いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

名張毒ぶどう酒事件

事件の発生

三重県名張市の葛尾公民館の会合で振るまわれたぶどう酒を口にした参加者たちが次々に異常を訴え、女性5人がその場で死亡、12人が重軽傷を負う惨事となった。

 

凶事は1961年(昭和36年)3月28日午後8時頃、生活改善クラブ「三奈(みな)の会」の年次総会後に開かれた懇親会の席で起こった。

「三奈」の名は隣接する三重県名張市葛尾と奈良県山辺山添村の会員で構成されたことに由来する。当時は若い世代の親睦や暮らしぶりを変えようという農村活動が各地で盛んに行われ、名張駅から車で20分余の彼の地も例外ではなかった。

総会には男性13人・女性20人が参加しており、懇親会では女性たちが支度した手料理のほか、男性向けに日本酒が、女性向けにぶどう酒が用意されていた。女性参加者のうち被害を免れた3人はぶどう酒の注がれた湯のみ茶碗にまだ口を付けていなかった。

ぶどう酒を口にした女性たちの顔色はみるみる青紫に変わり、目を剝き、歯を食いしばり、口や鼻から血を出す者もあり、楽しみにされていた親睦の宴は瞬時に惨憺たる地獄絵図と化した。

現場に駆け付けた警察は女性ばかりの被害者や状況確認から、ぶどう酒に何らかの毒物が混入されたものと判断する。

 

販売した林酒店で入荷した「三線ポートワイン1.8L」の内容物をすべて確認したが、毒物混入が認められるものは一本もなかった。同製品は広く市販されていたが同様の中毒被害は報告されていないことから、製造・流通の過程ではなく購入後に毒物の混入があったものと推測される。

その後、三重県衛生研究所、三重県警鑑識課による毒物検査、医師らの診断書、三重県医大の遺体解剖により、ぶどう酒に有機リン系テップ剤が入った農薬の混入が判明する。テップ剤は加水希釈した際の分解が速く、毒性が減衰して無毒化することから毒物指定されてはいなかった。その性質から宴会の時刻に近接した時間帯に混入されたものと考えられた。

 

逮捕

名張署はぶどう酒調達の経緯を確認し、購入を決めた三奈会会長の奥西樽雄氏(以下「会長」)、酒を買い付けて会長宅まで運んだ農協職員の石原利一氏、会長宅から公民館まで運び込んだ奥西勝(当時35歳。敬称略)の3人を重要参考人として監視を付け、連日事情聴取を続けた。

死亡者には、会長の妻フミ子さん(30歳)、奥西の妻チヱ子さん(34歳)、奥西と情交関係にあった北浦ヤス子さん(36歳)も含まれていた。

事件当日、石原氏は酒を購入した後、偶々通りがかった薪炭商の神田赳さんに声を掛けて荷物の輸送車に便乗させてもらい、2.6キロ離れた会長宅へと向かった。酒は車上から会長の妻フミ子さんに手渡され、玄関の土間に置かれた。会長宅の台所では料理の支度が行われて女性たちが出入りしており、終始監視下にあった訳ではないが視界に入る位置にあった。

午後5時20分頃、会長宅を訪れた奥西によって酒は公民館へと運ばれ、「囲炉裏の間」に置かれていた。5時半頃には会場準備で人が集まっていたにもかかわらず、毒を入れる犯行場面を目撃した者はなかった。総会は午後7時頃に始まり、話がまとまると8時頃から懇親会へと移行。囲炉裏の間は総会会場となった6畳二間をつなげた広間からも見渡せる位置にあり、その間、不審な行動をとる者は確認されていなかった。

警察はその日、集落に部外者の出入りがなかったことを確認し、住民による犯行と断定。犯人特定につながる証拠を探したが、毒物混入の目撃はなく、毒薬の容器などは発見されなかった。酒瓶の「蓋」がいくつか見つかりはしたが古いものが多く、該当の蓋ははっきりしなかった。

 

逮捕直後の記者会見

奥西は当初容疑を否認していたが、厳しい追及を受けて「妻がやったと思う」などと供述。事件から5日後の4月2日に「公民館で自分が農薬ニッカリンTを入れた」と自白するに至り、翌3日に逮捕された。

逮捕後、報道陣の前で会見が行われ、やつれた顔の奥西は「自分のちょっとした気持ちからこんな大きな事件に…亡くなられた人や入院されている方、また家族のみなさんに何とお詫び申し上げてよいか分かりません」と首を垂れた。

奥西は夫と死別して後家になったヤス子さんと1年半ほど不倫関係にあり、集落内では公然の事実とされていた。それが秋ごろ、妻チヱ子さんに発覚して険悪となり、双方から関係解消を迫られた上、村の女性たちからも非難されて三角関係をさっぱり清算したかった。自分に疑いが掛かりづらくする犯跡隠滅のためにあえて集会での集団毒殺に及んだ、というのが警察の見立てた動機であった。

 

100㏄入りニッカリンTは前年8月に黒田薬品商会で購入したもので、元々の瓶は近くを流れる名張川に遺棄したと供述。持ち運びには前日つくった手製の竹筒を用い、公民館で一人になった隙を見て混入した後、囲炉裏で竹筒を燃やしたと述べた。しかし名張川で薬瓶の捜索が行われたがガラスの一片も発見されず、竹筒を燃やしたとされる囲炉裏や捨て灰からも薬剤の化学反応は検出できなかった。

洗いざらい白状したかに思われた奥西だったが、起訴直前になって「強要誘導の取り調べを受け、嘘の自白調書をつくられてしまった」と否認に転じる。獄中手記によれば、取調官から「家族の者が村落民から迫害を受けて土下座、謝罪をさせられた」と聞かされ、「家族を救うためにはお前が早く自白することより他にないのだ」と詰め寄られた旨が綴られている。

村落でそうした家族への迫害が事実行われたものか、心的な揺さぶりをかけようと取調官が作話したものかは判断付きかねる。しかし身体的拘束下で事実を確認する術もないなかそのような話を聞かされては、たとえ真犯人でなくてももはや「自白」を選択する以外に道はなかったといえる。

 

見えざる力

逮捕前、奥西と同じく重要参考人とされた三奈の会会長も警察から「お前がぶどう酒購入を決めたんだろう」と厳しい追及を受けていた。

3月26日に役員が集まって2日後の総会に向けて打ち合わせが行われたが、会長はその場にいなかった。話し合いで、折詰の準備、菓子、男性会員向けの清酒2本の購入などが決められた。だが懇親会はここ3年ばかり前から始まったもので、女性用のぶどう酒を出すか否かは資金面の不安もあったため、その点は会長の裁量に託された。事件当日となる28日、会長は勤め先である農協から公民館へ支給される助成金があることを確認し、ぶどう酒の購入を決断。部下の石原氏に清酒2本とぶどう酒1本の買い付けを命じていた。

 

翌3月29日の取り調べで会長は、懇親会に移る支度の最中に妻がぶどう酒を持ってきて「栓が堅いから抜いて」と頼まれてコルク栓を手で抜いてやったと証言している。このとき包装紙や瓶の栓や王冠もついていなかったため、先に妻が自分で開けようとしたのではないかと述べていた。

だが不思議なことに事件直後、石原氏も「着席したときに(奥西の妻)チヱ子さんが栓を抜いてと言うので瓶の栓を噛んでテコの原理で傾けたところ簡単に抜けた」と証言しており、なぜか31日に至って「(会長の妻)フミ子さんの依頼だった」と訂正している。1本しかないはずのぶどう酒の蓋を、2人の男性に2度開けさせたのだろうか。

4月1日の取り調べで「このような事件を起こすような理由があると思われる人物」の心当たりを挙げさせられた会長が第一に挙げたのは妻フミ子さんの名前であった。妻と姑は長年折り合いが悪く、フミ子さんはなじられたり手を挙げられたりしたことがきっかけで精神的に不安定になり、宗教団体に通うようになっていた。義母は会合に参加する立場にはなかったが、家名を汚す当てつけによる復讐が目的とも考えられた。

第二に、酒が飲めない訳ではないのにその日に限って口を付けていなかった女性の名を挙げ、第三に、集落内で三角関係のあった奥西勝の名を挙げた。

奥西勝の方は疑わしい人物として自身の妻の名を挙げる前に、やはり会長の妻フミ子さんを挙げていた。以前には義母(会長の実母)と喧嘩したフミ子さんが奥西の家に飛び込んできて匿ってやったことがあった。また3月23日か24日頃、フミ子さんが姑と喧嘩して「川にハマるか薬でも飲むかして死んでしまいたい、と口にしていた」と妻から伝え聞かされたという。

疑問に思われるのは、なぜ会長も奥西も死ぬ可能性のない男たちではなく、命を落とした妻の名を挙げたのか。

少なくとも奥西は86年の第5次再審請求に至っても「今も、そういうことはちょっと頭から離れません」として妻チヱ子さんへの疑いを払拭できていなかった。亡くなった妻のエプロンに小瓶と栓抜きを発見したためだと証言したが、警察は亡くなった女性たちへの捜査を充分尽くしていたのか。チヱ子さんが喧嘩の際に本件のような犯行を仄めかしていたのか、奥西の供述には推測と曖昧な記憶が入り混じっておりはっきりしたことは分からない。

 

物的証拠がほとんど出ないことから、捜査の主眼は住民証言が大きなウェイトを占めることとなる。とりわけ重要となるのは被告人以外に犯行可能な人物がいたか否かである。そんななか事件直後と4月半ば以降で、複数の重要証言が不可解な変遷を示した。

酒を販売した副野清枝と店主林局子は、3月29日から4月16日まで複数回の聴取で石原氏への販売時刻を「午後2時半から3時頃」だとしていた。しかし4月19日に至るや二人とも口を揃えて、時計を見ておらず、時刻の目安となるバスの通過を見かけてもなく、曇天で時間の観念がなかったと言い出した。「4時を過ぎていたのではないかと言われれば、或いはそうではないかと思います。一番確実に言えることは昼ごはんと晩ごはんの間ということ」と不自然なほどに曖昧な証言に改めていた。

酒を買い届けた石原氏の言い分も、4月11日までの聞き取りでは「酒を届け渡したのは2時頃もしくは2時か3時頃」としていたものを、勘違いがあったとして、21日聴取に至るや届けたのは「午後4時半から5時」と、より時間帯を限定して遅い時刻にずらしている。

会長宅で酒を受け取ったのは、会長の亡き妻フミ子さんで、そばに会長の妹・稲盛民さんがいた。民さんは元々離れて暮らしていたが、出産を控えて義母・稲盛ゆうさんに送られてこの日会長宅を訪れていた。二人はゆうさんをバス停まで見送るため、午後4時から5時10分頃まで約1時間余は家を空けており、見送り先の三重交通上野営業所に対しても3人の行動確認が取られている。

つまり酒の受け取りは、フミ子さんたちが外出した午後4時より前か、見送りから戻った5時10分より後ということになるが、検察側は後者を採用し、会長宅に運ばれてからほとんど間を置かずに奥西が公民館へ運んだというスケジュールが組み立てられた。

 

住民たちの時刻に関する不自然な変遷には、会長宅から公民館に運ぶまでのタイムラグはほとんどなかった、奥西以外に犯行の機会がなかったことを示そうという「見えざる力」が住民たちに働いたとしか考えられない。それが捜査当局による誘導だったのか、あるいは奥西が犯人でなくてはならないと考える人物による圧力か、ともすればその両方だったのかは分からない。しかし住民証言の変遷の一致は単なる誤認や記憶違いではなく、何らかの意図によって誘導され、口裏を合わせているように思われた。

 

逮捕後間もない4月9日の奥西の調書を一部抜粋する。

被告人36・4・9司
問、あなたは、ぶどう酒にニッカリンの液を入れることを決意したのは何時ですか。
答、三月二八日午後五時週ぎ私方隣りの奥西楢雄さんの家に行った時、表出入口の入った直ぐ左側の小縁に酒二升とともにぶどう酒が置いてあり、今夜の総会に飲むぶどう酒であることを坂峰富子さんから聞かされた時でありました。(中略)私がニッカリンをぶどう酒に入れることを決意したのは先刻申しました通り楢雄さんの家に行って、今夜の総会に飲むぶどう酒であることを坂峰富子さんから聞いた時であります。時間は午後五時一〇分から二〇分までの間でありました。確かな時間は時計を見ておりませんので判りませんが、仕事を済まして家に帰ったのが午後四時四〇分頃でした。それから直ぐ、牛の運動をさせておりました。この時間が二〇分か二五分位であったと思います。それから直ぐ作業服を脱いでジャンパーに着替え、出て来たのでありますから、時間は、大体申し上げた時刻になると思います。それから酒とぶどう酒を持って寺(会場)に行き、直ぐ後から来た坂峰富子さんが机を並べて会場の準備をしてから出て行きましたので、そこで私が一人となったので、用意して来たニッカリンを竹筒からぶどう酒に入れたのですが、この時間が午後五時二〇分頃から三〇分頃までの問であったと思います。

前述のように、ぶどう酒の購入決定は、28日の午前中に会長が農協で予算の確認をするまで為されていなかった。にも拘らず、奥西の証言では、なぜかその機会を見越してニッカリンTを前夜に拵えた竹筒に入れて携えており、いつ会員が入ってくるかも分からない準備中の僅かな隙をついて混入したことになっている。

 

三角関係と事前準備

奥西はヤス子さんと前年秋頃からの情交関係を認めたが、はたして三人の関係は実際に人殺しへ、それも無関係な村の女性たちを巻き添えにしてまでも果たされねばならないようなところまで追いつめられていたものだったのか。

奥西は農業の傍ら、日銭を得るためにチヱ子さんと富士建設片平採石場で砕石仕事に従事していた。それも現場へはヤス子さんと三人一緒に通っており、仲間内の飲み会では奥西とヤス子さんが同じ酒を間接キスのように飲み継いだことからチヱ子さんが憤慨したこともあったという。村民たちは家族同然の身近な付き合いで、ヤス子さんとチヱ子さんも毎日のように顔を合わせており、あくまで仮定の話だが、いざとなれば互いに相手を殺害する機会はあったものと想像できる。

では警察・検察側の見立て通り、奥西が三角関係の清算をすると共に疑いの目を逸らすために周囲の女性たちをも手に掛けたというのだろうか。妻か愛人かいずれかを連れ立って村を離れるなど、いくらでも他に手立てがあったのではないか。

 

被害者のひとり福岡二三子さんは、事件前のチヱ子さんの様子について次のように供述している。

チヱ子さんは「うちの父ちゃんがストッキングとコンパクトを買って来てくれた。」と言っていました。それが三月一五日に勝さんら男の役員が名古屋に行ったのですが、そのみやげだったとの事でした。私は勝さんがチヱ子さんをいじめていると思っていたら三月頃にはチエ子さんにコンパクト等を買って来たというのですから勝さんもいいところがあるのだと思った。三月一七日に有馬温泉に行きましたがその途中チヱ子さんの話では小遣銭五〇〇円を勝さんがくれたとのことであり、「勝さんに何か買って帰らなければ」と言っており有馬で三〇〇円のタバコケースを買って帰えられました。こんな訳で先月頃はチエ子さんも勝さんとヤス子さんのことについては悩んでいた模様は見受けられません。

奥西は一方の北浦ヤス子さんにはこけし人形一個を名古屋土産として与えていた。3月18日頃にも名張市内の洋傘店で婦人用洋傘2本を購入し、チヱ子さんとヤス子さんにそれぞれ一本を与えている。10日後に惨劇を繰り広げる人物にしては悠長に過ぎ、追い詰められている様子は皆目見られないのである。白沢今朝造さんは、奥西がチヱ子さん、ヤス子さんらに「四月二日に赤目に一緒に行こう」と話していたことを証言している。

 

事件前夜に奥西は薬剤を持ち込むための竹筒を準備していたと自白している。

3月27日夜7時過ぎ、一回り以上年下の山田清・治兄弟が奥西家を訪れていた。父親が石切り場の石工をしていた縁から兄弟は奥西夫婦のことを兄貴・姉さんと呼んで慕い、普段から風呂を借りたりテレビを見させてもらいに遊びに来る親しい間柄であった。奥西が夕飯の最中に風呂を借り、その後も8時過ぎまでテレビを見ていたが、奥西の自白に兄弟が準備の妨げになった旨は出てこない。

自白では風呂場の焚口の前で立ったままで直径ニセンチ位、長さ六センチ位の竹筒中にニッカリンを移し入れたとなっている。地裁は自白にある同じ条件のもとでニッカリン一〇〇CC入り瓶から女竹筒に水を移し入れる実験を試みたが、焚口の前は暗く、手さぐりで移し入れはしたものの溢れ出てしまい、「竹筒の三分の二まで」で注入を止める加減をすることはできなかった。

しかし高裁は、被告は山田兄弟の来訪を別の日と勘違いしていた供述に着目し、来訪が準備作業に特段支障がなかったものと判断。また地裁に提出された検証では前提に誤りがあった、実際には電灯が点いており移し替え作業は不可能とはいえないとして、被告人に事前準備は可能だったと認定した。

 

逆転死刑

1964年12月23日、津地方裁判所・小川潤裁判長は、検察側の自白誘導があったと指摘し、自白と前後して住民側の証言する時刻が変遷しているのは不自然で捜査当局による示唆誘導があったと判断。「時刻の訂正は検察官の並々ならぬ努力の所産と容易に読み取ることができる」と厳しく非難し、奥西以外にも会長宅で毒物を入れることは不可能ではなかった、被告のみ犯行が可能だったとするのは誤りだとして、無罪判決を言い渡した。

 

「犯行間際」の目撃証言者となった坂峰富子さんは5時の時報を聞いてから会場準備のために会長宅へと向かった。だが会長宅から100メートル程手前の倉庫前で知人に呼び止められ、5時12~13分までその場にとどまっていた。石原氏が同乗させてもらった神田氏は酒を渡した直後にすぐ近くの家で荷降ろしをしたと証言しており、検察が主張するように5時10分頃に酒の受け渡しがあったとすれば、4人は重なり合うタイミングがあったはずだがそうした証言はしていない。地裁は検察側の「5時10分受け渡し」説を論理的に打破し、午後4時前に会長宅に運ばれたものとして他の人間にも混入可能であったことを証明した。

判決後、記者団から無実であれば逮捕後になぜあのような謝罪会見をしたのかと質問された奥西は「(事件を)やったやったと言われるけど事実ではないから自分としては(会見で)どう言えばいいやら分からんと言ったら、辻警部補が『こういうことを言え』と下書きをこしらえて半時間ぐらい“勉強”させられた。(逮捕会見で)言うたことは自分の意志ではないということです」と虚偽の謝罪であったことを明らかにした。

 

ところが1969年9月10日、名古屋高等裁判所・上田孝造裁判長は原判決を破棄し、死刑判決を下す。一審判決から一転して、自白強要を疑う理由が微塵もなく、住民証言における時刻の変遷をたどれば理路整然としていると判断する。

奥西が酒を携えて公民館へと向かう際、前述の坂峰富子さんが一足遅れでついていった。検察側は、4月7日の富子さんの検面調書にある、午後5時20分前後に「囲炉裏の間には奥西一人しかいなかった」ことを犯行機会の根拠とした。彼女が公民館と会長宅との往復に要した「空白の10分間」で奥西が毒物を混入した、それ以外に犯行可能なタイミングはなかったと主張していた。

坂峰富子36・4・7検

フミ子さんが「そこにある酒を持って行って」と言いましたので勝さんがそこに置いてあった酒二本ぶどう酒一本を三本とも自分一人でかかえて奥西さんの家を出て……私より二、三歩先きにさっさと行ってしまいました。……勝さんが二、三歩先きに奥西楢雄さんの家を出た時間は五時一五分頃だと思いますが私が勝さんにつづいて楢雄さんの家を出ましたら井岡百合子さんに会いました。……私が勝さんより四五秒くらい遅れて公民館についたことになる。

 奥西楢雄さんの家を出て(雑巾と竹柴を持って)公民館の方へ歩いてきました。ちょうど私が宮坂さんの家の前あたりまで来た時、石原房子さんが「遅うなってすみません」と肩越しに声をかけてきました。その時石原さんは「五時二〇分で二〇分超過やな」と言っていたので私はその会ったときに五時二〇分かと思いましたが後からよく石原さんに聞いてみますと自分の家で時計を見ていて五時二〇分になったから家を出てそこへやってきたということですから五時二五分から三〇分頃というのが本当の時間ではないかと思います。そしてそれから間もなく石原さんと一緒に公民館につきその中に入りますと勝一人が前と同じ場所にぶどう酒と酒の瓶を置いたまま自分も同じ場所にあぐらをかいたまま何もしないで囲炉裏のそばに坐っていました。

検察側が提示した数少ない物証のひとつとして火鉢から見つかった「四つ足替え栓」があったが、顕微鏡による形相鑑定によれば、栓の表面についた傷が自白を検証した際に奥西が歯でこじ開けた傷と一致すると認定された(松倉鑑定)。本来、歯の噛み痕による鑑定に個人特定の推認力は認められていない。そうした覆すことが難しい曖昧な証拠を捻り出すところにも捜査機関の拠り所のなさが表れている。

だが判決文では、同一視できる条痕が認められなかったからといって直ちに被告人の歯牙による痕跡ではないと断定するのは拙速などとして証拠性の否認を避けている。

 

1972年6月15日、最高裁判所・岩田誠裁判長は弁護側の上告を棄却。死刑判決が確定する。

その後、弁護費用を工面できなかった奥西は、拘置所から自力で四度の再審請求を行おうと試みるも再審理の要件となる新証拠が得られず、すべて却下された。

 

97年10月から日弁連の再審支援が決定し、改めて弁護団が立ち上げられた。第5次再審請求では弁護団が松倉鑑定に対して、そもそもの顕微鏡の倍率が異なる捏造写真を用いていることを明らかにし、傷を三次元解析した土生(はぶ)鑑定で両者の傷は全く一致していないとの分析結果を導き出した。

しかし最高裁・大野正男裁判長は「松倉鑑定は新証拠によってその証明力が減殺されたが、犯行の機会に関する状況証拠と信用性の高い自白を総合すれば、有罪認定に合理的な疑いが生ずる余地はない」として特別抗告を棄却する。

 

第6次再審請求審では、捜査を指揮した名張警察署長のノートを新証拠として提出。

事件当初、坂峰富子さんは新聞記者に対して別の証言を行っていた。ぶどう酒を横に置いた奥西は囲炉裏に火を点けて石原房子さんと話し出し、富子さんは会長宅に雑巾を取りに戻り、再び公民館へ戻ったときには他の女性たちも来ていたと記事にはある。

署長の遺した捜査ノートにも、事件3、4日後の富子さんの証言として「雑巾をもって会場に行ったら勝は房子さんといろりで向き合って坐っていた」と記事に合致する内容が記されている。すなわち彼女の証言も事件から日が経って「奥西だけが公民館に一人でいた」旨にすり替わったことを裏付けている。検察側が「空白の10分」の拠り所とした富子さんにも「見えざる力」が働いていたのである。奥西はそれまでの公判でも終始一貫して公民館で一人きりになったことはなかったと主張し続けていた。

房子さんはといえば、囲炉裏の間から玄関先、公民館の周囲を箒で掃いていたと言い、その間、奥西は囲炉裏番をしながら炭火を5、6個の火鉢に火分けしていたと言う。そのとき「わしは今日会長に立候補したからお前らにぶどう酒を奢ったんやで」と奥西が冗談めかしくぶどう酒の瓶を見せつけた旨を話している。これから毒物を混入しよう、目の前の女たちを殺してしまおうという人物が為せる業であろうか。

 

今日の裁判員裁判においては証拠開示の法整備が進んだが、再審請求審において証拠開示のルールはなく、検察側がどんな証拠を揃えているかは公開されていない。裁判所側は職権で証拠の開示を勧告することができるが、検察側には開示に応じる法的義務はない。証拠が開示されるか否かは、裁判所や検察側の裁量に任されているのが現状である。

 

現在地

事件から7回忌に当たる年、地区の共同墓地に犠牲者の慰霊塔が建立された。5人の名は刻まれず「不慮災厄五尊霊」と記されている。葛尾公民館は八柱神社の上にあったが、当時の建物は1987年に取り壊されて別の場所に移築され、旧公民館跡地はゲートボール場になった。

事件当時、110人だった葛尾地区の人口は、流出や後継者不足によって30名程にまで減少している。事件当事者もほとんどが亡くなり、検察側、裁判所側の「時間切れ」を画策するかのような持久戦は今日の「審理の迅速化」方針からすれば著しく逆行している。

 

2005年4月、第7次再審請求に対し、名古屋高裁・小出錞一裁判長により再審開始が決定された。

「悲願でした。本当にうれしいです。ここに来てから一番うれしい日です」「命の限り頑張ります」そのとき奥西勝、79歳。視力は衰え、開始決定の文書を自分で読むこともできなくなっていた。

弁護側は、生産中止により長年入手できなかった農薬「ニッカリンT」の現物をインターネットで募って入手することに成功し、赤色着色料が含まれていることを確認した。事件から40年以上が経っていたが、情報技術の進歩によって新たに「証拠」の尻尾を掴むことができたのである。

食事会で振舞われたぶどう酒は前年、前々年とも赤ぶどう酒であったが、事件で用いられたぶどう酒は白だった。「ニッカリンT」を入れれば異物混入は一目瞭然である。もし自白通りに奥西が犯行を企てていたとしても、白ぶどう酒の現物を前にすればさすがに思いとどまるに違いなかった。また当時の成分分析を再現した結果、実際に使用された農薬は「Sテップ」である可能性が高いと主張した。

しかし、検察側はこの決定に異議申し立てを行い、2006年12月、名古屋高裁・門野博裁判長は再審開始の原決定を取り消し。最高裁を行きつ戻りつした挙句、2013年10月、最高裁桜井龍子裁判長は弁護側の特別抗告を棄却。開かずの扉にようやく手が掛かったかに見えた第7次再審請求の棄却が確定した。

尚、再審開始決定を出した小出裁判長は2006年2月末で依願退職。取り消し決定を出した門野裁判長は東京高裁の裁判長に栄転している。裁判所という組織における再審開始のタブー、そのおぞましいヒエラルキーが垣間見える。

 

奥西は肺炎をこじらせて八王子医療刑務所に収容されていたが、2015年10月4日、89歳で息を引き取った。奥西の再審申し立ての意志は妹の岡美代子さんに引き継がれ、現在も再審開始と雪冤に向けた取り組みが続けられている。尚、産経新聞の2021年の記事によれば、再審請求の意志をもつ岡さん以外の親族はいないとされる。

第10次再審請求では、検察側証拠のひとつでぶどう酒の王冠を覆っていた「封緘紙」の再鑑定を行い、2020年10月、製造段階で用いられる業務用の糊とは異なる、市販の合成樹脂製の糊の成分があったとする新証拠を提出。真犯人が毒物混入後に貼り直して偽装工作した可能性が考えられ、公民館での奥西の実行は不可能だったという裏付けになる。

だが2022年3月、名古屋高裁・鹿野伸二裁判長は、封緘紙の再鑑定結果は「科学的根拠を有する合理的なものとは言えない」とし、「封緘紙が巻いてあった」としていた村人3人の供述調書を「一般的に関心を持って観察する対象ではない」として却下。再審開始を認めなかった。

 

筆者の真犯人に関する見解としては、毒物を以てして若い女性をまとめて手に掛けるという仕業からすれば、三奈の会に参加していなかった人物が会長宅で毒物を混入したものと考えている。男性であれば腕力を行使する可能性が高く、それも会員でないとすれば比較的高齢女性と見てよいのではないか。全員への殺意はなく、参加女性数名への害心から食中毒程度の騒ぎを狙ったつもりだったのかもしれない。なぜ狭い村社会で捜査の手が及ばなかったのかは諸兄の想像に頼るほかない。

 

ときに自白を偏重し、ときに供述調書を認めようとしない裁判官の自由心証主義は審理が長引けば長引くほどにその危うさを露呈している。自白の強要や証拠隠し、証拠捏造などもってのほかだが、一般の社会通念さえ認めない独特の倫理観、自らの襟を正そうとしない裁判所の姿勢はいつまで固持されるのか。今を生きる国民には事件の風化を阻止することと共に、冤罪被害者を速やかに救済する再審法の見直しが託されている。

 

犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

 

 

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/086/080086_hanrei.pdf

名古屋高等裁判所 昭和40年(う)78号 判決 - 大判例

日野町酒店経営女性強盗殺人事件・日野町事件

犯行の動機、目的がはっきりせず迷宮入りが危ぶまれた酒店店主殺しで、3年後、常連客のひとりが逮捕された。事件発生から38年、確定判決から28年が経過した現在も元受刑者の雪冤を果たすべく遺族による死後再審請求が続けられている。

 

事件の概要

1985年1月18日、滋賀県蒲生郡日野町の椿野台団地造成地の草むらで高齢女性の遺体が発見された。女性は前月の84年12月から行方が分からなくなっていた同町豊田の自宅兼店舗で「ホームラン酒店」を営んでいた池元はつさん(69歳)と判明。

はつさんは12月28日夜まで平常通り酒店を営業していたが、翌29日朝10時半には所在が分からなくなっており、親類や地区の隣組などで捜索活動を行っていた。自宅から発見場所まで約8キロ離れており、遺体には首をひもで絞められたような痕跡があった。

 

酒店では土間に椅子を並べて量り売りでコップ酒を販売提供していたことから、飲み屋のように通う常連の「壺入り客」も多く、28日は午後7時半の客が最後とみられた。店ははつさん一人で切り盛りしており、室内からは住居奥の10畳間の押し入れに保管されていたベージュ色の手提げ金庫が紛失していた。

 

滋賀医大・龍野嘉紹教授の解剖により、舌骨の骨折などから死因は手指による頸部圧迫に基づく窒息死とされた。近隣住民の証言や食後30分前後とみられる消化状態から、死亡時刻は28日夜8時40分頃と推定された。

 

85年4月28日になって日野町石原の山林で山菜採りに訪れた住民が破壊された手提げ金庫を発見。

警察は被害者宅から犯人が奪ったものとみて強盗殺人事件と断定し、店の内情に詳しい地元民や出入り関係者らを中心に捜査を進めたが、犯人に結び付く物証などの有力な手掛かりは見つからなかった。

 

県警の焦り

警察は是が非でも犯人検挙を果たさねばならない事情があった。

地元署では以前から頭部切断死体遺棄事件が未解決のままとなっていた。

更に、その当時はグリコ・森永事件が国民から大きな注目を集めており、とりわけ滋賀県警は世論だけでなく警察組織全体から批判の槍玉にあげられていた。

 

グリコ・森永事件は84~85年にかけて、江崎グリコ社長の誘拐や青酸入り菓子を撒くなどして大手食品メーカー各社を立て続けに脅迫した未解決事件である。

1984年11月、犯人グループはハウス食品に対して現金1億円の引き渡しを要求。14日夜に受け渡しが行われることとなり、大阪・京都府警の合同捜査本部は近郊に多数の捜査員を配備して警戒に当たらせ、グループの摘発を期して現場に来る実行犯への尾行・接触はしないよう厳命していた。

当初は現金引き渡し場所として京都市内のレストランを指定した犯人は指定場所を次々と変え、名神高速道路の滋賀県・大津サービスエリア、草津パーキングエリアへと現金輸送車を東進させた。その間も以前から犯人グループのひとりと目された「キツネ目の男」の目撃が付近から報告されていた。

捜査本部は滋賀県警にも共助要請したが、名神高速道路エリア内は大阪府警が担当すると指示があり、犯人への接触を禁じていた。犯人側は、草津PAから名古屋方面に向かい、「白い布」が見えたらその下の缶に入れた指示書に従うよう指示。草津PAから東方約5キロ地点の防護フェンスに布があったものの、缶や指示書は発見できず。名神高速と交差する県道を一時封鎖したが犯人の姿はなく、その日の合同捜査は打ち切られた。

一方、事件捜査を聞かされていなかった所轄の滋賀県警外勤署員が「白い布」地点に近い栗東町川辺の県道近くで無灯火の不審な白色のライトバンを確認。パトカーを横付けして職務質問のため署員が近寄ると、ライトバンは急発進して逃走。その後、乗り捨てられているのが発見され、無線傍受装置から犯人グループの車両と思われた。

犯人の取り逃しやその行動が捜査本部の作戦を台無しにしたなど滋賀県警に対する批判が起こり、当該の警官は辞職を余儀なくされた。犯人側から各社への脅迫はその後も続いたが、このときが犯行グループとの最大の接点とされた。

翌85年8月7日には滋賀県警本部長・山本昌二が退職の当日に公舎の庭で焼身自殺を遂げる。遺書はないが犯人取り逃がしの失態を苦にしたものと見られている。マスコミや国民による非難の声も大きかったが、立場上、警察組織内部からの責任追及も苛烈を極めたことと想像される。

8月12日、犯人側から「くいもんの会社 いびるの もお やめや」との声明文が送り付けられ、一連の事件は終息。「しが県警の 山もと 死によった しがには ナカマもアジトも あらへんのに あほやな」「たたきあげの 山もと 男らしうに 死によった さかいに わしら こおでん やることに した」というのが終結の理由として記されていた。

 

悪名を馳せることとなった滋賀県警としてはもはや失態は許されず、必ずや名誉を挽回せねばならない立場にあったが、本件でも早期決着とはいかず、事件1年後には地元紙に「迷宮入りか」の文字が躍ることとなる。

 

3年越しの逮捕

事件から3年余が過ぎた1988年3月、日野署は酒店の壺入り客のひとりだった阪原弘(ひろむ・当時53歳)への聴取を再開。取り調べ3日目に「酒代ほしさに殺した」と男は自白を開始し、3月12日、強盗殺人容疑で逮捕され、大津地検へ送検された。

 

阪原は85年9月17日の段階で任意聴取を受けていたが、本人は関与を全面否定、妻のつや子さんも「(夫は)事件当夜、知人宅に泊まりに行っていた」と供述。指紋採取やポリグラフ検査まで行われたが、そのときはシロと判断されていた。

この任意聴取も「失踪時の捜索活動や後の葬儀に出席していなかった」という論拠で嫌疑をかけられたもので、逆説的にそれだけ決め手に欠ける警察側の苦境をも意味した。被害者とは隣組も別であり、日頃から親しくしてはいたが周辺住民全員が捜し回ったり葬儀に参列していた訳でもなく、疑惑の根拠としては薄弱すぎるものであった。

だが86年3月に着任した捜査主任官は改めて阪原への身辺調査を進め、被害者の着衣から採取された微物と阪原の職場の作業服に付着していた鉄粒が一致するとの検査結果を得て、88年の本格的な取り調べに至った。

 

しかしそもそも「酒代ほしさ」という動機には矛盾があった。阪原家では子どもたちもすでに自立して夫婦も共働きに出ており、合わせて2千数百万円にもなる充分な蓄えがあった。事件当時は娘たちの結婚も間近に控え、家族は満ち足りた生活を送っていた。

否認を続けた阪原に対して、取調官3人は首根っこを掴んだり椅子ごと蹴り飛ばしたり、先のとがった鉛筆の束で頭を刺すといった暴行を繰り返し、家族への脅迫と取れる発言で精神的に追い詰めていった。否認しても取調官は納得しない、抵抗を続ければ罪が重くされるのではないか、と阪原は弱気になり、とうとう自分がやりましたと口にすると、3人はにやりと笑みをこぼしたという。

逮捕後、阪原の長女・美和子さんは自分はやっていない、お前達だけでも信じてほしいと嘆く父親に「やってもいないのにどうして自白なんかしたんよ」と叱責した。阪原は「お前たちのためなんや」「どんなに叩かれても蹴られても怒鳴られても我慢は出来た。でも刑事から『(娘の)嫁ぎ先に行ってガタガタにしたろうか』と言われて我慢できんかった」と涙ながらに語った。こどもたちは、お父さんは自分がどうなっても構わないと言うが「私たちが殺人犯の子や孫にされていいのか」と阪原の過ちを責め、そこで阪原も取り返しのつかないことをしたとようやく我に返った。

 

3月21日、金庫が発見された石原山での引当捜査が行われ、阪原は送電用の鉄塔から約50メートル離れた発見地点の傾斜地まで捜査員たちを案内した。29日の死体の見つかった宅地造成地での引当捜査でも現場へと先導し、後の公判では犯人しか知りえない「秘密の暴露」とみなされることとなった。

4月2日、強盗殺人罪で起訴。

 

無期懲役

1985年5月17日、大津地方裁判所で第一回公判が開始。

検察側は決定的な証拠はなかったものの、情況証拠を積み重ねて犯行を立証、弁護側は自白の信用性・任意性を争点とし、客観的事実との食い違いを追及し、その審理は7年半に及んだ。

被告人が全面的に否認した公訴事実は次のようなものである。

12月28日夜8時40分頃、店内の土間にいた被告人は、部屋続きの6畳間で帳面を付けていた被害者の右背後に回り込んで前後から両手で首を絞めつけて殺害。9時ごろ、死体を軽トラックの荷台に載せて運び、町内の宅地造成地に遺棄した。

再び店に戻ると金庫を奪い、ひと気のない山林でホイルレンチを用いて無理やりこじ開け、中にあった現金約5万円を奪ったというもの。

自宅兼店舗の略図。
犯人はなぜか10畳間押し入れの手提げ金庫だけを奪った

阪原の自白証言を見ていくと多くの矛盾があった。

使用された車両は2サイクルエンジンの軽トラックで、遺体を積む際に店の前の坂道をバックで上ってきたとされる。夜の閑静な住宅地ではそのエンジン音が大きく響き渡る。

まして向かいの住人女性は「事件当夜の8時過ぎ、被害者がだれかと話している声が聞こえた」と証言。相手の声は聞かれず電話か客人か、会話の全容などは分からなかったものの、周囲の静けさや家屋の遮音性が低かった状況を示す一方、異常な物音や悲鳴などは聞かれていなかった。同じ家に住む男性も軽トラの音は耳にしなかったという。

 

また酒店から遺棄現場までのルートも不可解なもので、犯行時刻でも車通りのある「日野ギンザ」と呼ばれる市街地を通過したとされている。軽トラックの荷台では腰ほどの高さしかなく、通りには街灯も多い。目隠しで覆わなければ通行人や後方車からでも目に付きやすく、バスなどが横切れば車内からでも丸見えの状態である。更には土地鑑のある者ならば避けるであろう警察署の目の前を通過するという道順を示していた。

 

奪ったとされるベージュ色の手提げ金庫は奥の10畳間の押し入れにあったもので、店の客がその所在を知っていたとは考えにくい。また店のレジ(現金約3000円)、店舗部分とつながる6畳間には売上げ管理用の緑色の手提げ金庫(現金約3000円)、東の6畳間には家具に模した据え置き型の金庫(現金約29万円)があったが、いずれも中の現金は手付かずのまま残されていた。据え置き型金庫にはカギを差したままの状態で、被害者が使ってそのままの状態にしていたものと思われる。

検察側は帳簿整理のためにベージュ色の手提げ金庫も6畳間に持ち出していたと推測したが、親族によれば被害者の亡き夫が収集していた古銭や記念硬貨などの遺品が入っていたと見られている。目の前のレジなどの金には手を付けず、東の6畳間の金庫には気づかないという不可解な物盗りで、酒代ほしさに売上金を狙ったという自白とは噛みあわない。

山で見つかったベージュ色の手提げ金庫には、上蓋に幅15ミリ、深さ2.5ミリの凹み傷が確認されていた。自白によれば、ホイルレンチを用いて上蓋部分を支点にてこの原理でカギを破壊してこじ開けたとされている。だが自白に基づく再現実験では取手部分が破損するだけで解錠させることはできなかった。何か別の器具を用いたとも考えられるが、そもそも犯人が付けた傷とも断定できない。

 

検察側は情況証拠として、酒店から直近の交差点で夜7時45分前後に被告人の歩く姿と駐車された軽トラックを見かけたとする目撃証言が提出された。この証言は事件発生の4か月後に出てきたものである。

だが別の女性は、上の目撃よりも犯行時刻に近い夜8時と8時半前後に同じ交差点を往復していたが、該当するような軽トラックは停車されていなかったと断言しており、そのことは事件直後から警察には何度も伝えていたという。

 

85年の任意聴取の際に採取されていた被告人の指紋と、被害者方の机の引き出しにあった丸鏡から検出した指紋が合致し、室内を物色した間接証拠とされた。だが常識的に考えれば、素手で犯行に及んでいれば机や扉、発見された金庫などいたるところから指紋が検出されるのが自然に思われる。室内を荒探ししたというより、以前に被害者の手鏡を借りた場面の方が納得しやすいのではないか。

アリバイ証言で宿泊先となったとされる知人、酒盛りに同席したとされる人たちは、警察の聴取に対してその場に被告人はいなかったと証言。被告人は虚偽のアリバイ証言をしたとみなされ、これは有罪の心証を深めることとなった。

 

さらに検察側は審理終盤の論告求刑の直前になって予備的訴因の追加を行い、犯行日時、殺害現場の範囲を拡大し、被害品を曖昧な内容へと変更した

殺害時刻を「午後8時40分頃」から「夜8時頃から翌朝8時半までの間」と半日以上もの幅をとって延長、殺害現場は「被害者宅の店舗6畳間」から「日野町およびその周辺地域」へと拡大した。盗品被害についても金庫から奪ったとされる「5万円」はなきものとされ、10円硬貨、5銭硬貨ほか16点(時価不詳)と2000円相当の手提げ金庫そのものが被害金額とされ、裁判所は刑事訴訟法312条に則って訴因変更を全て認めた。

第三百十二条 裁判所は、検察官の請求があるときは、公訴事実の同一性を害しない限度において、起訴状に記載された訴因又は罰条の追加、撤回又は変更を許さなければならない。

② 裁判所は、審理の経過に鑑み適当と認めるときは、訴因又は罰条を追加又は変更すべきことを命ずることができる。

③ 裁判所は、訴因又は罰条の追加、撤回又は変更があつたときは、速やかに追加、撤回又は変更された部分を被告人に通知しなければならない。

④ 裁判所は、訴因又は罰条の追加又は変更により被告人の防禦に実質的な不利益を生ずる虞があると認めるときは、被告人又は弁護人の請求により、決定で、被告人に充分な防禦の準備をさせるため必要な期間公判手続を停止しなければならない。

検察側は罪となる事実を立証しなくてはならず、証拠から特定された訴因が「公訴事実の同一性を害しない限度において」追加されることには問題はない。だが検察側が一方的に犯行可能性を抽象化することで、いつ・どこで為されたかも分からない事件裁判が罷り通ってよいものなのか。

結審後、担当陪席裁判官から弁護人に内緒で追加の指摘があったと報じられ、検察側は裁判所からの誘導の事実を認めている。それまでの訴因では自白の信用性が維持できないことを案じ、裁判官から対応策を授けたとみられている。その点でも「有罪ありきの審理」を急ぐ裁判所の姿勢が浮き彫りとなった。栃木県の今市事件・控訴審でみられた後出しの訴因変更とよく似通った手口である。

弁護側は、ひとつの裁判でふたつの訴訟を防御させられるに等しく、訴因変更が本来とは異なる検察側の「逃げ道」に用いられている現状がある。時代劇の悪代官と奉行所のごとき腐敗、検察と裁判所の構造的癒着など言語道断である。

阪原の次女・則子さんは、裁判官は父が無実と分かってくれるはずだと信じてきたが、訴因変更の誘導記事を見て、「(裁判所と検察は)グルなんやなって。こんなんで無罪なんかありえへんわなって」「真犯人を連れて行っても『それでも阪原広が犯人や』って言われるんじゃないかっていうくらいひどい判決」とその実態に失望したという。

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1995年6月30日、大津地裁(中川隆司裁判長)は無期懲役判決を下す。

微物鑑定の結果については犯人との結びつきは不明と判断するほかなく証拠価値はないとし、自白については事実認定ができるほど信用性が高いとは言えないと判断。

また発見された金庫が犯人の手でこじ開けられたとすると犯行前に施錠されたままだったということになる。出納管理などの際に6畳間に持ち出されていたとすれば開いていなければおかしいと疑問も呈している。しかし客観的事実との食い違いに気づきながらも、判決はホイルレンチでの破壊という検察側のストーリーを事実と認定。

「目撃情報」「丸鏡の指紋」「引当捜査での現場指示」「捜索活動や葬儀への不参加」「虚偽のアリバイ供述」といった情況証拠のみで被告人が犯人であることに矛盾はないと認定した。

 

二審・大阪高裁(田崎文夫裁判長)は、一審とは逆に、それぞれの情況証拠は被告人と犯行を結び付けるものではないと判断しながら、自白について一部疑問は残るが根幹部分は十分信用できるとした。アリバイの虚偽性などと併せて判断すればその犯人性は揺るがないとして、1997年5月30日、控訴を棄却。

2000年9月27日、最高裁判所第三小法廷は上告を棄却。

10月13日に弁護側の異議申し立てを棄却し、無期懲役が確定した。

 

受刑者となった阪原は翌2001年に剖検記録等の証拠保全を請求。自白の殺害方法と客観的事実が異なること、丸鏡の指紋、金庫の傷、遺体の手首結束などの鑑定、知人宅で寝込んでいたと証言する知人の証言テープなどを加えて新証拠とした再審請求を11月に行った。翌年には日弁連などの支援を得、阪原の家族らは地元で冤罪への理解を懸命に呼びかけている。

新証拠の中でもとりわけ殺害方法に関する鑑定は、自白供述の根幹部分の信頼を覆すものと期待されている。被害者の首にはひもで絞めた痕があり、顔と首に指でできたような痕が残されていた。当時の解剖所見では「扼殺」とされ、自白は右後方から両手で前後から挟み込むようにして絞めた後、念のために背後から紐でもう一度締め直したものとされていた。

だが大阪府監察医事務所・河野朗久医師は窒息にひもを用いた「絞殺」の可能性が高いと指摘し、輪っか状にしたひもを頭上から通して首元で締め上げたことが窺われ、指の跡は犯人が締め付けた痕ではなく被害者がひもを斥けようと抵抗してできた、いわゆる「吉川線」だという。

 

さらに証拠開示を追及した結果、警察から検察側へ送致した証拠目録一覧表を獲得。これはその後の開示請求に役立っただけでなく、速やかな公判前整理手続きを促す証拠一覧開示制度の法改正へとつながった。

刑訴法316条の14第2項

証人、鑑定人、通訳人又は翻訳人 その氏名及び住居を知る機会を与え、かつ、その者の供述録取書等のうち、その者が公判期日において供述すると思料する内容が明らかになるもの(当該供述録取書等が存在しないとき、又はこれを閲覧させることが相当でないと認めるときにあっては、その者が公判期日において供述すると思料する内容の要旨を記載した書面)を閲覧する機会(弁護人に対しては、閲覧し、かつ、謄写する機会)を与えること。

2006年3月27日、大津地裁(長井秀典裁判長)は阪原の再審請求を棄却した。

弁護側の主張する数々の自白の矛盾を認めながらも、犯行形態など客観的証拠との食いちがいは記憶違いに基づくものと説明可能とし、知人によるアリバイ証言についても事件発生から時間経過があるため信用性に疑問があるとして認めなかった。

徳島ラジオ商殺し事件で再審開始決定を出した元裁判官の秋山賢三弁護士は、脆弱な情況証拠、曖昧な自白であっても検察の言うことを想像力で補おうとする「疑わしきは検察官の利益に」という慣行が裁判所には蔓延っていると指摘する。

 

弁護団は大阪高裁に即時抗告したものの、その後、体調を崩した阪原は長期入院を要し、2011年3月18日に帰らぬ人となった。享年75歳。

「学もない、法も分からない自分がどうすればいいのか分かりません」

晩年、入院先で支援者が撮影したビデオ映像には、弱々しい老父がことばを絞り出している様子が見受けられる。お人よし過ぎる性格だったという阪原を、しっかり者の妻が支えていたと語られる。取調官らはそうした性格に付け込んだのか、彼は最期まで冤罪の理不尽に苦しみ続けた。

「生きて無実を晴らしてやれなかった、助けられなかった父に許してほしい」

翌年、遺族は阪原の遺志を継ぎ、被害者がコードレスフォンを用いていたとする新証拠を加えて、第2次再審請求を申し立てた。

弁護団は自白の突き崩しを狙って金庫遺棄現場での引当捜査で撮影された際のネガの公開を請求。確定判決では元受刑囚が自発的に案内した証拠として重視されていたが、現場に向かう阪原を正面から捉えた写真があり、弁護側はそれをもって阪原が先導していた訳ではないことの証拠としたい狙いがあった。だが改めてネガで確認してみると、帰り道の阪原の写真を証拠書類では先導して案内するものと紹介していた順序を入れ替える捏造が判明。

更に状況を確認すると、現場まで数十メートルまで車で近づける小径があったにもかかわらず、阪原は400メートル余り手前で車を離れ、獣道のような斜面を右往左往、登り下りしながら鉄塔までたどり着き、更に50メートル以上下った松の木の根元に遺棄したと説明したされる。殺害から時間も経った明け方近くとされているが、極寒の中、どうして金庫を捨てるためにそんな場所まで立ち入ったと言えるだろうか。鉄塔の目印や、腰ひもをもった捜査官の指示誘導などでの案内が疑われている。

この疑惑から弁護団、裁判所は更なる証拠開示を検察側に求めることとなった。

また2012年9月には弁護団が求めていた裁判官による非公式の現場視察が実現した。

2018年7月11日、大津地裁(今井輝幸裁判長)は再審開始を決定。

地裁は、事実認定の根幹とされたた自白における殺害様態、死体遺棄、金庫の強取、室内物色の重要部分で信用性を認めることはできず、客観的事実とのずれは記憶の欠落では説明がつかないと判断。取り調べにおいて強要があった可能性を認め、自白の任意性を否定した。引当捜査における捜査官による場所の誘導指示については認めなかったものの、無意識的な相互作用によって案内できた可能性があるとして有罪の根拠とするには合理的な疑いがあるとした。

17日、検察は再審開始決定に対して大阪高裁に即時抗告。

これに対し、開始決定を出した裁判官3人が大阪高裁に「看過できない重大な理解不足がほぼ全体にわたって随所に見受けられる」と検察を批判する意見書を提出していたことが京都新聞の取材で分かっている。検察への反論意見書は10ページにわたり、ここまで詳述したものは異例だと言う。

 

2023年2月27日、大阪高裁(石川恭司裁判長)は再審開始を認めた大津地裁の決定を支持し、検察側の即時抗告を棄却。

3月6日、検察側は最高裁への特別抗告を行う。再審開始の可否はいまだ決していない。

 

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所感

自白が再審の争点となるのは当然の流れだが、これだけ自白を否定する客観的事実が明らかになって尚、条件付きで「自白は信用できる」と言い張ってきた裁判所は時代錯誤の自白偏重へと陥っているかに思える。

また被害者の通話記録など警察から検察へも渡っていない元受刑者の無実を示しうる証拠も埋もれていることが考えられる。警察と検察の力関係によるものなのか、集められた証拠のすべてが全て裁判で俎上に上がるということはない。

無実の人でもだれでも構わないから「犯人」を挙げてくれと国民は考えていない。取り調べでの脅迫、証拠の隠蔽、捏造、どんな手を使ってでも厳刑を与えよという近世以前に逆行する国家に権力を仮託した覚えはない。捜査員も取調官も検察官、裁判官も人はだれしも過ちを犯す可能性がある。しかし国民は結託した冤罪を望んではおらず、公正な審理と真実の先にのみ真相解明を求めているのである。

過去の数多の冤罪からそのやりくちは大きく逸脱しておらず20世紀も21世紀の今日も同じような過ちが刑事司法では常態化している。冤罪を負け戦と捉えて反省をしようとしない、法や制度設計にフィードバックされていない現状を物語っている。そうした態度は冤罪犠牲者のみならず、事件被害者にも不誠実な態度だと私は思う。

 

被害者のご冥福をお祈りいたしますとともに、阪原さんの名誉回復の実現を願います。

 

 

参考

平成24年・大津地裁・再審開始決定

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/121/088121_hanrei.pdf

令和5年・大阪高裁・抗告棄却決定

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/004/092004_hanrei.pdf

吉展ちゃん事件

1963(昭和38)年に東京都台東区で起きた男児誘拐殺人事件について記す。
前の東京オリンピックの前年、人々にとって「人攫い」といえば労働力や売春に従事させる人身売買目的が主流だった時代に起きた「身代金」目的の犯行は、その社会的影響やその後も多くの模倣犯罪を生み出したことも含めて「昭和最大の誘拐事件」といわれる。

■ 事件の発生

3月31日の夕方過ぎ、東京都台東区入谷(現松が谷)で家のすぐ隣にある入谷南公園で遊んでいた男児の行方が分からなくなった。建築業を営む村越繁雄さんの長男・吉展ちゃん(4歳)である。当初、両親は迷子と考え、下谷北署に通報した。
周辺での聞き込み捜査により、男児は公園の洗面所近くで水鉄砲をして遊んでいたとされ、その後30代の男と会話していたとの目撃情報から、誘拐の可能性もあるとして捜査本部が設置された。

男児の行方不明から2日後の4月2日17時48分、村越さんが営む工務店の従業員が電話に応対すると、男の声で「身代金50万円」を準備するよう指示される。当時の大卒国家公務員の初任給が1万7100円、2021年現在は約13倍の22万5840円であるから、単純計算すれば現在の650万円相当の額と換算される。
警察は人命救助の観点から各機関に報道自粛を要請し、吉展ちゃん解放に向けた水面下でのやりとりが続けられた。プライバシー保護や被害拡大防止のための報道協定が結ばれたのはこの事件がはじめてである。

翌3日19時15分、「こどもは帰す、現金を用意しておくように」と電話が入る。当時、日本電信電話公社は「通信の守秘義務」を理由に、警察捜査にも発信局や回線特定の「逆探知」を認めていなかった。本件を契機として同年に「逆探知」が認められることとなる。
4日、22時18分の電話では親が男児の安否確認を求め、通話の引き延ばしによって犯人の音声を録音することに成功した。この録音についても警察ではなく被害者家族が機材を用意し、自主的に行っていたものである。
その後も具体的な身代金引き渡しのやりとりを進め、6日5時30分に「上野駅前の住友銀行脇の電話ボックスに現金を持ってこい、警察へは連絡するな」と指定。しかし犯人は警察の張り込みを警戒したのか姿を見せず、吉展ちゃんの母・豊子さんは「現金は持って帰ります、また連絡ください」と書置きを残して自宅へ戻る。

7日1時25分、犯人は豊子さんに「今すぐ一人で持ってこい」と改めて受け渡しが指示される。自宅から300m程の自動車販売店・品川自動車の脇に停めてある軽三輪自動車を指定される。
豊子さんはトヨエースに乗車して自宅を離れ、すぐに目印の男児の靴を見つけて、約束の50万円入り封筒を置いた。
だがこのとき母親の出発の伝達ができておらず、捜査員5人は遅れて家の裏口から迂回して徒歩で現場に向かったため現場到着が遅れた。その僅かな時間差を突いて犯人は封筒を奪取し逃走。捜査員のひとりは受け渡し場所へ向かう途中で現場方面から歩いてくる背広姿の男とすれ違っていたが、現場に向かうことに気が急いていて職務質問の機会さえ逃していた。
手許に男児の靴だけが戻り、以来犯人からの連絡は途絶えることとなる。男児の生命にかかわる事態をおそれて本物の紙幣が用意されていたが、「追跡」までは想定していなかったのか紙幣ナンバーは確認されていなかった。
13日には原文兵警視総監がマスコミを通じて「親に返してやってほしい」と異例の犯人への呼びかけを行ったが、反応は返ってこなかった。19日、公開捜査に踏み切ったものの1万件に及ぶ情報提供が寄せられ、却って有力情報の絞り込みや裏付け捜査に多大な時間を要することとなる。
25日、下谷北署捜査本部は「犯人の声」をラジオ、テレビを通じて全国に放送。この試みも本邦初とされ、人攫いをしたうえ金まで奪った凶悪犯の「声」は人々の大きな関心を集めた。公開から正午までに220件を超す情報が寄せられたという。

■影響

早期解決が叶わず公開捜査となったことで、生還を願う人々によって情報提供を求める街頭でのビラ配りなど吉展ちゃんを探す運動が全国に広まった。一方、各地で模倣した誘拐事件が頻発したこと等から警察のあり方、捜査手法や法律について再検討を望む世論が高まりを見せた。1963年5月には国会でも議論され、翌年刑法第225条の2として、身代金目的の略取・誘拐等「近親者その他略取され又は誘拐された者の安否を憂慮する者の憂慮に乗じてその財物を交付させる目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。」の項目が追加された。
65年3月には、ボニージャックス、ザ・ピーナッツフランク永井らが所属会社の垣根を越え、事件を主題にした楽曲「かえしておくれ今すぐに」をリリースするなど、社会的影響は甚大だった。

当時の情報募集のビラ

当時は営利目的の誘拐に関する捜査のノウハウが確立されていなかった。録音機材や逆探知が導入できていなかったこと、報道協定による周知の遅れ、身代金のナンバーが控えられていなかったこと等、現代ではありえないような失態が頻発していた。

音声公開された4月25日、偶々ラジオで「犯人の声」を耳にした日本語学者の金田一春彦(当時東京外国語大学教授)がそのアクセントについて、「青」や「3番目」といった言葉のアクセント、鼻濁音の使い方などから宮城・福島・山形の「奥州南部」または茨城・栃木の出身者ではないかと何気なくつぶやいた。NHKとつながりのあった妻珠江さんがその旨をNHKに連絡してマスコミが嗅ぎつけ、翌日の朝日新聞にその推察が取り上げられた。会話内容や口調から「教養の低い人と見られる」が「高圧的な言葉遣いをしている」と指摘し、犯人像として「戦前に軍隊に籍を持ち、下士官勤めをしていた人ではないか」と述べている。
またロシア文学アイヌ学、言語学に詳しい東北大学鬼春人教授は、1963年5月11日に河北新報に「吉展ちゃん事件、犯人の声を追う―言語基層学的研究から―」を寄稿、翌64年7月には中央公論に「吉展ちゃん事件を推理する」と題した論考を展開し、録音テープに残された「犯人の声」を手掛かりに、声紋や方言などから出生地や育ちを科学的に分析し、科学捜査の手法としての声紋鑑定導入を後押しした。そのなかで福島・栃木・茨城の県境にルーツがあるとの見解を示している(1965年2月に弘文堂から『吉展ちゃん事件の犯人その科学的推理』として刊行)。また脅迫電話の主を「40~55歳くらい」と分析した。

事件当時、日本の犯罪捜査分野では声紋鑑定が導入されておらず、犯人の「声」を重視するまでに大きな後れを取った。捜査担当者は事件発生から2カ月半経った6月下旬になって科警研にテープを持ち込み、物理研究室技官鈴木隆雄氏が音声鑑定を担当することとなった。しかし音声の音響的特徴(フォルマント、ピッチ、波形)を抽出するソナグラフといった分析機器もなく、鑑定は東京外国語大学で音声学を専門とする秋山和儀教授に依頼された(科警研がソナグラフを導入し、音声鑑定の研究を開始したのは64年以降である)。

65年3月、警視庁は捜査本部を解散し、専従による特捜班を設置。暗礁に乗り上げた捜査状況を一新して見直す目論見から、昭和を代表する叩き上げの敏腕刑事として名高い平塚八兵衛氏も特捜班に名を連ねた。

■足の悪い男

小原保は福島県石川郡石川町の貧農に生まれ、11人きょうだいの10番目の子どもとして生まれた。小学4年生の頃、骨髄炎を悪化させて右足を悪くした。2度の手術と歩行訓練の甲斐あって杖なしで歩けるまでにはなったが、見た目にも湾曲して引きずるようになり、学業にも大きな後れをきたした。周囲からいじめを受け、劣等感や生活苦が発育を歪ませたのか、小学生にして盗癖が身についてしまう。
親は脚が不自由な保に手に職を付けさせようと、14歳で時計職人の許に弟子入りさせた。しかし職人の一家が疫痢にかかったため実家に戻る羽目となる。仙台の障害者職業訓練所で改めて時計修理工の課程を修了し、市内の時計店で勤めを始めたが、今度は自らが肋膜炎を患ったため再び帰省を余儀なくされた。20歳のときデパートの時計部の職にありつき2年程勤めたが、同僚女性に脚のことをからかわれて逆上し離職してしまう。
就職と失業を繰り返す流浪を続けて借金はかさみ、窃盗や横領の前科を重ねるようになった。その後、東京へと流れ着き、荒川区で小料理屋の女将と懇ろとなり同棲生活を送った。女性は10才ほど年の離れた身寄りのない元芸者だった。行き場のない足の悪い男が不憫に思われたのかもしれない。
誘拐事件発生後の1963年8月、小原は賽銭泥棒で懲役1年6か月の執行猶予付き判決を受け、同棲相手と別れた後、12月に工事現場から盗んだカメラを質入れしたことが発覚して再び逮捕。翌64年4月に懲役2年が確定し、前橋刑務所に服役した。

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誘拐事件当時、20万円程の借金があったことや脅迫電話の声質と似ていたこと等から小原は捜査リストに挙がっていた。当初の通報をしたのは4月25日に放送で「犯人の声」を聞いた小原の弟からだった。
しかし小原本人は取り調べに対して、事件発生当時の3月27日から4月3日にかけて福島県金策のために出向いていたと供述し、郷里でもそれらしい目撃証言が複数あったことからアリバイとして認められた。
小原は女に出処不明の金を預けていたが身代金の金額とは合わず、嘘発見器の判定はシロ、また不自由な脚で速やかに逃走できたのかもあやしく、脅迫電話の「声」が40~55歳代と推定された年齢に一致しないこと等から一度はシロと判断された。
だが先述の秋山鑑定では従来とは異なる「30歳前後」と推定され、事件直後の5月に文化放送記者伊藤登によるインタビュー取材で得られていた小原の録音テープと照合した結果、「よく似ている」と指摘された。

■アリバイ崩し

特捜班は改めて元時計修理工小原保を取り調べるため東京拘置所に移管させた。
小原は元同棲相手の女性に20万円を渡しており、その出処について「時計の密輸」を持ちかけてきたブローカーから横領した金だと供述した。しかし実弟から(小原が女性に金を渡した後の時期に)30万円近くの大金を所持しているのを見たとの情報が入っており、裏付け捜査の結果、身代金を奪われた7日以降の一週間で小原は計42万円近くの支出が確認される。
また確かに足に障害は残っているものの、堀を飛び越えるなどある程度は俊敏な挙動が可能だったとする情報も得られ、逃げ切ることは可能だったとみなされた。
しかし小原は横領元のブローカーの素性については黙秘しており、4月に得た大金と誘拐事件との関連を否認したまま勾留期限を迎え、身柄は前橋へと戻された。

事件当時福島にいたとするアリバイについて、事件当日となる3月31日の目撃証言をしていたのは雑貨商の老婆だった。老婆が30日に親戚男性から「藁ボッチ(作物や樹木の防寒に被せる藁)で野宿していた男を追い払った」と聞かされており、「その翌日」に足の不自由な男が橋を渡る姿を目撃していたため、これが小原であろうとされた。だが裏付けを進めていくと、親戚男性は男を追い払った後、駐在に不審者として報告し、その日の夕方に藁ボッチを片付けていた。改めて駐在の記録を遡ってみると通報は29日のことと判明する。これにより老婆が足の不自由な男を目撃したのは「その翌日」の30日だったと確認された。
脅迫電話のあった「4月2日」の目撃証言は、前述の親戚男性の母親で「孫の通院」の際に小原を見掛けたというものであった。しかし改めて確認してみると、孫には3月28日と4月2日の受診履歴があった。目撃したときの通院理由は「草餅の食べ過ぎ」による腹痛で、よくよく確認してみれば餅は旧暦の「上巳の節供」に供されたものと判明する。その年の上巳の節供は3月27日に当たり、病院で目撃したのは4月2日の受診日ではなく「3月28日」の出来事だったのである。
また29日の行動について、小原は実家へ赴いたが長らく会っていない気まずさから対面が憚られ、土蔵の落とし鍵を開けて忍び込み、掛けてあったコメの凍み餅(しみもち、東北や信州に伝わる保存食。紐で固定した餅を水に浸し、軒先などに吊るして干す。水で戻して調理する)を食べて一夜を明かしたと供述していた。しかし土蔵は改修されてかつての落とし鍵ではなく南京錠に換えられており、その年は不作によりコメの凍み餅をつくっていなかった。小原のアリバイ供述は虚偽と判明したのである。

1965年7月3日、最終手段としてFBIへの声紋鑑定を依頼するため、音声採取の目的で捜査班は小原を取調室に呼び出した。具体的な取調べを進めることは許可されておらず、雑談だけと指示されていた。しかし平塚らは福島での裏付け捜査によりアリバイが崩れていると小原に告げて、揺さぶりをかける。小原はそれにも動じない。
話しを変えざるを得なかった平塚刑事が雑談をする中で、不意に火事の話題となった。小原は「山手線か何かの電車から日暮里町の大火災を目撃した」と口にしたのである。
日暮里大火は4月2日14時56分頃、寝具製造会社で発生した火災が折からの強風によって煽られ、周辺倉庫や1000トン以上の特殊可燃物が集積されたゴム工場に飛び火し、日中で避難がしやすかったことから死者こそなかったものの7時間にわたって燃え続け、36棟、5098平米を焼失した大災害である。
「福島にいたやつがどうして日暮里の火事が見えるんだ」
大火は最初の脅迫電話と同日に起きており、「4月3日まで福島にいた」とする自らの供述と矛盾することになる。墓穴を掘った小原は追い詰められ、4月に得た大金が身代金だったことを認める供述へと転んでいった。
7月4日、身柄を警視庁に移され、誘拐・恐喝の容疑で逮捕。全面自供をはじめ、5日未明、供述通り、荒川区南千住の円通寺墓地から男児の遺体が発見された。「何でもいいから生きていてほしかった」と泣き伏す母豊子さんの姿が伝えられ、国民は哀悼に暮れた。
都監察医だった上野正彦氏は、その口元に2年で発芽するネズミモチが生え出ているのを見つけ、土中に2年間もの長きにわたって埋められていた事実を改めて感じ入り冥福を祈ったと語っている。その後、境内には被害者供養のため「よしのぶ地蔵」が建立された。

■結末

小原は営利誘拐、恐喝に加え、殺人、死体遺棄で起訴され、1966年3月17日に東京地裁で死刑判決を受けた。弁護側は、小原は失踪を報じた翌日の新聞で吉展ちゃんだと知り、身代金の要求を思いついたくらいで、誘拐に計画性はなかったとして控訴。同年9月、東京高裁は控訴棄却。67年10月、最高裁は上告棄却を決定し、死刑が確定する。

67年春、小原は上告審の担当弁護人を解任し、急遽別の国選弁護人が求められていた。受任した白石正明弁護士によれば、金に困って重大な事件を起こしたが、小原はおとなしい人物だったという。福島県会津疎開した経験や当時よく山登りをしていた話をすると、男は心を開いたようだったと語る。弁護士3年目の若手で、被告人と比較的年が近かったことも影響していたのかもしれない。

そして一審、二審で認めていた殺害に関する自白について、「殺害するため墓地へ連れて行き、首を蛇側のバンドで占めたうえ、両手でもう一度絞めて窒息死させた」というのは事実ではなく、「誘拐後に墓地で休んでいたらアベックがやってきたため、男児に騒がれては困ると手で口を塞いでいたところ、気付いたら亡くなっていた」と話し、殺意を否定したという。
事実であれば、殺人ではなく、量刑に死刑のない傷害致死罪にあたる。
また「足に障害があっても俊敏に動けた」とする逃走についても否定し、盗んだ「自転車」で素早く持ち去ったと弁護士に明かした。

村越様、ゆるしてください。わしが保を産んだ母親でごぜえます。
…保が犯人だというニュースを聞いて、吉展ちゃんのお母さんやお父さんにお詫びに行こうと思ったけれど、あまりの非道に足がすくんでだめです。ただただ針のむしろに座っている気持ちです。

…保よ、だいそれた罪を犯してくれたなあ。

わしは吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、おまえをかわいがっていたつもりだ。おまえはそれを考えたことはなかったのか。

保よ、おまえは地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから。それで、わしも村越様と世間の人にお詫びをする…。どうか皆様、ゆるしてくださいとは言いません。ただこのお詫びを聞き届けてくださいまし。

保の母トヨによる手記である。どれほど鬼畜の所業を犯した罪人であれ、母親は深い愛をもって育て、離れていても子の罪を我がことと同じように責任を受け入れる心づもりが感じられる。母の言葉で小原の罪が洗われるわけではないが、胸が締め付けられる。親の愛情の欠乏やひどくすれば虐待を受けて精魂歪む凶悪犯ならいざ知らず、なぜこの母にして小原のような冷血漢が育ってしまったのかと彼女の不幸に同情したくなる。


死刑確定後、教誨師は小原の心の支えに短歌を勧め、福島誠一名義で投稿活動に励んだ。
1971年12月22日、前日にその執行を知らされた死刑囚は辞世の句を編んだ。

明日の死を前にひたすら打ちつづく鼓動を指に聴きつつ眠る


津田塾女装替え玉受験事件

津田塾は日本初の女子留学生・津田梅子が1900年に麹町で開いた女子英学塾を前身とする名門私立女子大学である。

幼くして米国の価値観の中で育ち、フィラデルフィアにあるブリンマー大学で生物学の功績を修めた梅子は、帰国後、日本の女子教育のあり方に疑問を強めた。明治の女子教育といえば、高貴な華族子女を対象とし、イエ制度の影響の強い家政学が主であり、男子が修める高等教育とは質の異なるものだった。

梅子は婦女子も同等の高等学問を積んで力を発揮し、男子と切磋琢磨し合うことこそ自立への道につながるとの信念を掲げ、華族・平民の別なき新たな女子教育を推進した。

 

1970年代半ば、国は高度経済成長をひた走りながらも富の分配は追いついておらず、都市ではライフスタイルの転換は起きていたが、庶民の暮らし全体として見れば大きく好転してはいなかった。

団塊世代流入や女子進学率の向上もあり進学希望者は増加していたが、裕福とはいえない家庭では断念する者が多かった。大学進学率はおよそ2割、受験競争は過酷を極めていた。一方で詰め込み教育への批判も高まり、日本教職組合は学校週5日制(週休2日制)導入を提起し、教育政策の見直しを求めたのも同時期(1972年)のことである。

その当時、津田塾は「女子の東大」とも称され、私学でも早稲田・慶應に並ぶ高い人気を誇り、優秀な女子たちが入学試験でしのぎを削った。

 

事件の発生

1975年(昭和50年)2月14日、東京都小平市に拠点を置く津田塾大学であってはならない事件が発覚する。

 

13日の入学試験終了後のこと、受験生のひとりから大学の試験官に申告があった。

あの人、男の人ではないかしら

見れば、白いタートルネックのセーターに赤茶色のパンタロン、縞柄の七分コート、身の丈165センチほどのその受験生は周りの18、19歳の女子たちに比べて大層老け込んでおり、強い違和感があった。

試験官が近づいて横目に見ると、手は妙に骨ばって、顔にひげ剃り跡のようなものもあった。

だが受験票の証明写真はその受験生の顔立ちと同一であることから、大学当局としても対応は慎重にならざるをえない。

調べてみれば出身は東海地方の名門高校。不審に思った大学側は連絡を取ってみたが、高校の教頭は「受験勉強の疲れが出ているのではないか」などと首をかしげるばかりで電話では埒が明かない。

出願状況を確認してみると、その受験生は翌日の別学科の試験も受けることが分かった。

14日、大学職員が件の受験生と同じ高校出身の受験者2人をつかまえて受験写真を見せると、2人は名前の学生と写真の人は“絶対に別人”だと断言する。

試験終了後、“別人”とされた受験者は会場に居残るように指示された。

職員が「あなたは〇〇さんですか」と尋ねると、受験者は「ハイ、そうです」と女っぽい裏声で答えた。

続いて生年月日を問われると、あっさり観念し、別人による“替え玉”で受験したことを白状した。

「一体あなたはどなたなんですか」

父親です

女装男は取り乱した様子もなく「なにとぞご内聞に」と平身低頭、替え玉行為を謝罪したという。

彼はまもなく50歳になろうかという年齢で、当時は娘の通う高校の英語教師をしていたが、事件発覚により勤め先に辞表を提出。娘は卒業保留となった。当の試験の方は、合格水準以上の出来栄えだったとされるが、もちろん違反行為により失格である。

 

3人の娘をもつ作家の井上ひさし氏は替え玉事件の話を聞いて「すばらしい話です」「涙なくしては聞けない心温まる話」と絶賛。推理作家・小林久三氏は「異様だとは思いません」「切実感がありますねえ。自分が代わりに受けられたら、ってだれでも一度は思いますからね」と父親の行動に理解を示した。

「父親必読」「女装替え玉受験に見る悲しき父性愛の訴えるもの」と冠して、週刊朝日では両人へのインタビュー等と共に、我が子のためを思って身を挺した父親をだれも笑うことはできないとの論調で誌面を展開。世の父親たちの共感を呼んだ。

 

疑問

『戦後ニッポン犯罪史』を著した在野史家・礫川全次氏は、古来から好まれる女装文化に触れ、この替え玉受験をした「父親は女装という手段を思いつき、実行した。娘を含め、家族もそれを知っていてあえて制止しなかったのである」と記述している。

筆者は週刊朝日記事しか確認できてないが、家族が父親の女装替え玉受験を知っていたとの内容は出てこない。

礫川氏の持論としてそう記したのか、家族との合意形成があった根拠となる情報が他で報道されていたのか、不見識ゆえ分からない。

 

娘は校内でも成績はトップクラスで、実力的に「間違いなく合格できたはず」と評価されており、父親による替え玉受験という無謀に関係者は首をひねったとされる。

もちろん教員という立場からも父親の主導と思われ、本人が実行した訳だが、はたして妻や娘らは共犯関係だったのかというと筆者は疑問に思う。

 

成城大・石川弘義助教授(社会心理学)は替え玉受験した父親について、子の心配で居ても立っても居られなくなる親心には一定の理解を示したうえで、「しかし、これ、本当は女親の心理ですね」と指摘する。

「仮にこの替え玉作戦が成功しても、父の権威を確立するわけにはいかなかったでしょう。母親が二人できたようなものでね。だから単純な『娘かわいや』ではないかもしれません。擬似近親相姦というか、ほら、嫁に行く娘を殺してしまう。あんな感じ…」

 

フロイトエディプス・コンプレックス概念では、男児は父親に対して潜在的な敵意「父親を殺して母親を独占したい」という願望をもつとされる。それゆえ父親が息子に示す愛情は、息子が社会的にもつ意味により、父親はその自己中心的な期待を満たすかぎりにおいて息子を愛するという条件付きの愛情だと理解される。裏を返せば、息子の出来が悪ければ我が子と認められないのが父親なのだ。それに対して母性愛は生物学的必然として我が子に対して無条件に捧げられると解されている。

つまり石川助教授は、父親がその枠組みを超えて娘への無条件の愛を発露させて、女装替え玉受験した、だから家父長制として見ればNGだよね、という見方である。社会評論としては現象に対するひとつの見解として誤りではないように思えるが、はたしてそれが真実だろうか。

続く「擬似近親相姦」「嫁に行く娘を殺してしまう」の意味するところも、おそらくはクリアするであろう名門大学受験によって娘に「父親殺し」が為されることを恐怖し、自立させずにおくためにその可能性を排除することを意味している。父親が娘の替え玉となることで、彼女の自立を妨げたという結果につながる。

 

事件からおよそ半世紀が経とうとしている。

今日ではテレビを点ければ、LGBTQを自認する人々や異性装愛好者らを見ない日はない。1975年であれば十把一絡げにオカマだオトコオンナだと揶揄されたであろう。非当事者における好き嫌いの程度や支持不支持について宗教・政治上の立場の違いこそあれ、そうした自認、志向、表現をもつ人々の存在や男/女の二極で割り切ることのできない性的グラデーションについては理解が進んできている。

2023年7月に起きた北海道ススキノ首切り事件では、被害者男性が女装愛好家だったことでも大きな注目を集めた。男性は妻帯者で、普段は周りの同僚たちと同じく男性装で勤務しながら、週末になると女装姿でクラブやバーに足を運んで夜な夜なガールハントに精を出し、旅先では出会った人々に女装を勧めていたと報じられている。家族がどう感じていたのかは不明だが、彼個人としては男性として生活しながら女装趣味と奔放な異性愛を両立していた訳だ。

 

検討

家父長制も形骸化し、そうした新たな人間観や家族観が次々と再発見されていく中で、本事件について見直しを試みたい。

父親は「子殺し」をしたかったのではなく、別の自分を生きようとしていたのではないかという検討である。

 

父親は海軍経理学校の出身で、おそらくは18、19歳頃の在学中に終戦を迎えた。

経理学校は兵学校や機関学校より少数で、大戦中は採用数も増加したが海経36期(1943年12月入校)は約250名、海経37期(1944年10月入校)は約500名とされる。全国の旧制中学から集められた英才たちは海軍生徒として少尉候補生へと養成された。

彼も秀才だったにちがいないが、海軍出仕の道は断たれ、戦後に通信教育で教諭資格を取得した。経済事情や生家の家庭状況などは分からないが、子どもの頃から「御国のため」と日々学問に勤しみながら、はたしてその夢は叶わぬものとなった。少年時代の同窓には戦場に散った者もあったはずであり、戦地にも行かず生き延びたことで「エリート」としてある種の恥辱や挫折を味わった世代、戦争が生み落とした苦学生とも言えるだろう。

       ( --以下、筆者の妄想となる-- )

教諭という安定した職にありつき、家庭を築いて子どもも育った。受験戦争や高校紛争といった騒動に繰り返し頭を抱えながらも、そうではなかったはずの自分がいつも心の何処かに棲みついて彼のアイデンティティを蝕んだ。

時代は変わったと自分に言い聞かせ、生徒たちの進路を後押ししてやるのが教師の務め、娘にも英才教育して大学まで面倒を見るのが親の務めだと信じてきた。

(しかし、俺はどうだ。)

娘の自立を前に、ふと立ち止まって考えたとき父親は娘に憧れ、激しく嫉妬していることに気づいた。

自分も女であれば、こんな苦悩に煩わされることなく仕事や結婚を受け入れること、人生を正面から受けとめることができたのかもしれない。

 

津田塾に実力で合格できるほど成績優秀な娘であれば、第一志望は国立大だった可能性も充分ある。父親が娘や高校の正規ルートを介さず、教諭の立場を利用して秘密裡に津田塾への入試を企てた可能性はなかったのだろうか。

他の共学の難関私大ではなく、彼が選んだのは名門女子大への替え玉受験だった。

それは単なるリスクや一か八かの賭けではなく、むしろ彼にとって転生するために必要な通過儀礼だったのではないかと思えてならない。

父親は娘のために無謀なトライアルに臨んだのではなく、彼自身のための、過去の自分との訣別を意図していたというのが筆者の推論である。

 

増山ひとみさん行方不明事件

福島県原町市(現・南相馬市)で発生した成人女性の行方不明事案。女性は三週間後に結婚式を控えており、いわゆる寿退社で仕事を辞めた帰り道で忽然とその消息を絶った。

www.police.pref.fukushima.jp

後にテレビの公開捜査番組などでも取り上げられ、自宅に「おねえちゃんだよ」の怪電話があったことでも広く知られており、電話の主と事件の関係などを巡って様々な議論が為されている。

 

心当たりのある方は以下に情報提供をお願いします。

福島県南相馬警察署:0244-22-2191
メールアドレス:joho@police.pref.fukushima.jp

 

消えた花嫁

1994年(平成6年)2月19日(土)、福島県原町市の増山ひとみさんは結婚式を3週間後に控え、勤め先の歯科医院をこの日で退職する。

午後は休診だったため、午前中いっぱいで勤務を終え、同僚たちからの祝福と見送りを受けた。院長夫妻から祝いの花束を手渡されるなどして13時頃にその場を後にした。

 

この日、ひとみさんにはいくつものスケジュールが重なっていた。

入院中の祖父の着替えを預けるために退社後に病院に寄るように頼まれており、そのあと原ノ町駅近くで婚約者の家族が営む食堂を手伝いに行き、夜には友人と食事をする約束もあった。

婚約者も病院に寄った後で手伝いに行くと聞かされていたが、予定時刻になってもひとみさんが現れないため、彼女の実家に連絡を入れている。

ひとみさんの親は、祖父の入院している病院に確認したが、その日は見舞いに訪れていなかった。不審に思い、勤務先や知人などへも連絡を取ったが、退勤して以降の足取りは分からなかった。

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原町市は県東「浜通り」の北に位置する相双地域で現在の南相馬市。[福島県HPより]

20日朝、歯科医院の同僚からひとみさんの両親に、彼女の車が昨日から置きっぱなしになっていると連絡が入る。

この同僚は19日の終業後、ひとみさんより少し先に歯科医院を後にし、13時30分頃、弟のバイトの送迎で国道6号沿いのガソリンスタンドを訪れていた。その際、隣の駐車場の敷地に見覚えのあるひとみさんの軽自動車、黒色のスズキ・アルトワークスを目撃する。

歯科医院から車の停められていた駐車場までは約1キロと近場であり、車を見掛けただけなのでそのときは何も不審に思わなかった。

 

車両が発見された駐車場は、コンビニ、弁当屋、三階建ての貸ビルの共用となっていて比較的広いつくり。車両は店舗裏にあり、大通りから見える位置ではないものの、決してひと気のない場所や人目につきづらい環境ではなかった。昼時を過ぎてはいたが弁当屋やコンビニ利用者の出入りも少なくないはずだが、ひとみさんの目撃はなかった。

施錠された車内には、上着のダウンジャケット、財布等が入ったままのショルダーバッグ、歯科医夫妻からお祝いに持たされた花束がそのまま残されていた。バッグには夜に会う友人に見せるつもりだったのか、箱入りの婚約指輪まで入っていた。

買い物、ましてや家出であれば当然財布は持っていくに越したことはない。その日の最高気温は12度近くで温暖な日中とはいえ、移動であれば上着を持って出ると考えられた。何より大切な婚約指輪を車内に長時間置き去りにすることも考えづらい。自身が持ち出したのか第三者が盗んだものか、車のキーは発見されていない。

自発的に姿をくらませるのであれば、ある程度は車で移動すると考えられるが、車の発見場所は自宅と勤務先の中間地点、車で5分の生活圏で、駅からもやや距離がある。単なる家出でないことは明らかだった。

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黄色家マークが「自宅」、緑色Pが車両発見現場、青色歯マークが歯科医院。
赤色マークが飲食店。〔google map〕

両親は20日午後、原町警察署に捜索願を提出。成人の失踪の多くは「自発的な家出」の可能性が高いとして警察はすぐに取り合わないケースが多い。だが上述のような不可解な状況から事件性も視野に入れての捜査が開始された。

ひとみさんは18日も夜遅くまで結婚式の招待状の準備に追われ、電話で友人と披露宴の話などをしており、いわゆる“マリッジ・ブルー”のような心境は窺われなかった。むしろ結婚を心待ちにしており、翌20日にも人と会う予定を交わしていたことなど、失踪を予感させる気配は全くなかった。

 

人物

ひとみさんは身長約158センチで体型はやせ型。両頬には「えくぼ」があり、右の鼻元にはほくろがあった。学生時代はバレー部に所属し、明るい性格だった。

行方不明となった退社時は、グレー地に「BENETTON」のロゴ入りトレーナー、紺色のデニムパンツ、REGAL製の黒とベージュの革靴を着用していた。

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1973年生まれで4人姉妹の長女。当時は入院していた祖父と両親、姉妹7人家族だった。家は新田(にいだ)川の北に位置する純農地域で農業を営み、経済的には不自由のない暮らしぶりだった。

地元の高校を卒業後、神奈川県にある電機メーカーの工場に就職した。事件の約1年前に退職して実家に戻り、ほどなく市内の歯科医院で歯科助手兼事務員として働き始める。

1993年8月、友人と偶々入った飲食店で働いていたAさんと再会する。二人は元々中学校の同級生で、それからすぐに交際に発展した。家族の異論もなく、4~5カ月ほどで縁談がまとまった。Aさんの実家が営む飲食店へ妹も連れ立って手伝いに通うなど、Aさん家族とも良好な関係だったとみられる。

 

不可解な電話と前触れ

ひとみさん失跡にはいくつかの怪電話が関わっている。

ひとつは、行方不明となる数か月前から自宅にかかっていた無言電話」である。家族の証言によれば、結婚の話が具体化した1993年12月頃に始まり、決まって深夜0時頃にかかってきた。

94年1月に両家が顔合わせをした頃からは回数が増え、2月上旬に結納を交わすと更にその頻度が増したという。深夜0時から明け方近くまで1時間おきにかかってくる状況が続いたが、ひとみさんの失踪直後からなぜか無言電話はピタリとやんだ。

当時は携帯電話が広く普及おらず、いたずら電話といえば自宅や職場などの固定電話にかかってくるものだった。そのため無言電話の主が、家族のだれに向けて、何の目的で嫌がらせを続けていたのかは定かではないものの、ひとみさんの婚約や失跡のタイミングと軌を一にしているとして、彼女の事情に詳しい人物ではないかと思われた。

 

他にも事件の前触れともいえる出来事があった。

ひとみさんは婚約者家族が営む食堂の手伝いに繁く通っていたが、2月の結納の直後、店のそばにある駐車場に停めていたひとみさんの車にだけひっかき傷で中傷する文言が刻まれていたことがあったという。駅からもそう離れていない目抜き通り沿いで、公園や飲食店などに囲まれた市街地である。

公開捜査番組では実物の写真ではなく、車に「バカ」「ブス」と書かれたイメージ映像が放映されている。もし実際に「ブス」と書かれていたとすれば、車内の様子などから女性と推測された可能性もあるが、彼女の車であることを知っていた人物による嫌がらせとも受け取れる。稚拙な文言ながらこどもや不良の悪戯であれば、周辺地域でほかにも被害情報が寄せられそうなものである。

 

ふたつめの電話は、退社直前の19日12時半頃に職場にかかってきた電話である。

はじめに電話に応対したのは(後にひとみさんの車を発見する)先輩同僚で、相手は女性の声で「増山さんに代わってほしい」と言われたという。「声は低めだったので年齢はよく分からない感じ。喋り方も親しそうじゃない、いわくありげかなと感じる」と振り返る。同僚いわく、以前にも同じ声の女性から電話があったこと、電話を受けたひとみさんは「浮かない表情」で診療室の時計に目を遣るなど「待ち合わせをしているような様子だった」と言う。

証言通りだとすれば、ひとみさんは病院に向かう前に「電話の女性」と駐車場で待ち合わせをしていたと考えられ、そこで別の車に連れ去られたとも推測できる。

 

3つめは、行方不明となった翌年の95年1月に自宅にかかってきた件の「おねえちゃんだよ電話」で、応対したのはひとみさんの妹である。

妹:はい、増山です

女:もしもし

妹:はい

女:おねえちゃんだよ

妹:はい?

女:おねえちゃん

妹:…だれですか?

女:おねえちゃんだよ

妹:…どちらさまですか?

女:…ひとみです

妹:はあ!?

この間、僅か17秒。犯人からの連絡を期待して録音がセットされていたため、やりとりは記録されていた。電話をかけてきた声は、ひとみさんとは似ても似つかぬ年配らしき女性の声色だった。変に声真似をしたり誤魔化すような様子もなく、さも平然と「おねえちゃんだよ」と切り出している。当時は今で言う「オレオレ詐欺」のようななりすまし詐欺などは広まっていなかった。

父親は電話の声を「うちの娘とは全然違う」と断言した上で、「“おねえちゃん”と言うことは、電話に出たのが妹だと分かる人。誰が出るか分からなければ“おねえちゃん”なんて言う訳ない」と推測する。またこの電話の直後、父親の周囲では「ひとみさんが見つかった」とする噂が流れていたという。

 

テレビの公開捜査番組では、日本音響研究所鈴木松美所長(当時)に録音テープから何か手掛かりは得られないものか分析を依頼している。鈴木所長によれば、通話の冒頭に課金時に発生するパルスがあり、切断時には市外局番であれば少なくとも4回あるリセットパルスが2回しか生じていないことから、おねえちゃん電話は「同一局内の公衆電話」から掛けられたものと指摘している。

また日本語・方言の研究者である加藤正信東北大名誉教授によれば、録音されていた会話は、福島弁の比較的平らなアクセントで、福島を中心とした地域の音の質にほぼ一致するとの見解を示した。

 

「無言電話」の終止と「おねえちゃんだよ電話」に関する重要な点として、「公開捜査の時期」が挙げられる。

失踪直後、ひとみさんの両親は、警察から公開捜査を再三勧められていたが断っていた。父親は発見されたときの社会復帰が難しくなることを考慮し「娘の将来を考えると、親として踏ん切りがつかなかった」と振り返っている。公開捜査に切り替えられたのは行方不明から約1年半後の95年8月28日である。会見で「今は親として、娘のために最善を尽くしてやりたい」と決意を語っている。

その1年半の間は新聞記事にも載らず、非公開での捜査に限られていた。その間、ひとみさんの失踪は、原則的には近親者や同僚、聴取を受けた知人、周辺住民といった限られた近しい人々か、捜査関係者あるいは「事件に関与した当事者=犯人」にしか知られていなかったことになる。

無言電話の主と「おねえちゃんだよ電話」の主が同一人物であるかを確かめる手立てはないものの、いずれも公開捜査前にひとみさんが行方不明である事実を知っていた可能性が高い。

 

後の公開捜査番組では、「無言電話」の録音テープも放送されているが、そのテープの分析結果は明らかにされていない。また職場で電話を取り次いだ先輩同僚が増山家に掛かってきた「おねえちゃん電話」について述べる証言はないが、当然家族は同僚に聞かせて確認しているものと思われる。また番組によっては勤務先にかかってきた電話を「若い女性の声」と表現して報じたこともあるため、「おねえちゃんだよ電話」とは異なる声だった可能性も排除できない。

 

女性の影

結婚直前のひとみさんの周囲で起きていた謎の電話や嫌がらせ行為。警察の調べではひとみさん側にやましい行動や目立ったトラブルは確認されなかった。

もし背後に一方的に恨みをもつ人間が存在するならば、恋愛・結婚関係で妬まれていた可能性が思い浮かぶ。はたして電話の主と同一人物かは分からないが、婚約者Aさんの周囲にはひとみさんの他にも女性の影が見え隠れする。

下のキャプチャ画像は、番組で公開されたひとみさんが日記代わりにしていた「手帳のコピー」の一部である。事件の約3週間前、94年1月25日の欄には、職場の「お昼休み」にかかってきた女性からの電話について記述がある。

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お昼休みに、□□という女から tel。

△△は他に切れてない女 が いたらしい。

でも わりと れいせい。もしか の 感が あたってた。

(夜△△のところに行った。)

△△は いやがらせ だ と言う。

そんな女は知らないと ひてい。しんじよう

□□、△△の部分はモザイク処理が施され、ナレーションでは□□が「O(オー)」、△△は「彼」とアテレコされている。ひとみさんの周辺人物で「O」に該当する女性は確認されておらず、「彼」は婚約者Aさんを意味している。

素直に読めば、「O」=「切れてない女」のように思われる。だが「O」を名乗る女が、自分とは別の「切れてない女」の存在をひとみさんにリークした可能性もないとは言い切れない。

「他に切れてない女」という表現は、すでに彼との間で別件の浮気交際などでひと悶着があったことを匂わせる。だが「既知の女性関係の他にも」という意味か、「自分のほかに」という意味なのかは判然としない。だが「もしかの感」(「勘」の誤記かと思われる)というフレーズから察するに、ひとみさんは以前からAさん周りに複数の女性関係を嗅ぎ取って不安を抱いていたことが読み取れる。

また「そんな女は知らない」という婚約者の言葉を「しんじよう」とする態度からは、彼への愛情、結婚への強い意思が感じられる。憶測するならば結婚を強く望んでいたのは、Aさん本人よりもひとみさんの側だったかもしれない。

 

さる地域政経誌では事件から13年後に本件の特集記事が組まれた。ひとみさんの両親のインタビューを中心に構成された取材に基づく記事であり信憑性は比較的高いように思う。

そこで地元の事情通の談として、Aさんにはひとみさんとの交際よりだいぶ前から「4歳年上の女性と長年交際していた」との証言が紹介されている。しかしAさんの両親がその女性をよく思っていなかったことから「結婚できずにいた」というのである。同事情通は、ひとみさんの失跡によって「一番喜ぶ人、最も得する人」としてその「4歳年上の女性」を挙げる。

いわばAさんを“奪われた”かたちになる年上女性が、ひとみさんに嫉妬心や憎悪を抱くのは必然だが、事情通はさらに「Aさんの関与が疑われるのは避けられない」と指摘する。Aさんはひとみさん失跡のおよそ11か月後に年上女性との間にこどもが生まれている。下世話な見方ではあるが、花嫁が姿を消した直後にAさんと年上女性は関係を持ったと見ることも可能であり、その後結婚して店を継いだとされる。

仮に年上女性がひとみさんに強い恨みを抱いていたとすれば、その間Aさんに結婚をめぐって非難したり、自分との復縁を求めるといった衝突はあったと想像され、全く接触していなかったとは考えづらい。記事はAさんの窺い知れぬところで年上女性が独断で起こした事件ではなく、むしろAさんも犯行計画を知った上で関与したのではないかと疑いを向けている。

 

またひとみさんの父親によれば、「おねえちゃんだよ電話」に応対したのはひとみさんと共にAさんの店へ手伝いに通っていた妹で、「店でよく聞いていた声と中年女性の声はそっくりだった」「2つの声は話し方や調子に似たような特徴があった」と話しているという。明示されてはいないが、文脈から察するに家族は「おねえちゃんだよ電話」についてAさんの母親によるものではないかという疑いを強めているように読める。

ひとみさん失跡から最初の1か月はAさんの両親も心配してくれていたが、その後連絡を寄越さなくなり、2か月後には代理人を通じて「結婚の白紙」と結納金の返還、更には取調べなどで生じた休業分の補償を請求してきたとされている。記事は、Aさんの両親に対して“情”を欠いた心ない対応だとして非難めいた論調を強めている。少なくともひとみさんの家族はAさんや家族による失踪への関与を疑っているものとみられる。

Aさんの母親は同政経誌の取材に対して、「当時の状況は警察に全て話してある。知りたいことがあるなら警察に聞いてほしい」と証言を断っている。

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行方不明から16年後の2010年、ニュース番組内で元婚約者Aさんへのインタビューが放送された。

ひとみさん失跡後に捜しましたか、との問いに「別に、捜す理由もないし」と答え、事件や事故に巻き込まれたと思いますか、自発的にいなくなったと思いますかとの問いに対して「自発的に失踪したのだと思います」と返答。手帳に書かれていた「O」についてひとみさんと話をしたのかとの問いに「全然そんな話聞いてませんね」、事件前に「車にイタズラされたのは聞きました」と語った。

すでに長い時間が経過しており、Aさんにはすでに別の家庭がある。とはいえ、一度は結婚を決めていた相手にしてはあまりに冷淡すぎる態度だとしてネット上で番組視聴者から憤りの声も上がった。Aさんとしては疑惑の解消のために取材に応じたものと思われるが、却って疑惑の温床にされてしまった感は拭えない。

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・所感

前述の事情通の話を総合すると、おおよそ以下の図のようになる。

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Aさん自身の気持ちはひとみさんと年上女性とどちらを向いていたのか。年上女性との「二股交際を維持したかった」のであれば、ひとみさんとの結婚は先延ばしにすべきところであり、半年で結婚に踏み切るのは奇妙に思われる。

年上女性がひとみさんの勤務先に電話を掛けていた「O」だったとすれば、無言電話や車の傷、ひとみさんの記述など多くの疑問点がひとつの線につながる。Aさんの交際相手と名乗る「O」の電話に、ひとみさんはその日で退職することもあり、結婚前に自ら清算を求めるつもりで待ち合わせに臨んだのかもしれない。すぐにケリを付けるつもりで手ぶらのまま相手の車に乗り込んだのか、それとも拉致されたのか。「O≒年上女性」の素性は明らかではないが、素直に考えれば別に殺害や遺棄の実行犯がいた、その筋の第三者へ依頼したなどが考えられる。

Aさんの親が年上女性との結婚を良しとしなかった理由は定かではないが、ひとみさんとの結婚に前向きだったのは事実であろう。もしかするとAさん本人としては年上女性との結婚を反対する親への当てつけのようにひとみさんとの結婚を言い出したが、予期せず親とひとみさんの主導でとんとん拍子に話を進められてしまい慌てたのか。

警察もAさんやAさん家族には聴取しているが、行方不明事案では親子の確執や交際関係など混み入ったプライベートに関する強制捜査には踏み込めなかったと想像される。ひとみさんとの交際がなかった年上女性はどの程度俎上に上がったのかも分からない。

 

彼女は単なる失踪ではない。しかし殺人事件を裏付ける証拠もないままに、30年が経ってしまった非業な行方不明事案に思えてならない。

 

現職警官による告発——二俣事件

天竜中流、阿多古川の流れとぶつかる東岸、浜松と磐田を結ぶ街道の合流地点に二俣城は築かれた。戦国時代には徳川と武田が城の争奪戦を繰り広げた要所であった。

 

その城下町が基となった静岡県二俣町は浜松駅から北へ約20キロに位置しており、山深い北遠地域の玄関口とされた。水利を生かして繭の取引、木材水輸の集積地として栄え、ダム造成の拠点ともされてきたことから多くの宿屋の跡が今も残る。1940年には遠江二俣駅が開業し、終戦直後の最盛期には遊郭花柳界も賑わった。

本田宗一郎ものづくり伝承館

旧二俣町役場は国の登録有形文化財となり、浜松出身のホンダ創業者・本田宗一郎ものづくり伝承館として利用されている。

周辺の町村との合併後、1956年に天竜市へと改称。2023年現在は浜松市天竜区の一部を構成する。

 

事件の発覚

1950年(昭和25年)1月7日早朝、二俣川にかかる双竜橋近くの商店街にある大橋一郎さん方で異変が起こり、長男・武司さん(当時11歳)が泣きながら近くにあった伯父の家へと駆け込んだ。横で寝ていた両親らが血まみれになって絶命しているというのだ。

二俣署に通報が入ったのは5時40分頃。前夜は寒の入りで、彼の地にしては珍しく5センチほどの雪が積もっていた。

 

夫婦は刃物で顔や首など滅多刺しされてほぼ即死状態とみられた。一郎さん(46歳)の枕元には土瓶が倒れて中の茶殻が畳に滴り、首元には血が溜まっていたが外にこぼれてはおらず、眠るがごとく息絶えていた。

妻たつ子さん(33歳)は壁や天井まで血が飛散したと見え、霧吹きでも吹いたかのように染まった布団から這い出すような格好だった。犯人に気づいて相対したものか、犯人が引きずり出そうとしたものかは分からない。母から顎にかけて骨が砕けており、腕力のある犯人と見られた。

隣で寝ていた長女(2歳)に刺し傷はなく、首を手で絞められての扼殺。生後11か月の二女は息絶えた母親の下から見つかり、背中で圧迫されての窒息死だった。

 

大橋家は3年前に町内100戸を焼いた大火により家屋を焼失し、当時は親類の大工に急造してもらったバラックで、寝たきりの祖母と、両親、子ども5人の8人暮らし。夫は失業中の身で、昼は赤ん坊の世話などをする姿を見られており、目下の家計は妻の針子仕事に頼っていた。

両親と同じ6畳間で寝ていた長男の武司さんと二人の弟(8歳・5歳)に被害はなく、隣の2畳間で寝ていた祖母(87歳)も無傷だった。祖母に至っては近隣住民が集まって騒ぎになってもまだ起きてこなかったという。不幸中の幸いというべきか、現場の惨状を目にしなくて済んだ。

 

推定死亡時刻は、夫が6日午後7時20分から7日午前0時20分の間、妻は7日午前0時頃、長女は6日午後10時から11時の間、二女は6日午後11時頃とされた。当初の捜査記録では発生時刻を午後11時頃とする記載もある。

というのも六畳間にあった柱時計が右に10度傾いた状態で「11時2分」を指して止まっていたことから、犯行のはずみで停止したものと推測されたためである。

室内は物色されたような形跡があり、布団が台所に引っ張り出されていたり、押し入れは衣類から何からかき回されたような始末で、預金通帳や書類も床に散らばっていた。たんすの五段の引き出しが上下が入れ替わっていたことも確認されたが、具体的な盗品被害は分かりかねた。

 

また二男の話では、明け方に目を覚ました折、母親の足元で座って新聞を読んでいる男を目撃したと証言があった。新聞で隠れて顔までは見えなかったが、男が去った後、怖くて泣いていると長男に泣くな泣くなと叱られて再び床に就いたという。まるで子どもが悪い夢でも見ていたかのような話だが、事実、現場には血のりの指跡が付いた毎日小学生新聞が残されていた。

祖母に聞けば「夕べ、一郎が枕を直してくれた」と話したが、枕元には血染めの指の跡が見つかり、近づいて来た犯人を息子と見紛うたものと思われた。殺害直後の犯人がすぐに立ち去ろうとせず、なぜそうした行動をとっていたのかは判然としない。

裏の畑につながる路地には被害者宅に向かう11文(26センチ大)の不審な足跡が残されていたが、帰りの足跡は見当たらなかった。

裏の農業競合組合の板塀の上には、血の付いた手袋と鞘に収められた匕首(あいくち)が置いてあった。匕首は短刀を加工してつくった手製のものでイニシャルと思しき「O」と刻まれており、山川に囲まれたこの地でなぜこれ見よがしに近場に置き去ったものか腑に落ちない。

周辺は3軒の遊郭をはじめ、芝居小屋、商売店や酒屋が並ぶ繁華街で、店舗や住宅が密集している。そんななか見るからに貧相なバラックに盗みに入るというのはあまりに見当はずれに思われた。

 

国警と自治

1948年3月、GHQは人口5000人を超える全国1600の市町村についてアメリカの保安官制度を手本に自治体警察の設置を命じた。そのため従来の広域をカバーしていた国家地方警察と、自立性の高い自治体警察が併存していた期間が存在する。自治警は自治体への負担が大きく各地で廃止されていき、現行の警察組織に再編されたのは1954年のことである。

当時の二俣町の人口はおよそ1万2千人で、約3年にわたって自治体警察が置かれた。軽微な犯罪や自殺であれば自治警だけで対応可能だが、二俣署は僅か定員13人、刑事係は3人だけの小勢で、殺人事件のような大がかりな捜査となると国警の協力を要請し、合同捜査本部を構えることとなる。

 

一家4人殺人の報せを受け、国警静岡県本部は強力犯係主任・紅林麻雄警部補を送り込んだ。華々しい活躍を遂げていた国警の名刑事は手勢80名を率いて指揮をとり、町の素行不良者を片っ端からしょっ引いてくるよう指示した。

二俣署裏に借りた銀行の土蔵に押し込み、殴る蹴る、竹刀で打ったり柔道技にかけたりといった拷問を繰り広げて口を割らせようとしたのである。彼らの捜査手法には音の漏れにくい土蔵が適していたとみられる。

聞き込みにも回ったが、町民たちはその横暴なやり方に不満を持ち、捜査協力を拒んでいた。戦時中の二俣大火(1943年8月発生。大橋家を焼いた火災とは別)で犯人だと締め上げられた少年が取調での暴行を苦に自殺していたことも、町民の強い不信感と反発を生んでいた。

賑わった繁華街も国警に目を付けられるのを恐れて夜に出歩く者はなくなり、店も早じまいするようになった。

 

しかして捜査班は1か月半で二百数十名を調べに掛けたが目ぼしい容疑者は浮かんでこず、町では捜査員の移動・宿泊費など膨らみつづける捜査経費が懸念され、地元紙も「徒(いたずら)に日を空費」と国警の体たらくを非難する記事を掲載した。

すると記事掲載の2日後となる2月23日、捜査班は近所に住む当時18歳の少年Sを別件の窃盗罪で検挙。手荒な取り調べの末、4日後に一家4人殺しの犯行を自供させた。しかし名刑事による犯人逮捕で一件落着とはならず、昭和の事件史に悪名を残すこととなる。

 

山崎刑事の逡巡

戦時中の1941~42年にかけて起こった浜松9人連続殺しを解決へと導き、紅林麻雄氏は名刑事として一躍時の人となった。

捜査で350もの勲功を挙げており、裁判でも犯人しか知りえない事実、今で言うところの「秘密の暴露」を吐かせる手法で次々と有罪判決をもぎとっていた。その目覚ましい功績により、国警では「警視正の署長であっても、その言うことをきかなければならない絶対的な権力の持ち主」へと祭り上げられていた。

一方、1948年11月に起きた幸浦村一家4人殺しでは、翌年、知的障害のあった27歳男性を別件逮捕して自白を得、芋づる式に共犯者を逮捕。一審で、被告人・弁護側は取り調べで拷問を受けた末の虚偽自白であると主張し、名物刑事による自白強要が大きく取り沙汰されていた。

(幸浦事件は犯人の自白通りの場所から遺体が発見されたことが決め手となり、二俣事件発生後の1950年4月に一審・死刑判決が下される。その後、差し戻し審を経て、1963年7月に全員の無罪が確定する。小島事件、島田事件でも紅林捜査チームの拷問による自白の強要や証拠の捏造が次々と露見することになるが、拷問王などと非難を浴びるのは二俣事件以降の話である)

 

2月半ば、二俣での捜査規模縮小を迫られると、紅林警部補はこれまでの捜査対象から重要参考人を絞り込むための捜査会議を行った。その後逮捕される少年Sの名も挙がったが、彼には事件当夜アリバイがあった。

Sには盗癖があり前年末に調べを受けていたが、日頃は父親のラーメン屋台を手伝っていた。罪状は出先で目に付いたものをかっぱらってしまうコソ泥の類である。元は祖父母の代から劇場をやっていた家のボンボンで、腕っぷしも弱く、酒もタバコもやらず、根っからの不良者という訳ではない。

 

事件当夜9時前に、二俣署の山崎兵八(ひょうはち)刑事(当時38歳)が出前持ちに走る姿を見かけており、その後、マージャン屋に居たことが分かっていた。だがS少年はマージャンをやらないはずだ、と山崎刑事が疑念を挟んだことがきっかけとなり候補者リストに残されたのである。(後日の調査では、少年はマージャン自体はやらないが、人がしている卓を見ているのが好きだったとされ、出前をさぼって油を売っていたものとみられる)

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2月20日、紅林警部補は捜査会議で最終方針を示し、捜査員たちに以下のように言ったという。

「今日、三人を取調べたが、その中でSが有力な容疑者であることが判った。彼は正しく犯人である。大地を打つ槌がはずれても、これは絶対にはずれない真犯人であり、間違いはない」

「しかし、その証拠は何も無い。犯人には間違いないが、証拠は何ひとつない。そこで諸君には明日からこの証拠を探し出して貰いたい」

「諸君の中で犯人では無いのではないか、という疑問がある者が出てきたならば、この捜査は崩れてしまう。諸君はSが真犯人であるという信念を持って捜査に従事して貰いたい」

「この事について異議のある者は、今直ちに申し出て貰いたい。その人には捜査から抜けて貰いたい」

 

山崎刑事は自分の進言から無実のSが犯人にされようとしていることを知って戦慄した。同時に、犯罪捜査の要諦である「証を得てのち人を得よ」の教えとは真逆をいく、聞きしに劣る拷問捜査のやり方、問答無用の捜査指揮に憤慨した。しかし一介の町刑事が国警のエースと名高い紅林警部補に歯向かうことはできない。

その正義感と自身の進退を秤にかけ、山崎刑事は葛藤した。

警察に入って7年、恩給がもらえる身となるまであと5年は辛抱せねばならない。里には養っていかねばならない4人の子と嫁、老いた母親がいた。検挙に異常な執念を燃やす割に、真犯人は別にいると訴えても耳を貸さないに紅林警部補に逆らっても自分の力では何もならない。国警に引き下がってもらうためには誰かが生贄になるしかないのではないか。

Sの足のサイズは十文(約24センチ)で、現場に残されていた足跡とは明らかに食い違う。自白を「証拠の王」としてきた旧来の刑事訴訟法も、1949年から物的証拠、客観的事実に基づく刑事司法へと転換を果たした。新法に基づいて公正な審理が行われさえすれば少年の無実が必ずや明らかにされる、はずであった。

 

山崎刑事は布団で簀巻きにされた少年が一時息をしなくなったという噂を耳にして不安になり、少年の実家へと足を運んだ。少年の逮捕以来、屋台のチャルメラの音も聞かれなくなっていた。

Sの両親は在宅で、母親に聞けば、どこへ行っても人殺しの親が作ったものなど食えるかと言われて商売ができなくなり、一日二日は売れ残りでしのぎ、布団も着物も売り払って耐え忍んできたが、もはや金に換えられるものも食い物も底をついたと嘆いた。

 

「あの子は本当に人殺しをやったんですか」

Sの母親は山崎刑事の顔を睨んだ。

刑事はSの家族に切々と事情を訴え、理解と辛抱を請うた。

「人殺しなどやっていませんよ」

「世間の人が何を言おうと、彼のことを信じてあげてください」

「国警の連中に町から出て行ってもらうためには、犠牲者が必要なのです」

「助けてあげたくとも我々町警察ではどうしようもないんです。国警には勝てないんです。力のない町警察を代表してお詫びします。どうかお許しください」

「しかし日本の裁判官は正しく裁いてくれると思います。罪のない息子さんはきっと無罪になりますよ」

「もしも、もしもですね、有罪という判決が出たときは私が無実を名乗り出ます。警察官の職をなげうっても必ず彼が無実であることを名乗って出ます」

 

告発

4月12日、静岡地裁浜松支部で初公判が開かれた。

動機はマージャンで遊ぶ金欲しさ、公訴事実では現金1300円余りが奪われた強盗殺人とされた。凶器とされた匕首は5日に自宅隣の下駄工場の床下で偶々拾ったものという。被告人となった少年Sは終始否認を貫いた。

 

証言台に立った紅林警部補は、被告人は被害者宅の柱時計についてガラス蓋がなかったことを自白している、これは8月に割れたもので、現場に立ち入った犯人だからこそ知りえた情況証拠だと主張。

更に「止まっていた時計の針」について、時計の針を動かして犯行時刻の偽装を図る場面が出てくる映画『パレットナイフの殺人』が近くで公開されていたことを根拠に、以前からミステリ好きだった少年が長い針を2回ほど回して「11時2分」の犯行に見せかけたものだと「アリバイ崩し」を披露した。

少年は逮捕前の新聞で壁時計が不自然に止まっていたことを見知っていた。取調の段で時計の蓋についてしつこく聞かれるので「蓋は気が付かなかった。どうなっていたか分からない」などと言い逃れをしていた。これが逆手に取られてしまい、更なる追及を受けて「文字盤に硝子蓋は嵌っていなかったと思う。覆いを外した記憶がない」という供述へと変遷させられた。

山崎刑事の期待に反して、審理は無情にも検察ペースで展開し、11月には論告求刑で死刑が求刑され、このまま行けば死刑判決は確実だろうと検事や記者が口を揃えた。

 

山崎刑事は地元紙ではあてにならぬと思い、警察の不正に批判的立場を打ち出していた読売新聞東京本社に投書し、調査して不正や拷問捜査の事実を明らかにしてほしいと訴えた。すると記者は実名で告発してもらって記事にしたいという。家族もあるし、懲戒免職となれば恩給さえ出ないと固辞したが、記者はどうしてもと食い下がる。辞職して退職金を得てからであればと言うと、現職でなければ意味がないのだと迫る。記者は「本社で生活の面倒を見るから」とまで約し、山崎刑事も自動車免許があればトラックかなにか運転手でもして食い扶持はどうにかなると意を決した。

妻に話すともちろんいい顔はしなかった。以前も身寄りのない少年犯を引き取ってきて、家族の食事すらままならない時節に関わらずしばらく寝食をあてがってやることもあったという。夫の性分は重々承知の上であった。

「いいかね。もしもSが私たちの子どもだったらどう思う。黙って見過ごしができるだろうか

最後には妻も、分かりました、どんな苦労があっても一緒についていきます、と答えてくれたという。

最終弁論の前日11月23日に現職警官の実名入り告発記事が掲載された。記事が出ると、署から休暇を言い渡された。

 

これを受けて、判決審は延期となり、12月15日、山崎刑事らを証人として審理のやり直しが行われた。証言台に立った山崎刑事は裁判長の質問に答えるばかりでは埒が明かないとして、国警が行った拷問の実態や少年のアリバイ事実などを1時間半にわたって一方的に述べた。

S少年も自白強要の実態について、暴行で度々気を失ったことを語り、次第に思考判断する気力が失われ、弁解しても無駄であり、これ以上暴行されることに恐怖を覚えて自白に至ったと証言した。その後も事実と合致しない供述をするたびに国警から暴行を受けていたという。国警による自白の誘導、虚偽自白がつくられたことを意味していた。

だが同じく出廷した二俣署長は、山崎刑事は事件当日に現場に行っていない、日頃から勤務状態は出鱈目で性格は変質的、本件捜査にも従わず勝手な行動が多かったので配属を変えたと述べ、告発は何の根拠もない偽証であると突っぱねた。

12月18日、署長の求めにより山崎刑事は辞表を提出。

12月27日、裁判所は検察側の言い分を全面的に認め、S少年に死刑判決を下した。

 

同日、偽証容疑で山崎刑事は逮捕され、既決囚と同じ獄舎に収容されて正月を迎えた。

51年1月、名古屋大・乾憲男教授の精神鑑定を受けた。教授は二俣事件について述べるように求めたが、山崎刑事は証言の食いちがいから狂人扱いするつもりだとして反発した。観念して事件について2時間余り話すと、結果は「妄想性痴呆症」と診断され、「隔離監禁の処置が必要」とまで付記されていた。

また鑑定に必要との事で脊髄液を注射器で採取されたが、以来数日にわたって激しい痛みに襲われ、何か悪いものを注射されたのではないかと不安に陥った、と後年の手記に綴っている。

1月30日、精神疾患で刑事責任能力なしと判断され、偽証の容疑は不起訴となり身柄は釈放された。だが同日、精神疾患を理由に警察官を免職となった。

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周智郡熊切村の故郷へと戻った山崎氏であったが、精神疾患を理由に公安から運転免許証を取り上げられ、生活の糧に窮することとなる。

告発を後押しした読売新聞社もその後の生活の世話をすることはなかった。山崎氏は生きていく必要から若い頃にやっていた山仕事や新聞配達などに従事したが、生活は荒んでいった。配電を止められることもあったと言い、周囲の人びとも「時の人」となった元警官を心底から信用して支えた訳ではなかった。

妻は工事現場など土方仕事に出て家族を養い、子どもたちも新聞配達や畑仕事を手伝ったが教諭や生徒たちからいじめを受けた。家族を巻き込むこととなった父親の決断を恨みに思ったと語っている。元刑事が払った正義の代償は家族にとってあまりにも過酷だった。

 

逆転無罪

S元少年の裁判はその後も続き、控訴を棄却されたものの、清瀬一郎が弁護につき、新聞紙上や著作を通じて冤罪を広く訴えたことで、大きく流れが変わった。

1953年11月27日、最高裁・霜山精一裁判長は死刑判決を破棄し、静岡地裁への差し戻し審を決定。死刑判決の差戻しは本邦初であった。拷問による違法捜査を認めた訳ではないが、自白内容の信用性(真実性)が疑われ、物証その他に被告人の犯人性を示すものがなく、判決に重大な事実誤認がある公算が生じたためである。

 

清瀬一郎は、五・一五事件で犬養首相を暗殺した青年将校の死刑を回避、極東軍事裁判東条英機の主任弁護人などを務め、政治家としても後の1955年に71歳で文部大臣に就任したほか、衆議院議長として日米安保条約強行採決を主導した人物として知られる。

戦中は弁護士報国会会長として軍部を支持。戦後は日本弁護士協会会長として拷問根絶運動を展開し、GHQ憲法草案について拷問の禁止や、強制された自白は証拠とならない規定を陳情して採用された。先の幸浦事件でも控訴が棄却された1951年に静岡県弁護士会会長・内藤惣一から依頼を受け、弁護団に加わっていた。

清瀬弁護士の参加を後押ししたのは、浜松事件で捜査に携わり、紅林警部補のやりくちを目の当たりにしていた元刑事・南部清松氏の手紙であった。二俣事件当時は退職して二俣町で板金業を営んでいたが、地元に詳しい人物として紅林警部補から民間人協力の依頼もあった。国警の横暴を二俣一審の段階で暴露したひとりである。南部氏は島田事件においても冤罪証明のため尽力するなど、終生、紅林警部補をはじめ静岡の警察に蔓延した腐敗の根を質そうと努めた。

 

血液学の権威であり、東大法医学教室で多くの鑑定を担った古畑種基教授は、昭和の科学捜査の発展に大きく寄与した。その一方で、弘前大学教授夫人殺人事件、財田川事件、松山事件、島田事件など数々の冤罪事件の鑑定にも関わっており、警察司法の御用学者とみなす見方もある。

だが戦中の首なし事件、共産党リンチ殺人事件など警察・検察側に不利な鑑定を行うこともあり、注目を集めた下山総裁轢死事件では自殺として早期幕引きを目論んだ警視庁に対して他殺説を示し、困惑させてもいる。

本件差し戻し審では死亡推定時刻の割り出しで、元少年Sさんのアリバイが成立する夜11時頃との鑑定を示した。また犯人は相当量の返り血を浴びたとの見解を示し、少年が当日着ていた茶色のジャンパーには被害者血痕が認められなかったことで犯行不可能が裏付けられることとなる。

SさんはA型で、件のジャンパーは洗濯もせず毎日着こんでいたものであった。極微量の人血らしきルミノール反応は出たが検察側の鑑定では「非常に薄められたB型の血液が付いていたと思えぬことはない」という非常に不確かな結果が報告されたのみである。当時の鑑定技術では、殺害の返り血とまでは立証できず、苦渋の判断で絞り出した表現とも思える。

1957年9月20日静岡地裁の差し戻し審で、Sさんが無罪判決により同日釈放となる。

検察側は控訴したが、12月26日、東京高裁は控訴を棄却。検察側は上告を断念し、翌58年1月9日、約8年越しでSさんの無罪が確定した。

 

『現場刑事の告発』

Sさんの無罪が確定してから3年余、1961年3月14日の昼過ぎ、山崎家に火の手が上がった。そのとき両親は畑仕事に出掛け、近くの柿の木に上って遊んでいた小学3年生の二男がおり、自宅に入っていく男の姿を目にしていた。その直後に縁の下に煙が上がり、なす術もなく家屋は全焼した。

二男は「黒い長靴を履いた男」の目撃を訴えたが、警察は聞く耳をもたず、むしろ少年が火を放って嘘をついているのではないかと疑った。取り調べの席には元刑事の山崎さんも同行したが、取調官らに囲まれておびえる二男に「本当のことだけを話せ」と念を押した。

「新聞配達の手伝いが嫌で火を点けたのではないか」

当時の具体的なやりとりについて本人はパニック状態もあって記憶から失われてしまったと振り返っている。結局、火事は放火ではなくコタツの火の不始末ではないかとして処理された。この火災により、二俣事件などに関する独自の捜査資料もすべて失われてしまった。

 

下の記事では山崎氏の妻が事件後の暮らしぶりや氏の人柄を証言している。弱い人、苦しむ人を助け、不正には手を染めない、清廉潔白なひとだったという。

news.yahoo.co.jp

 

下の記事では、一家殺しで生き残った長男が事件について振り返っている。

事件当夜は湯豆腐を囲み、寒さでぐっすり寝入ってしまい、事件直後の出来事はショックで記憶から抜け落ちてしまったという。だが2つの棺に、父と長女、母と二女が収められた光景は忘れられないという。

事件後、長男は伯父の許で高校卒業まで育てられ、二人の弟は神職だった母方の祖父の縁で別々の家に引き取られて育てられることになった。

www.at-s.com

 

大橋家を崩壊に追いやり、国警の横暴を告発した元刑事らの人生をも狂わせた事件の真相はいまだ解明されてはいない。

事件から四十年余、齢八十を控えて大病を患い、気落ちしていた山崎さんに長女は言った。

「事件のこと、刑事時代のことを書いてみたら。書き終えたら本にしてあげる」

山崎家では二俣事件のことは大きなわだかまりとなり長らく話題にしてこなかったが、娘の言葉を受けて山崎さんは筆をとる。その結晶は地元の版元で『現場刑事の告発 二俣事件の真相』という一冊の本となり、近親者に僅かな部数のみ配られた。

前半パートが二俣事件の一家4人殺し発生から一審を終えて精神疾患の烙印を付されるまでの記述、後半パートは『山崎巡査奮闘記』と題された二俣事件より以前の警官時代の記述である。前半パートには、当直番で二俣署に詰めていた1月7日早朝の第一通報を受けてからの行動が事細かに記され、聞き込みや町の人びととのやりとりがありありと描かれている。

本には山崎さんが真犯人と見立てた人物の名が記されており、再販は絶対にかなわない。作中では、S少年が犯人ではないこと、自分は事件直後からさる人物に引っ掛かりを感じたこと、現場状況の不自然さと町の噂、いくつかの手掛かりと漏れ聞いた情報によって納得のいく見立てが完成し、やはりさる人物こそが真犯人に相違ないと示される。

真犯人の見立てに関する箇所を要約抜粋。

 

・近隣住民に聞けば6日の夜8時半頃に、鶏を絞めるときのようなケッーという寒気のするような声を聞いていた。時を同じくして山崎刑事自身も被害者宅の前を通りがかり、窓からこぼれる灯りを目にしていた。

・長男が惨状に気づいた時刻から、署に通報が入るまで1時間以上かかっている。

・現場に駆けつけた山崎刑事が赤ん坊はどこだろうと探していると、さる人物が現れて「そこだ、おふくろの下にいる」と言う。刑事が赤ん坊の手に触れるとまだ温かかったので「オイッ、生きてるぞ」と叫ぶと、さる人物は「死んでる死んでる、死んでるはずだ」といなした。「おばあさんはどうか」と言うと、さる人物は「生きてる生きてる」と言い、家族の安否をすべて確認済みであった。

・寝たまま起きない祖母に事情を聞こうとすると、さる人物は可哀そうだから寝かせておいてやれと言う。後から祖母に聞けば「昨夜は一郎に枕を直してもらった」と話したが、夢現で別人と見間違えたのではないかとも思える。

・台所には一郎さんが作りかけていたあんこが残っていたが、生地になる粉やコメの類が見当たらない。盗るものもないような家で荒探しされたような跡も不審に思われた。

・殺人事件に不慣れな上司は、親族や子どもたちを一堂に集めてメモも取らず、わいわい騒ぎながら聴取をしている。

・近隣の噂によれば、以前から立ち飲み屋を出したいと話していたさる人物が金目当てにやったのではないかという。警察が到着する前にさる人物の妻が家の荷物を持ち出していたという。そのせいで部屋は荒らされ、コメや麦さえ持ち去られたらしい。

・土間にマッチ棒の燃え殻が散らばり、黒い布のような燃えカスがあった。以前読んだ「犯人の呪(まじな)い」という本で、ある地方では人殺しが逮捕を免れるため、被害者の血を付けた布切れを燃やす習慣があるとあった。さる人物の妻はその地方の出身者である。

・経験則によれば、若者の犯行であれば現場に頭髪が落ちていることが多く、年配者であるほど少ない。現場にそれらしい頭髪は見つからなかった。

司法解剖の経験のない町医者は、刺創が生前のものか死後のものかも判別できていなかった。

・短刀の捜査で、出所となった楽器工場に勤めていた「O」を特定した(Oは短刀と工場の木材、皮革を用いて匕首を自作したことを認めたが、以前紛失したと説明。事件当夜にアリバイがあり容疑が晴れた)

・さる人物は左手親指を負傷していた。出し入れのあった箪笥の引き出しを確認すると、右手に当たる箇所は血糊が薄れているのに対し、左手親指に当たる箇所の血糊はべったりと残っていた。さる人物は殺害時に怪我を負ったものと想像された。

・試しに現場で夜明かししてみると、夜10時半頃から午前三時半頃までは拍子木を打ち、ジャランジャランと鈴を鳴らす音が方々から響いていた。3年前の大火以来、夜警が廻っており、ちょうど現場付近が東西の夜警衆が行き交う地点だった。

・紅林警部補に容疑の点を一つ一つ説明したが、「捜査というものはなあ、そう深く考えてはだめだよ。もっと簡単に考えればよいのだよ」と一蹴された。

・M巡査部長に具申したが、諦めるよう諭された。紅林警部補が旅館でさる人物の妻から3万円ないし5万か6万円ほどの金を受け取っているところを見かけたという。曰く、幸浦でも同様の収賄があったとし、捜査など真面目にする気になれず「3か月かかって偽物をデッチ上げたんだよ」と。

 

それは正義のために全身全霊で捜査に打ち込んだ一刑事の記録であり、国警の前に屈した元刑事の遠吠えでもある。法廷で言い尽くせなかったことを、当該人物も多くが亡くなった後、子どもたちも独立して自分の生い先を悟ったからこそ生み落とされた決死の手記である。

だがさる人物が真犯人かといえば、決定的な証拠はなく、予断が入り混じった刑事の勘が大きなウェイトを占めているように見える。さる人物たればこそ腑に落ちるところもあれば、一刑事の独白であるが故の消化不良も残る。山崎さんがどこまで調査裏取りができていたのか全て焼けてしまった今となっては分からないし、文中には事実誤認もいくつか確認できる。

 

 

管賀江留郎氏による二俣事件本の集大成ともいうべき『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか—冤罪、虐殺、正しい心』では、山崎さんが1975年の島田事件支援グループの会合の場で、本と同じような内容の話をしていたことが報告されている。カンペもなしに4時間にわたって講談調に語り聞かせ、数十人もの関係者や日付、年齢までも極めて正確だったという。つまり本を著す段になって組み立てられた話ではなく、長らく本人の記憶に刻み込まれている「真実」であることは間違いない。

しかしそれとて事件発生から25年後のことであり、家屋全焼から14年後の話である。その全てが事件当時の記憶に基づくとは断定しえず、裁判後の独自調査や冤罪研究を踏まえて肉付けされて完成した話なのか、どういう順序や経緯で気づきや確信が芽生えていったのかは正確なところは分からない。紅林警部補の収賄の噂ひとつとっても証拠は残されていないのである。

人の記憶は生きている。ときに誤り、修正され、場合によっては事実から遠ざかり、他意なく歪められるのが真実というものである。

巧みなレトリックが凝らされた序盤、捜査への熱意と遵法精神が込められ筆の走った中盤に比べ、自身の逮捕に至る終盤でその筆先には混迷の色が滲んでいる。郷里に戻って以後も独自調査や人的交流、継続していた事件裁判などによってもたらされた学びや気づきがあったにはちがいない。だがおそらくは事件によって社会から断絶された現在の境遇と地続きの部分を書き進めていくことができなかったのではないか。

神仏の加護を祈る信仰心にはどこかしら帝銀事件で獄中死した平沢貞通氏のように脆く危い存在に思え、「正義は勝つ」と繰り返す行間には己の負けを悟ってしまったかのような儚さを感じる。死刑囚さながらの窮地に追い込まれ、それでも自分を奮い立たせなければ前に進んでいくこともできなかった孤立無援の心境が窺われる。

この本が真犯人や紅林氏ら死者に対してぶつけられたものだったのか、自分の妻、子や孫、被害者遺族に捧げられたものだったのか、あるいは己の正義感を目の前の紙に投影したものだったのか。事件の真相とは何なのか―—深く考えさせられる。

 

被害者のご冥福をお祈りしますとともに、ご遺族の心の安寧を願います。

 

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/714/055714_hanrei.pdf

神栖市女子大学生殺害事件

 

不可解な失踪

2018年(平成30年)11月から東京都葛飾区に住む日本薬科大学1年生菊池捺未さん(18歳)の行方が分からなくなった。

11月19日11:08 ごめんね!昨日友達の家に泊まってた!また今度電話しよ~

女子大学生はその後も父親(53歳)とメッセージをやりとりしたが、20日の夕方以降、メッセージアプリに「既読」が付かず連絡が取れなくなった。心配した父親は葛飾区にある捺未さんのアパートを訪れたが、室内は散乱しており、待てども帰宅しないことから22日、近くの亀有署に相談。

この年齢の行方不明事案では通例「家出」、自発的失踪として対処され、補導や事故などによって所在確認がされれば通達されるものの、著しい問題が無ければ児童失踪における公開捜索や事件捜査のような、積極的な捜索活動は行われない。

だが大学の欠席が続いており、彼女の部屋から死にたいといった旨のメモも発見されたことや友人に「人に会いに行く」と伝えていたからその安否が懸念された。警視庁は捜索に乗り出し、翌2019年1月に入って行方不明の情報が公開された。

 

父親との連絡が途絶えてからの足どりを確認すると、11月20日(火)、捺未さんは文京区湯島にあるお茶ノ水キャンパスで授業に出席していた。そこからリレー形式で各地の防犯カメラなどを辿っていくと、午後3時ごろに大学を出た後、足立区のJR常磐線綾瀬駅から電車を乗り継ぎ千葉県を経由して、茨城県のJR鹿島神宮駅まで乗車していたことが確認された。(大学近くには地下鉄湯島駅、JR御徒町駅など複数の駅があるが綾瀬駅までの交通手段は報じられていない。)

片道2時間半以上もかけて彼女はなぜ単身で茨城を訪れたのか。到着時にはすでに辺りも暗い時刻、地縁や旧知の交友関係もなく、その動線は明らかに不可解に映った。また翌日の21日には、市内で彼女の着ていたピンク色のコートや下着類が落ちていたのを住民が拾得物として交番に届け出ていた。

 

小学生時代の捺未さんを知る地元住民は「真面目でしっかりした印象の子」と語った。中学時代には不登校となったものの、通信制の高校へ進学・卒業し、母親と同じ医療系の道へと進路を決め、薬剤師を志していた。将来の話になると、母親には決まって「親孝行するね」と話していたという。母親に言いにくいようなことでも離れて暮らす父親には打ち明けていたようで、父親は「親子っていうより友達感覚」と家族関係を明かしている。

メディアに登場する彼女の写真を見ても遊び慣れた様子は感じられず、まだあどけなさの残る純朴げな印象を受ける。

だが捺未さんは大学1年目で単位不足から留年がすでに決まり、自暴自棄になっていたともいわれ、交際相手はいたが別の男女関係でも悩みを抱えている様子だったとされる。親元を離れ、都会での一人暮らしで心身に不調をきたしていたのか、それとも何かよからぬトラブルに巻き込まれてしまったのか。

父親は「とにかく無事で見つかってほしい」と願い、連日メールと電話を続けた。

 

逮捕と発見

茨城県に着いてからの捺未さんの行動も謎めいたものだった。

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鹿島神宮駅で下車した後、17時半過ぎに呼び出していたタクシーに乗車した。運転手によれば、鹿嶋市から南方の「神栖市方面」に向かうよう言われたという。道中ではじっと下を向いてメールのやりとりをしていたようで顔をはっきりとは見ておらず、後で警察に写真を見せられた当初も顔までは記憶に残っていなかった。はじめから目的地を指定せず、「次を左」など向かう先をメールの相手に指示されているような様子だったという。

乗車して約20分後、駅から約7キロ離れたところで「そこのコンビニでいいです」と言って、約2800円を支払って降車。しかしなぜかそこから100メートル程離れた別のコンビニ店でも捺未さんの姿が確認されており、徒歩で移動したものと考えられた。

 

失踪直前、知人男性に会いに行くとメッセージアプリで友人に伝えていたことなどから、神栖市内のコンビニで相手と待ち合わせしていたものと考えられた。2019年1月24日、捺未さん失踪に関与したとみて、コンビニ付近に住む一人の男に任意聴取が開始された。

当初、男は「家の前で会ったがすぐに帰った」と供述したが、その後「家に入れて話をした」「車で海辺近くまで送った」などと説明が変遷。1月30日夜に至り、「騒がれたので殺して埋めた」と殺害と遺棄を認める供述をはじめた。

翌31日、供述に基づき、男の自宅から数キロ離れた神栖市須田にある畑地で遺体が発見される。すでに腐敗が進行していたが、捜索中の大学生と特定された。警視庁捜査1課は、同日、神栖市深浦南に住む無職広瀬晃一(35歳)を死体遺棄容疑で逮捕した。

 

遺体は着衣を身に着けておらず、死因や死亡日時の推定は困難だったが、窒息死を思わせる痕跡があったと伝えられた。広瀬は携帯電話などの所持品は近くの川に遺棄したと供述。自身の携帯電話も犯行後に別機種に買い替え、古い機種のデータを消去していた。

調べに対し、広瀬は「インターネットの掲示板で知り合った」「金銭のやりとりで騒がれたため犯行に及んだ」と供述したことが報じられた。捺未さんは小中学校の頃からネットゲームを愛好。オンラインゲームで知り合った複数の人とやり取りがあり、父親や周囲から「ネットで知り合った男と会ったりしちゃだめだ」と注意されることもあったという。

 

被害者は神栖市平泉のコンビニ店Fから100メートル離れたコンビニ店Sに移動。広瀬は日頃からコンビニSを利用していたが、「わかば」か「エコ―」の煙草を購入するだけだった。社名入りの軽バスを停めて、ずっとスマホを弄ってたため、コンビニのWi-Fiを利用していたのではないか、と店員は話している。

午後6時過ぎ、コンビニSで広瀬と合流した被害者はおよそ400メートル離れた広瀬の自宅アパートへと連れて行かれた。そこで2人の間でトラブルが起きたとみられる。

午後7時ごろ、付近の住民男性が道端で泣いている若い女性を見つけて声を掛けた。女性は「男に目隠しをされて車で運ばれた」「記憶を頼りにここまで来たが、道が分からなくなった」「東京から来たが、所持金が無くて帰れない」と話し、住民男性は警察に行くように伝えたという。それから約1時間後にも、捺未さんとみられる女性が付近の住民宅を訪れ、男性とトラブルになったと話し、広瀬宅付近にあったコンビニへの行き方などを尋ねていた。8時ごろに再び住民宅を訪れ、「問題は解決しました」と話して去っていったという。

9時ごろには友人に「男の人に会いたいと言われている」旨のメッセージをLINEで送信。同日深夜、市内で携帯電話の位置情報が途絶えた。

1月30日の報道では、広瀬宅で両社はトラブルとなり、広瀬は車で自宅から数キロ離れた畑で捺未さんを下ろしたが、その後、彼女は自力で再び戻ってきたと伝えられた。

 

「朝芸プラス」では、ITジャーナリストの井上トシユキ氏がネットを介した男女関係について解説する。

「2人はオンラインゲームを通じて知り合ったようですが、最近のゲームには掲示板やボイスチャットという機能があり、電話と同じような感覚で相手とやり取りすることができます。しかも、同じゲームをしていると、たとえ顔を見ていなくても心理的に距離が近い感覚になることがある。今回、金銭トラブルとなった背景には、ゲーム内のアイテムやキャラクターの売買が行われたことが想像できます」

オンライン上のやりとりでなく、実際に会いに行ったのはなぜかとの問いに対し、井上氏は「確かに、パスワードやIDを相手に渡すだけでアイテムのやり取りは可能です。しかし、今回は近くに来なければデータをあげられないなど、男が条件を付けた可能性がある。その際、被害者はわざわざ茨城まで出張ったわけですから、かなりの好条件だった可能性が高い」と、あくまでゲーム上のトラブルを想定して言及している。

だが世間の見方はそうはならなかった。広瀬に未成年者淫行の前科があったためである。

 

加害者

本件が大きく注目を集めた要因のひとつに、広瀬の「容姿」がある。コンビニ店員もその独特の容姿から広瀬の来店をよく記憶しており、ネット上では禿げ上がった頭頂部と伸ばした後ろ髪から「落ち武者」などと揶揄された。下のリンク記事でも見出しにわざわざ「キモオタ」と銘打っている。

www.tokyo-sports.co.jp

事件に対する批判とは異なるベクトルでの反応、見た目による誹謗中傷が本件では苛烈を極めたことには釘を刺しておきたい。記事には、ゲームアプリ「ポケモンGO」が流行の折、公園に通う広瀬を目にしていた人物などのインタビュー中に「俗に言うキモオタ(=キモいオタク)のオーラがあった」という表現が用いられている。

スポーツ紙にとっては市井の声を代弁することも役割のひとつかもしれない。容姿の好みは当然各人に存在するが、声を大にして伝える必要があるべきニュースはそれなのか。インタビューに答えた女性が実在する人物なのかは不明だが、犯罪者に対して何を言っても許される風潮が醸成されていることに不安を覚える。

2016年7月に『ポケGO』が配信されて社会現象となった当時は人気モンスターとの遭遇を求めて公園やランドマークに人だかりができ、私有地侵入などのトラブルが生じるなど異常な過熱ぶりであった。プレイしていない人間からすれば不可解な集団行動に映ったには違いない。

しかし目にしたわけではないが、おそらく男は女性に付きまといをしたり、奇声を上げたりといったこともなく、黙々と小さなスマホをポチっていただけであろう。市民社会はたったそれだけのことで「キモオタ」と認定する、訳ではない。無自覚な偏見や差別意識が犯罪者というレッテルが張られると同時に暴発を始めるのである。

心ない罵倒やネット市民の誹謗中傷が事件の直接的きっかけだった訳ではないが、周囲に生きづらさという負荷を与え、自殺や犯罪行為へと駆り立てる可能性があることは自覚されるべきである。社会的制裁と暴力とを履き違えてはならない。

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広瀬晃一は茨城県土浦市出身で、父親を早くに亡くした。ひとり親となった母親はパート勤めなどをして、姉・晃一・弟・妹の四人を育てた。

大家によれば子どもが屋根に上ったり、外で小便をするなどして苦情が寄せられていたという。地元住民によれば、小学校に通う姿はあまり見られず、高学年頃には家庭内暴力のように声を荒げる様子が知られていた。中学時代の同級生などによれば口数が少なく粗暴だったため、皆寄り付かなかったという。

www.jprime.jp

週刊女性プライム」では、中学の同級生により、荒川沖駅通り魔事件を起こした金川真大元死刑囚(2013年執行、享年29)と同級だったと語られている。一部ネット上には、二人はゲームの趣味などを通じて親交があったのではないかとする実しやかな噂が目にされる。だが小6で土浦市に引っ越してきて当時は問題行動もなくおとなしかった金川と、不登校状態だった広瀬に交流が芽生える機会があったとはやや考えにくい。

彼らと同じ1982~83年(昭和57・58年)生まれは、神戸児童連続殺傷事件により「サカキバラ世代」、あるいは西鉄バスジャック事件、岡山金属バット母親殺害などからマスコミに「キレる17歳」などと括られた世代である。たとえば同学年では、金銭目的で土浦市に住む祖父母を殺害した岸本交右などもいる。

それと聞けば、世代や地域に問題があったかのようにも思われるが、世代別にみても犯罪率に有意差はない。金川も4人きょうだいだったが、父親が国家公務員で経済的な問題はなかった。親きょうだいは相互に関心が希薄で、自ら「砂漠のような家族」と表現している。母子家庭で生活保護を受けていた広瀬の家とでは環境による負荷や抱えていたストレスも趣が異なったと考えられる。

同世代、同地域で大事件を起こした人間がいれば、事件後にニュースを注視したり、稀にシンパシーを感じて類似事件を起こす人間も現れることがある。あるいは24歳で切りつけ事件を起こした同級生のニュースを見聞きし、「同じ轍を踏むものか」といった意識など何かしら思うところはあったかもしれないが、両者のバックグラウンドや犯行様態には「殺人」以外の共通項はあまりないように思える。

 

中学卒業後、家族は祖母の暮らす牛久市に転居。大家によれば家賃の滞納がかさんでおり、夜逃げ同然だったとされる。

広瀬は高校へは進学せず、スーパーの総菜調理や塗装工など職を転々とした。地元では100メートル先の自販機へ行くにも原付バイクを使い、爆音の出るマフラーで決まって夜に出て行くため、迷惑していたとの声もあった。

前述通り、2017年4月に児童買春・児童ポルノ禁止法違反容疑で逮捕。SNSを通じて知り合った千葉県の高校3年生の少女(17歳)に対して、未成年と知りながら現金を渡してみだらな行為をしたとして、罰金50万円の有罪判決を受けた。その後は牛久市内の農業法人で働き始めたが、無断欠勤を繰り返し、1か月ほどで連絡が取れなくなった。

その後、2018年にも現金を渡す約束で女子高生を呼び出し、わいせつ行為をする手口で逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。

2018年6月から鹿嶋市内の土木会社でアルバイトを始め、隣町の神栖市のアパートで独り暮らしをしていた。手取りは月に約20万円ほど。勤務態度に問題はなかったが、金銭的に困窮しており、1万円の前借を複数回していたという。逮捕時には「無職」と報じられたが、事件当時は仕事を続けており、犯行当日は休日だった。11月の事件後、勤め先に欠勤を謝罪する電話が入り、社長が「警察はそんなに甘くないぞ。知っていることがあるならすべて話しなさい」と言うと、返事はなかったが男は泣いているようだったという。

 

広瀬は事前に会う対価を提示しており、捺未さんはその金を見込んで財布に片道分の交通費5000円しか持参していなかった。男が提示していた金額は、週刊誌によれば十数万とも三十万円だったともいわれる(『週刊新潮』)が、そうした額を男が事前に準備できたはずもなく、はじめから不払いで押し通そうとしていたのか。

捺未さんが広瀬の顔を写真に撮って「SNSで拡散してやる」と言って騒ぎ始めたため、車で数キロ離れた畑に連れて行き、彼女を降ろした。捺未さんが自力で広瀬の家に再訪した後、2人は車内で再び問答となった。広瀬は助手席に座っていた彼女の口と鼻を塞ぎ、「何をするんだ」と抵抗されたが動かなくなるまでやったと供述。借用して犯行に使用された勤務先の軽ワゴン車に血痕や毛髪などは見つからなかった。

2月10日、殺人の疑いで再逮捕された。

 

裁判

2020年10月6日、東京地裁(野原俊郎裁判長)で裁判員裁判初公判が開かれた。

被告人は殺意はなかったとして起訴内容を一部否認。

弁護側は、被害者に顔写真を拡散すると言われた被告が携帯電話を奪おうと揉み合いになった結果、鼻と口を押さえたと主張し、殺意はなかったとして傷害致死に留まると訴え、「殺意の有無」が争点とされた。

 

10月19日に判決審が開かれ、野原裁判長は、懲役20年の求刑に対し、懲役14年を言い渡した。

窒息までに少なくとも5~6分間は要したとみられ、被告人が体格差のある被害者に対し、鼻口部を両手で塞ぎ続けたのは悪質と指摘。殺害までの計画性は裏付けられず、確定的殺意があったとまでは言えないにせよ、相手が死亡しても構わないとする「未必の故意」が認定された。

そもそも女性を騙して金の支払いを免れようとしたことが事件の発端であり、遺体を埋めて発覚を免れようとした点も強い非難を免れないと糾弾した。

 

 

所感

本件では、女子大学生の不可解な失踪からセンセーショナルな報道が続き、前述したように遺棄容疑での容疑者逮捕に至ってバッシング報道やネット市民による容姿弄りが過熱化した。それに対し、殺人罪での再逮捕後、メディア報道は急激に収束した。

広瀬の供述などにより、面識のない中年男性に交通費すら持たずに出向くという常識的に見て無謀な被害者の行動が明らかにされたためと考えられる。さらにその背景には、いわゆる金銭的援助を目的とした「パパ活」や、あるいは両者の間で売買春の疑いを予感させた。

コロナ禍以降、新宿歌舞伎町の大久保公園周辺などでは女性の路上売春行為「立ちんぼ」が大きな話題となった。年齢や容姿によって変動するが、60分1万5000円が相場とされている。「会うだけで10数万円」といった話が不相応な対価であることは18歳ともなれば十分に理解できるものである。

筆者は傍聴できていないため、公判で被告人と被害者の間でどのような交渉・約束があったと説明されたのか、はっきりとは把握できていない。事件の発端を充分に説明した報道もなかった。しかしそうした「被害者の行動にも問題があった」ことを認められず、クローズにしてしまう捜査機関や報道姿勢は公平性を欠いているようにも思われる。

被害者はそれまでも同じようなことを繰り返してきたのか、それは例えば自身の遊興のためだったのか、学費捻出のためだったのか、家族への経済的支援のためだったのか、などによって見え方は変わってくる。被害者の極端な「美化」や中途半端な情報によって、被害者もどこかグレーな印象を抱かれたまま騒動は突如スタックした。

パパ活にせよ売春にせよ、SNSやメディアが伝えるのはトラブルを回避できている「生存者バイアス」のかかった情報のみである。一方的な性被害に遭った事例や売買春が原因で起きた殺人などが起きても、そうした経験談までは誰も語らず報道されない。闇ビジネスに加担する人間の多くは「見返り」を求め「リスク覚悟」で参入してくるため、そうした警鐘があってもそもそもリーチされないかもしれない。

事件そのものを忘却するでなく、SNSやゲームを介したトラブル、売春や類似行為の危険性を周知し続け、同じような事件の発生を元から絶やしていかなくてはならない。それこそが私たちにできる被害者に対するせめてもの手向けではないだろうか。

 

被害者のご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

35歳男、死体遺棄の疑いで逮捕 不明の女子大学生か:朝日新聞デジタル