いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

両脚のない漂流者——サンディ・コーブのジェローム

カナダ東部ノバスコシア州にはある奇妙な男の実話といくつかの逸話が残されている。

 

沈黙の漂流者

1863年9月8日のこと、カナダ東部ノバスコシア州ディグビー郡サンディ・コーブ海岸で海藻採集をしていた漁師たちが奇妙な男性を発見する。

大人たちと一緒に作業をしていた通称“コリー”ことジョージ・コリン・オルブライト少年(当時8歳)は、ファンディ湾の岩浜にうずくまる黒い人影を認めた。近づいてみるとずぶ濡れになったその男には両脚がなく、傍らには水差しと乾パン缶が置かれていた。亜麻色の髪、青い瞳、年は19-20歳前後と若く見えたが、金も身分証明となる所持品も身につけていない。

漁師たちが語り掛けても男からまともな応答はなく、すっかり凍えて衰弱しきっていた。漁師たちはディグビー・ネック村へと男を運び、ひとまずコリーたちが暮らす家で引き取られることとなった。

 

包帯が巻かれただけの男の脚は、左右とも膝のすぐ上で切断されていた。偶然の怪我などではなく、切断面から外科医か、明らかな熟練者による仕業と見られ、患部は比較的新しいが塞がりかけているようだった。とにかく詳しいことは男の回復を待って聞くよりほかない。暖を取り、飲み物や食事を口にするようになったが、男はうめくばかりで言葉を発しなかった。謎の漂流者の噂を聞きつけ、村には野次馬が群がった。

漁師のひとりは、前日、セント・メアリーズ湾沖合800メートル辺りを往復していた船があったことを記憶していた。ビスケット缶と水差しがあったことから、男はひとりで漂流してきた訳ではなく、暗いうちに船で連れてこられ、何者かによって岩辺に放置されたのではないかと考えられた。

外国人ではないかと考えた者たちは船乗りたちを呼び寄せ、フランス語、ラテン語、イタリア語、スペイン語などで質問が試みられたが、男は理解しているのかいないのか、いずれも対話は成立しない。好奇でからかう者に対して、男は犬のように唸り声を出して敵意を示すこともあった。唯一、「ジェローム」と聞こえる単語があったことから、その男は以来ジェロームと呼ばれることとなる。

 

ジェロームの手のひらは柔らかく、地元の漁師たちと違って“タコ”ができていなかった。服は上質な布から仕立てられたものだったため、近郊の漁民や港湾関係の肉体労働者とは思えなかった。何も喋れない、語ろうとしない男の出自は人々の想像力を刺激し、様々な憶測が流れ、人々に一層興味を抱かせた。

彼はどこかの士官で、反乱を試みた罰として切断刑に遭って幽閉され、その後、島流しの刑罰が下されたのではないかといった仮説が支持を集めた。ある者は海賊船から投げ出されたのではないかと言い、ある者はもはや戦地で役立たずとなって船を降ろされた傷痍軍人説を唱えた。また別の者は、資産家の家に生まれたが相続権争いのために斥けられて幽閉された末、脱走に失敗して脚を切られ「追放」の憂き目にあったのだと噂した。いずれも推測の域を出るものではなく、確たる証拠は何もなかった。

文字通り「ジェローム」と発音したとすると、英語やフランス語の男性名のようでもあり、イタリア語の「ジローラモ」、オランダ語の「ジェローン」にも似通っている。あるいは人名でも何でもない全く別の外国語が偶々そう聞こえたとも考えられる。西欧諸国も今日ほど統一言語化されていなかったため、船乗りたちがジェロームの「訛り」を理解できなかっただけかもしれない。

その地中海風の風貌からフランス人かイタリア人ではないかと見る声も挙がった。イタリアの国家統一は1870年まで時を要したため、半島には多くの小国家が林立しており、戦火で脚を失ったとも考えられた。イタリアの港湾都市トリエステの話を聞かせると、なぜかジェロームはひどく腹を立てたという話もあるが、「トリエステ」に反応したと見るべきか、話者に対して苛立ったのかははっきりしない。

また彼の振る舞いにはどこか威厳があり、キャンディやタバコ、果物などの贈り物は受け入れたが、金銭を差し出されると苦々しい表情を見せたとも伝わる。誇り高い人間が“施し”に屈辱を感じたとも取れる報告であり元々は高貴な身分の出であることを想像させたが、食い物の価値は心得ていたものの金の価値が分からなかっただけとも捉えられる。

 

ジェロームは回復すると見た目も態度もジェントルで、機敏に移動することもできたが普段は座って大人しくしていたため、世話にはそれほど手がかからなかった。だが裕福ではないコリーの家では食い扶持に困り、ジェロームは村の家々を転々とすることとなった。

その村は英語を話すバプテスト派(プロテスタントの最大教派)のコミュニティだった。いつしか人々は、彼はカトリック教徒に違いないと判断し、発見から半年ほど経った1864年2月、「彼のために」フランス人コミュニティのメテガンへと追いやった。訴えを受けた州政府も彼が同地に留まらざるをえないものと判断し、週2ドルの生活費を拠出することを決め、財務報告書にも「ジェローム」の項が加えられた。

今日のカナダ南東部(ノバスコシア州-ニューブランズウィック-ケベック州周辺地域)は、ヌーベル・フランス(フランス人北米入植者)の植民地のひとつとして17世紀から定住化が進んだ。彼らは現地化が進み「アカディア人」として新たなアイデンティティを構築したが、英仏関係の悪化により植民者間でも衝突が起こり、18世紀半ばには多くの先住民を巻き込んでフレンチ・インディアン戦争が勃発。数で圧倒的に劣るフランス側は敗れ、追放や迫害の憂き目に遭った。以後、アカディア人は二等市民扱いされることとなり、一方でアメリカの独立などを受けてエスニック・アイデンティティを強めていった。

端的に言えば、面倒ごとをメテガンのアカディア人に押し付けた、陳情された州政府も処置に困り、そうするより他ないと判断したということであろう。

 

メテガンでは、コルシカ出身の脱走兵で片言ながら数か国語に通じたジャン・二コラがジェロームを預かることとなる。彼の試みでも言語は取り戻せなかったものの、およそ7年間を共に過ごした。ジェロームは子どもが遊ぶ様子を眺めていることを好んだとされ、ジャンの妻ジュリットや娘のマドレーヌらも彼を慕った。彼は日頃、日向ぼっこや暖をとることはしたが、仕事らしい仕事はしない動物のような日々を送ったとされる。喋れないからといって筆をとることもなく、本や読み物、写真にさえ関心を持たなかった。

ジュリットが亡くなると、ジャンはヨーロッパへ戻ることになった。ジェロームは近郊のサン・アルフォンス・ド・クレアに暮らすジャンの義弟デディエ&エリザベス・コモー夫妻のもとに身を寄せることとなる。夫妻には4人の子がおり、ジェロームを迎え入れてから更に9人の子をなしたため、たくさんの「子守」は彼の心の慰めになったかもしれない。

コモー夫妻の家は村のバスの停留所の目の前で、鉄道が敷かれる1870年代末までは人と物を運ぶための地域拠点となっていた。一家はジェローム知名度を利用して、入場料を取って見世物とし、州からの俸給と併せて裕福な暮らしを送ったという。

今日の倫理観に照らせば強欲に思えるかもしれないが、当時はサーカスや見世物興行が娯楽の王道であり、小規模ながらコモー家も繁忙期には数百人の見物客で賑わったとされる。ジェロームは時々顔を挙げるが大体はうつむきがちで、怪訝な態度を見せたり唸り声をあげたりするばかりだったと報告されている。

19世紀半ばには精神医療も黎明期であり、知性の欠如である「白痴」、あるいは周囲にトラブルを及ぼしかねない「狂気」に類型化するほかなく、有効な生活対処や緩和治療なども整備されてはいなかった。肉体労働が基本とされた時代、心身にハンディキャップを抱え労働力にならない人々は村で「愚か者」「無駄飯食らい」と冷遇されるか、豊かな家であれば「座敷牢」に幽閉されるのが通例だった。サーカスのような見世物であれ就労機会を得ることは、そうした暮らしに比べればはるかに人間的、人道的と捉えられなくもない。もちろんそこで虐待がなければの話ではあるが。

ジェロームのミステリーはアメリ東海岸でも度々報じられ、コモー夫妻の息子がニューヨークを訪れた際には「“ジェローム”のことを知っている」という2人組の女性たちから声を掛けられた。女性たちは、かつて彼はアラバマで生活しており親許を逃げ出したのだと告げた。コモー氏によれば、女性のひとりは確かにジェロームと瓜二つだったという。彼女はジェロームに渡してほしいと手紙を託し、コモー氏は届けたが、足のない男は封筒を何度もめくった後、中身を見ることなく小さく破いてしまった。彼が自分の正体を知る人間との接触を恐れていたのか、あるいはそれが何を意味する紙なのか理解が及んでいなかったのかは定かではない。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、バスから鉄道へ、木炭から石炭へ、漁業は水産加工業へと時代は、人々の暮らしは目まぐるしく移り変わった。コモー家の子どもたちもそれぞれ独立し、1902年、夫妻は丘の上の邸へと引っ越したが、同年、家長のデディエが亡くなった。以来10年余、エリザベスがジェロームの世話を買った。

〔Daily Echo] 1912-04-19掲載

謎多き男の身元を突きとめるために半世紀以上にわたって数十人のジャーナリストが挑み、数えきれないほどの野心家たちの手で多くの試みが行われたが成果はなく、彼は終生自分が何者なのかを語ることはなかった。

コモー夫妻のもとで40年余り過ごしたジェロームは、1912年4月15日に老衰と気管支炎により世を去り、メテガン教区墓地に埋葬された。

奇遇だが、タイタニック号が大西洋に沈んだ世界最悪の海難事故もこの日のことであり、かつての騒ぎに比して彼の訃報はささやかなものとなった。デイリー・エコー紙の記事では「体格が良く、年齢は75歳から80歳の間のように見え、知的な容貌と形の良い頭を持つ男性」と描写されている。

彼を直接知る人々もほとんどいなくなった2000年、メテガン教区墓地にはジェロームを祀る新たな石碑が設けられた。

 

アナザーストーリー

カナダは文書化された歴史が少ない国とされ、地域の記憶の多くは逸話として口頭伝承されてきた。サンディ・コーブのジェロームの物語もノバスコシアの人々の間で、親から子へ、孫の代へと、“本当にあった奇妙な昔話”のひとつとして語り継がれた。後世の詩人ケン・バブストックや小説家アミ・マッケイ、映画監督フィル・コモーなどにインスピレーションを与えた。

Jerome: Solving the Mystery of Nova Scotia's Silent Castaway

郷土史フレイザー・ムーニー・ジュニアは『ジェローム――ノバスコシアの静かな漂流者の謎を解く(未邦訳)』(2008, Nimbus Pub)のなかで、ジェロームに関する記録の断片と、派生した多くの伝聞を紹介。後半では、ファンディ湾の対岸ニュー・ブランズウィック州立図書館に眠っていた公文書記録を駆使して、ノバスコシア州ではあまり語られてこなかったひとつの有力な新解釈を提示している。

 

1859年12月のこと、ニューブランズウィック州を流れるガスペロー川北側で木こりの集団がキャンプ地を引き上げ、家族とクリスマスを祝おうと家路を急いでいた。村へ向かって凍てつく山道を下る途中、雪に埋もれた若い外国人男性を発見する。

男性は村へ運ばれ、チップマン教区の貧困者の救済支援を行う保険福祉監督に保護された。福祉監督は郡に報告して保護費用の援助を請い、村人たちは見知らぬその男を甲斐甲斐しく世話した。凍死の危機こそ逸したものの、彼はフランス語も英語も解さない。さらに深刻な凍傷から両脚に壊疽を負い、このまま毒が廻れば再び死の危険に晒されようとしていた。

61年3月にはグランド湖の対岸にあるゲージタウンのヘンリー・ピータース医師の許へ運ばれ、両脚の切断を余儀なくされた。彼は「イタリア移民」として住民登録が取られ、通称「ガンビー;Gamby」と呼ばれた。彼はしゃべりかけられても会話できなかったが、「常に“ガンビー”と繰り返していた」とされる。上手く発声することができず偶々そう聞こえたのか、それともイタリア語の「脚;gamba」に起因するものか、あるいは周囲の人間たちが言葉にならない男性の言葉をそう解釈したのかは定かではない。

ガンビーの体は徐々に回復したが知性の制御がままならず、食事を与えても、肉を食べきり、パンを食べきり、スープを飲み干すというように単品ずつでしか口を付けようとしなかった。やや女性蔑視の傾向が見られ、男性でも一部の人にしか懐かなかったとされる。人々の暮らしに余裕はない中、彼は山仕事はおろか手仕事さえもできなかった。

4年後、コミュニティの評議会はその負担から男の追放を決断し、W.コルウェル氏に彼の行く末を任せた。正確な依頼内容は定かではない。だが川下の港町セント・ジョンへと運ばれ、そこから貨物船で送還されることで話が付いていたとみられる。コルウェル氏は両脚とことばを失った男をブライヤー島まで送り届けたことを依頼者に報告した。

 

ムーニー氏はこの「足を失ったアイスマン・ガンビー」の物語が、ファンディ湾を挟んだ対岸に位置するサンディ・コーブで置き去りにされていた「ジェローム」の物語に接続するものだと主張する。今日の感覚で見れば、ガンビーやジェロームが脳障害や生死をさまよった後遺症が生じていた可能性が疑われる。またジェロームが海岸で発見される以前に人間不信に陥るような苦難に遭っていれば、しばしば大人には猜疑心を、子どもに愛着を見せた逸話とも合致する見方だ。

ジェロームの発話の困難は、発話制御を司るブローカ野の脳損傷に起因すると考えられ、動物のようにうめくことはできるが理解可能な言語であっても発語できなかった可能性があるという。ガンビーにも同じことが起きていたかもしれないが、彼が「ガンビー」と発話できていたとすれば、ジェロームはなぜ「ジェローム」としか言えなかったのか。「ガンビー」と「ジェローム」では聞き違えようはずもなく、強いて想像を膨らませるならば、ガンビーは実際には「ガンビー」と繰り返していなかったが、誤って、或いは恣意的にそうと記録された可能性がある。

更に20世紀初頭にチップマン地元紙が書いた記事には、ガンビーが凍死寸前で発見された当時、髭を伸ばし、その風貌は「26歳前後に見えた」という報告もある。どちらもあくまで印象論レベルでの話であり、瀕死状態であったことからその見た目も様変わりしていた可能性はある。山奥で木こり仕事をする人々と海辺で漁業を営む人々では人相に対する印象も違って当然かもしれない。だが26歳前後に見えたガンビーがニューブランズウィック州で4年程過ごした後、対岸で発見されたとして20歳の見た目になるのかは疑問が残る。

筆者はフレイザー氏の説が真相だとは受けとめていない。いずれも若者であることから労働力として売買されたか、大陸での仕事を求めて流浪した人物と推測する。ジェロームは何がしかの私刑や報復に遭って足を切断されたようにも、ガンビーは精神疾患や規則違反によって雪山に棄てられたようにも見える。ガンビーがジェロームになった訳ではなく、「公的記録」や「歴史」として残存した、再発見されたのが偶々その二人だったのではないか。ガンビーのような境遇、何らかの理由で脚を失い、棄てられるということは当時としては珍しくなかったのではないかと想像されるが、通常「棄民」の記録が残されることはそうないだろう。

 

後年、ジェロームを世話したコモー夫妻の孫娘は、「両脚のない謎の沈黙者が最期に密かにしたためたその半生」を書簡体小説(ファウンド・フッテージ)として物語化し、高校の作文コンクールで優秀賞を獲得したという。

両脚とことばを失った漂流者の謎は永遠に解き明かされるべきではないのかもしれない。事件に真相はつきものが、物語に正解はない。

 

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Great Unsolved Mysteries in Canadian History

http://www.mysteriesofcanada.com/Nova_Scotia/jerome.htm