いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

埼玉・飯能市親子3人殺害放火事件

2022年、クリスマスの朝、飯能市の住宅街を襲った惨劇について記す。

 

■概要

12月25日朝7時15分頃、埼玉県飯能市美杉台の住宅街で「大声を出して男が騒いでいる」「人が殴られて倒れている」「2階から火が出ている」など複数の通報があった。2階建て住宅の敷地内で男性1人、女性2人の三人が顔や上半身を殴打されて死亡しているのを駆け付けた警官が発見した。

被害者は、その家に住む米国籍のビショップ・ウィリアム・ロス・ジュニアさん(69)と妻の森田泉さん(68)、離れて暮らしていた夫妻の長女・森田ソフィアナ恵さん(32)の家族3人と確認された。恵さんは東京都渋谷区神宮寺で暮らしていたが、この日はクリスマスを祝うため両親の住む飯能市の家を訪れていたとみられる。

2階居室と1階リビングから火が出ており、計30平米を焼いたがまもなく鎮火された。現場からは溶けたポリタンク容器が見つかっており、部屋に油成分が検出されている。

 

周辺は西武池袋線飯能駅から西に入間川を挟んで約2km、1990年頃から分譲が開始された「美杉台ニュータウン」と呼ばれる新興住宅地で、現場となった住宅はその中心部に位置する。

女性の悲鳴を聞いて慌てて外に出た近くの住民は、ショルダーバッグを下げた黒いマスク姿の男が凶器を手に庭先で女性を追いかけ回す姿を目にしたという。「棒は長くて先がキラッと光った」と話した。クリスマスの朝、閑静な住宅街に「ハンマーを持った不審者が逃走中です」と防災無線が響き渡り、周辺に規制線が張られて警戒態勢が取られた。

 

住宅の入り口付近にあった防犯カメラが敷地に入っていく侵入者の姿を捉えており、同25日22時過ぎ、近所に住む斎藤淳容疑者(40)を殺人未遂の容疑で逮捕。その後、殺人容疑に切り替えて捜査が続けられ、27日に送検された。

 

ビショップさん夫妻は自宅の門や車を傷つけられたとして2021年8月中旬から12月にかけて6度に渡って被害届を提出していた。車は「刃物かドライバー様のもので抉られるような傷が全面に付けられ、修理に100万円かかった」と近隣住民は聞かされたという。ビショップさんは自宅に防犯カメラを設置し、警察も見回りなどを強化して警戒していた。

2022年1月、斎藤容疑者は器物破損の現場を認められて現行犯逮捕。余罪が特定されて3回逮捕されたが本人はいずれも否認。ビショップさん夫妻も「容疑者のことを知らない」と話し、示談が成立して不起訴となっていた。以後9か月間は警察にトラブルの相談なども入っていなかった。

現場に駆け付けた警官も以前器物破損の被害に遭った家だと気づき、容疑者宅のインターフォンをすぐに押したが、直後には応答がなかったという。また近隣住民も現場から自宅方向へ立ち去る姿を目撃していた。騒ぎを聞いて外に出た住民が現場方向から向かってくる男に対して「お前か?」と尋ねたが、男は興奮したり息を荒げる様子もなく無視して歩き去ったと話す。

だが防犯カメラや警察犬の反応から、男は犯行直後から自宅で不在を装い、潜伏していたとみられる。2階の部屋に立てこもって内側に物を置いてドアが開かないようにし、警察の捜索にも10分程度抵抗していたとされる。その後の調べにより、容疑者は玄関から襲撃に及び、家族が屋外に逃げ出たところを執拗に追い回して殴打した後、室内に侵入して火を放ったものとされた。

警察は過去の器物破損との関連から容疑者が一方的に恨みを募らせた可能性があるとみて詳しい経緯を調べている。

 

3人はいずれも鈍器のようなもので頭や首など上半身を激しく強打されたと見られ、犯行に強い殺意をうかがわせた。26日朝から斎藤容疑者宅の家宅捜索が行われて斧のようなものを含む複数の鈍器、返り血の付いた衣服などが見つかったが、取り調べに対しては「言いたくない」と供述を拒否した。

27日の解剖の結果、泉さんは前頸部損傷による出血性ショック死、恵さんは左側頸部損傷による失血死、ビショップさんは頸髄損傷だったと発表された。腕などに複数の防御創が残されていた。

 

■被害者

ビショップさんは米サウスダコタ州生まれ。1974年に来日して上智大学で国際関係学を学び、米フィラデルフィアテンプル大学映像人類学修士課程をおさめた。その後、日本を中心に、シンガポール、ソウルなど東アジア各地で暮らした。はじめは日本にある米国州政府の出先機関、その後は米国の製薬会社、医療品会社に勤め、2016年に退職。6年前に都内から飯能市へと居を移した。

テンプル大の外部諮問委員を長年務めており、大学は「一家の突然の死にショックを受け、深い悲しみにある」「テンプル大の家族だった」と追悼を捧げた。上級副学長は「米国から来日して数十年間、日本で暮らし、働いた。日本の若者の将来を大切に思い、国際教育に熱心だった。グローバルな人材がどのように考え、行動すべきかの手本だった」と述べた。

「作家もしている。私の名前で検索すれば本が出てきますよ」と近所の人とも気さくに話していた。夫妻は近隣でも笑顔であいさつや会話を交わし、人々は「奥さんは素敵な人だった」「恨みを買うような人には見えなかった」と口を揃える。

 

長女の恵さんは日本育ちで、2009年からマイアミ大学で学び、コミュニケーション、出版デザインの学士号を取得。マイアミのブティック・エージェンシーに就職したが2015年に帰国。都内の広告会社でバイリンガル性と国際的視点を強みとしたクリエイティビティを発揮し、DAZNViberBoseコカ・コーラ、UberEats、コロナビール、Snapchat、SCジョンソンなど国際企業の広告、ブランド戦略に携わった。

勤務先は「明るく非常に優秀で、弊社の大切な社員の一人でした」「社員一同とても驚き、大きなショックを受けています。ソフィアナさんならびに亡くなられたご両親のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族・ご友人の方々に対し衷心よりお悔やみ申し上げます」とコメントを発表した。

恵さんが大学卒業後に一時帰国した際には、自身のinstagramで「Life is filled with distractions butfamily always comes first(人生には気晴らしがたくさんあるけど、いつでも家族が一番)」と投稿し、若い頃から家族思いの一面を見せていた。

 

■加害者

斎藤容疑者は犯行現場となったビショップさんらの家から僅か60mばかり離れた同じ町内に、30年程前から家族と暮らしていたが、近年は一人で暮らしていた。以前は両親や姉、祖母、大きな犬2頭と一緒に暮らしていたが、2000年頃、両親が離婚後に家族が離散したと見られている。

 

近くに住む70代女性は、斎藤容疑者について「結婚もせず、働いている様子もなかった」、いつも一人で歩いている姿が印象にあると話した。80代男性は「最後に話したのは4月か5月。せんべいを食べるかと聞いたら『食べます』と答えた」「最近は庭に花やしその実を植えて手入れしているのを見た」と話す。

若い頃は大阪にある芸術大学に進学し、映画製作に取り組んでいた。当時を知る男性によれば、HIV患者を主人公にした『ギフト』と題する作品を映画祭出品に向けて作っていたと振り返る。クランクアップしたが、編集中に音信不通となり、映画はお蔵入りになってしまったという。男性は、話し合いのため飯能市の家に2度訪れたが、親の持ち家に一人で住んでいると話していた。学生当時の印象は穏やかだったとしている。

別の70代女性は、子ども時代を覚えており、「几帳面で挨拶もちゃんとできる子」「サッカーもしていて格好良かった」「事件を起こすような雰囲気は感じなかった」と言うが、この1年半ほど顔を合わせる機会もなかったと話した。文春オンラインでは同級生の母親の証言を紹介している。「活発で格好良く、スポーツもできるからアイドル的な存在でしたよ」としつつ「小学生の頃からこだわりが強い男の子という印象」とも語る。

全寮制の私立中学に進み、理由は伝えられていないが3年生のときに地元公立中学に転入していた。同級生は「他の男子生徒よりも髪が長くてかっこいい人だと思いました」と転入時の印象を語り、比較的おとなしく、積極的に発言するタイプではなかったという。「骨格は変わっていないけど様子が大きく変わっていたので、本当にあの斎藤君なのかと驚きました。卒業から25年経ちますが、何かあったのではないかと思いました」と話した。

https://www.ytv.co.jp/press/society/179968.html

斎藤容疑者の父親は読売テレビの取材に応じており、「事件を知って、正直に申し上げますと、めまいがして、悪夢を見ているようでした。本当にとんでもないこと」と話した。
息子と最後に会ったのは22~23年前だと言い、「子どもの頃は、本当に友達思いだったんですが…」 「(離婚後も容疑者と一緒に暮らしていた母親と姉は)出て行きました。理由は『(斎藤容疑者が)乱暴なことを言う』ということは聞きました」と振り返った。

 

■所感

一見すると、いわゆる「ご近所トラブル」かのようにも思われるが、22年1月の逮捕時も被害者夫妻は斎藤容疑者と面識がなかったと話している。また近所ではあるが、区画が道一本異なっているため、ゴミ捨て場や回覧板の班など日常的な接点もないという。

筆者は医師ではないため根拠はないが、比較的新しい移住者で、目につきやすいビショップさんの容姿などがきっかけとなって、容疑者から一方的に「敵」と見なされた可能性を禁じえない。一方的に敵対心を募らせて器物破損に走ったとすれば、統合失調症が疑われる事例である。

容疑者の母親や姉も10年ほど前に飯能市の家を離れており容疑者の異変に気付かなかったか、病状に気づいて診療を求めても抵抗され、頼れる男手もないことから打つ手なく放任する結果になったのかは分からない。離婚世帯、単身世帯や独居高齢者の増加などでそうした周囲からの見逃し、社会縁から取り残されるケースは今後も増えることが危惧される。

被害者宅は用心のために防犯カメラを設置していたが、本件では逮捕やその後の捜査には貢献したものの期待された「抑止力」は発揮されなかった。こうした事件に個人が、社会が講じられる術というのは果たして何が残されているのか考えさせられる。

筆者の考えが正しければ、ビショップさん夫妻や家族でクリスマスを過ごそうと偶々訪れていた恵さんには当然何の落ち度もない。おそらく今後、3人の殺害容疑で再逮捕・追起訴され、事件前後の精神状態を調べるための鑑定留置が見込まれる。結果次第では、裁判になっても罪に問えない可能性が小さくないことからここに経緯を記しておく。

 

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〔2024年4月追記〕

鑑定留置は延長を重ね、約10か月間にも及び、地検は刑事責任能力に問えると判断し、23年12月21日、殺人罪などの容疑で起訴した。

 

被害者のご冥福と遺族の心の安寧をお祈りいたします。

首なし事件【正木ひろし】

ときは太平洋戦争の渦中にあった1944年(昭和19)1月、茨城県で起きた警察による炭鉱夫暴行死事件について記す。

首なし娘事件(1932)のように頭部が切断された状態で遺体が発見された猟奇殺人とは全く毛色の違う事件である。頭と胴を切り離すことで、「病死」として闇に葬られかけた事件を暴いたのはある異色の弁護士だった。

「自白さえあれば他の証拠はなくてもよい」「自白は証拠の王」と解釈された戦前から続く刑事訴訟の悪しき慣習、「冤罪製造所」ともいえる国家権力たる「警察・検察・判事」に立ち向かった男の最初の事件である。

 

 

■炭鉱夫の怪死

敗戦の色が濃くなりつつあった東条政権末期の1944年1月20日茨城県長倉村(現在の常陸大宮市長倉)にあった加最炭鉱長倉採鉱所の現場主任・大槻徹さん(46)が花札賭博の容疑で逮捕された。逮捕したのは長倉村駐在の永洲忠男巡査(45)であった。

大槻さんは長倉村からおよそ12km離れた那珂郡にある大宮警察署へと連行され、当時34歳の大塚巡査部長から取り調べを受けることとなった。

 

大槻さんの逮捕から間もない22日、東京で暮らす加最炭鉱社長・佐藤勝子(44)のもとに大宮署から知らせが入る。あろうことか「大槻が留置場で病死したから引き取りに来い」というのである。死亡確認時刻は22日午前4時頃、死因は病性の脳溢血らしいと伝えられた。

佐藤社長はかねてより長倉村駐在の永洲巡査の不公正な言動に業を煮やしており、今回も逮捕は行き過ぎた措置だと警察に不審を抱いていた。大槻を知る人々も頑強だった彼が突然病死するとはやにわに信じることができないと話したため、社長は知人の紹介で、弁護士の正木ひろし(47)に相談し、不審死であると訴え、調査・弁護を依頼することにした。

 

帝国憲法下では警官による拷問、自白の強要は当たり前のように行われ、戦中の時局にあって官憲の横暴はもはや目に余るものがあった。拷問は検察はもとより裁判所においても社会を律するため、自白を得るための「必要悪」として黙認され、それを糾弾することは事実上タブー視されてきたのである。

だが刑事裁判になじみの薄かった正木弁護士は、官憲による拷問が疑われる事案と聞かされると黙って見過ごすわけにはいかず、その依頼を受けることにした。

 

■異色の弁護士

正木氏は東京帝大在学中から教諭として小中学校で教鞭をとり、卒業後は雑誌記者などを経て1925年から弁護士となる。東京麹町に事務所を構えて以来、民事事件を専門に扱っており、事業は軌道に乗った。

今日では最難関国家資格とされる弁護士だが、当時は帝大法学部を卒業すれば無試験で有資格扱いとされた。本件を契機として戦後いくつもの刑事裁判を争い、国家権力に立ち向かう「挑戦する弁護士」としてその名を馳せることとなるが、自身は刑事事件の弁護はもとより、かねてから志のある弁護士を目指していた訳ではなかった旨を明かしている。

 

政党政治が倒れて軍部が政権を握り、思想・言論統制が厳しくなりつつあった1937年から『近きより』という20~50ページほどの個人雑誌を発行しはじめた。

当時、印刷技術の向上や地方紙と全国紙による競争激化により、新聞部数の激増が起きていた。1920年に353万部、30年には1013万部、37年には1327万部へと推移したと推計されている。また1926年以来、「円本(えんぽん)」といわれる月1円で1冊ずつ文学全集などの定期購入がブームとなり、5年ほどの流行期間で300万点が発行されたと推定されている。マスプロ体制が確立し、活字の潜在需要が開拓された時期である。

そうした世の流れに抗うように正木は知人らに向けて3000部程を送付していたが、39年に著した大陸旅行記のなかで日本兵が中国人を抑圧する有様を伝えたことで検閲に遭い、発禁対象とされて以降は、東条内閣や国家権力に対して批判的な主張を打ち出していく。廃刊要請を無視して49年までほぼ月刊発行を維持した。

その後、ファシズムとも共産主義とも異なる思潮、戦中・戦後直後にかけての非戦・反戦論を伝える資料として再注目され、正木の死後、1979年に旺文社から全5巻で文庫化された。

近きより〈1〉 (1979年) (旺文社文庫)

帝大法学部出身ということもあり雑誌読者の半数は検察官や裁判官など法曹関係者だったとされる。

寄稿者には、大正デモクラシーの代表的論客として知られた長谷川如是閑漱石門下で『百鬼園随筆』などで知られた人気作家・内田百閒、近代日本文学を代表する作家・武者小路実篤、戦後に読売新聞社社長となるジャーナリスト・馬場恒吾らがいた。

感想を寄せた購読者には、陸軍大将で首相候補にも名を連ねた政治家・宇垣一成、阪急グループを創業した関西財界の雄・実業家の小林一三、『風の中の子供』で知られ戦前・戦後の児童文学を代表する作家の坪田譲治、「エコール・ド・パリの寵児」とされた画家・彫刻家の藤田嗣治リベラリズムファシズムコミュニズムに代わる政治哲学を模索した哲学者・ジャーナリストの三木清、日本近代詩の父とされた荻原朔太郎、日本に亡命したインド独立運動ラス・ビハリ・ボースらが名を連ねるなど、幅広い交友人脈をつないだ。

 

■かけひき

刑事事件に不慣れな正木だったが、事件性が明るみに出さえすれば事は進むという希望的観測もあった。1月24日、正木と佐藤社長は司法刑事局へ赴き、事件が疑われる不審死であるとして捜査を要請。亡くなった大槻さんの司法解剖と立ち合いを求めた。

翌25日、正木は担当検事・井出廉三氏と会い、解剖の可否、場所、日取りなどについて尋ねたがすべて「未定」で退けられた。逆に井出検事は正木に「いつ現地に赴くのか」としきりに知りたがった。当初、正木には現地訪問する心づもりはなかったが、不熱心と思われたくないゆえ咄嗟に「明日行きます」と答えたという。

同日、井出検事は急遽遺体の解剖を指示したものとみえ、夕方になって水戸検事局・高橋禎一次席検事と警察医である青柳兼之助医師が遺体の眠る御前山村蒼泉寺へと派遣された。

人手もなく暗所で灯りをともしての容易ならぬ解剖にも関わらず1時間と経たずにすべての作業を終えると、検事らは集まっていた遺族や炭鉱仲間らに対し、「死因は脳出血に間違いなかった」「早く遺骨を郷里に帰すように」と伝えた。

 

翌1月26日、佐藤社長は正木に、現地からの電報ですでに解剖が行われて脳溢血と断定されたことを伝え、2人で上野から長倉村へと向かった。村に一軒の旅館・今出屋に投宿し、関係者に話を聞いて回った。

前日の遺体解剖の立ち合いを許されたのは福島から駆け付けた遺族ひとりだけ。遺族は、「頭がい骨を切断したら、中は真っ赤な血が詰まっていた」とその様子を聞かせた。

また事件のあった22日早朝、駐在の永洲巡査に起こされて大宮署へ来るよう言われた炭鉱所長らが、その道中でよからぬ話を耳にしていた。炭の輸送を一手に担う「常北陸運」に大槻の死を伝えに立ち寄ると、所長の四倉繁作氏(45)は「相当ヤキを入れたんだな」と口にした。聞けば、前日の21日夕刻、取り調べを担当していた大塚巡査部長と酒の席で会い、「永洲(巡査)の報告書と食い違っているのでヤキを入れた」と聞かされていたのだという。

その後、大宮署で大槻の遺体を確認した炭鉱所長らは、「鉱主(佐藤社長)か遺族が来るまで署で遺体を預かっていてほしい」と頼み込んだが、警察はそれを拒み、遺体を車に積んで無理に引き取らせたという。

死亡当日に警察に呼ばれて遺体を確認した医師は「駆けつけたとき、まだ体温がいくらか残っていた気がする」と証言した。1月ともなれば深夜には零下となる極寒の時期、心停止すればすぐに体温は失われるはずである。

 

今日の「火葬」とは異なり当時は遺体をそのまま棺に入れる「土葬」が主流であった。しかし大宮には火葬場があったため、大宮署内で1~2日安置されていれば火葬されていた可能性もあった。幸いにして警察が炭鉱所長らに遺体を押し付けたがため、村に運ばれた遺体は焼かれずに埋葬されていた。

正木らは翌27日、蒼泉寺に足を運び土中から遺体を密かに掘り起こした。遺体の背中には青紫色に筋状の模様が浮かび上がっていた。正木には棒状のもので殴打された痕跡のように見えたため写真とスケッチを行い、拷問による暴行死を確信する。と同時に、遺体が腐乱してしまわないうちに一刻も早い再鑑定が必要だと考えた。

正木は、東京帝大で法医学教室主任教授を務める古畑種基に協力を得られないものかと依頼を試みたが、官庁からの解剖依頼は受けるが民間からは受け付けていないとして退けられる。当時、52歳だった古畑教授は医学界では血液学の権威として知られており、法医学の権威と目されて警察からの信頼も厚かった。そんな大教授のお墨付きが得られれば検察も起訴に踏み切らざるをえまいという算段だったがそううまくはいかない。

古畑教授は戦後、国鉄三大ミステリーと呼ばれた下山事件岩手県平泉・中尊寺のミイラ学術調査などで一般にもその名が広く知られることとなる。一方、現代の事件マニアにおいては、その死後、弘前大学教授夫人殺害事件、財田川事件、松川事件、島田事件で冤罪が明らかとされ、戦後「法医学者の権威」として轟いた高名は、警察・検察の「御用学者」へと転じることとなるが、それらはまだ先の話である。

 

■突破口

古畑教授に比肩する適任者はいないものか、どうすれば高名な法医学者に辺鄙な山奥まで足を運んでもらうことができるのかと正木は頭を抱えた。しかし悩みあぐねる猶予もなく、その足は東京帝大医学部の解剖学教室へと向かっていた。

正木は10数年前、絵画のデッサンの為、骨格標本を見に解剖学教室に通った時期があった。そこで縁故のあった西成甫教授(エスペラント運動家としても知られる)の知見に頼れないものかと考えたのである。久方ぶりの再会ではあったが毎月送付していた『近きより』によって関係は維持されていたようで、西教授は正木の急な相談にも耳と知恵を貸してくれた。

西教授は、そうした事情であれば解剖はやはり古畑教授が適任であろうと述べた。また脳溢血の場合、頭部さえあればその有無は判断できるとし、大胆にも「首を切って運べばよい」と話した。死体損壊は法に抵触するが、当時の裁判では証拠の重要性・正当性が認められさえすれば脱法的手段も罪に問われない可能性があった。

正木は佐藤社長らとも相談し、事の成否にかかわらず実行すれば今後も警察との軋轢となり事業に差し障る可能性もあると説明したが、それでも刑事告訴の意志は揺らがず、突破口を西教授の授けた策に託した。

2月1日、正木は炭鉱夫らと棺ごと掘り起し、西教授の元から派遣された解剖学者がその場で遺体から首を切断し、蓋つきバケツに隠し容れ、汽車を乗り継いで東京帝大へと移送された。門前払いされた「民間からの依頼」は西教授の口利きで「同僚からのお願い」となり、古畑教授の剖検が実現する。解剖の結果、外傷性の硬脳膜下出血と分かり、死因は鈍器で側頭部を殴打されたことに起因する「撲殺」と推認された。

病死ではなく暴行死とする古畑鑑定を以てすれば証拠価値は充分に思われ、検察も当然起訴に踏み切るとした正木の算段は外れ、待てど暮らせど検察からの報せがない。当局に探りを入れると、内部では「青柳鑑定は検事・遺族立会いの下で行われたもので信頼性は揺るがない」として大塚巡査部長の起訴云々は問題とされておらず、、一方の「古畑鑑定は弁護人の私的依頼に基づくものである」として「むしろ墳墓盗掘、死体損壊で正木を起訴すべし」とする空気が支配的となっていた。

 

年に一度、雑誌『近きより』では銀座で素人画展覧会を主催しており、会の常連に時の法相・岩村通世(みちよ)も名を連ねていた。最早なりふり構っていられないと感じた正木は大臣に経緯を説いて「早く大塚(巡査部長)を起訴してほしい」と直訴する奥の手に踏み切ったのである。

だが司法出身の岩村大臣は「古畑も医師だが、青柳も医師だ。どちらが正しいと言えるものではない」と公平な立場を取り、正木のあまりの申し出に難色を示した。しかし『近きより』愛読者である秘書官の助け舟もあって、正式に胴体の再鑑定が行われる運びとなる。

2月23日、御前山村蒼泉寺に古畑教授と慶大法医学主任・中館久平教授が鑑定に訪れた。幸いにしてその年の冬は厳寒で、寺は山の高地にあり、墓所は一日中日陰の位置だったため、死亡から1か月が経過していたが腐敗はそれほど進行しておらず再鑑定に耐えた。この日の解剖の現場を目にした村人が「首がない、首がない」と唱えたことがそのまま報じられるかたちで、本件は通称「首なし事件」と呼ばれることとなる。

正木が殴打痕かと推測していた背中の筋は外傷に由来するものではなく、死斑(血液循環がなくなることで浮かび上がる死後変化。埋葬は寝棺だったことから背面部に血液が溜まったものとみられる)だったことが分かった。だが胸部には小突かれたような擦過傷が十数か所確認された。

それよりも驚くべきことに、青柳鑑定では「内臓や大動脈にメスを入れたところ、アテローム変性(コレステロールが固まり血管に詰まりを起こす動脈硬化の原因)を確認した」と記載されていたものが、実際にはメスを入れていないことが暴露されたのである。

2月25日、頭部についても中館教授による再鑑定が行われ、結果は古畑鑑定と同一だった。もはや「同じ医師」であるはずの青柳鑑定には信頼性を認めるべくもなかった。3月3日、担当だった井出検事はお役御免となる。でたらめな解剖所見を行った青柳医師こそ起訴まで持ち込めなかったものの、4月8日、大槻さんの取り調べを行った大塚清次は「特別公務員暴行陵虐致死」の容疑で起訴収監された。

 

■裁判と背景

登り始めればすぐに頂が見えてくる。かと思うのは麓から眺めていられるうちだけで、いざ登ってみればそんな生温い山ではなかった。戦火の影響もあり、終戦を跨いで足掛け12年にもわたる法廷闘争に発展した。

天皇の御名の元、裁判こそは公正に執り行われるものと正木は信じていたが、警察関係者で埋め尽くされた傍聴席を見たとき非公開裁判の様相に思えたと記している。その後も自ら『近きより』で国家権力の横暴と本裁判の異常さを説き、法曹界の面々、ジャーナリストらも筆を執って援護射撃を繰り返した。それまで刑事裁判と距離のあった客観性を備え、大新聞ではない同人誌だからこそ支持の力は強固だった。

法廷外での活動が、暗中模索の中に一筋の光を照らす道標となり、法廷で戦う正木の背を押す支援の論陣となった。後年、正木自身も支援を表明してくれる名士らの力添えがなければ独力では潰されていたであろうと振り返っている。

 

1944年9月14日、水戸地裁で初公判が行われた。検察側はその「体面」を保つために被告人の無罪を主張。古畑教授への証人申請なくして不公平な主張を押し通し、11月18日無罪判決が下される。

水戸地検にその意思はなかったが、11月24日、東京控訴院検事長より上告命令が行われる。検察側にも正木への支持、裁判の取り直しを求める声があったのである。

しかし1945年5月25日、大審院第二刑事部では空襲により記録が焼失される。正木が所持していた写しを基にして、再び水戸地裁での訴訟継続を命じられることとなった。

戦後、1946年2月に再開された一審では、検事が途中交代となるも11月、またしても無罪判決。しかしこれにも検察側が控訴する。

途中退任となった大久保重太郎検事は後に裁判官に転身し、1965年7月『法曹』177号で「水戸の検事正と次席検事が自然死を主張して聞かなかった」と裁判の内幕を明かしている。検察局内部も一枚岩になり切れていた訳ではなく、無罪はもとより判決文の内容にも強くこだわったのである。

1947年2月から1年半を要した控訴審では、ついに被告人の有罪判決・懲役3年が下された。無罪判決を覆された被告人は無論、上告を請求した。

1949年1月13日から52年12月25日まで続いた上告審で、最高裁・沢田竹治郎裁判長は有罪の証拠に乏しいとして上告を棄却。審議の差し戻しを言い渡す。

1953年2月21日から54年5月29日にかけて東京地裁で行われた差し戻し審で、坂間孝司裁判長は改めて有罪判決を下す。またしても被告側が判決を不服として上告を求めた。

1955年12月16日、最高裁第二小法廷・栗山茂裁判長は上告の棄却を言い渡し、これにより懲役3年の有罪判決が確定する。

三度の上告審を経て、一度は闇に葬られかけていた官憲の横暴は日の下に晒され、遂には罪を認めさせることで決着したのである。

事件の背景として戦時下での物資不足があった。

日本は連合国側からの経済封鎖に伴い、燃料輸入が断たれていた。石炭の供給が著しく不足し、国内の質の低い燃料の採掘にも着手せざるをえなかった。そうした時節、茨城と栃木の県境にある御前山地域で産出される亜炭(褐炭)を求めて、加最炭鉱長倉採鉱所と倉橋炭鉱の二社が採掘事業でしのぎを削っていた。両社とも100名内外の炭鉱夫・選炭婦を抱え、採掘された亜炭の大半は、御前山から赤塚までを結ぶ茨城鉄道(1926-1971)で移送され、水戸から東京方面へと搬出されていた。

亜炭は、古代の地層に埋もれた樹木が石炭に変化する途上のもので、石炭に比べて燃焼カロリーは低く、工業用には不向きだが家庭用として用いられた。茨城鉄道では戦中、亜炭で機関車を走らせようとしたが馬力がなく、坂道を上りきれずに乗客が途中で降ろされた、といった話も残る。戦局険しい中、周辺住民や出稼ぎ労働者にとっては数少ない収入源として、採掘元にとっても終戦が先か枯渇が先かも見えない中、貴重な資源であることには変わりなかった。

市民の娯楽は制限された戦時下、花札賭博は違法行為に該当し、逮捕そのものは不当とは言えない。しかし娯楽もない山奥で炭鉱夫たちが限られた余暇の中でできるせめてもの息抜きと考えれば、強盗や殺人などとは違って「お目こぼし」されてよい軽微な罪なのだ。死ぬまで殴られなくてはならないような極悪行為とは誰も思わない。

山の駐在が日頃からそんな微罪まで逐一目くじらを立てて取り締まっていればさすがに地域社会とうまく折り合いがつくはずがない。駐在ひとりの意思・判断で逮捕した訳ではあるまい。駐在は刑事罰を免れてはいるが、ライバル炭鉱との癒着、加最炭鉱への嫌がらせのために摘発した疑いが残る。大槻さんを逮捕した駐在署員も、当初は大宮署で何日か絞られればすぐに戻ってくるものと踏んでいたかもしれない。

しかし取り調べに当たった担当刑事はそんな村の事情は露知らず、いつまでも口を割らない出稼ぎ炭鉱夫の態度に肝を据えかね、容赦せず「シメてやった」というのが実態ではないか。限りなく殺人に近い暴行致死だが、無論、殺害する意図はなく業務に熱心すぎた余りの暴走である。ブレーキの利かなくなった官憲に油を注いだ駐在の罪はあまりにも大きい。

 

■その後

正木ひろしが門外漢でなかったならば、不審死について聞かされたときも端から「そういうものだ」と匙を投げて権力に迎合していたかもしれない。弁護士資格への執着が人並みに強ければ、その身を賭して葬掘にまで踏み切ることはできなかった。発禁命令に従って『近きより』を投げ出していれば、はたして古畑鑑定や大臣への直訴にはたどり着かなかったに違いない。

自身はなす術なく邁進したのみと謙遜するが、氏の類まれな反骨心と後先顧みない勇敢さ、様々な奇跡が事件を日の下に引きずり出した。

正木ひろし―事件・信念・自伝 (人間の記録)

長引いた本件裁判と並行しつつ、戦後も検察や裁判官、国家権力に立ち向かうことを決意し、多くの刑事事件裁判に携わる。争われた事件について多数の著作を出版し、キリスト教ヒューマニズムの立場から、不当逮捕をする警察、冤罪を招く検察官のやり口、裁判官の欺瞞を世に問い、世論を喚起する手法を取った(1987年・三省堂、2008年・学術出版から著作集が刊行された)。自身は反共主義の立場でありながら反権力の信念から共産党員の弁護も行っている。

1946年5月の食糧メーデーで参加者が掲げた天皇を揶揄するプラカードが不敬罪に当たるとして逮捕されたプラカード事件、死傷者20余名を出した列車暴走で「国鉄三大ミステリー」に数えられる三鷹事件、18年にわたる裁判で高裁と最高裁を3度往復し死刑と無罪で判決が行き来した八海事件、公安が共産党員検挙のため駐在所爆破をでっちあげた謀略の疑いがもたれた菅生事件、逮捕者2名は冤罪であり真犯人は被害者親族3名だと公表して物議を醸した丸正事件など、難事件の弁護に当たった。

その後、首なし事件について記した著書『弁護士』は『首』(1968)として映画化された。監督は、東宝黒澤明らに師事した森谷司郎監督。のちに『日本沈没』『八甲田山』などの大作でも森谷監督とタッグを組んだ橋本忍が脚本を担当した。

 

 

参考

・『広報 常陸大宮』平成25年4月号、第78回「ふるさと見て歩き」

https://www.city.hitachiomiya.lg.jp/data/doc/1366887806_doc_1_8.pdf

【トナリ山本】栃木県市貝町 身元不明男性殺害事件

1996(平成8)年、栃木県市貝町の竹やぶで男性の腐乱死体が発見される。状況からみて殺人事件と見られたが、四半世紀経った現在も犯人はおろか被害者の身元の特定すらできていない未解決事件である。

履いていたズボンのタグには「トナリ」「山本」という書き込みがあった。

 

www.pref.tochigi.lg.jp

情報提供は

茂木署捜査本部(電話)0285(63)0110

または 【栃木県電子申請システム】手続き申込:申込 まで

 

 

■発見

1996年4月21日(日)13時20分頃、栃木県芳賀郡市貝町多田羅の竹やぶで布団袋に入れられた人間の遺体が発見された。

見つけたのは近くの中学生で、日頃から竹やぶ脇の町道を通学しており、布団袋自体は2週間以上前から投棄されていたのに気づいていたという。布団袋は空色地に白い小菊の柄が入ったもので、黒い紐で袋の口が縛られていた。

証言によると、17日の学校帰りに友達数人と棒きれで突っついてみたところ、柔らかかったので面白半分に「死体だ」等と言い合っていたが、そのときは中身をはっきりとは確認していなかった。

21日、部活帰りに一人で通りがかって見てみると、袋の二か所に裂け目があり、めくってみると土色の手が見えた。同時に異臭が漂ってきて、怖くなって一度は逃げ出してしまったという。その後、現場に戻ってきたところ他の住民らが気づいて通報した。

通報を受けて警察が中身を確認したところ、遺体は男性だと分かったが見た目では年代の判別もできないほど腐乱が進行していた。県警は殺人の疑いがある死体遺棄事件とみて、茂木署に捜査本部を設置し、行方不明者リストとの照合を進めた。

 

■捜査ー被害者の基本情報

近隣住民などへの調べにより、布団袋は3月下旬にすでに竹やぶに置かれていたという情報が得られた。

解剖所見や鑑定では被害者男性について以下のことが判明した。

「年齢40~50歳代」

「身長182㎝、体重約58㎏でやせ型」

「髪は直毛でやや長め(襟にかかる程度)、白髪や染めた形跡なし」

「血液型O型」

死後一か月以上と見られるが、死因は不詳。目立った外傷や手術痕は確認されなかった。

 

発見時の服装は、次の通り。

「濃い紺色ダブルのブレザー(サイズA体七号)」

「薄い灰色のワイシャツ」

「緑地に柄入りのネクタイ(「ALAIN DELON」ブランド)」

「灰色のズボン(ウエスト79㎝)」

他に「Christian Dior」ブランドのハンカチを所持していた。下着はトランクス(サイズM)。

「靴」は履いておらず、靴下に関する情報は出ていない。

そのほか身元の分かる所持品は見つからなかったが、ズボンのタグ上部に「トナリ」、同じタグの左部に「山本」と読める書き込みがされていた。

ズボンのタグに「トナリ」「山本」

昨今は紙製のタグを付けるなどして管理する店舗が多いが、個人のクリーニング店などでは取り違いなどを防止するために品質表示タグにメモ書きをすることもあった。

筆致からすると両者は別の機会に別人の手で書かれたように素人目には読める。別の店で書かれたのか、同じ店の別人が書いたものか。「トナリ」の方がより薄れているようにも見えるが、どちらが先に書かれたのかは判断できない。少なくとも「山本」の綻び具合からして文字が書かれてから相当の時間経過が窺える。

 

捜査本部は関東全域・東北のクリーニング店数万店に調査を進め、「山本」姓の顧客を洗い出したが被害者特定には至らなかった。しかし千葉県千葉市若葉区のクリーニング店で「うちで書いた」、同じく千葉県の市原市内の店で「そのズボンを扱ったことがある」との情報が得られた。

両店の詳細は報じられていないが、千葉市若葉区市原市は隣接こそしていないものの20km前後と比較的近い距離にある。

2017年6月には、栃木県警は被害者男性が「千葉県内に住んでいた可能性が高い」とし、千葉県警本部で情報提供を呼び掛ける記者会見を開いた。長期未解決事件捜査班も被害者特定の「ラストチャンス」と強い意気込みを見せて会見に臨んだが、その後の進展は聞かれていない。

ブレザー、ズボン、布団袋について流通経路を調査したところ、上のように確認された。販売時期などは公表されていない。

県警情報とズレがあるが、下野新聞はブレザーは東日本を中心とした大型商業施設1社73店舗で33着が販売され、ズボンは東日本の3社57店舗で93本の出荷実績と報じている。

今日的な「大量生産品」に比べれば比較的流通量や販売地域は絞り込まれている。3点がいつどのように入手されたものか、とくに布団袋は被害者所有のものだったのか判然としないが、神奈川県、茨城県新潟県宮城県岩手県では3点とも販売実績がある。そのほかの販売状況から見ても、東日本での居住歴が長かったと推測して差し支えないように思われる。

 

口内は歯茎の炎症跡から「歯槽膿漏」の進行が指摘されており、前歯に隙間があったという。上のチャート表では「健全歯」12本、「欠如」9本、「死後脱落」3本、「残根状態」1本、「インレー●落」3本、「c3」1本と記されている。

「インレー」は詰め物のことで、続く文字が解読できないが「詰め物が剥がれてしまった状態」を表す記載と推測する。

「c3」は虫歯の進行度で「神経に達している状態」を意味しており、簡単に言えば「強い痛み」が予想される。

家庭はあったのか、どんな性格だったのかは定かではないが、彼がデンタル・ケアを疎かにしていたのはほぼ事実と言えそうだ。

 

■地理関係

発見現場について違和感を抱かざるを得ない。

場所は真岡鐡道「多田羅駅」から宇都宮方面へ西へ1kmいった農村部の一角。竹やぶの前後に民家が3軒ある。竹やぶの奥ではなく道路沿いから竹やぶ脇に遺棄されたものとみられ、いわゆる「人目に付きづらい場所」には該当しない

芳賀郡一帯は、山と川と田畑に囲まれた自然豊かな村落の景色がどこまでも続く。車通りが全くないような辺鄙な道でもなく、どこにでもあるような竹やぶと道路の境に布団袋は打ち捨てられていた。

約3km離れた場所には「花王」をはじめ化学工場が複数あるが、人口約1万2000人の小さな町に発展した商業区域はない。自家用車の普及率が高く、多田羅駅は乗車人数が日に100人もない小さな無人駅である。

現場から数十m西には、睡蓮の名所「多田羅沼」があり、隣接する古墳群とともに環境保全地域とされている(下ストリートビュー)。観光客は多くないが、温かくなったこの時期であれば日中は散歩や釣りに訪れる人もいる。

 

更に西に1km程進むと県道123号「宇都宮笠間線」につながる。20km西進すれば栃木県の中心都市・宇都宮市街に、多田羅駅から南東へ25km進めば茨城県笠間市方面へと行きつく。

 

1999年12月に発覚した栃木リンチ殺人では、多田羅駅の東側にあるに伊許山園地周辺の人目に付きづらい山地の一角に穴を掘って遺体を埋め、上から板を敷いて発覚を免れようとしていた。

本件の遺体発見現場は田畑の多い平野部だが、周辺の益子町や茂木町に入れば、人目に付かない山道や近寄れない谷や窪地がいくらでも存在する。

何を指摘したいのかと言えば、周辺地域は人目に付かない隠し場所がいくらでも思いつくエリアながら、犯人は要らなくなった古布団でも不法投棄するかのように、ただ道路脇に車を寄せて竹やぶにポイ捨てしたらしく、要は隠す気がないのである。

 

■検討

地理的検討を続ける。

当時の道路状況を確認する術はないため2022年現在のグーグルマップで計算すると、千葉県千葉市若葉区から市貝町の遺体発見現場までその距離140km前後、車で2時間20分程度。市原市から市貝町の現場まで170km前後、車で2時間半程度を要する。

犯人が越境犯罪を念頭に県を跨いだとしよう。千葉を北上して茨城を越え、更に栃木にまで足を伸ばしたとすれば相当「周到な性格」が窺える。しかし遺棄状況が人目に付きやすい何でもない竹やぶに道路脇からポイでは、「周到な性格」とは相いれない。

2県を縦断するほどの周到さを以てすれば、土地勘がないにしても発覚を免れるためにそれなりの適地を探す。何も栃木の農村部に出向かなくても、房総半島南部には山々や多くのダム湖があり、千葉にも茨城にも東部には海がある。それらをスルーして竹やぶにポイはあり得ない。

「隠す気がない」遺棄状況から逆算すると、犯人は殺害後にそれほど手間を掛けずに遺棄したかったと見るのが妥当ではないか。近所とは言わないまでも、発見現場から車で1時間程度、半径50km圏内が殺害現場候補に挙がる。

注意すべきは、後述する事例でもそうだが、被害者の住所、殺害現場、遺棄現場がそれぞれ離れていることもありうる点だ。

たとえば千葉在住の被害者が茨城で殺害され、栃木に遺棄されたとしてもおかしくはない。また殺害現場が加害者や被害者の関係先か否かも不明である。宿泊した宿や移動中の車内で殺害した可能性もないとはいえない。

 

被害者の検討に移る。

死因不詳」については、おそらく腐敗が進行して推認に足る判断が下せない状況ということかと思う。だが「目立った外傷がない」ということから刺殺や撲殺、交通事故の類ではなかったと考えられる。

また情報提供を求めるチラシには「被害時の服装」としてブレザーを着ていない「シャツ姿」の画像が加えられていることから、逆説的に遺体はブレザーを着用はしておらず、袋に一緒に入れられていたと捉えられる。

犯人は財布や時計などの所持品を奪ったとしても、まで奪ったとは想像しにくい。おそらく犯行は室内で靴を脱いだ状態で行われ、高身長のためバッグやごみ袋などに詰められず、さりとてそのまま車に積むのは憚られたため布団袋に押し込んだと推測される。

 

トナリ」は「隣り」なのか、それ以外の何かを意味するものかは分からない。タグだけ見ると、他の山本さんではなく、「隣り」の「山本」さんの品物というようにも想像できなくもない。

だが「戸成」「都成」「十鳴」「Tonali」など人名の可能性も排除できない。

 

「山本」は人名と考えてよいかと思う。よくある色味の男性用スラックスであることから、別人の類似品と区別する目的で記入されたものと推測される。問題は被害者の名前なのか、被害者より以前の持ち主などを指すものかである。

真新しい品物ではないだけに、可能性だけでいえば「トナリ」さんを経て「山本」さんのものとなったり、クリーニング店の「隣り」の人や「山本」さんを経て被害者の手に渡ったりしていても不思議はないように思われる。

 

体格については、身長180㎝の40歳代、50歳代のBMI(肥満度)平均値が約24、平均体重が約78㎏である。推定とはいえ被害者は182㎝、58㎏でBMI値は17.51。その年代では珍しいくらい長身細身である。

生前、着衣のサイズが全然フィットしていなかった可能性はあるだろうか。だが痩身の人が実寸より太い着衣を着ることはあっても、豊満な人が細いサイズを長年着続けることはない。つまり被害者は長年にわたって細身だった可能性が高く、知人からの譲渡や中古品の購入は可能性としてはかなり低いのではないかと思う。

また犯人が、アシが付きにくいように「衣類を剥ぎ取る」、ジャージやスウェットのような「大量生産品に着せ替える」のならまだ分かるが、わざわざ流通経路が絞られるものやブランド品、ネクタイまで身につけさせる意図は考えにくい。やはり警察の見立て通り、着衣は被害者本人のもので「山本」率は高いのではないか。

 

ブレザーやズボンもオーダーメイドではないが年季が入っており、アラン・ドロン(1970年代に一世を風靡したフランス人俳優アラン・ドロン氏が立ち上げたファッションブランド。東アジアを中心に展開)のネクタイやディオールのハンカチなど、身なりにその人のこだわりを感じさせる。

だが96年当時の流行ではなく一回り二回り古い「時代もの」で、70~80年代前半に30歳代前後で身に着けていたものではないかと推測される。

一般的なサラリーマンや工場勤め、工事作業員などとも異なる一見派手な装いから、個人事業主、不動産や風俗店経営者、料理人など景気に左右されやすい職種を想像させる。失礼を承知で憶測を広げれば、芳しくない口内状況から見て元々の育ちは恵まれたものではなく、若い頃に買った一張羅を長年愛用し続けた印象を受ける。

ホームレスとも思えないが裕福にも思えない被害者は、借金踏み倒しや不義理を働いたことで殺害されたと筆者はみている。被害者が暴力団関係者であれば警察、組織側でも動態は把握しており、身元不明のままにはならないのではないと考えられる。

それならば仕事関係者や身内から「もしかして」と声が挙がらないのはなぜなのか。

 

■なぜ身元が特定されないのか

ひとつめに家族や知人が少ないこと。歯磨き習慣が身についていなかったことを重視するならば、ひとり親や養護施設など身寄りの少ない環境で育ったことも推測される。

 

次に事件のニュースそのものが届いていない可能性だ。

「殺人の疑いのある死体遺棄事件」が当時どこまで大きく取り上げられたか。地元紙は続報を伝えているが、テレビ報道では被害者遺族や手掛かりがないことにはニュース映像にできず、バリューは低下する。

発見当時に栃木県内でのテレビ放映があったのか確認できていないが、扱ったにしても「事件としての情報がない」ためボリュームは極めて限られる。要はニュースにしづらい事件であり、被害者が栃木県外の人物であれば尚のこと関係者の耳に男性の死が伝わっていないことが予想される。

遺体の発見は1996年4月21日で、その3日後には前年5月に逮捕されたオウム真理教元教祖・麻原彰晃こと松本智津夫の初公判が東京地裁で開かれている。全国報道も人々の関心も栃木の片田舎で発見された「名もなき遺体」に向かなかったことは疑いようもない。

 

さらに男性に失踪するような理由があった場合、たとえば多額の負債や周囲とのトラブルを抱えていたりすれば、あえて身内や知人も捜索願を出さない可能性は考えられる。こどもや若者が理由もなく姿を消せばだれしも心配するが、40~50歳代男性となると周囲が「夜逃げ」で納得してしまい届け出すらしていないことも考えられる。

トナリ山本復顔図

かたや捜索願は出されているが、届け出が見逃がされているケースも考えられる。捜査本部は「県内最古の未解決事件」を躍起になって調べていることとは思うが、届け出情報の不足や届出人の誤解・情報の曖昧さによって被害者と一致が確認されない、あるいは確認すべき届出人と連絡が取れなくなったケースなども想像される。

たとえば栃木では次のような「見逃し」事例が存在する。

 

2008(平成20)年6月1日、栃木県塩谷郡塩谷町風見山田の町道脇に捨ててあった旅行用キャリーバッグの中から拘束された若い女性の遺体が発見された。翌年9月に復顔イラストが公開されたものの身元が判明せず、2011年6月に死体遺棄罪の公訴時効が成立。しかし10月に入って捜索届を受理した大阪府警の捜査員が復顔と捜索中の女性が似ていることに気づき、栃木県警と家族に連絡を取った。

DNA型鑑定や歯型の照合により、女性は2007年9月18日に行方が分からなくなった大阪府守口市在住のOさん(失踪当時25歳)と判明。なぜ彼女は大阪から600km以上も離れた栃木県で他殺体となって発見されたのか。

大阪府警と栃木県警は合同捜査本部を設置し、Oさんのパソコンを解析。チャットサイトを通じて栃木県宇都宮市に住む男との交際関係を確認し、2012年1月24日、不動産販売会社社員平垣巨幹(51)を殺人の容疑で逮捕した。平垣には妻子がおり、関係がこじれたため清算したくて殺害したと容疑を認めた。

平垣は2007年9月18日に東京都内で太田さんと待ち合わせ、江東区内のビジネスホテルで首を絞めて殺害。用意していたキャリーバッグに詰め、栃木に運んで遺棄したとされる。

無論、栃木県警も家出人捜索願の照合を行っていたはずである。思うに、発見までの8か月で腐敗が進行し、顔貌はおろか身体的特徴も充分には把握できなかったと想像される。府警捜査員の奇跡的ともいえる気付きがなければ完全にお宮入りとなっていた事件だ。

家出人の届け出にどの程度の情報が含まれるかは人によると思うが、生存者発見につながる情報しか収集されていないはずで、前科などがなければ「DNA型」や「歯型」「指紋」といった個人の身体識別データは含まれない。

だが現実には腐乱や白骨化して発見され、生前の身元すら判明しない行旅死亡人は年間600名を超える。本件のように「不審死」でなければ自殺か他殺かもあやふやなまま詳しい調査が行われないケースも存在する。

年間80000件超の捜索願すべてのDNA型鑑定は現実的ではないにせよ、ケースによって情報調査の追加、家出人捜索の再検証など捜査システムの見直しを行う必要があるのではないか。

 

過去記事の兵庫県千丈寺湖(青野ダム)死体遺棄事件でも被害者は10年以上身元が判明していない。三田署・武田香刑事課長は「知り合いに似ている、10年以上顔を見ていない人がいるなど、ささいな情報でも連絡してほしい」と呼び掛けている。

三田署TEL 079563-0110

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

市貝町の事件に話を戻そう。

身元特定に至らないもうひとつの可能性として、「見せしめ殺人」との見方も考えられはしまいか。

家族を失った独身男性であったとしても、40年50年間だれとも関わりなく生きてきたということはない。今日であれば40歳50歳の引きこもりで長年人間関係をもたない人もいるかもしれないが、1996年はそこまで没交流で生き抜ける時代でもなく、いわんやネクタイを締めた引きこもりなど考えられない。

だとすれば、家族や知人が彼の死や長期失踪に気づいても申告できない事情があるのではないか。男性は生前殺されてもおかしくないような事情を抱えており、犯人は「逆らえばこうなるぞ」「約束を破れば同じ目に遭わせるぞ」と周囲への見せしめに殺害したと考えれば、隠す意思のない遺棄の仕方にも合点がいく。家族や知人は犯人からの報復を恐れて申告を躊躇しているのかもしれない。

 

 

身元が判明すれば捜査は大きく進展する可能性がある。事件の背景ははっきりしないが、今ものうのうと暮らしているかもしれない犯人を野放しにはできない。人知れず第二第三の被害者を生んでいる可能性だって考えられる。市民の気付き、些細な心当たりから凶悪事件の綻びを明るみにし、解決につなげてもらいたい。

被害者のご冥福をお祈りいたします。

 

吉川友梨さん行方不明事件

2003年(平成15年)、大阪府泉南郡で起きた9歳女児の行方不明事件について記す。

ご家族や警察の20年にも及ぶ懸命の捜索にもかかわらず、現在もその行方は露として知れない。ご家族との一日も早い再会を願ってやまない。

www.police.pref.osaka.lg.jp

当時、現場周辺で不審な人物や車両を見かけた、通りがかったり駐車していた記憶がある、事件後に女児らしき人物や犯人らしき人物と接触した、犯行をほのめかすような話を聞いたなど、些細な情報でも通報を求めている。2023年7月1日まで有力情報には最大300万円の捜査特別褒賞金が指定されている。

 

情報提供先は、

大阪府警泉佐野署 電話 072(464)1234 FAX  072(462)0854

 

■概要

2003年5月20日(火)15時ごろ、大阪府泉南郡熊取町七山で町立北小学校に通う4年生・吉川友梨さん(9)が下校途中に行方が分からなくなった。

その日は社会科見学で此花区にある大阪市立下水道科学館へバスで訪れていた。友梨さんはいつもより1時間ほど早起きして「これで準備ばっちりや」と朝から意気込んでいたという。

見学を終えてバスは14時30分頃に小学校へ戻り、通常授業日より30分程早い14時40分頃に解散となった。普段は家の近い同級生と一緒に帰宅していたが、この日は別の同級生3人と一緒に下校した。

友梨さんは学校から1.2km、自宅から約600m離れた七山交差点付近まで差し掛かると、同級生3人に「バイバイ」と言って別れた。

七山交差点で同級生たちと別れた友梨さんは一人で自宅のある北東方向へ

 

友梨さんは交差点から自宅方向(上のストリートビューでは看板の見える右手方向)へと進んでいった。100m程進んだところで、自転車に乗っていた同級生男児とすれ違った。男児は先に帰宅しており、自転車で遊びに向かう途中だった。すれ違いざまに「バイバイ、遅いね」と男児から声を掛けると、友梨さんは笑顔を見せていたという。

目撃地点付近の下のストリートビュー右手には、情報提供を求める看板が映っている。

 

また別の女児を迎えに行く途中だった母親が同じ道を歩いており、友梨さんと自転車に乗った男児の姿を目撃していた。女児の母親の証言から、友梨さんと男児がすれ違った時刻は15時前後と推測された。

すれちがい地点から400m程先、友梨さんの自宅まで数十mの場所には当時バス停があった(下のストリートビュー地点。現在はバス停廃止)。停留時におよそ10分間の時間調整を行う場所とされており、この日は15時15分から25分頃まで停車していたが、運転手や乗客らは友梨さんらしき女児を目撃していなかった。

 

それらの状況から、同級生男児とすれちがってからバス停までの数百mの区間で、15時から15時15分の間に連れ去られてしまったものと考えられた。

 

17時頃、兄が友梨さんが帰宅していないことに気づき、その後、一家総出で周辺や通学路を捜索。19時30分頃、警察に通報した。

泉佐野警察署に捜査本部が設置され、当初は身代金目的の誘拐の可能性もあるとして逆探知やレコーダーを配備して捜査員による張り込みが行われた。しかし身代金の請求はなく翌21日には公開捜査に切り替えられた。

 

当時、地区では集会があり、周辺住民らが一堂に会していたこと等もあり、目撃情報はなく、事故の形跡や物音、叫び声なども聞かれていなかったことから、自動車で一瞬のうちに連れ去られた可能性が高い。

その後も周辺の山林やダム、ため池など広く捜索が行われたが、有力な手掛かりは得られなかった。

 

■情報

熊取町大阪市の中心部から約30km南、関西国際空港のある泉佐野市の東隣、貝塚市の西隣に位置する。大阪市ベッドタウンにも数えられる、当時人口4万3000人ほどの長閑な田舎町である。

だが事件マニアにおいては別の印象を持たれる方もいるかもしれない。1992年(平成4年)4月から僅か2か月半の間に、17歳から22歳の若者7人が相次いで不審な死を遂げた土地としても知られている。シンナー中毒によって誘発された事故死、あるいは自殺として処理されたが、当時人口4万人の小さな町の半径1.2kmという非常に狭い地域で短期間に続いた若者たちの死はその後ネット上で度々話題とされた。

女児行方不明事件のあった2003年には、熊取町の町議員選挙・町長選挙が行われた。2022年現在の町長・藤原敏司氏が町議会議員に当選を果たしたのもこの年からである。

当時の友梨ちゃんの顔写真

当時、 友梨さんの体格は身長135cm、体重25kg。細身だが年齢に比して小柄という訳でもない。身体的特徴として、ふっくらした顔立ち、「右小鼻に1mm大のほくろ」、「右尻下部に1cm大のあざ」が挙げられている。

 

「熊」「北」と書かれた校章

失踪時の服装は小学校の制服で、白色の半そでブラウス(左胸に校章入り)と濃紺色のスカート。

ピンク地の靴下で、白色と濃いピンク色の☆柄。靴はアディダス社の紺地に白色テープ2本留めタイプでサイズは22センチ。

サンリオ社「コロコロクリリン」のリュックサック

持ち物はランドセルではなく「薄黄色系のリュックサック」でサイズは約35×25cm、中に弁当箱や水筒を入れていた。サンリオ社のハムスターのキャラクター図柄に「コロコロクリリン」とカタカナ表記されている。

これら所持品はこれまで何も発見されていない。

 

■車両情報

当初から車での連れ去りが有力視され、当時、七山地区で得られた車両情報として、

・赤色の車両

・白色のバン の2台が路上に駐車されていたとされる。

また

・黒っぽい車両

・白色の乗用車

の情報が挙げられたが、犯行車両との特定はできていない。

 

その後、2018年5月に入り、大阪府警は、事件発生当時、白色の「古いクラウン」が現場近くに止まっていたことを公表し、更なる情報提供を求めた。

大阪府警

トヨタ・クラウン(130系クラウン、白色、黒色ドアミラー、昭和62年~平成3年まで販売)

事件当時としてもかなり使い込まれた車両にはなるが、発売当時は国産高級車の代名詞として「いつかはクラウン」のキャッチコピーと当時のバブル景気も手伝って歴代最高の販売台数を誇ったモデルである。

この車両が自宅から南西へ300~350m地点のT字路に、自宅とは逆向きに止まっているのが目撃されていた。運転席に男が乗っており、助手席に「白い服の小学生くらいの女児」がうつむいて座っていたという。

捜査本部では服装の一致から、友梨さんではないかとしている。白いセダン車について複数の目撃情報が寄せられており、角ばった車体の特徴などから130系クラウンと特定した。

2018年5月時点で、「大阪南部」を対象地域として登録車両900台のうち約550台、形のよく似た旧型(昭和58年~62年)の120系も含めると計約2300台のうち1500台を調べたが有力情報は得られていないという。

NHKによると2022年5月時点で、130系白色クラウン900台のうち770台の所有者を当たって使用状況を確認したとされている。

 

■地理関係

下は2007年の国土地理院地図で、赤いマークは左が同級生男児とのすれちがい地点、右がバス停のあった地点を示している。

警察ではこの区間で誘拐被害に遭ったとみて情報提供を求めている。

すれちがい地点からバス停までの区間は道路も細く、古くからの住宅街で混み入っている。

友梨さんの自宅の正確な位置は分からないが、バス停から数十m、画像右手を南北に流れる見出川を越えない範囲と思われる。

バス停のそばには小さなため池と「七山区公民館」、バス停の南にある巨大な建物は「七山病院」である。

下は周辺の国土地理院地図で、すれちがい地点、バス停、小学校の位置関係を示したもの。周辺地域も住宅街が多く、人目に付きづらい場所というのは限られているように思われる。

赤マーク左上がすれちがい地点、右上がバス停、下が小学校

 

■15年目の手記

事件発生から1年後、藁にも縋る思いで友梨さんの両親は有力情報に対して200万円の私設懸賞金を出すことを発表した。その2か月後、自身も弟を誘拐された経験があるという女が吉川家に電話でコンタクトを取り、そのとき救出してくれたプロを紹介すると友梨さんの父親に持ち掛けた。

人探しのプロだという男は、大体居場所は分かっている、奈良にいる等ともっともらしく振舞い、謝礼や調査費用を要求。更には「見つかったが保護するのに金が要る」「精神的に静養が必要で、生活費が要る」などと言って親の弱みに付け込み、4年間にわたって約470回、計7000万円近くもの金を騙し取った。

男女は内縁関係にあり、2008年に逮捕。男は懲役9年の実刑、女は懲役2年執行猶予4年の判決を受けた。

遺体の発見された殺人事件とは違い、行方不明事案では存命の希望がある。しかしそれだけに時間が経っても気持ちの整理をつけることができず、そこに付け込もうとする霊媒師や占い師、探偵を自称する詐欺が後を絶たない(ブログやYouTubeで「事件調査」や「占星」「交霊」等を発信している輩は、閲覧数が欲しいのではなく罠にかかってくる「カモ」を待ち構えているに過ぎない)。

そうした二次被害を根絶する意味でも、捜査機関や救援団体には被害者家族とのたゆまぬ連携を続けてほしいものである。

 

そうした被害もあり吉川さん家族は表立った行動を長らく控えていたが、事件から15年目となる2018年には父親が手記を公表している。

15年という時間はすべての事柄を過去のものにしてしまう。

 でも、私たち家族や当の本人の友梨にとっては、まったく過去どころか、たった今さっき事件がおこったような感覚です。その感覚のまま、何もできないまま、じりじりと時間だけが過ぎてきました。

 なぜこんなことが起こったのか? しかもそれがなぜ、友梨なのか? まったく私には理解できません。

 怒りを感じようにも、悲しいとかの感情を持つ前に、なぜ? どうしたらあの娘がかえってくるのか? いったい何がどうしたのか、どう気持ちを保っていたらいいのか、気持ちの悪い憂鬱な1日1日が積み重なって、ついに15年なんて、とんでもない時間が過ぎてしまいました。

 こんな想像をしたってなんの意味もないですが、何もなければ、今頃友梨は24歳の普通の社会人。

 でも、その成長した姿を想像することすらできなくて、頭の中では9歳の誕生日のバースデーケーキを目の前にして、嬉しそうな満面の笑みで写真に収まっていた姿しか出てきません。

 そしていつも最後は、私より誰より苦しい思いをしているのは、友梨本人なのだから、それを思うと私の気持ちなんか別にどうでもいいのだと

 どうか、こんな理不尽なことが起こったまま、そのまま15年間もそのまま、というのを感じてみてください。あの子がどんな思いで15年間過ごしているのか、想像してみてください。そして、なにがしか、どんな些細な情報であっても教えてください。なぜ、こんなことになってしまっているのか、教えてください。お願いします。

三者から見れば取り乱したかのような、非常に危うい心理状態であることが伝わってくる痛切極まりない文章である。時間が経過するだけでは解消されない、むしろ時間が経つほどに深刻になり、それでも娘を見つけ出すことも叶わず苦しみが溢れている。

こうした事件を前に、親以上にできることがない私たちには、彼女を忘れずに居続けること、帰りを待ち続けることしかできないのかもしれない。

 

■所感

はたして警察の目星通り、白いクラウンは犯行車両なのだろうか。朝日新聞によると情報が寄せられたのは「2013年5月」とされている。目撃者は自分の車を運転して、止まっていた白いクラウンの右横をゆっくりと追い越し、そのとき運転席の男と目が合い、にらまれたという。産経新聞は男について「目尻のつり上がった細い目の中年の男」と報じている。

事実とすれば運転者の似顔絵もいずれ公開されるかもしれない。だが一方で事件から10年後の情報提供にどれほど信ぴょう性があるのか疑問符も残る。詳しい時間割は分からないが、同じ学校の低学年児童であればすでに帰宅していたと考えられ、制服のまま習い事や買い物などに向かう途中だったとしても不思議はない。

また仮に事件より1日でもずれていれば、友梨さん失踪を受けて保護者が児童の送迎をしていただけといった可能性も浮上する。目撃証言の日付に正確な裏付けがあるのかなどは報じられていない。

当然、警察はこれまでの情報と何重にも照らし合わせて車種を特定して公開に及んだものと考えられる。すでに車両割り出しを8割方終え、この分で行くとおそらく10割を目指して、あるいはその後も府内全域や周囲の県にまで対象範囲を拡大しても白いクラウンの割り出しを進めることだろう。10年を費やしたうえでの方針転換は難しいとはいえ、他の車両の追跡捜査も切り捨ててはいないと信じたい。

目撃証言にある同級生男児とのすれちがい地点からバス停までの道は、車2台がすれちがうのがやっとの道幅で目に留まりやすい。その区間は混み入った古い住宅地で防犯カメラの類はなかったと推測され、死角も多いが、その反面どこから視線を向けられているかも分からない。実際に事件発生の数分前にも同級生が目撃しており、そうした状況下で人さらいを決行しようとするものだろうかと筆者は疑問に思う。

 

周辺をストリートビューで見る限り、一番犯行に適していると感じたのは、病院の駐車場での待ち伏せである。昼間に1時間、2時間駐車していても何ら違和感はない。上のストリートビューで言えば白い車の位置に待機し、下校してくる児童を待ち伏せる。病院側の壁沿いか、ガードレール沿いを歩くかは分からないがいずれも車を寄せれば完全な死角となる。

15時という犯行時刻から見ると、犯人はもっと低学年を狙っていた可能性がある。あるいは、友梨さんの自宅から200mに満たない極めて近距離での犯行から、犯人は以前から友梨さんに狙いを付けていた可能性もある。

またそうなると「女児を狙った犯行」ではなく、警察も重々捜査の上とは思うが「家族に恨みを抱く人物による犯行」や、資産家であったことから「一方的に妬みを買っていた」といった線も容易には捨てがたいものとなる。

事件からおよそ20年が経ち、彼女の成長した風貌はよもや想像もできない。しかしどれだけの歳月を経ても、その無事を願う気持ちが色あせることはない。

 

 

参照

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塩尻アベック不審死事件

2002(平成14)年、長野県塩尻市で発生した若い男女の不審死事件について記す。

死亡状況の不可解さとともに、女性が当時人気を博したAV女優「桃井望」さんだったことでも大きな注目を集めたが、事件発生から20年を経た現在も未解決の事件である。

 

■概要

2002年10月12日20時55分頃、長野県塩尻市を流れる奈良井川に架かる郷原橋付近の河川敷で車が炎上していると通報が入った。21時過ぎには地元消防団らが駆けつけて、火はすぐに消し止められ、約15分後に消火報告が行われた。

炎上した車から約10メートル後方の草むらに女性の遺体が発見された。黒焦げに近い状態で、髪はチリチリに焼け、顔は赤黒く変色して目は見開いたままの状態だった。背中や脇腹には4か所の刺し傷があった。

更に消し止められた車内にも、激しく焼損して見た目には性別の区別すらつかない焼死体が一体見つかる。車は3列シートのミニバン、ホンダ・オデッセイで、遺体は助手席と2列目の間にうずくまるような姿勢だった。左手近くには柄が焼失したとみられる包丁が落ちていた。

 

現場はJR塩尻駅から北西約3キロ。周辺に民家はなく、川を挟むように田畑が広がる一帯。土地鑑のある者しか近づかない、本来なら夜間はだれも立ち入らない場所である。

車内で見つかったのは車の所有者で、市内に住む会社員酒井宏樹さん(24)、車外の遺体は東京都中野区の会社員渡辺芳美さん(24)と判明する(「渡邊」の報道もあるが本稿では「渡辺」に統一する)。ほどなく人気AVアイドルの「桃井望」であることが報じられると、大きな話題となった。

14日に司法解剖が行われ、酒井さんは死因不明、渡辺さんは刺し傷が致命傷となり後から火を付けられたものと判断された。2人の肺から検出された煙の量はともに約8g、およそタバコ1本分であり、「焼死」とは考えづらかった。

塩尻署は心中と他殺の両面での捜査を表明したが、消火活動で現場が荒らされてしまい第三者による殺害の痕跡が確認できず、捜査本部が設置されることは一度もなかった。

酒井さんの遺族らによると、警察は当初から「無理心中」との見方で話を進めていたとされる。「心中なら息子が(相手女性を殺害した)容疑者になってしまう」との思いから周辺調査を進めた結果、心中とするには不審な点が次々に明らかとなり、警察の見解に異を唱えた。

同02年11月、酒井さんの遺族は「心中とは考えられない」として被疑者不詳のまま殺人罪刑事告訴し、4度の訂正を経て、03年1月に受理された。長野県警には受け取りを拒まれたものの、同年4月には殺人事件としての捜査を求める署名約1万人分が長野県知事に手渡された。

 

■人物

渡辺芳美さんは1978年生まれ。長野県伊那市で育ち、小中とバスケに打ち込み、身長148センチと小柄な体格ながら高校ではキャプテンも務めた。都内の短大で栄養士の資格を取得後、専門学校に転学。

同時期、家族も都合で長野を離れ、埼玉県に移っている。卒業後は病院の調理師となるが1年程で辞め、2000年末頃に新宿でスカウトされてAV業界入りを決める。

2001年2月に初収録を終え、4月にAV女優としてデビューした。愛らしいルックス、小柄な体型と豊かなバストでいわゆる「ロリ巨乳」のキカタン(企画もの単体)女優として人気を博し、「のんたん」の愛称で親しまれた。1年半の活動期間で200タイトル以上もの作品がリリースされ、2002年5月からAVアイドルユニットminx(長瀬愛堤さやか・樹若菜)としても活動。6月にはソロ写真集『NOZOMI』を発表するなど幅広い活躍を見せた。

また2001年11月に「ストレス発散計画」による舞台「ON AIR 私の街からこんばんわ!!」に渡辺芳美名義で参加しており、「本庄ヒロ」役を演じていた。

 

小学生以来の旧友M子さんは、渡辺さんが上京してから20歳前後のときに重大な出来事があったと語る。渡辺さんはスーパーでアルバイトをしていたとき知り合った男性との間に妊娠し、相手男性はすぐに結婚を決意した。しかし結婚して子供を産むべきか、親にも明かさず思い悩んだ末、堕胎する決断をした。M子さんが1か月後に聞いた段階では、渡辺さんは両親には堕胎のことをまだ打ち明けられずにいたという。

M子さんによると、渡辺さんは子どもの頃から大事に育てられてきたという。渡辺さんから親が厳しいと愚痴に付き合わされることもあったが、妥協しながらそれなりにやってきたようだった。しかし元々寂しがり屋だった渡辺さんは堕胎を境に、前にも増して相手を求めるようになった。自分や相手を大切にできなくなり、刹那的な関係に溺れるなど精神的に不安定な時期が続いたという。

渡辺さんは病院での調理師の職も一年程で辞め、人知れずAV業界へと身を投じた。地元の友達を通じてM子さんの耳にもAV出演の噂が入った。「地元の男の子が知っているということは、あの地域では相当に知れ渡っているということです」。2001年の秋口、M子さんに舞台公演のチケットを買ってほしいと渡辺さんから連絡が入った。

 

酒井宏樹さんは1977年生まれ。渡辺さんと同じ県立高校の1学年先輩だが当時親交はなかった。名古屋市内の専門学校を出た後、伊那市内の家電メーカーに勤務。そのときの上司が独立して塩尻市で内装事業を立ち上げ、誘われて2001年8月からユニットバスの据え付け工事施工の仕事に就いた。

10代からバンドのボーカルとして音楽活動を続けており、亡くなった日の翌日にもライブが控えていた。3年来、親公認の交際相手がいたが、02年9月頃に別れていた。

勤め先の上司は、事件前に酒井さんに不審な素振りはなかったとし、仕事もこれからというときだったと話す。「とてもまじめで温厚。仕事上、高速(道路のプリペイド)カードを支給しているんですが、プライベートで使ってしまった分は後で返す、そんなやつです」「ただ女関係やプライベートな話は入ってこなかった」とも語っている。

仕事は歩合給でおおよそ月35万円前後の収入があった。実家に15万円程入れ、残りのお金を自分の生活費に充てていた。週末ごとに実家に顔を出し、洗濯物やごみをまとめて持ち帰っていた。家族や旧友に「金がない」と漏らすこともあったが深刻な物言いではなかったとされる。交友関係は広く、女性に驕る性格ではあったが金遣いが派手という訳でもなく「金銭感覚は普通」だったという。

 

渡辺さんの幼馴染だったK子さんは高校、大学時代を愛知県で過ごし、名古屋の専門学校に通っていた酒井さんとも親しかった。2001年5月のゴールデンウィークにK子さんを介して一緒に遊ぶこととなり、渡辺さんと酒井さんは連絡を取り合う仲になった。

K子さんはその後1年ほど海外へ留学。メールのやりとりのあった男友達から、渡辺さんがアダルトビデオに出演しているらしいと知らされた。

帰国した02年8月頃、K子さんは旧友たちと再会し、渡辺さんが周囲にAV女優の仕事について打ち明けていないと知って心配になり、連絡を取った。渡辺さんは「みんな知っているとは思っていたけど、言いづらくって」「後悔はしてないから」ときっぱり返されるとそれ以上の話はできなかった。

 

■事件前夜

事件前日の10月11日(金)、酒井さんと渡辺さんは2人を引き合わせた共通の友人K子さんと久々の再会を果たした。

酒井さんは早くに仕事を終えて14時頃に帰宅したとみられている。18時頃、渡辺さんを車に乗せてK子さんのアルバイト先を訪れる。K子さんが渡辺さんと対面するのは酒井さんを紹介した日以来およそ1年半ぶりで、「交際しているのか」と尋ねると2人は揃って否定したという。

だが酒井さんがトイレに立った隙に、K子さんが問い詰めると、渡辺さんは「宏樹君が好きだから、社長とは別れたの」と胸中を打ち明けた。それまで彼女は業界関係の社長のマンションで同棲しており、実質愛人関係にあったとされる。

渡辺さんはAVの仕事や収入についても明け透けなく語り、貯金は500万円程だと話した。「どうせ今しかできないんだし稼げるだけ稼いだら辞めようかな」と漏らしていたが表情に暗さは見られなかったという。親にはAV出演について明かしていなかった。

 

酒井さんは過去に「桃井望と知り合いだ」と話してしまい、それを知った年上の知人男性から「カネを払うからAVの女とやらせろ」と詰め寄られていると話した。相手は裏社会とのつながりがある人物のため困っていると漏らすと、渡辺さんは「こっちにはもっと大きいバックがついているんだから何を言われても断ればいい。“下手にそういうこと言わない方がいい”って」と強気で答えていた。

1時間半ほど車中で話してバイトを切り上げ、3人で酒井さんの部屋へ。軽くビールを飲みながら世間話をし、酒井さんは自身がボーカルを務めるバンドのライブの案内メールをあちこちに送信していた。

21時半頃、K子さんは元のバイト先まで送ってもらい、「また日曜に伊那に行くからその時ゆっくり話そうね」と約束して別れた。直後にK子さんにメールが届く。

渡辺さん:K子ちゃま。今日はあえて嬉しかったでしゅ。かなり感激(T_T) 。K子はびっくりしたと思うけど……。これからもずっと友達でいてね

(K子さんから「どんな仕事をしてても、ずっと友達じゃない。宏樹君とがんばってね」という返事)

渡辺さん:うん、ひろきくんの彼女になれたらいいな~うふっ

(K子さんからの返事)

渡辺さん:うん、ひろきくんとのこと応援してね。1つ聞いていいかな~。あの人はいい人だよね~

(K子さんから「彼は女性にもてるから大変だと思うけど、いいやつだから」と背中を押す返事)

渡辺さん:まあね、オトコとオンナってのは難しいよね~。でも好きになっちゃたらしょうがないよね。ガンバロー。ありがちょ。またTELしま~しゅ

(「TEL」は絵文字。送信時刻22時58分)

K子さんを車でバイト先に送り届けた2人は、その足で箕輪町にある渡辺さんの小中学時代の幼馴染が営むショットバーに向かった。23時半~翌12日3時頃まで酒井さんのバンド仲間の男性を交えて飲食を続けた。

幼馴染の男性いわく「バンドの話で盛り上がった。13日の練習を渡辺さんも見に行きたいと話し」、酒井さんは「ヨッチャンを彼女として連れて行く」と公言していたという。

事件前夜までの酒井さんと渡辺さんの間柄について、古風な言葉で表すならば「友達以上恋人未満」といったところであろうか。交際を公言しないまでも相思相愛だった様子が窺える。

一方で、渡辺さんと同棲していた「社長」、酒井さんの「裏社会とつながりのある友人」、渡辺さんの話した「もっと大きなバック」など、2人の関係をよく思わないであろう存在も見え隠れする。

 

■裏おんなブログuraonna.blog31.fc2.com

渡辺さんにはAV業界に公私ともに親友と呼べる女性がいた。堤さやかさんである。

2005年10月17日に開設された匿名の元AV女優が書き手のブログ「裏おんな」は、その内容から堤さんの筆だとされている。11月11日の記事に「大切な親友」と題してかつての「親友」とのやりとり、彼女への思いを記している。

書き手、「親友」の芸名・実名は明らかにされていないが、ここではそれぞれ堤さん、渡辺さん(桃井望さん)として内容を見ておこう。

私は彼女を他人とは思えなかった。
彼女もそうだと言っていた。
お互いに、何か惹かれるものがあったのだ。

二人はお互いの好きなものやお気に入りの場所を共有し合い、仕事面でもお互い刺激を受けるよきライバルだったと振り返る。

渡辺さんの恋愛関係について、離れて暮らす「学生時代に憧れていた男性」に告白されたこと、一方で「仕事に理解のある男性」と同棲関係にあったため、どちらと交際すべきか相談を受けたと記されている。「仕事に理解のある男性」とは彼女の所属会社ウイナーズアソシエーションとは別のAVモデル会社「社長」である。

彼女は結局、
離れて暮らしていて、会いたい時に会えない彼よりも、
いつもそばにいられる彼を選んだ。

だが渡辺さんは酒井さんと知り合った01年7月頃から度々塩尻通いを続けており、「社長」との関係に満足していた訳でもない。いつからか酒井さんへの気持ちが勝っていったとみられる。と、同時に堤さんに「演劇だけをやりたい。今の仕事を辞めたい」と吐露するようになった。堤さんは親友としてライバルとして、彼女に直球の問いを投げかけた。

『今までずっと一緒に仕事をしてきて、
私は○○に嫉妬心持ちながら、
向上心に変えて頑張って仕事してきたよ?
○○がいなくなったら、
私の気持ち刺激してくれる一番大切な人がいなくなるってコトなんだよ。
本音を言ってよ。
演劇がやりたいんじゃなくて、
彼に相応しい女に戻りたいってコトなんじゃないの?』

渡辺さんは親友の言葉を否定せず、「そうかもしれない」と返答。同棲相手や男優たちとのやりとりを続けることが苦しいと漏らした。堤さんは、仕事を辞めたいと思うほどであれば、同棲している恋人との関係も清算した方がよいと勧める。

納得した渡辺さんは、女の親友は堤さんだけだと話し、「いつか私の地元にアンタを連れて行きたいな」と語った。

私は
『もちろん行くよ』
と答えた。

彼女の幸せそうな声が嬉しかった。

その後、堤さんは予定を合わせて渡辺さんの地元に一緒に行くことになり、彼女が好意を寄せる男性やその友人とも連絡を取るようになった。

「ところが、それからすぐ、
彼女の地元に遊びに行く予定日に、
私に仕事が入った。
撮影の日にちは変えられない。
行きたかったが、また次の機会にしようということになり、
当日、彼女は一人地元に向った。」

あいつら死んだかもしれない。』

翌日、酒井さんの友人から届いたメールは彼女を激しく混乱させた。

なぜこんなコトになったのか、
私が行ってたら、
彼女達は死なずにすんだのか、
私は止めることができたのか、
あるいは私も一緒に死んだのか

私は、彼女の本心を聞かされていただけに、
あなたがいなくなっても頑張るよ
とは思えなかった。

尚、堤さんは渡辺さんが亡くなった2か月後の2003年1月にAV女優を引退している。

 

■事件当日

酒井さんの遺族は、事件発生のおよそ2時間前に直接電話で会話しており、そのときの彼の普段と変わらぬ様子が警察の「無理心中」の見解を疑う契機となっていた。

当時の状況について交友関係などに確認を進めていくと、12日の飲み会の後、渡辺さんはそのまま酒井さん宅に泊まって午後まで寝ていたとみられ、酒井さんは事件発生直前まで各所に多数の連絡を取っていたことが判明した。

9時頃、酒井さんが勤務先に「体調不良」で休むと連絡。

15時31分、K子さんが今日もバイトしている旨のメールを渡辺さんに送っていたのに対して、「ガンバレ~‼まだ先は長いけど~っ」と激励する返信をしている(渡辺さん最後の通信記録)。

16時、酒井さんが名古屋時代の友人に電話し、20日後の友人の結婚式の二次会について打ち合わせ。酒井さんは出席者のとりまとめ役を任されていた。

16時45分、バンドメンバーに「(翌13日に近郊で開催される)音楽祭には行くのか」と尋ね、その後に予定されていたバンド練習に渡辺さんを同伴する旨伝えていた。

17時頃、「大のおばあちゃん子」だった酒井さんから祖母に電話を掛けており、入院から戻ったばかりだったので体調を気に掛けて「来週帰るから元気で頑張ってよ」と励ましていた。

18時頃、酒井さんが母親と電話で会話。前週に酒井さんが実家に持ち帰った荷物に「水道料金の督促状」が紛れており、母親は代わりに支払いを済ませて「水を止められていないか」と確認の連絡を取ったという。そのとき「今日明日は忙しいで今週は帰れん、来週帰るで」と話しており、会話自体に不審な様子はなかった。

18時過ぎ、別のバンド仲間に13日のライブの打ち合わせメール、40分頃に再度確認の電話を入れている。

19時47分、知人女性に音楽祭に来るかどうか確認のメール。

19時53分、高校時代から付き合いのあるバンド仲間の下平さんに電話。4日後にはジョイントライブの予定もある近しい間柄だった。しかしこのとき別のライブ参加で忙しかった下平さんは、「後でかけ直す」と言って要件を聞かずに7秒ほどで電話を切った。このとき電話口の酒井さんの声は明るく、取り乱した様子もなかった。

20時3分、下平さんが酒井さんへ折り返しの電話を掛ける。しかしつながったと思った瞬間に途切れた。

下平さんによると「小刻みにプップップッという音がしていた」と言い、そのとき部屋ではなく電波がつながりにくい場所にいたのではないか、と推測している。「プップップッ」というのは呼び出し(接続)待機音とみられるが、酒井さんはキャッチホンに加入しており、たとえ「通話中」であったとしても通常であれば「呼び出し音」が鳴るはずだという。

一連の状況から見ると、酒井さんが突発的に無理心中に走ったとは考えにくく、20時前後に何らかのトラブルに巻き込まれた可能性が高い。最後の通話からわずか1時間後の20時55分には車両火災の通報がされている。はたしてこの間、2人に何が起きたのか。

 

■訴訟

告訴状提出から約1年後の2003年12月、捜査に疑念を深めた酒井さん遺族は、県警に対して捜査本部の設置を求める行政訴訟を請求した。

04年2月の口頭弁論で県警側は「初動捜査に落ち度はなく、捜査方法は警察の判断に委ねられていて、本件で捜査本部を設置する義務はない」と説明した。

6月、長野地裁(辻次郎裁判長)は、県警側の対応について「捜査本部の設置は、警察内部の捜査手法の一つであり、公権力の行使とはいえず抗告訴訟の対象とはならない」との見方を示し、請求を却下した。

 

酒井さんが契約していた保険会社は、支払い責任開始から2年以内の「自殺」の疑いが強いとして生命保険の支払いを拒否していた。酒井さんの両親は保険会社の判断に対して03年12月に民事訴訟を起こし、約3500万円の支払いを求めた。

07年1月、長野地裁飯田支部(松田浩養裁判長)は、遺族側が主張する通り、酒井さんが「死の直前まで、自己の生存ないし生活の継続を前提として暮らしていた」ことを認める。警察の見立てた無理心中という「凶悪かつ激烈な行為を行ったことを合理的に説明することは極めて困難」とし、「周囲の状況から見て複数犯であれば殺害可能であり、第三者の他殺と考えるのが自然」と認定し、保険会社に支払いを命じた。

 

無論、刑事裁判に比べて民事裁判での事実認定の要件は緩やかである。だが捜査機関に自殺と判断されながら、民事裁判では他殺と認定されたことになる。

尚、渡辺さん側遺族は一切取材に応じておらず、酒井さん遺族によると、事件後も遺族同士の面識はないという。

 

酒井さん遺族側の主張によれば、捜査機関は心中との見方に固執したことから刑事捜査が積極的に行われなかった可能性があると見ている。

事実として捜査本部すら立っていないため、一般的な事件とは異なり、酒井さん遺族と弁護士、事件性を疑うジャーナリストらによる調査・報道がメインとなることに留意しなければならない。また責めるつもりはないが、渡辺さん遺族側の協力が得られていないことから、情報には偏りが生じている(酒井さん中心の情報となる)ことも確かである。

桃井望」として事件直後に独自の追跡取材を続けたのは東京スポーツ紙だけで、後に『新潮45』が記事とし、酒井さん遺族らの訴えにより『テレビのチカラ』『スーパーモーニング』『報道発ドキュメンタリ宣言』等テレビ朝日系列で追加調査を取り上げた。

以下、2人の事件前のうごきと、心中が疑わしいとされる状況証拠等について整理しておきたい。

 

■事件前のうごき

2001年11月、渡辺さんは劇団公演を前に「将来は女優になれたらいいな」と友人らに語っており、その後も業界関係者にはAVの仕事を引退したいと話していたとされる。

2002年1月に一か月ほどAVの仕事を休業。それまで専門誌にしか掲載しない雇用契約だったが、復帰後の4月にはパブリシティを全面解除(「全解」)。AV女優としての活動を公開しており、雑誌の取材では「他の女優さんに負けないように頑張ります」と意欲を見せていた。

01年4月 桃井望AVデビュー

01年5月 K子さんを介して2人が知り合う

7月頃から塩尻に通うようになる

01年11月 渡辺さん、劇団公演に参加

02年1月 AVを約1か月休業

02年4月 桃井望、パブリシティを全面解除

02年5月 アイドルユニットminx始動

02年5月 酒井さん、右手の故障(約1か月の休業)

02年5月 酒井さん、隣人とのネットビジネス

02年5月 酒井さん、60万円借り入れ

02年8月 K子さん、男性友人から桃井さんのAV活動を知らされる

02年9月 酒井さん、3年来の交際相手と別れる

2002年5月12日頃、酒井さんは右腕を故障し、グーになったきり自分の意志で指が伸ばせなくなった。会社には「寝違えた」と報告して1カ月近く休職状態で過ごしていたが、当時の交際相手には「仕事で長野市にいる」と電話で伝えていたという。

5月15日、酒井さんは地銀と消費者金融から各30万円を借り入れている。筆跡は本人のものではないとみられ、付添人が契約した可能性があるという。返済は月々1万円程度で、亡くなるまで滞りなく支払われていた。

その当時、酒井さんは隣に住むM氏と親しくなり、マルチ商法に係わるようになったとみられている。5月か6月頃、K子さんも説明会に誘われて参加していたが、契約には係わらなかったため詳しい内情は分からないと言う。(M氏、サイドビジネスについては後述)

 

9月頃、酒井さんが3年来の交際相手と破局。相手女性いわく「お互いやりたいことがあるなら別れようよと私から言ったんです」と語っており、桃井さんとの関係が原因とはされていない。渡辺さん、酒井さんは知り合ってからも双方に交際相手がいたため、お互い好意を感じつつも正式な交際に踏み切れなかったのかもしれない。

DEBUT!

事件前の10月9日(水)、桃井さんが酒井さんを訪ねる。翌10日に酒井さんはオメガの時計を修理に出しており、これも心中説を否定する行動と認められる。

桃井さんは10月15日からはminxの大作ビデオ撮影が予定されていた。週刊誌などによれば、本人はアイドル志望ではないとして「AV女優を辞めたい」「撮影をやりたくない」とトラブルになっていたとも報じられている

 

■現場状況

渡辺さんは運転免許を持っておらず、「心中」だとすれば現場まで運転したのは酒井さんということになる。発見現場の河川敷は、日中でも釣り人くらいしか立ち入らない辺鄙な場所で街灯もない未舗装の砂利道である。川沿いの堤防道路から河川敷に降りる際には段差を越えなくてはならかった。酒井さんは日頃から愛車の取り扱いに細心の注意を払っており、シャコタン(車高を下げる改造)にしていたことから車体を傷つけるような場所に自ら乗り入れるのは不自然とする見方もある。

車のドアはすべて施錠されており、通常ならば運転席からボタンで全ドアロック制御したと考えられるが、酒井さんの遺体は運転席ではなく助手席の後部にうずくまった状態で発見された。一箇所ずつ手動で施錠したり、着火の段階になって運転席から助手席の後ろに移動したりしたのであろうか。

車の鍵は遺体の搬出時には回収されておらず、警察に問い合わせたところ後日車内から発見されたという。

 

燃料や車両の出火位置は特定されていない。松本広域消防局予防課の見解では、車内で出火すれば「1分もすれば火の海」となり、ざっと20分もすると全てを焼き尽くして自ずと鎮火に向かうことから、特別に燃え方が激しかったとは言えず、燃料が使用されたかは分からないという。新潮45では「火の手が上がったのは8時40分前後という推測が可能」(※20時40分前後)としている。

また河川敷には、ろうそく2本、ワインのボトルにバラ3本を活けたもの、ワイングラス2個(1つは破損)が置かれていたと言い、もしかすると遺留品の可能性もあるが警察では関連なしと判断された。

 

■殺害について

渡辺さんの遺体には四か所の刺創があり、車内の酒井さんの左手付近に包丁が見つかっている。酒井さんは右利きで、上司によると生前「リンゴの皮も剥けない」と包丁の扱いが不得手であることを話していたという。また仕事中に怪我をした同僚が傷を見せると、「やめてくださいよ。気持ち悪くなっちゃうから」と滴る血に拒絶反応を見せていた。

渡辺さんには背中にも傷があったことから、少なくとも同意の上の心中とはならない。無理心中であれば、車外に相手を放置したまま自分は車内で鍵を閉めて火を付けると言うのも道理にそぐわない。せめて最期は一緒に、というのがせめてもの筋である。

酒井さん遺族側は火を付ける際に灯油類が用いられたと推測しているが、部屋から持ち出された様子はなかった。前述のように、実際には使用されなかった可能性もある。

 

■自宅の様子

酒井さんの住む平屋の戸建てアパートは、現場河川敷まで車で5分程の場所。

勤務先の社長が借り受けて社宅としたもので、事件直後に合い鍵を持参して警察と共に部屋を訪れている。そのとき玄関は施錠されていた。

酒井さんの靴3足と渡邉さんのブーツが置かれたままだった。酒井さんが普段履いていた靴は3足のみ、11日から塩尻を訪れていた渡邉さんは履いてきたブーツ1足しか持参しておらず、新たに履物を購入していなかったとすれば2人は裸足のまま車に乗って現場まで移動したことになる。

 

室内は荒らされたような形跡もなく、仕事用のパソコンは充電されている状態で、食べかけの菓子が広げられ、カップにお茶が残されているなど生活感のある状態だった。

酒井さん遺族らによれば、バンドで作詞を手掛け、ロマンチストな性格だった彼が遺書すら残さないで自殺するとは考えにくいという。

酒井さん遺族が部屋を訪れた際、現像していないフィルムカメラが残されており、中には事件当日に自宅で撮影したとみられる2人の笑顔のツーショットが撮影されていた。ゴミ箱からはティッシュなど2人が性交したとみられる痕跡が発見されている。

おそらくは帰宅する道中で交際を約束し、仲睦まじい時間を過ごした半日後、各方面に様々な用事をこなしてから、わざわざひと気のない河原に出向いて「無理心中」する動機はどこにも感じられない。

 

酒井さん遺族によると、カメラとは別に、部屋の押し入れに現像済みフィルムの束が置かれていたが、いつの間にかなくなっていたとされる。現場保存されていなかったことから持ち出された事実があったかどうかも確認ができない。事件関係者が身元判明を恐れて密かに持ち去った可能性もあった。

東スポでは「桃井さんの携帯だけ見つかっていない」との記述もあるが、酒井さんの携帯との報道もありはっきりしない。だが警察は数か月分の通信履歴については確認を取っており、酒井さん遺族側の調査で多くが明らかになってはいる。

そのほか「隣人M」「サイドビジネス」に関係すると見られるメモ書きが複数見つかっており、事件との関連が疑われている。

 

サイドビジネス

事件前夜の11日晩、箕輪町ショットバーで飲食していた際、酒井さんは13日の夜に「会社の飲み会がある」と話していた。だが勤めていたユニットバス施工会社ではそうした予定はなかった。13日には日中にライブ出演、バンド練習の予定があったが、夜は明言しづらい別の要件があったのではないかと推測されている。

 

酒井さんは2001年から廃車を修理して転売する中古車販売のサイドビジネスを行っていたとされ、その話は12月までに地元・伊那の友人たちの耳にも入っていた。話を聞いたK子さんには「正式なルートではないけど儲かるんだよね」と話していた。

酒井さんは車好きで車高を下げた改造車に乗っていた

2002年5月頃、酒井さんは親しくしていた隣人のM氏からマルチ商法を持ちかけられた。パソコンと専用の「インターネット端末機」を購入して「モニター代理店」となり、自分の下部に代理店を増やすことで収益が上がるという連鎖販売である。

酒井さんはM氏を「おにいちゃん」と呼んで慕っていたが、部屋には4月末日作成の80万円の偽名の借用書や「おにいちゃんにだまされた」と書かれたメモが残されていた。返済期日は死亡する約2週間前だったが口座には入金されたような記録はなかった。

 

事件後、M氏は警察から任意聴取を受けていたが、地元不動産関係者に「海外に行くかもしれない」と伝え、滞納していた家賃・光熱費数か月分を一括で支払って行方を眩ませた。M氏の知人も「1年経って戻らなかったら部屋の荷物を処分してほしい」と言い残して向こう1年分の賃料を払って失跡。塩尻署では、M氏について借金を背負わせたことは事実だが、事件との因果関係ははっきりせず、突っ込んだ捜査ができていない状況とした(02年11月27日、03年1月19日東スポ)。

M氏は知人に「警察の取り調べがきつかった。もうあんな思いはしたくない」「15年間逃げる」と犯行をにおわせるような発言もあった。

2010年6月放映の『報道発ドキュメント宣言』ではこのM氏に接触して追加報道を行った。

M氏によると、中古車ビジネス、インターネット端末によるマルチ商法を酒井さんに教授したことは事実と認めつつ、自分は関与も加盟もしていないと説明した。

知人に事件当日のアリバイを偽装してくれるように話していたが、事件当時、長野市の風俗店に行っており、妻に知られたくなかったためだとした。

M氏の趣味は「釣り」とされ、現場となった河川敷を連想させた。

番組の問い合わせに対して長野県警は18人体制で捜査継続中だとしたが、捜査状況に関する回答は得られなかった。

 

■所感

「AV業界の闇」などと括られて語られることが多い事件だが、殺し屋を雇ったり、事務所に暴力団や警察OBが絡んでおり警察が介入をおそれたりといった事件ではない。端的に言えば、車輛炎上と消火活動で現場証拠が得られず、疑わしき隣人Mから証拠や自供が得られずに尾を引いた事件だと筆者は考えている。

 

まず犯人は誰を狙ったのかについて。

酒井さんはサイドビジネス、渡辺さんは2002年に入って「全解」と精力的に金策に走っているように見える節から、渡辺さんがAV業界から抜けるために違約金が必要だったのではないか、とする説もある。

だが、酒井さんは15万円を家に入れており手許に残るのは20万円程度で、社宅住まいの独身者なら生活には困らないように思えるが、バンドと車の趣味の両立では「金がない」のは平常運転というところであろう。

所属事務所からすれば「桃井望」という稼ぎ頭に抜けられるのは困るため当然引き留めもあったであろうし、撮影拒否や休業など過去のトラブルで渡辺さん自身も負い目があったと思われる。だが自身も「500万円の貯蓄がある」「稼げるだけ稼いだら辞めようか」とK子さんに話しておりすぐに辞めなければならなかった状況ではない。事件後には同じく人気女優だった堤さんが引退しており、そもそも流動性の高い業界であることからも莫大な違約金が必要だった訳ではないと考えられる。

 

渡辺さんが交際していた「社長」の恨みを買ったのだろうか。「社長」の人物像は知らないが愛人のひとりとして囲っていたようにしか見えず、そうした相手にいちいち執着するような人物であれば周囲でもっと多くの女性が闇に葬られていはしまいか。

都内で生活する女性を遠い長野で狙う意味もなければ、わざわざ酒井さんを巻き添えにする必要もない。プロの犯行(依頼殺人)なら尚更のことである。そもそも渡辺さんは免許を持っておらず、都市部でなければ家族や友人と一緒か、タクシー移動となるため、殺害しやすい状況にはなりづらいのである。いずれも凄惨ではあるが遺体状況の相違から見ても、犯人の標的は男性で、女性は巻き添えと見るのが妥当ではないか。

 

では酒井さんの隣人だったM氏が殺害したのだろうか。不定職でパチンコ、風俗遊びに興じ、隣に住む若者相手に中古車転売を教授したりマルチに引っ掛けたり借金したりと、やっていることはまともな社会人とは言い難い面がある。こうした御仁ならば数十万円の借金くらいで人を殺していてはキリがない。誤って差し違えるようなことはあっても、一緒にいた恋人もろとも河川敷に運び、無理心中を装うような大それた犯行とはどうも結びつかない。

そもそも親しい隣人ならば機を選んで来客のないときを待つことはできたはずだ。状況から見ても、下平さんがコールバックするまでのわずか10分程のうちに、M氏ひとりで酒井さんの車に2人を乗せて河川敷に移動できたとは思えない。複数犯が脅迫ないし拉致によって河川敷に連れ出した線が濃厚である。M氏が任意聴取から逃げ続けたことは事実ではあるが、クロというよりグレーという気がしてならない。

では隣人にマルチの標的にされるような軽率な若者がだれから殺されるほどの恨みを買うというのだろうか。筆者はM氏が仲介した「中古車転売」絡みの人間が事件に係ったと見ている。廃車を引き取って修理・転売などという手間のかかることをバンド活動にも精を出す酒井さん一人でこなしていたとはどうも思えない。裏稼業の下働きをしてバイトとしては高額な手間賃を稼いでいたと推測する。実態としては、それと知らずに「自動車窃盗団」の片棒を担がされていたのではないか。

 

1990年の入管法改正により、日系移民や家族の就労が認められ、地方の製造業が雇用の受け口となった。とくに日系人の多かったブラジルはハイパーインフレの渦中にあり、出稼ぎ移民が激増し、自動車メーカーの多い愛知県豊田市静岡県浜松市などの工業都市には集住地区が形成された。長野県では上田市や伊那、諏訪周辺地域の製造業で多くの日系ブラジル人を受け入れていた。

しかし知られるようにバブル崩壊以降、生産拠点の海外移転などの影響もあり地方の製造業は衰退に追い込まれる。また(親にあたる日系ブラジル人1世の影響から)日本語能力や順応性の高い日系2世に比べ、教育現場などその妻子らの共生を進める社会的受け皿は充分ではなかった。言語やいじめの問題、進学の困難により学校からドロップアウトした日系3世以降の若者らにはギャング化する者もあった。

93年時点では日本在住ブラジル人の犯罪割合は日本平均の半分程度で最も犯罪割合が低いグループに属したが、2000年の検挙率では日本平均の3倍近い水準に達し、急速に悪化していた。雇用を打ち切られた日系ブラジル人や若者らの受け皿となったのが表向き自動車整備工などを装った犯罪グループであり、2000年代には自動車窃盗と結びついた不正輸出がブラジル移民犯罪の代名詞となった。尚、「日系ブラジル人が諸悪の根源」といった人種差別がしたい訳ではなく、そうした困窮した移民コミュニティを犯罪に結び付けた、利用したのは極一部の悪人や暴力団である。

(※2008年リーマンショック以降、在留ブラジル人は減少が続き、20万人前後を推移。車両窃盗認知件数も2012・13年頃の約27,000件をピークに大規模ルートの封鎖もあって2020年には1/4程度にまで減少している。)

2002年には長野県全体でブラジル国籍の外国人登録者は17,818人、塩尻市だけでも1,085人が暮らしており、同地でも日系ブラジル人らを中心としたグレーな自動車整備会社(犯罪グループ)が存在した。違法輸出は「解体ヤード」と呼ばれる人目に付きづらい工場で一度車体を解体して港へ輸送されるが、おそらくM氏や酒井さんは偽造ナンバーに付け替えた窃盗車のヤードへの運び出しなどを手伝っていたのではないか。13日夜の「会社の飲み会」という酒井さんの架空の予定は外せないサイドビジネスのことではなかったか。

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たとえばM氏や別のメンバーが窃盗車を別ルートへ横流し、あるいは横領する等し、そのことが日系ブラジル人グループに発覚する。怒り心頭の彼らを前に、M氏は酒井さんに責任を転嫁したのではないか。

酒井さんが2002年5月に負った右手の故障は、(たとえば仕事のドタキャンなどで)犯行グループを怒らせてしまい報復を受けた後遺症という可能性もある。一度で分からず二度までも舐めた真似を、となればグループを激昂させてもおかしくない。

突然のアパート襲撃を受けた酒井さんたちは意味も分からぬまま車で拉致され、河川敷で弁明もできぬまま車内でリンチに遭った。女性は逃げ出そうとしたのか、騒ぐので先に始末されたのか、もしかすると刺しながら男性に口を割らせようとしたりしたものかも分からない。

 

任意聴取によってグループの再襲撃を避けていたM氏だが、口を割る訳にもいかず、さりとて叩けば埃の出る身であり、いつまたグループが迫ってくるかも分からない。むしろ捜査が彼らに及べば自分がリークを疑われグループから報復されかねないと考え、身を潜めて事態の鎮静化を図ったものと推測する。

多くの出稼ぎ者は国に帰り、2000年前後に形成されたコミュニティの多くは今日では解体されていった。そうしたなかで犯行グループがその後どうなったのかは果たして分からない。M氏が口を割らないところを見ると一部は2010年頃にも在留していた可能性もあるが、物証もないなか全員帰国していれば立件は一層難しいものとなる。M氏も今となれば話せることもあると思うのだが、行政訴訟や事件の長期化で面目の立たない長野県警としては積極的に再捜査するつもりはもはやないのかもしれない。

 

2人のご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

北海道中国人女性旅行者行方不明事件

2017年の夏、北海道で発生した中国福建省出身の女性旅行者行方不明事件について記す。

当初は女性に失踪する目立った動機がなく、予期せぬトラブルに巻き込まれたのではないかと考えられた。しかしその後の報道で彼女の行動に様々な疑惑が生じ、日中両国のネチズンらにより駆け落ち説などの自発的失踪を巡って様々な議論が展開された。

女性は何を思い、どこを目指していたのか。

 

■概要

2017年7月22日(土)、中国福建省から北海道に旅行に訪れていた小学校教諭の危秋潔(危秋洁、Wei Qiujie)さん(26)が札幌市内の宿泊先から外出したまま行方が分からなくなった。

危さんは18日から25日までの予定で北海道各地を巡る計画を立てており、21日までは観光地での様子をSNSで発信する等して過ごしていた。

22日朝7時半頃、札幌市のゲストハウスから一人で外出する。事前の計画ではこの日は旭川富良野方面での観光が予定されていた。札幌駅から高速バスも出ているが、来日直後にJR線のトラベルパスを購入していたことから移動には鉄道を利用した可能性が高い。

電車で旭川に向かったとすれば片道2時間半程度、富良野に直接向かったとすると3時間強の道程である。

 

 

その日の17時頃、彼女はメッセージアプリWeChatを通じて福建省の父親に「安全回旅館(無事宿に戻りました)」と連絡を入れたきり、宿には二度と帰らなかった。

ゲストハウスの宿泊料金は前払いしていたが、宿の主人は危さんが戻らないことを心配して翌23日に警察へ通報。スーツケース、メイク道具や着替えといった荷物のほとんどは部屋に残されたままだった。

25日17時発の上海行の飛行機で帰国する手はずとなっていたが、便予約の変更はなく、搭乗者名簿を確認しても彼女の名前はなかった。22日以降のクレジットカードの使用なども確認されなかった。

 

25日の夜には中国の知人からも「危さんと連絡が取れない」として総領事館に安否確認の要請が入った。北海道警察は26日にゲストハウスの防犯カメラ映像を公開して広く情報を募り、領事館を通じて危さんの家族にも連絡を取った。

28日夕方、危さんの父親・危華先(危华先)さんらが緊急来日し、中国総領事館、北海道警に対し、何があったかは分からないが娘を早く見つけて帰りたいと懇願した。

彼女はなぜ父親に「無事帰りました」と噓をつかなければならなかったのか、荷物を置いたまま連絡もなしにどこへ向かったのか疑問がもたれた。

 

■現代中国の若者

中国国民の世代を表す代名詞として、「80後(バーリンホウ)」「90後(ジョウリンホウ)」という言葉がある。

 

80年代生まれを指す「80後」は、いわゆる「一人っ子政策」と呼ばれる計画出産政策下で生まれた世代で、鄧小平による「改革開放」路線の時期とも重なる。改革開放により新興の富裕層や中間層のボリュームが劇的に増加し、両親や祖父母の愛情を一身に受けて育った一人っ子たちは、「6つのポケット」を持つ「小皇帝」と揶揄された。

貧困が共有されてきたそれまでの世代と大きく異なり、「与えられることに慣れた世代とされる。その一方で、中産階級の増加により受験や就職での競争が激化し、家族からホワイトカラーになることを期待された「上昇志向の強い」傾向があるという。

1960年代後半から70年代後半まで続いた文化大革命により知識階級は一掃され、教育施設・制度も一度破壊されていたが、中国の急速な発展と競争力を背景に「80後」の大学進学率は2003年に20パーセントを越えた。

流行に敏感な消費的性質や文化的軽薄さに対する子ども~若者への揶揄として普及した言葉だが、最初にインターネットが普及した世代であり、2000年代以降も中国の最先端技術を牽引して存在感を示した。一方で、生活様式の変化や不動産価格の高騰などにより、晩婚化や未婚者の増加、持ち家がないこと、転職率の増加が懸念された。

 

後に続く「90後」は生まれながらに「豊さ」を享受してきた世代と言われる。中国は2010年に世界第2の経済大国となり、2020年代に入っても経済成長を続けている。「90後」の特質としては、チャレンジ精神に富み、進歩的な考えを持ち、キャリアでの成功を追求する傾向があるとされる。一方、周囲を気に掛けず他人と違うことを好み、他人への無関心はときに利己的とも評され、苦しい生活や時代を知らないだけに心的に打たれ弱くデリケートな面が指摘されている。

インターネット依存や対人コミュニケーションへの不安などの懸念が叫ばれる世代ではあるが、日韓や欧米の若者批判のそれと大差ない気がしないでもない。2008年北京五輪での活躍や若い世代による愛国運動によりマイナスイメージはほぼ払拭されたといわれる。

 

「観光旅行」についても触れておきたい。中国では6月が卒業シーズンに当たり、7、8月の夏休み期間中に1週間程度の「卒業旅行」に出かける学生が85%近くにも上るという。

また2000年代からバックパッカー・ブームが起きており、当時はシルクロードチベット雲南省といった大陸各地の異郷・秘境への冒険が多かったが、近年では国外旅行の人気へと拡大した。

2010年に日本への個人旅行が解禁。かつてはいわゆる「爆買い」ツアーのような中産層向けのパック旅行が目立ったが、15年にはビザの要件が緩和されたことを受けて日本は若者にも身近な旅行先となった。

危秋潔さんも1990年生まれの「90後」にあたる。海外ドラマや映画鑑賞を好み、旅行用スーツケースには村上春樹のエッセイ集『サラダ好きのライオン』を持参していた(中には旅行に関する小文も含まれている)。ファッションやメイク、持ち物を見ても日本の若者と大きな差は感じられない。

SNSでは人気モデル森絵梨佳について「あなたの美貌に限界はあるの?」と羨望のまなざしを向け、ドラマ『カルテット』が日本のドラマ賞を総なめにしたニュースに対し「納得です」とコメントしている。彼女は日本のカルチャーだけでなく、韓国アイドルグループBTSを好み、米ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ(氷と炎の歌)』の第7部が今から楽しみだと期待を寄せる、先進国のどこにでもいる現代的な若者と言えた。

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危さんは地元・福建省南平市にある少武実験小学校(小中一貫校)に勤めており、9月からは正職員採用が決まっていた。元々は就職祝いとして友人と二人で来日する予定だったが、友人が同行できなくなった。同僚はツアー旅行への参加を薦めていたが、危さんは自ら旅程を立てて一人で旅することを選んだという。

 

■反応

危さんは7月18日8時40分の便で天津浜海国際空港を離れ、12時50分に函館空港から来日。小樽に宿泊して市街を散策し、19日は洞爺湖を訪れていた。20日に札幌へ移動してゲストハウスを拠点に道央各地へ出掛ける計画を組んでおり、25日まで滞在予定だった。

冒頭のニュース動画でも分かるよう、ゲストハウス到着時には店主と笑顔でやりとりするなど、それなりの緊張感を漂わせつつも、至って普通の外国人観光客らしい様子を見せていた。

店主は香港出身で英語も中国語も解する女性だが、危さんは流暢な日本語で日常会話はできる様子だったと話した。到着時には「近くでお弁当を買える場所はあるか」と尋ねられたという。

小樽ではお寿司やケーキを味わった

21日には美瑛まで足を延ばし、フラワーガーデンに訪れたときの様子などをSNSグループ内で投稿していた。駅で観光コースについて相談したらスタッフが中国語で親切に対応してくれた、と綴っている。

美瑛でのセルフィー

若者絡みの事件ではよく見る光景だが、インターネット上の行動を追跡するのは中国でも同じだ。ネチズンたちは彼女の近況や手がかりとなる情報を得るため、「微博」や「Instagram」などSNSを検索し、Q&Aサイト「知乎(zhihu)」などに質問や情報、各人の見解を加えてやりとりを行った。

ある者はこれから失踪しようという心境でセルフィーなど撮らないだろうと言い、また別の者は投稿画像から沈鬱とした心理状態を嗅ぎ取った。先入観を持って見れば確かに小樽運河や町の様子はどこか物悲しげであり、咲き誇る花々も対象との距離を感じさせる。

だが撮影機材や技術、天候や体調などの影響もあるため、投稿画像だけを見て彼女を心配する人はいないだろう。「色んな場所へ足を運んだのだな」「無事に旅を楽しんでいるのだな」と眺めるのが一般的な感覚、良好な人間関係といえよう。

中国国内でも行方不明事件は多数あるが、多くのネチズンが反応した理由として彼女が美貌の持ち主だったこと以外にも、ネット上での活動履歴を追いやすかった点が挙げられる。また長く「安全神話」が言われてきた日本で起きた事件、更に中国国内で旅行先として人気の北海道で発生したことも人々の好奇心を喚起した。

 

直近の2017年7月13日には神奈川県秦野市寺山の山中で、危さんと同じ福建省出身の姉妹(22・25)が他殺体となって発見される事件が起きていた。

姉妹は就学ビザで来日し、ホステスとして働いていた店で岩嵜竜也(39)と知り合った。岩嵜は姉に好意を抱いて親しくしていたが、姉はビザの期限が迫っていたことから偽装結婚を持ちかける。岩嵜は自分の好意を「利用された」と憤り、二人が住む横浜市のマンションで立て続けに絞殺。スーツケース2台に遺体を詰めて遺棄したとされる。姉妹はファッションへの関心が高く、高校での勧めもあって日本に留学したという。

中国の若い女性が立て続けに外国で狙われたとなれば、報道の扱いが大きくなり、国内での類似事件より話題としてフォーカスされやすい面もあったのではないか。昔と違って日本が「身近な隣国」になったことの裏返しでもあり、反日感情も含めて国民の警戒心を触発する話題ともいえる。その上、「行方不明」という安否の知れない状態や情報の飢餓感も手伝って、却って関心を強める要因となったのかもしれない。

 

有志達は日本の犯罪事情や北海道の観光情報、報道からの切り抜きや翻訳を逐一やりとりしながら事件報道を自ら補完していった。報道に対する猜疑心や情報への探究心においても日中の垣根はない。

22日はスカート姿だった

上のように札幌のゲストハウスのカメラ画像を見比べると、20日、21日にはパンツスタイルに黒いリュック姿、行方不明となった22日にはロングスカートで赤の小さ型ショルダーバッグとタブレット端末を入れた「六花亭」の紙袋を抱えた姿が確認されていた。日本の元刑事は、外出前、玄関脇の鏡で髪を直す仕草から「誰かと会う予定があったのではないか」と推理した。

ある音楽ジャーナリストは外出時にゲストハウスの前で危さんが操ったタブレット端末から恋愛映画のアルバムジャケットを読み取ったことで、多くの人にデート説を想起させた。

彼女の友人は失踪前の情報を詳細にまとめて下のような行動履歴を作成した。

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若い女性の一人旅、当初は多くの人がわいせつ目的の拉致被害など何らかの人災に巻き込まれたと考えた。中国ネチズンの目から見ても、発展を遂げた中国で経済的に不自由なく育ち、大学院を出て定職を得た若い女性があえて不法就労者になるとは到底考えづらく、単純な自発的失踪の線は薄いと言えた。

可能性として、以下のようなものがあった。

・交際相手が日本におり、駆け落ちした

・インターネットで知り合った人物と道内で合流してトラブルに発展した

・道内で偶々知り合った人物と合流してトラブルに発展した

・山やひと気のない場所で遭難事故に見舞われた、羆の被害の可能性も

 

誰しもが彼女の無事を祈りつつも、現実的には「自殺」の線もない訳ではなかった。

SNS特定班の報告によると、教育実習中の投稿には冗談めいた内容も見られていたが、6月下旬の投稿には「人生は永遠に矛盾するもの。どんなに孤独でも友達は必要、友達がいても孤独は解決できない」とつづられ、何か言葉にしづらい悩みを抱えた様子が窺われた。

7月初旬には10年来の友人男女4人で海辺の町へ旅行に出かけていた。

「シャワーを浴びて民宿のそばのブランコに。耳には途切れることのない風の音、そして音楽も。星もあなたの姿もないけれど、今はそれでも構わない。このすべてを人生最後の輝きにしよう。時間を切り詰めて、無駄な時間を過ごそう」

旅情の詩をもって彼女が「失恋していた」と唱える者もいた。だが「輝き」の薄れつつある青年期の終わり、就職を前にした最後の自由のときを謳歌しているようにも読むことができる。

危さんは22日夕方以降の連絡を絶った一方で、23日0時1分に微博アカウントからシンガーソングライターの孫燕姿(孙燕姿、ステファニー・スン)の誕生日投稿に「Fav(「いいね」)」リアクションが行われていた。

21日にバンド「リンキン・パーク」のチェスター・ベニントンの自殺報道に「R.I.P(rest in peace、お悔やみ)」付きのリツイート(再投稿・拡散)を行っていたことも分かっている。

福建省の危さんの家族や友人たちは、旅行前に彼女に変わった様子はなく、希死念慮(自殺願望)なども感じなかったと言い、日本に知り合いがいるといった話も聞いたことがない、と取材に答えた。

 

■阿寒へ

道警は、道内全域の空港、フェリー港、鉄道駅や宿泊施設に捜査協力を依頼して危さんの行動経路を追っていた。その結果、危さんは7月22日19時30分頃、阿寒湖の温泉ホテルに事前予約なしで一人でチェックインしていたことが判明する。

札幌市街から釧路駅までは東へ約300km、電車で5時間、車でも4時間以上の道程である。彼女はそこからバスで2時間かけて北上し、夜に阿寒湖までたどり着いた。

逆算すれば、17時頃に父親にメッセージを送ったのは釧路から阿寒湖へ向かうバスの乗車前後と分かる。

マリモで有名な阿寒湖、霧の摩周湖、野湯の湧出や雲海で知られる屈斜路湖を有する弟子屈周辺は原生林も多く、大自然が見せる豊かな表情が楽しめる観光エリアである。

 

23日0時1分に札幌市で確認された微博での「Fav」リアクションと、阿寒湖での滞在情報は当初人々を混乱させた。

favは彼女の最後の電子履歴となるが、 発信元は「北緯 43.0642、東経 141.3469」、IPアドレスは「211.16.108.231」で、札幌市にある「北海道庁」を指示していたためである。そのため別の人間が彼女のスマートフォンないしタブレット端末を操ってアクセスしたのではないか、と犯人や共謀者による位置情報の偽装が疑われた。

しかし現在では、「Fav」リアクションは彼女自身が操作したものではなく、プロフィール設定で「好きなアーティスト」に孫燕姿を登録していたことによる機械的な「自動投稿」と推測されている。

微博の仕様は詳しくは分からないが、最後に操作していた札幌市のIPアドレスが反映されたと考えられ、彼女の端末は23日0時1分時点ではすでに電源が落ちていた可能性が高い。

 

危さんは翌23日午前7時30分頃にホテルをチェックアウトし、その足で阿寒湖の遊覧船に乗っていたことが分かった。所要時間はおよそ85分とされる。ホテルは素泊まりで朝食がなかったこともあってか、降船後には近くのパン屋に立ち寄ってパン等を買い求めていた。コンビニでのカメラ映像は父親により危さん本人と確認された。

彼女は荷物も持たずになぜ一人で阿寒湖を訪れ、朝から遊覧船に乗っていたのか。


7月25日夕方に阿寒湖周辺で黒い服を着た危さんらしき人物を見た、31日の13時半頃にも阿寒湖で白い服を着た若い女性がパンケトー(阿寒湖東部に位置する原生林に囲まれた湖)方面の散策路にいたとの情報が入り、目撃された女性が危さんだった可能性もあるとして周辺での捜索が続けられた。
阿寒湖からの主要ルートは釧路につながる「まりも国道(国道240号)」か、雄阿寒岳を越えて弟子屈摩周湖方面に向かう「阿寒横断道路(国道241号)」に限られる。

 

■家族への手紙

7月29日、ゲストハウスに残していた荷物の中から「家族への手紙」が発見されたことが日中メディアで報じられると、一層の謎を呼んだ。

来日した父親は「娘の筆跡に似ている」と認めたが、手紙の具体的な内容は明かされなかった。多くのメディアは「両親への感謝」や「新しい生活を始める」と書かれた手紙と抽象的に報じたために様々な憶測を呼んだ。

 

「新しい生活」という響きだけで想像すれば、中国での暮らしを捨てて日本で別人として暮らす意志のようにも思われた。しかし福建省で報せを受けた危さんの弟・危琳さんは「別れの手紙ではなく、旅行記だった」と述べ、「姉は教師の仕事が大好きで、経済的に困っていることもない。日本での不法就労はありえない」と主張した。

危さんの友人は、危さんは大学時代から日本の文化に関心があったと話した。大学の第二外国語で日本語を選択し、単身での北海道旅行を決めたこと、日本人作家の小説を愛読していたことからも当然興味・関心はあったには違いないが、どれほどの心的共鳴を感じていたのかは分からない。

弟・琳さんは「姉は旅行が好きなだけ。景色や日本の作家が好きなだけで、日本での暮らしに憧れていた訳ではない、観光に行ったんだ」と話し、自発的失踪説を否定した。

一部メディアは「自殺をほのめかす手紙」と報じ、別のメディアは「自殺を示唆する内容ではなかった」と明言した。しかし、「家族への感謝」や「旅行記」を綴った手記であれば、道警や領事館がただちに家族の来日を求めて筆跡を確認させたとは思えない。多くのメディアがなぜ「両親に向けた手紙」「家族への手紙」といった表現を用いたかと言えば、そこに「告別」が含意されていたと推測するのが妥当である。

 

■再び釧路へ

8月2日の報道では、釧路駅から幣舞(ぬさまい)橋方面に向かう大通りの防犯カメラに危さんとみられる女性の姿が確認されたと伝えられた。撮影されたのは23日12時15分頃から30分頃の間。つまり阿寒湖で遊覧船に乗船後、すぐにまた釧路へ引き返していたことになる。
10時頃に阿寒湖バスターミナルでチケットを購入する様子が確認され、10時25分発の便で釧路に向かったことが報じられた。バスの乗客は4人。車内では黒いマスク姿でパンを食べるときだけマスクを外していた、と語る目撃者もいた。
当時は捜索報道はなされていないことから、変装ではなくノーメイクか化粧崩れを隠していたとみられる。
 
その後、危さんは釧路川沿いの複合商業施設MOOの2階にある喫茶店へ来店していたことが判明する。喫茶店の店主によると、危さんは14時頃に一人で来店して窓辺の席に座ってカプチーノを注文。店主は喋り好きであったため何か声を掛けようかとも思ったが、女性は人を寄せ付けないような、思いつめた表情で窓の外をじっと見ていたため、口を噤んでいた。40分から1時間程して退店したが、支払いの際にはじめて日本人ではないことに気づいたという。
しかし、その後の彼女の動向については全く報道が途絶えた。
22日7時30分頃 札幌市でゲストハウスを出る
22日17時頃 父親に「無事宿に戻る」とメッセージ
22日19時30分頃 阿寒湖の温泉ホテルを訪れる
23日0時1分 微博で「Fav」
23日7時30分頃 ホテルを後にし、阿寒湖の遊覧船に乗船
23日10時25分頃 阿寒湖からバスで釧路へ
23日12時15分頃 釧路駅前を通行
23日14時頃 釧路の喫茶店を利用
仮説として、釧路駅から再び札幌に戻ろうとしていた可能性も考えられた。札幌に直行する特急スーパーあおぞらの発車時刻まで市街で時間を潰していたとする見方である。また商業施設MOOは観光バスや都市バスのバスターミナルとも接続していることから、別の目的地にバスで移動したと推測する声もあった。

釧路川にかかる幣舞橋から見た商業施設
しかし釧路駅や大型商業施設は相当数の監視カメラも備えていることから逆算すれば、駅周辺や店内での行動、バスの利用は容易に把握されるはずである。

 

■『非誠勿擾』

2008年公開の中年男の婚活を描いたラブコメディ映画『非誠勿擾(邦題:狙った恋の落とし方)』は当時の歴代正月映画興行記録を更新する大ヒットとなり、舞台となった北海道道東エリアへの観光需要、投資需要を拡大させたといわれる。

若者向け恋愛映画という訳ではないが、流行に敏感な「80後」「90後」であればだれもが聞き知った作品であり、北海道旅行の計画にも少なからぬ影響を与えたものと中国のネチズンたちは考えた。

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映画のなかで登場人物が網走市の能取岬で自殺未遂をする場面がある。8月4日、中国総領事館は道警に対して映画の舞台となった網走や知床を含む道東全域での捜索活動を依頼。とくに網走市では市街での聞き込みだけでなく、ヘリでの捜索なども行われた。

非誠勿擾の入水シーン

総領事からの要請やそれに応じた道警の動きを合わせて考えれば、明言されていなくとも彼女が残した手紙には自殺をほのめかす兆候があったのはほぼ間違いなかった。しかし人々の希望が自殺説を退け、旅を続けながら潜伏しながらどこかで生存していてほしいという願いにつながったともいえる。

8月6日、危さんの父親は福建省に戻り、日本からの報告を待つこととした。

 

■『阿寒に果つ』と加清純子

危さんと日本をつなぐ線として文学も注目された。彼女は村上春樹東野圭吾渡辺淳一を愛読していたという。

渡辺淳一は札幌出身で元医師の直木賞作家である。読書家でなくとも90年代に大きな話題となった『失楽園』や2000年代にドラマや映画となった『愛の流刑地』、2010年にミリオンセラーとなった人生論『鈍感力』等は見聞きしたことがあるのではないか。

日本の若い世代は渡辺作品になじみが薄いかもしれないが、90年代末以降、中国では高い人気を誇り、2016年には中国の出版社が札幌市の「渡辺淳一文学館」を購入している。危さんが訪れたという確定情報はもたらされていないが、宿泊したゲストハウスから文学館まで僅か400mの距離だった。

1973年出版、後に映画化もされた『阿寒に果つ』は実在した女流画家・加清純子がモデルとされる。20年前に阿寒湖で自殺を遂げた天才少女画家の死について、かつて交際関係にあった男性作家が彼女の元恋人たち5人と会って真相を探ろうとする内容である。渡辺は作家を志したきっかけの一つに彼女の存在を挙げており、おそらくは作中の奔放なヒロイン像の一つにも元交際相手の面影が投影されていることは間違いない。

高校2年生、真面目な渡辺青年に純子は「誕生日を祝ってあげる」と手紙を渡し、短い間、二人は交際関係を持った。純子は10代半ばにして気鋭の女流画家として注目され、いわゆるアプレゲール(戦後派・反権威の若者)世代の「天才少女」として脚光を浴びる「文化人」であった。自由奔放な逸脱行動は学校からも黙認され、画家や医師、新聞記者やパトロン、議員など中年男性たちと数々の浮名を流していたという。

 

高校卒業を控えた1952年1月、純子は制服姿のまま家出。男性たちの家を転々とした後、阿寒湖畔のホテルを訪れ、23日、部屋に未完成の阿寒湖の絵3枚を残したまま消息を絶った。「阿寒に行って死ぬ」と聞かされていた知人もいたが、以前から人を驚かせるような発言が多かったことから誰も真剣に引き留めようとはしなかったという。雪深い阿寒での捜索は困難を極めた。

調べにより、医師法違反(無免許開業、詐欺、堕胎罪など)により釧路刑務所に服役していた岡村昭彦と交際関係にあり、失踪直前の1月17・19・21日の3度に渡って面会に訪れていたことが判明。共産党員としての非公然活動もあった岡村は純子に保釈運動を請うて5万円の金策を要望。純子は岡村に「26日に戻る」と伝えたまま姿を消した。

雪解けを迎えた4月14日早朝、阿寒湖畔から1.5kmの旧釧北峠の樹林で純子は凍死体となって発見される。阿寒湖・雄阿寒岳を眺望する景勝地として知られる道だが、冬季は通行止めとなっていた。頭を湖に向けて倒れており、遺体の周りには弧を描くようにして、赤いコート、手袋、ベレー帽、「光」銘柄のタバコ、アドルム(睡眠薬)の空き瓶が並んでいた。

 

渡辺は『阿寒に果つ』の語り手・田辺俊一の口を借り、「あの死は同情するどころか憎んでもいい。あの死は驕慢で僭越な死ではなかったのか。すべてを計算しつくした小憎らしいまでに我儘な死ではなかったのか。」と純子の死に対する憤りを綴っている。それは生前に数多の男たちを魅了し、男の青春を風のように通り過ぎていった初恋相手に見た「彼女らしさ」そのものを表現した言葉のように思われる。

釧路の幣舞橋は観光名所として監視体制も整備されているが、危さんが橋を渡って東進した映像などは報じられなかった。だが警察の動きとして一部メディアでは幣舞橋東面の家々を聞き込みに周ったとも伝えられた。橋を渡って東進すると純子が最後の恋人と会った場所、釧路刑務所があった。

 

■星

8月27日午前5時50分頃、釧路市桂恋の海岸で地元漁師の男性が女性の遺体を発見し、釧路署に通報した。体格や着衣などが行方を捜していた危さんの特徴と一致し、身元の特定が急がれた。足の一部が白骨化していること等から、死後1か月以上と見られた。

発見した男性は毎日朝6時と午後1時に現場を訪れるが、前日には遺体を見ていないと話した。遺体は27日朝6時頃の高潮の時に発見し、頭が海の方に向いていたという。足以外に目立った外傷や着衣の大きな乱れはなかったと話した。

地元の観光業者によれば、桂恋周辺は寂れた漁村で夜になると自分の指先すら見えないほど暗くなると言い、観光客が訪れるような場所ではないという。近くに崖もあるが外傷もないのであれば転落したとも思えないと述べている。

 

8月29日になってANNは危さんが荷物の中に残した「家族への手紙」の具体的な内容を伝えた。手記の現物は警察署に保管されたため、公式ではない情報ということになる。実物は紙2枚に綴られていたとされ、おそらくは最初にテキストの翻訳を道警に伝えたと考えられる香港出身のゲストハウスの主人の記録を再構成したものである。

「ごめんなさい、これはお別れの手紙です。

私は27年間生きてきましたが、今は一生懸命働くことができません。

もし私がいなくなっても、どうか皆さん、悲しまないでください。

私は、みんなを守る星になります。あなたたちを心から愛しています。」

素直に捉えればそれは「遺書」にほかならない。ではなぜ警察は失踪者捜索として各方面へ大々的な捜索活動を行い、人々の誤解や憶測を招くような報道がなされたのか。

おそらく警察は通報を受けた初期段階で、ゲストハウスに残された荷物の中から本に挟まれた「手紙」を発見した。命を絶つとの表記こそないが、翻訳した人間も「遺書」である可能性が高いと判断したに違いなく、筆跡確認のため家族に連絡を取る必要があった。

父親は娘の自殺を強く否定し、日中両国の関係者に捜索を要請した。遺体がない以上は生還を信じ続ける家族にとって自殺報道は受け入れがたいものである。当初はまだ道内を放浪している可能性も多分に残されており、自殺を偽装して失踪した可能性も全くないとは言い切れなかった。

本人が生きていれば情報に触れる可能性もあり、手紙だけで一方的に自殺と断定して捜査方針を変えれば両国間の国際問題ともなりかねない。そうした各方面への配慮がメディア各社のオブラートに包んだ表現につながったと考えられる。

また報道が8月上旬で尻切れトンボのように途絶えたことについても、報道や世間の反応が拡大して福建省の家族から来日中だった父親に連絡が入り、報道規制を要請したとも推測される。

30日、北海道警はDNA型鑑定の結果、発見された女性の遺体が危秋潔さんと判明したと発表した。肺に海水が含まれていたこと等から死因は「溺死」とされ、事件に巻き込まれた可能性は低いと判断された。

31日、危さんの親族が釧路空港に到着し、釧路署で遺体を確認した。父親は娘と対面する心境になれなかったという。9月1日、市内で火葬され、翌2日に空路で帰途についた。

 

■Live New Life

危さんは2015年6月に微博でのアカウントを開始し、10月には卒業に向けてパスポートを取得し旅行資金も貯めていた。2017年5月にアカウント名を「Live New Life」に変更している。

日本ネチズンは『非誠勿擾』のヒロイン笑笑(シャオシャオ)のように不倫の末に失恋でもしたのだろうと言い、中国ネチズンは彼女の日本文学への傾倒と日本人の自殺率の高さを結び付けて、自殺の動機について論じようとした。

彼女の故郷・邵武市は山間部の盆地にある人口およそ30万人の地方都市である。ボリュームでいえば大きな人口だが、地図上では山に囲まれた陸の孤島のように見える。

これまでの人生で彼女が何を学び、どのように感じ、これからについて何を思っていたのかは分からない。26歳で人並みの恋や失恋も経験したであろうし、プライベートな悩みも抱えていたことだろう。

公表されているのは裕福な家であることと教職の正式採用が決まっていたこと、そこから推測できるのは、彼女はこれからもこの地で根を張って生きていくはずだったということである。

自立という点で一般的に就職は喜ばしい出来事だが、彼女にとっては人生に架せられた鎖のような束縛に思えたかもしれない。危さんは生まれ故郷での暮らしに不安を抱えていたのではないかと筆者は考えている。

 

中国の教育現場も場合によっては日本以上にストレスフルな労働環境かもしれない。大学から教育学部(師範コース)に進学した訳ではなく、卒業後に教職を志したと思われ、やりたい職業ではなかった可能性もある。

疾病など何がしかの理由もあったのかも分からないが、定職に就くまでに周囲より時間を要した点を鑑みても、一種のモラトリアム心理も働いていたのではないか。だとすると映画やドラマ、小説といった国外のフィクション愛好の背後には現実世界からの逃避感情やここではないどこかへの憧れも無自覚のうちに含まれていたようにも感じられる。

家族関係は分からないが、母親が報道に出ておらず、父親や弟が対応していることから男権の強い環境を窺わせる。日本と同じく中国の旧来の保守的な家庭では女性の地位は相対的に低く、不妊であったり男児を授かれない際には邪険に扱われ、自殺率も高いことが指摘されている。危さんが姉と弟を持つことからも強く「男児」が望まれた家柄だと推測してよいかと思う。

弟は手紙について「旅行記だ」と嘯き、父親は行方不明から一貫して自殺説を否定し、遺体発見の報にも他殺説を主張して捜査継続を求めたと報道された。家族として、父親として自発的失踪や自殺が受け入れがたいことは分かる。だが彼らの言動の行間からは、死を受け入れられない以前に、自分の家族が自殺するなどあってはならない、とする心理も窺える。

土地柄なのか、家柄なのかは分からないし、そうした態度を以てして彼らが危さんを自死に至らしめた原因と断ずることがあってはならない。家族以外の友人や恋愛関係でのトラブル、将来への漠然とした不安もあったかもしれない。だが家柄や育ちの良さが、却って学業や就職、恋愛、結婚など人生の岐路での家族との衝突につながり、彼女の生きる気力を徐々に削いできた可能性は排除しきれない。

 

遺書の存在からして危さんが以前からこの旅を「故郷との永訣」として心に秘めてきたことは確かである。いつからか「就職」は彼女が設定したそれまでの人生の「仮の終着地」になったのではないか。青春の終わりを、自由を奪われることを意味するそのときを。もしかすると事後の混乱を避けるために、中国語を解する店主のいるゲストハウスを選択していた可能性さえある。

彼女は観光を楽しむ一旅行者として取り乱すことなく家族や友人たちに自分らしく振舞った。おそらく渡辺淳一文学館で加清純子と同一化を深め、チェスター・ベニントンにシンパシーを持って追悼し、22日をその日に決めた。奔放に大胆にその生涯を駆け抜け、死後も人々の記憶の中に鮮烈な存在として生き続けた純子は、もしかすると危さんにとって指針のひとつだったかもしれない。

彼女は最期に自由な生き方を求めて阿寒湖にたどり着いた。だが着いた頃にはすでに陽が落ちていた。その場所を目に焼き付けるためホテルで一晩過ごすことにした。遊覧船からの入水も覚悟していたかもしれないがそれは叶わなかった。あるいは加清純子のエンディングが真冬の山中だったこともあり、夏の朝の阿寒湖は彼女の思い描いたイメージと違っていたのかもしれない。おそらく湖に浮かぶ85分の間に心変わりしたのだ。ある種の「ためらい傷」とも言えるかもしれない。

阿寒湖への旅程を組み立てる中で釧路の観光情報として「幣舞橋」にも触れていたであろう。北海道三大名橋に数えられ、太平洋に沈みゆく夕日や夜間の街灯風景の美しさで知られる。彼女は橋の見える喫茶店で夕日の訪れを待つことにした。彼女はこれまで目にしたことのない美しい景色の中で感動に包まれながらその時を迎えたかったのだ。

阿寒湖の遊覧船か、釧路へのバスの中で「新たな門出」にふさわしいシーンを思い描いた。『非誠勿擾』のイメージが投影されたのか、それとも山に囲まれた故郷と対照的な場面を選んだのか、広大な海でのエンディングを迎えることにしたのだ。7月23日の釧路の天候は曇り。夕日の眺望を拝むことは叶わなかったかもしれないが、夏の海は疲れ果てた旅人を優しく受け止めた。

 

危さんのご冥福と、ご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

金沢スイミングコーチ殺人事件

1992年、金沢市のスイミングスクール駐車場で車内に女性インストラクターの絞殺体が見つかった。現場には「生きた化石」と呼ばれる植物メタセコイアをはじめとして事件の手掛かりが比較的残されており、県警は殺人事件として15年間で捜査員延べ6万人を投入したが犯人検挙には至らず。2007年に公訴時効が成立した。

石川県警が最後に許した時効事件の汚名を冠することとなり、その真相についても様々な噂がつきまとった。

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かつて捜査に加わった西村虎男氏は退職後の2011年に『千穂ちゃんごめん』を上梓。「お宮入り」させてしまった後悔と世間に広まる誤った噂を少しでも払拭したいという願い、警察組織を蝕む悪習の浄化を切望した。

これに感銘を受けた村山和也監督がオファーし、実際に事件に携わった元刑事とフィクションとの二重構造によって「化石」となった未解決事件に再び光を照らすセミドキュメンタリー映画『とら男』(2022)の公開でも話題となった。

本稿では西村氏の著書にある捜査状況等に依拠しつつ、事件について考えてみたい。

 

概要

1992年10月1日(木)0時50分頃、金沢市三十苅町にあるスイミングスクールの職員駐車場に止めてあった車の助手席から若い女性の遺体が発見される。

 

女性は車の所有者で、同スクールでスイミングコーチを務めていた安實(あんじつ)千穂さん(20)。第一発見者は帰りが遅いのを心配して探しにきた母親と姉であった。

千穂さんは助手席のリクライニングシートを倒して眠ったように目を閉じており、助手席側のドアはロックされていた。母親は解錠されていた運転席側のドアを開け、起こそうとしたところで娘の異変に気付いた。反応しないばかりか体は冷たくなっており、車内灯を点けると首には絞められてできたような痕が見えた。

慌てて近くで営業していたスナックに駆け込み、店主が110番通報した。

 

 

被害者、発見までの経緯

千穂さんは3人姉妹の次女として生まれた。父親が市の水泳協会副会長を務め、姉が水泳選手をしていた影響もあり、高校では水泳部マネージャーを務めた。卒業後はスイミングスクールのインストラクターとして就職。面倒見の良い性格で慕われ、スクール生の保護者からも明るく優しい先生として信望もあった。

千穂さんには同僚や水泳関係で親しい男性はいたが、特定の交際相手はいなかったとみられている。事件より5か月程前にそれまで続けていた日記を辞めていたが理由は不明である。

 

自宅は勤め先のスクールから約7km南に位置する松任市(現白山市)矢頃島町で、車で10分程度の距離。矢頃島町は周囲を田園地帯に囲まれた20世帯ほどの小さな農村集落である。

勤務していたスイミングスクールは金沢市の西部、現在の地図で見ると野々市市(当時は石川郡野々市町)、白山市(当時は石川郡鶴来町)との境に位置していた。金沢駅から南に約9km、観光客の多い兼六園金沢21世紀美術館からは南に約8kmの距離にある住宅密集エリアにあった。

スクールから見ると金沢市の市街地へは自宅方面とは正反対(北東方向)になることもあってか、千穂さんが仕事の後で市街方面に向かうのはショッピングや友人とカラオケに行くといった用事のある場合に限られていた。

中央〇が職場、左下〇が自宅

門限は22時とされており、普段帰りが遅れる際には必ず連絡を寄越すことが習慣となっていたが、事件の晩は23時を回っても何の連絡もなかった。スイミングスクールはとうに終業時刻を過ぎており、母親は同僚コーチら数名に電話をしたが、職場では何事もなく普段通りに帰ったと聞かされる。

父親は同僚と飲みに出掛けて帰宅が遅くなっていた。妻は夫のポケットベルに早く帰ってきてほしい旨の連絡が入れ、一緒にいた同僚もそのことを確認している。

母親は長女と車で捜索に出かけ、はじめに自宅近くにある運動公園「松任グリーンパーク」の駐車場を確認し、そこから勤め先のスイミングスクールへと向かったという。2人はスイミングスクールのバスが止められていた駐車場に見覚えのある黒い車を発見した。

 

状況と痕跡

について。

車種は三菱の小型乗用車・黒色の「ミラージュ・ファビオ」で、彼女が普段使っていた駐車枠「2」の位置に前向きで止められていた。となりの駐車枠「3」にはみ出す乱雑な止め方で、車の前バンパーは敷地境界の縁石(画像左手)に接触していた。

車は駐車枠「2」に止められていた。画像右マンション1Fの店に駆け込んで通報を求めた。

発見当時、車のエンジンはかかっていなかったがキーが差された状態で、シフトレバーは「ドライブ」に入れられたままだった。音量は絞ってあったがカーステレオのランプが点いており作動したままになっていた。犯人は時間的によほど焦っていたとみられ、千穂さんの車の操作に不慣れな者と考えられた。あるいは他の職員に異変に気付かせるために、犯人が意図して乱雑な停め方をした可能性もある。

ダッシュボード内にあったカセットテープケースに不明の指紋が付着していたが、犯人の可能性は薄いものとされた。同じくダッシュボードからは眉剃り用のカミソリが見つかったが本件で使用された形跡はなかった。

後部座席には、財布などが入った千穂さんのショルダーバッグが置いてあった。

この車は高校卒業後に通勤用として購入したもので、他の家族と同様、農協の保険に加入しており不審な点は見られなかった。だが匿名掲示板などでは、事件前に家族が多額の保険金をかけていた旨の噂が書き込まれ、2022年現在も残存している。

 

遺体の状況について。

発見時、両足に靴を履いておらず、左足の靴は車内にあったが右足の靴は見当たらなかった。

死因は絞殺による窒息死。凶器は最大幅4㎝のやや硬く折り目模様のあるひも状のもの。索条痕は両耳の後ろあたりまで残っていた。犯人は右寄り後方からひもを引っ張って、喉を圧迫したと推測された。

口の中には喉と歯の裏側に、草葉が各一片ずつ入っていた。

左頬、左下あご付近、左腰の部分に皮下出血が見られた。また着衣の前後に付着した失禁痕の状態から、犯人は殺害直後に遺体を裏返したとみられる。車内には尿反応が出なかったことから、屋外で殺害されてから車でスクール駐車場まで運ばれたと考えられた。

爪に犯人の皮膚等の付着はなかったことから、激しい抵抗はしていないものと推測された。

 

被害者の着衣は、黒色の長袖上着の上に紺色デニム地のオーバーオールで背面と臀部には泥が付着していた。

オーバーオールの下腹部が刃物で縦20センチ程に切り裂かれていた。下着に刃が当たった痕跡はあったが切り傷はなし。

下腹部の上には、切り跡を隠すようにして空容器の入ったビニル袋が載せられていた。千穂さんが昼食用に家から持参したスパゲッティを入れていたものである。だがこの日は勤め先で昼食が振舞われたことから、千穂さんは持参した昼ご飯を仕事終わりに食べていたと同僚は証言した。急げばわずか10分ほどの家まで持ち帰らずに食べていたことは、すぐには帰宅できない、仕事の後に何かの用件があっての行動とも推測できる。

 

わいせつ行為の痕跡、いわゆる「着衣の乱れ」もあった。オーバーオールの肩釣りベルトは左側が外れており、胸部に3つあるボタンのひとつは糸が切れてボタンが着衣の内側に紛れ込んでいた。

ブラジャーは定位置より下の位置にずり下げられた痕が残り、ブラの上部と遺体の乳房から(A型の千穂さんとは異なる)AB型ないしB型の唾液の付着が確認された。パンティが一部下方に捲れていたことから、犯人が陰部へ手を入れようとしたものと推測された。姦淫の痕跡はなし。

 

口中と頭髪に針葉樹の葉が付着しており、事件の3日後にメタセコイアの葉であることが分かった。

メタセコイアは長らく北半球では化石でしか発見されず絶滅種とみなされていたが、20世紀半ばに中国四川省の磨刀渓村で「水杉(スイサ)」と呼ばれていた植物と同種であることが確認された。1949年に中国から国・皇室で譲り受け、「生きた化石」と珍重されてその後全国へと広まったが、植栽は学校や公園など公の場所に限られていた。

自宅・松任グリーンパーク・リンゴ園の位置関係。それぞれ300~400m程度しか離れていない。☆印は駐車されていたとみられる位置。

近郊で犯行現場の特定に当たっていた捜査員が、高さ4m程のメタセコイア若木に囲まれたリンゴ園を見つける。松任市矢頃島町にある被害者の自宅から数百m、先述の「松任グリーンパーク」の東隣にある「県農業総合試験場果樹実証圃」である(上の地図は現在のもの。リンゴ園があった場所には工場が建っている)。

リンゴ園の周囲は3m間隔でメタセコイアが植栽されており、当時は敷地に柵なども設けておらず、木々の間から園内に出入りすることができた。東側の農道はかつて用水路で行き止まりとなっていた。その農道奥から被害者の車と一致するタイヤ痕が見つかり、園内に5m程入ったところに千穂さんの右足の靴と頭髪が発見された。頭髪はすべてA型で被害者のものと確認される。

犯人は園内で暴行に及び、殺害後に、被害者を後ろから抱えるようにして足を引きずりながら運び(このとき右足の靴が脱げたと思われる)、農道奥に停めていた車の助手席に乗せたと推測できる。

また遺体の髪などに長さ3.8㎝の白色毛糸2本が付着していた。毛糸は市販のものではない生成りの毛糸で、製造元の割り出し等により、富山県内の業者が製造する帽子の「梵天」に酷似しているとの結果が出たが断定はできなかった。梵天とはニット帽の頭頂部に付属する丸形の玉飾りのことである。発見された毛糸が酷似するこども向けニット帽のものだとすれば、犯人の身近に小さなこどもがいたとも推測できる。

 

犯行時刻と経路

リンゴ園の農道奥では捨ててあったガソリン給油チケットが発見されており、犯行当夜、千穂さんたちとは別のアベックがその場を訪れていたことが分かった。アベックは21時半から22時ごろまで滞在し、その間は他に車がなかったことを証言した。

スクールと職員駐車場の間には6階建てマンションがあった

スイミングスクールの西側には北陸鉄道石川線の線路が南北に通り、400m北には無人駅の「乙丸駅」がある。周辺地域は住宅街が広がる。スクールの建物脇には利用者向け駐車場が10台分程度あった。車が止められていた職員駐車場まで50mほど離れており、その間に飲食店等のテナントが入った6階建てマンションがある。そのため知らない者では、一見してその場所が職員駐車場とは分からない位置関係である。

さらに職員駐車場は白線で29枠に分かれていた。犯人は千穂さんが普段から「2」番枠に駐車していたことを知っており、通り魔ではなく「顔見知り」の線が濃厚となる。

 

千穂さんのその日の退社時刻は18時45分、同僚の男性コーチは千穂さんの車が19時15分頃に自宅とは逆方向に走り去るのを見たと証言した。駐車場は出入り口が東西2か所あり、普段の帰宅ルートは西に向かう「海側」の出入り口から駐車場を出て踏切を渡り、南西の方角にある自宅方面へ向かう。

だが事件当夜はなぜか逆方向の「山側」に向かっていた。その時点で車内に同伴者があったかは不明だが、自宅とは逆方向に用事があった、一度だれかをピックアップしに向かったとも思える行動だ。

また遅番の同僚コーチ2人から20時50分頃、21時35分頃にも母姉が発見した時と同じような状態で車が止まっていたとの証言もあった。同僚たちは車内の異変には気づいていなかったが、それらの目撃証言が事実とすれば、犯人は19時15分頃から20時50分までの1時間半の間に、被害者の自宅近くのリンゴ園で殺害し、わざわざ車を戻しにきたことになる。

 

不可思議な目撃情報

前述通り20時50分頃にはスイミングスクールの同僚が職員駐車場で被害者の車を目撃している。つまり犯人はそれまでにリンゴ園からスクールまで移動していたことになる訳だが、その直前の20時40分頃にも被害者の車輛とみられる目撃情報があった。

被害者の車がいずれかの☆印の路地から大通りに左折してきたとみられる

目撃者の女性は大額3丁目を通る大通りを線路方向に向かって走行中(地図の黄色い線を右から左方向へ進んでいた)、前方左側の路地(地図上の☆印のいずれかと推測される)から「黒いミラージュが左折してきた」と証言する。彼女は占いに凝っており、前を走る車のナンバープレートの数字が「足すと19になる凶数」だとして接近しすぎないように注意を払っていたという。

なにやら不可思議な証言だが、被害者の車のナンバーは「1954」であった。また被害者と同型の車種の購入を検討していたこともあり、車の特徴まではっきりと記憶していた。

後方からの目撃だが、運転者は後ろ髪から「若い男」と思われ、助手席は背もたれ部分が見えなかったため「シートが倒されていた」と考えられた。目撃者の女性は線路を越えてすぐのスーパーに立ち寄ったが、前を走っていた車はそのまま直進したという。

車内の状況からはまさしく「遺体を乗せた犯人の運転する車」を示しているかに思われたが、目撃場所がリンゴ園とは逆方向であったため、当時の捜査陣を混乱させる情報でもあった。駐車場に止めようとした際に人がいた等して、一度その場を素通りし遠回りをしていたのではないか、といった解釈しか出てこなかった。

 

捜査本部と問題点

事件当初、遺体発見現場近くに金沢中警察署が仮設の捜査本部を設置。その後発見された殺害現場方面を管轄する松任警察署にも合同捜査本部が設けられ、半年後、松任署に統合された。捜査陣営が二手に分かれたことで最も重要な捜査初期の基礎情報の共有はうまくいかなかった。

西村氏は金沢中署の特捜係長として発生からおよそ1年にわたって捜査に当たり、約10年後に再び捜査本部に復帰して2年間携わった。未解決に至った要因として、上層部が捜査指揮の一切を取り仕切るトップダウン方式に大きな問題があったと指摘する。

 

ひとつは情報管理の在り方。事件発生直後の上層部はマスコミへの情報漏洩を過剰におそれるあまり、捜査ファイルは現場ではなく署内に移され、管轄捜査員にすら情報共有がなされていない状況だったという。行き過ぎた秘密主義が捜査員の推理判断力を奪い、後々の捜査にまで悪影響を及ぼしたという。

遺体に付着していた「生成りの毛糸」についても存在が伏せられており、事件から1か月経って担当班が製品の特定に行き詰った時点で初めて知らされた。その間にも周辺での地道な聞き込み(ローラー作戦)や基礎捜査はほぼ完了していたが、現場捜査員たちは「生成りの毛糸」に全く関知していない、いわば片手落ちともいうべき状態で情報収集に奔走させられていたことになる。

毛糸に限った話ではなく、細かな情報共有が末端の捜査員にまで行き渡っていれば掬えた情報ももっとあったかもしれない。10年後に特捜班長として本部に加わった西村氏はデータの洗い直しの必要と確認作業の簡便化を図るため、捜査対象者の膨大な記録をエクセルデータに落とし込んで分類項目を増やしたという。これも初動捜査時の反省から情報共有の合理化を図ったといえるだろう。

 

西村氏は「見込み捜査」についても注意を促している。疑ってかからなければ真相にたどり着けないこともあり、その筋道が間違ってさえいなければ犯人に到達するため、一概に全否定はできない。だが見込み捜査はひとつ間違えれば「松本サリン事件」のように善良な市民を冤罪の不幸に陥れかねない危険とも隣り合わせな面もある。

小都市でのローラー捜査においては、刑事課以外からも捜査経験の浅い署員が駆り出され、いわば「寄せ集めの臨時体制」が組まれる。そこに上層部から「〇〇が犯人に違いないから情報を取ってこい」といった号令がかけられ、捜査班に予断や偏見を与えれば、集められる基礎情報は偏ってしまい、その後の捜査にも大きな影響を与える。

さらに捜査員が聞き方を誤れば「警察は〇〇のことを知りたがっている」「〇〇が怪しい」と地域一帯に偏見を植え付けかねない。よからぬ噂の火種となり、それにマスコミが食いつけば冤罪被害者を生む惨事となりかねない。後に警察が容疑者リストから外したとて、一度根付いてしまった地域住民たちの疑いの芽を完全に取り除くことは難しくなる。「地元住民の情報」は初期捜査やマスコミによって容易に汚染されるリスクを孕んでいる。今日ではインターネット上で「地元の噂」などと実しやかに全世界へと拡散される。

 

事件の10年後、西村氏が捜査本部に戻った当時も、首を絞めた凶器は依然特定されないままになっていた。解剖所見を基に推理推論を重ねるうち、西村氏は索溝の角度などから被害者が着ていたオーバーオールの肩ひもではないかと考えた。保管庫にあった現物を確認し、体格が近しい人間に着せて再現実験を行った。見込んだ通り、ベルトの幅や長さ、金具の位置まで解剖時に撮影された索条痕と合致した。

灯台下暗しとでもいうべき失態にも聞こえるが、「書類上」は見落とされるに足る事情もあったという。証拠品は紛失や変質防止のため厳重に管理されており、捜査指揮を執る幹部か証拠品の取り扱い担当者しか現物に触れることはない。そのため通常であれば一般捜査員向けに証拠品の「写真台帳」を作成して、現物に触れることなく確認しやすいようにしている。それが本件では「過剰な情報統制」のため証拠写真を見ることすら禁じられていたのだからそうした気付きに至らなかったのも無理はない。

解剖所見では「1㎝位ないし4㎝位までのやや強固で、表面に細かな織り目様が認められる索状物」と記述されていた。一方、鑑識係はオーバーオールの肩ひもを実寸より5㎜足りない「3.5㎝」と調書に記していた。僅か5㎜の人的確認ミスから、10年近く凶器から除外され、見過ごされてしまっていたのである。

調書の記載を訂正させ、凶器を特定した捜査報告書を作成。再現実験をまとめた実況見分調書も署長から決裁が下りた。凶器が予め準備されていたものではなく「被害者の着衣の一部」となったことで、念入りに仕組まれた殺害計画ではなく突発的な状況下で衝動的に犯行に及んだ可能性が強まった。実験結果から犯人は「右利き」と推測された。

 

西村氏は異動により本件捜査から再び離れ、2007年に事件は時効を迎える。地元紙には事件の関連記事が掲載されたが、「着衣のひもで絞殺か」との見出しに対して「捜査本部は凶器を特定しておらず、『ベルトのようなひも状のもの』としている」との会見内容が記されていた。県警の上層部は、凶器特定を最後まで是とはしなかったのかと西村氏は悔しさをにじませた。とりわけ指揮を執った歴代の前任者、上司たちは長年凶器を特定できなかったことが「失態」につながりかねないと考えたのではあるまいか。

 

容疑適格者

西村氏が再登板するまでの10年間でリストアップされた関係者は5,583人にまで膨れ上がっていたが、氏は犯行状況などから犯人は被害者と「身近な人物」と見立てていた。年若い彼女の交友関係がそれほど広範なはずもなく(現在とちがって不特定多数と交流できる出会い系サイトやSNSライブ配信等もない時代である)、被害者と関連性の高い人物から優先して約1500人分の分析をした時点で異動となった。

そのため100%とは断定しないまでも、彼女と近しい人物の中に「六、七0パーセント犯人に間違いない」と言えるまで状況証拠をつかんだ容疑適格者がいたと西村氏は述べている(ご本人からすれば「ほぼ100%」と言いたいところなのだと思われる)。捜査途中で任を解かれ、物証がなかったことから起訴しても勝算があった訳ではない。本人から自白を得るための徹底的な裏付け捜査と新証拠が必要なことには変わりない。

今日では容疑者特定などに「DNA型鑑定」が活用されることもあるが、1992年当時は宮城、東京、大阪、広島、福岡で運用が始まったばかりで石川では導入されていなかった。また証拠品として認められるためには適法の管理手続きが必要となる。本件でいえば「犯人のものとみられる唾液」という重要な証拠が残されていながら、DNA型鑑定を見越した管理がなされていなかったため証拠採用は不可能であり、そこから犯人特定にたどり着くことはできない。

西村氏は後任者による継続捜査に一縷の望みを託し、本部に捜査途中のファイルを残してきたが、それもどうやら闇に葬られたという。氏に倣ってその疑惑の人物を「山田太一(仮名)」として簡単に確認しておきたい。

千穂ちゃんごめん!

公務における守秘義務や捜査上の特殊な事情があることから、読者には人物の特定ができないかたちで犯行可能性が述べられている。そのため随所に具体的理由は省かれており、被害者と山田との関係性や、山田の細かな人物像や生活背景までは窺い知ることは叶わない。西村氏は、不可解ともとれる行動の裏にも犯人なりの理由が存在するとして、持論を組み立てている。

・山田は事件から半年後の1993年5月14日時点で「アリバイ」が確認され、捜査線上から一度消えている。

・だが1994年6月の捜査検討会資料には、「血液型ABまたはB型の男」を対象とした容疑適格者リスト19名の一人に名を連ねている。山田はB型で、検討欄には「捜査済」と印刷されていたが、他の18名は空欄とされていた。

・山田には「アリバイあり」と見なされていたが、予想犯行時刻(19時15分~20時50分の間)よりも「前」と「後」で同じ場所にいたことが第三者によって確認されていただけで、実際には「途中抜け出しの可能性」までは裏付けを欠いていた。

・それまで不可解に思われていたスイミングスクールより北での車の目撃証言についても、山田の行動範囲と照合すれば矛盾がないという。

・検証の結果、途中抜け出しがあったとすればその間に犯行や移動は時間的に可能、つまり犯行時刻における「アリバイ崩し」が確認された。

・犯行の発端は、モーテルに連れ込もうとしたが拒否され、リンゴ園まで連れてきたものの逃げられたため、と推測。

・リンゴ園からスイミングスクールまで被害者の車を自ら運転していったのは、事件発覚を早めて、自らのアリバイを確保するためだったと西村氏は推理している。

千穂さんは仕事を終えた後、普段とは違う「山側」に向かい、金沢市街地方面へ車を走らせた。西村氏は、山田の日常行動から、スイミングスクールから北東およそ2kmの場所にある「レストランA」の駐車場付近で待ち合わせをしていた可能性が高いという。山田は自分の車を駐車場に残してミラージュ・ファビオに同乗し、その際に千穂さんが助手席に移って男が運転役になったとみている。

これは19時30分頃にスイミングスクールから北東約5kmに位置する「有松交差点」でミラージュ・ファビオが左折したという目撃情報に基づいており、男性が運転席、女性が助手席に乗っていたという。目撃地点がリンゴ園とは真逆方向であるため、捜査本部はこの情報を重要視していなかったのではないかと西村氏は言う。

国道8号からモーテル街道へ南進

西村氏曰く、車の進行方向から必然的に見えてくるのは、犯人が国道8号から被害者宅のある矢頃島方面へ抜ける県道174号、通称「モーテル街道」を通って、被害者をモーテルへ連れ込む魂胆があったのではないかという。ちょうど都市部と農村部の境に当たり、当時は6軒のモーテルが点在していたと言い、現在もそのいくつかは存営している。

被害者はモーテルへの誘いを拒み、車は街道を抜けて矢頃島町へと至るも、山田はグリーンパーク方面へと曲がり、リンゴ園脇の農道へと進入。ひと気がないのをよいことに山田は車内でわいせつ行為に及ぼうとするも、被害者は拒絶して車を降りてしまう。リンゴ園を抜けて自宅に向かおうとする被害者に山田は背後から襲い掛かった。

 

アリバイ工作の必要に迫られるが、矢頃島では何もできない。夜の農村部では戻る交通手段もないため、遺体を車に乗せてスイミングスクール方面へ移動する。変質者に襲われたように偽装するため、山田はスイミングスクールを通り越した場所で刃物を調達し、オーバーオールの下腹部を切り裂く。再びスイミングスクールへと車を戻しに向かう途中、20時40分頃に「占いに凝った女性」に目撃されたとみられる。

 

西村氏の論を踏まえて考えれば、山田はスイミングスクールの同僚であろう。犯行後にアリバイを作ろうとしたのは知人宅か、別のアルバイト先などであろうか。

だがおそらく西村氏は情報から犯人を絞り込んだだけでなく、何度もその人物と様々なかたちでコミットを重ねて疑いを深め、男のアリバイ崩しや金沢周辺の土地勘などを踏まえた上で情報を抽出し尽くしたはずである。当たり前のことだが本に書かれたことだけが事件のすべてではない。

たとえば当時の報道状況は分からないが「占いに凝った女」がテレビ報道等を通じて被害者の車両情報を目にしていた可能性はなかったのか等、本を読むだけでは計り知れない、疑問に思う部分も散見される。

実際の事件はドラマやミステリー小説のように「終わり」を迎えればすっきりするものではない。ましてや本件は未解決のままだ。事件発生から30年、時効成立から15年が経った。その間も数多くの警察不祥事や冤罪が世間を騒がせ、新たな未解決事件が生み落とされてきた。警察組織の抱える悪しき体質は一向に改善されていないようにさえ思える。

すでにスイミングスクールも更地となり、リンゴ園も失われ、事件の記憶そのものが世の中から失われつつある。そんななか、気骨ある元刑事が「正解」にたどりつけない謎を情熱をもって追い続ける姿には僅かながら勇気づけられるような思いがする。それは男の執念といった泥臭いものではなく、事件を通じて被害者と向き合った人間にだけできる一種の弔いなのだと強く感じた。

 

千穂さんのご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

 

参考

https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/862551