵入りとされた。尚、伊東氏は戸塚ヨットスクールを支援する会の理事も務めた。
 
当初、マスコミの多くは「教育問題の救世主」としてスクールを称賛する論調を取ったが、その反響は好意的なものだけではなかった。80年代初頭にはすでに訓練生から複数の不審死・行方不明者が出ており、その原因をスクール側の問題と見るか、死亡者側の責任と取るかで両極端に意見は分かれた。
三者からすれば、同校の方針を知ったうえで任せた親にも死亡責任の一端がないとは言い切れず、「親も面倒が片付いたと思っているのでは」といった心ない言葉も飛んだ。さりとて公教育から切り離されて苦悩し、家庭のため、こどもの将来を案じてやむなく預けた親たちの事情も垣間見える。更には実際に「スクールのおかげで立ち直った・救われた」と感謝を口にする家族や当事者たちもいたことが議論を一層複雑にさせた。

イメージ
1975年前後の少年検挙者は19万人台で推移していたが、急激に増加し、83年には317,404人を数え、戦後最大となる「少年非行の第3のピーク」を迎えていた。とりわけ非行の低年齢化、女子検挙者の増加が顕著な時期であった。
教育では高等教育の大衆化が一定水準まで果たされた一方で、「詰め込み教育」や「落ちこぼれ」の問題が叫ばれるようになり、1978年の学習指導要領では「人間性豊かな児童生徒を育てる」方針(後の「ゆとり教育」)へと切り換わる大きな転機を迎えていた。
校内暴力もピークを迎えており、「部活動」は反抗的な生徒らに規律を学ばせ、勉学についていけず自尊心を失った者にスポーツを通じて再び挑戦に立ち向かわせる「根性」やチームを介して「協調性」を植え付ける効果が期待された。教育現場や部活動での教師・指導者による鉄拳制裁などはいわば付き物の慣行とすらみなされてもいた。違反行為に対する罰則や集団責任の考えなどを体罰の可否は概ね指導者に一任されていた。今日ではしばしば批判の対象となるが、技術向上に結び付かない「しごき」と呼ばれる類の指導(たとえば公開説教や正座、うさぎ跳び、居残り特訓など)も、ある程度は必要だと容認されていたのである。
 
無論、教育現場だけにその責任があったとは言えない。1970年代には企業への忠誠心が高く、粉骨砕身に働く日本の男性会社員は「企業戦士」「モーレツ社員」を自負・自嘲してもいた。「男は外で働き、女は家を守る」分業的な生き方が称揚されて、1988年には三共『リゲイン』のCMで「24時間戦えますか」と謳われたように、バブル崩壊まではそれが当たり前とされる社会であった。だが伝統的な家父長制とは異なり、核家族化などライフスタイルの変化や家庭における「父親の不在」などから家族関係には新たな綻びが生じており、「家庭崩壊」が社会的に表面化したのが80年代前後と見ることもできよう。
 
事件史的に見れば、1980年11月には二浪の20歳男性が両親を撲殺した神奈川金属バット事件が起きている。エリート志向の両親による罵倒が繰り返されてきた「教育虐待」の実態、精神異常は見られなかったが鑑定で発達障害だったこと、本人の真摯な反省などから情状酌量が認められ、懲役13年とされた。受験戦争によるプレッシャーや家族崩壊を象徴する事件である。
1982年6月には「家出少女」の代名詞ともいえる新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件が起きている。14歳の女子生徒2人はかつて茨城県古河市で級友だったが、その後1人が東京都港区に引っ越した。東京で再会した2人はそのままディスコで知り合った足立区の女友達の家に寝泊まりするなどし、自宅に帰らずディスコや喫茶店で遊び歩いていた。明け方、ナンパされた若い男に「ドライブに行こう」と車で連れられ、千葉市の路上で男に襲われ1人が死亡、もう1人は首を絞められて失神したが打撲などの軽傷で済んだ。
1983年2月には、中高生や無職のゲームセンターで知り合った10人の少年グループが連日「浮浪者狩り」を繰り返した横浜浮浪者襲撃殺人が発生している。彼らの動機は金銭などではなく「暴力を振るってすっきりしたかった」という浅はかなもので、結びつきの弱い若者グループや集団リンチの動機はその後の「チーマー」犯罪や名古屋アベック襲撃事件などを彷彿とさせるものがある。学校という居場所から脱落した不良少年たちは、ディスコ、ゲームセンター、喫茶店などの若者風俗に流れ込み、犯罪へと誘引されていた。
前後するように、同2月、東京都町田市のマンモス校・忠生中学校では教師による児童への報復事件が発生している。3年生生徒2人が玄関マットを振り回して激しい威嚇を続け、恐怖心を抱いた男性教師(38)が果物ナイフで反撃し、全治数日の怪我を負わせて逃走。逮捕後、「生徒たちが怖い。耐えられなかった」「(学校、同僚に)助けを求めたが何もしてくれなかった」と語り、傷害を認めた。当初は加害者へのバッシングもあったが、教育現場の荒廃が伝えられ行政批判へと転化していった。
 
事件と直接的なつながりはないが時代背景の参考までに、中学教師役に俳優・武田鉄矢をキャスティングしたTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の開始もこの時期であった。第1シリーズが1979年10月~80年3月、第2シリーズが80年10月~81年3月に放映され、非行・不登校・いじめ・親子問題など当時の世相を反映した内容が話題となり、長期シリーズとなった。
弱小だった京都伏見工業高校ラグビー部と元日本代表フランカー山口良治氏による全国優勝までの軌跡をモデルとした大映ドラマ『スクール☆ウォーズ』放映が1984~85年、原作となる馬場信浩『落ちこぼれ軍団の奇跡』の出版が1981年のことである。同時代の学校現場の荒廃と生徒らの葛藤、課外活動における熱血指導や心の交流が描かれている。
また戸塚ヨットスクールに通った芸能人もいた。1960年代後半に『笑点』の若手メンバーとして活躍し、73年に真打昇進を果たした春風亭栄橋は、80年1月にパーキンソン病であることを公表。戸塚が「鍛えれば治る」と言ったことから、立川談志は弟子の談春志らく、関西、談々を付けて、栄橋に入学を世話したとされる。後に高座に復帰した時期もあったが、快癒せず、25年以上の長期療養の末、2010年に亡くなっている。

 

裁判とその後

検察側は戸塚ヨットスクールを「営利を目的とした暴力集団」と糾弾し、戸塚校長、コーチら12人を傷害致死、監禁致死の容疑で起訴した。裁判での大きな争点は、同校のやり方を教育と見るか暴力と見るかであった。
社会の評価も毀誉褒貶が相半ばして論議を呼んでいたが、スクールでは摘発から2日後には訓練を再開させた。逮捕前からすでに「死亡事故」は知られていたこともあってか、退寮者は少なく、入校希望者もなくならなかった。
 
寮内の閉鎖空間で実際生徒に何が起きていたのかを立証することも難しく、とはいえ短期間に立て続けに命を落としている事実からも偶発的な事故ではなく、過酷すぎるやり方が慣習化されていた、親の責任下でそうした強制指導が保証されていたことで「歯止め」になるものが存在しなかったと見ることができる。
弁護側は、体罰は情緒障害児の教育・治療が目的であるとし、民法822条・親の「懲戒権」の委託に基づく正当な行為だと主張した。民法820条で親権者は子の利益のために監護および教育をする権利を有し、義務を負うこととされており、必要な範囲に応じて「懲戒」することができるとされている。親から子どもの監護・教育を委任された立場にあったスクールには親の代わりに懲戒が認められるとした。

1979年02月 13歳の少年が暴行を受け、後に死亡(低体温症による病死として不起訴)。
1980年11月 21歳浪人生・吉川幸嗣さんが海に投げ込まれるなどして入校5日目に死亡。
1982年08月 15歳高校生の水谷真さん、杉浦秀一さんが奄美大島での合宿から帰る途中、高知県沖で海に逃亡し、行方不明。
1982年12月 小川真人さん(13歳)が入校4日後に摂食障害に陥り、その後も竹刀で殴られるなどして入校から1週間で死亡。
それ以外にも関連して3人の自殺者があった。

一審・名古屋地裁で開かれた公判は9年近くにも及び、92年(平成4年)、戸塚に懲役3年執行猶予3年(検察側求刑10年)、9被告に1年6か月から2年6か月の執行猶予付き判決を言い渡した。
判決では、事実認定については検察側の起訴事実に沿ったもので、「体罰の違法性は阻却されるものではない」と認めつつ、「多くは治療、矯正のため、あるいは合宿生活の秩序維持のための体罰と認められ、目的の正当性はほぼ肯定できる」と述べた。
一方で、被告人も行き過ぎを認めて反省が窺えること、勾留期間が1100日を超えて長期化したことや再開したスクールで問題は起きていないことから実刑の意味が失われたことなどが量刑理由とされた。
逮捕により手の平を返した新聞各紙には、「軽い判決、遺族複雑」「遺族、被告双方に割り切れなさ」といった不完全決着の様相が報じられた。
 
「スクールに子どもの命を奪われた」とする遺族らにとってみれば受け入れがたい判決にも読めるが、検察が言うところの「営利目的の暴力集団」に命を預けたのは子どもたち自身ではなく他ならぬ親の強い要望からである。被害者目線に立つならば、保護者責任の重大性も問われるべきではないかとさえ思う。
92年8月14日付朝日新聞では、精神障害の子息をもつ60歳教員による「戸塚ヨットスクールを頼った大半の人びとも私共と同様に感謝こそすれ、恨む気持ちは毛頭ないのではないかと思う。事故は残念だったが、国に私どもを救済する手立てがない限り戸塚ヨットのような存在は必要だ」という投書が掲載された。
 
二審・名古屋高裁は、訓練は人権無視が著しく、教育でも治療でもないとしてこれを断罪し、97年3月、戸塚に懲役6年、コーチ3人にも実刑判決を言い渡した。2002年2月、最高裁判所は上告棄却を決定し、実刑が確定し、戸塚らは収監される。
その間もスクールでは山口代理校長を立て、運営は維持された。並行して行われていた民事訴訟では4人の遺族に対して合わせて1億円の賠償支払いが命じられた。
 
刑期を終えた戸塚は2006年4月にヨットスクールに復帰した。
戸塚は自身の経験則、教育論として、訓練の苦しさ、不快感を乗り越えた先に幸福があるとの信念を唱え、現在も体罰の必要性を語り、子どもたちの「脳幹を鍛えて正常化させる」と自説を展開している。「弱い精神力が教育荒廃の原因となる問題行動につながっている」として「褒める教育」「体罰否定」などを掲げる日教組やリベラル勢力が教育荒廃の元凶なのだと理論化し、彼の教育論は保守論壇に好意的に迎えられた。自身もヨットマンであった石原慎太郎西村慎吾ら賛同者の支援もあり、今日も運営を続けている。
事件後、公には「体罰は行われていない」とされるが、戸塚校長本人はテレビ出演や著作などで「体罰をして救ってやるんだ」と明言し続けており、体罰を教育の一環とする信念を全く変えてはいない。
事件化こそされていないが、その後も入校者の自殺・死亡事故は後を絶たない。

2006年10月、25歳のうつ病男性が行方不明となり、水死体で発見される。外傷はなく自殺か事故と見られている。
2007年、生死は不明ながら「訓練生が屋上から飛び降りた」とされている。
2009年10月、18歳女性が屋上から転落死。スタッフや他の生徒らと布団を干している最中に、高さ1.5メートルの柵を乗り越えて落下し、自殺と見られている。
2011年12月、30歳男性が寮3階から転落して重傷。警察は自殺未遂と見ている。
2012年1月、21歳男性が寮3階から飛び降りて死亡。「ヨットスクールの生活が辛く、このまま生きていくのも辛い」とする旨の遺書が発見されている。

2012年時点の入所者は16~34歳の13人とされ、世相からしても非行少年より「引きこもり」の利用者が増えたものと想像され、入所前から希死念慮にさいなまれていた若者が多かったと推測される。
彼らの目指す教育、その方法論は、若者を死の淵へと追い詰め、サバイバルのためには服従せねばならないとするマインドコントロールに他ならない。首班は経験則による過剰な自信に酔い、周囲からの感謝や称賛の言葉に感化され、完全な自己正当化に陥っている。自らの「正義」のために相手を選ばず「鉄槌」を奮い、教官たちはその教えに心酔し、その思想に従うことで罪悪感と責任から逃れられると信じ込んでいる極めて危険な環境と言わざるを得ない。
 

更生塾による類似事件

えてして公教育になじめなかった児童らは、はじめから心的に何か問題があるとみなされ、社会からの関心を向けられにくい、理解されにくい立場にあると感じる。事件の影響や少子化により一時期より数は減少してはいるものの、更生塾には依然として社会的ニーズがある。
本件のような事案は、おそらく全国各地で無数に起きている。当事者家庭の側も、家でのしつけが上手くいかなかったことへの引け目や後ろめたさがあり、遠方の施設で親の目が届きにくいこと等から告発されにくい事情も見受けられる。児童養護施設、障害者や老人介護福祉施設と異なり、私塾の場合は発覚が遅れることも指摘されている。
私塾というスタイルでなくとも、中高生らの自然留学制度(離島留学、山村・漁村留学)の里親の中には、公費扶助を目的としたり、独特の教育観や教育的使命感を持つ者もあり、全てとは言わないが更生塾同様のリスクが懸念されるところである。
 

◇静光親子塾事件(1985年)

岐阜県郡上郡大和町の情緒障害者矯正施設「静光親子塾」で訓練生が死亡し、傷害致死の疑いで塾長・西村賢一郎(22)が逮捕された。塾長は自らの自閉症的な症状を克服するため、80年10月から3か月間、戸塚ヨットスクールの訓練生として過ごした経験があった。
「暴力による指導ではない矯正施設をつくりたい」として訓練生の親から出資金を集めて塾を開所。しかし被害者の死因は、鉄アレイによる殴打、太腿への蹴り等による外傷性ショック死で、他の訓練生も逃亡していたこと等から余罪が追及された。
 

◇不動塾事件(1987年)

埼玉県秩父にあった香川倫三の私塾「不動塾」でも逃亡する塾生が後を絶たず、塾頭は言いなりになる青年らに「拿捕隊」を組ませて脱走した塾生を捕獲させていた。
被害少年は親の離婚後、経済的に恵まれた母親の元で暮らしたが、母親は家業に専念して家庭を顧みなかったことや別れた父親と弟に未練があったこと等から不登校になっていった。その後、母親が少年を精神病院に強制入院させるなどしたことで不信感と対立感情は激化し、家庭内暴力を起こすようになった。母親は不動塾に預けたが、少年は「ここは刑務所と同じだ」と考え、従順に生活して帰宅許可を得た。
しかし帰宅後に復帰した学校で教師から体罰を受けて負傷し、再び学校には通わなくなり非行と家庭内暴力を再開。他のフリースクールや親類の支援を受けながら母親との別居、海外留学を計画していた。
母親は息子が一度は快調に向かっていた(と信じ込んでいた)ことから不動塾に信頼を置いており、「拿捕」を承諾。居所を突き止めた拿捕隊は深夜に少年を襲撃。袋叩きにして塾に拉致し、塾頭は金属バットで臀部を220回にわたる殴打や鉄パイプや熱湯を用いた執拗な集団リンチを未明まで行うよう命じた。6時間後、外傷性ショック死により少年は死亡。
1989年2月14日、浦和地裁秩父支部は塾長に求刑5年に対して、懲役3年6ヶ月の判決を下す。1989年12月5日、東京高裁は一審を破棄、懲役3年が確定。命じられて犯行に加担した塾生2人は不起訴。
被害者の母親は不起訴となったが、香川塾長の逮捕後も「息子を死なせてしまったのは全て私の責任で私が悪いんだ。香川塾長は悪くない」と塾長を庇うような発言をした。
 

◇風の子学園事件(1991)

7月29日、広島県三原市「小佐木(こさぎ)島」にあった自然体験によって非行少年の更生を標榜した無認可施設「風の子学園」では、学園長・坂井幸夫(67)が児童2人を熱射病死させた。喫煙した罰として、16歳少女と14歳少年を国鉄C20形コンテナ内で44時間監禁。二人は手錠を掛けられ、食事はなく、与えられたのは1杯の麦茶だけだった。外は30度を超える炎天下で、コンテナ内の温度は50~60度と推定されている。
島民26人の小さな島で、浜辺に建てられた学園施設では「休暇村」と称して食堂やシャワーなどの海水浴施設、乗馬や動物とふれあえる牧場施設などが営まれていた。
学園長は元海軍整備兵で教育や児童心理に対する理解は低かったとされる。前年にもコンテナ監禁で23歳男性入所者に脱水症など入院加療43日を要する傷害を負わせていた。犠牲となった少年が入所した4月当初から度々コンテナに監禁しており、自宅への連絡、親との面会も厳しく制限していた。事件発生前、親元に「更生されていない」として退園時期を遅らせようと図り、目に付く場所に金やタバコを放置するなど、厳罰を与えるための工作があったと見られている。
 
今日では島民6人となり、市にコンテナ撤去の要望が出されているという。

キャンペーン · 風の子学園の残存物撤去実現のため、三原市が実施可能な対応策を検討し、実施してください。 · Change.org

園生死亡…監禁のコンテナ今も 風の子学園事件30年【動画】 | 中国新聞デジタル

入園までの背景として、少年はクラスの積立金紛失騒動で担任教諭からあらぬ疑いを向けられて暴力沙汰を起こし、その後も不良グループとの交遊を注意されるなどが続き、学校不信に陥っていたとされる。結局、生活指導の教諭や少年愛護センターの指導主事から推薦があって入園に至った経緯があった。
遺族は施設の実態を把握せずに紹介していた姫路市教育委員会にも責任の一端があるとして、遺族は姫路市に損害賠償を求める民事訴訟を起こした。学校側の姿勢は亡くなった少年だけでなく問題生徒全体に向けられており、当時生徒指導の研究モデル校に指定されていたことから、本来目指すべき是正の指導ではなく、学校からの安易な切り離しがあったものと考えられた。市は少年の自発的な意思決定で入園したとの見解だったが、市教委の担当指導主事が入園を強く勧めていた事実が確認され、99年10月、市に1200万円を上限とする賠償支払いを命じ、法的責任が確定した。
 
坂井は二人の死亡した事実関係については認めたものの、「自分は暴力的な悪い体罰は与えていない、暴力ではなく良い体罰である」などとし、監禁を教育の一環だと主張した。監禁致死罪により懲役5年が確定。
服役後、2001年10月に広島市内で女子高校生へのわいせつ行為により再び逮捕され、懲役2年の実刑判決を受けた。8月にオーストラリアを旅行中に知り合い、「ボランティア活動を手伝ってほしい」などと自宅に誘い出して、タクシー内で胸を触るなどした。
 

丹波ナチュラルスクール事件(2008)

京都府船井郡京丹波町にあった自然に触れ合う環境での生活で更生を目指すことを謳ったフリースクールでも、脱走者の証言で暴行、監禁、虐待が明るみとなり、経営する朴聖列、森下美津枝らが逮捕された。
スクールでは「入所者には九州大や福井大に進学し、結婚した人もいる。更生させ、仕事を紹介する」等と謳い、数百万円単位の多額の入所金を受け取っていた。だが実態は入所者を監禁状態や暴力支配の監視下に置き、木刀を手に「戸塚ヨットのようになるぞ」と恫喝する恐怖支配が行われていたという。
高額な月謝を要求しながらも、農作業や機械組み立て、農産物やクワガタ、カブトムシの販売などで利益を上げていたが、一切還元されず実質的にタダ働きさせていた。光熱費など入所者の生活には厳しい制限が課せられ、食事も経営者の娘が営むコンビニから出る廃棄食品が与えられた。児童相談所の立ち入り調査に際しても、入所者らに「いらんことは言うな」と口止めしていた。
2005年10月には施設から脱走して福知山市内のコンビニに潜んでいた入所者男性が保護されたことがあった。福知山署員が一時保護し、保護者に「息子さんが施設が怖いと怯えている。家に帰りたがっている」と連絡した。親は施設の実態を認識しておらず、施設に入って2か月余りだったこともあり、「施設に戻してほしい」と頼み、署員が施設に連れ戻していた。
2005年5月には、千葉県内の少年(15)を入所させるために親が施設側に「引き出し」を依頼していたが、移送中に交通事故死。2008年9月に親は京都地裁に損害賠償を求める訴訟を起こした。両親は施設運転手による無謀運転を事故死の原因としたが、運転手は「移送を嫌がった少年がハンドルを引いたため」と主張。判決は、双方の過失責任を否定し、自動車損害賠償保障法に基づき、車の所有者(同事故で死亡)に運行供用者責任があるとして所有者遺族に3700万円の支払いを命じた。
 

民法改正と現在地

前述の民法822条が定めるところの「懲戒」とは何か。
判例や学説を踏まえた解説書・新版注釈民法(25)には次のようにある。
懲戒のためには、叱る・殴る・ひねる・縛る・押し入れに入れる・蔵に入れる・禁食せしめるなど適宜の手段を用いてよいであろう。
戸塚校長と対立するリベラル派の主張によれば、「親の支配的権能を重視した明治民法成立時の考え方が踏襲されている」ため、人権意識、児童発達の研究が進んだ今日にはふさわしくないものであり、懲戒権を認めた文言が「児童虐待を正当化する温床である」としてその削除が求められてきた。
2022年12月16日施行の民法改正において、「懲戒権」の文言削除と、「子の人格を尊重するとともに、年齢および発達の程度に配慮しなければならない」とし、「体罰その他の子の心身の健全な発達に有害な影響を及ぼす言動」の禁止が明記された。

40年前の状況と今日われわれを取り巻く状況を単純比較することはできないが、家庭内暴力や非行の問題は沈下し、一方で家庭での「虐待死」は顕在化、「更生塾」はその数自体は減っているように見える。発達障害精神疾患への理解が進み、かつては就学困難とされた障害児にも専門施設で過ごす選択肢が増え、メンタルクリニックの増加で精神疾患の早期治療への対処も進んでいる。

はじめから殴って蹴って子を育てようとする親など本来はほとんどいない。時と場所を選ばず泣きじゃくり、抵抗や反発をこれでもかと繰り返し、わがままや急な発熱などで親を困惑させるのが「ふつうの子ども」である。子どもを虐待死させる親の気持ちに共感できずとも、「なんでうちの子は…」と思い悩んだり、「子どもに言うことを聞いてほしい」「子育てを誰かに手伝ってほしい」といった心境は親ならば大なり小なり誰しもが経験する。
いわゆる「毒親」もまた「毒親」になるために親になる訳ではない。育児に正解はないからこそ、「暴力」という軽率な手段を解決策だと思い込む誘惑も隣り合わせにある。だが、誤りは誤りとして踏みとどまらなければならない。「親の代わりはいないのだから」と保護者に全責任を押し付けるつもりはない。判断が鈍るようならば親もまたメンタルクリニックや託児施設などに相談することができる。
子育ては水をくれてやれば後は勝手に育つというようなものではなく、アドバイスをくれる家族や知人、手助けしてくれる育児仲間や公的扶助の支えがあったとしても苦悩と困難の連続には違いない。保護者は「理想の子育て」や自分よりも豊かな「成長プラン」を期待しがちではあるが、どれほど肥料を与えても花や実を結ばなかったり、まっすぐ伸びてもある日ぽっきりと茎が折れてしまうこともままある。そんなときどんなケアをしていけばよいのか、焦らずに立ち止まり、こどもとともに学び考えていくのが子育てであり「親」としての成長ではないだろうか。
 
被害者の冥福を祈るとともに、未来の子どもたちの健康と安全を願います。