いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

『ガール・イン・ザ・ピクチャー』—フランクリン・フロイドの大罪

2023年1月23日、フロリダ州ユニオン矯正施設に収監中だった79歳の確定死刑囚の死亡が確認された。明確な死因は特定できなかったが自然死とされている。男の名は、フランクリン・ロイド。

前年にNetflixで公開された映画『Girls in the picture』が世界的に高い評価を集め、嘘と犯罪にまみれたその半生が再注目された世紀の凶悪犯である。

 

あるダンサーの死

1990年4月、深夜のオクラホマシティ郊外を車で走行中の若者たちが道路沿いにブロンズヘアの若い女性が頭から血を流して倒れているのを発見し、まだ息があったため救急に通報した。

女性は外部から重度の打撲傷を負い、頭蓋底に大きな血腫が生じており、集中治療室へと担ぎ込まれた。彼女の身元はオクラホマ州タルサに住むトーニャ・ドーン・ヒューズと判明。近くのストリップ酒場「パッション」でダンサーとして働き、家族には年配の夫クラレンスと幼い息子マイケルがいた。

 

夫のクラレンスは翌日病院に駆けつけた。昨晩、滞在中の「モーテル6」(北米に展開する格安モーテルチェーン)で買い物に出た妻の帰りを待っているうちに寝入ってしまったと語った。発見現場には購入したばかりの食料品が散乱していたため、警察は彼の証言を踏まえて女性はモーテルへの帰り道でひき逃げに遭ったものと判断した。

 

年配の夫

同僚のカレン・パースリーさんは、89年の秋にトーニャと知り合った。ダンサーとしては一番下っ端で、活発で目立つ女性というよりはおとなしい優等生タイプだった二人はすぐに親しくなった。彼女は知識欲に富んだ読書家でよく語り合ったと振り返る。楽屋ではトーニャの痣まみれの背中を目にしたと言い、「転んでできた」と彼女は言い訳したが、癒えるよりも先にその数は増えていった。

カレンさんは暴力夫の存在を察して逃げるようにと勧めていた。あるとき「夫が私に生命保険を掛けた」と語ったトーニャは死の恐怖に晒されて怯えていた。だが夫に愛する2歳の息子マイケルを半ば人質に取られ、精神的に囚われの身だった若い母親は逃げのびる決心がつかずにいた。夫は警察友愛協会(FOP)にコネがあり、たとえ逃げ出してもすぐに見つけ出すことができると彼女に伝えていた。

トーニャが集中治療室に担ぎ込まれたと連絡を受け、カレンさんは病院に急いだ。看護師のひとりは、全身の痣や古傷を不審に思い、ひき逃げではなく別の犯罪行為だと漏らしていた。カレンさんが不審に感じたのは、首元のひっかき傷でまるで喧嘩でできた傷のように見えたという。帰宅すると、病院から電話が入り、トーニャの訃報を告げられた。まだ20歳だった。医師もひき逃げにしては外傷が比較的おとなしいこと、また術後の容体が急変したことを不可解に感じていた。

カレンさんはともかく彼女の死を家族に伝えてあげなくてはと考え、トーニャの実家と思われる連絡先を調べて電話を掛けた。だがトーニャの親と思われた人物は「娘は20年前に生後18か月で亡くなった」と返答する。それは亡くなった同僚が偽名を教えていたこと、彼女がトーニャ・ヒューズではなく別人であることを意味した。本名は明らかにならず、墓銘には「TONYA」とだけ記すことになったという。

カレンさんの知るかぎりでは、マイケルは年配の父親にはなついておらず母親の傍を片時も離れなかった。また何より父親によるDVが懸念されたため、カレンさんは病院にマイケルの今後について相談した。看護師は「坊やは無口で塞ぎ込んだ表情をしている」と伝え、福祉局(DHS)の資料を手渡した。福祉局は育児不適正を理由に父親からこどもの身柄を引き離し、すぐに里親さがしが行われた。

 

里親の証言

幸い里親はすぐに見つかった。マイケルは90年5月からオクラホマ州コクトービーン夫妻のもとに預けられ、6歳の小学校入学まで共に生活した。アーネスト・ビーンさんによれば、当初は哺乳瓶を手離そうとせずペプシしか受け付けない難しい子だったという。どうにかしつけようとすると、赤ん坊は頭を床に打ち付けてヒステリーを起こした。だがそれも一週間もすると落ち着いて、2年が経つ頃には赤ん坊から少年へと身体も情緒も目覚ましい成長を見せた。

養親ビーン夫妻のもとで育てられたマイケル

ビーン夫妻はマイケルを正式な養子に迎え入れることを決断し、94年に公的手続きが開始された。だが仮釈放違反で裁判中だった父親は一方的に息子を取り上げられるのは不当だと訴え、親権譲渡は難航した。クラレンスは審問の場で、福祉局がマイケルを引き取った当時、マイケルのおむつが濡れたままだったり愛情の欠如が見られたのは、妻の急死で自身も衰弱していたためだったと主張。父親は養育は不適格とされたが、息子との定期的な面会が認められた。

里親ビーン夫妻も息子との再会を求める父親と面会させること自体はやぶさかではなかった。だが少年はかつての父親を「意地悪な人」だと言って椅子の下に身を隠して面会を拒絶し、夫妻を困らせた。マイケルは当然クラレンスとトーニャの子どもだと思われていたが、福祉局が法的手続きのため親子関係の調査を行うと、驚いたことにクラレンスとマイケルの間に生物学的な親子関係が認められないことが判明。裁判所により男の親権は完全に抹消された。

事はそれで収まるかに思われたが、翌週、夫妻の家の前に見慣れないFordのピックアップトラックが徘徊するようになった。車は低速走行で家屋に近づくと、運転席の見知らぬ中年男が夫人を凝視してきた。男は「ものをたくさん持って死んだ者の勝ちだ」と彼女に言い放ち、そのまま去っていった。

意味は分からなかったが嫌な予感がした夫人は福祉局に、少年の“元・父親”が乗っていたのはどんな車かと尋ねた。再会を強く望んでいた元・父親クラレンスが“息子”を取り返しにきたのではないかと思ったのである。担当者は考えすぎではないかと話したが、伝えられた車の特徴は夫人が目にしたものと完全に一致を示した。

 

運命の日

1994年9月12日、森の中で木に手錠を掛けられ、口をテープで覆われた男性が発見され、ほどなく近くのインディアン・ミリディアン小学校の校長であることが判明した。校長は「保護者らしき男に銃で脅された」「男児が連れ去られた」と話した。

「マイケルを迎えに来た。協力しなければ何をするか分からないぞ。連れてこい」

校長は背後に死の恐怖を感じながらマイケルを1年生の教室まで迎えに行き、校長の車で山間の未舗装路へと移動を命じられた。男は車を停めるように指示すると、校長はしばらく歩かされ、目立った暴行被害こそなかったものの山中で拘束されたという。

児童誘拐は発生から48時間が生死を分けるとされ一刻の猶予も許されない。地元保安局はFBIに捜査を依頼し、特別捜査官ジョー・フィッツパトリック氏はすぐに少年と父親を名乗る誘拐犯の手配書を周辺の捜査機関に交付。直ちにマイケルの“元・父親”クラレンスに関する情報収集が行われた。

児童誘拐の広域捜査を知らせる通知

90年にトーニャ・ヒューズを名乗る女性が死亡した際、夫は生命保険金受給の手続きを行っていた。だがその書類に記載された社会保障ナンバーは、クラレンス・マーカス・ヒューズ本人のものではなくフランクリン・デラノ・フロイドのものだった。フランクリン・フロイドは、他にもトレントンデイビス、ウォレン・マーシャルなどの偽名を持ち、いくつもの犯罪歴があった。

逮捕記録では、まず1960年、フロイド16歳のとき、カルフォルニア州のデパートで拳銃を盗んで逮捕されていた。逃走中には警察との銃撃戦を繰り広げ、腹部に銃撃を受けたが回復して少年矯正施設に入った。

施設を出てアトランタでドライバーを始めた62年には、ボーリング場で4歳児を誘拐しての性的暴行により逮捕され、裁判で10年以上20年以下の服役を言い渡されている。だが精神検査のためジョージア州で病院に移送された際、逃走したばかりか銀行強盗に及んだ。脱走や強盗の加罪によりオハイオ州チリコシ―矯正院に収監されるも、再度脱獄を試みてペンシルベニア州ルイスバーグ刑務所へと収監された。

72年11月、社会適応施設に移った。2か月ほどの訓練期間を経てようやく社会復帰が認められるも、1週間後には性的暴行未遂で再び逮捕される。審問は73年6月に予定され、囚人仲間に保釈金を支度させてその間の拘留は解かれたが、フロイドはそのまま出廷することなく行方をくらませた。逃亡し、別人になりすましてそれから17年もの偽装人生を歩んでいたのである。

若き日のフランク・フロイドのマグショット


捜査員たちは男の前科を知って頭をもたげた。フランクリン・フロイドは子どもの父親でないばかりか、銃を所持していて何をしでかすか分からない元強盗の性犯罪者であり、逃亡犯で潜伏生活の“プロ”でもあった。男の素性が知れると、当然その“若妻のひき逃げ”についても疑問が抱かれた。彼女の死は、夫による保険金目的の「殺人」だったのではないか。

マイケルを誘拐した目的ははっきりしないが、いざというときの「人質」として攫ったものか、あるいは奪われた獲物を力ずくで取り返そうとする所有欲の強い熊のような男の「習性」なのか。とにかく男に子育てなど期待できない、一週間もすれば負担に感じて男児を殺害するのではないか、とフィッツパトリック特別捜査官は危惧した。

 

奇妙な父娘

捜査機関は広く情報提供を求め、児童誘拐とトーニャ・ヒューズ殺害の嫌疑はニュースでも大きく取り上げられた。ジョージア州に暮らす女性フィッシャーさんはホットラインに通報を入れた。

「テレビで“トーニャ”と呼ばれている女性の、生前の情報を持っています。彼女の名はシャロン・マーシャル。高校の同級生で私の親友でした」

 

シャロン・マーシャルは84年から86年までジョージア州のフォレストパーク高校に通っていた。男子からも注目される美貌の持ち主で成績も優秀、同年代より少し大人びていて常に弱者の味方だったと親友は語る。彼女は母親を亡くしており、料理や家事の一切を任されていた。科学部に所属したが毎日夕方にはまっすぐ家に帰った。

PCや携帯電話も普及していなかった当時、若者たちは夜中まで電話を占有してしばしば家族に渋い顔をされたものだった。だがシャロンは「こちらから掛けるから、急にうちに掛けてこないでね」とフィッシャーさんに求め、父親に通話を気づかれると怯えてすぐに電話を切った。家事もさせられて電話も許してもらえないとは余程厳しい父親なのだとフィッシャーさんは思っていた。だがそんなシャロンの父親ウォレンとの初対面は、彼がフィッシャー家に借金を申し入れに訪れたためだったという。

86年、シャロンジョージア工科大・航空宇宙工学科に全額奨学金を獲得しての合格を果たした。父親は卒業文集の広告枠を買って娘の快挙を祝うメッセージを寄せたが、親友は「なぜ父親が娘のセクシーな写真を載せるの?意味が分からない」とばっちりメイクを決めた彼女の写真を見て違和感を覚えた。

父親が卒業文集に寄せたメッセージ。合格を祝し、夢を応援しているようにも見えるが…

フィッシャーさんはマーシャル父娘の家に泊りに行ったことが一度だけあった。シャロンの部屋にドアはなく、カーテンで仕切られた一画だった。彼女は整理棚を開けて「父から貰ったものなの」とセクシーなランジェリーを見せて親友を驚かせた。「なぜこんなものを着るの?」と驚く親友に、シャロンは「きれいだから」とだけ答えた。

その後、二人が着替えをしている最中、父親ウォレンが銃を手に部屋に入ってきた。仰天したフィッシャーさんは叫び声をあげて慌てて身を隠した。ウォレンは「出直そう」と言って部屋を後にし、シャロンは「お父さんたらバカね」と言って笑った。だが再び銃を手に部屋を訪れた男は、フィッシャーさんに寝袋に籠って枕を頭の上に被せるように命じた。恐怖に打ち震える親友の隣で、男は娘をレイプし始めた。

翌朝、シャロンは言った。「彼はああいう人なの」「私は大丈夫だし、あなたも無事だった。だからこのことはもう忘れましょう」。親友は恐怖のあまりこの出来事をだれにも打ち明けることができず、青春時代に暗い影を落とした。

いつしかシャロンは「妊娠が発覚した」と言って泣きながら電話を掛けてきたことがあった。彼女は「子育ては父親が許さない」「出産して養子に出す」と話した。フィッシャーさんは以前から彼女の夢を後押ししており、大学合格時には一緒に泣いて喜んでいたが、シャロンは「父親の世話がある」と言って進学を断念した。別の友人は「大学への進学が彼女の目標であり生きる支えだった。だから道が閉ざされて打ちのめされていた」と語る。卒業後、アリゾナで出産すると言い残し、シャロンジョージアから姿を消した。

 

「違う!彼は夫ではなく、彼女の父親だった」

1994年、通報したフィッシャーさんはジョー・フィッツパトリック特別捜査官と面談し、トーニャと報道された女性はシャロン・マーシャルに間違いないこと、更にトーニャの年配の夫クラレンス・ヒューズの写真を見てシャロンの父親ウォレン・マーシャルであると断言した。だが親友はジョージアを発ってからの彼らの人生を知らない。

男女は父「ウォレン」、娘「シャロン」というマーシャル父娘の人生を捨て、89年6月15日にニューオリンズで結婚することになる。90年に彼女が亡くなるまでの間、アラバマの墓石から採用した「クレランス・ヒューズ」「トーニャ・タドロック」という二人の死者の名を騙った男女は、ヒューズ夫妻として生活を送っていた。

 

“父娘”が“夫婦”になる直前の88年、男女はジョージア州から南下し、フロリダ州タンパへと流れ着いていた。当時活況を呈していたストリップ劇場「モン・ヴィーナス」にはじめて現れたシャロン・マーシャルは明らかに場違いに見えた。ゴージャスな高級ランジェリー姿で練り歩く女性たちを前に、シャロンは白い総レースの上着を羽織って「お人形さん」のように縮こまっていたという。働き出してからも裸同然で歩き回るようなことはせず、恥ずかしがり屋で「昔話」を好まなかった。

同僚だったダンサーのヘザー・レーンさんは、彼女と父親の奇妙な噂を記憶していた。当時、店のダンサーたちは富豪が催すパーティーに招かれることがあった。そうしたパーティーの客は上品で“おさわり”を求められることさえなく、少ない踊りでチップを弾んでくれるため、楽で実入りのいい営業だった。シャロンは初舞台の場にそうしたパーティーを志願したが、その晩、「あの娘をつまみ出せ」と客からクレームが入った。トイレの前で性的サービスを持ち掛けたためである。彼女が言うには、父親に避妊具を持たされて“商売”するように命じられたのだという。

「娘にそんなことをさせる父親なんて、信じられなかった」

シャロンは妊娠しており、88年3月にマイケルを出産。赤ん坊を愛しむ若い母親のまなざしが忘れられないとヘザーさんは振り返る。

当時近所で暮らしていたミシェル・カップルスさんは15歳でマイケルのベビーシッターを頼まれ、マーシャル父娘の暮らすトレーラーハウスに出入りしていた。父娘に友人はほとんどなかったが、シャロンのダンサー仲間シェリル・コメッソが週に何度か車で遊びに来ていた。おしゃれで美貌のシェリルから声を掛けられるとドキドキして嬉しかった、とミシェルさんは振り返る。ヘザー・レーンさんによれば、シェリルはミスコン優勝歴を誇るイタリア娘で「モン・ヴィーナス」を踏み台に『プレイボーイ』モデルを夢見ており、派手な見た目だが根は純真な女性だったという。

ある晩、ウォレンがテレビのプロレス中継を録画しようとビデオテープを漁っていた。彼がテープの中身を確認しているのを盗み見たミシェルさんはその映像に驚いた。あのシェリルと娘のシャロンがトップレス姿でビーチで踊っている内容だった。(娘の裸を撮っているの?)と少女は困惑した。ベビーシッターの視線に気づいたウォレンは「誰にもいうな。冗談で撮っただけだ」と言い逃れをした。

ビデオ撮影の話はヘザー・レーンさんの耳にも入り、シェリルを叱った。シェリルは「ウォレンに頼まれたの。『プレイボーイ』に送ればデビューできるって言われて」と答えた。またシェリルは彼からセックスを求められたことも明かした。関係を拒むと男は“スイッチ”が入って暴力的になり顔を殴られたという。ヘザーさんは「私では守ってあげられない。あの父娘と距離を置くように」と諫めていた。89年5月、シャロンは職場に現れなくなり、“奇妙な父娘”はいつの間にか町から姿を消した。

 

捻じれたタイムライン

夫婦はかつて父娘関係を騙っていた。ジョー・フィッツパトリック特別捜査官は集められた情報を基に事件と男女の時系列を整理し直した。またオクラホマシティではかつて隣人だったという人物から父娘の古い写真が得られた。70年代に撮影されたと見られ、写っている少女は5~6歳のように見えた。

1990年にトーニャ・ヒューズが死亡したときの年齢が20歳。逆算すれば彼女の出生は70年前後と推測される。だが前述のようにフランクリン・フロイドは4歳女児への性的暴行などにより63~72年の間、その身柄は獄中につながれていた。つまりDNA型鑑定をするまでもなく、彼らが実の父娘でないことは自明だった。

犯罪学者によればこうした写真は性犯罪者に顕著な「記念品」と分析され、理想の「娘」を手に入れたときの記念撮影と考えられた。元「娘」で「妻」となり、死亡した彼女もまたフロイドによる誘拐被害者のひとりだったとする見方が成り立った。

70年代に撮られたとみられる「父娘」の写真

フィッツパトリック特別捜査官は一計を案じる。犯罪者には必ず独自の修辞法や行動パターンが存在する。「逃げ場」を求めるのに彼らは以前と同じことを繰り返す、土地鑑のある場所に戻ってくると考えられた。男が使用したことのある全ての偽名、運転免許証を全州に通知して、あぶり出しに生かそうとした。

誘拐から2か月後、男は網にかかった。免許更新のためにケンタッキー州ルイビルの車両管理局を訪れたのである。配達員が新しい免許証を届けに来たように装い、自室から出てきた男を取り囲んだ。過去には警察と銃撃戦を繰り広げたこともあり、SWATまで投入しての盗りものだった。

現場アパートの住人に聞き込みが行われ、フロイドは6週間そこで暮らしていたが、マイケルやほかの人間の出入りはなかったという。職場などでも確認が行われたが、少年の存在を知る者はだれもなかった。アトランタからのバスチケットも発見されたが、「子ども分」はなくフロイドは単身で移ってきたものと見られた。男は「こどもはアトランタに置いてきた」と捜査員に告げた。

俺は息子を愛してる。見つけてほしい

フロイドは取り調べに対し、「自分はマイケルを愛している。彼は存命で、金持ちの家に預けた」と供述した。しかし該当する人物はなく虚偽と判断された。さらに詰問されると「国外に逃げたとき残したままだった」と俄かには信じがたい供述へと変遷した。もはや言い逃れと捉えられ、捜査陣はすでに殺害されたとの見方が多勢を占めた。しかし自白も証拠もないまま少年の死を確定するわけにはいかない。

「会いたいです、彼は実の息子同然です。マイケル、愛しているよ。居場所さえ分かれば飛んでいくのに」「彼の大きな瞳が愛を伝えている、ひと目見れば本人だと分かります」

里親だったビーン夫妻はマイケルの写真をプリントしたTシャツ姿で記者会見に臨み、カメラ越しに情報提供を呼び掛けた。同じ髪色の少年を見かけたとの情報は全国から寄せられたものの、結局本人にはたどり着かなかった。

「そうと確認されるまでは、また会えることを期待してしまう」とビーン氏は捜索当時の思いを振り返る。

 

裁判

フランクリン・フロイドは男児誘拐、車両の強奪、銃器不法使用の罪で起訴された。

「裁判所で彼の姿を目にした。空虚で死んだような目をしていた。チャーリー・マンソンの目だ。恐ろしかった」とジョージア州での捜査に当たった保安官は被告を初めて見たときの戦慄を語っている。

一見どこにでもいる大人しそうなおじさんにも見えるが…

 

心証では限りなくクロに思われた「マイケル殺害」だが、現実の立証は困難を極めた。裁判では自白や直接的な証拠がなくとも有罪をとることは不可能ではないが、「合理的に疑う余地がない」水準にまで情況証拠を積み重ねる必要がある。しかしそもそも少年の遺体は見つかっておらず、移動中の二人の姿や殺害現場を目にした者もいない。いつどこでどんな犯行が行われたか、所在を含めて何も明らかにはなっていなかった。

フロイドにとって検察や裁判官とのやりとりも手慣れたものだった。彼は弁論の機会を与えられる度に、尊大なパーソナリティと自己愛性性格、反社会的人格によって彩られた反論を延々と繰り返した。

証言台に立ったフィッシャーさんは「男は親友のシャロンの父親で、彼女に“Daddy”と呼ばせていた」とジョージア州時代の男女の関係について述べた。だが被告人の男はうろたえもせず「あんたの言ってることはFBIの資料に基づいたでっちあげだ」と言い放ち、被告人の弁護士も呆れた様子で書類を宙に投げた。

たしかに耳を疑いたくなるような話だが、捜査資料やフィッシャーさんら男女の過去を知る者にとっては紛れもない事実だった。フロイドは「マーシャル父娘」「ヒューズ夫妻」の全てを実在しなかった出来事であるかのように“卓袱台返し”を繰り返し、まともな質疑応答はなされなかった。

 

被告弁護側は、校長の拉致や拳銃の不法使用といった事実は争わず、マイケルの殺害を徹底して否認した。また被告の統合失調症の病歴や不憫な生い立ちを説明して情状の余地を求めた。

フランクリン・フロイドは1943年6月、ジョージア州バーンズビルで5人兄弟の末っ子として生まれた。綿工場に勤めていた父親はアルコール依存症で臓器不全を起こし、フランクリンが1歳のときに亡くなった。29歳の母親は経済的に自立しておらず、親許を頼ったが祖父母も大家族の面倒まで見切れないと母子に退去を求めた。

子どもたちは児童養護施設に預けられたが、フランクリンは「女性的」だとしていじめを受け、6歳のときから性的暴行の標的、少年たちの玩具、奴隷にされた。喧嘩や盗みに加担させられ、施設の職員からも目を付けられることとなった。自慰行為を見つかって手に熱湯を浴びせられるといった厳罰を加えられたことも彼の人間不信を強固なものにした。1959年、彼は施設を脱走したが食料盗で拘束される。施設側は、すでに結婚してノースカロライナ州で暮らしていた姉に連絡を取り、彼への保護観察を交換条件として刑事告訴を取り下げた。

姉夫妻の家を追い出されると、フランクリンは母親デラと再会するためインディアナポリスへと向かったが、彼女は流浪の果てに売春婦になっていた。デラは息子に陸軍への入隊を薦めて手続き書類の改ざんを手伝い、フランクリンはカルフォルニアへと向かった。だが実際には15歳の未成年のこと、書類の改ざんも明るみとなって半年足らずで除隊となる。

母親の元に戻ったが再会は果たせず、16歳以降は前述の通り、刑務所と外を行き来する。刑務所でも受刑者からいじめやレイプの標的とされ、自殺未遂の記録もあった。事実とすれば、後に審問を免れて逃亡者となった背景には獄中で味わった絶望の日々を恐れていたためかもしれない。母デラは68年7月に亡くなり、イリノイ州シカゴのグレース墓地に埋葬されていた。

 

少年の遺体や殺害を裏付ける確証こそ出てこなかったものの、検察側はアトランタ地域での複数の知人を出廷させ、「マイケルをモーテルの浴槽で溺水させたと聞かされた」「埋葬するのをこの目で見た」との証言を引き出すことに成功する。

被告の横暴且つ独善的な振る舞いは陪審員の心証に悪影響を及ぼしたと見え、カージャック、児童誘拐、銃器不法使用の有罪により仮釈放なしの懲役52年の判決が下される。男は実質的に残りの半生を獄中で過ごすことが決したのだった。

 

糸口

マイケル誘拐から半年後の95年3月、強奪されていた校長のトラックがカンザス州で発見された。オークションで購入されたトラックを点検中の整備士が、荷台とガソリンタンクの間に分厚い封筒が詰め込まれているのを見つけ、中から97枚の異様な切り抜き写真が出てきたことから警察に通報した。

写真の大半は裸の若い女性が被写体だったが、彼女たちには明らかな暴行被害の様相が見て取れた。シャロンが含まれていたことからもフロイドの所有品であることは明らかだった。これまで認知されていなかった若い女性の写真もあり、彼女はどこの誰か、今どうしているのか、新たな謎が浮かび上がった。写真のコピーが各州に送られ、過去の失踪者、身元不明遺体などとの照合が進められた。トラックは94年10月にフロイドがテキサス州で乗り捨てたものだったことが後に判明する。

 

95年3月29日、フロリダ州ピネラス郡を通るハイウェイ275号線脇の林で造園業者が人間の頭蓋骨を発見する。付近を捜索の結果、全身のおよそ9割が見つかった。後頭部に2発の弾痕、目の下に骨折が確認されたことから直ちに殺人事件と断定され、豊胸手術の痕や衣服の一部などから被害者は若い女性と推定された。しかし植物の浸食状況から見ても5年以上は経過しており、該当者はすぐに浮上せず、女性身元不明者ジェーン・ドウ「I-275」としてリストに記載されることとなる。

約1年後、FBIから連絡が入る。フロイドが所持していた写真の「謎の女性」の首に巻かれたシャツと、「I-275」の現場で見つかった衣服片が合致したというのである。FBI当局では頬骨の比較、歯型鑑定などからも「謎の女性」とほぼ一致すると確認された。さらに女性の写真に映り込んでいた家具や背景からフロリダ州タンパ時代に「父娘」が暮らしていたトレーラーハウスでの犯行と特定され、女性の装飾品からフロイド周辺で失踪が疑われていた元ダンサーのシェリル・アン・コメッソと特定される。「モン・ヴィーナス」時代の同僚シェリルも、シャロンたちが失踪する間際の89年4月上旬に消息を絶っていたのである。

 

89年3月下旬、マーシャル父娘とシェリル・コメッソが店の外で激しく口論する姿が目撃されていた。同僚ヘザー・レーンさんによれば、その口論の前からシャロンの父親ウォレンがシェリルの所在を追っていたという。シェリルが書類に誤った記載をしたせいで、マイケルのメディケイド(低所得者・高齢者・障害者向けの医療保険制度)資格が認められなかった、と非難していたという。

シェリルは口論直後の4月初旬に「来週、親戚に会う」と告げて荷造りを行っていた。その後、空港で見つかった彼女の車は4月7日から駐車されたままになっていた。以来、彼女の姿を見た者はなかった。

マーシャル父娘の失踪は翌5月のこと。ウォレンはトレーラーハウスの隣人に「休暇で家を空ける」と話し、芝刈りや郵便物の面倒を任せて出掛けた。男女は「マーシャル父娘」の人生を捨て、89年6月15日にニューオリンズで結婚し、「ヒューズ夫妻」となる。6月16日には留守にしていたトレーラーハウスが爆発性火災で全焼する。後日、隣人のもとに「ウォレン」から電話が入り、火災があったことを伝えると「もう戻らないので貯まった郵便物も燃やしてほしい」と話した。近隣ではウォレンが人を雇って爆発させたと噂が立った。

 

フランクリン・フロイドの考えは短絡的だが合理的だった。シャロン失踪が大事になればトラブルのあった「マーシャル父娘」にも真っ先に捜査の手が及ぶ。そのため「父娘」を捨てて、今度は「夫婦」になったのである。そうまでしなければならなかった理由があるとすればただ一つ、男がシャロンを殺害したとしか考えられなかった。

遺体と犯行途中とみられる写真までもが見つかり、口論を目撃したダンサー、男女の生活状況に詳しいベビーシッターもいる。捜査機関は「妻」殺し、「子」殺しについて後塵を拝していたが、シャロン殺害によって今度こそフロイドを殺人罪で有罪に、死刑にできると確信した。

 

陪審投票は…12対0。2002年11月22日、フランクリン・フロイドはシャロン殺害による第一級殺人により死刑判決を言い渡される。

フロイドは証拠不十分などでフロリダ最高裁に直接控訴したが、2005年10月12日、控訴棄却となり有罪が維持された。

その後、リンチなどがあったのか、あるいは死刑回避の目論見か、2006年6月以来、人身保護礼状の請願を繰り返したが認可されることはなかった。アメリカでは「サーキット・コート(巡回区裁判所)」が日本で言う二審に相当し、フロイドは2007年に審理を申し立てたが、2009年までに審理継続の能力がないと判断され、罪状を否認する機会を一切失った。

だが捜査当局は、マイケル発見に至っておらず、その母親トーニャ・ヒューズことシャロン・マーシャルがどこの誰なのか特定することができずにいた。

 

本当の名前

ジャーナリスト作家マット・バークベック氏が事件を調べるきっかけは、2002年に知人から男と少女の写真を見せられたことだった。幼い少女は、凶悪な逃亡犯の元で「娘」として育ち、周囲からは賢く美しい善良な友人と見なされ、その後、「父親」の「妻」となった。彼女は周囲から愛されていたが、だれも彼女の真実を知る者はなく、実際にはどこの誰なのかも分からない。長い間、彼女の一番近くにいたあの男を除いては。

バークベック氏はフィッツパトリック特別捜査官に助力を求め、獄中のフロイドと面会する機会を得た。男は彼を味方と感じたのか、饒舌に喋りまくったという。

「何を書こうがどうでもいい。“真実”を伝える手助けをしてやろう」

彼の口から出てくるのは、不幸な人生への恨み節と、人々に対する否定感情だった。過去の少女暴行さえ否認し、シャロンについても「自分からついてきた」「俺に惚れこんでいた」と述べ、シャロンとマイケル、シェリルについても殺害を全否定した。

マイケルの行方とシャロンの謎を残したまま2004年に出版された『A Beautiful Child』は大きな話題となり、西欧諸国での翻訳出版、ウェブ上でも「シャロンは何者か」を主題としたサイトやスレッドが多数誕生した。2005年、一通の匿名メールがバークベック氏の元に届いた。

シャロンの娘のDNAは役立ちますか?

シャロンは三度妊娠・出産しており、マイケル以外は養子に出されていた。メールから見つかったシャロンの実子は三人目の子で、名はメーガン。『A Beautiful Child』を読んで心当たりのあった親類がメーガンの養母に連絡を取った。

89年当時、男は金銭目的で産前の養子縁組を求めていた。メーガンの養母は訝しく思ったが、天のお告げがあって生まれてくる赤ん坊を引き取ることを約した。養母は産後のシャロンと対話する機会もあったが、彼女は赤ん坊との面会を拒んだ。男が来ると女同士の会話は途切れる様子だったが、彼女から助けを求めるような様子もなかったという。

メーガン本人も生物学上の母親が事故死したことは聞かされていたが、本でその背景を知るまで出自について深く考えることはなかったという。産みの母親に関する記憶は何もなかったが、シャロンの人生の苦難はメーガンに怒りと悲しみと混乱をもたらした。シャロンやマイケル、そして自身の写真を見比べていると、やはり血縁者であることが実感された。

「ひょっとすると自分と同じような立場の、シャロンの子が見つかるかもしれない」

2011年、メーガンはDNA型鑑定に協力することを決めた。

国際的反響にも後押しされ、バークベック氏は国立行方不明児童搾取センター(NCMEC)とコンタクトを取り、現役を退いていたフィッツパトリック氏とも連携して「シャロン」の再捜査が開始された。折しもフランクリン・フロイドの立て続けの裁判が収束した時期でもあり、再び死刑囚とのインタビューがセッティングされる見通しが立てられた。だが相手は精神病質に嘘八百を並べ立てる曲者であり、一筋縄に行かないことは明らかだった。

2014年、新たにFBIから事情聴取のスペシャリストであるスコット・ロッブ、ネイト・フウ特別捜査官が派遣された。彼らに託された任務は次の3つ。

シャロンの正体は?」

「マイケルの行方は?」

シャロンの死への関与は?」

面会室で黙り込むフロイドに自己紹介をしようとすると、男は一方的に45分間喚き続けた。彼は二人を弁護士だと勘違いしていた。

「我々はFBIだ。再捜査を開始する」

不意を突かれる格好となった男はうろたえ、彼らをあしらおうとしたが、捜査官たちは間髪入れずに核心を突いた。

「お前はマイケルをシャロンの身代わりにしようとしていたんじゃないのか」

フロイドは泣き始め、二人は感情的になった今が好機と判断した。机を叩き、「嘘泣きをやめろ」と詰め寄り、「どうやって殺したんだ」と返答を求めた。

すると遂に男は「後頭部を二度撃った」と漏らした。誘拐から17年ぶりにもたらされたマイケルの情報は、殺害の自白という最悪の報告だった。証言からオクラホマとテキサスの州境で遺体捜索が開始されたが、大捜索も空しく遺体や遺留品の発見には至らなかった。

 

フロイドへの聴取は続けられ、落ち着きを取り戻した男は流浪時代の自分語りを長々と繰り返すようになった。「若い頃はイケメンだった」「あの辺じゃ一番のバス運転手だった」「こんな少女と知り合った」…

両捜査官は気分よく喋り散らす男の饒舌に便乗して「で、その当時のあんたは何て名前だったんだ?」とタイミングよく尋ねると、男は素直に「ブランドン・ウィリアムスと言ったかな」と答えた。

初耳だった。捜査本部で把握しきれていなかった別の偽名が飛び出したのである。その別の「人生」をたどっていけば、これまで分からなかった新たな事実につながるかもしれない。男は長期服役を終えて、74年、ノースカロライナ州で3人の子を連れた女と結婚したという。「“長女”はだれだ?」と口を挟むと、男は「お前たちが捜してるやつだ」と答えた。

長女の名はスザンヌ・マリー・セバキス。フロイドは出生証明書で「ミシガン州リボニア生まれ」と確認したと言う。それが20年以上失われていたシャロンの名前だった。

スザンヌ・セバキス

当局が出生届を検索すると、サンドラ・フランシス・ブランデンバーグとクリフォード・レイ・セバキスの実子と分かった。スザンヌの両親は存命だった。

高校時代の同級生だった二人は卒業とともに結婚し、翌年、スザンヌを授かった。

だがクリフは結婚からまもなくベトナムに従軍し、スザンヌと会うことができたのは生後半年経ってから得られた僅かな休暇の間だけだった。従軍期間を終えて戻ると、サンドラは別の男性と交際していた。二人は離婚し、サンドラは別の男性との間に新たに2人の娘を宿した。だが新しい家族も長続きせず、彼女は幼い娘たちを連れてトレーラーハウスでの4人暮らしを余儀なくされた。

あるとき竜巻が母子の暮らすトレーラーに直撃し、家が横倒しになる悲劇に見舞われた。サンドラは自分を探し求める子どもたちの声を遠くに耳にしたが応答することができなくなっていた。命は無事だったがショックで精神を病み、PTSDを発症した。このままでは子どもたちを守っていくことができないと考えた彼女は福祉局の助けを借りることにした。

クリフの元に連絡が入り、元妻の家族状況と養子縁組の話を聞かされる。相手先は、仲良し三姉妹を引き剝がすのは忍びないとして三人一緒に引き取りたいのだという。いきなり自分が三人の子を引き取るか、諦めるかの決断を迫られた。23歳のクリフは当時ベトナムで受けた心的外傷の混乱から立ち直れておらず、手に職もなく親元で暮らしていた。自分のことでも手いっぱいのなか、子育てをしていける自信は持てなかった。

PTSDのダメージとわが子を手離した罪悪感に苛まれたサンドラは、福祉局職員から教会に行くように勧められた。彼女は嘆き、懺悔し、祈り続けた。

泣き続ける彼女の隣に一人の男が腰を下ろし、落ち着いた声で言葉を掛けた。

「何があったんですか」

「きみの助けになりたい」

「子どもたちを取り戻そう」

「結婚して僕がきみと子どもたちの面倒をみるよ」

男は教会で嘆くシングルマザーに近づいた

サンドラは男に言われるがまま、夫婦となり、娘たちを家に引き取った。気づいたときには時すでに遅し、男は四六時中ナイフを持ち歩き、彼女にこう囁いた。

「逃げられると思っているのか」

男にまともな稼ぎはなく、生活は困窮した。サンドラは偽の小切手でおむつを買おうとして30日間の拘束を受けた。勾留が解けて家に戻ると、男と三人の娘はどこにもいなくなっていた。彼女は警察に駆け込み、娘を連れ去られたと訴えたが、民事不介入を盾に捜索を拒否された。大声で事情を訴えたが署からつまみ出されて相手にされなかった。

正確な時期は不明だが、二児は養護施設に入れられていたのが発見され、男はスザンヌ一人を連れ去ったことが分かった。

サンドラは「自分が早く気づいて男の許を逃げ出せていれば、あの子に何も起きなかった。母親としてあの子を守ることができたはず」と後悔する。

 

「モン・ヴィーナス」時代の同僚ヘザー・レーンさんは「シャロンの母親には腹が立つ。彼女の話は信じられない、だって自分の子どもを見つけられなかったんだから」と厳しい見方を示す。彼女自身もかつて誘拐被害に遭い、5年越しで母親との再会を果たした経験があるという。その間、決して裕福ではなかったが彼女の母親は全財産を投げうって捜索活動に充て、議員や知事に捜索協力を訴え、捜索番組への出演などできることは全身全霊を懸けて何でもやった。

ヘザーは言う。「なぜもっと頑張らなかったの?」

メーガンの養母は、スザンヌに関する話を聞こうとサンドラに電話でコンタクトを取ったことがあったが失敗だったと語る。彼女は自分の娘について興味がなさそうな反応しか返さず、疑問を感じたという。

スザンヌ・マリー・セバキス

 

2017年6月、オクラホマ州タルサで新たな墓標が建てられ、ささやかな告別式が催された。スザンヌ・マリー・セバキス銘での新たな墓石に立て替えられたのである。彼女は「トーニャ」という死の僅か一年ばかり前からの偽名ではなく、死後27年が経ってようやく自分の本当の名前を取り戻した。

人生の3/4を凶悪犯の元で想像もしがたい過酷な日々を過ごしたが、本来の家族ばかりか友人たちに慕われ、スザンヌも周囲の人々に、そして息子マイケルに愛情を捧げてきたという事実はまさに驚くべきことだ。捜査員やジャーナリストの奔走、多くの友人たちの証言によって、彼女の偽りのない人生が回復されたのである。家族や友人たちは各々の知るスザンヌについて語り合い、自分たちの知らない彼女を知り、その冥福を祈った。

彼女の娘メーガンは墓標に刻む銘文に次の言葉を送った。

「DEVOTED MOTHER AND FRIEND(献身的な母親、そして友人)」

メーガン自身も子どもを授かり、母親となって、スザンヌが自分たちをやむにやまれず手離したときに感じたであろう断腸の思いや、愛息に注いだ深い愛情が理解できたと語る。メーガンは長男にマイケルと名付けた。スザンヌの息子、そしてメーガンにとって亡き兄の名前である。

 

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