いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

アルバート・フィッシュの告白

アメリカのシリアルキラーアルバート・フィッシュ(1870-1936)について記す。

“グレイマン”、“ブルックリンヴァンパイア”、“ムーンマニアック”、“ウィステリアの狼男”、“ブギーマン”など数々の異名を持ち、その犠牲者は100人は下らないとも言われており「すべての州のこども」を血祭りにあげたとの逸話も伝えられる。トマス・ハリスによる創作上のサイコキラーであるハンニバル・レクターの主要モデルの一人となった、犯罪史上まれにみる狂人である。

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■Dear Mrs. Budd,

1934年11月、デリア・フラナガン・バッド夫人の元に匿名の手紙が届く。文盲の夫人は息子にその手紙を読んでもらうことにした。

「親愛なるバッド夫人へ。

1894年、ジョン・デイヴィス船長の蒸気船タコマ号に私の友人が水夫として搭乗していた。サンフランシスコから中国の香港へ向けて出港した。香港に到着した彼は、他の二人と陸に上がって酒を飲んだ。

彼らが戻ったときには船は消えていた」

身に覚えのない不可解な外国の話は、徐に異様な方向へと転じていった。

「その頃、中国では飢饉が続いていた。どんな肉でも1ポンド1ドルから3ドルだった。人々は貧苦にあえぎ、飢えから逃れるために、12歳以下の子供はすべて肉屋に売られ、切り刻まれて食料として売られた。14歳以下の少年少女にとって街に安全な居場所はなかった。どこの店に行っても、ステーキやチョップ、シチューの肉を頼むことができた。少年少女の肉体が供され、そこから欲しい部位を切り取ってもらう。仔牛のカツレツとして売られている、体の中で最も美味とされる少年少女の背肉は、最も高い値段で取引された。

ジョンはそこに長く滞在して、人肉の味を覚えた。ニューヨークに戻ると、7歳と11歳の2人の少年を盗み出した。彼の家に連れて行き、裸にしてクローゼットに縛り付け、着ていたものを全て燃やした。毎日、毎晩、何度も折檻し、肉を美味しく柔らかくするために拷問した。最初に11歳の少年を殺したのは、彼のお尻が一番太かったからで、もちろん肉も一番多かった。頭以外のすべての部分が調理され、食べられた。オーブンで焼いたり、茹でたり、焼いたり、揚げたり、煮たりした。次は小さな男の子で、同じように食べられた。

当時、私は 409 E 100 St, リアライトサイド に住んでいた。彼は人肉の美味しさをよく話してくれたので、私はそれを味わってみることにした。」

そして、6年前の、バッド家に起きた忘れがたい出来事に話は及んだ。そこには長女グレースの誘拐と、おそるべき顛末が記されていた。

「1928年の、6月3日、日曜日、406W.15Stに住むあなたの許を訪ねた。イチゴのポットチーズを持参し、私たちはランチに食べました。グレースは私の膝の上でキスをしました。私は彼女を食べる決心をし、パーティーへと誘った。

あなたは「行ってもいいよ」と言った。彼女をウェストチェスターの空き家に連れて行った。そこに着くと、私は彼女に外にいるように言った。彼女は野の花を摘んだ。私は2階に上がり、自分の服を全て脱いだ。そうしないと彼女の血がついてしまうからだ。支度を終え、私は窓辺から彼女を呼んだ。そして彼女が部屋に来るまでクローゼットに身を潜めた。

裸の私を見た彼女は、泣き出して階段を駆け下りようとしました。私が彼女を掴むと、彼女は「ママに言う」と言った。私はまず彼女を裸にした。蹴られたり、噛まれたり、引っかかれたりもした。私は彼女の息の根を止め、自分の部屋に肉を運び、調理しやすいように彼女を細かく切り刻んだ。オーブンで焼かれた彼女の小さなお尻は、どれほど甘くて柔らかかったことか。彼女の全身を食べるのに9日を要した。私は彼女とセックスしなかったが、望めばそうすることもできた。彼女は処女のまま死んだのだ。」

バッド夫人はそのおそるべき手紙を直ちに警察に届けた。

手紙が届く10日前、ウィリアム・F・キング刑事はグレース失踪事件の捜査継続を宣言し、改めて地元紙で記事の掲載と情報提供を求めていた。犯人はキング刑事の呼びかけに反応したのである。

捜査機関は「デイヴィス船長」や「香港の飢饉」や「人肉食」に関する事実は確認できなかったものの、連れ去るまでの一連の整合性から、手紙の送り主がグレース誘拐の真犯人であると判断した。

 

 

■青年の妹

そう、はじまりは1928年5月25日のニューヨークワールド紙日曜版に掲載された求職記事だった。

エドワード・バッド、18歳」

灰色の顔をした小柄な紳士は、求職記事を見たと言ってバッド家のドアをノックした。ニューヨーク州ファーミングデールの農場主だと名乗るその男フランク・ハワードは、数百羽の鶏と6匹の乳牛を6人のこどもたちとともに飼育しているのだと話した。どのように農場を成功に導いたのか、そして今後はさらに人出が要り用なことを示し、夫人らを納得させた。

何より彼らを惹きつけたのは、エドワード青年と彼の友人ウィリーに週給15ドルの報酬を用意するという農場主の言葉だった。裕福とはいえない、エドワードのほかに4人のこどもを抱えるバッド家にとってそれは魅力的な額である。住み込み働きの話がまとまり、ハワードは数日中に迎えに来ると約束して別れた。一度電報で予定の変更があったものの、ハワードの謝罪もあり、バッド家の信頼を損ねるものではなかった。

6月3日、バッド家に再訪した農場主は、エドワード青年を農場に連れて行く前に用事ができた、と夫人に語った。その日、“姪の誕生日パーティー”があると言い出し、なぜかそこに10歳の長女グレースをエスコートしたいと懇願した。夫人は急な申し出に懸念もあったが、今後の関係を思えばそれほど強く抵抗することも躊躇され、紳士に娘を預けた。その日、ドレスアップして出掛けた少女は二度と家に戻ることはなかった。

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nydailynews.com

翌朝、家族は彼女が帰らないことを警察に知らせ、その経緯を説明した。調べにより、「フランク・ハワード」という名前も、農場の仕事も、行き先であるパーティーの住所もすべて架空のものと分かった。

グレースは、茶褐色のボブヘア、碧眼、身長4feet(120センチメートル強)、体重60lbs(約27キログラム)。フェルトの帽子、グレイのコート、毛皮の襟巻にシルクのドレスと白いソックス、白い靴といういでたちだった。

少女の母親は何百枚にも及ぶ性犯罪加害者らの写真を確認したが、あの貧相な農場主、娘を攫った男は見つけられなかった。なぜ男は農場主を装ったのか、なぜ突然少女が標的にされたのか。やがて全米中の警察へ少女の写真付きの捜索願が出された。

2年後、66歳のアパート管理人チャールズ・エドワード・ポープが逮捕されるも、疎遠になった彼の妻がけしかけた冤罪だった。その後も少女は発見されることなく、犯人逮捕につながる証拠も得られなかった。

 

■逮捕

バッド夫人への手紙には犯人の名前こそ記されていなかったが、その封筒には「N.Y.P.C.B.A(ニューヨーク民間運転手福祉協会)」の代紋が付いていた。同協会に出入りする関係者すべてから手書きサンプルを集め照合を行う。その後、建物の清掃員が自宅に文房具を持ち帰っており、転居の際に下宿先に置き残していたとの証言から、マンハッタンイースト128th St.55の寄宿舎を訪ねる。しかし同室を利用していた老人ハミルトン・ハワード・アルバート・フィッシュは数日前に転居した後だった。

寄宿舎の女将は、彼は息子からの仕送りに頼って暮らしていたと話すと、キング刑事は郵便局に手紙の傍受を依頼し、老人が頼りにする送金を絶って「兵糧攻め」とした。

1934年12月13日、息子からの送付物が誤ってこちらに届いているとの知らせを受けたフィッシュは金を受け取りに元の下宿先を訪れ、待ち伏せていたキング刑事は男に任意同行を求めた。フィッシュはグレース・バッド殺害について否定せず、そもそもは兄エドワード殺害が目的だったと供述した。

フィッシュは呪縛から解かれたように「血への欲望」を洗いざらい話した。エドワード少年を迎えに行く前に空き家となった露店に解体道具を隠しておいたこと、エドワード少年からグレースへの心変わり、列車の片道チケットを少女に買い与えたこと、彼の欲望を満たすためにノコギリや肉切り包丁をどうやって調達していたか…その後、男の証言通り、唯一捨て置いた「頭部」の骨がウェストチェスターヒルズの廃屋から発見された。

 

フィッシュは1903年に窃盗で逮捕されて以来6度の犯歴があったが、いずれも保釈金で出獄し犯行を重ねていた。ときにベルヴー精神病院で鑑定を受けたこともあったが、「無害で、正気」との鑑定が下されていた。

犯行について、少女をレイプすることは「思い浮かばなかった」と話した。しかし後に彼は弁護士に対して、グレースの首を絞めている間に2度の不随意射精をしたと打ち明けた。裁判では、この情報が誘拐は性的動機によるものだと主張するために使われた。報道の際、カニバリズムの話題は慎重に斥けられたが、こども殺しの余罪が次々と明らかとなり、国民全体を恐怖させた。

 

ブギーマン

ブギーマン”とは世界各地に伝わる、主にこどもを狙う“人さらい”の民間伝承である。姿形や特徴もまちまちであり、沼や森といった危険な場所、あるいはタンスや物陰といった身近な場所に潜む精霊、海賊など人身売買がモデルとみられるケースなど様々なスタイルが存在する一種の怪異/妖怪的存在である。聞き分けの悪い子どもに対して「よいこにしないとブギーマンがさらいにくるよ!」といって大人が叱ったりする。

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1927年2月11日、ブルックリンのアパートで4歳のビリー・ガフニーは友人兄弟と一緒に遊んでいた。12歳の兄がアパート自室へ帰った後、ビリーと3歳の友人は姿を消した。

やがてアパート屋上で発見された3歳児は、ガフニーの行方について聞かれると「ブギーマンが連れて行った」と答えた。大人たちは少年の証言を採用せず、地道な捜索を続けたが発見には至らなかった。

その後、ポーランドアメリカ人の連続殺人犯ペーター・クジノフスキ(1903-1929)が、28年12月に逮捕され、関与の疑いがもたれたものの、決定的な証拠や自白もないまま、ほどなく死刑が執行された(彼も複数のこども殺しをしていた)。

 

事件から7年後、フィッシュ逮捕の報を新聞で知ったブルックリンのトロリー運転手ジョセフ・ミーハンはその貧相な顔に見覚えがあることを思い出した。ジョセフによれば老人は小さな男の子を連れてトロリーに乗降したと言い、男の子は上着も着ておらず、母親を求めて泣いているのを老人がなだめていたという。

幼い友人が語った「ブギーマンが連れて行った」のは妄言ではなく、実在していたのである。調べにより事件当時、フィッシュが現場から数マイルの場所で塗装工の仕事をしていたことが裏取りされた。

フィッシュは手紙で弁護士に、ガフニーの“その後”について明かした。

イカー・アベニューのゴミ捨て場へ連れて行った。そこからそう遠くない場所に、一軒の家が建っていた・・・。私はそこにG少年(ガフニーのこと)を連れて行った。裸にして手足を縛り、ゴミ捨て場で拾った汚い布切れで猿ぐつわを噛ませた。それから彼の服を燃やし、靴をゴミ箱に捨てた。

その後、歩いて戻り、午前2時にトロリーで59丁目まで行き、そこから歩いて家に帰った。次の日の午後2時頃、私は道具を、重たい“キャット・オ・ナインテイルズ(九尾の猫。先が枝分かれした短い鞭で懲罰具、拷問具に用いる)”を持って行った。自家製だ。柄が短い。私のベルトを半分に切り、その半分を長さ約8インチの6本に切った。脚から血が出るまで鞭を打ったよ。耳と鼻を切り落とし、口を耳から耳へと切り裂いて、目玉をえぐり出した。その時、彼は死んでいた。私はナイフを彼の腹に突き刺し、口を近づけて血を飲んだ。

私は古いジャガイモ袋を4つ拾い、石を山ほど集めた。そして彼を切り刻んだ。私は塊をつくった。鼻と耳と腹のスライスをまとめて一塊にした。それから体の真ん中を切った。ちょうどヘソの下あたりだ。そして、後ろから約2インチ下のところで足を切った。これを大量の紙と一緒にひとまとめにした。頭、足、腕、手、そして足は膝から下を切り落とした。これを石で重くした袋に入れ、両端を縛って、ノースビーチに向かう道沿いにある、ぬるぬるした水のプールに投げ込んだ。水深は3~4フィート。すぐに沈んでいった。

私は肉を家に持ち帰った。彼の体の前部が一番好きだった。彼のおちんちんとたまたま(His monkey and pee wees)、そしてプリッとしたお尻をオーブンで焼いて食べた。私は彼の耳、鼻、顔と腹の部分を使ってシチューを作った。タマネギ、ニンジン、カブ、セロリ、塩、コショウを入れた。美味しかったですよ。それから、彼のお尻の頬を裂き、おちんちんとたまたまを切り取って、まずそれを洗った。ベーコンをそれぞれの頬にのせ、オーブンに入れた。その後、玉ねぎを4個収穫し、肉が4分の1時間ほど焼かれたところで、グレイビーソース用の水を1パイントほど注ぎ、玉ねぎを入れました。間隔をおいて木のスプーンで肉の背中を焼いた。そうすると、肉はとてもジューシーになる。約2時間後、七面鳥はきれいな茶色になり、中まで火が通っていた。七面鳥のローストの味は、彼の甘くて太い小さな背中の味の半分もしなかった。私は4日ほどで肉を食べ尽くしてしまった。彼のおちんちんは木の実のように甘かったが、たまたまは噛むことができなかったのでトイレに捨てた。

ガフニーの母親はフィッシュに息子の死の真相を確認しようと面会を求めたが、フィッシュが泣き崩れてそれを拒んだため、希望はかなわなかった。

 

■灰色の男

1924年7月14日、9歳のフランシス・マクドネルの両親は少年の捜索願を出した。マクドネル少年はポートリッチモンド地区で兄や友人たちとキャッチボールをした後、行方が分からなくなった。捜索隊によって自宅近くの雑木林の中にぶら下げられた遺体となって発見される。

少年は自身の付けていたサスペンダーで首を絞められて殺害されていた。遺体には性的暴行を受けた痕跡があり、去勢されていた。また脚と腹部に広範な裂傷を負い、ハムストリングス(股関節から膝の間の筋肉)はほぼ完全に肉が剥ぎ取られていた。

マクドネル少年の友人は、灰色の口髭の老人に連れて行かれたと証言。近隣でも同様の男性が小道を通って森に入る姿が目撃されており、事件の3日前にも誘拐未遂が発生していた。

スタテン島の農場で一人で遊んでいた8歳の少女ベアトリスは「ルバーブ探しを手伝ってほしい」と男に声を掛けられる。男は謝礼として金を見せ、少女が農場から出ようとしていたところ、気付いた母親が男を追い払った。その後、農場の納屋をねぐらにしようとした男は、少女の父親に見つかって締め出されていた。

フランシス少年の母親アンナ・マクドネルは事件当日に犯人と思しき不審な男に出会っていたことに気が付いて驚愕した。アンナは記者に対し、「手を奇妙にグー・パーさせながら、通りを徘徊し、何かぶつぶつと独り言をつぶやいていた。彼は、太い灰色の髪に、垂れ下がった灰色の口髭だった。彼の周りのものすべてが色褪せて“灰色”に見えた」と男の印象を語った。犯人は「グレイマン」と呼ばれ、懸命の捜査が行われたものの、男の特定には至らなかった。

しかしフィッシュがグレース殺害容疑で逮捕されると、フィッシュこそが「グレイマン」だと同定する目撃者が相次ぎ、1935年3月にビリー・ガフニー殺害を認めた後で、再逮捕される。フィッシュは動機について、「神が男児の去勢と殺害を命じた」と証言した。

フィッシュが実際に殺人罪で起訴され、裁かれたのは上記3事件のみである。その他1926年から1932年にかけて、エマ・リチャードソンら5歳から17歳の5人の少年少女殺害についても疑惑が向けられたが立件には至らなかった。100人近く「全州のこども」を標的としたことを自負していたフィッシュだが、大言壮語だったのか、誰かが捏造した“伝説”か。あるいはその大半がストリートチルドレンや身寄りのない子どもなど捜索願すら出されない、事件化しないような相手を狙った犯行だったのかも定かではない。また殺害人数ではなく、虐待や切断の被害者数だとする説もある。

 

電気椅子のおかわり

弁護人ジェームズ・デンプシー、検察官エルバート.E.ギャラガーの前で何人もの精神科医が男の糞便愛好、小児性愛、窃視症、露出症、ウロフィリア(尿愛好)、マゾヒズムサディズム、吸血、カニバリズムなど幾多の性的フェティシズムに関する所見を述べた。

類を見ないほど多くの倒錯的性向、精神病質を備えたフィッシュだったが、多くの凶悪犯と違って謙虚で、多くの精神病患者と違って激しい情動もなく落ち着いて見えた。

ジェームズ弁護士は精神疾患により責任能力に問えないと訴えたが、鑑定医の意見は割れ、フレデリック・P・クローズ裁判長は責任能力ありと認定し、陪審団も有罪を支持。被告人は死刑判決を下された。

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「未だかつて経験したことのない最高のスリルになるでしょう!」

1936年1月16日、シンシン刑務所の電気椅子に座ることになった男は、スイッチを入れる直前に「なぜ私がここに居るのかさえ分からない」と述べた。

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裁判資料とされた骨盤のX線写真(撮影1935年頃)。

上の画像は、逮捕後に撮影されたX線検査の画像である。当初フィッシュは、40代後半に精神的不調をきたし、自傷行為から鼠径部や腹部(直腸と陰嚢)に自ら針を埋め込んだと供述していた。精神科医はその真偽を確認するため実際にX線検査を行い、実際に骨盤領域に少なくとも29本の針が突き刺さった状態だったことが明らかにされた。

この体内に残った多数の針が影響して、電気椅子がショートし、フィッシュは一度の通電では死ねなかったと言われている。無論、見る者に衝撃を与えたX線写真に着想を得たブラックジョークではあろうが、過去の積み重ねによって男はきしくも“最高のスリル”を二度味わった、という逸話である。

 

■半生

その複雑すぎる性向を抱えながらいかなる人生を過ごしてきたのか。簡単に振り返っておく。

 

アルバート・フィッシュは1870年5月、ワシントンDCでイギリス系の父ランドールとスコットランドアイルランド系の母エレンとの末子として生を受ける。

父親は母親より43歳年長の“年の差夫婦”で、フィッシュの出生時は75歳で(当時としては相当な)高齢だった。川船の船長や肥料メーカーとして働いていたが、80歳のとき心臓発作で亡くなり、母親は幻視・幻聴をもつ精神疾患があり4人兄弟を養えないため、幼くして孤児院へ入ることとなる。尚、親族には父方・母方とも生来の精神病質が多かったことが判っている。

セントジョンズ孤児院で9歳近くまで過ごしたフィッシュは、ハミルトンという名前から「ハム&エッグ」とあだ名され、それを嫌って亡き兄の名アルバートを名乗るようになった。施設では頻繁に虐待を受けた。しかし彼は虐待を受けないように生活や行動を矯正するでなく、肉体的な痛みに快楽を見出すようになったと言い、殴打や鞭打ちの罰を受けて勃起した。

1879年、母親が公職に就いたことでフィッシュは引き取られ一緒に暮らすようになった。82年頃、近所の少年と関係を持ち、糞食や飲尿を仕込まれた。裸の男児見たさに公衆浴場へ通うようになり、結婚相談所や求職広告から相手の住所を得て卑猥な手紙を送りつける習慣がついた(終生の趣味となった)。

 

1890年頃、20歳でニューヨーク市へ移ってから売春などをして過ごしたが、やがて塗装工を本職とするようになった。母親の薦めで9歳年下の女性と結婚し、6人のこどもを授かっている。

しかし結婚後もレイプや痴漢を辞めることはなく、主に6歳以下の男児を標的とした。恋人と蝋人形館に行った際、陰茎の二等分線に魅了され、以来性器切除に没頭する。1903年、重窃盗の罪で投獄される。

1910年頃、デラウェア州ウィルミントンに勤めていた際、19歳のケデンとSM関係を持つようになった。フィッシュによれば知的障害の疑いもあったとされるケデンは、農家の廃屋に連れて行かれ、2週間に渡って拷問が続けられ、最終的に局部の半分を切り取った。

「彼の悲鳴と、彼が私に向けた視線を決して忘れないだろう」

フィッシュは彼の一部を解体して持ち帰ろうとしたが、暑さによる腐敗臭での発覚を恐れて断念した。腐敗を抑えるために酸化物をかけ、ハンカチにワセリンを塗って傷口を包み、10ドル札を置いて別れのキスをした。列車で帰宅したフィッシュはその後の彼の消息は知らないと語った。

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1917年1月、フィッシュの妻は寄宿していた便利屋のジョンとほとんどの家財道具を持って駆け落ち。フィッシュは一人親を担うこととなる。

この頃から使途ヨハネなどの声が聞こえるようになり、絨毯で体を巻き付けるなどの奇行をとることがあった。下腹部への針刺しに耽っていた時期であり、釘の付いたパドルで打ったり、オイルに浸した羊毛を肛門に差して着火するといった自傷行為エスカレートさせていった。

虐待の自覚はなかったが、彼はこどもたちやその友達にも自虐的行為を試すよう勧めた。カニバリズムへの強迫観念から生肉食を家族に振舞うこともあった。

1919年頃、ワシントンDCのジョージタウンで知的障害のある少年を刺した。フィッシュは知的障害者かアフロアメリカンであれば殺されても惜しくないと主張していた。後の証言では、こどもたちに金を払って、犠牲者となるこどもを調達させたこともあったという。この時期の犯行について立件されてはいないが、すでに人知れず殺害や食人への欲求がエスカレートしていたとみられる。

 

■所感

幼少から思春期にかけての自我形成期において、ドラッグや犯罪への誘惑はその後の若者の人生を狂わせる。フィッシュの家系には精神疾患が多く、遺伝的な精神病質の素地はあったのであろう。児童期の孤児院におけるいじめ虐待といった待遇は彼の成長および性徴を歪めるには充分な環境要因であった。親許に戻っても一般的な家庭とはかけ離れた暮らしだったのであろう。思春期を迎えると、悪友に染められていく。異常性欲をそのまま肥大化させていき、サディズムマゾヒズムの捩じれによって自らを傷つけ、愛する者を傷つけ、見ず知らずのこどもたちへとその捌け口を求めた。

20世紀前半の精神医学でどんな治療がなされていたのか、どんな薬が存在したのか、そもそもフィッシュは治療を受けていたのか。現代であればここまで症状を鬱積させず被害を抑えられたようにも思う。

 

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木下あいりさん殺害事件の加害者トレス・ヤギ受刑者は、逮捕直後から一貫して「悪魔が入ってきた」「悪魔の声に殺せと命じられた」と証言した。これは精神疾患による幻聴や「不合理極まりない責任転嫁」ではなく、受刑者の出身であるペルーでは悪行に手を染めた人間がよく使う慣用表現だとされる。「悪魔」的感情・意志(いわば「気の迷い」)に導かれて罪を犯してしまった、という自責と後悔の念が入り混じった表現といえる。

一方で、フィッシュの考えを支配したのは、「悪魔」ではなく使途ヨハネや「神」であった。崇高な、絶対的な存在であり、その導きに誤りはなく、そのお告げに従うことこそが正しさなのだ。フィッシュにかぎらず自虐行動、自傷行為に身を捧げる人びとは罪の意識を傷や流血として表現しており、キリストの受難や磔刑と重ね合わせて意識されていることもあるという。神意に沿って行動した自分がなぜ電気椅子に掛けられるのか分からないのも尤もな話である。

彼を支配するものが神ではなく悪魔であったなら、自らの悪行を悔い苦しむあまりどこかの時点で自ら命を絶ち、こどもたちの被害は広がらなかったのではないか。“集団ストーカー”や“恐るべき隣人”ではなく、神に魅入られたことにもその不幸を感じる。いずれにせよ責任転嫁には違いないのだが。

フィッシュはあらゆる性倒錯を同居させた異常性欲者で、見た目や物腰以上に著しい人格障害を抱えていた。人間は神ではない。法廷は彼の存在そのものをおそれていたのだ。