首なし事件【正木ひろし】

ときは太平洋戦争の渦中にあった1944年(昭和19)1月、茨城県で起きた警察による炭鉱夫暴行死事件について記す。

首なし娘事件(1932)のように頭部が切断された状態で遺体が発見された猟奇殺人とは全く毛色の違う事件である。頭と胴を切り離すことで、「病死」として闇に葬られかけた事件を暴いたのはある異色の弁護士だった。

「自白さえあれば他の証拠はなくてもよい」「自白は証拠の王」と解釈された戦前から続く刑事訴訟の悪しき慣習、「冤罪製造所」ともいえる国家権力たる「警察・検察・判事」に立ち向かった男の最初の事件である。

 

 

■炭鉱夫の怪死

敗戦の色が濃くなりつつあった東条政権末期の1944年1月20日茨城県長倉村(現在の常陸大宮市長倉)にあった加最炭鉱長倉採鉱所の現場主任・大槻徹さん(46)が花札賭博の容疑で逮捕された。逮捕したのは長倉村駐在の永洲忠男巡査(45)であった。

大槻さんは長倉村からおよそ12km離れた那珂郡にある大宮警察署へと連行され、当時34歳の大塚巡査部長から取り調べを受けることとなった。

 

大槻さんの逮捕から間もない22日、東京で暮らす加最炭鉱社長・佐藤勝子(44)のもとに大宮署から知らせが入る。あろうことか「大槻が留置場で病死したから引き取りに来い」というのである。死亡確認時刻は22日午前4時頃、死因は病性の脳溢血らしいと伝えられた。

佐藤社長はかねてより長倉村駐在の永洲巡査の不公正な言動に業を煮やしており、今回も逮捕は行き過ぎた措置だと警察に不審を抱いていた。大槻を知る人々も頑強だった彼が突然病死するとはやにわに信じることができないと話したため、社長は知人の紹介で、弁護士の正木ひろし(47)に相談し、不審死であると訴え、調査・弁護を依頼することにした。

 

帝国憲法下では警官による拷問、自白の強要は当たり前のように行われ、戦中の時局にあって官憲の横暴はもはや目に余るものがあった。拷問は検察はもとより裁判所においても社会を律するため、自白を得るための「必要悪」として黙認され、それを糾弾することは事実上タブー視されてきたのである。

だが刑事裁判になじみの薄かった正木弁護士は、官憲による拷問が疑われる事案と聞かされると黙って見過ごすわけにはいかず、その依頼を受けることにした。

 

■異色の弁護士

正木氏は東京帝大在学中から教諭として小中学校で教鞭をとり、卒業後は雑誌記者などを経て1925年から弁護士となる。東京麹町に事務所を構えて以来、民事事件を専門に扱っており、事業は軌道に乗った。

今日では最難関国家資格とされる弁護士だが、当時は帝大法学部を卒業すれば無試験で有資格扱いとされた。本件を契機として戦後いくつもの刑事裁判を争い、国家権力に立ち向かう「挑戦する弁護士」としてその名を馳せることとなるが、自身は刑事事件の弁護はもとより、かねてから志のある弁護士を目指していた訳ではなかった旨を明かしている。

 

政党政治が倒れて軍部が政権を握り、思想・言論統制が厳しくなりつつあった1937年から『近きより』という20~50ページほどの個人雑誌を発行しはじめた。

当時、印刷技術の向上や地方紙と全国紙による競争激化により、新聞部数の激増が起きていた。1920年に353万部、30年には1013万部、37年には1327万部へと推移したと推計されている。また1926年以来、「円本(えんぽん)」といわれる月1円で1冊ずつ文学全集などの定期購入がブームとなり、5年ほどの流行期間で300万点が発行されたと推定されている。マスプロ体制が確立し、活字の潜在需要が開拓された時期である。

そうした世の流れに抗うように正木は知人らに向けて3000部程を送付していたが、39年に著した大陸旅行記のなかで日本兵が中国人を抑圧する有様を伝えたことで検閲に遭い、発禁対象とされて以降は、東条内閣や国家権力に対して批判的な主張を打ち出していく。廃刊要請を無視して49年までほぼ月刊発行を維持した。

その後、ファシズムとも共産主義とも異なる思潮、戦中・戦後直後にかけての非戦・反戦論を伝える資料として再注目され、正木の死後、1979年に旺文社から全5巻で文庫化された。

近きより〈1〉 (1979年) (旺文社文庫)

帝大法学部出身ということもあり雑誌読者の半数は検察官や裁判官など法曹関係者だったとされる。

寄稿者には、大正デモクラシーの代表的論客として知られた長谷川如是閑漱石門下で『百鬼園随筆』などで知られた人気作家・内田百閒、近代日本文学を代表する作家・武者小路実篤、戦後に読売新聞社社長となるジャーナリスト・馬場恒吾らがいた。

感想を寄せた購読者には、陸軍大将で首相候補にも名を連ねた政治家・宇垣一成、阪急グループを創業した関西財界の雄・実業家の小林一三、『風の中の子供』で知られ戦前・戦後の児童文学を代表する作家の坪田譲治、「エコール・ド・パリの寵児」とされた画家・彫刻家の藤田嗣治リベラリズムファシズムコミュニズムに代わる政治哲学を模索した哲学者・ジャーナリストの三木清、日本近代詩の父とされた荻原朔太郎、日本に亡命したインド独立運動ラス・ビハリ・ボースらが名を連ねるなど、幅広い交友人脈をつないだ。

 

■かけひき

刑事事件に不慣れな正木だったが、事件性が明るみに出さえすれば事は進むという希望的観測もあった。1月24日、正木と佐藤社長は司法刑事局へ赴き、事件性が疑われる不審死であるとして捜査を要請。亡くなった大槻さんの司法解剖と立ち合いを求めた。

翌25日、正木は担当検事・井出廉三氏と会い、解剖の可否、場所、日取りなどについて尋ねたがすべて「未定」で退けられた。逆に井出検事は正木に「いつ現地に赴くのか」としきりに知りたがった。当初、正木には現地訪問する心づもりはなかったが、不熱心と思われたくないゆえ咄嗟に「明日行きます」と答えたという。

同日、井出検事は急遽遺体の解剖を指示したものとみえ、夕方になって水戸検事局・高橋禎一次席検事と警察医である青柳兼之助医師が遺体の眠る御前山村蒼泉寺へと派遣された。

人手もなく暗所で灯りをともしての容易ならぬ解剖にも関わらず1時間と経たずにすべての作業を終えると、検事らは集まっていた遺族や炭鉱仲間らに対し、「死因は脳出血に間違いなかった」「早く遺骨を郷里に帰すように」と伝えた。

 

翌1月26日、佐藤社長は正木に、現地からの電報ですでに解剖が行われて脳溢血と断定されたことを伝え、2人で上野から長倉村へと向かった。村に一軒の旅館・今出屋に投宿し、関係者に話を聞いて回った。

前日の遺体解剖の立ち合いを許されたのは福島から駆け付けた遺族ひとりだけ。遺族は、「頭がい骨を切断したら、中は真っ赤な血が詰まっていた」とその様子を聞かせた。

また事件のあった22日早朝、駐在の永洲巡査に起こされて大宮署へ来るよう言われた炭鉱所長らが、その道中でよからぬ話を耳にしていた。炭の輸送を一手に担う「常北陸運」に大槻の死を伝えに立ち寄ると、所長の四倉繁作氏(45)は「相当ヤキを入れたんだな」と口にした。聞けば、前日の21日夕刻、取り調べを担当していた大塚巡査部長と酒の席で会い、「永洲(巡査)の報告書と食い違っているのでヤキを入れた」と聞かされていたのだという。

その後、大宮署で大槻の遺体を確認した炭鉱所長らは、「鉱主(佐藤社長)か遺族が来るまで署で遺体を預かっていてほしい」と頼み込んだが、警察はそれを拒み、遺体を車に積んで無理に引き取らせたという。

死亡当日に警察に呼ばれて遺体を確認した医師は「駆けつけたとき、まだ体温がいくらか残っていた気がする」と証言した。1月ともなれば深夜には零下となる極寒の時期、心停止すればすぐに体温は失われるはずである。

 

今日の「火葬」とは異なり当時は遺体をそのまま棺に入れる「土葬」が主流であった。しかし大宮には火葬場があったため、大宮署内で1~2日安置されていれば火葬されていた可能性もあった。幸いにして警察が炭鉱所長らに遺体を押し付けたがため、村に運ばれた遺体は焼かれずに埋葬されていた。

正木らは翌27日、蒼泉寺に足を運び土中から遺体を密かに掘り起こした。遺体の背中には青紫色に筋状の模様が浮かび上がっていた。正木には棒状のもので殴打された痕跡のように見えたため写真とスケッチを行い、拷問による暴行死を確信する。と同時に、遺体が腐乱してしまわないうちに一刻も早い再鑑定が必要だと考えた。

正木は、東京帝大で法医学教室主任教授を務める古畑種基に協力を得られないものかと依頼を試みたが、官庁からの解剖依頼は受けるが民間からは受け付けていないとして退けられる。当時、52歳だった古畑教授は医学界では血液学の権威として知られており、法医学の権威と目されて警察からの信頼も厚かった。そんな大教授のお墨付きが得られれば検察も起訴に踏み切らざるをえまいという算段だったがそううまくはいかない。

古畑教授は戦後、国鉄三大ミステリーと呼ばれた下山事件岩手県平泉・中尊寺のミイラ学術調査などで一般にもその名が広く知られることとなる。一方、現代の事件マニアにおいては、その死後、弘前大学教授夫人殺害事件、財田川事件、松川事件、島田事件で冤罪が明らかとされ、戦後「法医学者の権威」として轟いた高名は、警察・検察の「御用学者」へと転じることとなるが、それらはまだ先の話である。

 

■突破口

古畑教授に比肩する適任者はいないものか、どうすれば高名な法医学者に辺鄙な山奥まで足を運んでもらうことができるのか、と正木は頭を抱えた。しかし悩みあぐねる猶予もなく、その足は東京帝大医学部の解剖学教室へと向かっていた。

正木は10数年前、絵画のデッサンの為、骨格標本を見に解剖学教室に通った時期があった。そこで縁故のあった西成甫教授(エスペラント運動家としても知られる)の知見に頼れないものかとした考えたのである。久方ぶりの再会ではあったが毎月送付していた『近きより』によって関係性の「糸」は切れずに維持されていたようで、西教授は正木の急な相談に耳と知恵を貸してくれた。

西教授は、そうした事情であれば解剖はやはり古畑教授が適任であろうと述べた。また脳溢血の場合、頭部さえあればその有無は判断できるとし、大胆にも「首を切って運べばよい」と話した。死体損壊は法に抵触するが、当時の裁判では証拠の重要性・正当性が認められさえすれば脱法的手段も罪に問われない可能性があった。

正木は佐藤社長らとも相談し、事の成否にかかわらず実行すれば今後も警察との軋轢となり事業に差し障る可能性もあると説明したが、それでも刑事告訴の意志は揺らがず、突破口を西教授の授けた策に託した。

2月1日、正木は炭鉱夫らと棺ごと掘り起し、西教授の元から派遣された解剖学者がその場で遺体から首を切断し、蓋つきバケツに隠し容れ、汽車を乗り継いで東京帝大へと移送された。門前払いされた「民間からの依頼」は西教授の口利きで「同僚からのお願い」となり、古畑教授の剖検が実現する。解剖の結果、外傷性の「硬脳膜下出血」と判断され、死因として鈍器で側頭部を殴打されたことに起因する「撲殺」と推認された。

病死ではなく暴行死とする古畑鑑定を以てすれば証拠価値は充分に思われ、検察も当然起訴に踏み切るとした正木の算段は外れ、待てど暮らせど検察からの報せがない。当局に探りを入れると、内部では「青柳鑑定は検事・遺族立会いの下で行われたもので信頼性は揺るがない」として大塚巡査部長の起訴云々は問題とされておらず、、一方の「古畑鑑定は弁護人の私的依頼に基づくものである」として「むしろ墳墓盗掘、死体損壊で正木を起訴すべし」とする空気が支配的となっていた。

 

年に一度、雑誌『近きより』では銀座で素人画展覧会を主催しており、会の常連に時の法相・岩村通世(みちよ)も名を連ねていた。最早なりふり構っていられないと感じた正木は大臣に経緯を説いて「早く大塚(巡査部長)を起訴してほしい」と直訴する奥の手に踏み切ったのである。

司法出身の岩村大臣は「古畑も医師だが、青柳も医師だ。どちらが正しいと言えるものではない」と言って難色を示した。しかし『近きより』愛読者である秘書官の助け舟もあり、正式に胴体の再鑑定が行われる運びとなる。

2月23日、御前山村蒼泉寺に古畑教授と慶大法医学主任・中館久平教授が鑑定に訪れた。幸いにしてその年の冬は厳寒で、寺は山の高地にあり、墓所は一日中日陰の位置だったため、死亡から1か月が経過していたが腐敗はそれほど進行しておらず再鑑定に耐えた。この日の解剖の現場を目にした村人が「首がない、首がない」と唱えたことがそのまま報じられるかたちとなり、本件は「首なし事件」と呼ばれた。

正木が殴打痕かと推測していた背中の筋は外傷に由来するものではなく、死斑(血液循環がなくなることで浮かび上がる死後変化。埋葬は寝棺だったことから背面部に血液が溜まったものとみられる)だったことが分かった。だが胸部には小突かれたような擦過傷が十数か所確認された。

それよりも驚くべきことに、青柳鑑定では「内臓や大動脈にメスを入れたところ、アテローム変性(コレステロールが固まり血管に詰まりを起こす動脈硬化の原因)を確認した」と記載されていたものが、実際にはメスを入れていないことが暴露されたのである。

2月25日、頭部についても中館教授による再鑑定が行われ、結果は古畑鑑定と同一だった。もはや「同じ医師」であるはずの青柳鑑定には信頼性を認めるべくもなかった。3月3日、担当だった井出検事はお役御免となる。でたらめな解剖所見を行った青柳医師こそ起訴まで持ち込めなかったものの、4月8日、大槻さんの取り調べを行った大塚清次は「特別公務員暴行陵虐致死」の容疑で起訴収監された。

 

■裁判と背景

登り始めればすぐに頂が見えてくる。そんな生温い山ではなかった。戦火の影響もあり、終戦を跨いで足掛け12年にもわたる法廷闘争に発展した。

天皇の御名の元、裁判こそは公正に執り行われるものと正木は信じていたが、警察関係者で埋め尽くされた傍聴席を見たとき非公開裁判の様相に思えたと記している。その後も自ら『近きより』で国家権力の横暴と本裁判の異常さを説き、法曹界の面々、ジャーナリストらも筆を執って援護射撃を繰り返した。

法廷外での活動が、暗中模索の中に一筋の光を照らす道標となり、法廷で戦う正木の背を押す支援の論陣となった。後年、正木自身も支援を表明してくれる名士らの力添えがなければ独力では潰されていたであろうと振り返っている。

 

1944年9月14日、水戸地裁で初公判が行われた。検察側はその「体面」を保つために被告人の無罪を主張。古畑教授への証人申請なくして不公平な主張を押し通し、11月18日無罪判決が下される。

水戸地検にその意思はなかったが、11月24日、東京控訴院検事長より上告命令が行われる。検察側にも正木への支持、裁判の取り直しを求める声があったのである。

しかし1945年5月25日、大審院第二刑事部では空襲により記録が焼失される。正木が所持していた写しを基にして、再び水戸地裁での訴訟継続を命じられることとなった。

戦後、1946年2月に再開された一審では、検事が途中交代となるも11月、またしても無罪判決。しかしこれにも検察側が控訴する。

途中退任となった大久保重太郎検事は後に裁判官に転身し、1965年7月『法曹』177号で「水戸の検事正と次席検事が自然死を主張して聞かなかった」と裁判の内幕を明かしている。検察局内部も一枚岩になり切れていた訳ではなく、無罪はもとより判決文の内容にも強くこだわったのである。

1947年2月から1年半を要した控訴審では、ついに被告人の有罪判決・懲役3年が下された。無罪判決を覆された被告人は無論、上告を請求した。

1949年1月13日から52年12月25日まで続いた上告審で、最高裁・沢田竹治郎裁判長は有罪の証拠に乏しいとして上告を棄却。審議の差し戻しを言い渡す。

1953年2月21日から54年5月29日にかけて東京地裁で行われた差し戻し審で、坂間孝司裁判長は改めて有罪判決を下す。またしても被告側が判決を不服として上告を求めた。

1955年12月16日、最高裁第二小法廷・栗山茂裁判長は上告の棄却を言い渡し、これにより懲役3年の有罪判決が確定する。

三度の上告審を経て、一度は闇に葬られかけていた官憲の横暴は日の下に晒され、遂には罪を認めさせることで決着したのである。

事件の背景として戦時下での物資不足があった。

日本は連合国側からの経済封鎖に伴い、燃料輸入が断たれていた。石炭の供給が著しく不足し、国内の質の低い燃料の採掘にも着手せざるをえなかった。そうした時節、茨城と栃木の県境にある御前山地域で産出される亜炭(褐炭)を求めて、加最炭鉱長倉採鉱所と倉橋炭鉱の二社が採掘事業でしのぎを削っていた。両社とも100名内外の炭鉱夫・選炭婦を抱え、採掘された亜炭の大半は、御前山から赤塚までを結ぶ茨城鉄道(1926-1971)で移送され、水戸から東京方面へと搬出されていた。

亜炭は、古代の地層に埋もれた樹木が石炭に変化する途上のもので、石炭に比べて燃焼カロリーは低く、工業用には不向きだが家庭用として用いられた。茨城鉄道では戦中、亜炭で機関車を走らせようとしたが馬力がなく、坂道を上りきれずに乗客が途中で降ろされた、といった話も残る。戦局険しい中、周辺住民や出稼ぎ労働者にとっては数少ない収入源として、採掘元にとっても終戦が先か枯渇が先かも見えない中、貴重な資源であることには変わりなかった。

市民の娯楽は制限された戦時下、花札賭博は違法行為に該当し、逮捕そのものは不当とは言えない。しかし娯楽もない山奥で炭鉱夫たちが限られた余暇の中でできるせめてもの息抜きと考えれば、強盗や殺人などとは違って「お目こぼし」されてよい軽微な罪なのだ。死ぬまで殴られなくてはならないような極悪行為とは誰も思わない。

山の駐在が日頃からそんな微罪まで逐一目くじらを立てて取り締まっていればさすがに地域社会とうまく折り合いがつくはずがない。駐在ひとりの意思・判断で逮捕した訳ではあるまい。駐在は刑事罰を免れてはいるが、ライバル炭鉱との癒着、加最炭鉱への嫌がらせのために摘発した疑いが残る。大槻さんを逮捕した駐在署員も、当初は大宮署で何日か絞られればすぐに戻ってくるものと踏んでいたかもしれない。

しかし取り調べに当たった担当刑事はそんな村の事情は露知らず、いつまでも口を割らない出稼ぎ炭鉱夫の態度に肝を据えかね、容赦せず「シメてやった」というのが実態ではないか。限りなく殺人に近い暴行致死だが、無論、殺害する意図はなく業務に熱心すぎた余りの暴走である。ブレーキの利かなくなった官憲に油を注いだ駐在の罪はあまりにも大きい。

 

■その後

正木ひろしが門外漢でなかったならば、不審死について聞かされたときも端から「そういうものだ」と匙を投げて権力に迎合していたかもしれない。弁護士資格への執着が人並みに強ければ、その身を賭して葬掘にまで踏み切ることはできなかった。発禁命令に従って『近きより』を投げ出していれば、はたして古畑鑑定や大臣への直訴にはたどり着かなかったに違いない。

自身はなす術なく邁進したのみと謙遜するが、氏の類まれな反骨心と後先顧みない勇敢さ、様々な奇跡が事件を日の下に引きずり出した。

正木ひろし―事件・信念・自伝 (人間の記録)

長引いた本件裁判と並行しつつ、戦後も検察や裁判官、国家権力に立ち向かうことを決意し、多くの刑事事件裁判に携わる。争われた事件について多数の著作を出版し、キリスト教ヒューマニズムの立場から、不当逮捕をする警察、冤罪を招く検察官のやり口、裁判官の欺瞞を世に問い、世論を喚起する手法を取った(1987年・三省堂、2008年・学術出版から著作集が刊行された)。自身は反共主義の立場でありながら反権力の信念から共産党員の弁護も行っている。

1946年5月の食糧メーデーで参加者が掲げた天皇を揶揄するプラカードが不敬罪に当たるとして逮捕されたプラカード事件、死傷者20余名を出した列車暴走で「国鉄三大ミステリー」に数えられる三鷹事件、18年にわたる裁判で高裁と最高裁を3度往復し死刑と無罪で判決が行き来した八海事件、公安が共産党員検挙のため駐在所爆破をでっちあげた謀略の疑いがもたれた菅生事件、逮捕者2名は冤罪であり真犯人は被害者親族3名だと公表して物議を醸した丸正事件など、難事件の弁護に当たった。

その後、首なし事件について記した著書『弁護士』は『首』(1968)として映画化された。監督は、東宝黒澤明らに師事した森谷司郎監督。のちに『日本沈没』『八甲田山』などの大作でも森谷監督とタッグを組んだ橋本忍が脚本を担当した。

 

 

参考

・『広報 常陸大宮』平成25年4月号、第78回「ふるさと見て歩き」

https://www.city.hitachiomiya.lg.jp/data/doc/1366887806_doc_1_8.pdf