いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件

1987年、神奈川県藤沢市で起きた加害者・被害者の「オカルティズムの共有」ともいうべき神秘主義的な傾向が発端となった猟奇事件である。

 

概要

1987年(昭和62年)2月25日18時頃、男性が神奈川県藤沢市亀井野にあるH荘203号室を訪ねるも、人の気配はするが応答がないため、大家を呼んで解錠を求めた。戸を開けると、室内では男女が死体の解体作業をしており、午後8時40分に警察に通報した。

 

六畳間のシーツの上で男は人の頭部を、女性は足の肉を鋏で切っている最中だった。男は部屋の名義人・鈴木正人(39歳)、女性は鈴木の遠縁で茂木美幸(27歳)と判明。解体されていたのは鈴木の従兄弟で、美幸の夫にあたるバンドマンの茂木政弘さん(32歳)であった。部屋を訪ねた男性は政弘さんのバンド仲間で、24日夜にも彼の安否を気遣って確認に訪れていた。

部屋のオーディオからは音楽が流れており、通報から5分ほどして藤沢北署員らが駆けつけても二人は黙々と作業の手を止めようとはしなかった。

「鋏を放せ!」

部屋の周囲に白いシーツや半紙が張られ、床は血に染まり、流しやポリ袋には骨や臓物が遺棄されていた。二人は死体損壊の容疑で現行犯逮捕。殺害についても犯行を認め、動機を問われた男女は「彼に取り憑いた悪魔を払うため」と供述した。

 

経緯

戦後ほどなく生まれた鈴木は、1955年、小学4年時に両親が離婚。横須賀にある母方の祖母の家に預けられ、同居していた母の異父弟夫婦により養育された。本件の被害者・政弘さんは、その夫婦の実子で、幼少期に鈴木と共に生活していた時期があった。

その後、鈴木は千葉県にあった父方親族の許へと移り、中学卒業後、都内の中華料理店に就職するも人間関係に適応できず健康を害した。16歳のとき、神奈川県葉山町で不動産ブローカーをしていた母の許に身を寄せ、再び横須賀の政弘さんの隣家で暮らすこととなる。69年に横須賀市定時制高校を卒業した鈴木は、自動車免許や宅建資格を取得し、母や兄の不動産業を手伝い始めたが、事業はほどなく経営不振に陥った。

1966年から空手を11年間続け、優れた型を身に着け「実力的には初段並」と評価されたが、指導者は目の色を変えて相手を痛めつけ、勝負ばかりを気にして相手かまわず攻撃するなど「武道に必要な心が不足している」ことを懸念し、一級から昇段試験を受けさせてはもらえなかった。また30人近い女性に混じって茶道を3年間毎週習っており、まじめで明るく大人しく、飲み込みも早かったという。

二十歳頃から会社勤めをしており、当時はてきぱきとした態度で口調も丁寧、給料は低かったが言われた以上の仕事にも熱心に取り組んでいたという。20代半ばで蓄膿症や痔の手術を受け、胃腸やのどの不調で漢方薬を服用しており、頻繁にマッサージに通うなど体調不良の多い体質だった。そうしたこともあってか、74年、母親から「大山ねずの命神示教会(おおやまねずのみことしんじきょうかい)」の集会に誘われて予言を受けたこともあったが、鈴木母子は基本的には無神論者であり、入信事実は確認されていない。時期や入会のきっかけは定かでないが政弘さんは成人前後から教会に入信しており、話を聞いて二人も足を運んだのかもしれない。

1979年頃にダイヤモンド取引で詐欺事件を起こして鈴木母子は逮捕された。鈴木は「母親に共犯者に仕立てられた」と恨むようになり、母も彼に対して気を遣うようになった。母の異父弟が二人の保釈金を用意しなかったことから「薄情者」だと鈴木家の者は根にもっており、家族同士の付き合いは疎遠となった。政弘さんは学生時代から年長の鈴木を「兄貴」と呼んで慕っていたが、詐欺事件後は交友は途切れ、密かに鈴木を侮るような面もあったとされる。

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家はビル清掃業を営んでいたが、政弘さんは大学を中退し、音楽学校でドラムに打ち込み、神示教会鵠沼分教所に所属する若手信者らとバンドを結成した。家族には「20代で芽が出なかったら辞める」という約束で音楽活動に邁進することとなる。

美幸は父の転居に伴って中学3年で秋田県秋田市から神奈川県綾瀬市に移り住み、卒業後は親元を離れて鎌倉市の病院に勤務しながら、准看護婦(准看護師)の資格を取得。その後も定時制に通って高卒資格を取得し、高等看護専門学校を経て1984年に正看護婦となる。中学時代に人間不信になる出来事があり、神奈川に来て遊び相手もおらず、絶望とまではいかないがなかなか馴染むことができなかったという。

二人の出会いは1978年8月、政弘さんの弟がオートバイ事故で美幸の勤める病院に入院したことで知り合いになり、占いなどに興味を惹かれ、やがて彼の勧めで神示教会に入信した。美幸は前年から元患者の男性と交際しており、交際中、三度の中絶経験があった。交際相手にも入信を勧めたが、反対され82年に破局。恋愛相談などをするうちに政弘さんとの親交を深め、83年頃には肉体関係を持つようになった。

同じく83年、政弘さんはバンド「スピッツ・ア・ロコ」のドラムス担当でブルボンレコードよりデビューを果たすも、売り上げは5000枚と思うように伸びず。84年に7インチシングル『愛論人(アイロンマン)』、LPアルバム『人情』をリリースし、横浜を中心としたライブハウスで活躍した。とはいえメンバーがライブ費用を負担する有様で、音楽活動だけで食べて行けずアルバイトと実家の支えで生活していた。

84年に政弘さんの知人だった神示教会の信者が病魔に苦しみながら亡くなったことや、教団内の組織改編に疑問を持つようになって信仰から遠ざかり、脱会。交際自体は順調に続き、86年4月に結婚した(鈴木の家族は結婚式に出席せず)。美幸は看護婦を辞めて、駅から徒歩20分の雑木林に囲まれたくぼ地にある政弘さんの実家に同居することとなる。

ビル清掃業を切り盛りする姑に代わって、美幸は家事と家業の手伝いをこなし、並行して慢性アルコール中毒の舅の看病をしながら生活を送った。当初は快癒に向けて意気込んでいたが、舅の飲酒は一向に収まらず、便をこぼし歩き、美幸の家事の不手際を罵り、酒を買いに出歩いて道路で寝てしまうなど世話に手を焼いた。家業は自転車操業の状態で、光熱費などの督促状が届くこともあった。彼女の失業保険で夫婦の遊興費などを賄っていた。

また戦後に急造された家屋は狭小で出入り口にはまともなドアもなく、風呂場は家の外、雨漏りもひどく、庭は荒れ放題で、かねがね美幸は転居を求めていた。頼りにしていた政弘さんもいざ生活を共にしてみると意志が弱く、男らしさに欠けるように感じて歯痒く思え、気丈な姑に対しても心底からなじむことができずにいた。だが美幸はそうした不満を実家の父母に漏らすこともしなかった。

 

84年に家族は東逸見に転居したが、鈴木は茅ヶ崎の家に残り、定職に就かず母や兄から小遣いをもらうなどしてふらふらと過ごしていた。ラーメン店を開業した時期などもあったが長続きせず、サラ金に100万円近い借金もあった。86年に「突然会いたくなって」政弘さんを訪ね、美幸とも面識をもち、再び従兄弟同士の親交が再開された。美幸は鈴木が泊まりにきた際などに、夫や家庭の愚痴を聞かせることもあった。幼いころから政弘さんや茂木家を見てきた鈴木は、美幸の不満に同情し、よき理解者として振舞った。

スピッツ・ア・ロコはレコード会社、所属プロダクションから契約を打ち切られながらも草の根のインディーズ活動を続けたが、メンバー間には「今後」について不協和音が生じていた。リーダー政弘さんも人気低迷や活動方針について思い悩み、運勢占いの本を読んだり、幸運を招くと言われる木を植えるなどしていた。86年、バンドは「今年一杯がんばってダメなら解散」という背水の陣でライブに臨み、その覚悟は次第に現実味を帯びていた。後援者の好意でCMソングとして全国ネットで放映されたがヒットの起爆剤にはならず。

87年2月1日に大森の街頭占い師に相談すると、「あなたは編曲はできるが本当の作曲はできない。プレイヤーが良くない、バンド活動では芽が出ない」と厳しいお告げを突き付けられた。2月8日のライブ後、メンバー各人の意向を確認し、3月15日の公演スケジュールをもって解散することで合意した。

 

ドラムマンの変調

美幸の希望もあって、鈴木は茂木家の売却に向けて不動産会社を口利きした。不動産屋とのやり取りの後、3人で帰宅すると鈴木は「夢で神が降りてきた」と言い始めた。「神の曲を作れと言われたが、自分ではなく作曲ができる政弘のことではないか」と話すと、美幸も「予言が当たった」と同調し、占い師のお告げにも作曲に集中すべきようなことを言われたと話した。鈴木は「政弘は作曲家一本でやっていけという神様のお告げだ。このまま家にいるとビル清掃の家業やアル中の父親の世話でダメになる。この家を出て3人で作曲活動をやろう」と誘った。

考え込んだ正弘さんは「世界では善が負けつつある。残るは歌の世界のみだ。善の曲を広めなければ核戦争のボタンが押される。僕が神の曲を書き、バンドで世界に広めて悪を封じるために作曲家としてやっていく」と答えた。鈴木は「政弘は心はきれいだが、物事をやり遂げる男らしさがない。俺が教育する」と背中を押すと、政弘さんは「お願いします」と応じ、妻に「兄貴を信じろ」と話した。

 

2月11日、鈴木は「自分には神が降りた。分かるだろう」と言って一方的に軍隊の話を始め、「悪魔を追い払う救世の曲を作れるのはお前しかいない」と政弘さんを後押しした。翌12日も昼に来て同じような話を何度も繰り返した。

その夜、政弘さんは横浜市内へバンドのライブに出かけ、ステージで「3月2日、12日の公演で解散する」旨を発表した。だがバンド後援者の紹介でミュージックビデオの演出家がライブを見に来ており、まだやる気があるのなら力になると提言すると、政弘さんは「もう一度やります」と答え、演出家はレコード会社を紹介できるよう努力すると話した。

この日、政弘さんはバンドマネージャーに「従兄弟の鈴木はすごい霊感を持っている。神の声を教えてくれて全て言ったとおりになる」「今まで自分も気付かなかったが、あなたは単なるバンドのマネージャーではなく、僕を世に送り出すために必要な人間なんだ。僕は神の心で神の曲を書き、それを世界中にヒットさせて世の中を平和にする」などと語った。政弘さんは目前に迫っていたバンドの解散について「保留」の意思に傾いていた。

 

13日、鈴木は政弘さんに再度不動産屋をあてがい、新居とすべく物件を検分したり、当面の制作活動ができるように賃貸できる家屋はないかと交渉したりした。だが政弘さんは「方位が悪い」等として交渉は一日中まとまらず、業を煮やした鈴木は「この前の約束はどうしたんだ。神の曲を作曲するんだ。作曲活動に専念しろ」と詰め寄り、最終的に横須賀市の物件の賃貸を決めた。

その晩、居酒屋に立ち寄ると、美幸は「政弘さんに悪気が憑いている」と発言すると、鈴木も同調して「お前の目に悪が付き始めた。うちに帰りたくなる気持ちにさせるようなものが憑いている。お前の両親には悪魔が憑いており、悪魔はお前を世に出さないようにしている」「せっかく家を出て作曲に専念しようと決めたのに、帰ったらまた元通りに戻されるから家に帰るな」と説得した。

美幸も「決意が鈍るのはよくない」とそれに同意したが、政弘さんは「親は敬うもので恩義がある、家には帰りたい、バンドも解散したくない」と答えた。だが鈴木は「それも悪魔がお前にそう言わせているんだ」と畳み掛けると、政弘さんも遂には同調し、作曲の為には親を捨てて離れなくてはならないとの考えに至り、「神の曲」制作への意気込みを見せるようになった。

 

愛論人

「大山ねずの命神示教会」は、1953年に供丸斎こと稲飯定雄によって横浜市に設立された新宗教である。75年、教団支部で不祥事が起こり内部に亀裂が走ったものの、供丸姫こと森日出子を神の化身(使者、直使)として戴き、支部制から本部直轄へと改革が行われた。その後、拡大路線を引き、約10年間で5万人から10倍近くにまで信者数を急増させた。政弘さん夫婦が入信していたのも凡そこの時期に当たる。

今日では公称会員数80万人とされ、近年では小室圭氏の祖母が帰依していたことでも注目された。

神示教会は神道系で、教義の中心は「神、仏、人の道」とされ、カトリック系に説かれるような「悪魔憑き」に関する教えは存在しない。だが政弘さんが作詞・作曲を手掛けたスピッツ・ア・ロコの『愛論人』は曲調は軽妙なポップスながら、「此の世に巣食う悪魔を懲らしめる正義の味方」といったどこか事件を彷彿とさせる歌詞が登場する。

政弘さんの脳裏には、世界情勢に対する漠然とした危機感、反戦的な志向や音楽による平和的伝道の理想があったと推測される。80年代初頭は冷戦構造の末期にあり、アフガニスタン紛争、イラン・イラク戦争フォークランド紛争などが活発化しており、国内は今日よりも不戦的風潮が強く、経済的に繫栄した日本にあっては「なぜ戦争はなくならないのか」といった牧歌的な心証を抱いていたかもしれない。

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鈴木は、母親に連れられて神示教会支部の代表者に予言してもらったことがあり、その後、予言が悉く現実と重なったと話している。逮捕後、検察は事実関係を確認し、一部合致しなかった予言もあること、合致した予言も推測可能性が高いことが認められており、裁判所は鈴木の作話が混入していると判断した。だが神示教会の「神がかり」や「予言」といった宗教的な概念は、若い頃から親族間で共有されていたものと言える。

かつて養育を受けた茂木家に対して鈴木に少年期から憎悪感情があったかは定かでないものの、詐欺による逮捕後には少なからぬ嫌悪感があったとみられる。アルコール中毒の政弘さんの父親、家庭を顧みず仕事に明け暮れる母親、バイク事故で脚を失った弟、音楽活動の不調にあえぐ兄、と見方によれば良好とは言えない家庭環境にも思える。そうした鈴木の茂木家への偏見が、政弘さんへの「お前の両親には悪魔が憑いている」との発言につながったのではないか。

80年代後半の鈴木は洋楽喫茶に繁く通い、ハンク・ウィリアムスやタミー・ワイネットを好み、カントリーミュージックのカセットもよく購入する音楽ファンではあった。第三者から見れば、演奏経験もなく不定職の中年男のアドバイスに何の説得力もないように思われるが、元々優柔不断な性格でバンド活動や自身の将来に思い悩む政弘さんには、強い感化を引き起こしたと捉えることができる。

鈴木は政弘さんの主張や神示教会の教えを汲みつつ、美幸の希望にも添えるよう、バンドからの撤退と作曲家への転身、加えて実家からの転居を促していた。けしかけた美幸も病院勤めを再開して家計を支えようと考えていたという。鈴木のみならず妻・美幸も加勢し、物理的にも軟禁状態に置かれたことで、政弘さんは従わざるを得ない心境に追い込まれ「自分は神の曲を作らなければならない」と信じ込むようになった。もはや一種の洗脳状態とも言える。

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2月14日夕方、鈴木は政弘さんのバンドのメンバーやマネージャーに「バンドはやっていくが、政弘は作曲に専念する。彼は神が作曲者としてこの世に送り込んだ人間だ。それをこの世の悪魔が邪魔しようとしているから、俺は悪魔から政弘を守らなければならない」と説得した。マネージャーは「神が憑いた」と語る鈴木の言に、にわかに神示教会の教義に通じるものを感じたが、部外者がバンドの継続について語ることに不信感を抱いた。

その晩、バイトで家を空けていたバンドメンバーの部屋に籠って政弘さんは楽曲制作を始めた。鈴木と美幸も見張り役、あるいは「悪魔」の誘惑を阻止する護衛役として部屋に留まった。15日早朝、バイトから帰った家主が部屋に戻ってみると、頭を抱える政弘さんに対して二人が「早く書け、神の歌を書け」「歌えないなら書き直せ」と責め立てていた。美幸は「政弘は気が狂うようになると神の曲が書ける。3年前に夢を見た。この人の父親が事故か何かで死体がバラバラになって、そのとき気が変になったようになって曲を口ずさんでいる夢を見た」と語り、鈴木は「気持ち悪い話だな」と応じていた。バンドメンバーはそうした状況に恐ろしくなり一刻も早く部屋から出ていってもらいたいと感じたという。

 

同15日昼近くになって、新居の受け入れが可能だと確認できたので政弘さんの実家へと戻り、車にステレオ一式、キーボード、布団や衣類を詰め込んだ。雪が降り始め、美幸は「自分たちの旅立ちを清めるために神が降らせている」と感じ、ひとしきり泣いた。政弘さんは車内で「旅立ち」という仮タイトルの曲をハミングしてカセットに吹き込んだ。

引っ越し作業や買い出しを終え、夜は銭湯に出掛けた。その帰り道、政弘さんは鈴木に「テレビでサイロから核弾頭がビーンと出てくる情景を思い出した。近い将来に起きることだ。僕を風呂屋に行きたい気にさせたのは、神様がさっきのテレビを僕に見せるためだったんだ」と語った。帰宅後、美幸にも「核戦争を防止して人類を破滅から救うには、神の曲を作り、それを世界に広めなければ」と話した。

バンドメンバーとマネージャーは政弘さんの元を訪れ、事の真意を質したが、「バンドはやります。タイコはやらず作曲に専念します」と答えた。メンバーたちは「親が心配している」「狂っているふりをしているだけなんじゃないの」と考え直すように迫った。「旅立ち」のハミングが吹き込まれたテープをメンバーらに聞かせたが、メンバーらの共感を得ることはできず。政弘さんが「迷っているんだ。今ここにいる人たちの気持ちを動かせないで納得させられないのなら、私たちがやっていることは間違っているんじゃないか」と呟くと、美幸は「駄目よ、言葉を聞いては。音を聴くのよ」「あの人のことだけを信じていればいいの」と鈴木を指さした。

3人は曲作りに勤しむ一方で、美幸の心中には政弘さんと二人きりになりたいという感情が生じていた。鈴木もそうした美幸の心中を察しつつ、「三人で神の曲をつくる」と言って譲らず、居場所を失うわけにはいかないとの思いがあった。美幸が政弘さんの肩を揉んでいると鈴木は「夫を独占したいという自我の塊だ」と指摘した。美幸は自分の心中を言い当てられたように感じ、鈴木の言う「神がかり」も本当なのではないかと思ったりした。

19日、一時帰宅を認められた政弘さん夫婦は実家で家族と食事をとった。政弘さんは弟に、親父とおふくろは悪魔だから一緒に暮らすことはできないと言い、「自分は善の曲を作り人の心を慰めなければならない。『上を向いて歩こう』のような曲を作る」と話した。家族と家業のことはお前に任せる、これからも迷惑を掛けると思うがよろしく頼むと後を託した。美幸は生理中だったが、一週間ぶりに政弘さんと性交渉を持った。

一人取り残された鈴木は、政弘さんが度々心変わりを見せることや、夫婦が時折見せる自分への反発に苛立ちを覚え、どうすれば政弘さんの心をより強く引き付けられるか腐心した。20日、政弘さんと再会すると「人間界のことをしてはいけない」と言って行動を制限しようとし、道行く浮浪者を指さして「悪魔ではないか」と言って目隠しをし、部屋に戻ると壁や障子を「神の色」である白のシーツや半紙を全面に貼って「悪魔の侵入」を防ぐ術とした。

政弘さんは夜にはバンドメンバーと同じ照明のバイト先へと出掛けた。メンバーから鈴木らの言動や解散騒動について異常を指摘されたが、「それ以上言わないで」「早く藤沢に帰って曲を作りたい」と話し、対話を拒んだ。メンバーらは3月に決まっているライブが終わってから今後について決めることとした。

帰宅した政弘さんは鏡で自分の顔を見ながら「人相が気ちがいじみている」と嘆き、鈴木に対しても「兄貴に魔神が降りているんじゃないか」と言い寄った。これまで新居契約に尽力し、預金を夫婦に渡していた鈴木は侮辱された気がして、「何を言ってるんだ。俺はお前を男にしてやろうと命を懸けてるんだ。勝手なことを言うな」と叱責した。鈴木は政弘さんに電話をさせ、実家に戻っている美幸に早く帰ってくるように急かした。

 

事件の発生

2月21日午後、美幸が実家から藤沢のアパートに戻ってくると、上半身裸になった政弘さんはこたつで作曲作業に集中していたが、首の後ろに見慣れない1、2センチ大の傷跡があった。鈴木は傷について「背中の骨の部分に悪魔の素があるようなので塩で揉み、汁を出した」と説明したが、美幸はその言葉をうのみにせず、加虐行為を不快に思った。だが政弘さんは「鈴木さんを信じなさい。痛いけど我慢する」と言い、美幸はその言葉に従って傷口を手当てした。

その後も、鈴木は政弘さんに「塩揉み」と「液出し」を繰り返し、美幸にも「自我の塊が両肩と右ひざにある」と言って同様の塩揉みを迫った。美幸は鈴木の言う「悪魔」の存在を妄信してはいなかったが、かねて強い肩こりに悩んでいたことからこれを見通されたようにも思えた。意に反したが容易に逆らいきれず、息苦しさを覚え、涙を流しながら「塩揉み」や「液出し」を数時間にわたって続けた。

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22日朝、鈴木は美幸が自分を蔑ろにするような態度に気づき、「俺は政弘のために色々やっているのに感謝の気持ちがない。この膝にそういう自我があるんだよ」と言って、再び彼女の膝を押さえつけた。美幸は前夜の振る舞いから鈴木に反感を強めていたが、その態度に威圧されて接し方を気遣うようになった。

鈴木の政弘さんへの「塩揉み」は部位も強度も益々エスカレートしていき、爪を立てて首から肩にかけてがりがりと掻きむしるようになった。美幸は表皮が剥がれた背中の肉を指で挟んで「液出し」をするのは忍びないとして、手加減して誤魔化そうとしたが「これをやらなきゃ政弘がダメになる」と鈴木に威圧され、力を入れて絞り出すようになった。

政弘さんは苦痛を訴えながら暴れ、下の階の住人も驚くほどの音を立てていた。鈴木は力づくでねじ伏せながら「俺を信じているんだろう」と迫り、美幸も「鈴木さんを信じろと話していたのは噓だったの?」と我慢を強い、政弘さんは負けそうだと嘆いたが「我慢する」と言い、抵抗は減っていった。

やがて鈴木は「後頭部にも悪魔がいる」として、耳より下に来る髪をカミソリで剃り、首や胸にかけても「塩揉み」「液出し」の範囲は拡大された。上半身は広範に皮膚が剝けて赤くただれた状態で、政弘さんははぁはぁと息を立てるだけの衰弱状態となった。そんな状態でこれ以上作曲など出来ようはずもなかった。

鈴木は「これ」と言って政弘さんの喉ぼとけを美幸に示した。具体的に「首を絞めて殺す」といった言葉はなかったが、美幸にはそういうことだと分かった。鈴木は「のどぼとけに悪魔がいる。これをやらないといけないんだ」「こうすれば完璧なんだ」などと口走り、彼女の顔色を窺うと、「暴れるかもしれないな」と自分のしていたベルトを手渡した。美幸はベルトや手近にあった股引、バスタオルなどで夫の太腿、膝、足首を緊縛した上で馬乗りになって両手を押さえつけ、鈴木が首に手をかけた。

政弘さんの口から唾が飛散したため鈴木は口元にタオルを載せ、炬燵の上にあるコップを渡すように美幸に命じた。「これは神の水だから、悪魔が飲めば早く死ぬから」と言ってタオルに水を垂らし、美幸は4杯ほど新たに水を汲み足した。5分か10分か、政弘さんは苦悶の声を上げ、青白い顔が赤色や紫色、更には青黒くなって、ついに「ウーッ」と声にならないような末期の叫びを発して息絶えた。

美幸は、そのとき可哀そうとも、早く死んでほしいとも、死んでしまって困ったなどとも何も思わず、ただ目の前で事が進んでいくだけの「からっぽ」の状態だった、と後に精神鑑定で述べている。

二人ともしばし呆然としていた。やがて鈴木は「こいつは、神様がくれた心以外は、肉体そのものが悪魔の塊だったんだ。だからこうなった」と口にしたものの、「これからどうすんのかな」と言葉を失った。

美幸は「元々は神の曲を書くという話が何でこうなってしまったのかな」「憑いていた悪魔が死んだのだから復活しないものか」、警察に捕まることになるだろうが、夫が鈴木のことを「最後まで信じろ」と話していたことなどを思い返していた。

30分ほどして口を開いた鈴木は「まだ悪魔の痕跡が残っているかもしれない。ちょっと切ってみるけどいいな?」と同意を求めてきた。美幸は「鈴木さんの言う通りにします」と言って、作業を手伝った。

その後、25日夜の発覚まで二人は死体損壊を続けた。

 

裁判

裁判で検察側は、被害者の優柔不断さ、頼りなさなどに苛立ちの念を募らせ、加虐心理が暴走した結果、鈴木と美幸の両人に共謀関係が成立したと動機を説明した。弁護側は、被告両人は政弘さんから悪魔を払う意志を共有していたものの、一種の幻覚状態に見舞われて行動したもので殺害や死体損壊の故意はなかった、心神耗弱状態だったとし、刑事責任能力の有無が争点となった。

鈴木は取り調べ中も神の意思や悪魔の憑依を匂わせる発言を繰り返し、映画『エクソシスト』で見た悪魔の憑依が被害者に起きたと確信して、塩揉みの悪魔祓いの末に本人に問いただしたところ「悪魔だ」と答え、もはや埒が明かないため殺害するしかなかったと述べた。美幸は自白段階に至ると「(看護婦で精神病院や精神病患者について知識があるため)自分は狂っていないので精神病院に入れられたら耐えられないと考え、正直に話した」と述べていた。

3人の鑑定人、美幸は2人の鑑定人による情状鑑定が行われたが、鑑定結果は以下のように割れた。

鈴木

鈴木二郎鑑定;詐欺事件での逮捕前後より精神分裂病に罹患しており、1986年10月頃から神の声幻聴を体験し、神がかり的妄想に至った。かねて神示教会に入信していた被害者らと接近したことが影響して神秘的妄想を発展させ、事件を遂行した。理非善悪の弁別や判断能力が障害されていた。美幸被告と被害者は同じ妄想を共有していたのではなく、「この人(鈴木)に任せればいい」という一種の催眠状態-心因反応性の状態にあった。

中田修鑑定;精神分裂病であれば日常行動に異常が見られるはずだが、本人と母親以外の証言から妄想・幻覚の類は確認できず、業務などにも支障がなかった。精神分裂病らしさ(プレコックス感;専門家の経験則から得られた言いようのない感覚のこと)や基本症状がなく、書簡も理路整然としており明らかな思考障害はない。三人精神病(感応精神病;一人の妄想が伝播し、複数人で同じ妄想を共有する妄想障害。家族内で共有されることが多い)の心因反応状態ないし極度の防衛反応として理解できる。三人が神秘家であり、鈴木と政弘さんの親族関係、政弘さんと美幸との夫婦関係によって三者が相互に影響し合い妄想が維持発展した。

福島章鑑定;過去の病歴、現在の精神状態、脳波所見から「側頭葉てんかん」と診断(脳機能異常。いわゆるてんかん発作のほか持続的な幻覚や錯覚も症状とされる)。責任能力は存在していたが、その程度は多少とも低下していたことも考えられる。鈴木の供述には幻覚体験、憑依体験とも別種の「自分に神が降りた」という直感的な冴え・指導性の自覚が見て取れる。「神の曲を書く」という観念は「妄想」の共有というより、鈴木の「狂信」と「支配観念」だった。

美幸

中田修鑑定;神の啓示体験や幻視・幻聴はなく、神へのあこがれや奇跡を信じる神秘主義・オカルティズムの傾向が認められる。三人精神病の心因反応の状態で、意識はあるが感情・思考が著しく制限された意識変容状態にあり、責任能力が欠如していたと判断されても差し支えない。

福島章鑑定;知能は普通域にある分裂気質者だが、精神病質は存しない。宗教的支配観念に囚われて行動していた。犯行前後の状況についても極めて明清な記憶を保持し、筋道の通った供述をしている。多少の減退はあるが著しい程度に低下していたとは考えられない。

裁判官は、鈴木の悪魔祓いについて、殺害前の一週間は、部屋の雰囲気作り、手をつないで座る、凝視、「鬼出ていけ」「俺を信じろ」といったまじないの反復など、無痛の間接的手法が採られていたが、事件直前には「塩揉み」「液出し」という肉体に直接苦痛を与える行為に一変しており、それまでの「悪魔祓い」の目的と一貫する行為とは言い難いと判断。政弘さんの「兄貴にも魔神が降りているんじゃないか」との発言によって相当に立腹し、物理的手段・加虐行動へとエスカレートしたと推認している。

また美幸の自白からは、鈴木の「神の歌」「悪魔祓い」に半信半疑ながらも自身も追認して夫を追い詰めたことや、夫もそれを信じ込んでしまい盲従してしまったことへの後悔、抵抗できず葛藤していた様子も汲み取れた。鈴木が殺害を示唆した折にも、「いっそ殺した方が夫の為だと考え、手伝った」と自認しており、罪悪感を持ちながらも犯行に加担したことを自認している。

1992年5月13日、横浜地裁は、両被告に精神障害や側頭葉てんかんは存せず、5鑑定のいずれも採用できないとした。「悪魔祓い」と加虐行為による興奮と心理的視野狭窄によって2人の判断力は低下していたものの状況説明は概ね一致しており、意識障害は認められず、刑事責任能力はあったと認定。悪魔証言は信用性に乏しい詐病であり、反省の情が薄いとして鈴木に懲役14年、美幸に懲役13年の判決を下す。

美幸は控訴せず、鈴木は控訴棄却により罪刑が確定した。

 

 

所感

鈴木が従兄弟の妻に横恋慕していたならば、この事件はどこにでもある「男女の三角関係」「痴情のもつれ」で忘れ去られてしまう事件だったかもしれない。しかし鈴木と美幸の間に肉体関係は認められていない。美幸の自供では、性欲は強くなく不感症で、肉体関係を持った男性は政弘さんを含めて5名だという。

両者の性関係にまつわる唯一のエピソードは、政弘さん殺害後の23日に関する美幸の証言に残されている。鈴木が美幸の顔を「塩揉み」した後、右乳房を2、3分揉み、「こういうことをしてもまだ俺を信じるか」と言ったという。美幸はこのとき「肉体関係を迫ってくるんだな」と直感したが、鈴木はそれ以上のことを要求せず、鈴木は「悪かった、なんでだろうな」と詫び、それ以外に性関係はなかった。解体作業に入る前後の出来事と思われ、事件の流れに直接関係しないため、却ってその供述には信憑性がある。

鈴木の言葉の真意は分からないが、単に殺害による興奮と徹夜状態でのナチュラルハイなどが重なって男が俄かに性欲を催したことも想像され、あるいは「これは夢ではないか」と自分の頬っぺたをつねるように実存性の確認がしたかったようにも思える。しかしこれだけで鈴木に好意があったとまでは断定しがたく、二人に情愛が通っていたとはやはり考えにくいのである。

 

本件と同じく「悪魔祓い」事件として知られる1995年に福島県須賀川市で起きた福島悪魔祓い事件の主犯・江藤幸子は、かつて入信していた宗教にもあった“動物憑き”や地場信仰などにヒントを得て、自ら霊能祈祷師を生業とした。信徒と共同生活を送る中でカルト集団と化し、肉欲など利己的な動機からグループ内での連続殺人へと発展していった。規模としては小さいグループであるが、構造としてはオウム真理教と同じく教祖の一存が事件を招いたと解される。

だが本件では僅か3人というサークル、教祖と信者ではなく親族間で引き起こされた。鈴木は「神」あるいはかつて予言を受けた神示教会の「先生」を引き合いに出しながら擬似的な伝道者として夫婦との間に特異な上部関係を築いた。それは暴力団の存在を匂わせながら、パワーバランスの優位性を築こうとした北九州連続監禁殺人の松永太や尼崎連続変死事件の角田美代子らの手口ともどこか通じるものがある。

鈴木に松永や角田のような悪意や計画性があったとは到底思えないが、横浜地裁判決文を読むかぎり、供述のすべてが即興による創作とも思えず、何らかの心的疾患が疑われる。専門家による診断が三者三様となり裁判所によっていずれの所見も採用されなかったことは、法の根幹となる人権を扱う上で学問的意義や信用性をも問われる由々しき問題であると言わざるを得ない。

心的揺らぎはあったにせよ加害者、被害者とも病名のつかない程度の一般市民に違いなく、いつ何時似たような事件が生じえないとも言い切れないことに強い恐怖を感じる。