いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

北海道中国人女性旅行者行方不明事件

2017年の夏、北海道で発生した中国福建省出身の女性旅行者行方不明事件について記す。

当初は女性に失踪する目立った動機がなく、予期せぬトラブルに巻き込まれたのではないかと考えられた。しかしその後の報道で彼女の行動に様々な疑惑が生じ、日中両国のネチズンらにより駆け落ち説などの自発的失踪を巡って様々な議論が展開された。

女性は何を思い、どこを目指していたのか。

 

■概要

2017年7月22日(土)、中国福建省から北海道に旅行に訪れていた小学校教諭の危秋潔(危秋洁、Wei Qiujie)さん(26)が札幌市内の宿泊先から外出したまま行方が分からなくなった。

危さんは18日から25日までの予定で北海道各地を巡る計画を立てており、21日までは観光地での様子をSNSで発信する等して過ごしていた。

22日朝7時半頃、札幌市のゲストハウスから一人で外出する。事前の計画ではこの日は旭川富良野方面での観光が予定されていた。札幌駅から高速バスも出ているが、来日直後にJR線のトラベルパスを購入していたことから移動には鉄道を利用した可能性が高い。

電車で旭川に向かったとすれば片道2時間半程度、富良野に直接向かったとすると3時間強の道程である。

 

 

その日の17時頃、彼女はメッセージアプリWeChatを通じて福建省の父親に「安全回旅館(無事宿に戻りました)」と連絡を入れたきり、宿には二度と帰らなかった。

ゲストハウスの宿泊料金は前払いしていたが、宿の主人は危さんが戻らないことを心配して翌23日に警察へ通報。スーツケース、メイク道具や着替えといった荷物のほとんどは部屋に残されたままだった。

25日17時発の上海行の飛行機で帰国する手はずとなっていたが、便予約の変更はなく、搭乗者名簿を確認しても彼女の名前はなかった。22日以降のクレジットカードの使用なども確認されなかった。

 

25日の夜には中国の知人からも「危さんと連絡が取れない」として総領事館に安否確認の要請が入った。北海道警察は26日にゲストハウスの防犯カメラ映像を公開して広く情報を募り、領事館を通じて危さんの家族にも連絡を取った。

28日夕方、危さんの父親・危華先(危华先)さんらが緊急来日し、中国総領事館、北海道警に対し、何があったかは分からないが娘を早く見つけて帰りたいと懇願した。

彼女はなぜ父親に「無事帰りました」と噓をつかなければならなかったのか、荷物を置いたまま連絡もなしにどこへ向かったのか疑問がもたれた。

 

■現代中国の若者

中国国民の世代を表す代名詞として、「80後(バーリンホウ)」「90後(ジョウリンホウ)」という言葉がある。

 

80年代生まれを指す「80後」は、いわゆる「一人っ子政策」と呼ばれる計画出産政策下で生まれた世代で、鄧小平による「改革開放」路線の時期とも重なる。改革開放により新興の富裕層や中間層のボリュームが劇的に増加し、両親や祖父母の愛情を一身に受けて育った一人っ子たちは、「6つのポケット」を持つ「小皇帝」と揶揄された。

貧困が共有されてきたそれまでの世代と大きく異なり、「与えられることに慣れた世代とされる。その一方で、中産階級の増加により受験や就職での競争が激化し、家族からホワイトカラーになることを期待された「上昇志向の強い」傾向があるという。

1960年代後半から70年代後半まで続いた文化大革命により知識階級は一掃され、教育施設・制度も一度破壊されていたが、中国の急速な発展と競争力を背景に「80後」の大学進学率は2003年に20パーセントを越えた。

流行に敏感な消費的性質や文化的軽薄さに対する子ども~若者への揶揄として普及した言葉だが、最初にインターネットが普及した世代であり、2000年代以降も中国の最先端技術を牽引して存在感を示した。一方で、生活様式の変化や不動産価格の高騰などにより、晩婚化や未婚者の増加、持ち家がないこと、転職率の増加が懸念された。

 

後に続く「90後」は生まれながらに「豊さ」を享受してきた世代と言われる。中国は2010年に世界第2の経済大国となり、2020年代に入っても経済成長を続けている。「90後」の特質としては、チャレンジ精神に富み、進歩的な考えを持ち、キャリアでの成功を追求する傾向があるとされる。一方、周囲を気に掛けず他人と違うことを好み、他人への無関心はときに利己的とも評され、苦しい生活や時代を知らないだけに心的に打たれ弱くデリケートな面が指摘されている。

インターネット依存や対人コミュニケーションへの不安などの懸念が叫ばれる世代ではあるが、日韓や欧米の若者批判のそれと大差ない気がしないでもない。2008年北京五輪での活躍や若い世代による愛国運動によりマイナスイメージはほぼ払拭されたといわれる。

 

「観光旅行」についても触れておきたい。中国では6月が卒業シーズンに当たり、7、8月の夏休み期間中に1週間程度の「卒業旅行」に出かける学生が85%近くにも上るという。

また2000年代からバックパッカー・ブームが起きており、当時はシルクロードチベット雲南省といった大陸各地の異郷・秘境への冒険が多かったが、近年では国外旅行の人気へと拡大した。

2010年に日本への個人旅行が解禁。かつてはいわゆる「爆買い」ツアーのような中産層向けのパック旅行が目立ったが、15年にはビザの要件が緩和されたことを受けて日本は若者にも身近な旅行先となった。

危秋潔さんも1990年生まれの「90後」にあたる。海外ドラマや映画鑑賞を好み、旅行用スーツケースには村上春樹のエッセイ集『サラダ好きのライオン』を持参していた(中には旅行に関する小文も含まれている)。ファッションやメイク、持ち物を見ても日本の若者と大きな差は感じられない。

SNSでは人気モデル森絵梨佳について「あなたの美貌に限界はあるの?」と羨望のまなざしを向け、ドラマ『カルテット』が日本のドラマ賞を総なめにしたニュースに対し「納得です」とコメントしている。彼女は日本のカルチャーだけでなく、韓国アイドルグループBTSを好み、米ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ(氷と炎の歌)』の第7部が今から楽しみだと期待を寄せる、先進国のどこにでもいる現代的な若者と言えた。

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危さんは地元・福建省南平市にある少武実験小学校(小中一貫校)に勤めており、9月からは正職員採用が決まっていた。元々は就職祝いとして友人と二人で来日する予定だったが、友人が同行できなくなった。同僚はツアー旅行への参加を薦めていたが、危さんは自ら旅程を立てて一人で旅することを選んだという。

 

■反応

危さんは7月18日8時40分の便で天津浜海国際空港を離れ、12時50分に函館空港から来日。小樽に宿泊して市街を散策し、19日は洞爺湖を訪れていた。20日に札幌へ移動してゲストハウスを拠点に道央各地へ出掛ける計画を組んでおり、25日まで滞在予定だった。

冒頭のニュース動画でも分かるよう、ゲストハウス到着時には店主と笑顔でやりとりするなど、それなりの緊張感を漂わせつつも、至って普通の外国人観光客らしい様子を見せていた。

店主は香港出身で英語も中国語も解する女性だが、危さんは流暢な日本語で日常会話はできる様子だったと話した。到着時には「近くでお弁当を買える場所はあるか」と尋ねられたという。

小樽ではお寿司やケーキを味わった

21日には美瑛まで足を延ばし、フラワーガーデンに訪れたときの様子などをSNSグループ内で投稿していた。駅で観光コースについて相談したらスタッフが中国語で親切に対応してくれた、と綴っている。

美瑛でのセルフィー

若者絡みの事件ではよく見る光景だが、インターネット上の行動を追跡するのは中国でも同じだ。ネチズンたちは彼女の近況や手がかりとなる情報を得るため、「微博」や「Instagram」などSNSを検索し、Q&Aサイト「知乎(zhihu)」などに質問や情報、各人の見解を加えてやりとりを行った。

ある者はこれから失踪しようという心境でセルフィーなど撮らないだろうと言い、また別の者は投稿画像から沈鬱とした心理状態を嗅ぎ取った。先入観を持って見れば確かに小樽運河や町の様子はどこか物悲しげであり、咲き誇る花々も対象との距離を感じさせる。

だが撮影機材や技術、天候や体調などの影響もあるため、投稿画像だけを見て彼女を心配する人はいないだろう。「色んな場所へ足を運んだのだな」「無事に旅を楽しんでいるのだな」と眺めるのが一般的な感覚、良好な人間関係といえよう。

中国国内でも行方不明事件は多数あるが、多くのネチズンが反応した理由として彼女が美貌の持ち主だったこと以外にも、ネット上での活動履歴を追いやすかった点が挙げられる。また長く「安全神話」が言われてきた日本で起きた事件、更に中国国内で旅行先として人気の北海道で発生したことも人々の好奇心を喚起した。

 

直近の2017年7月13日には神奈川県秦野市寺山の山中で、危さんと同じ福建省出身の姉妹(22・25)が他殺体となって発見される事件が起きていた。

姉妹は就学ビザで来日し、ホステスとして働いていた店で岩嵜竜也(39)と知り合った。岩嵜は姉に好意を抱いて親しくしていたが、姉はビザの期限が迫っていたことから偽装結婚を持ちかける。岩嵜は自分の好意を「利用された」と憤り、二人が住む横浜市のマンションで立て続けに絞殺。スーツケース2台に遺体を詰めて遺棄したとされる。姉妹はファッションへの関心が高く、高校での勧めもあって日本に留学したという。

中国の若い女性が立て続けに外国で狙われたとなれば、報道の扱いが大きくなり、国内での類似事件より話題としてフォーカスされやすい面もあったのではないか。昔と違って日本が「身近な隣国」になったことの裏返しでもあり、反日感情も含めて国民の警戒心を触発する話題ともいえる。その上、「行方不明」という安否の知れない状態や情報の飢餓感も手伝って、却って関心を強める要因となったのかもしれない。

 

有志達は日本の犯罪事情や北海道の観光情報、報道からの切り抜きや翻訳を逐一やりとりしながら事件報道を自ら補完していった。報道に対する猜疑心や情報への探究心においても日中の垣根はない。

22日はスカート姿だった

上のように札幌のゲストハウスのカメラ画像を見比べると、20日、21日にはパンツスタイルに黒いリュック姿、行方不明となった22日にはロングスカートで赤の小さ型ショルダーバッグとタブレット端末を入れた「六花亭」の紙袋を抱えた姿が確認されていた。日本の元刑事は、外出前、玄関脇の鏡で髪を直す仕草から「誰かと会う予定があったのではないか」と推理した。

ある音楽ジャーナリストは外出時にゲストハウスの前で危さんが操ったタブレット端末から恋愛映画のアルバムジャケットを読み取ったことで、多くの人にデート説を想起させた。

彼女の友人は失踪前の情報を詳細にまとめて下のような行動履歴を作成した。

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若い女性の一人旅、当初は多くの人がわいせつ目的の拉致被害など何らかの人災に巻き込まれたと考えた。中国ネチズンの目から見ても、発展を遂げた中国で経済的に不自由なく育ち、大学院を出て定職を得た若い女性があえて不法就労者になるとは到底考えづらく、単純な自発的失踪の線は薄いと言えた。

可能性として、以下のようなものがあった。

・交際相手が日本におり、駆け落ちした

・インターネットで知り合った人物と道内で合流してトラブルに発展した

・道内で偶々知り合った人物と合流してトラブルに発展した

・山やひと気のない場所で遭難事故に見舞われた、羆の被害の可能性も

 

誰しもが彼女の無事を祈りつつも、現実的には「自殺」の線もない訳ではなかった。

SNS特定班の報告によると、教育実習中の投稿には冗談めいた内容も見られていたが、6月下旬の投稿には「人生は永遠に矛盾するもの。どんなに孤独でも友達は必要、友達がいても孤独は解決できない」とつづられ、何か言葉にしづらい悩みを抱えた様子が窺われた。

7月初旬には10年来の友人男女4人で海辺の町へ旅行に出かけていた。

「シャワーを浴びて民宿のそばのブランコに。耳には途切れることのない風の音、そして音楽も。星もあなたの姿もないけれど、今はそれでも構わない。このすべてを人生最後の輝きにしよう。時間を切り詰めて、無駄な時間を過ごそう」

旅情の詩をもって彼女が「失恋していた」と唱える者もいた。だが「輝き」の薄れつつある青年期の終わり、就職を前にした最後の自由のときを謳歌しているようにも読むことができる。

危さんは22日夕方以降の連絡を絶った一方で、23日0時1分に微博アカウントからシンガーソングライターの孫燕姿(孙燕姿、ステファニー・スン)の誕生日投稿に「Fav(「いいね」)」リアクションが行われていた。

21日にバンド「リンキン・パーク」のチェスター・ベニントンの自殺報道に「R.I.P(rest in peace、お悔やみ)」付きのリツイート(再投稿・拡散)を行っていたことも分かっている。

福建省の危さんの家族や友人たちは、旅行前に彼女に変わった様子はなく、希死念慮(自殺願望)なども感じなかったと言い、日本に知り合いがいるといった話も聞いたことがない、と取材に答えた。

 

■阿寒へ

道警は、道内全域の空港、フェリー港、鉄道駅や宿泊施設に捜査協力を依頼して危さんの行動経路を追っていた。その結果、危さんは7月22日19時30分頃、阿寒湖の温泉ホテルに事前予約なしで一人でチェックインしていたことが判明する。

札幌市街から釧路駅までは東へ約300km、電車で5時間、車でも4時間以上の道程である。彼女はそこからバスで2時間かけて北上し、夜に阿寒湖までたどり着いた。

逆算すれば、17時頃に父親にメッセージを送ったのは釧路から阿寒湖へ向かうバスの乗車前後と分かる。

マリモで有名な阿寒湖、霧の摩周湖、野湯の湧出や雲海で知られる屈斜路湖を有する弟子屈周辺は原生林も多く、大自然が見せる豊かな表情が楽しめる観光エリアである。

 

23日0時1分に札幌市で確認された微博での「Fav」リアクションと、阿寒湖での滞在情報は当初人々を混乱させた。

favは彼女の最後の電子履歴となるが、 発信元は「北緯 43.0642、東経 141.3469」、IPアドレスは「211.16.108.231」で、札幌市にある「北海道庁」を指示していたためである。そのため別の人間が彼女のスマートフォンないしタブレット端末を操ってアクセスしたのではないか、と犯人や共謀者による位置情報の偽装が疑われた。

しかし現在では、「Fav」リアクションは彼女自身が操作したものではなく、プロフィール設定で「好きなアーティスト」に孫燕姿を登録していたことによる機械的な「自動投稿」と推測されている。

微博の仕様は詳しくは分からないが、最後に操作していた札幌市のIPアドレスが反映されたと考えられ、彼女の端末は23日0時1分時点ではすでに電源が落ちていた可能性が高い。

 

危さんは翌23日午前7時30分頃にホテルをチェックアウトし、その足で阿寒湖の遊覧船に乗っていたことが分かった。所要時間はおよそ85分とされる。ホテルは素泊まりで朝食がなかったこともあってか、降船後には近くのパン屋に立ち寄ってパン等を買い求めていた。コンビニでのカメラ映像は父親により危さん本人と確認された。

彼女は荷物も持たずになぜ一人で阿寒湖を訪れ、朝から遊覧船に乗っていたのか。


7月25日夕方に阿寒湖周辺で黒い服を着た危さんらしき人物を見た、31日の13時半頃にも阿寒湖で白い服を着た若い女性がパンケトー(阿寒湖東部に位置する原生林に囲まれた湖)方面の散策路にいたとの情報が入り、目撃された女性が危さんだった可能性もあるとして周辺での捜索が続けられた。
阿寒湖からの主要ルートは釧路につながる「まりも国道(国道240号)」か、雄阿寒岳を越えて弟子屈摩周湖方面に向かう「阿寒横断道路(国道241号)」に限られる。

 

■家族への手紙

7月29日、ゲストハウスに残していた荷物の中から「家族への手紙」が発見されたことが日中メディアで報じられると、一層の謎を呼んだ。

来日した父親は「娘の筆跡に似ている」と認めたが、手紙の具体的な内容は明かされなかった。多くのメディアは「両親への感謝」や「新しい生活を始める」と書かれた手紙と抽象的に報じたために様々な憶測を呼んだ。

 

「新しい生活」という響きだけで想像すれば、中国での暮らしを捨てて日本で別人として暮らす意志のようにも思われた。しかし福建省で報せを受けた危さんの弟・危琳さんは「別れの手紙ではなく、旅行記だった」と述べ、「姉は教師の仕事が大好きで、経済的に困っていることもない。日本での不法就労はありえない」と主張した。

危さんの友人は、危さんは大学時代から日本の文化に関心があったと話した。大学の第二外国語で日本語を選択し、単身での北海道旅行を決めたこと、日本人作家の小説を愛読していたことからも当然興味・関心はあったには違いないが、どれほどの心的共鳴を感じていたのかは分からない。

弟・琳さんは「姉は旅行が好きなだけ。景色や日本の作家が好きなだけで、日本での暮らしに憧れていた訳ではない、観光に行ったんだ」と話し、自発的失踪説を否定した。

一部メディアは「自殺をほのめかす手紙」と報じ、別のメディアは「自殺を示唆する内容ではなかった」と明言した。しかし、「家族への感謝」や「旅行記」を綴った手記であれば、道警や領事館がただちに家族の来日を求めて筆跡を確認させたとは思えない。多くのメディアがなぜ「両親に向けた手紙」「家族への手紙」といった表現を用いたかと言えば、そこに「告別」が含意されていたと推測するのが妥当である。

 

■再び釧路へ

8月2日の報道では、釧路駅から幣舞(ぬさまい)橋方面に向かう大通りの防犯カメラに危さんとみられる女性の姿が確認されたと伝えられた。撮影されたのは23日12時15分頃から30分頃の間。つまり阿寒湖で遊覧船に乗船後、すぐにまた釧路へ引き返していたことになる。
10時頃に阿寒湖バスターミナルでチケットを購入する様子が確認され、10時25分発の便で釧路に向かったことが報じられた。バスの乗客は4人。車内では黒いマスク姿でパンを食べるときだけマスクを外していた、と語る目撃者もいた。
当時は捜索報道はなされていないことから、変装ではなくノーメイクか化粧崩れを隠していたとみられる。
 
その後、危さんは釧路川沿いの複合商業施設MOOの2階にある喫茶店へ来店していたことが判明する。喫茶店の店主によると、危さんは14時頃に一人で来店して窓辺の席に座ってカプチーノを注文。店主は喋り好きであったため何か声を掛けようかとも思ったが、女性は人を寄せ付けないような、思いつめた表情で窓の外をじっと見ていたため、口を噤んでいた。40分から1時間程して退店したが、支払いの際にはじめて日本人ではないことに気づいたという。
しかし、その後の彼女の動向については全く報道が途絶えた。
22日7時30分頃 札幌市でゲストハウスを出る
22日17時頃 父親に「無事宿に戻る」とメッセージ
22日19時30分頃 阿寒湖の温泉ホテルを訪れる
23日0時1分 微博で「Fav」
23日7時30分頃 ホテルを後にし、阿寒湖の遊覧船に乗船
23日10時25分頃 阿寒湖からバスで釧路へ
23日12時15分頃 釧路駅前を通行
23日14時頃 釧路の喫茶店を利用
仮説として、釧路駅から再び札幌に戻ろうとしていた可能性も考えられた。札幌に直行する特急スーパーあおぞらの発車時刻まで市街で時間を潰していたとする見方である。また商業施設MOOは観光バスや都市バスのバスターミナルとも接続していることから、別の目的地にバスで移動したと推測する声もあった。

釧路川にかかる幣舞橋から見た商業施設
しかし釧路駅や大型商業施設は相当数の監視カメラも備えていることから逆算すれば、駅周辺や店内での行動、バスの利用は容易に把握されるはずである。

 

■『非誠勿擾』

2008年公開の中年男の婚活を描いたラブコメディ映画『非誠勿擾(邦題:狙った恋の落とし方)』は当時の歴代正月映画興行記録を更新する大ヒットとなり、舞台となった北海道道東エリアへの観光需要、投資需要を拡大させたといわれる。

若者向け恋愛映画という訳ではないが、流行に敏感な「80後」「90後」であればだれもが聞き知った作品であり、北海道旅行の計画にも少なからぬ影響を与えたものと中国のネチズンたちは考えた。

youtu.be

映画のなかで登場人物が網走市の能取岬で自殺未遂をする場面がある。8月4日、中国総領事館は道警に対して映画の舞台となった網走や知床を含む道東全域での捜索活動を依頼。とくに網走市では市街での聞き込みだけでなく、ヘリでの捜索なども行われた。

非誠勿擾の入水シーン

総領事からの要請やそれに応じた道警の動きを合わせて考えれば、明言されていなくとも彼女が残した手紙には自殺をほのめかす兆候があったのはほぼ間違いなかった。しかし人々の希望が自殺説を退け、旅を続けながら潜伏しながらどこかで生存していてほしいという願いにつながったともいえる。

8月6日、危さんの父親は福建省に戻り、日本からの報告を待つこととした。

 

■『阿寒に果つ』と加清純子

危さんと日本をつなぐ線として文学も注目された。彼女は村上春樹東野圭吾渡辺淳一を愛読していたという。

渡辺淳一は札幌出身で元医師の直木賞作家である。読書家でなくとも90年代に大きな話題となった『失楽園』や2000年代にドラマや映画となった『愛の流刑地』、2010年にミリオンセラーとなった人生論『鈍感力』等は見聞きしたことがあるのではないか。

日本の若い世代は渡辺作品になじみが薄いかもしれないが、90年代末以降、中国では高い人気を誇り、2016年には中国の出版社が札幌市の「渡辺淳一文学館」を購入している。危さんが訪れたという確定情報はもたらされていないが、宿泊したゲストハウスから文学館まで僅か400mの距離だった。

1973年出版、後に映画化もされた『阿寒に果つ』は実在した女流画家・加清純子がモデルとされる。20年前に阿寒湖で自殺を遂げた天才少女画家の死について、かつて交際関係にあった男性作家が彼女の元恋人たち5人と会って真相を探ろうとする内容である。渡辺は作家を志したきっかけの一つに彼女の存在を挙げており、おそらくは作中の奔放なヒロイン像の一つにも元交際相手の面影が投影されていることは間違いない。

高校2年生、真面目な渡辺青年に純子は「誕生日を祝ってあげる」と手紙を渡し、短い間、二人は交際関係を持った。純子は10代半ばにして気鋭の女流画家として注目され、いわゆるアプレゲール(戦後派・反権威の若者)世代の「天才少女」として脚光を浴びる「文化人」であった。自由奔放な逸脱行動は学校からも黙認され、画家や医師、新聞記者やパトロン、議員など中年男性たちと数々の浮名を流していたという。

 

高校卒業を控えた1952年1月、純子は制服姿のまま家出。男性たちの家を転々とした後、阿寒湖畔のホテルを訪れ、23日、部屋に未完成の阿寒湖の絵3枚を残したまま消息を絶った。「阿寒に行って死ぬ」と聞かされていた知人もいたが、以前から人を驚かせるような発言が多かったことから誰も真剣に引き留めようとはしなかったという。雪深い阿寒での捜索は困難を極めた。

調べにより、医師法違反(無免許開業、詐欺、堕胎罪など)により釧路刑務所に服役していた岡村昭彦と交際関係にあり、失踪直前の1月17・19・21日の3度に渡って面会に訪れていたことが判明。共産党員としての非公然活動もあった岡村は純子に保釈運動を請うて5万円の金策を要望。純子は岡村に「26日に戻る」と伝えたまま姿を消した。

雪解けを迎えた4月14日早朝、阿寒湖畔から1.5kmの旧釧北峠の樹林で純子は凍死体となって発見される。阿寒湖・雄阿寒岳を眺望する景勝地として知られる道だが、冬季は通行止めとなっていた。頭を湖に向けて倒れており、遺体の周りには弧を描くようにして、赤いコート、手袋、ベレー帽、「光」銘柄のタバコ、アドルム(睡眠薬)の空き瓶が並んでいた。

 

渡辺は『阿寒に果つ』の語り手・田辺俊一の口を借り、「あの死は同情するどころか憎んでもいい。あの死は驕慢で僭越な死ではなかったのか。すべてを計算しつくした小憎らしいまでに我儘な死ではなかったのか。」と純子の死に対する憤りを綴っている。それは生前に数多の男たちを魅了し、男の青春を風のように通り過ぎていった初恋相手に見た「彼女らしさ」そのものを表現した言葉のように思われる。

釧路の幣舞橋は観光名所として監視体制も整備されているが、危さんが橋を渡って東進した映像などは報じられなかった。だが警察の動きとして一部メディアでは幣舞橋東面の家々を聞き込みに周ったとも伝えられた。橋を渡って東進すると純子が最後の恋人と会った場所、釧路刑務所があった。

 

■星

8月27日午前5時50分頃、釧路市桂恋の海岸で地元漁師の男性が女性の遺体を発見し、釧路署に通報した。体格や着衣などが行方を捜していた危さんの特徴と一致し、身元の特定が急がれた。足の一部が白骨化していること等から、死後1か月以上と見られた。

発見した男性は毎日朝6時と午後1時に現場を訪れるが、前日には遺体を見ていないと話した。遺体は27日朝6時頃の高潮の時に発見し、頭が海の方に向いていたという。足以外に目立った外傷や着衣の大きな乱れはなかったと話した。

地元の観光業者によれば、桂恋周辺は寂れた漁村で夜になると自分の指先すら見えないほど暗くなると言い、観光客が訪れるような場所ではないという。近くに崖もあるが外傷もないのであれば転落したとも思えないと述べている。

 

8月29日になってANNは危さんが荷物の中に残した「家族への手紙」の具体的な内容を伝えた。手記の現物は警察署に保管されたため、公式ではない情報ということになる。実物は紙2枚に綴られていたとされ、おそらくは最初にテキストの翻訳を道警に伝えたと考えられる香港出身のゲストハウスの主人の記録を再構成したものである。

「ごめんなさい、これはお別れの手紙です。

私は27年間生きてきましたが、今は一生懸命働くことができません。

もし私がいなくなっても、どうか皆さん、悲しまないでください。

私は、みんなを守る星になります。あなたたちを心から愛しています。」

素直に捉えればそれは「遺書」にほかならない。ではなぜ警察は失踪者捜索として各方面へ大々的な捜索活動を行い、人々の誤解や憶測を招くような報道がなされたのか。

おそらく警察は通報を受けた初期段階で、ゲストハウスに残された荷物の中から本に挟まれた「手紙」を発見した。命を絶つとの表記こそないが、翻訳した人間も「遺書」である可能性が高いと判断したに違いなく、筆跡確認のため家族に連絡を取る必要があった。

父親は娘の自殺を強く否定し、日中両国の関係者に捜索を要請した。遺体がない以上は生還を信じ続ける家族にとって自殺報道は受け入れがたいものである。当初はまだ道内を放浪している可能性も多分に残されており、自殺を偽装して失踪した可能性も全くないとは言い切れなかった。

本人が生きていれば情報に触れる可能性もあり、手紙だけで一方的に自殺と断定して捜査方針を変えれば両国間の国際問題ともなりかねない。そうした各方面への配慮がメディア各社のオブラートに包んだ表現につながったと考えられる。

また報道が8月上旬で尻切れトンボのように途絶えたことについても、報道や世間の反応が拡大して福建省の家族から来日中だった父親に連絡が入り、報道規制を要請したとも推測される。

30日、北海道警はDNA型鑑定の結果、発見された女性の遺体が危秋潔さんと判明したと発表した。肺に海水が含まれていたこと等から死因は「溺死」とされ、事件に巻き込まれた可能性は低いと判断された。

31日、危さんの親族が釧路空港に到着し、釧路署で遺体を確認した。父親は娘と対面する心境になれなかったという。9月1日、市内で火葬され、翌2日に空路で帰途についた。

 

■Live New Life

危さんは2015年6月に微博でのアカウントを開始し、10月には卒業に向けてパスポートを取得し旅行資金も貯めていた。2017年5月にアカウント名を「Live New Life」に変更している。

日本ネチズンは『非誠勿擾』のヒロイン笑笑(シャオシャオ)のように不倫の末に失恋でもしたのだろうと言い、中国ネチズンは彼女の日本文学への傾倒と日本人の自殺率の高さを結び付けて、自殺の動機について論じようとした。

彼女の故郷・邵武市は山間部の盆地にある人口およそ30万人の地方都市である。ボリュームでいえば大きな人口だが、地図上では山に囲まれた陸の孤島のように見える。

これまでの人生で彼女が何を学び、どのように感じ、これからについて何を思っていたのかは分からない。26歳で人並みの恋や失恋も経験したであろうし、プライベートな悩みも抱えていたことだろう。

公表されているのは裕福な家であることと教職の正式採用が決まっていたこと、そこから推測できるのは、彼女はこれからもこの地で根を張って生きていくはずだったということである。

自立という点で一般的に就職は喜ばしい出来事だが、彼女にとっては人生に架せられた鎖のような束縛に思えたかもしれない。危さんは生まれ故郷での暮らしに不安を抱えていたのではないかと筆者は考えている。

 

中国の教育現場も場合によっては日本以上にストレスフルな労働環境かもしれない。大学から教育学部(師範コース)に進学した訳ではなく、卒業後に教職を志したと思われ、やりたい職業ではなかった可能性もある。

疾病など何がしかの理由もあったのかも分からないが、定職に就くまでに周囲より時間を要した点を鑑みても、一種のモラトリアム心理も働いていたのではないか。だとすると映画やドラマ、小説といった国外のフィクション愛好の背後には現実世界からの逃避感情やここではないどこかへの憧れも無自覚のうちに含まれていたようにも感じられる。

家族関係は分からないが、母親が報道に出ておらず、父親や弟が対応していることから男権の強い環境を窺わせる。日本と同じく中国の旧来の保守的な家庭では女性の地位は相対的に低く、不妊であったり男児を授かれない際には邪険に扱われ、自殺率も高いことが指摘されている。危さんが姉と弟を持つことからも強く「男児」が望まれた家柄だと推測してよいかと思う。

弟は手紙について「旅行記だ」と嘯き、父親は行方不明から一貫して自殺説を否定し、遺体発見の報にも他殺説を主張して捜査継続を求めたと報道された。家族として、父親として自発的失踪や自殺が受け入れがたいことは分かる。だが彼らの言動の行間からは、死を受け入れられない以前に、自分の家族が自殺するなどあってはならない、とする心理も窺える。

土地柄なのか、家柄なのかは分からないし、そうした態度を以てして彼らが危さんを自死に至らしめた原因と断ずることがあってはならない。家族以外の友人や恋愛関係でのトラブル、将来への漠然とした不安もあったかもしれない。だが家柄や育ちの良さが、却って学業や就職、恋愛、結婚など人生の岐路での家族との衝突につながり、彼女の生きる気力を徐々に削いできた可能性は排除しきれない。

 

遺書の存在からして危さんが以前からこの旅を「故郷との永訣」として心に秘めてきたことは確かである。いつからか「就職」は彼女が設定したそれまでの人生の「仮の終着地」になったのではないか。青春の終わりを、自由を奪われることを意味するそのときを。もしかすると事後の混乱を避けるために、中国語を解する店主のいるゲストハウスを選択していた可能性さえある。

彼女は観光を楽しむ一旅行者として取り乱すことなく家族や友人たちに自分らしく振舞った。おそらく渡辺淳一文学館で加清純子と同一化を深め、チェスター・ベニントンにシンパシーを持って追悼し、22日をその日に決めた。奔放に大胆にその生涯を駆け抜け、死後も人々の記憶の中に鮮烈な存在として生き続けた純子は、もしかすると危さんにとって指針のひとつだったかもしれない。

彼女は最期に自由な生き方を求めて阿寒湖にたどり着いた。だが着いた頃にはすでに陽が落ちていた。その場所を目に焼き付けるためホテルで一晩過ごすことにした。遊覧船からの入水も覚悟していたかもしれないがそれは叶わなかった。あるいは加清純子のエンディングが真冬の山中だったこともあり、夏の朝の阿寒湖は彼女の思い描いたイメージと違っていたのかもしれない。おそらく湖に浮かぶ85分の間に心変わりしたのだ。ある種の「ためらい傷」とも言えるかもしれない。

阿寒湖への旅程を組み立てる中で釧路の観光情報として「幣舞橋」にも触れていたであろう。北海道三大名橋に数えられ、太平洋に沈みゆく夕日や夜間の街灯風景の美しさで知られる。彼女は橋の見える喫茶店で夕日の訪れを待つことにした。彼女はこれまで目にしたことのない美しい景色の中で感動に包まれながらその時を迎えたかったのだ。

阿寒湖の遊覧船か、釧路へのバスの中で「新たな門出」にふさわしいシーンを思い描いた。『非誠勿擾』のイメージが投影されたのか、それとも山に囲まれた故郷と対照的な場面を選んだのか、広大な海でのエンディングを迎えることにしたのだ。7月23日の釧路の天候は曇り。夕日の眺望を拝むことは叶わなかったかもしれないが、夏の海は疲れ果てた旅人を優しく受け止めた。

 

危さんのご冥福と、ご遺族の心の安寧をお祈りいたします。