ジャック・ウンターヴェーゲルについて【ウィーンの絞殺魔】

 “ウィーンの絞殺魔”の異名でオーストリアの「シリアルキラーとして知られている」、ジャック・ウンターヴェーゲル(1950-1994)について記す。

 

■生い立ち

ヨハン・ジャック・ウンターヴェーゲルは、ウィーンのウェイトレスと見知らぬ米兵との非嫡出子として生を受けた。幼少期に母親が逮捕され、ヴィミッツという山村で暮らすアルコール依存症の祖父のもとで育った。

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Von Niki.L - Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=90677337

実母のまともな記憶はなく、祖父が持っていた彼女のヌード写真でその姿を知るのみだった。祖父は写真を手に「お前はこの“雌犬”の“穴”から出てきたんだ。お前のせいで時間も金も取られるってのに、あの雌犬は一銭だって送ってきやしない」と言って出来の悪い娘と幼いジャックを責め続けた。

祖父は貧困を理由に少年から教育の機会を奪い、盗みや詐欺、農場荒らし(動物窃盗)の片棒を担がせた(彼の幼少期の思い出の一つは、祖父のカード賭博のイカサマに加担したことだった)。10代になると、強盗のほか、売春のポン引き、性的暴行などに手を染めるようになっていった。

16歳で窃盗罪で逮捕されて以降、青年期のほとんどを矯正施設(少年院)との往復に費やすことになった。真っ当な生き方など教わってこなかった彼は、貧困と虐待が生み出した若年犯罪者の典型ともいえる前半生を送った。

 

■唯一の殺人 

1974年12月12日、ジャックが24歳のとき、ドイツのヘッセンに住む友人アネリーゼとクリスマス・パーティーの帰路で強盗をしようと思い立ち、車でドイツ人女性マーガレット・シェーファーの後をつけた。当然彼らはアルコールやドラッグの影響下にあった。

彼女の家に侵入すると、金を奪い、手かせを付けて、エヴェルスバッハの森へ拉致し、鋼棒で首と頭部を殴打した。着用していたブラジャーの紐を使って絞殺した。

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「彼女を殴ったとき、母のことを思い出した」

 

その発言には、彼の悲惨な生い立ちを供述に重ねることで情状酌量を求める意図があったのかもしれない。彼は裁判で強盗については認めたが、殺害の意志はなく過失致死だと主張していた。

だが私欲のためだけに18歳の女性の人生を踏みにじった罪が軽くなることはなく、1976年6月、ザルツブルグ地方裁判所終身刑を言い渡された。74年にストッキングで絞殺された23歳の女性殺害の嫌疑もかけられたが、こちらは証拠不十分とされた。

 

■転機

しかしジャックは獄中でのリハビリテーションの一環として読み書きを習得すると、詩や戯曲、自伝や小説といった執筆活動に勤しむようになる。サークルを作り、朗読会や子ども向け作品の制作も行った。

初等教育を受ける機会さえなかった彼の目覚ましい“変貌”ぶりは、ノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネックアンドレア・ウォルフマイヤーらドイツ・オーストリア圏の知識人たちの目に留まる。

無学な殺人犯であっても再教育と良心のリハビリによって更生できることを証明する“模範囚”としてジャックを擁護し、終身刑で社会復帰への門戸が閉ざしてしまうのはおかしいとして、赦免・釈放を求めるキャンペーンが行われた。

 

83年に獄中から発表された自伝『Fegefeuer oder Die Reise ins Zuchthaus(煉獄または刑務所への旅)』はベストセラーとなり、88年にはウィルヘルム・ヘンストラー監督・脚本により映画化もされた。85年から89年にかけて12冊の文芸誌『ヴォルト・ブリュッヘ(ことばの架け橋)』を発行。この活動と執筆者たちは、ドイツの社会思想家インゲボルグ・ドレヴィッツによる囚人文学賞を受賞した。

彼の獄中作家としての活躍は米国でも反響を呼び、イギリスの連続殺人鬼“Jack The Ripper(切り裂きジャック)”をもじって“Jack The Writer(物書きジャック)”などと紹介された。

 

88年3月、刑法第46条が改正され、終身刑を受けた者であっても15年以上の服役を経て著しい更生が認められ、再犯はないと仮定される場合において、仮釈放を認める方針が加えられた。彼の刑期は16年に減免され、90年5月23日に仮釈放を認められることとなる。

 

■煉獄からの脱出

出所後、ジャックは著述のほか、公共放送のゲストや雑誌インタビューなどにも登場し、犯罪やセックスワークに詳しい元アウトローのジャーナリストとして精力的に活動を開始した。

ダブルのスーツを着こなし紳士然とした彼の振舞いは、不幸な生い立ちから見事に立ち直った“社会実験”の成功モデルであることを人々に印象付けた。彼は各種パーティーに引っ張り凧となり、Seitenblickegesellschaft、いわば社会的成功を遂げた文化人のひとりと捉えられていた。

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「これまでの人生はもうおしまいだ。次に取り掛かろう」

 

しかし、野に放たれた元囚人は、後半生をかけて社会に寄与する生き方を望んではいなかった。 

ジャックが出所して半年後、プラハ近郊のヴルタヴァ川でニーソックスだけを履いた全裸遺体が発見された。性的暴行の痕跡はなかったが、全身には多数の傷跡があり、死因は絞殺だった。その後もグラーツ、ルステナウ、ウィーンなどヨーロッパ各地で計8人のセックスワーカーの女性が殺害された。

そもそもオーストリアでは売春婦を狙った殺人は年間1~2件程度と極めてまれであった。遺体の多くは森などの屋外に遺棄されており、なぜ急にセックスワーカーばかりが立て続けに襲われるようになったのかは誰の目にも不審に思われた。(ウィーン医科大の法医学博士アンドレア・ベルツィアノヴィチの調査によれば、1959年~94年の間でオーストリア国内の売春婦の殺人は54人とされる)

 

警察は、ジャックへの疑いを強めていたが、いわば法律を変えてまで釈放した有名人を再逮捕するとなると捜査は慎重に慎重を期さねばならず、容疑者の断定を避けていた。

だがメディアはすでにシリアルキラーの存在を報道しはじめ、その中で元捜査官オーガスト・シェナーは各地の事件報告から、「元囚人」による犯行との類似性を指摘した。被害者たちはことごとくブラジャーの紐かストッキングで絞殺されていたのである。

さらに皮肉なことだがジャーナリストのひとりとして、ジャック自身もウィーン警察署長に取材をし、91年に“歓楽街の恐怖”としてセックスワーカー連続殺人についての記事を書いている。

 

91年6月から7月にかけて、ジャックは“仕事”のために訪米し、“ナイト・ストーカー”リチャード・ラミレスに倣ってロサンゼルスのセシルホテルに滞在していた。LAPD(ロサンゼルス市警)の送迎を受けながら、本来の仕事である犯罪や性風俗の調査、現地での雑誌の取材などをこなしている。彼の滞在した5週間の間に、周辺で3人のセックスワーカーの女性がブラジャーの紐で首を絞められる連続殺人が起きている。 

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

帰国後、ジャックへの捜査が開始されたが、彼は事件への関与を否定し、表面上は捜査員に対して協力的だった。グラーツ警察はジャックへの監視警戒を続け、彼の述べたアリバイはいずれも成立しないことが判明すると、92年1月に証人尋問を求めた。

 

■逃亡と逮捕

しかしジャックは行方をくらませる。当時ウィーンで知り合った18歳の恋人ビアンカ・ムラックは、バー“マルディグラ”でホステスをさせられていたが、捜査の手が及ぶ前に彼女も行方をくらませていた。警察は、2月15日に二人に対する指名手配を公表した。

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Bianca Mrak

同日、ジャックはパリ、スイスを経由し、マイアミ行きの飛行機でアメリカへと高飛びした。その後、ビアンカの知人と連絡をとり、金や新聞記事をアメリカに送るよう手配をつけた。

しかしこの金策裏目に出た。オーストリアで騒ぎが大きくなると、送金役の人物(マヌエラ.O、アイリーン.Pとも言われる)が関係者から摘発を受け、警察の手中に落ちる。

92年2月27日、マイアミの銀行で原稿料の前借を受け取ろうとしたジャックとビアンカは、待ち伏せていたFBIに逮捕された。後年、ビアンカは自伝の中で、逃亡中は彼が有罪になるかどうかなんて考えていなかった、と記した。

陪審員の皆さん、私たちは今後2か月間、逃げも隠れも致しません。そして私は不毛なお芝居などしたくありません。どうぞお寛ぎください。ご不明な点がございましたら、お気軽にお問い合わせください。何でも、本当に何でもお答えします。

ほら、私は殺人者ではないので、隠すものが何もないという大きな利点があります。私が嘘をついているのか、その目でご判断ください。(Vice.com)

オーストリアに身柄を引き渡されたジャックは11人の殺害容疑で起訴されたが、終始無実を訴えた。

検察側は遺体に付着した繊維痕の中から、ジャックが着用していたチーフやズボンと一致するものを検出していた。更に万全を期すため、オーストリアで初となる証拠品のDNA鑑定を行い、彼の車に残されたブロンドの毛髪が犠牲者ブランカ・ボコヴァのものと一致した。逆に見れば、そこまでしなければジャックを有罪にできなかった、彼の表向きの生活に決定的な“ボロ”が出なかったともいえるかもしれない。

 

■終幕

彼の日記には、673日間で152人の女性との快楽的関係が詩的表現で綴られていた。また勾留中に確認できただけで約40通のラブレターが、ときに写真入りで送られてきた。

精神科医ラインハルト・ハラーがジャックに女性ファンについて尋ねたところ、彼なりに3つの分類を示した。ひとつは殺人者と寝たいと望む古風で“お堅い”未亡人、ひとつは無実を確信して救いたいと願う人たち、そして自らの人生を「檻から出ることができない殺人者」に捧げるグルーピー(狂信的ファン)。彼は魅力的で人たらしの狡猾なプレイボーイだった。

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Jack Unterweger mugshot

しかし「現場近辺のホテルで読書をしていた」といった彼の不明瞭なアリバイは、陪審員の目にはもはや“下手な芝居”にしか映らなかった。担当弁護士アストリッド・ワグナーは、勾留中の彼に恋愛感情を抱いていたが、晴れて無罪に導くには経験が浅かった。

特別法医リン・ヘロルド博士は、犯行時の独特の結び目にはシェーファー殺害との共通点があったと指摘し、精神科医はジャックを自己愛性人格障害と診断したが刑事責任能力に問題はないとした。2件については遺体の損傷が大きく死因の特定ができなかったため罪に問えなかったが、9件に関してジャックの犯行と認められた。94年6月28日、仮釈放なしの「2度目の終身刑」判決が下された。

 

判決からおよそ6時間後、男は独房内で自らの靴とスウェットパンツの紐を使って首を吊った。上訴前(法律上は刑が確定していない状態)だったことから、彼は厳密には「連続殺人犯」ではない。若い頃、1人の女性を殺害した「元囚人」としてこの世を去ったことになる。

オーストリア国民党のマイケル・グラフは「彼の最高の殺人」と、“お決まりのやり方”で自死した元囚人に対して不適切な皮肉を述べた。

 

■真偽と妄想 

一般に流布されている彼の前半生(上記の“生い立ち”の部分)は、彼の自伝によるところが大きい。つまり“貧困と虐待の犠牲者”としてのエピソードは、彼の“シナリオ”という可能性も大いにある。

自らの学びや知識人との交流の中で、虚偽記憶が生成されたり、自分“たち”に有利なストーリーを形成したとしてもおかしくはない。かつて彼を擁護したリベラル派知識人たちは彼の中にひとつの神話を夢見たことを悟り、責任の一端を謝罪する者もいた。

 

RMAオーストリア地域新聞)系メディアmeinbezirk.atに掲載されたフリージャーナリスト、ピーター・プガニック氏の記事では、ジャックの小学校時代の「恩師」の娘にあたるイングリッド・サビッツァー・ヴィツムさんの証言を取り挙げている。

彼女が父親から聞いた話では、ジャックの祖父フェルディナンド・ヴィーザーはアルコール依存と賭博好きで知られていたという。次から次へと女性を連れ込んでは暴力を振るったため、女性たちはすぐに居なくなった。ネグレクト(育児放棄)された彼にトイレットペーパーの使い方を教えたのもその恩師だった。許しがたい家庭環境で育ったジャックは一年生の初めからすぐに周囲とケンカを始め、クラスの問題児だった。ジャックにひどい偏見を持つ牧師もいたが、恩師はその都度彼を庇っていた。そうしたこともあって彼は収監中も恩師に対して手紙を綴り、釈放後にも2度、華やかないでたちで恩師の元へ訪れたという。

 

上の記事を読んで、筆者は何の根拠もない妄想に囚われるようになった。

ジャックが自伝で「母親のヌード写真を見せられた」と記したが、はたしてそれは本当の母親だったのかという疑問はだれしも思い浮かべると思う。単に“女性”を指し示す意味でポルノ写真に映っていた第三者を使って「お前はここから生まれたんだよ」と説明したようにも思える。ひとつ疑い始めると、生い立ちのエピソード全てが創作であるようにも思え、どこまでが真実でどこまでがフィクションなのか非常に見えづらくなっていた。

だがジャックの祖父が女たらしで暴力的であること、実際にネグレクトな祖父のもとで育ったことが事実とすれば、更なる推論が思い浮かぶ。ジャックの祖父は「本当に祖父だったのか」という見方である。

 

たとえば、祖父が老年で授かった子どもなのではないか。要は、ジャックの祖父は彼の父親なのではないか、ということだ。祖父が「ジャックの母親」として見せていたヌード写真は逃げられた“元カノ”のものだったのではないか。父親自身が、あるいは彼を父親と認めたくなかったジャックが、父親の存在を曖昧にしてしまったという可能性である。

あるいは、祖父が自分の娘に性的虐待を加えて身ごもらせた可能性。つまり祖父であり、父親でもあるケースだ。ジャックの母親が親許に戻らない理由として十分に考えられる。

女性の出入りが頻繁だったことから考えると、祖父の恋人の連れ子だった可能性もあるのではないか。男の暴力に耐えきれず、実の母は逃げ出して、幼いジャックだけが残された。祖父は実は赤の他人というケースである。しかし捨て殺すにはあまりに不憫で忍びなく、とはいえ自ら育児ができる訳でもない。それゆえ次々と母親代わりとなる女性を求めて連れ込んでいたと見るのは非現実的だろうか。

 

 

 

知識人たちを魅了し、模範的な元囚人という肩書を手に入れた男は、はたして「浄化」することはなく、反社会的人格の上にハリボテの社会性を身に付けただけであったが、いずれにせよ彼の不幸な生い立ちはフィクションではなかったようだ。

 多くの犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

 

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・参考

"Jack Unterweger war ein Kind der Wimitz" - St. Veit 

10 Jahre nach Unterwegers Tod: Bianca Mrak rechnet ab! • NEWS.AT

Jack Unterweger: Der Party-Killer | profil.at

Jack Unterweger Teil I | Mord und Totschlag

http://www.causa-jack-unterweger.com/paypalipn/eBook_Wenn_der_Achter_im_Zenit_steht.pdf