いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

両脚のない漂流者——サンディ・コーブのジェローム

カナダ東部ノバスコシア州にはある奇妙な男の実話といくつかの逸話が残されている。

 

沈黙の漂流者

1863年9月8日のこと、カナダ東部ノバスコシア州ディグビー郡サンディ・コーブ海岸で海藻採集をしていた漁師たちが奇妙な男性を発見する。

大人たちと一緒に作業をしていた通称“コリー”ことジョージ・コリン・オルブライト少年(当時8歳)は、ファンディ湾の岩浜にうずくまる黒い人影を認めた。近づいてみるとずぶ濡れになったその男には両脚がなく、傍らには水差しと乾パン缶が置かれていた。亜麻色の髪、青い瞳、年は19-20歳前後と若く見えたが、金も身分証明となる所持品も身につけていない。

漁師たちが語り掛けても男からまともな応答はなく、すっかり凍えて衰弱しきっていた。漁師たちはディグビー・ネック村へと男を運び、ひとまずコリーたちが暮らす家で引き取られることとなった。

 

包帯が巻かれただけの男の脚は、左右とも膝のすぐ上で切断されていた。偶然の怪我などではなく、切断面から外科医か、明らかな熟練者による仕業と見られ、患部は比較的新しいが塞がりかけているようだった。とにかく詳しいことは男の回復を待って聞くよりほかない。暖を取り、飲み物や食事を口にするようになったが、男はうめくばかりで言葉を発しなかった。謎の漂流者の噂を聞きつけ、村には野次馬が群がった。

漁師のひとりは、前日、セント・メアリーズ湾沖合800メートル辺りを往復していた船があったことを記憶していた。ビスケット缶と水差しがあったことから、男はひとりで漂流してきた訳ではなく、暗いうちに船で連れてこられ、何者かによって岩辺に放置されたのではないかと考えられた。

外国人ではないかと考えた者たちは船乗りたちを呼び寄せ、フランス語、ラテン語、イタリア語、スペイン語などで質問が試みられたが、男は理解しているのかいないのか、いずれも対話は成立しない。好奇でからかう者に対して、男は犬のように唸り声を出して敵意を示すこともあった。唯一、「ジェローム」と聞こえる単語があったことから、その男は以来ジェロームと呼ばれることとなる。

 

ジェロームの手のひらは柔らかく、地元の漁師たちと違って“タコ”ができていなかった。服は上質な布から仕立てられたものだったため、近郊の漁民や港湾関係の肉体労働者とは思えなかった。何も喋れない、語ろうとしない男の出自は人々の想像力を刺激し、様々な憶測が流れ、人々に一層興味を抱かせた。

彼はどこかの士官で、反乱を試みた罰として切断刑に遭って幽閉され、その後、島流しの刑罰が下されたのではないかといった仮説が支持を集めた。ある者は海賊船から投げ出されたのではないかと言い、ある者はもはや戦地で役立たずとなって船を降ろされた傷痍軍人説を唱えた。また別の者は、資産家の家に生まれたが相続権争いのために斥けられて幽閉された末、脱走に失敗して脚を切られ「追放」の憂き目にあったのだと噂した。いずれも推測の域を出るものではなく、確たる証拠は何もなかった。

文字通り「ジェローム」と発音したとすると、英語やフランス語の男性名のようでもあり、イタリア語の「ジローラモ」、オランダ語の「ジェローン」にも似通っている。あるいは人名でも何でもない全く別の外国語が偶々そう聞こえたとも考えられる。西欧諸国も今日ほど統一言語化されていなかったため、船乗りたちがジェロームの「訛り」を理解できなかっただけかもしれない。

その地中海風の風貌からフランス人かイタリア人ではないかと見る声も挙がった。イタリアの国家統一は1870年まで時を要したため、半島には多くの小国家が林立しており、戦火で脚を失ったとも考えられた。イタリアの港湾都市トリエステの話を聞かせると、なぜかジェロームはひどく腹を立てたという話もあるが、「トリエステ」に反応したと見るべきか、話者に対して苛立ったのかははっきりしない。

また彼の振る舞いにはどこか威厳があり、キャンディやタバコ、果物などの贈り物は受け入れたが、金銭を差し出されると苦々しい表情を見せたとも伝わる。誇り高い人間が“施し”に屈辱を感じたとも取れる報告であり元々は高貴な身分の出であることを想像させたが、食い物の価値は心得ていたものの金の価値が分からなかっただけとも捉えられる。

 

ジェロームは回復すると見た目も態度もジェントルで、機敏に移動することもできたが普段は座って大人しくしていたため、世話にはそれほど手がかからなかった。だが裕福ではないコリーの家では食い扶持に困り、ジェロームは村の家々を転々とすることとなった。

その村は英語を話すバプテスト派(プロテスタントの最大教派)のコミュニティだった。いつしか人々は、彼はカトリック教徒に違いないと判断し、発見から半年ほど経った1864年2月、「彼のために」フランス人コミュニティのメテガンへと追いやった。訴えを受けた州政府も彼が同地に留まらざるをえないものと判断し、週2ドルの生活費を拠出することを決め、財務報告書にも「ジェローム」の項が加えられた。

今日のカナダ南東部(ノバスコシア州-ニューブランズウィック-ケベック州周辺地域)は、ヌーベル・フランス(フランス人北米入植者)の植民地のひとつとして17世紀から定住化が進んだ。彼らは現地化が進み「アカディア人」として新たなアイデンティティを構築したが、英仏関係の悪化により植民者間でも衝突が起こり、18世紀半ばには多くの先住民を巻き込んでフレンチ・インディアン戦争が勃発。数で圧倒的に劣るフランス側は敗れ、追放や迫害の憂き目に遭った。以後、アカディア人は二等市民扱いされることとなり、一方でアメリカの独立などを受けてエスニック・アイデンティティを強めていった。

端的に言えば、面倒ごとをメテガンのアカディア人に押し付けた、陳情された州政府も処置に困り、そうするより他ないと判断したということであろう。

 

メテガンでは、コルシカ出身の脱走兵で片言ながら数か国語に通じたジャン・二コラがジェロームを預かることとなる。彼の試みでも言語は取り戻せなかったものの、およそ7年間を共に過ごした。ジェロームは子どもが遊ぶ様子を眺めていることを好んだとされ、ジャンの妻ジュリットや娘のマドレーヌらも彼を慕った。彼は日頃、日向ぼっこや暖をとることはしたが、仕事らしい仕事はしない動物のような日々を送ったとされる。喋れないからといって筆をとることもなく、本や読み物、写真にさえ関心を持たなかった。

ジュリットが亡くなると、ジャンはヨーロッパへ戻ることになった。ジェロームは近郊のサン・アルフォンス・ド・クレアに暮らすジャンの義弟デディエ&エリザベス・コモー夫妻のもとに身を寄せることとなる。夫妻には4人の子がおり、ジェロームを迎え入れてから更に9人の子をなしたため、たくさんの「子守」は彼の心の慰めになったかもしれない。

コモー夫妻の家は村のバスの停留所の目の前で、鉄道が敷かれる1870年代末までは人と物を運ぶための地域拠点となっていた。一家はジェローム知名度を利用して、入場料を取って見世物とし、州からの俸給と併せて裕福な暮らしを送ったという。

今日の倫理観に照らせば強欲に思えるかもしれないが、当時はサーカスや見世物興行が娯楽の王道であり、小規模ながらコモー家も繁忙期には数百人の見物客で賑わったとされる。ジェロームは時々顔を挙げるが大体はうつむきがちで、怪訝な態度を見せたり唸り声をあげたりするばかりだったと報告されている。

19世紀半ばには精神医療も黎明期であり、知性の欠如である「白痴」、あるいは周囲にトラブルを及ぼしかねない「狂気」に類型化するほかなく、有効な生活対処や緩和治療なども整備されてはいなかった。肉体労働が基本とされた時代、心身にハンディキャップを抱え労働力にならない人々は村で「愚か者」「無駄飯食らい」と冷遇されるか、豊かな家であれば「座敷牢」に幽閉されるのが通例だった。サーカスのような見世物であれ就労機会を得ることは、そうした暮らしに比べればはるかに人間的、人道的と捉えられなくもない。もちろんそこで虐待がなければの話ではあるが。

ジェロームのミステリーはアメリ東海岸でも度々報じられ、コモー夫妻の息子がニューヨークを訪れた際には「“ジェローム”のことを知っている」という2人組の女性たちから声を掛けられた。女性たちは、かつて彼はアラバマで生活しており親許を逃げ出したのだと告げた。コモー氏によれば、女性のひとりは確かにジェロームと瓜二つだったという。彼女はジェロームに渡してほしいと手紙を託し、コモー氏は届けたが、足のない男は封筒を何度もめくった後、中身を見ることなく小さく破いてしまった。彼が自分の正体を知る人間との接触を恐れていたのか、あるいはそれが何を意味する紙なのか理解が及んでいなかったのかは定かではない。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、バスから鉄道へ、木炭から石炭へ、漁業は水産加工業へと時代は、人々の暮らしは目まぐるしく移り変わった。コモー家の子どもたちもそれぞれ独立し、1902年、夫妻は丘の上の邸へと引っ越したが、同年、家長のデディエが亡くなった。以来10年余、エリザベスがジェロームの世話を買った。

〔Daily Echo] 1912-04-19掲載

謎多き男の身元を突きとめるために半世紀以上にわたって数十人のジャーナリストが挑み、数えきれないほどの野心家たちの手で多くの試みが行われたが成果はなく、彼は終生自分が何者なのかを語ることはなかった。

コモー夫妻のもとで40年余り過ごしたジェロームは、1912年4月15日に老衰と気管支炎により世を去り、メテガン教区墓地に埋葬された。

奇遇だが、タイタニック号が大西洋に沈んだ世界最悪の海難事故もこの日のことであり、かつての騒ぎに比して彼の訃報はささやかなものとなった。デイリー・エコー紙の記事では「体格が良く、年齢は75歳から80歳の間のように見え、知的な容貌と形の良い頭を持つ男性」と描写されている。

彼を直接知る人々もほとんどいなくなった2000年、メテガン教区墓地にはジェロームを祀る新たな石碑が設けられた。

 

アナザーストーリー

カナダは文書化された歴史が少ない国とされ、地域の記憶の多くは逸話として口頭伝承されてきた。サンディ・コーブのジェロームの物語もノバスコシアの人々の間で、親から子へ、孫の代へと、“本当にあった奇妙な昔話”のひとつとして語り継がれた。後世の詩人ケン・バブストックや小説家アミ・マッケイ、映画監督フィル・コモーなどにインスピレーションを与えた。

Jerome: Solving the Mystery of Nova Scotia's Silent Castaway

郷土史フレイザー・ムーニー・ジュニアは『ジェローム――ノバスコシアの静かな漂流者の謎を解く(未邦訳)』(2008, Nimbus Pub)のなかで、ジェロームに関する記録の断片と、派生した多くの伝聞を紹介。後半では、ファンディ湾の対岸ニュー・ブランズウィック州立図書館に眠っていた公文書記録を駆使して、ノバスコシア州ではあまり語られてこなかったひとつの有力な新解釈を提示している。

 

1859年12月のこと、ニューブランズウィック州を流れるガスペロー川北側で木こりの集団がキャンプ地を引き上げ、家族とクリスマスを祝おうと家路を急いでいた。村へ向かって凍てつく山道を下る途中、雪に埋もれた若い外国人男性を発見する。

男性は村へ運ばれ、チップマン教区の貧困者の救済支援を行う保険福祉監督に保護された。福祉監督は郡に報告して保護費用の援助を請い、村人たちは見知らぬその男を甲斐甲斐しく世話した。凍死の危機こそ逸したものの、彼はフランス語も英語も解さない。さらに深刻な凍傷から両脚に壊疽を負い、このまま毒が廻れば再び死の危険に晒されようとしていた。

61年3月にはグランド湖の対岸にあるゲージタウンのヘンリー・ピータース医師の許へ運ばれ、両脚の切断を余儀なくされた。彼は「イタリア移民」として住民登録が取られ、通称「ガンビー;Gamby」と呼ばれた。彼はしゃべりかけられても会話できなかったが、「常に“ガンビー”と繰り返していた」とされる。上手く発声することができず偶々そう聞こえたのか、それともイタリア語の「脚;gamba」に起因するものか、あるいは周囲の人間たちが言葉にならない男性の言葉をそう解釈したのかは定かではない。

ガンビーの体は徐々に回復したが知性の制御がままならず、食事を与えても、肉を食べきり、パンを食べきり、スープを飲み干すというように単品ずつでしか口を付けようとしなかった。やや女性蔑視の傾向が見られ、男性でも一部の人にしか懐かなかったとされる。人々の暮らしに余裕はない中、彼は山仕事はおろか手仕事さえもできなかった。

4年後、コミュニティの評議会はその負担から男の追放を決断し、W.コルウェル氏に彼の行く末を任せた。正確な依頼内容は定かではない。だが川下の港町セント・ジョンへと運ばれ、そこから貨物船で送還されることで話が付いていたとみられる。コルウェル氏は両脚とことばを失った男をブライヤー島まで送り届けたことを依頼者に報告した。

 

ムーニー氏はこの「足を失ったアイスマン・ガンビー」の物語が、ファンディ湾を挟んだ対岸に位置するサンディ・コーブで置き去りにされていた「ジェローム」の物語に接続するものだと主張する。今日の感覚で見れば、ガンビーやジェロームが脳障害や生死をさまよった後遺症が生じていた可能性が疑われる。またジェロームが海岸で発見される以前に人間不信に陥るような苦難に遭っていれば、しばしば大人には猜疑心を、子どもに愛着を見せた逸話とも合致する見方だ。

ジェロームの発話の困難は、発話制御を司るブローカ野の脳損傷に起因すると考えられ、動物のようにうめくことはできるが理解可能な言語であっても発語できなかった可能性があるという。ガンビーにも同じことが起きていたかもしれないが、彼が「ガンビー」と発話できていたとすれば、ジェロームはなぜ「ジェローム」としか言えなかったのか。「ガンビー」と「ジェローム」では聞き違えようはずもなく、強いて想像を膨らませるならば、ガンビーは実際には「ガンビー」と繰り返していなかったが、誤って、或いは恣意的にそうと記録された可能性がある。

更に20世紀初頭にチップマン地元紙が書いた記事には、ガンビーが凍死寸前で発見された当時、髭を伸ばし、その風貌は「26歳前後に見えた」という報告もある。どちらもあくまで印象論レベルでの話であり、瀕死状態であったことからその見た目も様変わりしていた可能性はある。山奥で木こり仕事をする人々と海辺で漁業を営む人々では人相に対する印象も違って当然かもしれない。だが26歳前後に見えたガンビーがニューブランズウィック州で4年程過ごした後、対岸で発見されたとして20歳の見た目になるのかは疑問が残る。

筆者はフレイザー氏の説が真相だとは受けとめていない。いずれも若者であることから労働力として売買されたか、大陸での仕事を求めて流浪した人物と推測する。ジェロームは何がしかの私刑や報復に遭って足を切断されたようにも、ガンビーは精神疾患や規則違反によって雪山に棄てられたようにも見える。ガンビーがジェロームになった訳ではなく、「公的記録」や「歴史」として残存した、再発見されたのが偶々その二人だったのではないか。ガンビーのような境遇、何らかの理由で脚を失い、棄てられるということは当時としては珍しくなかったのではないかと想像されるが、通常「棄民」の記録が残されることはそうないだろう。

 

後年、ジェロームを世話したコモー夫妻の孫娘は、「両脚のない謎の沈黙者が最期に密かにしたためたその半生」を書簡体小説(ファウンド・フッテージ)として物語化し、高校の作文コンクールで優秀賞を獲得したという。

両脚とことばを失った漂流者の謎は永遠に解き明かされるべきではないのかもしれない。事件に真相はつきものが、物語に正解はない。

 

-----

Great Unsolved Mysteries in Canadian History

http://www.mysteriesofcanada.com/Nova_Scotia/jerome.htm

京都アニメーション放火殺人事件

京アニ」の愛称で知られるアニメ制作会社「京都アニメーション」のスタジオが放火され、社員ら68名もの死傷者を出した事件。戦後最悪の犠牲者を出した未曽有の惨事は国外にも知れ渡り、人々を震撼させた。

www.kyotoanimation.co.jp

 

事件の発生

2019年7月18日(木)午前10時半頃、京都市伏見区桃山町にあるアニメ制作会社・京都アニメーション第1スタジオでドーンという爆発の轟音が響いた。近隣住民がすぐに消防に通報。10分後には第一放水が開始され、周囲一帯は煙に包まれた。

建物の周囲には負傷した社員ら35人が退避しており、生存者は「出火当時、社内に70人はいた」と説明。放水開始から12分後、救助隊員が内部捜索と救助に向かった。

スタジオは三階建てで、一階が事務所、二階と三階が制作フロアになっていた。一階では2人、二階で11人の遺体を発見。しかし吹き抜けの螺旋階段は高熱のガスや煙が充満しており、すぐに三階へ上がることはできなかった。後の現場検証で、一階の螺旋階段近くで起きた爆発により高温のガスが一気に上階へと充満して燃え広がる「煙突効果」が発生していたとされる。

ようやく三階に入れたのは約1時間後で、螺旋階段の屋上付近で折り重なるように20人が息絶えていた。人々は階段を下りることができず、上に向かったが屋上に出る扉が何らかの事情で開かなかったため取り残されたものと見られている。

3フロア延べ約700平方メートルが全焼し、搬送後に亡くなった犠牲者を含め、最終的に死者36名、重軽傷者33名の大惨事となった。全員の救助・搬出が完了したのは21時12分。完全な火災の鎮火が確認されたのは翌19日6時20分であった。

火災発生直後、スタジオから100メートル離れた民家のチャイムを押して、玄関先で倒れている男が発見された。赤いTシャツにジーンズ姿、裸足で手足は皮がただれて血まみれだった。

男は火を放ったことを認める供述をし、全身やけどで瀕死の状況ではあったが警官に問い質されると僅かに応答した。男は、埼玉県見沼区に住む職業不詳、青葉真司(当時41歳)。

警察「なんでやった?言わなあかんで、頑張って言え」

青葉「パクられた

警察「何を?」

青葉「小説

警察「何で火を点けたんや?」

青葉「ガソリン」

----

警察「あそこは知っているか?火を点けたところ」

青葉「知らねえよ」

警察「全く関係ない所やらんやろ」

青葉「お前ら知ってるだろ」

警察「頑張って言え!言う責任がある」

青葉「お前らがパクりまくったからだろ、小説

警察「何人も怪我している。言わなあかん」

青葉「全部知ってるだろ…」

男は市内の病院に搬送されたが重篤な状態に陥り、直接の取り調べは打ち切られた。

その後、男が京アニの内部関係者ではないこと、2016年に小説コンクール「京アニ大賞」に2回応募して落選していたことなどが判明。携帯電話を解析したところ、2016年から約2年半で「京アニ」について少なくとも2539回もの検索履歴が確認され、掲示板サイトや京アニのサイト上に殺害予告などを繰り返していたことが明らかとなる。

京都府警は、落選した男が作品の内容を盗用されたと思い込むようになった筋違いの逆恨みが放火事件の動機だったと見て調べを続け、容疑者の回復を待った。

 

「死に逃げはさせない」

火災発生当初からガソリンを使用した放火が疑われたが、男の目的や被害状況がはっきりせず、国民は報道を待つより他なかった。とりわけ全国の京アニファンは、生存者・犠牲者がはっきりと伝えられない事態に一層の不安と焦燥感を募らせていた。

 

7月20日、青葉は大阪・近畿大学病院へと救急ヘリで移送された。同院は高度熱傷治療に対応できるとして、被害者の転院受け入れが可能である旨を伝えていた。しかし被害者の転院依頼はなく、唯一「診てほしい人間がいる」と頼まれたのが全身の93%に火傷を負い、意識不明に陥っていた容疑者・青葉真司だった。

主治医となる重度熱傷治療のスペシャリスト・上田敬博教授は、19日に青葉の話を聞かされたときのことを「人としての原形をとどめておらず、『こいつがたくさんの命を奪った犯人か』という陰性感情はなく、もうすぐ絶命するだろう…それしか感じなかった」と手記に綴っていた。予め京都府警にも「ご期待には応えられないと思います」と伝えていたという。

だが同時に上田教授の胸中には「助かる見込みは薄いが、この人を助けないといけない」という思いも湧き上がっていた。犯人をそのまま死なせてしまえば事件の真相は闇になる、犠牲者や存命の被害者、その家族のためにも犯人を「死に逃げ」させないという強い使命感が去来した。深刻なダメージから導かれた当初の予測死亡率は97.45%と試算されるなか、担当する医療チームを鼓舞し、懸命の治療を施した。

血流障害で壊死した皮下組織をそのままにすれば全身に毒が回ってしまう。まず壊死した組織を除き、コラーゲンなどでできた人工真皮を被せる。その後、更に表皮の部分にはわずかに残った正常の皮膚から自家培養させてできた表皮を被せなければならない。男が腰に巻いていたウエストポーチが奇跡的に「8センチ四方」の健常な皮膚を保護しており、そこから急ぎ表皮培養が行われた。

患者の体力を考えると一日にできる作業は3時間。血圧や体温の低下を避けるため、「28度の温室状態」で手術に臨まねばならず、医療チームはその熱さで集中力の限界だった。表皮の培養まで3~4週間かかり、その間も血圧の維持や感染症対策など常に気を配らねばならない切迫した状況が続いた。

取材陣も殺到し、上田教授自身も平時の大手術とも異なる精神的重圧が重なったに違いない。絶え間ない極度の緊張と疲れから強迫神経症や錯覚症状を起こし、気づけば部屋とICUを2時間おきに往復する不眠症の日々が続いていたという。

だが予後のトラブルを持ちこたえ、皮膚の培養、移植手術も成功し、患者は快方へと向かった。しばらくして呼吸器具を発声可能なものに付け替えると、包帯だらけの男は「もう二度と声が出せないと思っていた」と言いながら一日中泣いていたという。男ははじめから自死の覚悟をもって犯行に及んだわけではなかったのである。

一方で、リハビリが開始されると「意味がない」「どうせ死刑」などと投げやりな態度を見せるようになり、食事にも不平を漏らした。だが主治医に「私たちは懸命に治療した。君も罪に向き合いなさい」と諭されると、医療スタッフへの感謝を述べたり、「道に外れたことをしてしまった」と事件への後悔を語ることもあったという。

 

11月14日、緊急医療処置を一通り終え、当初の入院先だった京都第一赤十字病院へと転院。見送りに来た上田教授が「もう自暴自棄になったらあかんで」と青葉に声を掛けると「今までのことを考え直さないといけないと思っています。すみませんでした」と反省の色を見せたという。

上田教授は青葉にあくまで一患者として向き合い、己の人生を卑下することなく生きることを求めた。「事件を起こさずに済んだかもしれない」可能性に気付かせ、「後悔させる」ことこそ悔い改めさせることにつながるのではないかと語る。

「助かった命のありがたさを感じると同時に、迫りくる死の恐怖に日々おびえることになるだろう。それがさらに命の尊さを認識させるに違いない」〔青葉転院後の手記〕

 

容態悪化やコロナ禍の影響によって予定はずれ込んだが、緊急事態宣言の対象から外れた2020年5月27日、一定程度に回復して取り調べにも耐えられるとの判断から、京都府警は現住建造物等放火・殺人罪などの容疑で青葉を逮捕し、身柄は伏見署に移送された。事前の任意聴取で、青葉は「一番人が多い第1スタジオを狙った」「自宅を出たときから殺意があった」などと計画的犯行を認める供述をした。

勾留手続きを終えると、医療設備の充実した大阪拘置所へと移送された。

 

報道と反応

巷間では、多くの犠牲を生んだ加害者に特例的な延命治療を施すことに対して大いに異論が湧き起こった。多くの被害者が命を落とし、加害者が「奇跡的な延命」を果たすことに人々は報復感情をむき出しにした。正式な逮捕を待たずして極刑を望む声も盛んに聞かれた。「犯罪者を優遇するな」「自爆覚悟の“無敵の人”を助けてどうなる?」「生かす価値などない」と。

そうした声は医療スタッフ内にも動揺を与え、自分たちの治療行為が何の役に立つのか、人々が望まないことをしているのではないかと自問自答が繰り返された。

 

府警は従来の殺人事件と同様に、被害者の実名公表を原則とした。しかし京アニ側は24日までに、報道により被害者や遺族のプライバシーが侵害されるおそれがあるとして実名公表を控えてほしいと要望した。府警によれば、当初21遺族が実名公表を拒否していたとされる。

府警は遺族、警察庁とも話し合いを行い、公表時期を慎重に検討。先に公表を承諾した10名の実名を8月2日に公表する。残る25名については、全員の葬儀終了を待って8月27日の公表となった。

突然もたらされる信じがたい家族の訃報によって犠牲者の家族が受ける心痛は計り知れない。「遺族」としてカメラの前でその胸中を晒すことなど思ってもみないことであり、事件の大小にかかわらず、現実を受け容れるために心の整理はつけるのは難しい。

 

注目度の高さによりメディアスクラムが懸念される中、報道各社も事前に対策や自主規制を協議していた。取材拒否の場合にはその意向を共有・尊重する配慮や、なるべく各社まとめたかたちで代表者による取材を行う方針を確認。NHKや全国紙各社は実名公表を行った。マスコミ各社は実名報道の理由として、事件の重大性、事実関係の正確性を期すことや、失われた命の重さを説明した。

一部スポーツ紙などでは実名・匿名の対応が分かれ、立場の異なるジャーナリストたちもその賛否について考えを求められた。1985年に起きた日航ジャンボ機墜落事故では、死者520名、生存者4名の実名・年齢・顔写真などを公開され、後に亡くなった方々との思い出が語られる報道も多くあった。その一方で、たとえば山梨キャンプ場女児行方不明などでは不明女児の家族がネット上で「私的な」冤罪被害に遭ったことは記憶に新しい。

元通信社記者の浅野健一氏はさる冤罪事件をきっかけに実名報道に疑問を持ち、日本では警察発表をそのまま報じているだけで、マスコミは報道基準を丸投げしており、そもそも実名を伝える必要はないと主張している。たとえばスウェーデンでは、被害者、容疑者とも一般市民は原則匿名で報道しており、かたや公人や大企業役員などの不正などでは実名報道を基調とし、メディアの権力監視の役割に支障はないという。報道の基準はメディアが負っている。

インターネット上の市民からも匿名を求める遺族の意志も尊重されるべきだとする声が上がり、署名サイト「Change.org」では「犠牲者の身元公表を求めない」署名活動も行われた。一方では死者を悼む意味でも名前が公表されることを望む人々の声もあり、マスコミの実名報道は物議を醸した。

遺族で唯一会見に臨み、実名を公表した石田敦志さん(享年31歳)の父親は、「決して“35分の1”ではなく、ちゃんと名前があり、毎日頑張っていた。“石田敦志”というアニメーターが確かにいたということを、どうか、どうか忘れないでください」と語った。

その後、読売テレビで組まれた報道ドキュメント番組では、公表を拒否していた遺族の「心を落ち着けようとしているときに、むやみに扉をノックするのは辞めてほしい。そっとしておいてほしい気持ちが分かっているならばどうして実名報道をしたのか」とマスコミに対して批判的コメントを取り上げた。

また2004年に長崎で起きた佐世保小6同級生殺害事件では、被害者の父親が当時支局長でもあった。父親は「(普段は)会見を求める立場だから、逃げられないと思った」と会見に臨んだ際の板挟みになった心境を吐露しており、社内の人々もその胸中を察して家族を支えたという。父親は事件後の手記に「ニュースや記事で名前や写真が出ると、事件のことを突き付けられるような感覚になります。勝手なことなのですが、『もう名前や写真を出さなくてもニュースや記事として成り立つのでは』と思ってしまいます」と、「遺族」の思いを綴っていた。

 

被害者遺族の感情やプライバシーは当然守られるべきであり、こうした大事件における報道取材に対して弁護士や専門家が仲介に入って対応に当たることが妥協策と思われる。報道には事件の事実を正確に伝え、より深く社会の教訓としていく責務があることも確かだが、故人のプライバシーや家庭内の事情は公に伝えられる必要はないため、遺族から直接コメントを引き出す必要はないはずだ。

何が報じられ、何が報じられないべきなのか、ケースによってその対応を変えるべきか否か。警察やマスコミの「一貫性のある」対応にはたして問題はあったのか。一方で「非公開」によって誤った憶測を招き、無関係の人間が不利益を被るおそれもある。

筆者としては、実名公表はあってもなくてもよいものだと考えている。名前や顔が明らかで、家族がメッセージを発してくれるのならば耳を傾け、感謝を胸に刻みたい。とにかくそっとしておいてほしいと言うのなら無理に構わず忘れていく。事件がなければ知る由もない方々について根掘り葉掘り知る必要はない。それもひとつの弔いとして認められるべきだ。私たち市民の側も事件報道の意義を問い続けること、無用な詮索は避けるなど常に社会的配慮を心掛けたい。

 

成育歴

裁判では、動機の背景となる「自己愛的で他責的なパーソナリティ」形成に果たした役割が大きいとされていることから、青葉の成育歴を見ておきたい。

 

青葉真司は1978年、埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。トラック運転手の父親と専業主婦の母親、2学年上の兄、1学年下の妹の5人家族で育った。

子どもの頃は元気で活発、とくに兄と仲が良く、スーパーファミコンで遊んだり、「ドラゴンボール」に熱中した。生活水準は「中の下くらい」と語ったものの、ディズニーランドや軽井沢への旅行などへ出掛けており、家族仲も良好だったとみられる。

だが育児の手が離れて母親がミシン販売の営業の仕事を始めると、家族関係に軋みが生じた。好調な営業成績を上げる母親に対して父親が嫉妬のような態度を見せ、外回りでの浮気を疑うようになって母親への暴力、DVが始まった。警察沙汰になることもあり、母親は子どもたちを連れて家出したが、父親は知人宅を見回るなどの執着を続けた。1987年、逃げ場がなくなった母親は離婚を決意し、父親が3人の子どもの親権をもった。

離婚後、父親は糖尿病を悪化させて運転手を辞め、一家はたちまち貧困に陥り、DVの矛先は兄弟へと向けられた。暴言は「日常茶飯事過ぎて覚えていない」ほどで、暴行や正座の強要、裸での締め出しなどは兄弟が大きくなるまで続いた。2人は相談して母の許へ助けを求めに行ったこともあったが、祖母から「もううちの子ではない」として会わせてもらえなかった。

小学校当時は内向的というより冗談も通じる活発な子だった、と同級生は語り、同級生の母親も「今の姿を見るととてもお答えできませんが、いい子でしたよ」と振り返る。1円でも安い食材を求めてスーパーを周る生活を送ってきた反動もあってか、卒業アルバムには「夢は大金持ち」と書かれていた。

中学で柔道部に入り、青葉は準優勝したこともあったが、父親は理由もなく「賞の盾を燃やしてこい」と命じ、彼は言いつけに従った。行くなと言われて体育祭も休まされた。父親は青葉にとって問答無用に強権的で理不尽な人間だった。また彼は幼い頃から「やればできる人間だ」「大物になるか乞食になるかのどっちかだ」と青葉に言って聞かせ、好きなものを徹底的にやれという教育方針だったという。後に小説を書く動機の背景にその教えがあったことを認めている。

家賃が払えなくなり2度転居を余儀なくされ、中学は2年の2学期以来、不登校となった。その後、通ったフリースクールでは心のおける先生と出会う。定時制高校に進学し、昼は県庁で郵便物仕分けのアルバイトに励み、仕事は言われた以上にちゃんとやっていたという。高校へはしっかり通い、同世代の友人と遊ぶこともあった。体調が悪いときも兄にバイクでの送迎を頼み、休もうとはしなかった。

当時を知る妹によれば、「仕事が楽しい」と生き生きとしている様子で、音楽スピーカーを買って悦に入っていたこともあったという。カラオケでは女性キャラや声優のアニメソングを好んで歌った。またこの時期に高校の友人から京アニ作品の関連ゲームを推薦されたことをきっかけに『涼宮ハルヒ』などの京アニ作品を愛好するようになった。

定時制高校4年の頃、父親は交通事故で寝たきりとなり衰弱。青葉は音楽を学ぶために専門学校に進学したが、1年も持たずに中退。妹には「あそこで学ぶことはない」と大口を叩いた。1999年、コンビニで働きながら春日部市内で一人暮らしを始めた時期、青葉の父が亡くなった。実家で母親と10年ぶりの再会を果たしたが、本人は「今更出てくるのはありえないだろうという感じだった」と振り返る。生前の父に告げた「お前の葬式には絶対に出ない」という意志を青葉は貫いた。

 

2006年、就寝中の女性宅に侵入する事件を起こして逮捕。妹が母親を連れていくと面会を拒み、その後面会が叶わなくなった。だが翌年、執行猶予付きの有罪判決が下り、母親とその再婚相手の家で暮らすこととなる。再婚相手が「お前に夢はないのか」と問うと、「罪を犯した身で夢なんて持っていない」と大声で反発し、引きこもるようになった。工場勤めを始めたが、「周りの作業員のスピードが遅くて嫌になった」と言い訳をして数か月で辞めてしまった。母親は、青葉の他責傾向を「元夫譲り」と表現している。

2008年頃はリーマンショックの影響で「“派遣切り”に遭うと分かっていたので自分から辞めた」などとして工場の派遣仕事を3度にわたって辞めていた。郵便局の勤めも辞めてしまい、生活保護を受けて昼夜逆転した生活を送るようになった。SFや学園系ライトノベルを自ら書き始めたのもこの時期であった。京アニ大賞が立ち上がったばかりだったこと、「手に職を付けねば」という必要と、「全力を出せば」という願望が男を創作に向かわせた。大賞を取れば憧れの京アニでアニメ化される。公判では「下りではなく、上りのエスカレーターに乗りたいと思った」と当時の心境を明かしている。

住む家を失い、茨城県へ流れ着いた。すぐに家賃滞納となり、住民から騒音の苦情が入るなど男の生活は明らかに荒んでいた。またこの時期、青葉はインターネット上で「京アニの女性監督」と掲示板でやりとりをしており、一方的に恋愛感情を抱いていたという。しかし「監督」から『レイプ魔』と言われた。犯罪歴が知られていては小説も応募できないと思い、一層のこと刑務所へ行った方がいいと思い、2012年、「したくなかったが」コンビニ強盗を起こした。部屋は食べ残しで腐敗臭が充満し、壁には穴が開けられ、金づちでパソコンが破壊されていたという。

刑務所に収容され、期せずして塀の中京アニ作品の『けいおん!』を見る機会があり、涙を流したという。2013年7月以降、青葉は幻聴・幻覚・不眠などに悩まされ、自殺リスクのある「要注意者」に指定された。不審行動で注意され、職員に強く反発するなどして10回以上懲罰を受け、2015年10月には「統合失調症」の診断を受けた。2016年1月の出所の際のアンケートでは「1年後に作家デビュー、5年後に家を買う、10年後は大御所」と夢を新たにしていた。

MBSが入手した当時の精神鑑定資料によれば、京アニ事件の予兆とも取れる発言が記録されていた。「無差別殺人を考えたりするが、最後で歯止めがあり」という発言に、検察官が「最後の歯止めとは何か」と質問すると、青葉は「小説だと思います。小説への思いがどこかにあり、つっかえ棒となっていたと思います」と答えていた。仕事をクビになったときの心情について「母を、兄も含めて、ガソリンを撒いて燃やしてやろうかと」と自暴自棄な発言をし、「まじめにやっていても邪魔しか入ってこないので」と話していた。

出所後、執筆を再開し、京アニ大賞に応募することとなる。だが京アニ作品を見返していると、自分の小説の内容と似ているシーンが度々目に付くようになった。落選後も小説家志望者が集うサイトで応募した小説を公開したが、読者はなく退会する。希望の持てない人生の中で、男にとって小説は「一筋の希望」だった。全身全霊を捧げた小説から訣別することは「失恋」のように難儀することだったという。10年前から書き溜めていた小説のネタ帳を自ら焼却したとき、「何かしらつっかえ棒がなくなった感じはしました」と語っている。

青葉を担当した訪問看護の記録によれば、薬の服用漏れや不眠などの影響で精神状態が常に不安定だったとされ、2018年5月にはアパートを訪れたスタッフに「付きまとうのを辞めないなら殺すぞ」「今のままでは人を殺してしまう。人間は足を引っ張る人間ばかりで信用できない」と包丁を向けて脅すこともあったという。「ハッキングされている」と訴え、室内にはパソコンやゲーム機が破壊され、切り刻まれた革ジャンパーや布団などと共に散らばっていた。

2019年3月から突然連絡が取れなくなり、スタッフは薬の服用ができていないことから対人トラブルに発展することも懸念していたという。

 

 

裁判

事件の発生から4年が経った2023年9月5日、厳重な警備態勢が敷かれるなか、京都地裁で初公判が始まった。

車いすに座って出廷した青葉被告は、スタジオへの放火の起訴内容について「間違いありません」と認め、「事件当時はそうするしかなかったと思っていた」「たくさんの人が亡くなるとは思わなかった」と述べた。

弁護側は、事実について争わないとしたうえで、被告の心神喪失による無罪、あるいは心神耗弱状態にあったとして刑の減軽を求めた。加えて、本人の予想を超える凄惨な火災を招いた背景に建物の構造に問題があった可能性もあると主張した。

検察側は、被告に完全責任能力があるとした上で、その動機を「筋違いの恨みによる復讐」と指摘した。

 

検察側は被告の来歴に触れ、両親の離婚、父親による虐待、貧困による転居、中学時代に引きこもりを経験し、「独りよがりで疑り深いパーソナリティ」になったと主張。また定時制高校を皆勤で卒業した「成功体験」により「努力して成功した」との思いを強くしたことが後の作家志望につながったとする。また30歳までコンビニでアルバイトなどをしたが、店長への恨みから「うまくいかないことを他人のせいにしやすいパーソナリティ」が形成されていったと指摘。その後、京アニ制作アニメに感銘を受けて、ライトノベル小説の執筆に励み、37~39歳で京アニ大賞に長・短編小説2作を応募するも“渾身の力作”が落選。挙句に「作品の一部アイデアを盗用された」と一方的に恨みを抱き、監督や他の従業員も巻き添えにする殺害計画を立てたとした。

弁護側は、何をやってもうまくいかない鬱積した思いから精神を病み、妄想に支配された被告にとって「この事件は起こすしかなかった事件」だったとし、自分の人生を翻弄し、スターダムの道を駆け上がっていった監督に対する「対抗手段、反撃だった」と反論。検察側は、精神状態が犯行に影響したのではなく、被告のパーソナリティが現れたもので完全責任能力があると対抗した。

涼宮ハルヒの憂鬱』『響け!ユーフォニアム』等の作画で知られた池田晶子(しょうこ)さんも犠牲者のひとりだった。初公判を迎えた心境を聞かれた晶子さんの夫は、「なぜか、涙が出てきました。なぜかわからないです。かなしいのか、うれしいのか、分からないけど涙が出てきた」と整理のつかない感情を打ち明けた。被害者たちの名前や死因が読み上げられるとあまりの被害の大きさに辛さがこみ上げたという。それに対し、被告の犯行動機については「妄想の一言では片付かないでしょ、納得できない」と述べ、量刑判断よりも動機の解明、被告本人からの納得のいく言葉を求めた。

 

検察側は、被告が動機に挙げる小説から「パクられた」とするアイデアを探し当て、3作品に“かろうじて似ている”と解釈できる場面があると述べた。

ひとつは、社会現象ともなった女子高生バンドのアニメ『けいおん!』の中で、主人公が後輩に「私留年したよ。これからは同級生だよ」と語る場面がある。青葉が京アニ大賞に応募した長編小説では、男子高生が先生から「このままだと留年だぞ」と言われる場面があった。

高校の弓道部を舞台にしたアニメ『ツルネ』の中では、2割引きの肉を買うシーンが描かれており、青葉の小説では、晩御飯の総菜を買うときに、50%引きになった総菜を買い漁る場面があるという。

高校で水泳部を立ち上げる男子学生たちの青春もの『Free!』では、校舎に垂れ幕が掛かっているシーンが描かれているが、青葉の小説では、学校に期限の切れた垂れ幕が下がっている描写があるとされる。

 

また弁護側は、犯行動機について、「被告の人生をもてあそぶ“闇の人物”が京アニと一体となって嫌がらせしてきた」と説明していた。被告人質問で青葉は、“闇の人物”について「強盗事件で服役していたときに刑務所で出会った」「名前は『ナンバーツー』」と述べ、「ハリウッドやシリコンバレー、官僚などにも人脈のある闇の世界に生きるフィクサーみたいな人」と説明した。

青葉は、ナンバーツーから指示を受けた警察の公安部から尾行や盗聴されている気がしたと述べ、事件で身柄確保された際の「お前ら知ってるだろ」といった発言も、すでに思考盗聴されているとの考えから出た言葉だった。

自分が京アニ大賞に落選したのはナンバーツーの仕業だと信じており、受賞は出来なくとも何かしらの依頼はあるのではないかと考えていたという。だが期待した連絡もなく「がっかりしたし、裏切られたと思った」男は、京アニが「ナンバーツーの実行部隊」だと考えるようになっていた。

青葉は「監視を続ける公安」や「パクるのを辞めない京アニ」に対して、これ以上危害を加えるべきではないと分からせる必要があると考え、京アニ事件の1か月前にも大宮駅前での無差別殺傷を企てていた。これは秋葉原通り魔事件を参考にしたもので、男は人生に悲観していた加藤智大元死刑囚の境遇に「他人事とは思えなかった」と共感を抱いていた。刃物6本を購入したものの、実際に駅に向かうと想定していたより人が少なく、だれかを刺してもすぐに逃げられて大事件にならないと考えなおし、実行には至らなかった。

 

動機の一部には明らかな統合失調症の影響が見て取れるが、犯行に際してはそれなりの下準備が行われており、筆者は心神喪失とは言えないと考えている。全財産5万7000円を口座から引き出し、事件の3日前、7月15日に京都を訪れた青葉は、その後、第1スタジオの下見にも訪れていた。

2001年に弘前で起きた消費者金融武富士」での強盗放火殺人を参考とし、ガソリンでの放火が念頭にあったが、道を尋ねると証拠が残ると考え、人との接触を避けて行動していた。初日には場所が見つけられず、翌16日にネットカフェでスタジオの場所を検索して出向いたという。

前日にはホームセンターでガソリンの携行缶や台車などを購入。入り口が閉鎖されていた場合に備えてハンマーまで用意した。所持金も底をつき、容器や凶器などを抱えて電車に乗るのもためらわれたため、事件前夜は現場近くの公園で野宿した。

武富士事件では強盗に入った小林光弘元死刑囚が店内に混合油を撒いて金銭を要求し、店側は速やかに通報したため火を放って逃走。従業員5人死亡・4人重傷の大惨事をもたらした。

 

「よからぬことをする前、熟睡できるほど神経は太くない」

男は京都に来て以来まともに眠れなかったという。犯行時刻は午前10時半を予定していた。通勤したばかりや昼休みだと社員たちは出歩いていると思い、座って作業しているであろうその時間に決めた。容器からバケツにガソリンを移し替えるには時間を要さなかったが、10数分の間、逡巡や躊躇が頭をよぎった。

「自分みたいな悪党でも小さな良心があった。でも自分の半生、1999年からの20年間はあまりにも暗い」

「どうしても許せなかったのが京都アニメーションだったということになります」

「ここまで来たら『やろう』と思った」

入り口は施錠されておらず、被告の記憶では、右手に持ったバケツを振り上げる感じで一面にガソリンを撒いた。社員たちがなんだなんだと見やるのを横目に、「死ね!」と叫ぶと、入ってものの30秒と経たぬうちに火をつけ、即座にその場を飛び出した。自分の体にも引火しており、慌てて地面に寝っ転がって消した。

 

しかし検察側の被告人質問では、「ナンバーツーは小説の盗用に関わっていないのではないか」「監督が成功の階段を上りつめていき、あなたはどんどん下がる一方だったと振り返っているが、ナンバーツーは関係していないのではないか」と、ナンバーツーと京アニが無関係ではないかとする見方を提示し、青葉被告を困惑させた。

「捜査段階では公安に関する話は『作り話』と話していたのではないか」と矛盾を指摘すると、被告は「そうです」と認めた。京都に着いてからも監視はなく、監視があったら犯行に至らなかったと述べている。

長編小説『リアリスティックウェポン』で使用したペンネームは、昔一緒にクリエイターを目指していた人がスクウェア・エニックスでCGグラフィッカーとなり、自分が夢破れたことに納得いかず、その知人の名前を1文字変えて自分の名前にしたという。そこはかとなく男の嫉妬深さが窺われる。

小説との訣別により憎しみの感情は急速に肥大化していった。また前科が付いたことでもそれまで自分を支配していた良心がなくなったように「タガが外れて」いったと口にする。すでにコンビニ強盗の後にも「小説がつっかえ棒になっている」と自覚していたことからも、自ら誤った方向へと、階段を下へ下へと向かっていったことになる。

19日の被告人質問で、青葉は自身も「やりすぎた」という事件を振り返り、「本当に火をつけるってことは行き過ぎだと思っていて、30人以上なくなられる事件ということを鑑みると、いくら何でも『小説ひとつでここまでしなきゃいけなかったのか』というのが、今の自分の正直な思いとしてあります」と述べた。

 

青葉は特定の誰かを標的にしていた訳ではないとし、遺族から「犯行直前にためらいや良心の呵責」について質問されると、「それなりの人が死ぬだろうと」思うとためらいもあったが「自分の10年間のことで頭がいっぱい」だったと言い、「被害者のこと」には考えが及ばなかったと述べた。

「被害者の立場では考えなかったということですね」との遺族からの質問に、被告は不満の色を見せ「逆にお聞きしますが、僕がパクられたとき、京都アニメーションは何か感じたんでしょうか」と質問で返し、裁判長から「今はあなたが質問される立場です」と制止される場面もあった。謝罪などはなく、「自分はこの立場なので罰は受けなければなりませんが、京都アニメーションが私にしたことは不問なのですか」と一方的に言葉を続けた。

依然として京都アニメーションから受けた「仕打ち」に対して「憤りはございます」と主張したものの、「もう少し『やってやった』と思うのかと思っていたが、意外となんか悩むこともたまに結構あるし、そんなことしか残らなかった」と犯行後も手応えや達成感のようなものはなかったとしている。

焼死した社員の中には、青葉が「盗作された」と主張するアニメが制作されて以降に入社した新人社員も含まれていた。新入社員の遺族からその点を問われると、「すみません、そこまでは考えておりませんでした」と詫びた。一方で、「京アニがパクっていることや社風を知らずには行って、金を貰って稼いでいる時点で、知らずにいるのは『どういうことなのか』と思う」と不満を述べた。

「あなたがハルヒをパクるのと、京アニがパクるのとは何が違うのか」との質問に、被告は「ハルヒは教科書として使っており、書いていく過程でパクったが、最終的に別の作品をつくっている」「京アニは、小説を落選させておきながら、著作権を自分のものとしてパクって放映しているのでいかがなものか」と持論を展開し、知る努力を怠った全員を同罪とする主張を行った。無論、先に指摘された似ていると解釈できなくもない箇所のような、学校や日常生活における一般的ともいえる表現に著作権が生じるとは考えられない。

裁判員からの犯行後の心境に関する質問に対して、「ある種、やけくそという気持ちじゃないとできない。一言で言えばやけくそでした」と答えた。また裁判員の「京アニでは各部署で専門が違っていて、(盗作されたとする)内容について知らない方もたくさんいたと思う。被告自身はそのことを知ろうとはしなかったのか」との問いに、言葉を窮しながら「知ろうとしなかった部分はあります」と述べ、「被告自身が知ろうとしなかったことは罪にならないのか」と問い詰められると、「至らない部分で、努力が必要な部分だと思います」とか弱い声で回答した。

青葉は被告人質問の最後に、事件について「多大に申し訳ないという気持ちはある」と初めて遺族や被害者に謝罪をした。

 

 

所感

裁判では、青葉被告の著しい他責傾向や犯行の計画性が判明した。背景には受け入れがたい苦しい暮らしがあったかもしれない、精神に異常性がなかったとは言えない。だが生きづらさを抱えているからこそ、「つっかえ棒」に思われた小説が男の生きる支えになっていた。それに気づかせてくれたのが『ハルヒ』であり京アニだったはずで、感謝こそすれ恨むべき相手などでは決してなかった。おそらくそのことを男自身が一番よく分かっていた。大賞を取って一発逆転を狙う賭けではなく、書き続けるために這いつくばってでも生きることをやめない発想の転換が必要だった。

青葉は強固な殺意を維持しながら犯行準備を重ねていたことからも、完全責任能力はあったと筆者は考えている。被害者に何らの落ち度もなく、犯行様態も甚大な被害が予測される危険性、残虐性の高い手段であり、社会や遺族からの処罰感情は免れがたい。何より青葉が加藤智大や小林光弘のフォロワーであったことから危惧されるように、本件が事件史に刻まれることでまた新たな類似犯を生み出す恐れがある。

 

2024年1月25日、京都地裁・増田啓祐裁判長は死刑判決を下した。

妄想性障害が犯行動機の形成に影響したと指摘する一方、犯行様態は性格の傾向や考え方、知識に基づいて被告自らの意思で選択しており、犯行前に逡巡するなど善悪の判断はでき、行動が制約されるほどの影響はなく責任能力はあったと認定された。

量刑理由として、36名もの尊い命が奪われた結果はあまりに重大で、その苦痛や恐怖は計り知れず、希望ある前途を絶たれた人々の無念さ、遺族の被害感情も著しく「極刑を望むことも当然」と指摘した。

被害者や犠牲者の家族からは、被告が後悔や反省の色を示さなかったことから、事件の重大さを理解できているのか、死刑判決をどのように認識するのかといった懸念も聞かれた。

京都アニメーション八田英明社長は「法の定めるところに従い、しかるべき対応と判断をいただきました」と捜査・司法等関係者の尽力に感謝し、スタッフ一同の精魂込めた作品を大切にし、これからもその遺志をつないで作品作りに努力していくと述べた。

1月26日、青葉被告の弁護士は判決を不服として控訴。今後、大阪高裁で審理が行われる見通しとなっている。

 

被害者のご冥福と関係者のみなさまの心の安寧をお祈りいたします。

 

京アニ事件が残したメディアの「実名報道」は、是か非か? » Lmaga.jp

増殖するデジタル性犯罪——n番部屋事件

 

 

「神神」の逮捕

2020年5月9日、韓国・慶尚北道地方警察は、児童青少年性保護法違反の容疑で京畿道安城市の学生を緊急逮捕する。ハンギョン国立大学建築学科4年生ムン・ヒョンウク(当時24歳)は学内で特定グループに属しておらず親友らしい親友もいなかったが、傍目に問題行動は見られず学業も疎かにしない模範的な学生だと思われていた。

しかしメッセンジャーサービス「テレグラム」上で通称「갓갓(神神・godgod)」としてチャットルーム「n番部屋」を創設し、かつてない規模のデジタル性犯罪の火種となったことで韓国を震撼させた。男のニックネームはSNS上で「わいせつな自撮り画像を投稿する女性」の呼称に由来する。

任意同行を求められたヒョンウクは当初抵抗を示したが、各方面からの証拠を突き付けられると容疑を認め、被害者に対して「申し訳ないことをしました」と謝罪を口にした。

IPアドレス等の特定だけでは言い逃れされる可能性があったことから、過去の携帯電話からの通信履歴の解析や先んじて動画制作に関与した実行犯への追及を重ねるなど、裏付け作業に半年以上を費やしていた。尚、デジタル捜査については犯罪者に証拠隠滅のアイデアを与えることになるため詳細は公開されていない。

自白によれば、大学入学後、20歳頃から児童や未成年の少女らに対して脅迫行為や性的搾取を繰り返してきたという。更に性的行為の様子を写真や動画で撮影し、それを同じ趣味をもつ変態相手に共有して金にしようと考え、当時爆発的に流行したテレグラムアプリの悪用を思いついた。

テレグラムにはグループチャット機能があり、電話番号などを知らなくてもニックネーム等によって相手をチャットルームに招待することができる。チャットルーム内で児童や未成年者らへのレイプ動画等を限定共有し、視聴希望者から入場料を取って招待することで違法な収益を得ていたのである。

被害者たちには性的同意など存在しない。神神を名乗る男は、自らの手で犯行に及び撮影したものの他にも、2018年12月に大邱(テグ)で起きた女子高生性暴行事件などの実行を指示した共同正犯であることを認めた。

SNSで少女たちに接近し、自らを警察だと偽って彼女たちの個人情報や露出画像を引き出す。その後、脅迫して面会や性的行為を強要し、撮影した記録を流出させると脅迫して口止めするという、ありきたりだが周到な手口だった。

2021年4月、大邱(テグ)地裁は求刑無期懲役に対し、懲役34年の判決を下した。量刑不服として検察、被告側共に控訴したが棄却。同年11月11日、最高裁は上告を棄却し、懲役34年に電子足輪30年の量刑が確定した。

 

ムン・ヒョンウクは、チャットルーム商法を拡大させるため、通称「코태(コテ)」ことアン・スンジン(24歳)に「n番部屋」の共同運営を持ち掛け、被害少女への脅迫行為や性的搾取動画の制作などを指示し、合わせて8つのルームを運営した。

共犯者スンジンは2020年6月15日逮捕。児童ポルノ1000点の流布、関連品9200点の所持容疑を受けた。裁判ではSNSを介して10人余りを脅迫し露出画像データを送信させ、2015年4月に発生した12歳少女への性的暴行の嫌疑についても争われることとなった。ポルノ中毒と性的欲求解消のために犯行に加担したことを認めた。

大邱地裁は求刑懲役20年に対して懲役10年の判決を下し、検察側は量刑不服として控訴したが、2021年4月、高裁は原審判決を支持。上告はなく刑が確定した。出所後も青少年関連施設での就業は制限され、80時間の性暴力矯正プログラムの履修が義務付けられている。

 

そもそもの事件の発覚は、2019年3月、「n番部屋」で娘の性被害動画が流布されていることを知った被害者家族による通報だった。デジタル性犯罪被害者支援センターが調査に乗り出すと、テレグラム上では未成年者に対する甚大な性犯罪動画が蔓延しており、性的搾取の巣窟とされていることがすぐに明らかとなった。同センターは女性家族省の管轄で捜査権限がないことから、慶北地方警察庁に本格的な刑事捜査を要請した。

チャットルームは招待制となっており、多くはTwitterをはじめとするSNSで客や女性の勧誘が行われていた。客寄せの投稿では、露出画像が貼られたメッセージに「#露出」「#逸脱」といった好奇を煽るハッシュタグが付され、実際の購入者は口座振替や暗号通貨、文化商品券(「レジャーランド社」発行の書店、映画、レジャー、飲食店、ショッピングなどで広く利用できる商品券。デジタル版も普及している)などで決済していることが分かった。

「n番部屋」に関して、最終的に身元が確認された被害者は40人余りに及び、2年半で275回の撮影、直近1年間で3762件の動画が共有されており、各部屋は300~700人余りの来場があり、基本価格は10000ウォン(およそ1000円)分の文化商品券であった。利用用途が広いことから使用しても足がつきづらいことを算段に入れていたとされ、収益は延べ90万ウォン程という。

だがテレグラム内の性搾取チャットルーム問題がはじめて報道された2019年初旬には8つあった「n番部屋」だけでなく、すでに複数の管理者の手によって数十におよぶ派生ルームが「増殖」していた。

その正確な視聴者数は明らかになっていないが、2020年1月までに56の性搾取チャットルームの単純合算PVの総数は26万再生に及んだ。デジタル性犯罪の恐怖はその数に留まらず、二次配布が無限に、理論上は半永久的に繰り返されてしまうことにある。被害者の中には自ら命を絶った者もおり、事件発覚後は早急な削除と監視が強化されたが、ともすれば死して尚、ネット上あるいはだれかの記録媒体の中には動画や露出画像が今も消えずに残されてしまっているかもしれない。2020年12月の捜査終了までに確認されたテレグラム性搾取全体の被害者の総数は1154人に達した。

利用者情報の開示が迅速に進まなかったことや、その被害規模によって各チャットルームに関連する事件の洗い出し、犯行グループの解明や実行者の裏取りは難航し、「n番部屋事件」として報道されるまでには半年近くの時間を要した。

 

サイバー亡命

2013年8月にロシア人実業家ドゥロフ兄弟によりiOS向けにリリースされたメッセージアプリ「テレグラム」は、開発者向けにAPI(アプリケーションプログラミングインターフェイス)が公開されていたことにより、アンドロイド、WindowsLinuxmacOSや各種Webブラウザまでサポートを拡大。無料クラウドストレージの大容量や、ソーシャル広告などの収益化を2021年11月まで見送ってきたこともあり、2018年3月にアクティブユーザー2億人を突破し、日に15億メッセージをやりとりする巨大アプリとして人気を博した(2022年6月期でアクティブユーザー7億人とされる)。

元々、ドゥロフ兄弟らはサンクトペテルブルクで「ロシア版フェイスブック」とも言われるSNS「フコンタクテ(VK)」を創業し、30億ドル相当となるロシア最大の事業規模にまで急成長させた気鋭の起業家だった。

2014年4月、ロシア最大手の検索ポータルサイト、メール通信事業を手掛ける「Mail.ru」がVK株式の過半数を取得。ウクライナ危機の影響下にあって、Mail.ru側は創業グループに対して様々な条件を課してきたという。ドゥロフ兄弟は、連邦保安庁へのユーザー情報の引き渡しや、政治的交流の制限に対して猛反発してVKを追われることとなった。「プーチンの犬に追い出された」「この国はインターネットビジネスと両立しない」として「テレグラム」事業と共に亡命を表明。彼らの母方親族はウクライナ家系であった。

兄弟はリバタリアン(完全自由主義、反隷従主義)を自称し、国家による検閲や要求には従わない対決姿勢を示し、ドイツ・ベルリンやUAE・ドバイに開発拠点を移して、テレグラムの暗号強化や暗号通貨の開発に勤しんだ。ロシア治安当局はテレグラムのロシア市場からの締め出しを試みたが、テレグラム側はドメインフロンティングにより検閲を回避し、結局2020年までにブロック命令は解除された。

 

当初テレグラムは機能面において先行する「WhatsApp」や「KakaoTalk」の下位互換と見なされていた。しかし2014年9月にパク・クネ大統領がネット上でのデマ拡散に強く対処する方針を打ち出したこと、10月には労働党チョン・ジヌ副代表への捜査の過程で3000人分の個人情報を含むKakaoTalkの通信内容が検閲されていた事実が明らかとされた。

通信傍受に対する危機意識の高まりに加え、テレグラムのセキュリティの高さが謳われたことから、韓国国民は国産アプリを逃げ出し、大挙して「サイバー亡命」のうごきを加速した。だがテレグラムは国外にサーバーが置かれているというだけで、実際には正式な手続きが認められれば開示請求にも応じるとされている。

またn番部屋事件とは無関係だが、2014年9月には被疑者が「Gmail」を使用していただけで「隠蔽工作にあたる」として逮捕令状が請求・発行される事件も起きたことを鑑みれば、当時の韓国におけるサイバー犯罪捜査は過度に強制力を持ちすぎていたとも言える。国民の側もセンシティブになっており、その反動も大きくなったと言えるだろう。

そうしたことからテレグラムは韓国内で大きくシェアを伸ばしていったが、他のSNSでの規制強化や締め出し、摘発逃れ、新規顧客開拓のために、違法な金儲けを企む犯罪者たちも「安全神話」を誇る新たな「理想郷」へと殺到することとなる。

 

韓国の性犯罪対策

カメラ機能付携帯電話などの普及に伴って、2010年頃からデジタル性犯罪は先進諸国で社会問題となっている。なかでも「盗撮」は参入障壁の低い性犯罪のひとつとして以前から広く知られており、一種の変態趣味として画像の共有や売買を行うグループなども存在する。

日本での状況を見ておくと、元交際相手の加害者男性が動画共有サイトに被害者との性行為動画を投稿した2013年10月発生の三鷹女子高生ストーカー殺人で「リベンジポルノ」という概念が知られることとなり、翌14年にリベンジポルノ防止の関連法が成立した。しかしSNSスマートフォンの普及などを背景に年々その被害相談は増加しており、2022年には1728件(前年比100件増)となっている。だが同法で有罪になる場合も多くは初犯で執行猶予が付くことが多く、被害者側は一生残る「デジタル・タトゥー」を刻まれかねないことに対して量刑があまりにも軽すぎるという見方もある。

2021年2月に発生した旭川女子中学生いじめ凍死事件でも自慰行為の強要や撮影が行われ、脅迫や拡散される被害があったとされている。「撮らせる方も悪い」といった論点はナンセンスであり、単なる嫌がらせ・報復に留まらず、面会や金銭を要求する脅迫行為へとエスカレートするケースが非常に多い。

現行法では撮影者不明や行為者本人による撮影だったとしても、私事性的記録物の不特定多数者への流布・販売および公然陳列に対して、3年以下の懲役または50万円以下の罰金に処される。2022年度は1728件の被害相談が寄せられており、20代、10代の被害が7割を占め、男性被害も含めて年々増加傾向にある。

ネット上での画像や動画に関わる犯罪として、性的部位や下着などの盗撮や拡散を取り締まる「性的姿態撮影罪」のほか、わいせつ目的で手なずけて面会を求めたり、性的な「自撮り画像」を要求する、いわゆるグルーミング性犯罪に対して「性的面会要求罪」も新設された。

警察庁生活安全局の報告によれば、令和3年度の児童買春、児童ポルノに関わる被害児童数は993人で平成24年の424人から134%増加した。SNSに起因する強制性交等の被害児童は34人(H24.の14人から142%上昇)、強制わいせつ行為の被害児童は17人(H24.の6人より183%上昇)である。

 

EUでは、2000年代からウェブ上でのプライバシー保護の在り方と「表現の自由」や「知る権利」との両立に関する議論が広く行われており、2011年、フランス人女性がgoogleに対して過去のヌード画像の消去を請求して勝訴し、世界で初めて「忘れられる権利」を認める画期的な判決となった。現在「right to erase(消去権)」として認知されているが、削除に応じる細かな基準については今日も世界中で議論が続けられている。

アメリカでは州によって対応する法律が異なり、ニュージャージー州ではゴシップ拡散防止のために無許可画像や録音の流出を禁じており、カルフォルニア州ではリベンジポルノそのものを違法としている。2014年1月、投稿型リベンジポルノサイト「Is Anyone Up?」では公開画像の削除を求める相手に対して法外な金銭を要求するビジネスとして運営されていた実態が明らかとされ、運営者が逮捕された。2015年4月、サンディエゴでも「revenge porn」サイト運営者が同様の金銭要求の手口により逮捕され、懲役18年が課されている。

 

韓国では、盗撮物の販売や流布、サイバーストーキング等のいやがらせ行為なども含めて「デジタル性犯罪」という概念が普及している。デジタル機器と情報通信技術を媒介にオン・オフライン上で発生するジェンダーに基づく技術的暴力と定義される。「製作」や「流布」のみならず、犯罪集団の違法活動に「参加」したり、閲覧によって「消費」することも性犯罪に加担することとみなされる。

カメラ等撮影物の公開による被害届は2012年度から2016年8月までの4年8か月で1万件を超えており、2007年時点では性暴力犯罪全体に占める割合は4.9%だったが、2015年には24.9%と大幅な増加が確認された。更に近年では合成編集によるディープフェイクやAI生成ポルノの量産も問題視されている。

背景として、まず2007年4月の性暴力犯罪関連法の大幅改正がある。未成年者被害の場合は非親告罪となったことで、強姦および強制わいせつの相談件数は2007年度;13,396件から2011年度;19,498件へと大幅に増加した。

再犯防止策として、性犯罪歴のある者に対するGPS装置による電子的監視、いわゆる「電子足輪法」が導入された(後に殺人及び未成年者略取誘拐の犯歴者も対象に追加された)。性犯罪前科者や電子足輪者の居住地域など周辺住民への情報公開も行われている。また女性家族省は性犯罪再発予防プログラムを開発し、啓発活動や入所中の矯正訓練に用いられている。

しかし2008年12月、京畿道アンサン市で当時小学1年生の女児が顔面骨折と怪我、性的虐待を受けて局部の80%を破損し重い後遺症を負う事件が起きた。強姦前科のあった加害者チョ・ドゥスンは逮捕されたが犯行当時は泥酔状態で刑法10条2項により心神耗弱だったと判断され、懲役12年の判決となった。幼い子どもに対する非道な加虐、生涯に渡るトラウマと身体的障害を負わせながら、その量刑はあまりに軽すぎるとして社会的議論を呼んだ。

2010年7月には、被害者が16歳未満となる児童性犯罪者に対して性衝動を抑制するための化学的去勢を行う「薬物治療法」が制定され、翌年施行された。これは2013年に被害者年齢の規定が撤廃され、「性倒錯症患者」と認められれば適用可能となっている。

日本と同じく家父長制の影響下にあった韓国社会では、長らく女性や子どもに対する人権意識が低く、近年急速にジェンダーギャップ解消の政策と法制度の見直しが進められてきた。時事に対する世論の反応は大きく、以下に見るトガニ法など、さまざまな事件を通じて児童・青少年の保護や性被害に対する支援を訴える声は法整備を強く後押ししてきた。

 

2009年、韓国の作家孔枝泳(コン・ジヨン)は、光州の聾啞者福祉施設インファ学校で実際にあった入所児童に対する性的虐待をモチーフにした小説『トガニ 幼き瞳の告発』(創作と批評社、日本版;新潮社)を発表し、大きな議論を巻き起こした。トガニとは日本語で坩堝(るつぼ)を意味する。

トガニ: 幼き瞳の告発

施設では2000年前後の10年近くにわたって校長や職員らによる児童への性的虐待が日常的に繰り返されており、2005年6月に一部職員が告発に動いた。しかし提出先の光州広域市教育庁ら関係機関は介入を拒み、7月には市民団体が対策委員会を発足させたが学校の財団側との交渉は膠着状態が続いた。

05年11月になってMBCテレビの追跡報道番組『PD手帳』で事件が公にされると、職員2人が性暴力容疑によって逮捕された。しかし対策委は、事件を矮小化し組織ぐるみの隠蔽が行われているとしてその後も財団役員の一掃を求める抗議や座り込みを続けた。2006年8月には国家人権委員会が役員解任を勧告し、加害者6名が追加告発を受けた。

法廷での争いは続いていたが、2007年3月には中高等部学生8人が登校を拒否し、4月から教育庁前で約1か月にわたってテント授業を敢行して抗議の意志を示した。5月28日、学生らは校長に対して卵や小麦粉などを投げつけると、31日、学校長は該当学生を暴行容疑で刑事告訴する。6月には懲戒免職されていた加害職員が復職し、自身の告訴取り下げを求める署名を集めて提出。9月には対策委に参加した教職員の任用取り消し、停職、減給などの懲戒処分を行い、当初告発した職員には自宅謹慎を命じた上で最終的に解雇を決定する。法廷の外で泥沼化した争いが続けられるなか、10月10日、性的虐待の罪で前任校長に懲役5年が求刑された。

世間の関心は徐々に薄れていたが、2009年6月に小説『トガニ』が出版されて事件は再び大きな注目を集めた。2010年には再びインファ学校で性的虐待の疑惑が浮上するも、学校側は自治体の調査を拒否。学校側は校名の変更やリハビリ対象者を言語聴覚障害から知的障害に広げる申請を行うも、対策委の糾弾アピールによって反対の世論が再燃。

11年9月には映画『トガニ』公開によって大きな社会問題となり、11月17日、青少年性保護法、通称「トガニ法」が施行された。障害者および13歳未満の児童に対する性的暴行、養護・教育施設職員による児童への性的虐待に対して、通常よりも量刑が加重されることとなった。さらに児童および障害者被害者事犯での公訴時効の廃止、公判で被害者側が立証を負わないこと等を盛り込んでいる。

 

2012年12月、性犯罪対策として6つの改正法が公布され、厳罰化が進み、諸問題の是正や対策が強化された。

韓国では刑事訴訟法第232条で、被害者が一審判決前なら告訴の取り消しができる(被害者が事件化を望まない場合は起訴されない)「反意思不罰罪」という制度が存在した。そのため加害者側関係者から被害者側に告訴の取り下げを求める脅迫や懐柔といった二次被害の発生が問題視されていた。このときの改正で性犯罪における年齢制限なしの非親告罪化が行われ、反意思不罰罪も除かれた。

また従来法では「婦女」または「女子」に限られていた条項が「人」に改められ、性別区分を撤廃。強制わいせつの範囲についても、性交類似行為として口や肛門などへの性的行為の範囲を広げ、性器以外でも指や道具の挿入なども対象とされた。

電子足輪についても、装着対象が13歳以下の児童被害者事犯と限定されていたものが、19歳未満に引き上げられ、対象者の枠が拡大された。装着命令以外にも保護観察命令が可能となり、捜査機関と保護観察所の連携強化が進められた。元加害者には半年~1年毎に出頭命令を受けて登録情報の更新が確認されている。

特例法として「のぞき」「盗撮」など性的欲望のために公衆トイレや公衆浴場等への侵入を規制する罰則条項も加えられた。また性犯罪者は刑執行から10年間、塾・学校・保育・医療機関への就業制限が課されていたが、その対象は後にネットカフェ、青少年活動企画業、芸能事務所などへも拡大された。

 

2017年にデジタル性暴力防止法が成立。2018年4月から相談窓口や被害届申告をサポートするデジタル性犯罪被害者支援センターが設置され、頒布された動画などの緊急削除や司法手続きのサポート、メンタルケアへの支援、被害者救助金支給などを行っている。性暴力に対する被害者側の犯罪認識が浸透したことで、届出の件数は3万件を超えるようになった。

日々流出され、増殖される性搾取物の量は甚大で、削除支援スタッフは有害サイトのモニタリングや削除した被害映像の再配布がないかなどのチェックも続けられる。2020年の削除件数だけで12万5000件にも上り、月平均約9000件の削除支援を続けている。

日夜あらゆる虐待相談や凌辱映像に晒されるスタッフたちの精神的疲労やトラウマも大きい。スタッフの一人は飲食店に行った際にトイレの様子を確認する癖がついてしまったと語る。トイレでの「盗撮」映像があまりに多いため、自身も盗撮されているのではないかという強迫観念が芽生えてしまったのだという。あるスタッフは、ハッキング被害やクラウドデータの流出に恐怖を感じ、友人との写真を撮らなくなったという。彼らはカウンセラーによる支援を受けながら日々業務に当たっている。

 

2019年11月、リベンジポルノは芸能界でも悲劇を生んだ。女性アイドルグループ「KARA」のメンバーだったク・ハラさんが自殺し、遺書には記されていなかったが、元交際相手の男性から「セックス動画を流出させる」と脅迫されたとして前年から裁判を起こしていたことも原因のひとつと考えられた。Twitter上では「K-POPファンのみんな、性的虐待をした男を刑務所にぶち込もう。裁判はまだ係争中であいつは今も自由の身だ。もうハラは救えないけれど、彼女や虐待を受けた女性全てに正義をもたらすことはできる」といった元交際相手糾弾のメッセージやハッシュタグに溢れた。

※韓国刑事政策研究院キム・ハンギュンは論文『デジタル性犯罪遮断と処断 -技術媒介ジェンダーベース暴力の刑事政策』(ジャスティス第178号)の中で、「リベンジポルノ」などの過度に類型化した抽象的な用語は犯罪実態を不適切に捉えているとして用語の見直し、概念の言語化や再構築を求めている。

디지털성범죄 차단과 처단 - 기술매개 젠더기반 폭력의 형사정책 - - 저스티스 - 한국법학원 : 논문 - DBpia

日本語のいわゆる「嫌韓サイト」などでは、性犯罪認知件数などの折れ線グラフだけを挙げて「右肩上がり」を印象付け「韓国は性犯罪件数が年々増加している」との主張が掲げられている。だがむしろ実態としては、規制の拡大強化、法的手続きの促進、被害者支援が整ったことにより適切な対処が行われるようになった所産であり、埋もれていた性犯罪被害が顕在化したと言う方が適切である。窃盗被害や多くの殺人とは違い、数字に表れない、事件化されない被害も多数存在するのが性犯罪の難しさでもある。

2020年12月、刑期を終えた前述のチョ・ドゥスンが出所し、アンサン市の自宅へ戻ると多くの市民に取り囲まれて周辺は一時騒然となった。元受刑者に対する御しがたい反感と話題性が喚起され、出所前からYouTube等動画配信者らが自宅を取り囲んでいたのである。配信者や著名人の中には彼に報復行為を予告し、実際に殺害目的で刃物を持って釜山から馳せ参じた36歳男性が逮捕された。私刑YouTuberたちが振りかざす正義は、収益のソロバンや犯罪と紙一重である。

youtu.be

2021年には性暴力犯罪が全体で32,080件、検挙率は90.4%、29,013件だった。再犯率は6%で前年より0.3%減少。デジタル性犯罪は4349件で、盗撮など不法撮影が大きく増加している。

 

増殖した部屋

事件に話を戻そう。事件発覚当時、テレグラム内では「神神」ことムン・ヒョンウクが主導した8つの「n番部屋」の他にも、同じような性搾取チャットルームが増殖していたことはすでに述べた。

便宜的に「n番部屋事件」と総称されているが、厳密にいえばテレグラム内で同時多発的に行われていた未成年への性搾取・わいせつ画像の違法販売事件が複数含まれている。リンク広告を乱発して積極的に客を誘導していた「ゴッサム部屋」や、撮影物をランク付けしてより高額な入場料で好奇を煽った「博士部屋」などの方が悪質さにおいては顕著ともいえる。

 

ハンリム大学に通う二人の若者は2019年7月からYouTubeチャンネル「追跡花火団」の中で、テレグラムの「1番部屋」や派生ルームのひとつ「ゴッサム部屋」などに潜入した。リアルタイムで行われる未成年者への性的搾取やレイプ動画などの陰惨な犯罪を目の当たりにした二人は、警察庁サイバー安全局に通報するとともに、まだ事件が公にならない時期から証拠になりそうな内容を一つ一つキャプチャ撮りしてその内情や動向を追跡報告していた。

n番部屋は未成年者の性的搾取が大半を占めており、行為内容は多岐にわたるが、被害者たちは犬の真似、男性トイレでの脱衣、カメラを見ながらの自慰行為などを強要されていた。管理者らは女性のことを侮辱し、しばしば“血まみれ”と呼んでいた。

ゴッサム部屋は「AV SNOOP」という名のアダルト物流サイトにバナー広告を貼って客を誘引しており、「博士部屋」など別の管理者の広告もあった。7月時点でゴッサム部屋の参加者は約4000人以上。それぞれの派生部屋には3000点以上のわいせつ動画がアップされていた。

彼らのように通報のためにチャットルームに潜入する者もいたが、部屋が遮断されるとすぐに別の管理アカウントが新たに「非難部屋」を設けるいたちごっこが繰り返され、通報対策として管理権限者を置かない「平等部屋」さえ作られた。

神神は2019年7月、過激化路線をとるゴッサム部屋に現れ、「ここまでやったら死人があってもおかしくないのに未だにそんな話聞いてない(笑)一人でも死ねば警察に毎日殴られて、みんなの“お手本”になるのに」と嘲笑した。

8月、高校生を自称していた神神は「受験勉強のためチャットルーム運営から手を引く」と言い出し、ゴッサムメンバーに無償でn番部屋入場リンクを配布。管理権限を通称「ケリー」に引き渡してテレグラムを脱退した。結局n番部屋は9月初めに閉鎖し、ゴッサム部屋が違法コンテンツやユーザーを吸収するかたちとなり、11月までに7000人余りの大所帯に膨らんだ。

しかしゴッサム部屋の運営者「ウォッチマン」ことチョン・モ(38歳)は、過去にも同種の性犯罪を起こして執行猶予の身だったこともあり、捜査の早い段階で足がついた。10月までに逮捕され、余罪追及などの取り調べが密かに続けられていた。捜査状況は詳しく明かされなかったものの、警察から「ウォッチマン」逮捕を知らされた花火団の二人は喜びのあまり大学図書館で飛び跳ねたという。

2020年11月、一審・水原地裁で懲役7年の判決を受けたチョン・モは、量刑不当を主張して控訴、上告。裁判ではいずれも棄却され、2021年9月、同量刑のまま確定した。

その後も二人は性搾取被害の一掃を志し、ハンギョレ新聞の要請で「博士部屋」関連記事に協力し、追跡調査や未解決事件を扱う報道番組「それが知りたい」「実話探偵団」などに情報提供して事件の公論化を促す役割を担った。2020年に入って国内での認知が広まると、逮捕や裁判の度に「n番部屋事件」の事情通として取材や執筆を行い、ジャーナリズムにおいても花火団二人の成果は多くの賞に輝いた。学生活動家のひとりは名を伏せたままジャーナリストの道へ、もうひとりのパク・ジヒョンは政界へと活躍の場を移した。

 

n番部屋の閉鎖が取り沙汰された2019年9月頃、通称「博士」はゴッサム部屋を訪れ、「うちの部屋に味見にくるように」と自分のチャットルームの宣伝活動を繰り返し顰蹙を買った。不満に思った人々が博士を追い出そうとすると、個人情報を暴露されて返り討ちに遭った。

博士部屋では、公然わいせつや自傷行為、異物混入、便食などのほか、いわゆる「アヘ顔」など日本のポルノマンガ等で見られる拷問的妄想を現実の女性たちに強要した。無料で見られる「味見部屋」や掲示板のほか、入場料25万ウォンで国産スナッフが共有される「ハードルーム」、100万ウォン(後に150万ウォンに値上がり)の「最上位グレード部屋」は「リアルタイムで奴隷監視できる最強の部屋」と謳われた。更にメンバーの活発な活動に対して「経験値」を賦与し、高い等級になると秘密部屋へとメンバー限定で招待した。

博士は「イギヤ」「ブタ」「チィン」「カマキリ」「ヌム」「キム・スンミン」といった幹部たちに指示を送り、性的暴行とその撮影、宣伝広報、チャットルームの運営、資金洗浄などの業務を割り振り、幹部たちは従業員メンバーらとその役割を果たした。

ランクの高い部屋には「芸能人も含まれる」と喧伝され、入るためには身分証明が求められた。博士は神神とは異なり、性倒錯や性依存の傾向はなく、そうした人々をカモにする典型的な詐欺師であった。「博士部屋」は変態趣味の秘密の部屋ではなく、変態向けに蟻地獄を仕掛ける詐欺集団に他ならなかった。後の警察発表では、有料会員ほか、所持や二次配布などで罰金刑などを課せられた会員は2454人に及んだ。

被害者の大半は「条件付き出会い」、いわゆる「パパ活」や「売り(売春)」目的の女性たちで、Twitterの「#闇バイト」「#高額バイト」でおびき寄せられていた。目先の金を必要としながら社会経験も少ない彼らは言われるがまま住民登録証や口座番号、連絡先を伝えてしまい、脅迫のネタとされると共に、販売される「動画」のオプションにされた。被害女性は74人、うち未成年者は16人。ソウル、イルサン、仁川、江原など犯行地域は様々だった。

騙されてホテルなどに連れ込まれた女性たちは撮影や凌辱行為に抵抗するが、躊躇すれば「SNSで家族や友人、同僚に露出画像を送信する」「自宅にエージェントを送って家庭を破壊ないし家族を殺害する」と脅迫を受けた。電話や住居を変えて彼らの「管理」から逃げのびても、映像となった「人質」を取られているため、見えない鎖がかけられた状態で通報はためらわれ泣き寝入りを余儀なくされた。

博士は「新たな奴隷」として女性たちの凌辱動画を公開し、会員たちはチャット上で博士に媚びへつらい「もっと欲しい」「輪姦したい」と歓喜する、王様と施しを受ける下級市民のような関係性が醸成されていった。博士は検挙されないという根拠なき自信を持っており、違法ポルノによる集金システムの構築を「ブランド化する要領だった」と語っている。

 

2020年3月16日から17日にかけて「博士」こと短大生チョ・ジュビン(当時25歳)ら博士部屋運営幹部4人を逮捕。それぞれ管理役、実行役など共犯者は13名に上り、組織化されたグループ犯罪として量刑が加重された。

ジュビンは逮捕直後に自殺未遂を図り、首にプロテクターを装着されていた

 

逮捕のきっかけは暗号通貨の引き出しで、実行役の「ブータ」ことソウル科学技術大学の学生イ・カンフンが検挙された。すぐに身柄を拘束されなかったカンフンは、テレグラムでチョ・ジュビンに「1」と送った。これは先だって有事の際に連絡することになっていたメンバー内での暗号であった。

しかしジュビンは、カンフンが引き出した金を持ち逃げしようとしているのではないかと疑ってオンラインで連絡を取り続け、捜査本部に発覚。逮捕されるまで彼が首謀者「博士」である事実は掴めていなかった。仮想通貨の口座から32億ウォンに上る犯罪収益が押収され、資金洗浄の動きや組織の内情が徐々に判明した。

Buddaことカンフンは逮捕時未成年だった。

3月25日、チョ・ジュビンはソウル・チョンノ警察署前でフォトラインに立ち、「ソウル市長や記者をはじめ、私に被害を受けたすべての方にお詫び申し上げます。歯止めが利かなくなっていた悪魔のような人生を止めてくれて本当にありがとうございます」との言葉を残して場を後にし、その不遜な態度は人々の顰蹙を買った。逮捕前、彼はn番部屋事件を報じていた記者に対して家族写真を流出させる等の報復行為を行っていた。

チョ・ジュビンは「博士」のプロフィールとして、1974年生まれの既婚者でカンボジア在住の興信所社長だと幹部にも偽っていた。はじめから金銭収奪および詐欺を目的として性犯罪を繰り返し、犯罪集団に仕立て上げた罪質の悪さから、無期懲役が求刑された。一審では懲役40年が宣告されたが、別の性犯罪と隠蔽罪が加わり、二審では懲役42年とされた。2021年10月14日、最高裁は懲役42年に電子足輪30年の合併72年刑が確定。その後も「博士部屋」以前の強制性交や性搾取が明らかとなり、量刑が追加されている。

性犯罪はその被害の及ぼす影響に比べて量刑が軽すぎるという批判が根強く、重罰を望む声は大きかった。本件では積み重なった悪業を加重刑とみなすことで、有期刑として歴代最長となる判決が下された。性被害による精神的傷害は完全に癒えるものではなく処罰感情の減退は期待できないことから、彼らに仮釈放が認められる可能性は限りなく低い。2062年までは収監される見込みである。法改正のみならず、裁判所が国民の声を聞き、時代に沿った新たな基準となる判例を示すことも、同類犯罪者や将来の禍根を断つうえで大きな意味がある。

一方で、判例主義に則るあまり社会性を失ったような過少な判決も多くみられる。イ・カンフンは「博士部屋」運営の主要な共犯者として、多くの参加者を集め、性搾取映像の制作や流布を行い、直接対面したことのないジュビンの「右腕」となって積極的に加担したとして、検察側は求刑懲役30年を求めた。一審では懲役15年の判決が下され、量刑不当による控訴・上告は共に棄却され、同量刑で確定した。

韓国では国民の「知る権利」に照らして、特定強力犯罪者について逮捕前に身の上情報が公開される制度がある。本件ではネット上の「匿名性犯罪者」たちの容貌にも関心が集まり、ネット民による「評価」は誹謗中傷罵詈雑言の嵐となった。カンフンは未成年であったが、その罪状の悪質性や社会的影響の大きさ、まだ明らかになっていない類似犯罪に対する抑止策の一環として実名報道とされた。

 

本事件でデジタル性犯罪に対する認知とその被害の深刻さが理解され、更なる厳罰化へと舵が切られることとなった。だが2019年以来テレグラムでの取り締まりが厳格化されると、米サンフランシスコを拠点とするメッセンジャーアプリDiscordでも同様のチャットルームが増殖をはじめ、大小112か所、単純合算で30万以上のアクセスがあったと推計された。韓国警察庁がDiscordでのサイバー捜査方針を示すと11万人のユーザーがサーバーを「脱出」したという。

転用コピーの容易さ、商業化の容易さ、転移のしやすさ等から完全なる撲滅は困難にも思える。

先だって2020年5月、性的自己決定権の保護を名目として、それまで13歳以上とされてきた性交同意年齢を13歳から16歳に引き上げ、成人(19歳以上)による姦淫又はわいせつ行為を処罰の対象とした。一方でノウハウが拡散されたことにより加害者の低年齢化も見られ、中高生が運営する違法チャットルームも不拘束立件された。

ソウル市は2022年にデジタル性犯罪安心支援センターを設置し、第2第3のn番部屋事件の被害を防ぐことを目標に掲げた。2023年3月、開館一周年を迎え、全国初となるAIディープラーニング技術を導入した24時間体制のデジタル性犯罪自動追跡監視システムを開始することを発表した。これまで懸念されていたモニタリングの人的負担は低減され、その速度や正確性も向上しているという。とりわけ「児童・青少年の性保護関連法」により本人の要請なしでも削除できる未成年者保護には効果が期待できる。11月の報道によれば、検索時間は97.5%削減され、削除支援は2倍の成果を収めているという。

 

従来、性犯罪は身体への加害がその本質とされ、罪状が定められてきた。しかしデジタル性犯罪においては、画像の加工や編集によって物質的肉体とは異なる次元での加害が可能となる。また例えば中高生アスリートやチアリーディングなどを撮影した動画はしばしば児童ポルノ的消費を疑わせる。フィギュアスケーターやダンサーは肉体美や優れた表現力で人々を魅了するが、観客の目を性的消費と分つものとは何か。動物の交尾は問題にならないのならば、人外キャラクターのアニメーションなら何をしても許されるのか。女性が薄着でキャンプをしたり、男性が筋肉を見せつけながら料理したりする動画は本当に「ポルノではない」と言い切れるのか。私たちの性的な領域が変化と拡大を続けるかぎり性犯罪のレギュレーションも常に見直していく必要がある。

 

被害に遭われた方々の心の安寧をお祈りいたします。

-----

 

参考

https://www.waseda.jp/fsss/iass/assets/uploads/2023/06/01fe7f617186dc5febd61df11f31ed1a.pdf

「トラウマになるほど衝撃的」…デジタル性搾取物を削除する人たち : 政治•社会 : hankyoreh japan

寝屋川4乳児コンクリート詰め事件について

事件の概要

2017年(平成29年)11月20日午前9時30分頃、大阪府寝屋川市西部にある寝屋川署高柳交番に50代の女が出頭し、「4人の乳児を自宅でコンクリート詰めにした」「段ボールに入れて自宅に保管している」などと申告した。

 

警察が捜索令状を取り、女の自宅マンションを捜索したところ、供述通り押し入れからコンクリート詰めされたバケツが見つかった。押収してX線照射によるCT(コンピュータ断層撮影)検査などにかけて内容物の確認を行い、画像診断の結果、4つのバケツにそれぞれ乳児とみられる遺体が確認された。

大阪府警死体遺棄事件として寝屋川署に捜査本部を設置し、女から詳しい動機や経緯を調べることとし、21日未明に死体遺棄容疑で女を逮捕した。

 

逮捕されたのはアルバイト斎藤真由美(53歳)。2015年夏ごろに高柳7丁目の集合住宅の3階に越してきて逮捕当時は10代の息子と二人暮らしだった。場所は寝屋川市駅の西約1.7キロにある混み入った住宅密集地で、7月以降は家賃を滞納していた。斎藤は町内会にも入っておらず、住民らとの付き合いはなかった。

なぜ20年経ってから唐突に自首したのか経緯ははっきりしなかったが、「なぜか、今日打ち明けようと思った」と語り始め、「これまでずっと悩んでいた。死のうとも考えたが、育ててきた子供もいるので一人で死ねなかった。相談できる相手もいなかった」と話した。

4人の子どもは「1992~97年の間に市内の別の場所で出産し、産んですぐにバケツに入れた」と言い、「金銭的に余裕がなく、育てられないと思った」などと説明した。発見されたとき、段ボール内のバケツには蓋がされてポリ袋で包まれ、厳重にテープで巻かれていた。

「こどもを死なせてしまった」との自責の発言もあったが、「生まれたときに泣いたり動いたりしなかった」と死産をほのめかす供述もあり、出産時の状況について慎重な調べが必要とされた。

11月21日、捜査本部は死体遺棄容疑で斎藤容疑者を逮捕。翌22日、同容疑で送検した。

 

偶然

亡くなった乳児の父親は、斎藤容疑者が20~30代頃の元交際相手と見られた。同じ職場で交際関係となり、同居していた時期もあった。だが府警が任意で男性に事情を聞いたところ、4人について「妊娠も出産も知らなかった」と説明した。

斎藤が乳児たちを生んだ当時は寝屋川市池田旭町の住宅で暮らしており、バケツは敷地内に放置していたものとされ、高柳に転居する際に一緒に持ち込まれた。

斉藤容疑者も「もし妊娠を知られたら育てるしかないと思った」と供述し、だれにも打ち明けないまま孤立出産し、「全部自分一人で」犯行に及んだことを認めた。

11月23日の東スポWEBでは、かつて近隣で暮らした住民の証言として「24歳と17歳になる男の子どもが2人」いて、登校時の見送りや外食する姿などが見られていたと報じている。斎藤は遺棄した理由として経済的事情を述べていたが、その一方でパチンコ店通いやそこで知り合った男と交遊があったとする声も取り上げている。

また斎藤は若い頃から生活保護を受給しており、過去には50~60代男性と子育てしていたという。育てていた二児は彼の子どもなのか、父親知らずだったのか。だが受給資格の関係から結婚せずに内縁関係にあったのではないか、と住民は語る。年配の交際相手と別れてからも、「男の出入り」はあったとしている。

 

11月28日公開の週刊女性PRIMEでは、斎藤が以前暮らした池田旭町での様子を伝えている。

斎藤の母親は近くで居酒屋を営んでいたが、10年ほど前に他界。生前は弟と共に斎藤の暮らすアパートにも出入りしていたという。東スポの記事では、斎藤の親が営む「店の常連」が年配の元交際相手だったとしている。

家族仲がよく、礼や挨拶もかかさず、他人の子どもにも「うわぁ、かわいいなぁ」と頭をなでてやるなど、愛想のいい子ども好きだと思われていた。近所の認知症の老人を労わったり、自治会役員になった知人にも「困ったことがあったら何でも聞いてや」と声を掛けるなど面倒見のよい側面もあったが、自治会費や子ども会費は支払えていなかったという。

 

元々、肥満気味の体型だったこともあり、不幸なことに4人の妊娠は周囲からも父親からも見過ごされてしまったのであろうか。育てた2人の子どもについて斎藤被告は「周囲が妊娠に気づいたため育てた」と供述した。偶然が彼らの命を救ったのか。

産経新聞によれば、4児出産当時は銭湯通いだったと言い、近隣女性の話として「妊娠していたはずなのに、おなかが突然へこんでいたということが3回くらい続いた」という証言を伝えている。赤ん坊もいないしおかしいなと思ったが、それ以上詮索しなかったという。

 

不作為の遺棄

20年以上前の、その存在すら気づかれていなかった乳児の殺害を立件することは事実上不可能に思われた。骨だけでは死産だったのか、実際には手を掛けていたのかの判別、正確な死亡時期や死因は特定できなかった。

だが罪悪感に苛まれながらも4人もの被害を出したことは紛れもない事実であった。斎藤被告は取調の中で、「ティッシュを口に詰めた」と一人の殺害を認めるような供述もしており、2つのバケツからティッシュ片が検出されたが産後に「体を拭いたものが入ってしまったかもしれない」と話した。

しかし20年後の自首で嘘を語るとは考えづらく、斎藤は4児の出産日も記憶していた。

そこで殺人罪ではなく、死体遺棄罪が適用されることとなった。

第190条
死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3年以下の拘禁刑に処する。

通常であれば、死体遺棄の公訴時効は3年でとうの昔に成立していることとなる。しかし検察は2年半前の高柳への転居の際にも隠蔽の意志を伴う「第2の死体遺棄」ないし「不作為の遺棄」が成立するとした。

 

週刊女性プライムの取材に答えた東京未来大学こども心理学部長出口保行教授は、斎藤の犯行について「外に遺棄すれば発覚するかもしれない。いつかバレてしまうかもしれないという強い恐怖を感じていたのでしょう」と指摘。一方で強い罪悪感も持ち続けていたから「贖罪したい気持ちがあったのでは」と話した。

自首直前の時期に座間9人連続殺人の逮捕劇が大きな話題となっており、「遺体を自宅に隠していても何かのきっかけで踏み込まれるかもしれないと自分に重ねるところがあったのだと思います」と述べている。

また別の乳児殺害遺棄事件を起こした女性の事案も踏まえ、「共通するのは時間的な展望がないまま出産に至ってしまうこと。つまり自分の先々を予想してそれに対処する行動をとることができない。容疑者(取材当時)も社会生活を営むうえで十分な社会設計ができない人のように感じます」と見解を示した。

 

死体遺棄

2018年6月4日、大阪地裁で初公判が開かれた。

被告人質問によると、乳児4人の父親は当時の職場の同僚とされ、いずれの相手にも妊娠の事実を知らせていなかったとしている。4児は産後すぐに死亡し、被告は金銭的な理由で葬祭を上げることができなかった。しかしわが子をそのままの形で残しておきたかったとして、バケツにコンクリート詰めしたとし、中には一緒に数珠も入れていた。

「私の子どもなので、自分が死ぬ時まで一緒に暮らすつもりだった」として転居先にもバケツを持ち運んだが、将来に悲観して自殺を考えるようになり、「自分が死んでしまったら4人のことを知っている人がいなくなる」と自責の念に駆られて警察に打ち明ける決意をしたという。

弁護側も事実関係については認め、死体遺棄の時効成立の可否が争点とされた。

 

過去エントリ『ベトナム人技能実習生乳児死体遺棄事件』でも触れたように、孤立出産での死産において葬祭を行う責務は出産した母親にある。遺体を放置したり、死亡届を出さないまま手前勝手な埋葬をすれば、死者を敬う心情を害するおそれから罪に問われることとなる。

2020年に熊本のみかん農園で働く農業技能実習生リンさんが逮捕された事案では、孤立出産で双子を死産し、部屋の段ボール箱に遺棄していたとして起訴された。技能実習生の間では妊娠が発覚すれば強制的に帰国させられると言われており(過去にそうした事例も起きていた)、彼女は雇用主や監督者らに相談することもできなかった。

公判では、自身の体力回復を待ってベトナム式の土葬をするつもりで居室内に一時的に安置していた状態で出産が発覚したことから「死体遺棄」へと事態が大きくこじれていたことが判明した。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

過去の大阪地裁の判例を見ると、2016年5月、吹田市のアパートで衣装ケースから乳児の遺体が見つかった事件で、4年前から乳児の遺体を遺棄していたとして両親に死体遺棄罪が認定されていた。

一方、2013年3月、乳児の殺人と死体遺棄に問われた母親の裁判では、産後に娘を殺害した事実は有罪とされたが、知人宅からスポーツバッグに入れて自宅に持ち運び転居の度に移動させていた行為は死体遺棄罪の時効を認めて免訴とされていた。同地裁は、バッグに入れて自宅に持ち帰る隠蔽行為は死体遺棄に当たるとしながらも、バッグを自宅に放置したことは葬祭義務違反ではあるが、死者に対する宗教的感情を害しているとまではいえないと判断し、死体遺棄罪の構成とは認定しなかった。

寝屋川の事件に話を戻そう。弁護側は、コンクリ詰めした時点で遺棄行為は完了しているとして公訴時効による無罪を主張。自宅での放置が遺棄行為の継続と見なされれば、半永久的に死体遺棄の時効が完成しないことになると主張した。

対する検察側は「乳児の存在をだれにも知らせずに自身の支配下に置き続けたこと」は葬祭義務違反の遺棄行為が続いていたに等しいとして時効の成立を否認した。更に「遺体を長期間放置したことを違法行為としなければ、正確な死亡日時が分からない事件ではいくらでも罪を免れることができてしまう」と指摘した。

たしかに事件発覚の遅れで腐敗や白骨化した遺体について殺人罪で争うことが難しいケースというのはまれに聞かれる。本件のようにコンクリ詰めして長期間持ち運べば殺害の立証は困難となり、罪に問われない判例を示してしまえば今後の社会的影響も大きい。

かたや被告人は両陣営の時効論争には言及することなく、「4人の子どもに対して申し訳ない気持ちでいっぱい。これから罪を償いたい。申し訳ありませんでした」と謝罪した。

大阪地裁・増田啓祐裁判長は「(手元に残しておきたかったという)動機は身勝手に他ならない。極めて長期間放置した」として、検察側の求刑懲役3年に対し、懲役3年執行猶予4年の判決を下した。

死体遺棄罪の罰則規定は「3年以上の懲役」であるから、自首や謝罪等の情状が酌量された内容である。

 

孤立出産

4人もの赤ん坊を見殺しにするばかりかコンクリ詰めして引っ越し先まで持ち運んでいたと聞けば、事件隠蔽の毒女という印象を受けるが、裁判の行方まで踏まえれば後悔の念に苛まれながらの20年余を過ごしてきたのは嘘ではなかったようにも思える。

そしてこうした嬰児殺しの悲惨なニュースや裁判を受けて思うのは、父親の責任はどこに行ったのかということである。本件では4人のこどもの父親が不特定のまま報道され、メディアは「男にも金銭にもだらしのないシングルマザー」像を肥大化させた。彼女について詳しく知る術はないが、思い浮かぶ人物像としては秋田児童連続殺人の畠山鈴香受刑者のような、子どもへの愛情が全くない訳ではないが、結婚や出産保育には向かず本人も経済的・社会的に自立しきれていない女性、法的な責任能力に問題はないが境界知能などの「訳アリ」なのではないかという気がしてならない。

貧困などにより立場が弱い女性たちは男性に経済的・精神的に依存していたり、あるいは結婚していても避妊してもらえないなどDVに晒されていることが危惧される。女性は男性との関係を簡単に断ち切ることができず、妊娠を告げても女性を捨てて逃亡するおそれもある。

望まない妊娠は女性の孤立出産を招き、直接的に赤ん坊の生命にかかわり、更には女性のその後の人生をも台無しにする。母親側にすべての責任が押し付けられている現状がある。その手で殺めることがなくとも、道端や山中に置き去りにするなど保護責任者遺棄罪に問われれば最高で懲役5年の罰則と受けることとなる。父親の「逃げ得」を許していてよいものか。

望まない妊娠に関して、2023年11月28日から処方箋なしの緊急避妊薬・アフターピルの市販が試験的に開始された。女性向け相談窓口は増えてはいるものの、経済的事情や男性、家族との関係性、堕胎や出産までの「期限」は彼女たちの判断を混乱させることが多い。

最後の頼みの綱として親が育てきれない赤ん坊を匿名で預かる、いわゆる「赤ちゃんポスト」は医療機関では熊本市の慈恵病院のみ(2007年設置)である。新生児を想定しての設置だったが、約3年間で預けられたこどもは155名、うち早期の新生児は85人だった。一人目は3歳男児、二例目三例目も生後2か月程度の男児だった。こどもたちは産まれる場所を選べない。人生は平等ではないが、生命は公平に守られてほしい。

先日、墨田区の賛育会病院で2024年度に赤ちゃんポスト設置の方針を明らかにした。実現すれば国内の医療機関としては2例目となる。

 

もし大阪に赤ちゃんポストがあったならば4人の赤ん坊の命は助かり、母親は罪を犯すことにはならなかっただろうか。死産であれば届け出せずにコンクリート詰めした可能性は大いにある。だが何人かの命は救われていたかもしれないと考えるだけでも、この社会に赤ちゃんポストは必要だと思う。

住民証言の中には、犯行当時の女の様子について「妊娠していたと思ったらいつの間にか腹が引っ込んでいたようなことが何度かあった」という声があった。また周囲から金を借りて返さない、子ども会費を着服したといった声も聞かれている。何より当時の住民たちは女の身の上や貧困ぶり、男との関係性をよく知っていたことが妙に気にかかる。

これは筆者の想像であり、もし事実であったとしてもそれを非難する意図もないが、住民たちは彼女がしたことを薄々知っていたのではないかと思う。妊娠していたこと、赤ん坊を産んだことに周囲は気づいていたが、出産費用はどう工面したのか、赤ん坊がどうなったのかなど、面倒ごとを避けるためにあえて事情を聞くことをしなかったのではないか。薄々その不幸な末路が想像できていながらも、口に出すことが憚られたのではないか、と。

 

4児のご冥福とともに、同じような過ちが二度と繰り返されない日がくることをお祈りいたします。

 

-----

【衝撃事件の核心】「きょう打ち明けようと思った」バケツにコンクリ詰めの乳児4遺体、出産から20年後に自首した母親の罪業(1/4ページ) - 産経ニュース

西成女医不審死事件について

大阪市西成区で生活困窮者の支援活動を行っていた女性医師が水死体となって発見された。警察は自殺と判断したが、遺体や行方不明の状況から事件性が高いとして遺族は再捜査を求めた。「釜ヶ崎」の人びとから「さっちゃん先生」と愛された彼女はどうして死ななくてはならなかったのか。

 

情報提供は 大阪府警西成警察署 06-6648-1234 まで

 

概要

2009年(平成21年)11月16日(月)1時20分頃、大阪市大正区の木津川千本松渡船場を訪れていた釣り人が川の中に女性の水死体を発見する。

女性は13日(金)の深夜から行方が分からなくなっていた西成区「くろかわ診療所」に勤務する内科医・矢島祥子(さちこ)さん(34)と判明する。

 

失踪当夜の矢島さんについて、13日22時ごろに一人で残業していた姿を黒川所長と看護師が最後に目撃している。その後、23時過ぎに診療所を出たとみられるカードキーの使用履歴があった。

しかしそれから20分後に防犯システムを解除して再び入室した記録もあった。14日(土)4時18分頃、診療所の警報システムが作動。一般的な誤作動であれば利用者からすぐに警備会社に警報の解除を行うように連絡するはずだがそれもなく、30分後に警備会社が駆け付けた。だが所内は無人状態で、室内に荒らされたような形跡もなかったことから「異常なし」と報告された。

このときの出入りにも矢島さんのカードキーが使用されていたが、診療所に立ち入ったのが本人だったのかどうかは確認できていない。

 

14日朝、出勤してこない矢島さんを心配した診療所スタッフが彼女の自宅を訪問した際、部屋は無施錠で無人だった。また診療所にある彼女が使用していたパソコンを確認したところ、警報作動直前の4時15分に患者カルテをバックアップしていた形跡があったという。また4時50分には知人に「15日に会えなくなった」旨のメールが送信され、以降の音信は途絶えた。

15日(日)朝、診療所スタッフは依然として矢島さんとの連絡が取れなかったことから西成署に捜索を依頼するが受理されず。10時頃、黒川渡所長から群馬に住む矢島さんの家族に行方不明であることが伝えられ、群馬県警高崎署に捜索願が提出された。

15日に矢島さんの暮らす部屋の中を確認した際には、通勤に使用するカバンが残されていたほか、自宅、診療所、デスク、ロッカー等の鍵をまとめた束が発見された。

 

大阪市立大・前田均教授が行った司法解剖によれば、推定死亡日時は14日未明とされ、死因は溺死」と推認された。西成署は、矢島さんが連日遅くまで働いていたことや周囲から自殺だとする声が挙がったことなどから過労による自殺の可能性が高いと判断し、ほどなく捜査は打ち切られた。

遺族は警察側の自殺を基調とした見方や捜査に消極的な「粗末な説明」に不信感を抱いた。ともに医師であった両親は遺体状況や検案書の内容に不自然さがあると指摘し、頭部にあった大きな瘤(こぶ)については西成署も生存中にできたものと認めた。

遺族は他殺ではないかとの疑いを深め、支援者らと共に「さっちゃんの会」を立ち上げて再捜査を訴え、10年8月から元兵庫県警飛松五男氏に調査を依頼。元東京都監察医・上野正彦氏にも相談して見解を求めた(2011年3月11日現場検証)。

 

遺族は釜ヶ崎に通いながら情報発信や再捜査要望の講演活動を行い、2010年9月14日までに4830人分の署名を集め、再捜査の要望書が大阪府公安委員会に提出された。報道番組への出演などで事件性を訴え続け、その後の署名数は約4万人分にまで膨れ上がった。

11年2月25日には矢島家のある群馬県高崎に地盤を持つ民主党中島政希議員(当時)が事件について国会で取り上げた。金高雅仁警察庁刑事局長は「これまでの捜査からは必ずしも犯罪であるということを明確に断定できる状況は出て来ていない。事件事故両方の観点から捜査を尽くしている」と答弁した。

遺族が提出した殺人および死体遺棄の告訴状が2012年8月22日に受理され、殺人事件と断定はされなかったが、殺害の疑いのある刑事事件として自殺、他殺両面での捜査が継続されることとされた(死体遺棄は同年11月15日時効成立)。

www.youtube.com

その後も遺族は西成署や「釜の仲間たち」と定期的に情報交換を重ね、月命日の14日には講演会や音楽イベントなどを通じて呼びかけを続けているが、事件から14年が経った現在も全容解明には至っていない。

 

「西成」「釜ヶ崎」「あいりん地区」

この事件について語る際、「西成」「釜ヶ崎」「あいりん地区」という3つの地名が用いられる。それらの呼称と地域の成り立ちについて簡単に確認しておく。

 

「西成」は大阪市の行政区で、東に阿倍野区、西に大正区、南に住吉区住之江区、北は浪速区天王寺区に囲まれている。「釜ヶ崎」は西成区内の北東部に位置する狭い範囲(地名でいえば萩野茶屋、太子界隈)を指す俗称で、固有の地名は今日の地図上には存在しない。

明治初期にまで遡れば「西成郡今宮村字釜ヶ崎」という地名があった。江戸後期、大阪の都市化に伴って天王寺・難波など各地に無宿人の集まる木賃宿街が成立していたが、市政拡張や鉄道敷設、コレラの感染予防や1903年内国勧業博覧会に伴って度重なる取り締まりを受けた。行き場を失った生活困窮者たちは安息の地を求めて流れ着いたのが当時、低湿地帯で田畑しかなかった釜ヶ崎地域で、明治期後半には集住が進み木賃宿(ドヤ)街が成立した。

1912年に「新世界」、16年に「飛田遊郭」が誕生して周辺地域も市街化が進み、22年に町名改正に伴って釜ヶ崎の地名が失われた。大正期には「大大阪時代」と呼ばれて大阪都市部は目覚ましい発展を遂げた一方、1930年の昭和恐慌で財を失った人々、第二次大戦で焼け出された被災者たちは浮浪者・貧困対策に手厚い「釜ヶ崎」の地へと流れ着いたとされる。

 

戦後の復興、その後の大阪万博、高度経済成長期を裏で支えたのはこの場所に集まってきた日雇い労働者たちだった。3万人余が集住し、貧しくも活況を呈していた1961年、警官が車にはねられた労働者をしばらく放置したとして「釜ヶ崎暴動」へと発展する。

70年代前半は新左翼流入して暴動を扇動することとなり、連日の騒動がTVで報じられると、釜ヶ崎ホームレス、貧困、犯罪が根付いた危険な町というパブリックイメージが定着する。

政府、府、市は「釜ヶ崎」対策の一つとして、そうした悪いイメージを払しょくするため、1966年以降は「あいりん地区」という呼称を用いるようになった。

その後も、日雇い労働を求めて集まる人々は後を絶たず、貧困・失業者たちを支援する団体が寝場所と食、人権と十分な福祉を求めて、連帯と「闘争」の活動拠点となった。そうした歴史的経緯を踏まえ、人々の間で「釜ヶ崎」という呼称が失われることはなかった。

一方で悪名の浸透もあって若者の流出や子育て人口の少なさ、男性比率の極端な多さによって、歪な人口ピラミッドが形成されていった。1970年代に最も多かった30代~40代人口がそのままスライドするようにして2000年代には60代から70代人口となった。

www.youtube.com

かつての「労働者の町」では、建設現場など肉体労働の仕事を世話する手配師によって上前のピンハネが問題視され、新左翼たちは手配師ややくざ者からの暴力や不当搾取に激しく反発してきた。だが今日では「ピンハネしようがないほど低賃金の仕事」ばかりだと言い、高齢者の増加に伴って軽作業や自転車整理、清掃作業など社会的就労機会としての雇用捻出が増加している。

身寄りのない「高齢者の町」へと変貌した釜ヶ崎界隈では、住宅付き介護施設の整備が急速に進んでおり、施設も生活保護の受給手続き支援を積極的に行っている。それと聞くと福祉の手厚さというポジティブな印象も受けるが、審査の甘さが不正受給増加の一因とも言われている。

さらに生活保護受給者らに流入する多額の生活保障、医療保障に群がる「貧困ビジネス」が蔓延している。貧困対策として行政から支給される額が大きいため、福祉施設側としては一般的な在宅ケアよりも生活保護受給者を受け入れた方が実入りがよいとされ、大きな事業所では無宿者向け住居を併設し、家賃と介護費用の二重取りが行われている。

悪質な医院では無宿者を診療したと架空請求を行って不正に利益を得たり、必要がないと知りながらも大量の薬剤を処方する医院・薬局も少なくない。戦後の闇市のごとく出処不明の品々を並べた路上販売は地域の名物になっていたが、生活保護受給者が不正に得た睡眠薬向精神薬を転売して日銭を稼ぎ、違法薬物の流通を拡大させるルートにも変貌する。違法な手段で得た金で生活の立て直しを図ろうとする者はなく、酒や薬物への依存を深刻化させるか、公園の一角で開かれる賭場ですぐに溶けて消えるのである。

 

2008年2月、タレント弁護士として人気を博していた橋下徹大阪府知事に就任。早々に1000億円の歳出削減を見込んだ財政再建プログラムを立ち上げ、情報公開の徹底や公会計制度の見直し、補助金漬けとの批判が大きかった同和問題や府暴排条例にも着手した。大阪は街頭犯罪やひったくりの多さで悪名を誇っていたことから犯罪情勢にも厳しい対応を求め、警察庁に警察官定員の増員を認めさせたほか、防犯カメラ設置、巡回指導体制の強化、捜査システムの整備を進めるなど治安対策が推進された。その後、大阪都構想を掲げて地域政党大阪維新の会を結成し、11年には第19代大阪市長に就任した。

2012年、橋下市政下で西成区の治安や環境改善のための特区構想が推進され、総額118億円の予算が投入された。大規模な浄化作戦が行われ、通りには監視カメラが多数設置され、路上販売、職安界隈を根城とした闇金の出張所、公園に公然と立てられていた多くの賭場も、度重なる摘発と環境美化によってほとんど見られなくなり、町の風景は様変わりした。

同時期、インバウンド需要の拡大と共に「大阪のディープスポット」として国外でもその名が知られるようになり、コロナ禍前には日に2000人近い外国人が訪れていたという。インバウンドの受益とは全く無関係な日雇い労働者や、「美化」の名目で排斥されて街を漂う行路生活者の姿は半ば見世物化され、その数を減らしていった。彼らはどこに消えたというのか。

 

さっちゃん先生

矢島祥子さんは1975年、群馬県高崎市生まれ、兄2人弟1人の4人きょうだいで育った。両親は祥子さんが1歳半の頃に診療所を開設。幼少期には泣いている人を見ては共感してもらい泣きする子どもだったという。

両親と同じ医師の道を志し、1993年に群馬大医学部に入学。1994年1月には受洗してクリスチャンとなり、インドへマザー・テレサに会いに訪れたこともあったという。99年に卒業すると沖縄県うるま市の県立中部病院勤務を経て、2001年から大阪市にある淀川キリスト教病院に内科医として赴任した。

当初は産科医の勉強をしていた矢島さんだったが、ネパールでの海外医療ボランティア等を経て貧困地域の抱える医療問題に関心を深め、帰国後も東京・山谷、横浜・寿町など寄せ場に生きる人たちの医療支援に取り組んだ。兄も何度か行動を共にしたが、インドや寄せ場といった不用意に入るべきではないような場所へも進んで歩み寄る彼女の危機意識を疑ったと綴っている。

2004年10月には両親に宛てた手紙の中で、群馬に戻って実家の上大類(かみおおるい)病院の跡を継ぐことができない、「自分がずっとやりたいと思ってきたことをやっていきたい」とその決意を伝えた。

 

2007年4月から西成区鶴見橋商店街にある「くろかわ診療所」(05年12月開所)に勤め、週5-6日の外来、週5の往診を受け持ち、休日・夜間も電話での相談や往診要請に応えてきた。さらに診療だけでなく生活支援、地域の見廻り活動等にも精力的に取り組んでいた。

日雇い労働者や生活困窮者たちには、経済的不安や心理的抵抗感から重篤化して動けなくなるまで医療にかからないケースが多く、アルコールや覚醒剤への依存から抜け出せない人、慢性疾患を抱えた者も多い。黒川医師らと共に毎週夜回り活動を行い、そうした人々の話に耳を傾け、路上で凍えないための寝袋や適切な医療を提供し、必要に応じて生活支援につなげるといった献身的な生活を送っていた。

活動の根底には一時的なボランティア精神ではなく、彼女が理想とする医療への信念があった。生活困窮者と共に生活を送り、「ここで、家族への思いを抱え、過酷な労働条件の中で生きてきた人々が、安らいでその生涯を閉じられるような関りができたらという夢があります」と神父への手紙にその使命感を綴っていた。

 

矢島さんを知る医師は、通常の支援者の場合は自分の生活や活動継続のために「自分たちができるのはここまで」とどこかで線引きをしてしまうが、彼女は時間もお金も「生活のすべてを惜しげもなく支援に捧げていた」と述べ、宗教心のない自分でも彼女の活動や人間性には「信仰の力を感じた」と振り返っている。

群馬大時代の恩師・中島孝氏も矢島さんの死に疑問を呈しており、彼女が高い志を持って医療や支援活動に従事していたことに加え、「クリスチャンであることからも自殺の可能性が低いことは一般の方々でも容易に察しが付く」と指摘する。

だが信仰に基づく高潔な生活態度はときとして現実社会との摩擦を引き起こすこともある。事実、薬物中毒患者の対応をめぐっては売人と揉め事を起こして脅迫を受けることもあったと言われる。また兄のひろしさんも感じていたように、彼女の人並み外れた使命感や正義感から自分の身辺への危機意識が働かなかったのかもしれない。

不正が罷り通る現実を目の当たりにして憤りを募らせた矢島さんが何か告発を行うつもりでいたために、それを快く思わない相手から口封じのため殺害されたのではないか、といった見方がネット市民の間では多く囁かれている。

 

かつて路上生活者だった佐藤豊さんは、矢島さんに自殺したいと口にしたところ、「そんなこと言うたらあかん」と強く諫められたと振り返った。彼女の熱心な支えによって男性は生活を立て直したと言い、「あんな笑顔をくれる人が自殺なんてするはずがない」と話し、恩人の不審死の再捜査を求めて集会活動や取材対応にも積極的に関わっていた。

だがおよそ3年後の2012年8月6日、西成区花園北のアパートが火災に遭い、全焼した3階自室で一人暮らししていた佐藤さんが遺体となって発見される。119番通報したのは佐藤さんのケアを担当していた福祉職員男性で、彼と50代の住人男性は煙を吸って病院に搬送されたがいずれも軽症であった。

因果関係は確認されていないものの、ネット上では、矢島さんの死を風化させたい犯行勢力によって佐藤さんも殺害されたのではないか、といった見方も流布される。

筆者は佐藤さんの暮らしぶりや病状について詳しく知らないが、亡くなった時点で64歳、福祉支援を要していたことからも病状は進行し、矢島さんとの別れもあって心身の疲弊・衰弱もあったと考えられる。現場に他殺の証拠となるものはなく、持病の悪化から生活に支障があったとみられ、事故死や自殺のリスクも相当に高かったのではないかと思う。

 

元患者だった塩野澄江さん(80)は、矢島医師から生前「あんたが死ぬまで私が面倒を見る」と何遍も言われてきたと述べ、遺体発見当初から「これは自殺じゃなく他殺だ、間違いなく」と声を挙げてきた。

一時的な善意ではなく平静の、素の感覚で困窮者の救済に奔走し、元路上生活者たちとも取り繕うことなく語り合い「さっちゃん先生」と呼ばれて親しまれていた矢島さん。事件性を疑い、真相解明を求めて遠方から通い、ビラ配りや署名活動などを続ける遺族の支えとなったのは、生前のさっちゃん先生に恩義を受けた「釜の仲間たち」であった。

 

疑い

そもそも家族が違和感を感じたのは、行方不明の連絡を受けたときからだった。

「祥子さんが行方不明です。高崎署に捜索願を出してください

開口一番そう口にしたのは矢島さんの上司にあたる黒川医師であった。一般的にはまず「連絡が取れず自宅にもいないのだがご実家に戻られていないか」「本人から何か聞かされていないか、心当たりはないか」といったやりとりが為されると考えられ、あまりに性急な印象を受ける。

家族が受話器を置くと、すぐに診療所からFAXが届いた。最終目撃や診療所の警報、自宅訪問などこれまで医師らが取った確認行動の経緯・判断を事細かに箇条書きしたものだった。たしかに遠隔地での行方不明を届け出るためにそうした書面は有効に違いなく、医師の用意周到な気配りで電話を寄越す前にまとめていたものと思われた。

しかし一般的な感覚に照らせば、親元から遠く離れて治安に不安のある街で単身暮らす女性のこと、「行方不明と判断した経緯」をまとめるよりも何より先に家族に連絡を入れて然るべきかと思う。

くろかわ診療所のある商店街周辺で家族や支援者らは度々ビラ配りの街宣活動を行ったが、診療所の向かいにある理容室では事件から5か月経っても行方不明になったことさえ知られていなかった。矢島さんは診療所を出てから自宅までの数百メートルという近場でトラブルに遭ったにもかかわらず、診療所では近隣の人たちにさえ確認や声掛けが為されていなかった。

黒川医師は普段は冷静で温厚な人柄で知られており、矢島さんと共に困窮者支援活動に尽力していた。直属の部下の不審死について不安や憤りを覚えて然るべき立場にあったが、なぜか取材に一切応じることはなかった。それどころか事件について話題が及ぶと血相を変えて声を荒げたり、逃げるように立ち去ったりするといった話も聞かれた。遺族は事件当初から「さっちゃんの会」広報誌などを通じて医師の態度や沈黙に対して強い不信感を表明している。

 

事件当夜は雨、鶴見橋商店街にある職場から長橋にあった矢島さんの自宅までは僅か700mほどの距離だった。自転車通勤だった矢島さんは傘をさすよりも商店街アーケードを通過する可能性が高いと想像されたが、商店街に設置されていた8か所の監視カメラにその姿は映っていなかった。また自宅アパート近くの監視カメラも警察に提出されたが、機器の故障で何も映っていなかったとして管理会社にすぐに返却されたという。

医療の仕事と支援活動に心血を注ぎ、慌ただしい日々を過ごしていた矢島さんは部屋の掃除もままならなかったに違いない。しかし事件後、家族がアパートの部屋を訪れた際には、テレビの裏や押し入れの桟といった場所にさえ埃ひとつなかった。また彼女には若い頃から些細なことでもメモ書きする癖があったが、自宅のメモには11月以降に記したものは一切見つからなかった。

洗濯機の中には衣類が残されており、10日前にはクリーニング店に冬物のセーター類5点を預けているなど、自殺直前らしからぬ生活の痕跡もあった。警察が行った部屋の鑑識では、なぜか住人である矢島さんの指紋さえ検出されず、第三者が証拠隠滅の為に清掃した疑いがもたれた。

事件から1か月後、千本松渡船場から2.5km北に位置する北津守の団地駐輪場で矢島さんの通勤用自転車が発見された。いつから置かれたものか目撃情報はなく、なぜか自転車からも指紋は一切検出されなかった。

医師である矢島さんの両親の見立てでは、遺体にあった右額、右手の甲、右足頸部にあった生体反応のある(生前に受けた)外傷について、矢島さんが自転車で帰宅中に左側からなぎ倒されるようにしてできた傷ではないかと見当づけている。

『死体は語る』など多数の著書で知られる元東京監察医務院長・上野正彦氏は、数々の変死事例の経験則から、元々泳ぎが得意だった矢島さんが「おもり」もなしに入水自殺ができたとは考えづらいと指摘している。

 

遺体を確認したのは矢島さんの兄弟だった。彼らは医師ではないが、首の左右にできた幅1cm程の赤紫色の圧迫痕が真っ先に目に付いたことからすぐに他殺を疑ったと話している。また遺体の後頭部から頭頂部にかけて幅5cm、高さ3㎝程の大きなこぶ(頭血腫)があった。

府警は遺族の疑問に対して、首の圧迫痕は発見者が水中から引き上げる際に用いた鎖を首の後ろにかけたためにできたもの、頭のこぶは船上に寝かせる際に落下させてしまってできたものであろうと説明した。

だが死後に生傷やこぶができるはずなどない、生前受けた外傷による生体反応であることは明らかだとして両親は食い下がった。3か月後に剖検を行った担当医と面会し、「後頭部の傷(こぶ)は生前にできたもの」「首の左右の傷ができたのは生前か死後か判別不能」と説明を受けた。

両親が見せてもらった剖検書には、「溢血点(まぶたの裏や口内粘膜の毛細血管が破裂した際に見られる小さな内出血)」との記載もあったという。溢血点の有無は絞殺か否かを見極める上での最たる特徴の一つである。

 

千本松渡船場は釣り禁止なうえ、そもそも夜間はゲートが封鎖されていて発見場所付近には進入できなくなっていた。だが警察の説明では、有刺鉄線の張られた鉄条網を越えて船着場から飛び込んだとされた。

船着場のゲートには身長より高い鉄柵に、長さ50㎝程の串が左右上部から出ており、容易に侵入できないようになっている。串と串の間にも鉄条網が張り巡らされ、暗闇の中で侵入を試みればいかに身軽な人間であっても手足に怪我を負ったり、着衣が破れたりといった事態が想像できる。たとえ希死念慮に駆られていたにせよどうしてこの場所から入水する必要があったのか説明がつかない。

左は遺体の首にあった傷のイメージ、右は鎖を用いた検証

第一発見者は船着き場の接岸部に設置されていた「タイヤの所に頭が引っ掛かっていた」「映画などで見る水死体のイメージとは程遠く、ものすごくきれいだった」と話す。「最初はマネキンかと思った」が、とりあえず水面から揚げてみようということになり、顔を見るなり水死体と気付いて警察に通報したという。また「履いていた靴の片方だけが一緒に浮かんでいた」と語っている。

脱いだ靴を揃えて陸地に置いていれば「自殺」という見立ても説得力を持つかもしれないが、彼女は「靴が片方脱げそうな状態」で入水したとでもいうのであろうか。

また元兵庫県警で本件の独自調査を続ける飛松五男氏によれば、第一発見者である2人の釣り人のうち、一人はくろかわ診療所向かいのマンションに暮らし、もう一人は西成警察署から数十mのゲームセンターに勤めていたとされる。つまり第一発見者の2人は被害者と面識はなかったが、奇遇にも被害者と同じ「釜の住人」だったことになる。

 

死亡推定時刻は「14日未明」とされ、発見された「16日1時半」まで遺体が脱げた靴と一緒に船着き場近くをずっと漂っていたとは考えられない。ダミーを用いた検証実験では自転車発見現場付近の木津川沿いから入水した場合、2~3時間で発見現場を通過し、人形は河口へと流されてしまった。遺棄されてからほとんど時間を置かずして発見されたと見る方が自然である。

また遺体のポケットからは彼女のPHSが発見されているが、家族が連絡を取ろうとした「15日午後2時」にも呼び出し音は鳴っていた。PHSは非防水仕様であることからその時間まで水没していない状態だったと推測される。

調査を続ける飛松氏は「第一発見者が怪しい」と断言こそしていないが、「死亡推定時刻すらも誤りの疑いがある」「(発見間際の)15日夜に遺棄されたのではないか」と見立てている。

府警では、発見された靴から採取された付着物のDNA型鑑定、砂の分析を行い、行方不明から死亡までの足取りをつかもうとした。だが2010年12月の捜査報告では、皮膚片2点が検出されたが矢島さんのものとは断定できず、付着していた砂からも有力な情報は得られなかったと伝えられた。

 

死因は「溺死」とされていることから、陪見では肺から海水が検出されたものと考えられる。だが通常の溺死であれば大量の水を飲みこむため、肺に空気は残らず遺体はうつ伏せ姿勢で発見されることが多いとされる。

だが2018年10月のFNN系列の事件捜査番組に出演した法医学者の杏林大学・佐藤喜宣名誉教授によると、遺体は水面に頭頂部だけが浮かんだ「立位姿勢」で見つかったため、肺に空気が溜まっていた可能性があると話した。

また佐藤名誉教授は、書類には溺死に特徴的な兆候について言及がなされていないと指摘。通例は溺死体に顕著な兆候として「口に泡沫を蓄えている」、血筋状に空気が入っている部分とそうでない部分ができることから「肺がまだらになる」といった特徴の記載があるはずだとしている。

空気が肺に残存していた可能性や剖検書の記載からは「溺死」と判断するには弱く、「頸部圧迫」、つまりは絞殺ではないかとの見解を示した。

 

自称元恋人

警察が死因を自殺と判断した理由の一つに、矢島さんの恋人だったと称する60歳代男性の証言があったとされている。彼は行方不明と前後して矢島さんから「絵葉書」を受け取っており、メッセージの内容は「出会えたことを心から感謝しています。釜のおっちゃん達の為に元気で長生きしてください」というものである。

葉書の絵は沖縄県辺野古の景色を描いたもので、西成郵便局管内で彼女が行方不明となった「14日の消印」が押されており、17日に届いたという。男性は自ら警察に届け出て、「矢島さんの遺書だ」と説明した。彼女の署名や住所は書いておらず、メッセージと日付だけが記されていた。遺族が調べた限りでは、矢島さんが署名なしで他人に手紙を出したことは過去にないという。

 

男性は赤軍派の流れを汲む元左翼活動家で、貿易業を興したのち2007年に会社を整理し、釜ヶ崎日雇労働組合(釜日労)に身を投じることとなったM氏(本件発生当時62歳)である。

1972年、「赤軍ラーメン(勝浦飲食店)」を開き、新左翼学生らを巻き込んで「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」を結成した赤軍派・若宮正則らは日雇い労働者の違法派遣や暴力管理を行っていた暴力団勢力(淡熊会系天海会、山口組系佐々木組ほか)の一掃を図って暴動を牽引。1000名規模での殴り込みや投石、放火などを繰り返し、年間7万人前後が斡旋を受けていた労働者の不当搾取に抵抗し社会問題として世に問うた。釜日労はその共闘会議を母体として結成された労働運動、政治グループである。

釜日労は元赤軍派の横のつながりによって釜ヶ崎だけでなく全国各地で行われる都市浄化策などに対抗して「仕事をよこせ」「寝床をよこせ」といったスローガンを掲げて、日雇い労働者らの権利獲得を目指す「闘争」を長年繰り広げている極左集団として知られる。事件後のM氏は2013年から辺野古の基地建設反対闘争に参加し、2023年現在も阪神地域と沖縄を往復している。

 

M氏はテレビ取材で事件について問われると、

「他殺という形で人を追っかけても犯人は捕まらないよ」

「他殺が壁にぶつかって闇になっちゃう」

「まあ真相は闇になってもいい」

「例え犯人がいたとしても捕まらなくていい」と述べた。

恋人というのであれば事件の真相解明を求める立場にも思えるが、はたしてM氏は「犯人は捕まらない」と匂わせぶりな発言を繰り返す。「彼女は自殺だ」という確信からくる他殺説への無関心なのか、それとも「真相」や「犯人」を知っているが明かせない、とでも言わんばかりの含みを持たせた口ぶりに様々な疑惑を呼んだ。

 

フリージャーナリスト・寺澤有氏はM氏に追加取材のインタビューを行っている。M氏は、矢島さんとは釜ヶ崎の日雇い労働者や野宿者の人権を守ろうという志が一緒で交際するに至ったと述べる。

周囲に交際関係を知る人がいないのではないか、との問いに対して「知られないようにしていた。自分のような人間と交際していると風評が流れれば、彼女の活動の妨げになる」と答え、交際関係を裏付けるものは何も出てこなかった。

矢島さんの住居、第一発見者の釣り人については「知らない」と否定。

絵葉書については、出さないままにおいて後から警察の追及を受けたくなかったため自ら届け出はしたが、「自殺の根拠としたわけではない」とも述べている。その一方で、特に根拠はないが自殺だと確信しているとの考えを述べ、自身が今も変わらず同じように釜ヶ崎で過ごしていることからも「釜ヶ崎で私を犯人と疑う人はいない」と身の潔白を主張した。

 

一部の雑誌では、西成区の行政運営に新左翼系団体が強い発言力を持っているとされ、本件の背後に釜日労の存在を疑う記事もあった。釜日労は山田實委員長(当時)名義で抗議文を出し、SNS上で止まない疑惑の声に対して反駁を繰り返した。

そうしたM氏の謎めいた発言、部外者から団体の実像が見えづらいことなどから、M氏は真犯人側から依頼を受けて金銭目当てで絵葉書を提出し自殺説を吹聴して回っているのではないか、団体が何らかのかたちで不審死に関与しているのではないかといった疑念を示すネットの声は少なくない。

 

ふるさとの家

矢島さんが信頼を寄せていた本田哲郎神父は、フランシスコ会の日本管区長を務めた後、1989年に志願して三角公園の隣に社会福祉法人「ふるさとの家」を構えた。職にあぶれて再三再四路上生活に逆戻りするのではなく、いつでも帰ってこられる「家」のような居場所が確保されなければならない。食堂、図書室、談話室からなり、腹が空けば200円で温かい定食にありつけ、神父や労働者仲間たちが迎え入れて体調変化や生活状況を気に掛けてくれる直接的なセーフティネットの場である。

釜ヶ崎へと流れ着いた人々がよりよく生きていくためにどんな助けが必要か、ボランティア精神で一宿一飯や古着などを与えてその人を助けることはできても、半永久的な助けにはならない。心身の安定を取り戻し、リスタートをきるためのきっかけとなる再起の砦として、行き場のない彼らにとって「教会」ではなくまず「生き場」が必要だった。

バブル崩壊阪神淡路大震災を経て、本田神父ら釜ヶ崎関連のNPO法人が連携し、99年9月に自立援助団体「釜ヶ崎支援機構」を発足させた。釜日労・山田實氏が理事長となり、ホームレス化の予防と脱却のために制度の隙間を埋める支援を続けている。

行政に就労機会の創出、民間企業の下請けなどの働きかけを行って高齢者にも経済活動の場をエンゲージするほか、就労訓練や就職相談なども受け付けている。2013年7月から高齢の生活保護受給者の孤立を防ぎ、生活自立・社会参加を促す事業をNPO法人と合同して手掛け、いわば労働者と元労働者たちの生活総合支援事業となっている。

下のストリートビューは本件発生と同じ2009年のもの。

 

木島病院事件

社会から追いやられるように西成へとたどり着いた者たちの中には精神疾患患者やアルコール中毒覚醒剤中毒者などの割合が多い。また大阪に限ったことではないが、精神医療業界では対応の難しい患者への処置が人権軽視と紙一重となることも少なくはなく、身体拘束や行き過ぎた指導が暴力に至るケースは度々報じられる。

栗岡病院での患者リンチ事件、安田病院での看護人によるバット暴行死事件、診療報酬の水増しや看護師基準を違反した使役労働が明るみとなった大和川病院など、一般病棟に比べて本人の能動的な対処が難しく発言力に乏しいと見なされる患者たちを「食いもの」にする医療の闇は今日も根絶されてはいない。

 

1986年(昭和61年)10月、大阪西成区福祉事務所職員と貝塚市の木島病院との癒着、贈収賄事件が公になった。元々大阪市は精神病床が少なく、西成区内で路上生活者らがアルコール中毒等で救急搬送された際に、福祉事務所職員が入院先として木島病院に便宜を図ることでキックバックを受けていた。その上、この職員は病院事務長と結託し、死亡患者の生活保護の金まで着服していたことが発覚した。

汚職の対象になった行路患者の多くは身内の同意が得られないことから「市長同意」という権限によって入院措置が取られた。府内の精神病院の新規入院者の約1割が「市長同意」によるもので、その半数が大阪市長の認可であった。

木島病院では入院患者の約半数が「市長同意」の患者で占められており、それほどの集中は異常であった。彼らの入院期間についても7割が「5年以上」、5割が「10年以上」という長期在院の傾向が顕著であり、いったん受け入れされると福祉事務所や保健所職員の訪問もなく、退院希望も確認されないまま収容され続けている実態があった。

市長同意書発行数の推移〔大阪精神医療人権センター『精神病院は変わったか』より〕

昭和59年 870件

昭和60年 851件

昭和61年 831件

昭和62年 733件

昭和63年 320件(7月から精神保健法施行)

平成元年 150件

平成2年 140件

平成3年 148件

1988年7月に精神保健法が施行され、任意入院の規定が導入されたことで「市長同意」の件数は激減していることが分かる。昭和60年の851件のうち西成区は364件(42.8%)と大きな割合を占めており、その構造的な癒着はマスコミによって「あいりん汚職」と呼ばれた。

かつて日雇労働者の支援団体により発行・配布されていた『釜ヶ崎夜間学校ニュース』1986年10月17日号には次のように書かれている。

木曜日の医療相談の日にわざわざ訴えに来てくれた仲間の話は、阪和病院へ肝臓が悪くて市更相(大阪市更生相談所)から入院したが、しばらくして、アンタはアル中やと言われて木島病院へ送られた。送られた日は一日中保護房に入れられ、ベッドにしばりつけられていたという。

その仲間によると、木島病院には身元保証人のない仲間が長期にわたって入れられており、中には死んでいく仲間もいる。

木島病院はみんなも知ってるように、最近、西成福祉事務所第八係との間に贈収賄事件をおこしている。

木島病院から措置認定を早くしてもらうように働きかけたり、仲間が伝えてくれたように結核病院や一般病院から患者をまわしてもらいやすくするために金品を渡していたのだ。

我々の病んだ仲間を、まるで羊や乳牛のように扱っている。ろくな治療もせず、長期間病院にとどめておくことで、ボロもうけをしているのだ。

木島病院だけが我々の病んだ仲間を喰いものにしているのではない。

市更相の前に連日のように色んな病院の車がとまっている。

その病院のすべてが、患者を喰いものにしようと待ちかまえていると考えても、まちがいではなさそうだ。

ニュースビラの後半では、1984年に日雇健康保険が廃止されて医療費の一割負担が適用されることとなり、病院は利用者が減って収入に困り、市更相に日参して獲物を待ち構えているとし、福祉切り捨てを続ける中曽根内閣とそれに追従する市民生局を非難する内容へと向かっていく。やや煽情的な物言いにはなっているが、木島病院事件当時の背景として、労働者目線から見れば医療不信が強まっていたことが分かる。

 

山本病院事件

奈良県大和郡山市の医療法人雄山会・山本病院は、病床数およそ80で心臓血管外科、脳神経外科、内科などの診療科があった。この病院では診療報酬の不正請求のため、不要な治療や検査を繰り返していた。

2009年6月21日、奈良県警捜査2課は、生活保護受給者の診療報酬を不正受給した詐欺容疑で山本病院及び山本文夫理事長宅を家宅捜索した。捜査の結果、女性看護師に不必要な手術を強要したり、生活保護を受給する入院患者ら8名に心臓カテーテル手術をしたように装い、診療報酬総額1000万円を騙し取った疑いが強いとされ、同病院は閉鎖。12月から破産手続きを開始。元理事長には詐欺罪で懲役2年6か月の実刑が確定した。

 

手術による診療報酬の詐取は理事長自ら主導しており、不必要な手術だった上に、術中に適切な止血や縫合措置などを放棄して手術室を後にしたために死亡させた事例も発生していた。山本元理事長は心臓血管外科、助手を務めた医師は呼吸器外科が専門で亡くなった男性に施された肝臓切除手術の経験は共になかった。医師法に基づき「異状死」の届け出をせず、急性心筋梗塞と偽って処理したとされていた。

輸血準備などもされておらず、限りなく殺人に近い医療犯罪だったが、故意と認定する証拠がなく過失致死罪での立件となり、こちらは禁固2年4か月の実刑判決となった。亡くなった男性(51歳)は生活保護受給者で、術前には「早期にガンを見つけてもらえてよかった。早く治して自立したい」と喜んでいたという。

聞き取りによって、身寄りのない生活保護受給患者のほぼ全員に症状や所見に関わらず心臓カテーテル検査をしていたとされ、インフォームドコンセントの手続きもなく機械的にあらゆる検査を受けさせていた。そのほか放射線技師による画像の加工、注射によって頻脈に導くなど病状を捏造していたことも発覚。「病人」を捏造し、医療報酬に変えていたのである。検査を拒否する患者は強制退院させられ、罪悪感を持つ職員は次々と辞め、違法行為を指摘した医師は辞めさせられたという。

2011年1月、山本病院で生活保護受給患者に対して行われた心臓カテーテルによる血管内手術のうち140人分は不必要なものだったことが専門医たちの鑑定により明らかとなった。大阪市の場合、治療動画の残されていた116人の内98人が不要な手術だったと判断された。医療法人が自己破産した後、29の府県市が過去の診療報酬のうち3億2000万円余の債権届を提出したが、破産管財人はこれを認めず、最終的に7自治体で僅か143万円余の返還となった。

生活保護受給患者の入院が半数以上を占め、実数は437人。そのうち県内は14%で、大半が県外、なかでも大阪市が60%を占めた。

 

大阪市の病院や行政側がこうした受け入れ先病院の診療実態をどこまで把握していたものかは分からない。しかし行路死亡や行き倒れを防ぐためには受け皿となる病院がどうしても必要であり、病院側としても福祉が手厚く身寄りのない生活保護受給者を手なずけることにやぶさかではなかった。一般患者と違って、言いなりにならなければ追い出したり手足を括って言いなりにさせることもできる、たとえ亡くなっても困る人はいない、という蔑視もその根底にはあったのではないか。

そうした一方で、自治体や関係団体に通報が入っても、すぐに厳しい監査が行われることは少なく、改善指導が通知される程度で済まされがちである。具体的な措置や対策は病院任せとなっており、福祉施設での虐待事案などと同様に重大事件の発覚までに時間を要することが指摘されている。山本病院のように明らかにされる事例は氷山の一角にすぎないと考えるべきであろう。

 

命の灯

2023年11月、矢島医師の死から14年目に出された「さっちゃんの会」発行の広報紙『さっちゃんと共に生きる』150号では、支援者の植田敏明氏が手記を寄せている。

それは事件に関して黒川所長が「事件解決のために十分な協力をしてきた、とは思えない」、社会的弱者のための医療という志のもと活動を共にした「祥子さんやご家族のためにも口をひらく責任があるはずだ」という「ふみきった内容」であった。

 

 

西成で居酒屋「集い処はな」を営み、『日本の冤罪』(鹿砦社、2023)を著した「はなまま」こと尾崎美代子氏は、デジタル鹿砦社通信で矢島さんの死について寄稿している。

患者のセカンドオピニオンを提案したり、適切な診療方針を要望する矢島医師は、患者からむしれるだけむしりたい病院からすれば相当に煙たい存在だったにちがいない。また彼女が亡くなる約1か月前、釜ヶ崎でのフィールドワーク報告会で「貧困ビジネス生活保護受給者への医療過剰状態」などを問題視する報告を行っていたとされる。

尾崎さん自身は医療関係者ではないが、客や知人の見舞いでそうした生活保護受給者や行路生活者を専門にする福祉病院(「行路病院」)を目にしてきたという。

「福祉病院は、数か月いると、別の同様の病院にタライ回しにされる。そこでまた一から検査などを受け、そこの病院を儲けさせるためだが、先のお客さんが次に回された京橋の病院は、私が見舞いに行くと驚いていた。生活保護者の患者に見舞いに来る人がいるとは思っていなかったのだろう。」と振り返っている。

https://www.rokusaisha.com/wp/?p=48381&fbclid=IwAR3RgTr0ifZYyWUkSb2LadP4buXQkH7wPeVQw9Xwki_U-iK0RSqYZRuiBMM

矢島さんが行った報告の詳細は不明だが、釜の「部外者」として赴任してきてから2年半、多くの診療や生活支援を手掛け、人々と語らい、関係を深めていく中で、自分の患者たちも釜ヶ崎に巣食った貧困ビジネスの内部構造に組み込まれていることに危機感を募らせたはずである。彼女が知りえたものは業界を震撼させた山本病院事件と直接関係していたのか、あるいは別ルートの病院とのつながりであったのか定かではない。

いずれにしても彼女の倫理観には到底許容しえない診療実態と知り、その動きを察した西成の特殊な保険福祉医療業界に巣食った面々が片づけたと考えるのが妥当に思われる。発覚したのは身近な相談相手だったのか、はたまた外部と思って情報を流した相手が逆に彼女を「売った」のかもしれない。

釜ヶ崎の町医療を支えてきた黒川医師や生活困難者たちの心の拠り所となってきた本田神父らでさえも太刀打ちできない、不可侵な勢力とは何なのか。巨大な闇に向けてさっちゃん先生が命を賭して点けた灯を決して絶やしてはならない。

 

---------

貧困と生活保護(33) 必要のない手術を繰り返していた山本病院事件 | ヨミドクター(読売新聞)

遺体なき殺人——フランス邦人留学生行方不明事件

フランス留学中だった筑波大生・黒崎愛海(なるみ)さんの失踪事件。現地捜査当局は“遺体なき殺人事件”と断定して元交際相手のチリ人男性を逮捕し、2023年12月に控訴審が行われた。

 

事件の発生

2016年12月5日、フランス東部ブザンソンで留学中だった筑波大学学生・黒崎愛海さん(当時21歳)がその消息を絶った。

5日未明から早朝にかけて寮で寝起きする学生10数名が、彼女の暮らす106号室付近から叫び声やドスンという何かを叩くような音を耳にしていた。

「甲高い女性の叫び声が響いて、最初はホラー映画かと思ったけど、しばらく続いたので不安になりました」

女性の悲鳴は1分か2分近く続いたとされ、驚いて廊下に飛び出した学生もいたが異変の発生源を特定するには至らなかった。変事を察した学生は少なくなかったにもかかわらず、そのときは警察への通報はされなかった。

愛海さんは8月末に渡仏し、9月からブザンソンにあるフランシュコンテ大学に留学していた。同大学は3万人近い学生の12%を外国人学生が占め、フランス語およびフランス言語学では世界有数の教育機関である。彼女は寮で生活しながら1月の経済学部への編入に向けて、応用言語学センターでフランス語を受講していた。

 

クラスメイトたちはそれまで休んだことのなかった彼女の突然の無断欠席を心配し、寮生たちも異変に気付いてSNS等でメッセージを送り続けたが、ほとんど返事はなく12日以降は完全に音信不通となる。

最後のメッセージは日本で暮らす愛海さんの母親や妹たちの元に届いていた。「新しいボーイフレンドができた」「一週間ルクセンブルクに行く」「ひとりで行く」と一方的に告げる内容だった。ブザンソンの友人たちは度々彼女の部屋を訪ねたがずっと不在が続いていた。その後、友人と寮の管理人によって106号室の様子が確認され、14日、応用言語学センターから行方不明者として警察に届け出がなされた。

翌15日夕方に警察は彼女が暮らす学生寮の立ち入り調査を行い、自発的失踪とは結びつかない状況を把握した。前述のように住人たちは不審な叫び声や物音を聞いたと証言し、室内に血痕や争った形跡などはなく整理整頓されて見えたが、いつもはもっと雑然としていると違和感を示した。

降雪も近い時季だというのに、彼女の唯一のコートやスカーフは残されたままとなっていた。現金565ユーロや交通カードの入った財布やラップトップPCも置きっぱなしで、旅行や家出とは考えにくい。その一方で、パスポート、携帯電話、毛布、スーツケースが部屋から紛失していることが判明する。

隣室には同じく日本人留学生が暮らしていたが、5日未明の騒音以降は生活音さえ聞いていないという。詳しい聞き取りの結果、悲鳴を聞いた寮生のひとりがグループチャットに「誰か殺されてるっぽい」と投稿していたことが確認される。投稿は午前3時21分であった。

 

疑われた恋人

警察は当初、愛海さんの当時の交際相手に疑いの目を向けた。同じ地区に暮らし、国立機械マイクロテクノロジー高等学校に通うアルトゥール・デル・ピッコロさんである。

「12月4日の午前11時半まで一緒にいたが、午後には通っていたダンスクラスに行ったと思います。夕方に少し見かけて以来、会っていません」

4日夜にメッセージを送ったが返信はなく、心配して5日夜には彼女の部屋を訪れたが応答はなかった。毎日顔を合わせていた恋人の予期せぬ失踪に心配した彼は無事を信じて「直接会って話がしたい」とメッセージを送り続けた。ようやく6日深夜にになって「後日にしてほしい」と返信があった。ピッコロさんは恋人が無事だったことを知って多少安堵したものの、“失踪”の説明を求めた。

「メールには“ある男性と出会い、その人と一日を過ごした”と書かれていました。私が“戻ってくるつもりはあるか”と尋ねると、ノーと返信があり、私は彼女に裏切られたように思いました」

メッセージには、男性への感情は一時的な、恋愛ともいえないようなものだが、どうしたらよいのか自分でもよく分からない、と記されていた。ピッコロさんは、悲しみと怒りがないまぜになった、とその時の心情を振り返る。

「12月6日(火)に“パスポートの手続きのためリヨンに行く”というメールを受け取りました。変だと思いましたが、彼女には一人になって考える猶予が必要なのだと思い、私はその気持ちを理解しようと努めました」

ピッコロさんは交際自体は順調で、今後に向けて二人で様々な計画を立てていたと語る。クリスマスには彼女を家族に紹介する約束をしており、すでに飛行機のチケットも準備していた。

「しかし8日の木曜日に送られてきた最後のメッセージには“独占欲”という単語が繰り返し使われていて、何かがおかしいと思いました」

ブザンソンに来てからの彼女の周囲で敵になる人間はいませんでした。私の知るかぎり、有害と思われたのは彼女の過去の関係でした」

 

二人が知り合ったのは愛海さんが来日したばかりの9月初旬で、ピッコロさんは「交際相手との遠距離恋愛がうまくいっていないことで折角の留学が台無しにされている」と彼女から相談を受けていた。愛海さんが関係を解消した10月初旬に二人は交際を開始したが、“元カレ”が関係修復を求めて11月に来仏する意向だという話も耳にしていた。

取り調べを求められたピッコロさんは“元カレ”への捜査を訴えたが、地理的な問題があることから警察はすぐにはその言い分を聞き入れなかった。しかし、いざ裏付け捜査が始まるとすぐにピッコロさんへの疑いは晴れた。あらゆる捜査結果がその“元カレ”による犯行を裏付けており、直接証拠は得られていなかったがすでに行方不明者は殺害されているとの見方が強まり、逮捕状が請求されることとなる。

 

嫉妬と征服

愛海さんは両親と2人の妹の5人家族で、東京都江戸川区の出身。都立国際高校を卒業後、2014年に茨城県筑波大学国際総合学類へと進学した。

同年10月、同じ筑波大学に留学中で経営管理を学ぶ5歳年上のチリ大学学生ニコラス・ゼペダ・コントレラス氏と知り合い、2015年2月頃から男女は交際関係に発展した。

愛海さんは結婚を前提としない非公式なかたちで家族にもゼペダ氏を紹介している。その年の9月から約1か月にわたってチリに旅行し、彼の家族とも面識を持った。彼の留学期間が終わると、二人は日本とチリでの遠距離恋愛となった。

 

Querido Nicolás, mi amor, estoy muy feliz... Eres un compañero extraordinario. Muchas gracias por tu apoyo, gracias por la forma en que me apoyan y la forma en que te comportas conmigo. Intento merecerte. Te amo con tu corazón, soy tuya para siempre. ❤️

(親愛なるニコラス、私の愛しい人、とても幸せです...。あなたは素晴らしいパートナーです。私を支えてくれてありがとう。私はあなたにふさわしい存在でありたい。私は永遠にあなたのものです。)

 

もともと愛海さんは貧困問題に関心を持っており、母子家庭の支援事業を立ち上げることを目標として学業に励んでいた。交換留学制度を利用して他の先進国の現状を理解したいと考え、社会保障制度が充実していることからフランスへの留学を志した。

ゼペダ氏は2016年に再来日し、彼女との生活を夢見て就職活動をしていたが、学内とは勝手の違う生活になじめず、就職もうまくいかなかった。結局、愛海さんは渡仏し、彼も10月にチリへの帰国を余儀なくされ、再び離れ離れとなった。

 

部屋の鑑識捜査によって、カップから指紋が検出され、遺伝子サンプルの分析により、水筒、Tシャツ、壁、バスルームの床、シンクの隅からも同一男性のDNA型が確認された。フランス当局のデータベースから一致するサンプルは見当たらなかったが、後にそれはゼペダ氏のものと照合されることとなる。

ピッコロさんの証言の裏取りも進められた。愛海さんの銀行口座の動きからは、12月6日にリヨン行きの片道列車の購入履歴が確認される。割り当てられた購入座席から同じ客車の乗客たちに確認を取ったが、なぜか彼女と一致するような日本人女性の目撃は皆無だった。またメッセージにあった通り、実際に彼女がパスポートに問題を抱えていたとすれば目的地とすべきはリヨンではなく、日本領事館のあるストラスブールと考えられた。

携帯電話の位置情報を解析したところ、12月4日の夜、寮から約20キロ離れたオルナンにある宿屋兼レストラン「ラ・ターブル・ド・ギュスターブ」を訪れていたことが判明。午後9時57分に愛海さんとゼペダ氏が店を出る姿が記録されており、その約1時間後、学生寮正面玄関の防犯カメラでも元恋人同士が寮に入っていく姿が捉えられていた。

彼らは何の目的で会い、何を語らったのか。二人が寮に到着して4時間半後に悲鳴や騒音が聞かれたが、表玄関から二人が外出する様子は記録されていなかった。代わりに裏の非常口から一人で出ていくゼペダ氏の姿が捉えられていた。

愛海さん失踪前後のゼペダ氏の足取りを辿ってみると、マドリードジュネーブを経由して11月30日(水)にフランス・ディジョンに到着。2週間前にチリ・サンティアゴから予約していたルノー・メガーヌ車に乗り込み、市内のショッピングセンターでプリペイド式携帯電話をチャージすると、その足で愛海さんの暮らすブザンソンへと向かっていた。

翌12月1日、昼過ぎにディジョンに戻り、スーパーマーケットで9.80ユーロの買い物をしている。その中には5リットルの燃料入りキャニスター(蓋つき保存容器)、Winflamm社製のスプレー式塩素入り洗剤、ゴミ袋、マッチが含まれていた。

レンタカーの走行記録によれば、翌2日はジュラ地区にある森林地帯を徘徊。ハイキングや観光に適した場所ではなく、森林地帯を横断するひと気のない林道である。2日と3日は前述の「ラ・ターブル・ド・ギュスターブ」に宿をとっていた。だが愛海さんと同じ寮で暮らすイギリス人のレイチェルとアルジェリア人のナディアは、2日夜それぞれ別の時間に不審な男性が寮の台所に隠れていたと証言し、写真でゼペダ氏であることを確認した。

3日、ブザンソンのH&M(衣料品店)で青いジャケットと白いシャツを購入し、翌日の愛海さんとのディナーの場で着用したことも確認された。愛海さんの失踪前、ゼペダ氏は寮に忍び込んだり、旅人らしからぬ不可解な物品や着替えを手に入れて、ひと気のない森をさまよっていたことになる。

 

レンタカーの返却は12月7日(水)正午ごろで、5日、6日には愛海さんの寮に駐車されていたとの目撃情報もある。返却された車は8日間で延べ776キロを走行し、運転席とトランクは「非常に汚れていた」とレンタカー従業員は記憶していた。

午後にはジュネーブ行きのバスに乗り、そこからバルセロナ行きの飛行機に乗ったゼペダ氏は、従兄弟で医学生のラミレスさんの元を訪れていた。ラミレスさんの供述によれば、ゼペダ氏は「ジュネーブの学会に出席するため渡欧してきた」と語り、以前交際していた愛海さんの話題を振ると「9月以来会っていない」と答えたという。また10日(土)の会話で、ゼペダ氏が窒息死について関心を示し、死に至る原理や要する時間、生死の判断について問われたという。

別の機会には「ナルミは海がとても好きだった」となぜか過去形で話していたことを従兄弟は不審に思ったという。またバルセロナでの滞在をだれにも話さないように口止めされたことも奇妙に思われた。1月になってフランス当局から連絡を受けた直後にゼペダ氏から連絡が入り、「困ったときは家族で助け合うべきだ」と言われたと証言する。

そうした不可解な行動履歴は到底旅行者らしくはない。ブザンソン地方検察は、犯罪のための下準備や隠蔽工作だったにちがいないとの確信を深め、警察犬なども動員して周辺での捜索活動を急がせた。

一方で彼女のラップトップでの通信履歴を照会してみると、8月28日から10月8日までの間にゼペダ氏との間で981通に上る破局までの激しいやりとりが明らかとなった。フランス当局はその内容から男の性格を「嫉妬深く独占欲が強い」と判断。

ゼペダ氏は愛海さんが来仏後にできた男友達に嫉妬し、SNS上での絶縁と実際の交友関係の解消を求めていた。「きみの誠意を見せてください。私はきみの決意が知りたい」「きみのパートナーは私だと彼らにメッセージを送って、これ以上つきまとわれないようにしてほしい」と主張していた。彼が愛海さんに関係を切るよう求めていた相手のひとりが、後に彼女の新恋人となるピッコロさんであった。

ゼペダ氏は彼女に自分の意に背かないよう説得を繰り返していたが、愛海さんも無抵抗に追従する性格ではなかったと見え、横暴な執着を続ける彼に対して「警察に通報する」と相手を脅すことさえあった。男性のこれまでの行いを非難し、最後には「くたばりやがれ」と吐き捨ててやりとりを終えていた。

彼女が男の要望を拒絶すると「もはや我慢の限界だよ、ナルミ。きみは私をゴミのように扱うんだね」と告げ、その2日後に動画投稿サイトDailyMotionに動画メッセージを公開した。

「きみはいい子になるんだ、これからはもっといい子になれる」

「ナルミは悪い子なので、この関係を維持するためにはある条件に従ってもらわねばならない」

「彼女は約束を守ると同時に信頼関係を再構築し、自分のしたことの代償を支払わねばならない。自分を愛してくれる人にそのような過ちを犯すのであれば、責任をとらなければいけない。期限は、そう、2週間だ」

10月9日、日本から帰国した“元カレ”はチリ・サンティアゴに戻り、行動療法センターに通うようになった。

 

指名手配

2016年12月23日、行方不明者が殺害されたことを確実視したブザンソンの捜査当局は、インターポールを通じて誘拐・拘禁などの容疑で国際指名手配を開始することを発表した。欧州を発ったゼペダ氏はすでに13日にチリに再入国していた。

国際指名手配の報道を受け、12月29日、潜伏していたゼペダ氏はチリ刑事警察庁(PDI)に文書を提出。愛海さんから過去の交際を後悔するメッセージを受け取ったため、「友好的な関係を取り戻したいと考えてブザンソンを訪れた」だけだとして殺害を否認した。交際の破局は「合意の上」だったため、「こうなっても不思議はありませんでした」と言い、自発的失踪や自殺の可能性を示唆した。

文書では、4日夜の会食の場で二人はまだ愛し合っていることに気づき、「親密になる」ために彼女の部屋に入ったことを認め、その晩は「うめき声」をあげるほど夢中に愛し合ったと説明。彼女は(交際相手ピッコロさんに対して)浮気による罪悪感を抱いたらしくひどく動揺し、彼に立ち去るように言い、非常口から帰った。現地に数日滞在したが彼女と再び接触する機会はなかった、と綴られていた。

 

翌2017年の1月4日、チリ検察当局はフランスの捜査当局からゼペダ氏の身柄引き渡し要請があったことを発表。5日にはチリ中部サンティアゴの実家周辺にいることが伝えられた。

チリの報道によれば、ゼペタ氏の父親は中南米の大手通信プロバイダー「モビスター」の幹部を務める。マスコミの詮索を避けるため、海岸沿いのリゾート地ラ・セレナの短期滞在型コンドミニアムの部屋を契約して妻を住まわせ、1月2日(月)に父親の車でマンションに入るゼペダ氏の姿も目撃されていた。父親は勤め先で1月3日から約10日間の休暇を取得しており、一緒に行動していると報じられた。

 

2017年3月、フランスの捜査当局は日本に捜査協力を要請し、ゼペダ氏の友人サカマキリナさんとスギハラメグミさんに事情聴取を行った。

彼女たちは愛海さんの失踪直後の時期にゼペダ氏から連絡を受け、「新しいボーイフレンドができた」などいくつかのフレーズについて日本語に口語訳してほしいと頼まれていた。数週間後、知人伝いに愛海さんの失踪を知らされ、愛海さんの家族宛ての最後のメッセージを目にした。LINE上で使われていた文言は自分が翻訳したものであり、ゼペダ氏によって失踪の隠蔽工作に使われたと直感した。

また彼は二人にメッセンジャーアプリでのやりとりを消去するように求めていた。サカマキさんはそのとき愛海さん失踪を知らなかったこともあり、言われるまま削除に応じたという。スギハラさんは後に「なぜ削除させたのか」と彼に問い詰めると「私が元交際相手だったからと言って、失踪の容疑者にはなりたくない」「心配しないで。彼女は別の男性と楽しくしているでしょう」と応答があったという。

 

身柄引き渡しと裁判

ニコラス・ゼペダ氏とその家族はフランス当局による取調や身柄引き渡しを拒絶。検察局は粘り強い交渉を続け、チリ司法においてその可否を決することとなった。

2020年1月13日、3年間沈黙を守っていた愛海さんの母親と妹たちは「家族の気持ち」と題した嘆願書を在チリ日本大使館に送付。在チリ日本領事から検察庁に照会され、チリ最高裁で行われる身柄引き渡し審問に提出される。

私は24時間、愛海の写真を胸に抱き、『どこにいるの、帰ってきて』と祈り続けています。毎日が地獄で、身も心もボロボロです。走行中の車から身を投げたこともある。——

―—ニコラスがフランスで捜査されることを祈ります。愛海の命を奪ったニコラスを、そして彼女が一番大切にしてきた家族全員の人生を奪ったニコラスを、私たちは絶対に許すことはありません。たとえ命が尽きようとも、この恨みが失われることはありません。

母親は失職し、妹たちも学業に励むことに苦労したという。愛海さんの身に何が起こったのかを正確に知ることもできないまま、家族はただ毎日を生きるのみだった。フランスに渡って愛海さんの捜索活動をすることも考えた。しかし母親は沈黙を続ける娘の“元カレ”が真相を、彼女の居場所を知っていると確信し、チリに渡って面会を要求したが結局実現は果たされなかった。

5月18日、チリ最高裁はゼペダ氏の身柄引き渡しを承認。自宅軟禁に置かれた後、チリ捜査警察によりフランス当局へと引き渡されることとなる。7月24日、パリ・シャルル・ド・ゴール空港に到着した容疑者は予審判事の許へと連行され、ブザンソン公判前拘置所に収容された。

 

2022年3月から4月にかけて、ブザンソン裁判所で一審刑事裁判が行われ、フランスのほか日本、チリ、スコットランドの証人が中継で参加し、日本語とスペイン語の同時通訳で傍聴が可能となった。各国のジャーナリストや市民が詰めかけ、2つの法廷が解放されてスクリーンモニターで審理の様子を見守った。

ゼペダ氏の弁護を担当したのは、サルコジ元大統領の盗聴事件などで知られるパリ弁護士会ジャクリーヌ・ラフォン弁護士でゼペダ被告の無実を主張した。

愛海さんの母親、妹のクルミさんも2週間の審理を傍聴し、証言台にも立った。ブザンソン弁護士会のシルヴィ・ガレー氏が家族の代理人として手続きをサポートしている。

公判の中で、ゼペダ氏が参加していたSmule、last.fmDeviantArtなどのオンライン上でのやりとりが参照され、様々な日本風のイラストがあったほか、実際の彼の行動さながらに「元パートナーと再会するためにチリから米国へと旅する男の物語」の投稿も見られた。

失踪後の12月10日にも愛海さんのFacebookアカウントはログインが報告されており、IPアドレスはゼペダ氏がバルセロナ滞在中に使用したものと一致。また交際していたピッコロさんのSNSアカウントへゼペダ氏からの攻撃があったことも証言された。

エマニュエル・マントー検事総長は、通信履歴や各種投稿の内容から被告の嫉妬深く独占欲の強いストーカー気質を示した上で、ブザンソンへの訪問は「復縁の説得」のためと推測されるが、二人が再開する12月4日より前の行動履歴と照らせば、彼女の対応如何によっては殺害することも事前に想定されていたと主張した。

現状“遺体なき殺人”であることから「最も可能性の高い仮説」として、彼女は自室で窒息死させられ、遺体はスーツケースで車に積まれてジュラ地区の森林地帯に運ばれ、森林地帯に埋められたかドゥ川に遺棄されたとする公訴事実を述べた。

4月12日、マチュー・ユッソン刑事裁判所長官は懲役28年の有罪判決を下した。

ゼペダ被告は判決を不服として控訴。2023年2月に控訴審が開始されたが、公判途中で法定代理人(ジュリアン・アサンジの弁護で知られるアントワーヌ・ヴェイ弁護士)との間でトラブルが生じ、ルノー・ボルトジョワ弁護士、シルヴァン・コーミエ弁護士が新たに担当することとなった。

 

〔2023年12月22日・二審判決加筆〕

2023年12月4日からヴズール控訴裁判所で改めて控訴審が開始された。

33歳になったセペダ被告は、尋問に対し、「プレッシャーやストレスを感じながらも、ようやくこの瞬間を迎えることができた。無実の罪でひどい非難を浴びている。質問に答える準備はできている」と口を開いた。

彼は2014年に日本で出会った愛海さんについて「尊敬」と「思いやり」に基づくパートナーシップだったと振り返り、「私はこの失踪とは関係がない」「私も何が起こったのか知りたい」と元恋人の安否を危惧した。彼女から「一生一緒にいるのか」と問われ、「僕はそう望んでいると答えた」と交際当時を振り返った。

それに対し、ピッコロさんの代理人である弁護士は「彼の物語は“ディズニーランド化”された架空の話だ」と喝破し、「被告は身の安全を図ろうとしている」と指弾する。被告は自分の言葉で証言を続けるものの、質問が細部に及ぶと答えに窮する場面も見られた。

 

証人として出廷した愛海さんの母親は、娘から紹介されたチリ人のボーイフレンドに対して「事件前から不信感を抱いていた」と明かした。

そもそもチリは話題にもしない遠い異国という認識だったため、娘から交際の事実を聞かされたときは驚かされたという。被告と初めて会ったのは愛海さんがアパートの引っ越しをしようとしていた時期だった。見た目は「ハンサムで優しそうな子」という印象だったが、彼は初対面の母親に挨拶ひとつしなかった。

引っ越しを手伝う約束をしていたが、当日、彼は姿を現さなかった。日本では信用を失うため守れない約束事はするべきではないとされている。一緒に食事をした際に家族の話題となり、青年は「スペイン系で、母親は裕福な家の出身だ」と紹介した。日本では「裕福な家柄である」と自称することは、品性の観点からあまりよい行いとはみなされない。家族はゼペダ氏の性格や対応に違和感や不安を感じていたが、娘のためにも「文化の違い」と寛容な理解に努めてきた。

男への不信感が決定的となったのは、愛海さんからチリ滞在時の出来事を聞かされたときだった。愛海さんは彼とスキーに出かけた際に雪道で遭難してしまい、叫び声をあげて助けを求めて命からがらの思いをして救助されたことがあったという。しかしゼペダ氏は「遭難についてだれにも言わないでほしい」と彼女に口止めしたというのである。なぜ人命が掛かったそんな大事をひた隠そうとするのか、その人間性に疑いを抱くのも当然である。

 

愛海さん家族の代理人シルヴィ・ガレー弁護士は、被告が送った“きみはいい子になるんだ、これからもっといい子になる”との動画メッセージについて言及する。関係修復のやりとりの中で、彼が元恋人に出した条件、その意味するところは、決して問題を起こさず、決して怒ることなく、決して意地悪をせず、決して悪口を言わず、決して歯向かったりしない、という絶対的な服従関係の要求であった。

彼女は生理の遅れから妊娠を危惧してクリニックを訪れていたとみられ、2016年10月には「あなたは私の体を傷つけ、大金を奪い、私から未来の子どもを奪った」と厳しい口調で男の不誠実な態度をなじっていた。彼女は完全にパートナーの言いなりになる女性ではなく、そうした過去の出来事も破局の引き金になっていたと考えられる。説明を求められたゼペダ被告は「妊娠検査薬の反応を疑って彼女は病院へ行ったが結局妊娠の事実はなかった」と述べているが、彼女のメッセージを字義どおりに捉えれば(男が関知していなかったとしても)堕胎手術があったようにも解釈できる。

筆者の憶測になるが、2016年に彼女を追って来日した恋人は自分を差し置いてフランス留学する彼女の決断を快くは思っていなかったに違いない。就職活動は不調に終わったが、地球の裏側から恋人との生活を求めて駆けつけた愛情は疑いようがない。「一生一緒にいよう」と願ったのは愛海さんではなく、男の方ではなかったか。彼女の留学は第一義には学業のためであれ、彼の支配や束縛、性的暴力などから逃れたい、早く離れ離れになって関係を終わらせたいとの気持ちも念頭にあったのではないか。

被告は一審判決後の収監について言及し、メディアの悪意ある報道と彼がフランス語を話せなかったことから「問題を抱えている」と見なされ、他の囚人とは一切交流できない境遇に置かれていたと語った。隣室の囚人の自殺や聴覚障害をもつ囚人への虐待も目にしたと獄中生活の過酷さを振り返った。ブザンソンでの勾留期間中にも看守から数回の殴打を受けたと報告すると、被告は嗚咽し始めた。ゼペダ被告の母親は立ち上がり、「息子の人権はどこにあるのですか」「私の息子を犬のように扱って」と叫んだ。公聴会は15分間中断した。

 

ギャレー弁護士は、マッチ、洗剤、燃料入りキャニスターの購入について説明を求めた。被告はマッチや洗剤は日用品として、キャニスターは燃料を携行するためではなく容器のデザインが気に入っていたためと購入理由を述べた。検察側は「あなたの証言は信用できない。カルフール(マーケット店)では空の容器も販売されていた」と語気を強めた。

被告の言い分が変わったのは、12月4日にブザンソン二人が“再会”した経緯である。これまでGPSに導かれてたどり着いたとしていたが、彼女の暮らす寮は事前に知っていたと述べ、否認していた学生寮周辺での事前の徘徊を告白した。

「一緒に過ごした時間よりも、私にとって重要なのは出会いだった」

遠くチリ・サンティアゴからフランス・ブザンソン学生寮までたどり着いたものの途方に暮れたゼペダ氏は、車の後部にA4用紙を挟んで彼女が気づくことを信じて待った。紙には、二人にだけわかる「暗号」として、ニコラスとナルミの名前を縮めてつくった「ニコミ」という恋人時代に考案した二人の愛称を日本語で書き添えていた。

気づくと「ニコミ」の紙が抜き取られており、車を降りてみると目の前に元恋人の姿があった。涙ながらに「もう会えないと思っていたのに」と再会に驚く彼女を車に乗せて食事に向かい、そこで両者の愛情が失われてしまった訳ではないことを確認し合ったという。

その晩から5日明け方にかけて二人は彼女の部屋で肉体関係に及んだ。避妊具をどうしたかは記憶にないとしている。また5日早朝に追い出されたとの証言を覆し、翌6日まで彼女の部屋に留まり、6日に二人で外出したと述べた。検察側が愛海さんの生存を匂わせる偽装工作だと位置づける「リヨン行きの鉄道切符の購入」について、被告は彼女から頼まれて購入したものだと説明した。

ゼペダ被告の父親は「愛海さんが今現在死亡していることを断言できる人は存在しない」と述べて、死体なき殺人の犯人にされかけている息子を擁護した。弁護団は「部屋の暖房器具に頭をぶつけて亡くなったとすれば…」と、彼女の失踪について計画殺人以外の解釈をする余地がない訳ではないことを陪審員に訴えた。

 

2023年12月21日、控訴審裁判所フランソワ・アルノ―裁判長は陪審員ら12人での5時間に及ぶ審議の末、前年の一審判決を支持し、被告に懲役28年の判決を言い渡した。尚、刑期満了とともにゼペダ氏には国外退去が命じられるとともに、黒崎さん家族に22万ユーロ、ボーイフレンドだったピッコロさんに5000ユーロの賠償金の支払いも命じられている。

「私は殺人者ではない!ナルミを殺していない!」

無表情で判決を聞き入っていた被告は泣き崩れ、通訳を通して判決内容を知らされた父親は息子の頭をなでて慰めようとした。結審後、記者団に囲まれた父親は「具体的かつ直接的な証拠」を提出していないとして検察側を非難し、「今日、フランスで無実の人が有罪判決を受けたことをだれもが目撃することになった」と判決への不服を露わにした。

約3週間の公判を終えた愛海さんの家族と代理人シルヴィ・ガレー弁護士は、判決そのものに不服はないとしたが、ゼペダ被告が真相を語ろうとしなかったことは遺憾であると述べた。

被告側の弁護団は、上告も含めて慎重に検討すると述べ、裁判所を後にした。

 

騙る共犯者——山中事件

「共犯者」の自白によって死刑判決が下された巻き添え型の冤罪事件である。なぜ己の罪と向き合わずに別の人物を首謀者のように仕立てたのか。

 

事件の発覚

1972年(昭和47年)7月26日午前11時ごろ、石川県江沼郡山中町の通称・南又林道の奥を流れる大内谷川で、山林調査に訪れていた役場職員が白骨遺体を発見し、警察に通報した。

 

着衣には刃物によると思われる多数の損傷がみられ、頭蓋骨の右前頭部には直径2.5センチ、深さ0.7センチの楕円形の陥没骨折、右頭頂骨に直径1.5センチ、幅1.1センチ、深さ1ミリ程の浅い骨折が確認された。警察は殺人・死体遺棄事件として捜査を開始した。

翌27日、遺体は着衣や所持品の照会によって、現場から約5.5キロ離れた隣町の山代温泉町に住む元タクシー運転手男性Dさん(24歳)とみられ、家族によって確認が取られた。Dさんは5月11日の夜に「ちょっと遊びに行ってくる」と言い残して外出したまま行方不明となっていた。

下のストリートビューの本流が国道364号・大内道路、分岐右手が発見現場とみられる。我谷ダムより上流域(南)には民家や店はほとんどない山道が続く。

 

捜査当局はDさんの交友関係を確認し、失踪直前に会っていた山中町在住の男性K(24歳)を参考人として取り調べを行う。Kは金融業者からの借り入れをしており、Dさんから実印を借りて保証人に立てていた。

7月28日、Kは取り調べに対して、蒔絵職人をしている友人S(26歳)と共同して犯行を行ったと自白を始めた。

 

山中町

山中町は石川県の南端、福井県との県境に位置し、その名が示す通り、周囲を山に囲まれた土地である。

奈良時代行基が北陸行脚の際に薬師如来の導きによって開湯したとされる山中温泉で知られる。浄土真宗第8代宗主・蓮如の湯治や松尾芭蕉がその名湯に惚れこんで8泊したと伝えられる。山々と大聖寺川が織りなす風光明媚な渓谷が人々を魅了する。

上流の九谷村では良質の陶石が採出され、江戸期、加賀藩は殖産興業とすべく後藤才次郎を技能習得のために有田へ派遣、戻ってから窯を開かせたが元禄末期に廃窯。19世紀になって京都から青木大米を招聘して再び窯を広め、前者を古九谷、後者を再興九谷と呼ぶ。陶匠・九谷庄三は能登呉須顔料の発見、舶来の顔料を取り入れた彩色金襴手と呼ばれる絵付けにより中興の祖とされ、以後の九谷焼の代名詞となった。

九谷焼大皿

後に国産マウンテンバイク販売やリム(車輪の外円)製造でも知られる新谷(あらや)工業の創設者・新谷熊吉が明治期に輸入自転車に対抗して国産自転車の生産を始めたのもこの地であった。

戦時下では傷病兵に効能のあるその泉質もあって、山中海軍病院が開設された。戦後は看護学校がつくられ、国立病院として地域医療を支えた。

2005年に加賀市と合併し、町名は消えたが、現在も旧山中町の地名には「山中温泉」が付されている。

 

Kの自白と2人の逮捕

Kの自白によれば、友人SがDさん殺害を実行したとし、金融業者のMを殺害する計画も持ち掛けていたという。両者の殺害によって、借金したことが家族に露見せず、返済の必要もなくなるという算段だったと明かす。

 

事件前日の5月10日、Kの父親が所有する30万円の約束手形を密かに金にできないかと画策したKとSは、金融業を営むMと交渉して25万2000円の小切手と交換した。二人は被害者Dさん方を訪れ、保証人とするために借りていた実印を返却。「明日、金ができたら礼をする。飲みに行こう」と話していた。

11日、KとSは現金化し、夜8時ごろ、自宅付近で待っていたDさんを拾い、Sの運転するブルーバードでひと気のない南又林道へと連れ込んだ。車を停めたSは後部座席のDさんの隣に座り、「どこか面白いところはないか」などと話しかけて油断させ、いきなり切り出し小刀で左脇腹を突いた。SはDさんを車外に引きずりおろし、逃げようとするのを追いかけて腹部等を複数回刺した。

KはあらかじめSがトランクに積んでいたヨキ(枝打ちや小さな薪割りなどに用いる斧。公判では「根切りよき」とされる)を取り出して手渡すと、Sは倒れているDさんの頭部をヨキの峰部分で殴打して殺害した。

遺体は二人で谷川の橋の上から落とし、さらに川に入って橋の下に隠した。

帰りにSの勤める工場で凶器のヨキを洗った。Kの目には、ヨキの峰部分の角が潰れて丸くなっており、赤い血のようなものが付着して見えたという。

 

Kの自白では、借金をしたのは自分だが、殺害の起案、準備、輸送、殺害実行、遺棄に至るまで、Sが主導的立場にあったかのように語られており、その後の公判を通じて上記のような主張を維持した。

自白を元に、7月28日、Kと共にSもDさん殺害と死体遺棄の容疑で逮捕された。

29日には「Sが運転席から投げ捨てた」とのKの供述に基づいて、死体遺棄現場から約12キロ離れた片山津町のはずれにある草原を下草刈りしたところ、被害者の遺留品である両足の靴が発見された。靴の中は枯れ草が詰まり、豆虫の巣になっていたとされる。

 

Kと共に逮捕されたSだったが、すでに金沢刑務所の拘置監に未決囚として勾留されていた。というのも、Dさんの行方不明から間もない5月14日に別の強盗殺人未遂事件を起こして緊急逮捕されていたのである。

Sは友人とのドライブ中に、加賀市須谷町の林道で小刀で右脇腹を刺したり、顔や胸部を切りつけるなど安静加療約1か月の傷害を負わせており、辛くも逃げのびた被害者は20万円余りの現金を所持していたことから狙われたと主張した。警察の追及により、Sは「殺して金を奪うつもりだった」と自白し、5月31日に起訴された。このSに刺された友人、逃げのびた被害者こそKであった。

Sは公判で、Kに対する傷害の事実については認めたものの、強盗殺人の意思はなかったと一部否認に転じた。

またKにはDさん殺害、死体遺棄の主犯格とされながら、Sは一貫して全面否認を続けた。その後の捜査では客観的証拠が得られなかったものの、9月14日、双方の主張は食い違ったまま、ともに起訴された。

 

裁判

Sを事件と直接結びつけるものはKによる証言しかなかった。一方でKは、自分は見ていただけとする自白内容であり、Sによる「強盗殺人未遂」の被害者という微妙な立場からの言い分でもあった。恨みのあるSに罪をなすりつけて自己の刑責を軽く見せかけようとしていても不思議はない。

そのうえ、松原太郎医師の鑑定によりKの知的水準は「11歳9か月の児童のそれに一致」する程度とされ、今で言うところのボーダーに当たり、知能指数73で「精神薄弱者の上限界に該当」すると評価された。「気が小さく」「誰の言うことでも善悪を問わずよく聞く」ので「他人に利用されやすい」特徴が指摘されている。

遺体や靴の発見場所は一帯でも山奥というような場所で、Kは自動車免許を有しておらず、運転にも習熟していなかった。そのためK単独による犯行ではない、との見方が自然と思われた。

取調や公判で共謀の日時について問われると、7日とも11日とも変遷し、記憶がないと供述することもあった。取調官とのやりとりで誘導があれば、容易に虚偽の自白を誘発するおそれがあり、自白の信用性には慎重な吟味が必要とされた。

 

1975年10月27日、金沢地裁は、Kの能力や性格から「単独犯行を否認するひとつの証左となる」との見解を示し、自白は信用に足るとして、主犯格SはKへの強盗殺人未遂と併せて死刑、従犯Kには懲役8年を言い渡した。

Kは控訴せずに服役。「主犯」とされたSは控訴したものの、1982年1月19日、名古屋高裁は、原審判決の一部に事実誤認があるとしたものの、有罪認定そのものは維持され、控訴を棄却した。

以下、裁判の争点についていくつかみていきたい。

 

凶器の矛盾

凶器として、頭蓋骨に陥没骨折を負わせた鈍器による打撃、あるいは着衣の損傷から刃物による刺突によって死亡した可能性が考えられる。

Kが犯行凶器に似ているとした根切りヨキを鑑定人が骨折箇所と照合したところ、類似するヨキの形状であれば骨折を生じせしむるに矛盾はないとされた。ただし、自白にある「仰向けに倒れている被害者の足元または胴の横から頭部めがけて振り下ろした」とする状況下では形成されず、打撃の向きには矛盾があるという。

また刃物で複数回刺したうえでヨキで1発殴ったという状況からして、殴打は「とどめの一撃」というべきもので、手加減なしに相当な力が加わるはずである。だがそれにしては骨折の程度が軽すぎるとの意見書もあった。Kの言う犯行様態にはそぐわないことになるはずだが、判決では「推認されるヨキの形状と骨折面が矛盾しない」点のみが重視された。

 

被害者着衣(背広、長袖シャツ、メリヤスシャツ)の刃物によって生じたとみられる損傷は計11か所。幅約2センチ、峰幅3~4ミリと推認されている。

Kの供述によれば、Sが車内で切り出し小刀でDさんの左脇腹を刺したのを皮切りにDさんを追いかけながら複数回刺し、さらにヨキのミネで頭部を殴りつけたとされている。

車内で至近距離から刺した際に最も深手の傷を負うと思われるが、メリヤス下着の左脇腹には切り出し小刀に該当するような切り跡はなかった。

検察側は公判で「切り出し小刀」を証拠提出したが、それはKに対する傷害で用いられた凶器であり、鑑定によりDさん殺害と同一の凶器とはいえないと確認された。Sの居宅や勤め先の工場では徹底的な捜索が繰り返されたものの、Dさん殺害に該当する凶器は発見されなかった。

しかし一審金沢地裁は、鑑定について「両事件の凶器が同一ではありえない」とするものではなく「凶器の同一性を断定することはできない」という意味だとする解釈をもって「同一のものである可能性が相当高いもの」と認定し、先の小刀を「極めて有力な物的証拠」と評価した。

鑑定人は、各分野の専門知識によって裁判官の判断能力の不足部分を補充する機能を持つ。他方で、裁判官の経験則などによる心証形成を抑制する、客観的な心証によって裁判官の主観を間接的に規制する歯止めの役割もある。

さすがに二審ではこの推定有罪ともいえる強引な「同一凶器説」は踏襲されず、原審判決における事実誤認と否定された。この段階で、Kの供述する凶器を裏付ける客観的事実は存在しないことになる。

 

暗い森

Kによれば、犯行当夜、Dさんに「福井に遊びに行こう」と言って車に乗せた。その後、「かつてSが住んでいた家に寄っていく」と言って福井とは逆方向に走行し、結局寄らずに別方向に走り、国道364号の山の一本道に入って「大便がしたいから脇道に停める」等と言い訳して犯行現場となった南又林道に進んだとされる。

温泉街を離れれば暗い夜道とはいえ、元タクシー運転手で近郊の道路事情に精通していたDさんが疑問も抱かず、黙って現場に連れていかれたという状況はどうにも解せない。

イメージ

事件当日は月齢27.3日で、犯行時刻ごろに月は出ていなかった。供述では、車内のルームランプを点けていたというが、遺棄現場は河原も川面も認識できないほどの暗闇であった。

自白では死体の隠匿について、橋から落とした後、川に入って橋の下に引きずり込み、Kがいくつか石を渡すと、Sがそれらを死体の周囲に置き、木株で覆ったという。漆黒の闇の中、川に入ってそうした作業が可能だろうか、Kの目にSの動きがつぶさに見えていたとは思えない。

また現場で被害者の靴が脱げ落ちていたため、持ち帰って片山津町の草原に棄てたと自供しているが、犯行途中の混乱と視界のない中でどうやって気づいたというのか。なぜ周囲の川や山、帰り道に棄てずに持ち帰ろうとしたのかといった点も判然としない。

 

Kによれば、車には死体を埋めるつもりでスコップも用意されていた。結局使わずに工場に戻したと供述しているが、小刀、ヨキと共にこのスコップも発見されなかった。凶器の隠匿ならいざ知らず、犯行に使用しなかった道具まで念を入れて隠匿したというのだろうか。Sの身辺でスコップが紛失したといった情報は確認されなかった。

それ以外についても、体験していない状況を想像で供述した疑いのある場面は多々見受けられ、供述全体のどれほどが想像によって補完されたものか疑いが払しょくできない。知能程度の問題で、前後関係を系統立てて説明するなど不得手なことはあったかもしれないが、それでも供述の部分部分では鮮明に説明されていたのはなぜなのか。

 

ブルーバードの血痕

犯行車両とされたSのブルーバードには、後部座席ビニールカバーの縫い目の糸に、人血の付着した痕跡が2箇所あったとされる。これが被害者のものとなれば、Kの自白を裏付ける客観的な補強証拠となりえた。

しかし極微量であったため血液型の判定まではできず、被害者との一致は特定されていない。ビニールカバーの上にはビニールマットが被せてあったが、そちらから血液反応は検出されなかった。

Kの自白によれば、ビニールマットに付着した血痕を濡れた布切れで拭いたという。しかしマット表面は突起で覆われており、布で拭くほどの出血があれば完全に拭き取りきれずに隙間に残ると考えられた。

血の付着していた箇所は、後部席右側の、座った人の膝裏が当たる付近に相当し、Kの供述で血が付いていたとする場所とは異なる。

だが一審判決では、拭き取り作業の際に布から転移した可能性も排除できないとする想定まで考慮に入れられ、だれのものともいつのものとも知れない極微量の血痕が、「Sと犯行を結び付ける有力な状況証拠」と認定された。しかしマットや他の部位から検出されていないことからも、車内で脇腹を刺した際に付着したとするのは無理筋に思われる。

上告審では、弁護側が東京慈恵医大・内藤道興助教授(当時)に検証を依頼した結果、「人血である」としていた中島鑑定の方法では人血であるとの鑑定結果を得ることは不可能だとして疑問を呈した。K供述を裏付けるかに見えた情況証拠は、証明の効力を失った。

 

裏付けなき自白は証拠価値そのものを失う。

刑事訴訟法319条第2項;被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない。

K供述には曖昧な部分やいくつもの矛盾があったが、それでも不明瞭さについては知能水準の問題として棚上げされ、充分な検討はなされなかった。しかしそんな脆弱な自白供述を抜きにすれば、Sが事件に関わった証拠は皆無と言えた。

1989年(平成元年)6月22日、最高裁第一小法廷・大内恒夫裁判長は、原審判決を破棄し、高裁での審議差戻しを命じた。

差戻し審では、岡山大・石津日出雄教授の鑑定により、マットカバー検出の血液も被害者とは異なるものであったことが判明した。

翌90年7月27日、名古屋高裁・山本卓裁判長は、SによるDさん殺しについて無罪判決を言い渡した。Kに対する殺人未遂容疑は、後に強盗致死未遂として起訴され、こちらは懲役8年と宣告されたが、未決勾留日数ですでに服役分を終えたとして放免された。

Sにとって逮捕から18年目にようやく果たされた雪冤であり、1972年に無罪確定した仁保事件以来の死刑判決差戻しでの逆転無罪となった。

 

 

所感

Kは8年の刑期を終えたが、はたして彼の単独犯行でSを首謀者に仕立て上げ、巻き添えにしただけだったのだろうか。

無論、取り調べでの警察の誘導もあったであろう。犯人しか知りえない「秘密の暴露」であるかに思われた被害者の靴の発見も当局による捏造証拠かもしれないが確認する術はない。

Kの知能程度や日常に関する資料に乏しく確証はないが、はたして彼一人で犯行が可能だったのかには大きな疑問が残る。2003年に滋賀県東近江市の湖東記念病院で起きた人工呼吸器事件で西山美香さんが犯人に担がれたように、Kもまた供述弱者であることから捜査機関に利用されたのではないかという疑念が拭えない。つまりSではないパートナー、真犯人が別にいた可能性である。

今日の厳罰化を強く求める世論において、度々誤解と偏見をもって持ち出されるのが刑法39条「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」

である。

責任能力を持たない者に対して罰しないことは近代刑法における常道とも言えるだが、残酷な結果に対するやり場のない報復感情や被害者、被害者家族への共感、全体的な重罰化の動きなどから度々議論の俎上に上がる。「知的障害者だからといって減刑されるのはおかしい」「弁護人は精神錯乱状態なら何をやっても許されると思っているのか」と人々は結果に対する不公平感を骨髄反射的に訴える。

精神鑑定ははたして刑事責任能力を問うべき事象なのかを先んじて見定める尺度にすぎない。古今東西を問わず動物を相手取った訴訟は行われているが、飼い主を振り落としてケガをさせた馬は傷害罪に問われるのか、赤ん坊を殺した野犬を絞首刑に処すべきか、と問われれば隔離や殺処分など対処する必要こそあれ、審理や刑罰には適さないように思われる。では6歳児が拳銃使用により人を射殺した場合、その責任は6歳児にあるといえるのか。10歳児ならば?

責任能力がないという限りにおいて刑事裁判では動物や子どもと同じく心神喪失心神耗弱者は許されるべき、保護されるべきと筆者は考える。無論慎重な精神鑑定は必要となるが、責任回避のために行われるものではない。たとえば飲酒運転や薬物濫用者による結果行為に対しては、自らの制御を行使しなかった「原因において自由な行為」として責任能力が争われる。

鑑定留置は、生物学的要素において犯行前の生活状態などから総合的に判定される刑事裁判にふさわしい事犯か否かの判定に過ぎない。本件で主犯とされたSさんについて刑事責任能力は認められているが、結果的には冤罪だった。刑法39条が存在しなければ、自己防衛や反証能力に乏しいSさんのごとき冤罪被害は飛躍的に増え、検挙率向上に一役買うことは容易に想像される。

冤罪事件の最大の不幸は、無実の市民や家族の人生が奪われ、その後も完全には払拭できない禍根を残すことにある。だがとりわけ殺人の公訴時効撤廃前のこうした事案では、真犯人が野放しにされることや、捜査機関に対する不信感を根付かせることも負の側面として大きい。

被害者のご冥福をお祈りいたします。

 

 

-----

参照

・辻脇葉子『山中事件-共犯者自白と自由心証主義-』

最高裁判例(昭和57(あ)223)・破棄差戻判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/260/050260_hanrei.pdf