いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

塩尻アベック不審死事件

2002(平成14)年、長野県塩尻市で発生した若い男女の不審死事件について記す。

死亡状況の不可解さとともに、女性が当時人気を博したAV女優「桃井望」さんだったことでも大きな注目を集めたが、事件発生から20年を経た現在も未解決の事件である。

 

■概要

2002年10月12日20時55分頃、長野県塩尻市を流れる奈良井川に架かる郷原橋付近の河川敷で車が炎上していると通報が入った。21時過ぎには地元消防団らが駆けつけて、火はすぐに消し止められ、約15分後に消火報告が行われた。

炎上した車から約10メートル後方の草むらに女性の遺体が発見された。黒焦げに近い状態で、髪はチリチリに焼け、顔は赤黒く変色して目は見開いたままの状態だった。背中や脇腹には4か所の刺し傷があった。

更に消し止められた車内にも、激しく焼損して見た目には性別の区別すらつかない焼死体が一体見つかる。車は3列シートのミニバン、ホンダ・オデッセイで、遺体は助手席と2列目の間にうずくまるような姿勢だった。左手近くには柄が焼失したとみられる包丁が落ちていた。

 

現場はJR塩尻駅から北西約3キロ。周辺に民家はなく、川を挟むように田畑が広がる一帯。土地鑑のある者しか近づかない、本来なら夜間はだれも立ち入らない場所である。

車内で見つかったのは車の所有者で、市内に住む会社員酒井宏樹さん(24)、車外の遺体は東京都中野区の会社員渡辺芳美さん(24)と判明する(「渡邊」の報道もあるが本稿では「渡辺」に統一する)。ほどなく人気AVアイドルの「桃井望」であることが報じられると、大きな話題となった。

14日に司法解剖が行われ、酒井さんは死因不明、渡辺さんは刺し傷が致命傷となり後から火を付けられたものと判断された。2人の肺から検出された煙の量はともに約8g、およそタバコ1本分であり、「焼死」とは考えづらかった。

塩尻署は心中と他殺の両面での捜査を表明したが、消火活動で現場が荒らされてしまい第三者による殺害の痕跡が確認できず、捜査本部が設置されることは一度もなかった。

酒井さんの遺族らによると、警察は当初から「無理心中」との見方で話を進めていたとされる。「心中なら息子が(相手女性を殺害した)容疑者になってしまう」との思いから周辺調査を進めた結果、心中とするには不審な点が次々に明らかとなり、警察の見解に異を唱えた。

同02年11月、酒井さんの遺族は「心中とは考えられない」として被疑者不詳のまま殺人罪刑事告訴し、4度の訂正を経て、03年1月に受理された。長野県警には受け取りを拒まれたものの、同年4月には殺人事件としての捜査を求める署名約1万人分が長野県知事に手渡された。

 

■人物

渡辺芳美さんは1978年生まれ。長野県伊那市で育ち、小中とバスケに打ち込み、身長148センチと小柄な体格ながら高校ではキャプテンも務めた。都内の短大で栄養士の資格を取得後、専門学校に転学。

同時期、家族も都合で長野を離れ、埼玉県に移っている。卒業後は病院の調理師となるが1年程で辞め、2000年末頃に新宿でスカウトされてAV業界入りを決める。

2001年2月に初収録を終え、4月にAV女優としてデビューした。愛らしいルックス、小柄な体型と豊かなバストでいわゆる「ロリ巨乳」のキカタン(企画もの単体)女優として人気を博し、「のんたん」の愛称で親しまれた。1年半の活動期間で200タイトル以上もの作品がリリースされ、2002年5月からAVアイドルユニットminx(長瀬愛堤さやか・樹若菜)としても活動。6月にはソロ写真集『NOZOMI』を発表するなど幅広い活躍を見せた。

また2001年11月に「ストレス発散計画」による舞台「ON AIR 私の街からこんばんわ!!」に渡辺芳美名義で参加しており、「本庄ヒロ」役を演じていた。

 

小学生以来の旧友M子さんは、渡辺さんが上京してから20歳前後のときに重大な出来事があったと語る。渡辺さんはスーパーでアルバイトをしていたとき知り合った男性との間に妊娠し、相手男性はすぐに結婚を決意した。しかし結婚して子供を産むべきか、親にも明かさず思い悩んだ末、堕胎する決断をした。M子さんが1か月後に聞いた段階では、渡辺さんは両親には堕胎のことをまだ打ち明けられずにいたという。

M子さんによると、渡辺さんは子どもの頃から大事に育てられてきたという。渡辺さんから親が厳しいと愚痴に付き合わされることもあったが、妥協しながらそれなりにやってきたようだった。しかし元々寂しがり屋だった渡辺さんは堕胎を境に、前にも増して相手を求めるようになった。自分や相手を大切にできなくなり、刹那的な関係に溺れるなど精神的に不安定な時期が続いたという。

渡辺さんは病院での調理師の職も一年程で辞め、人知れずAV業界へと身を投じた。地元の友達を通じてM子さんの耳にもAV出演の噂が入った。「地元の男の子が知っているということは、あの地域では相当に知れ渡っているということです」。2001年の秋口、M子さんに舞台公演のチケットを買ってほしいと渡辺さんから連絡が入った。

 

酒井宏樹さんは1977年生まれ。渡辺さんと同じ県立高校の1学年先輩だが当時親交はなかった。名古屋市内の専門学校を出た後、伊那市内の家電メーカーに勤務。そのときの上司が独立して塩尻市で内装事業を立ち上げ、誘われて2001年8月からユニットバスの据え付け工事施工の仕事に就いた。

10代からバンドのボーカルとして音楽活動を続けており、亡くなった日の翌日にもライブが控えていた。3年来、親公認の交際相手がいたが、02年9月頃に別れていた。

勤め先の上司は、事件前に酒井さんに不審な素振りはなかったとし、仕事もこれからというときだったと話す。「とてもまじめで温厚。仕事上、高速(道路のプリペイド)カードを支給しているんですが、プライベートで使ってしまった分は後で返す、そんなやつです」「ただ女関係やプライベートな話は入ってこなかった」とも語っている。

仕事は歩合給でおおよそ月35万円前後の収入があった。実家に15万円程入れ、残りのお金を自分の生活費に充てていた。週末ごとに実家に顔を出し、洗濯物やごみをまとめて持ち帰っていた。家族や旧友に「金がない」と漏らすこともあったが深刻な物言いではなかったとされる。交友関係は広く、女性に驕る性格ではあったが金遣いが派手という訳でもなく「金銭感覚は普通」だったという。

 

渡辺さんの幼馴染だったK子さんは高校、大学時代を愛知県で過ごし、名古屋の専門学校に通っていた酒井さんとも親しかった。2001年5月のゴールデンウィークにK子さんを介して一緒に遊ぶこととなり、渡辺さんと酒井さんは連絡を取り合う仲になった。

K子さんはその後1年ほど海外へ留学。メールのやりとりのあった男友達から、渡辺さんがアダルトビデオに出演しているらしいと知らされた。

帰国した02年8月頃、K子さんは旧友たちと再会し、渡辺さんが周囲にAV女優の仕事について打ち明けていないと知って心配になり、連絡を取った。渡辺さんは「みんな知っているとは思っていたけど、言いづらくって」「後悔はしてないから」ときっぱり返されるとそれ以上の話はできなかった。

 

■事件前夜

事件前日の10月11日(金)、酒井さんと渡辺さんは2人を引き合わせた共通の友人K子さんと久々の再会を果たした。

酒井さんは早くに仕事を終えて14時頃に帰宅したとみられている。18時頃、渡辺さんを車に乗せてK子さんのアルバイト先を訪れる。K子さんが渡辺さんと対面するのは酒井さんを紹介した日以来およそ1年半ぶりで、「交際しているのか」と尋ねると2人は揃って否定したという。

だが酒井さんがトイレに立った隙に、K子さんが問い詰めると、渡辺さんは「宏樹君が好きだから、社長とは別れたの」と胸中を打ち明けた。それまで彼女は業界関係の社長のマンションで同棲しており、実質愛人関係にあったとされる。

渡辺さんはAVの仕事や収入についても明け透けなく語り、貯金は500万円程だと話した。「どうせ今しかできないんだし稼げるだけ稼いだら辞めようかな」と漏らしていたが表情に暗さは見られなかったという。親にはAV出演について明かしていなかった。

 

酒井さんは過去に「桃井望と知り合いだ」と話してしまい、それを知った年上の知人男性から「カネを払うからAVの女とやらせろ」と詰め寄られていると話した。相手は裏社会とのつながりがある人物のため困っていると漏らすと、渡辺さんは「こっちにはもっと大きいバックがついているんだから何を言われても断ればいい。“下手にそういうこと言わない方がいい”って」と強気で答えていた。

1時間半ほど車中で話してバイトを切り上げ、3人で酒井さんの部屋へ。軽くビールを飲みながら世間話をし、酒井さんは自身がボーカルを務めるバンドのライブの案内メールをあちこちに送信していた。

21時半頃、K子さんは元のバイト先まで送ってもらい、「また日曜に伊那に行くからその時ゆっくり話そうね」と約束して別れた。直後にK子さんにメールが届く。

渡辺さん:K子ちゃま。今日はあえて嬉しかったでしゅ。かなり感激(T_T) 。K子はびっくりしたと思うけど……。これからもずっと友達でいてね

(K子さんから「どんな仕事をしてても、ずっと友達じゃない。宏樹君とがんばってね」という返事)

渡辺さん:うん、ひろきくんの彼女になれたらいいな~うふっ

(K子さんからの返事)

渡辺さん:うん、ひろきくんとのこと応援してね。1つ聞いていいかな~。あの人はいい人だよね~

(K子さんから「彼は女性にもてるから大変だと思うけど、いいやつだから」と背中を押す返事)

渡辺さん:まあね、オトコとオンナってのは難しいよね~。でも好きになっちゃたらしょうがないよね。ガンバロー。ありがちょ。またTELしま~しゅ

(「TEL」は絵文字。送信時刻22時58分)

K子さんを車でバイト先に送り届けた2人は、その足で箕輪町にある渡辺さんの小中学時代の幼馴染が営むショットバーに向かった。23時半~翌12日3時頃まで酒井さんのバンド仲間の男性を交えて飲食を続けた。

幼馴染の男性いわく「バンドの話で盛り上がった。13日の練習を渡辺さんも見に行きたいと話し」、酒井さんは「ヨッチャンを彼女として連れて行く」と公言していたという。

事件前夜までの酒井さんと渡辺さんの間柄について、古風な言葉で表すならば「友達以上恋人未満」といったところであろうか。交際を公言しないまでも相思相愛だった様子が窺える。

一方で、渡辺さんと同棲していた「社長」、酒井さんの「裏社会とつながりのある友人」、渡辺さんの話した「もっと大きなバック」など、2人の関係をよく思わないであろう存在も見え隠れする。

 

■裏おんなブログuraonna.blog31.fc2.com

渡辺さんにはAV業界に公私ともに親友と呼べる女性がいた。堤さやかさんである。

2005年10月17日に開設された匿名の元AV女優が書き手のブログ「裏おんな」は、その内容から堤さんの筆だとされている。11月11日の記事に「大切な親友」と題してかつての「親友」とのやりとり、彼女への思いを記している。

書き手、「親友」の芸名・実名は明らかにされていないが、ここではそれぞれ堤さん、渡辺さん(桃井望さん)として内容を見ておこう。

私は彼女を他人とは思えなかった。
彼女もそうだと言っていた。
お互いに、何か惹かれるものがあったのだ。

二人はお互いの好きなものやお気に入りの場所を共有し合い、仕事面でもお互い刺激を受けるよきライバルだったと振り返る。

渡辺さんの恋愛関係について、離れて暮らす「学生時代に憧れていた男性」に告白されたこと、一方で「仕事に理解のある男性」と同棲関係にあったため、どちらと交際すべきか相談を受けたと記されている。「仕事に理解のある男性」とは彼女の所属会社ウイナーズアソシエーションとは別のAVモデル会社「社長」である。

彼女は結局、
離れて暮らしていて、会いたい時に会えない彼よりも、
いつもそばにいられる彼を選んだ。

だが渡辺さんは酒井さんと知り合った01年7月頃から度々塩尻通いを続けており、「社長」との関係に満足していた訳でもない。いつからか酒井さんへの気持ちが勝っていったとみられる。と、同時に堤さんに「演劇だけをやりたい。今の仕事を辞めたい」と吐露するようになった。堤さんは親友としてライバルとして、彼女に直球の問いを投げかけた。

『今までずっと一緒に仕事をしてきて、
私は○○に嫉妬心持ちながら、
向上心に変えて頑張って仕事してきたよ?
○○がいなくなったら、
私の気持ち刺激してくれる一番大切な人がいなくなるってコトなんだよ。
本音を言ってよ。
演劇がやりたいんじゃなくて、
彼に相応しい女に戻りたいってコトなんじゃないの?』

渡辺さんは親友の言葉を否定せず、「そうかもしれない」と返答。同棲相手や男優たちとのやりとりを続けることが苦しいと漏らした。堤さんは、仕事を辞めたいと思うほどであれば、同棲している恋人との関係も清算した方がよいと勧める。

納得した渡辺さんは、女の親友は堤さんだけだと話し、「いつか私の地元にアンタを連れて行きたいな」と語った。

私は
『もちろん行くよ』
と答えた。

彼女の幸せそうな声が嬉しかった。

その後、堤さんは予定を合わせて渡辺さんの地元に一緒に行くことになり、彼女が好意を寄せる男性やその友人とも連絡を取るようになった。

「ところが、それからすぐ、
彼女の地元に遊びに行く予定日に、
私に仕事が入った。
撮影の日にちは変えられない。
行きたかったが、また次の機会にしようということになり、
当日、彼女は一人地元に向った。」

あいつら死んだかもしれない。』

翌日、酒井さんの友人から届いたメールは彼女を激しく混乱させた。

なぜこんなコトになったのか、
私が行ってたら、
彼女達は死なずにすんだのか、
私は止めることができたのか、
あるいは私も一緒に死んだのか

私は、彼女の本心を聞かされていただけに、
あなたがいなくなっても頑張るよ
とは思えなかった。

尚、堤さんは渡辺さんが亡くなった2か月後の2003年1月にAV女優を引退している。

 

■事件当日

酒井さんの遺族は、事件発生のおよそ2時間前に直接電話で会話しており、そのときの彼の普段と変わらぬ様子が警察の「無理心中」の見解を疑う契機となっていた。

当時の状況について交友関係などに確認を進めていくと、12日の飲み会の後、渡辺さんはそのまま酒井さん宅に泊まって午後まで寝ていたとみられ、酒井さんは事件発生直前まで各所に多数の連絡を取っていたことが判明した。

9時頃、酒井さんが勤務先に「体調不良」で休むと連絡。

15時31分、K子さんが今日もバイトしている旨のメールを渡辺さんに送っていたのに対して、「ガンバレ~‼まだ先は長いけど~っ」と激励する返信をしている(渡辺さん最後の通信記録)。

16時、酒井さんが名古屋時代の友人に電話し、20日後の友人の結婚式の二次会について打ち合わせ。酒井さんは出席者のとりまとめ役を任されていた。

16時45分、バンドメンバーに「(翌13日に近郊で開催される)音楽祭には行くのか」と尋ね、その後に予定されていたバンド練習に渡辺さんを同伴する旨伝えていた。

17時頃、「大のおばあちゃん子」だった酒井さんから祖母に電話を掛けており、入院から戻ったばかりだったので体調を気に掛けて「来週帰るから元気で頑張ってよ」と励ましていた。

18時頃、酒井さんが母親と電話で会話。前週に酒井さんが実家に持ち帰った荷物に「水道料金の督促状」が紛れており、母親は代わりに支払いを済ませて「水を止められていないか」と確認の連絡を取ったという。そのとき「今日明日は忙しいで今週は帰れん、来週帰るで」と話しており、会話自体に不審な様子はなかった。

18時過ぎ、別のバンド仲間に13日のライブの打ち合わせメール、40分頃に再度確認の電話を入れている。

19時47分、知人女性に音楽祭に来るかどうか確認のメール。

19時53分、高校時代から付き合いのあるバンド仲間の下平さんに電話。4日後にはジョイントライブの予定もある近しい間柄だった。しかしこのとき別のライブ参加で忙しかった下平さんは、「後でかけ直す」と言って要件を聞かずに7秒ほどで電話を切った。このとき電話口の酒井さんの声は明るく、取り乱した様子もなかった。

20時3分、下平さんが酒井さんへ折り返しの電話を掛ける。しかしつながったと思った瞬間に途切れた。

下平さんによると「小刻みにプップップッという音がしていた」と言い、そのとき部屋ではなく電波がつながりにくい場所にいたのではないか、と推測している。「プップップッ」というのは呼び出し(接続)待機音とみられるが、酒井さんはキャッチホンに加入しており、たとえ「通話中」であったとしても通常であれば「呼び出し音」が鳴るはずだという。

一連の状況から見ると、酒井さんが突発的に無理心中に走ったとは考えにくく、20時前後に何らかのトラブルに巻き込まれた可能性が高い。最後の通話からわずか1時間後の20時55分には車両火災の通報がされている。はたしてこの間、2人に何が起きたのか。

 

■訴訟

告訴状提出から約1年後の2003年12月、捜査に疑念を深めた酒井さん遺族は、県警に対して捜査本部の設置を求める行政訴訟を請求した。

04年2月の口頭弁論で県警側は「初動捜査に落ち度はなく、捜査方法は警察の判断に委ねられていて、本件で捜査本部を設置する義務はない」と説明した。

6月、長野地裁(辻次郎裁判長)は、県警側の対応について「捜査本部の設置は、警察内部の捜査手法の一つであり、公権力の行使とはいえず抗告訴訟の対象とはならない」との見方を示し、請求を却下した。

 

酒井さんが契約していた保険会社は、支払い責任開始から2年以内の「自殺」の疑いが強いとして生命保険の支払いを拒否していた。酒井さんの両親は保険会社の判断に対して03年12月に民事訴訟を起こし、約3500万円の支払いを求めた。

07年1月、長野地裁飯田支部(松田浩養裁判長)は、遺族側が主張する通り、酒井さんが「死の直前まで、自己の生存ないし生活の継続を前提として暮らしていた」ことを認める。警察の見立てた無理心中という「凶悪かつ激烈な行為を行ったことを合理的に説明することは極めて困難」とし、「周囲の状況から見て複数犯であれば殺害可能であり、第三者の他殺と考えるのが自然」と認定し、保険会社に支払いを命じた。

 

無論、刑事裁判に比べて民事裁判での事実認定の要件は緩やかである。だが捜査機関に自殺と判断されながら、民事裁判では他殺と認定されたことになる。

尚、渡辺さん側遺族は一切取材に応じておらず、酒井さん遺族によると、事件後も遺族同士の面識はないという。

 

酒井さん遺族側の主張によれば、捜査機関は心中との見方に固執したことから刑事捜査が積極的に行われなかった可能性があると見ている。

事実として捜査本部すら立っていないため、一般的な事件とは異なり、酒井さん遺族と弁護士、事件性を疑うジャーナリストらによる調査・報道がメインとなることに留意しなければならない。また責めるつもりはないが、渡辺さん遺族側の協力が得られていないことから、情報には偏りが生じている(酒井さん中心の情報となる)ことも確かである。

桃井望」として事件直後に独自の追跡取材を続けたのは東京スポーツ紙だけで、後に『新潮45』が記事とし、酒井さん遺族らの訴えにより『テレビのチカラ』『スーパーモーニング』『報道発ドキュメンタリ宣言』等テレビ朝日系列で追加調査を取り上げた。

以下、2人の事件前のうごきと、心中が疑わしいとされる状況証拠等について整理しておきたい。

 

■事件前のうごき

2001年11月、渡辺さんは劇団公演を前に「将来は女優になれたらいいな」と友人らに語っており、その後も業界関係者にはAVの仕事を引退したいと話していたとされる。

2002年1月に一か月ほどAVの仕事を休業。それまで専門誌にしか掲載しない雇用契約だったが、復帰後の4月にはパブリシティを全面解除(「全解」)。AV女優としての活動を公開しており、雑誌の取材では「他の女優さんに負けないように頑張ります」と意欲を見せていた。

01年4月 桃井望AVデビュー

01年5月 K子さんを介して2人が知り合う

7月頃から塩尻に通うようになる

01年11月 渡辺さん、劇団公演に参加

02年1月 AVを約1か月休業

02年4月 桃井望、パブリシティを全面解除

02年5月 アイドルユニットminx始動

02年5月 酒井さん、右手の故障(約1か月の休業)

02年5月 酒井さん、隣人とのネットビジネス

02年5月 酒井さん、60万円借り入れ

02年8月 K子さん、男性友人から桃井さんのAV活動を知らされる

02年9月 酒井さん、3年来の交際相手と別れる

2002年5月12日頃、酒井さんは右腕を故障し、グーになったきり自分の意志で指が伸ばせなくなった。会社には「寝違えた」と報告して1カ月近く休職状態で過ごしていたが、当時の交際相手には「仕事で長野市にいる」と電話で伝えていたという。

5月15日、酒井さんは地銀と消費者金融から各30万円を借り入れている。筆跡は本人のものではないとみられ、付添人が契約した可能性があるという。返済は月々1万円程度で、亡くなるまで滞りなく支払われていた。

その当時、酒井さんは隣に住むM氏と親しくなり、マルチ商法に係わるようになったとみられている。5月か6月頃、K子さんも説明会に誘われて参加していたが、契約には係わらなかったため詳しい内情は分からないと言う。(M氏、サイドビジネスについては後述)

 

9月頃、酒井さんが3年来の交際相手と破局。相手女性いわく「お互いやりたいことがあるなら別れようよと私から言ったんです」と語っており、桃井さんとの関係が原因とはされていない。渡辺さん、酒井さんは知り合ってからも双方に交際相手がいたため、お互い好意を感じつつも正式な交際に踏み切れなかったのかもしれない。

DEBUT!

事件前の10月9日(水)、桃井さんが酒井さんを訪ねる。翌10日に酒井さんはオメガの時計を修理に出しており、これも心中説を否定する行動と認められる。

桃井さんは10月15日からはminxの大作ビデオ撮影が予定されていた。週刊誌などによれば、本人はアイドル志望ではないとして「AV女優を辞めたい」「撮影をやりたくない」とトラブルになっていたとも報じられている

 

■現場状況

渡辺さんは運転免許を持っておらず、「心中」だとすれば現場まで運転したのは酒井さんということになる。発見現場の河川敷は、日中でも釣り人くらいしか立ち入らない辺鄙な場所で街灯もない未舗装の砂利道である。川沿いの堤防道路から河川敷に降りる際には段差を越えなくてはならかった。酒井さんは日頃から愛車の取り扱いに細心の注意を払っており、シャコタン(車高を下げる改造)にしていたことから車体を傷つけるような場所に自ら乗り入れるのは不自然とする見方もある。

車のドアはすべて施錠されており、通常ならば運転席からボタンで全ドアロック制御したと考えられるが、酒井さんの遺体は運転席ではなく助手席の後部にうずくまった状態で発見された。一箇所ずつ手動で施錠したり、着火の段階になって運転席から助手席の後ろに移動したりしたのであろうか。

車の鍵は遺体の搬出時には回収されておらず、警察に問い合わせたところ後日車内から発見されたという。

 

燃料や車両の出火位置は特定されていない。松本広域消防局予防課の見解では、車内で出火すれば「1分もすれば火の海」となり、ざっと20分もすると全てを焼き尽くして自ずと鎮火に向かうことから、特別に燃え方が激しかったとは言えず、燃料が使用されたかは分からないという。新潮45では「火の手が上がったのは8時40分前後という推測が可能」(※20時40分前後)としている。

また河川敷には、ろうそく2本、ワインのボトルにバラ3本を活けたもの、ワイングラス2個(1つは破損)が置かれていたと言い、もしかすると遺留品の可能性もあるが警察では関連なしと判断された。

 

■殺害について

渡辺さんの遺体には四か所の刺創があり、車内の酒井さんの左手付近に包丁が見つかっている。酒井さんは右利きで、上司によると生前「リンゴの皮も剥けない」と包丁の扱いが不得手であることを話していたという。また仕事中に怪我をした同僚が傷を見せると、「やめてくださいよ。気持ち悪くなっちゃうから」と滴る血に拒絶反応を見せていた。

渡辺さんには背中にも傷があったことから、少なくとも同意の上の心中とはならない。無理心中であれば、車外に相手を放置したまま自分は車内で鍵を閉めて火を付けると言うのも道理にそぐわない。せめて最期は一緒に、というのがせめてもの筋である。

酒井さん遺族側は火を付ける際に灯油類が用いられたと推測しているが、部屋から持ち出された様子はなかった。前述のように、実際には使用されなかった可能性もある。

 

■自宅の様子

酒井さんの住む平屋の戸建てアパートは、現場河川敷まで車で5分程の場所。

勤務先の社長が借り受けて社宅としたもので、事件直後に合い鍵を持参して警察と共に部屋を訪れている。そのとき玄関は施錠されていた。

酒井さんの靴3足と渡邉さんのブーツが置かれたままだった。酒井さんが普段履いていた靴は3足のみ、11日から塩尻を訪れていた渡邉さんは履いてきたブーツ1足しか持参しておらず、新たに履物を購入していなかったとすれば2人は裸足のまま車に乗って現場まで移動したことになる。

 

室内は荒らされたような形跡もなく、仕事用のパソコンは充電されている状態で、食べかけの菓子が広げられ、カップにお茶が残されているなど生活感のある状態だった。

酒井さん遺族らによれば、バンドで作詞を手掛け、ロマンチストな性格だった彼が遺書すら残さないで自殺するとは考えにくいという。

酒井さん遺族が部屋を訪れた際、現像していないフィルムカメラが残されており、中には事件当日に自宅で撮影したとみられる2人の笑顔のツーショットが撮影されていた。ゴミ箱からはティッシュなど2人が性交したとみられる痕跡が発見されている。

おそらくは帰宅する道中で交際を約束し、仲睦まじい時間を過ごした半日後、各方面に様々な用事をこなしてから、わざわざひと気のない河原に出向いて「無理心中」する動機はどこにも感じられない。

 

酒井さん遺族によると、カメラとは別に、部屋の押し入れに現像済みフィルムの束が置かれていたが、いつの間にかなくなっていたとされる。現場保存されていなかったことから持ち出された事実があったかどうかも確認ができない。事件関係者が身元判明を恐れて密かに持ち去った可能性もあった。

東スポでは「桃井さんの携帯だけ見つかっていない」との記述もあるが、酒井さんの携帯との報道もありはっきりしない。だが警察は数か月分の通信履歴については確認を取っており、酒井さん遺族側の調査で多くが明らかになってはいる。

そのほか「隣人M」「サイドビジネス」に関係すると見られるメモ書きが複数見つかっており、事件との関連が疑われている。

 

サイドビジネス

事件前夜の11日晩、箕輪町ショットバーで飲食していた際、酒井さんは13日の夜に「会社の飲み会がある」と話していた。だが勤めていたユニットバス施工会社ではそうした予定はなかった。13日には日中にライブ出演、バンド練習の予定があったが、夜は明言しづらい別の要件があったのではないかと推測されている。

 

酒井さんは2001年から廃車を修理して転売する中古車販売のサイドビジネスを行っていたとされ、その話は12月までに地元・伊那の友人たちの耳にも入っていた。話を聞いたK子さんには「正式なルートではないけど儲かるんだよね」と話していた。

酒井さんは車好きで車高を下げた改造車に乗っていた

2002年5月頃、酒井さんは親しくしていた隣人のM氏からマルチ商法を持ちかけられた。パソコンと専用の「インターネット端末機」を購入して「モニター代理店」となり、自分の下部に代理店を増やすことで収益が上がるという連鎖販売である。

酒井さんはM氏を「おにいちゃん」と呼んで慕っていたが、部屋には4月末日作成の80万円の偽名の借用書や「おにいちゃんにだまされた」と書かれたメモが残されていた。返済期日は死亡する約2週間前だったが口座には入金されたような記録はなかった。

 

事件後、M氏は警察から任意聴取を受けていたが、地元不動産関係者に「海外に行くかもしれない」と伝え、滞納していた家賃・光熱費数か月分を一括で支払って行方を眩ませた。M氏の知人も「1年経って戻らなかったら部屋の荷物を処分してほしい」と言い残して向こう1年分の賃料を払って失跡。塩尻署では、M氏について借金を背負わせたことは事実だが、事件との因果関係ははっきりせず、突っ込んだ捜査ができていない状況とした(02年11月27日、03年1月19日東スポ)。

M氏は知人に「警察の取り調べがきつかった。もうあんな思いはしたくない」「15年間逃げる」と犯行をにおわせるような発言もあった。

2010年6月放映の『報道発ドキュメント宣言』ではこのM氏に接触して追加報道を行った。

M氏によると、中古車ビジネス、インターネット端末によるマルチ商法を酒井さんに教授したことは事実と認めつつ、自分は関与も加盟もしていないと説明した。

知人に事件当日のアリバイを偽装してくれるように話していたが、事件当時、長野市の風俗店に行っており、妻に知られたくなかったためだとした。

M氏の趣味は「釣り」とされ、現場となった河川敷を連想させた。

番組の問い合わせに対して長野県警は18人体制で捜査継続中だとしたが、捜査状況に関する回答は得られなかった。

 

■所感

「AV業界の闇」などと括られて語られることが多い事件だが、殺し屋を雇ったり、事務所に暴力団や警察OBが絡んでおり警察が介入をおそれたりといった事件ではない。端的に言えば、車輛炎上と消火活動で現場証拠が得られず、疑わしき隣人Mから証拠や自供が得られずに尾を引いた事件だと筆者は考えている。

 

まず犯人は誰を狙ったのかについて。

酒井さんはサイドビジネス、渡辺さんは2002年に入って「全解」と精力的に金策に走っているように見える節から、渡辺さんがAV業界から抜けるために違約金が必要だったのではないか、とする説もある。

だが、酒井さんは15万円を家に入れており手許に残るのは20万円程度で、社宅住まいの独身者なら生活には困らないように思えるが、バンドと車の趣味の両立では「金がない」のは平常運転というところであろう。

所属事務所からすれば「桃井望」という稼ぎ頭に抜けられるのは困るため当然引き留めもあったであろうし、撮影拒否や休業など過去のトラブルで渡辺さん自身も負い目があったと思われる。だが自身も「500万円の貯蓄がある」「稼げるだけ稼いだら辞めようか」とK子さんに話しておりすぐに辞めなければならなかった状況ではない。事件後には同じく人気女優だった堤さんが引退しており、そもそも流動性の高い業界であることからも莫大な違約金が必要だった訳ではないと考えられる。

 

渡辺さんが交際していた「社長」の恨みを買ったのだろうか。「社長」の人物像は知らないが愛人のひとりとして囲っていたようにしか見えず、そうした相手にいちいち執着するような人物であれば周囲でもっと多くの女性が闇に葬られていはしまいか。

都内で生活する女性を遠い長野で狙う意味もなければ、わざわざ酒井さんを巻き添えにする必要もない。プロの犯行(依頼殺人)なら尚更のことである。そもそも渡辺さんは免許を持っておらず、都市部でなければ家族や友人と一緒か、タクシー移動となるため、殺害しやすい状況にはなりづらいのである。いずれも凄惨ではあるが遺体状況の相違から見ても、犯人の標的は男性で、女性は巻き添えと見るのが妥当ではないか。

 

では酒井さんの隣人だったM氏が殺害したのだろうか。不定職でパチンコ、風俗遊びに興じ、隣に住む若者相手に中古車転売を教授したりマルチに引っ掛けたり借金したりと、やっていることはまともな社会人とは言い難い面がある。こうした御仁ならば数十万円の借金くらいで人を殺していてはキリがない。誤って差し違えるようなことはあっても、一緒にいた恋人もろとも河川敷に運び、無理心中を装うような大それた犯行とはどうも結びつかない。

そもそも親しい隣人ならば機を選んで来客のないときを待つことはできたはずだ。状況から見ても、下平さんがコールバックするまでのわずか10分程のうちに、M氏ひとりで酒井さんの車に2人を乗せて河川敷に移動できたとは思えない。複数犯が脅迫ないし拉致によって河川敷に連れ出した線が濃厚である。M氏が任意聴取から逃げ続けたことは事実ではあるが、クロというよりグレーという気がしてならない。

では隣人にマルチの標的にされるような軽率な若者がだれから殺されるほどの恨みを買うというのだろうか。筆者はM氏が仲介した「中古車転売」絡みの人間が事件に係ったと見ている。廃車を引き取って修理・転売などという手間のかかることをバンド活動にも精を出す酒井さん一人でこなしていたとはどうも思えない。裏稼業の下働きをしてバイトとしては高額な手間賃を稼いでいたと推測する。実態としては、それと知らずに「自動車窃盗団」の片棒を担がされていたのではないか。

 

1990年の入管法改正により、日系移民や家族の就労が認められ、地方の製造業が雇用の受け口となった。とくに日系人の多かったブラジルはハイパーインフレの渦中にあり、出稼ぎ移民が激増し、自動車メーカーの多い愛知県豊田市静岡県浜松市などの工業都市には集住地区が形成された。長野県では上田市や伊那、諏訪周辺地域の製造業で多くの日系ブラジル人を受け入れていた。

しかし知られるようにバブル崩壊以降、生産拠点の海外移転などの影響もあり地方の製造業は衰退に追い込まれる。また(親にあたる日系ブラジル人1世の影響から)日本語能力や順応性の高い日系2世に比べ、教育現場などその妻子らの共生を進める社会的受け皿は充分ではなかった。言語やいじめの問題、進学の困難により学校からドロップアウトした日系3世以降の若者らにはギャング化する者もあった。

93年時点では日本在住ブラジル人の犯罪割合は日本平均の半分程度で最も犯罪割合が低いグループに属したが、2000年の検挙率では日本平均の3倍近い水準に達し、急速に悪化していた。雇用を打ち切られた日系ブラジル人や若者らの受け皿となったのが表向き自動車整備工などを装った犯罪グループであり、2000年代には自動車窃盗と結びついた不正輸出がブラジル移民犯罪の代名詞となった。尚、「日系ブラジル人が諸悪の根源」といった人種差別がしたい訳ではなく、そうした困窮した移民コミュニティを犯罪に結び付けた、利用したのは極一部の悪人や暴力団である。

(※2008年リーマンショック以降、在留ブラジル人は減少が続き、20万人前後を推移。車両窃盗認知件数も2012・13年頃の約27,000件をピークに大規模ルートの封鎖もあって2020年には1/4程度にまで減少している。)

2002年には長野県全体でブラジル国籍の外国人登録者は17,818人、塩尻市だけでも1,085人が暮らしており、同地でも日系ブラジル人らを中心としたグレーな自動車整備会社(犯罪グループ)が存在した。違法輸出は「解体ヤード」と呼ばれる人目に付きづらい工場で一度車体を解体して港へ輸送されるが、おそらくM氏や酒井さんは偽造ナンバーに付け替えた窃盗車のヤードへの運び出しなどを手伝っていたのではないか。13日夜の「会社の飲み会」という酒井さんの架空の予定は外せないサイドビジネスのことではなかったか。

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たとえばM氏や別のメンバーが窃盗車を別ルートへ横流し、あるいは横領する等し、そのことが日系ブラジル人グループに発覚する。怒り心頭の彼らを前に、M氏は酒井さんに責任を転嫁したのではないか。

酒井さんが2002年5月に負った右手の故障は、(たとえば仕事のドタキャンなどで)犯行グループを怒らせてしまい報復を受けた後遺症という可能性もある。一度で分からず二度までも舐めた真似を、となればグループを激昂させてもおかしくない。

突然のアパート襲撃を受けた酒井さんたちは意味も分からぬまま車で拉致され、河川敷で弁明もできぬまま車内でリンチに遭った。女性は逃げ出そうとしたのか、騒ぐので先に始末されたのか、もしかすると刺しながら男性に口を割らせようとしたりしたものかも分からない。

 

任意聴取によってグループの再襲撃を避けていたM氏だが、口を割る訳にもいかず、さりとて叩けば埃の出る身であり、いつまたグループが迫ってくるかも分からない。むしろ捜査が彼らに及べば自分がリークを疑われグループから報復されかねないと考え、身を潜めて事態の鎮静化を図ったものと推測する。

多くの出稼ぎ者は国に帰り、2000年前後に形成されたコミュニティの多くは今日では解体されていった。そうしたなかで犯行グループがその後どうなったのかは果たして分からない。M氏が口を割らないところを見ると一部は2010年頃にも在留していた可能性もあるが、物証もないなか全員帰国していれば立件は一層難しいものとなる。M氏も今となれば話せることもあると思うのだが、行政訴訟や事件の長期化で面目の立たない長野県警としては積極的に再捜査するつもりはもはやないのかもしれない。

 

2人のご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。