いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

新潟少女監禁事件について

1990年に新潟県三条市で発生した未成年者略取(連れ去り)および2000年まで柏崎市で続けられた長期監禁、通称・新潟少女監禁事件について記す。

 

 略取・監禁は、言うまでもなく卑劣かつ被害者の人権を蹂躙する許すまじき蛮行であり、生還してもなお被害者やその関係者にとって大きな傷を背負わせる。本稿はその被害から、どういった背景から生じたのか、どのような被害があったのか等を改めて見直し、いつ自分や家族、隣人が巻き込まれるかも分からない悪行に対して社会はどのような対応が求められるかを考えることを目的としたものである。

 

過去エントリーでは、東京都豊島区で起きた誘拐と半年間におよぶ奇妙な同居が続けられた通称・籠の鳥事件(飼育事件)について記しているのでそちらも比較・参照されたい。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

■事件の発生 

1990年11月13日、新潟県三条市で小学4年生Fさん(9)が下校してこないため、心配した母親が19時半頃に警察へ通報した。三条署、学校関係者合わせて100人以上で通学路や周辺地域を捜索、翌14日には200人以上に増員されたが手掛かりは得られなかった。

15日には三条署内に機動隊ら100人以上からなる捜査本部を設置。上空からのヘリによる捜索や夜間検問など大規模な捜索でも成果を得られなかった。その間も近隣市町村や教育委員会を通じて情報提供を募るとともに、不審者情報の洗い出しなどが行われた。

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その後、事故の可能性は低いとして、連れ去り事案との見方が強まり、捜査一課が動員された。Fさんが通学路としていた農道は「土地勘のある人間でなければ通らない」とする見立てから、県央地域(三条市燕市など)で過去の性犯罪者ら1000人以上がリストアップされ、重点捜査が行われた。

当時は、同県での発生事案や全国的な手配にも関わらず情報が集まらないことから、北朝鮮による拉致被害の可能性なども疑われた。年明け以降からは、捜査規模も徐々に縮小を余儀なくされる。

 

(余談だが、米国では児童の失踪発生から48時間で生存率はおよそ50パーセントに低下とする試算もある。大人に比べて体力も低いことや営利目的ではない児童誘拐の場合、早期に殺害されるリスクが高まることから、より迅速な対応が不可欠とされている。そのため緊急性が高い児童の失踪事案の場合、テレビ・ラジオなどで“アンバー・アラート”という緊急警報が発令され、地域住民らに早期に周知される。また大型店舗、スタジアム、病院、遊戯施設などでは迷子・行方不明者が発生した場合、迅速な発見・通報のための“コード・アダム”というセキュリティ行動計画が敷かれている。)

 

■3364日後の発見

失踪から9年以上が経過した2000年1月28日、柏崎市四谷一丁目の民家でFさんが発見される。きっかけは前年末、犯人の母親(73)が「息子の家庭内暴力」について保健所に相談したことだった。医師は緊急の保護と治療を要すると判断し、提案により強制的な保護入院を行う手筈となった。保健所職員と医師らが玄関から中に入ると、目が痛くなるほどの強いアンモニア臭が充満していた。彼らが「息子」の部屋に立ち入ったことで前代未聞の長期監禁事件が発覚する。

 

部屋の主は無職・佐藤宣行(37)、20年近く“引きこもり”状態で過ごしていた。“二人暮らし”の母親は息子の暴力に怯え、接触を避けたいがために彼の居住スペースである二階部分にはもう何年も立ち入っていなかった。職員が二階に上ると、和室にはビニール袋に入れられた尿や大量の使用済みおむつが山積していたという。

佐藤は入院の提案に激しく抵抗したため、職員らは柏崎警察に応援を要請したが、「署員が出払っている」との理由で叶わず。医師はやむなく鎮静剤を注射して佐藤を昏倒させた。

騒ぎの後、部屋にあった毛布の塊が動いていたため確認すると、中から若い女性が発見される。名前などを確認したが応答は不明瞭で、佐藤の母親も彼女を「見たことがない」と言う。今から佐藤が入院することを説明し帰宅を促すも、女性は「ここに居てもいいですか」と答え、元々住んでいた家はどこかと尋ねると「もうないかもしれない」と話した。

その女性を家に放置する訳にも行かず、職員らは病院へと連れて行く。女性は血色が悪く、自力での歩行も困難な状態だった。彼女は「10年前に連れて来られて外に一歩も出ていない」と言い、車中で名前、住所、電話番号などを伝えた。職員は行方不明者としてFさんに心当たりがあったことから、病院から警察に通報。その後、捜査員が駆け付け、指紋の照合などにより身元が確認された。

 

その間、佐藤宅に残っていた職員のもとに警察から「人員が出せない」との連絡が改めて入る。職員は、佐藤を移送中であることと部屋で身元不明の少女が発見されたことを伝え、再度出動を依頼したが「そんなことまで押し付けないで、(少女について)そちらで確認してくれ。家出人なら保護する」と出動を拒否する態度をとる。以降、こうした警察の無責任な対応が公になると厳しい批判が集まることとなった。

同28日の夜、母娘は3364日ぶりとなる再会を果たす。

意識が回復後もショック状態にあった佐藤は入院を要し、退院後の2月11日に未成年者略取・誘拐、逮捕監禁致傷の容疑で逮捕された。

Fさんの父親はその後の会見で、一緒にドライブに出掛けたことや雪合戦をしたことなどFさんがようやく人間らしい生活を取り戻しつつあることを報告、「娘を一日も早く社会復帰させてやりたいという強い気持ちだけしかありません」と涙ながらに決意を語った。

 

■暴力支配と監禁生活

佐藤は紺色のクーペ(スポーツタイプの車型)に乗って、柏崎の自宅から1時間半ほど北上して三条市内に入ると、17時頃、下校途中のFさんを見つける。少女にナイフを見せ「おとなしくしろ」と脅してトランク内に押し込み、その後、別の場所で車載の粘着テープを使って緊縛した。尚、裁判では、過去に運転中、対人トラブルがあったことから防犯目的でナイフを載せていたと説明され、弁護側は計画性は低かったと主張している。

20時頃、自宅に到着すると、先にFさんを自室の外部に置き、佐藤自身は母親に気取られぬよう単身で玄関から入室。部屋からFさんを引きずり込んだ。

 

佐藤は「山に埋めてやる、海に沈めてやる」と殺害をほのめかしながら、「この部屋からは出られないぞ。ずっとここで暮らすんだ」「逃げたらお前の姉も同じ目に合わせる」とFさんを脅迫。階下の母親への発覚を恐れた佐藤の命令により、Fさんは声を上げることはおろか許可なくベッドから降りることすらできなかった。身体的拘束は約1年に渡って続けられ、その間も殴打やスタンガンで数百回に渡って繰り返し暴行を加えた。

大声を挙げたり暴れたりすれば佐藤の暴力がひどくなるため、Fさんは自分の体や毛布を嚙んで苦痛を耐え忍び、やがて感情を閉ざして抵抗することを辞めた。「殴られているのは自分ではない」と防衛機制を働かせるなど解離性障害の症状に陥っていたといわれる。後に発見されたランドセルの中のノートには、地獄の苦しみを紛らわせるためか、家族や自分の名前、学校の名前などがびっしりと書き込まれていた。

緊縛が解かれて以後も、Fさんは「見えない拘束」を課せられたかのような心理状態にあり、佐藤を刺激しないよう心掛けるようになった。長期間にわたって回避困難な虐待等の過度なストレス環境に置かれ、逃走や抵抗の意欲を減退させることを学習性無力感という。生き延びるために従わざるをえない状況下で、「逃げる」という選択肢は彼女に否定的な結果を想像させる。「逃げない」のではなく「逃げられない」のである。

 

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佐藤はFさんから逃走の意思を奪うと、やがてマンガや新聞、ラジオなどの情報を与え、97年頃には部屋にテレビも設置された。競馬や野球、F1や音楽といった佐藤の関心事や興味のある時事についてFさんも意見を求められ、会話を交わすこともあった。

レトルトやコンビニ弁当などの偏った「食事」は発育途上にあった彼女の肉体を蝕み、運動能力や免疫力をみるみる失わせていった。96年ごろ、Fさんの脚に痣を見つけた佐藤は、糖尿病を危惧して「運動しない以上は減らすしかない」との考えにより食事を一日一回に制限した。身長はやや伸びていたが、46キロあった体重は30キロ台にまで落ちた。体調管理のために佐藤が命じた運動は、ベッドの上での屈伸と、母親が不在のタイミングに限り許される室内での足踏みだけであった。

後の裁判で弁護側は、佐藤による監禁行為はFさんの健康を害したものの、体調への配慮も行っており、(虐待だけでなく)娯楽も与えていた、と主張して情状酌量を求めた。

 入浴は9年間で一度シャワーを浴びたきり、排泄はビニール袋に用を足した。佐藤は極度の潔癖により自宅のトイレが使えず、月に一度しか入浴しなかったため、それに倣ったものである。衣類は数年に一度、主に男性物を与えられていた。発見時には短髪で小ざっぱりした様子だったと伝えられている。

 

■不潔恐怖、家族関係、引きこもり

佐藤の父親は母親よりかなり年配で、佐藤は父親が62歳のときに生まれた子である。父親はタクシー会社の専務取締役を務めており、佐藤を「ぼくちゃん」と呼んで欲しがるものを何でも買い与えた。だが佐藤が小学生のとき、友人から父親の容姿や名前を「おじいちゃんみたいだな」とからかわれたことをきっかけに父親を毛嫌いするようになる。中学1年のときには「怖くて学校にいけない」と訴え、不潔恐怖症(極度の潔癖・妥協できないこだわりを示す強迫神経症。いわゆる“潔癖”といわれる現実的な汚れを嫌う衛生観念とは異なる)の診断を受けており、父親にもその傾向があったとされる。

高校卒業後、自動車部品の製造工員となるが遅刻を叱責され2カ月で辞めてしまい、以来、引きこもり生活を続けた。家庭内暴力エスカレートし、老齢となった父親を家から追い出した。父親は親類を頼った後、85年から老人介護施設に入居し、89年に死去している。一方で、母親が家を出て佐藤から離別しようとすると暴れて家に火を点けた。そうして母親に日用品の買い出し、競馬場への送迎、食事の世話を押し付け、佐藤の鬱憤が溜まれば家庭内暴力で発散する歪な母子関係が築かれた。

買った競馬雑誌のページが折れているから、と母親が店に交換を頼みに来るなど、周囲にもその主従関係のような母子の様子は知られていた。82年、展示場のカタログからセダンタイプの新車を購入し、すでに全額支払い済みであったにもかかわらず現物が気に入らないとして受け取りを拒否。母親は「息子が嫌だと言っているので、車を店に置かせてもらえないか」と相談に訪れ、最終的に中古車販売業者に売却した。犯行に使ったクーペもあまり乗らないまま車検切れとなり、同じく母親が売却している。

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89年6月に柏崎市内で女児(9)に強姦を企てて草むらに連れ込んだ。目撃した学校生徒が職員に知らせ、身柄を取り押さえられて現行犯逮捕。強制わいせつ未遂罪で起訴され、懲役1年執行猶予3年の有罪判決を受けたが、「再犯の可能性は低い」として保護観察はなく、その後の監督指導は母親に一任されていた。

母親なりの責任感もあって、佐藤を見捨てて逃げることもできず、歪な“二人暮らし”を続けざるをえなかった。このときの柏崎市での犯歴がデータベースに反映されていなかったとして、新潟県警“登録漏れ”“捜査漏れ”は大きく問題視された。Fさんに対する略取・監禁は執行猶予中の犯行だった。

88年から89年にかけては東京・埼玉幼女連続殺害事件(宮崎勤事件)が発生していたことから照らし合わせても、司法の判断・見通しはやや甘かった。県警に至っては怠慢どころか職務倫理を放棄していたとしか思えない。

 

2000年の事件発覚当初、「一緒に暮らしていて9年以上も気付かないはずがない」と佐藤の母親も世間から共犯視されたが、家宅捜索で2階に近づいた形跡がないこと等が確認され、起訴には至らなかった。

また近隣住民らは家庭内暴力の存在をすでに聞き知っており、母親がそれまでSOSを全く発してこなかったわけではなかった。96年1月19日には、佐藤の精神的混乱やエスカレートする破壊行動や暴力について柏崎保健所へ相談に訪れていた。職員は家庭訪問を打診したが、そのときは息子の反発を怖れて勧めを断っていた。その後、病院への通院が試みられたが佐藤は看護師をはね飛ばすなど激しく抵抗したため、外来診療には母親が代理で訪れ、処方を受けるようになった。

(その後、無診察投薬により担当医師らは書類送検を受けたが、結果的に母親が信頼を寄せることができたこと、投薬により佐藤の衝動行為を鎮静させ危機的状況に置かれた少女を生還させたこと等から起訴猶予処分とされた。一方で、無診察処方という「安易な対応」があったために介入が遅れたとの批判もあり、医療現場にどこまで措置・判断させるのかといった課題をもたらした。)

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尚、「引きこもり」は、アメリカ精神医学会で“症状”を示す用語として使われたsocial withdrawalが元であり、90年代後半に精神科医斎藤環氏が著書『社会的引きこもり』などで精神障害とは切り離した文脈で「社会参加できない状態にある成人」を示す概念として用いた。本件および2000年5月に起きた西鉄バスジャック事件以降、その存在は社会的に広く認知されることとなる。

また日本でDV防止法が施行されるのは2001年からであり、今日に比べ、家庭内暴力は依然として「家庭の問題」とする風潮が残っていた点にも留意が必要である。現在のように相談窓口はなく、行政機関や警察も対応しようとはしなかったため、夫を失った佐藤の母親にとってもはや精神病院だけが“蜘蛛の糸”だったのである。

 

■裁判

■異例の求刑

2000年3月、未成年者略取(連れ去り)・逮捕監禁致傷で新潟地裁へ起訴された。傷害については、心的外傷後ストレス障害PTSD)については被害者への精神的負担が大きいとして起訴事実から除かれており、両下肢筋力低下・骨粗鬆などの肉体的ダメージに限られた。

上述の通り、9年2カ月という長期監禁事件は前代未聞であった。当時の量刑基準では、未成年者略取が3年~5年以下の懲役、逮捕監禁致傷が10年以下の懲役とされており、観念的競合(ひとつの行為が複数の罪状に当てはまる場合、より重い刑が適用されること)により、最大で“懲役10年”しか課すことができなかった。

しかし被害者が受けた甚大な苦痛に対して懲役10年は不適当とした新潟地検・和久本圭介検事は、苦肉の策として佐藤が被害者の衣類としてあてがった「キャミソール3枚の窃盗(約2400円相当)」で追起訴し、併合罪として最重刑の1.5倍にあたる懲役15年を求刑。それでも尚不足として、未決拘留日数を算入しないことを訴えた。

弁護側は、略取は「時効」(5年)として免訴を求め、追起訴となる窃盗に関しては違法性は低いとして、「この窃盗を以て5年加重とすべきではない。被害者の受けた傷については認めるが、社会の処罰感情と(司法判断と)は別だ」と罪刑の均衡を求めた。

第5回公判では、被害者の両親が証人として出廷。裁判に出廷する両親に対し、Fさんは「(佐藤と)同じ場所の空気を吸ってほしくない」と佐藤に対する嫌悪感を示し、「私の前から、すべての人の前から、いなくなってほしい」という強い処罰感情を持っていることを陳述した。被害者Fさんの嫌悪・忌避感情を知った佐藤は、裁判の最後に「被害者には申し訳ないことをした」と謝罪した。

■精神鑑定

佐藤は起訴事実を認めたため、刑事責任能力の有無(刑法第39条心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減刑する)が争点となった。

佐藤は「二十歳ごろから幻覚が見え、幻聴が聞こえる」と証言しており、「暗い所で蛇がとぐろを巻いて動いているのが見えた」「他人が自分のことを『働いていない』と噂しているのが聞こえた」などの具体的な症状を述べていた。

公判前の簡易鑑定では、自己愛性障害、強迫神経症はあるが分裂症は認められなかったが、裁判を一時中断して再鑑定が実施された。

担当した犯罪心理学者・小田晋氏は、分裂病人格障害、強迫性人格障害自己愛性人格障害なども認められるが、物事の道理判断を喪失しているわけではなく、弁識に従って行動する能力に影響があるとして、刑事責任能力に問題はないことを報告した。

判決審で榊裁判長は、「事件発覚をおそれ、被害者を隠し続けた行為は合理的と言え、心神耗弱はなかった」と判定している。

■判決

新潟地裁・榊五十雄裁判長は懲役14年と裁決し、「その犯情に照らして罪刑の均衡を考慮すると,被告人に対しては,逮捕監禁致傷罪の法定刑の範囲内では到底その適正妥当な量刑を行うことができないものと思料し,同罪の刑に法定の併合罪加重をした」と説明。被告人なりに反省の態度を示していること、人格障害が行動に影響を与えていること、帰りを待つ母親がいることなどを斟酌し、未決拘留日数(350日)を算入して14年とされた。

控訴審・東京高裁(山田利夫裁判長)では、法定主義的裁量により監禁と窃盗とを個別に量定。窃盗品は返還されており実害は大きくない比較的軽微な罪との判断から、加重の程度は小さいものとされ合わせて懲役11年とされた。

上告審・最高裁深澤武久裁判長)は、併合罪について「不文の法規範として、併合罪を構成する各罪についてあらかじめ個別的に刑を量定することを前提に、その個別的な刑の量定に関して一定の制約を課していると解するのは、相当でない」との実用解釈を示し、一審判決を支持して懲役14年で結審した。

2005年の刑法改正では、こうした司法判断の経緯や人権意識の高まりなどと照らし合わせ、未成年略取・誘拐が最長で懲役7年、逮捕監禁致傷罪が最長で懲役15年とされた。

■その後

 佐藤の収監中に母親は認知症で面会ができなくなり、その後、老人介護施設で死亡。収監先の千葉刑務所で病状を悪化させた佐藤は、周囲から壮絶な苛めを受けていると外部の人間に訴えていた(確認のしようはないが幻聴などの被害妄想も大いにあったと筆者は思う)。職員の指図を受けたり、他の囚人たちと同じ刑務作業に服するといった「他者との関わり」は、佐藤にはすでに困難となっていた。八王子医療刑務所へ移管されて障害者2級手帳を受け、2015年10月に刑期満了の出所後、50歳代半ばで千葉県のアパート自室で病死した。

被害女性はPTSDの治療や歩行訓練など1年かけてリハビリに励み、その後は、農作業の手伝いやサッカー観戦をしたこと、自動車免許の取得などが伝えられた。健やかな回復と平穏な生活を祈るばかりである。

 

 ■動機・背景について

本件は冒頭に挙げた“籠の鳥事件”とは異なり、①わいせつ目的ではない、②物理的暴力が繰り返された、③生活能力のない引きこもりによる犯行、といった特徴が挙げられる。

①について、佐藤本人の性的嗜好が関わっていることからわいせつ目的である可能性も高い。当時は強姦に親告罪が適用されていたため、保護者・本人の希望や被害者保護の観点などにより起訴内容から除かれたとも考えられるが、これ以上の詮索は行わない。

(強制わいせつ、強姦罪などは親告罪に当たり、被害者は報復のおそれや衆目に晒されること、告訴・裁判への精神的負担等から「泣き寝入り」を余儀なくされるケースが多かった。2017年の刑法改正により、性犯罪の多くが非親告罪化された。)

 

佐藤は略取・監禁の動機について、「話し相手が欲しかった」「友達が欲しかったから、かわいい女の子を探していた」と供述した。上で述べたように、ラジオやテレビの内容についてFさんを話し相手にして過ごしていた。

取調べ中はFさんに対する謝罪の念は認められず、監禁時を「あのころは良かった、楽しかった」と回顧していたという(柏崎日報2000年2月15日)。引きこもりの佐藤は、外に出て交友関係を築くのではなく、子ども部屋で“思い通りのともだち”をつくろうとしたのである。

その屈曲した欲動の背景には、子どもの頃から異常なこだわりによって周囲の理解が得られず、排外的ないじめを受けてきたこと、対人関係をうまく構築できなかったことが大きく関係している。だれとも理解し合えない、その心の隙間を埋めるイマジナリー・フレンドの役割を、生身の人間、それも自らの暴力で屈服させることができる“少女”へと求めた。

佐藤にとってテレビを見ながらFさんと交わした会話は“友愛”の根拠となろうが、人形のように相手を意のままの状態に置くことは蹂躙行為に他ならない。自らの社会性や共感性の欠如に対し、佐藤は暴力という手段で「正当化」することしかできなかった。彼に必要だったのは神経症を制御する治療や心を通わせることのできる相手だったには違いない。しかし当人が治療を拒否し、家族がその状態を受け入れて「社会的引きこもり」となってしまったことで、その回復を、周囲からのアプローチをより困難なものにした。

 

■所感

仮に発見があと数年遅れて、たとえば佐藤の母親が倒れるなどしていれば経済的破綻が生じていたし、Fさんが発見時より体調を悪化させていても病院で治療を受けることはできなかったであろう。9年2か月という期間を生還したことはまさしく奇跡としか言いようがない。

昔から劣悪な環境で育った犯罪者というのは多くいたが、本件や宮崎勤、あるいは綾瀬女子高生コンクリート事件など、家族関係の希薄さを感じさせる事件がこの時期から表面化した印象を持つ(あるいはメディアの切り取り方がよりワイドショー寄りになった時期とも言えるかもしれない)。

2018年5月にも新潟市内で小学生女児を狙った殺害遺棄事件が発生し、21年4月現在も係争中である。事件発生から30年が経った今も、平日の夕方は、子どもたちにとって文字通りの“逢魔が時”となったままだ。

防犯ブザーの配布なども普及したが、その多くは電池切れとなり、犯罪に巻き込まれた子どもが実際に役立てることは難しい。見送りパトロールなど防犯活動も一部にはなされているが、スクールバス導入や地域社会の防犯啓蒙、大人たちによる目配せは、子どもを狙う卑劣な犯罪が根絶する日まで促進していかねばならない。

 

 

 

 ・参考

少女監禁事件:ノートに書き続けた家族と自分の名前(心理学総合案内こころの散歩道)

東京豊島区女子高生誘拐事件【籠の鳥事件】

1965年に東京都豊島区内に発生した女子高生誘拐および“飼育”とも表現される半年間の同棲生活を続けた事件、通称“籠の鳥事件”について記す。

 

■事件の発生

 1965年11月25日の夜、東京都豊島区の共栄女子商業高校に通う3年生・Aさん(17)は、西武線椎名町駅から雨の中、家路を急いだ。部活の後、友人たちと書店や軽食に立ち寄ったため、帰りが遅くなってしまった。

角園九十九(40)は普段と異なるルートで家路につくと、偶然にもその少女を見つける。尾行を始めると、Aさんは折り畳み傘を差して手がふさがった状態に。角園は背後から接近すると、金属の靴ベラを首筋に当て、左腕を首に巻き付けた。

「騒ぐと殺す、傘を畳め」

身の危険を感じたAさんは抵抗せず男の指示に従う。角園はレインコートの中に彼女を抱え込み、人目に付きづらい道を選んで歩きながら、年齢や名前を確認。Aさんは男の質問に正直に答えた。バイクなどとすれ違うこともあったが発覚は免れ、角園はAさんを自宅アパートへと連れ込んだ。

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[by Michael Gaida, via Pixabay]

部屋に着くと角園はAさんに手錠をかけ、目と口に絆創膏を貼って騒げないようにすると、果物ナイフを突きつけて服を脱ぐように指示。強姦に及ぼうとするも、Aさんが痛がって拒絶したために断念し、絆創膏を外してナイフを首筋に当てながら口淫を強要した。

翌日、Aさんは「逃げないから」と手錠を外すよう懇願し、角園はそれを承諾。以来、角園はAさんに対する態度を軟化させ、度々強姦を試みたり愛撫や口淫で性欲を満たしはしたものの、彼女に対して丁寧に接するようになったとされる。

誘拐から4日目にはAさんを家に一人残して、角園は下着、ワンピース、オーバー等の衣類、女性向け雑誌、ミシンや布地を買い与えた。Aさんは身の危険を感じることも少なくなり、その後、約半年間に渡って角園の部屋で生活を共にすることとなる。

 

Aさんは帰りが遅れるときは家に連絡を入れる習慣があった。だがその晩は連絡もなく、終電の時間を過ぎてもAさんは帰らなかったことから、両親は長崎2丁目交番に通報した。しかし署員に、友達のところで外泊しているのではないか、とあしらわれ、後日届け出するように促された。翌日以降もAさんは帰宅することはなく、学校にも姿を現さなかった。

両親は目撃情報を求めて街頭にビラを掲示。Aさんは学校での成績は優秀で、既に製薬会社の内定も受けており、資格試験の結果を待ちわびていた時期だった。異性関係はなく、冬休みには友人たちとバイトや旅行の計画を立てていた。やがて「理由なき家出」としてマスコミにも報じられることとなる。

 

■欲望 

角園は1922(大正11)年、神奈川県生まれ。幼いときに母親を亡くし、11歳のときに父が再婚して、妹と2人の弟が生まれた。大戦中に一家は満州へ移住したが、成人していた角園は日本に残り、終戦時には海軍中尉となっている。戦後、一家は満州から引き揚げたが、父親が亡くなると実家とは疎遠になった。

戦後は新聞販売や出版業に就き、47年に結婚。女児を授かったがその後、離婚。定職にはつかなくなり、得意の英語を生かして外国人相手にフリーの観光ガイドをするなどして生計を立てていた。窃盗の前科があり、63年7月に府中刑務所を出所後、翻訳家・語学講師をしている「日野雅史」と詐称して豊島区長崎4丁目にアパートを借りた。

I'm lonely man, I have to find for a peach,and it must be white ripe peach.

(俺は孤独な男、白く熟した桃を見つけなければ)

 誘拐より遡ること3か月前の65年8月、角園は、ウィリアム・ワイラー監督のサイコスリラー映画『コレクター』を観て、強く感化されたことを日記に記している。63年に出版されたジョン・ファウルズの同名小説を原作とするもので、文学、映画ともに高い評価を得ており、後世のシリアルキラーたちに影響を与えたともいわれる。

コレクター (字幕版)

蝶採集を趣味とする孤独な男フレディは裕福な中産階級の美学生ミランダに密かに憧れを抱き、叶わぬことと知りながらも恋慕していた。サッカーくじで大金を得たフレディは郊外に別荘を買い、ミランダにクロロホルムを嗅がせて略取するとその地下室へ監禁する。

フレディは紳士的な振る舞いと贈り物で誠意を尽くせば、やがて彼女も心を開き、自分を愛するようになるのではないかと期待していた。ミランダに性暴力をしないと約束し、1か月という期限を設けて「逃亡しないこと」を同意させる。

角園はフレディの異常な“愛情”に激しく共感し、自らも“コレクション”を求めるようになる。近所に住む女性会社員に目を付け、「俺の生贄が帰ってきた。こんな夜中に。今のうちに楽しんでおくがいい。そのうち必ずモノにしてみせる」等と日記に書き、歪んだ性欲を募らせていった。しかし覗きで彼女の弛んだ腹を見て失望し、新たな獲物を探した。日記には「俺は若い女が大好きだ。また、豊満なのもいい」と当時の流行歌手の名を挙げている。

Aさんを目にすると角園はもはや衝動を抑えきれなくなった。だが強姦は遂げられず、かといってそのまま解放する訳にいかない。どうしたものか悩んだ末、やはりフレディのごとく彼女との相思相愛を求めたのだった。

(尚、事件とは無関係かもしれないが、少女性愛小説として知られるウラジミール・ナボコフ『ロリータ』は55年にフランスで出版、58年アメリカで話題となり、59年に邦訳。スタンリー・キューブリック監督による映画版は62年に公開されており、当時、角園が見聞きしていてもおかしくはない。)

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12月4日、アパートに風呂がなく、手配書の回っている銭湯に行くこともできずにいたため、二人は静岡県伊東のホテルに宿泊。宿帳には「日野雅史43歳・著述業」「みどり17歳」と記入。みどりは別れた妻との間に生まれた娘の名前であり、角園はAさんに「パパ」と呼ばせて父娘関係を偽装した。

その後、角園は風呂の設置を管理人に要望したが断られ、たらいを買ってきて行水をして凌いだ。管理人夫妻は少女との同棲を知っていたが、寄り添って歩くなどの仲睦まじい様子から角園の若い恋人だと思っていた。ままごとのような同棲生活は続き、66年1月半ばには合意のもと二人は性交を果たした。角園はAさんのために家具を買い揃え、「日野みどり」名義の口座をつくって貯金を始めた。

 

■ふたりの関係

同年5月18日、Aさんの母親が確認し、目白署は角園を逮捕、Aさんを無事保護した。目撃者からの通報により捜査・発覚したものであった。二人は「渋谷ハチ公前で偶然出会って親しくなった」旨の供述をしたが、後に二人による偽証であったことが判明。マスコミが報じた“理由なき家出”説に乗じた口裏合わせが行われていたのだ。なぜ逃亡せずに「異常な同棲」を半年に渡って続け、加害者を庇うような証言をしたのか、Aさんの“奇妙な言動”は注目を集めた。

 

Aさんの証言では、監禁当初は「逃げたら殺す」と脅迫されていたため逃げることができなかったが、角園から受けた口淫などの凌辱によって「もうこんな体では逃げて帰っても仕方がない」と考えるようになったという。角園に素性を明かしてしまっていたため、逃げたところで追いかけてくる。家族に迷惑をかけるくらいなら自分一人が犠牲になればいい、と諦観に至ってしまった。
また、「諦めはあったけれど、生活しているうちには楽しいこともあった」「服、下着、靴などを買ってもらった時には嬉しかった」「(角園がAさんのために)貯金しているのも知っていた」等とも述べており、半年の間、暴力と恐怖に占有され続けていた訳ではなく、怒りや憎しみ以外の複雑な感情があったことが伝えられている。

 

ストックホルム症候群

Aさんに生じた心理的変化、加害者に対して同情や好意を抱くことは、現在では“ストックホルム症候群”の名称で広く知られており、心的外傷後ストレス障害PTSD)の一種として捉えられている。

 Aさんの場合、生命の危機を覚える脅迫や強姦によって精神的衝撃を受け、たとえ逃げても元の生活には戻れないとする学習性無力感が生じていた。また角園の心情や願望について聞かされ、強姦目的ではあるが殺害が目的ではないとして、彼女自身も角園の意思に応じるようになった。やがて敵意や恐怖心が薄れ、生活を共にする中で好意・愛着に近い感情が生じたものと解釈される。

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本事件のおよそ8年後となる1973年8月23日、スウェーデンストックホルムにあるノルマルム広場の信用金庫を、仮釈放中のヤンエリック・オルソンがサブマシンガン武装襲撃。(当初9人、のちに解放して4人の)銀行員を人質に取り、行内に6日間に渡って立てこもった。テレビで生中継され、スウェーデン全国民が固唾を飲んで見守る大事件となった。

現金300万クローネ、服役中のクラーク・オロフソンの解放、銃と防弾チョッキ、逃亡の許可を要求。オロフソンは数多くの強盗殺人、警官殺し、脱獄などによって国内で最も知られたプロの犯罪者で、オルソンはかつて矯正施設で旧知の間柄だった。警察は要求の一部を受け入れてオロフソンを合流させると、オルソンは「さぁ、パーティーはこれからだ」と息巻いた。

一方で政府は、犯人に人質を連行されてはならない、と警察に厳命。警察は犯人たちが立てこもった金庫室を封鎖し、食料提供を拒否する兵糧攻めによって圧力をかけた。その後、金庫室に穴を開けて投降の説得を行う強硬策に出るも、犯人らは銃撃で抵抗。

27日、オルソンは安全に脱出させなければ人質を即座に射殺すると首相を脅迫。翌28日の人質とされているクリスティアン・エンマークさんからの電話内容はスウェーデン国民を更に驚かせた。電話口のエンマークさんは、「犯人は2人とも私たちに危害を加えません。それどころか我々は彼らを信頼しています。私が怖いのは、警察が攻撃することで私たちを死に至らしめることです。信じないかもしれませんが、ここでは万事うまくやっています」と身の安全を知らせるとともに、犯人に対する信頼を表明。さらに首相オロフ・パルメの強硬策に対して不満を表し、犯人たちと脱出することを許可するよう訴えた。

それは彼女一人の意思や犯人に脅迫されて出た言葉ではなく、人質の総意だった。以前にも、人質は犯人に同調するかのような行動を見せていた。あるときは警察の狙撃から犯人たちを守るために人質たちが身を挺して「盾」となった。犯人が人質にトイレの使用を認めた際には、人質に逃走を促したい警察の思惑に反して、全員が犯人のもとへ戻ったこと等が確認されている。

 

当時、スウェーデン警察のコンサルタントとして事件を担当した精神科医・犯罪学者ニルス・ベエロット教授は、事件の極限状態において被害者が犯人に共感や好意といった心理的つながりが生じていたことを指摘し、ノルマルム広場シンドロームストックホルム症候群と呼ばれることになる。

精神科医フランク・オックバーグ博士は、そうした被害者の変化を“幼児化”という言葉で説明している。事件の極限下で被害者は拘束などの制約によって自力で食事や会話、排せつができない状況に置かれる。そのとき犯人からまるで「親」さながらに「食事」や「行動許可」を与えられることで、被害者は自らの捕虜状態に「原初的なポジティブさ」「幼児的快楽」を獲得する。自分のいのちを握っているのは、ここで自分を生かしてくれているのは「犯人」なのだ、というアンビバレントな依存感情が生じるものとした。

1970年代以降、犯罪心理学者や精神科医らはこの現象に注目し、自己欺瞞的な心理制御のはたらきから、セルフ・マインドコントロールの一種ともされる。立てこもりやハイジャック事件、誘拐監禁、虐待についても類似した被害者の心理行動の変化・加害者への適応を報告した。

1996年12月に起きた在ペルー日本大使館立てこもり事件では、反政府組織14人が大使公邸で行われていた祝賀パーティーを襲撃・占拠し、当初621名が人質に捕られた。交渉に伴い、女性・高齢者ら人質の一部は順次解放されたが、最終的に残された72人は127日間もの監禁を受けた。だがテロリストは当初から人質殺害の意図は少なく、フジモリ政権の政治的転換と投獄された同胞450人の解放が目的とされた。

邸内では共にサッカーの試合をしたり、音楽を聴いたり、日本の政治構造のレクチャーを求めて議論を交わすこともあったという。事前に「武力突入があれば一緒に死んでもらう」と述べながらも、コマンドー部隊による武力突入の際、ゲリラ兵は捕虜に対して発砲を行わなかった。こうした犯人側が捕虜に対して抱く同情的感情について「リマ症候群」という言葉が用いられた。

人質の一人だった小倉英敬氏は、犯行グループは襲撃当初から「殺人を犯さないように心掛けていた点が顕著に見られた」と著書『封殺された対話 ペルー日本大使公邸占拠事件再考』で記している。そうした心理学用語以上に、邸内では人間的な関係が成立していたことを重視すべきと述べ、人質を道連れにしなかったのは「彼らが人間性を失っていなかったからである」と断言している。

 

2010年、ナターシャ・カンプシュさん(2006年オーストリア少女監禁の被害者)は、ガーディアン紙のインタビューに対して、ストックホルム症候群は「被害者が不合理な選択をした」とする非難を含んでいるとして、そのラベリングを拒絶した。むしろ犯人に同調すること・親和的態度を示すことで生命の危機を回避する生存戦略的コミュニケーションであると述べている。

 

■「その後」と所感

保護されたAさんは両親との再会で「お父さん、歳とったね。お母さん、痩せたのね。心配をかけてごめんなさい」と詫び、家に帰ってから泣き崩れたという。1966年11月10日、東京地裁は角園に懲役6年の判決を下し、その後、最高裁は上告を棄却、刑が確定した。

後年、ノンフィクション作家・松田美智子さんによる『女子高校生誘拐飼育事件』、それを原案とした和田勉監督の映画『完全なる飼育』などで再び話題となった。

 

角園は異常性欲に映画が“妄想的バイブル”化して犯行へと至った訳だが、その素地には身寄りがなく定職に就かない生活から社会的孤立感を深めていたことがある。医師ではないので診断を下すわけにはいかないが、彼が「英文による日記」というパーソナルな世界に耽溺していったことも、現実世界における自信のなさの表れを示すものと考えられ、窃視障害(のぞき)やストーキング行為という“間接的な接触”で性欲を発散させていた。そうした潜在的な異常性欲は今日でも比較的ポピュラーであり、結果的には加害者/被害者という対立概念を揺るがすような怪事件となったものの、どこで起きてもおかしくはない。

生還できたことは奇跡的な幸運だが、やはり彼女もその後の人生において多くの犠牲を払ったことは確かである。現在よりも野蛮な好奇や厳しい中傷(より女性差別的な)を受けたであろうこと、性暴力からの回復プログラムやメンタルケアなどの被害者支援が未熟であったろうこと、理解者の乏しさなどを考えると居たたまれない。

カンプシュさんの言葉を踏まえると、「ストックホルム症候群」の概念にも時代とともにステレオタイプや手垢のついた偏見や俗信が付随していることに気付かされる。精神疾患に類する病理分類や概念などもそうかもしれない。事件の枠組みを捉えるうえで有効な手段といえるが、被害者、加害者、あるいはその家族といった「個人」の人格や属性を紋切り型に決めつけてしまうおそれもある。たとえばペルーで人質とされた小倉さんの発言についても「ストックホルム症候群でテロリストを擁護しているのではないか」という捉えられ方もされかねないのである。それでは「友達のところに外泊してるのでは」とあしらった警察署員とそう変わらないではないか。

人間は想像より遥かに複雑な“生きる力”を備えている。

被害に遭われた方の心身の回復と安寧をお祈りいたします。

 

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参考

Natascha Kampusch: Inside the head of my torturer | Natascha Kampusch | The Guardian

Nils Bejerot, narkotikamissbruk, serievåld, socialpolitik, Norrmalmstorgsdramat,

人質と犯人の奇妙な共感、「ストックホルム症候群」事件から40年 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

■オワリナキアクム・淋しい中年の女子高生連れ去り事件

 

トリニダード・トバゴと長木谷麻美さん事件について

2021年3月19日、トリニダード・トバゴの未解決事件捜査班(TTPS)は、16年にクイーンズパークサバンナで遺体となって発見された日本人スティール・パン奏者・長木谷麻美さんの事件について捜査の終結を発表した。

www.guardian.co.tt

本稿は、トリニダード・トバゴの文化理解、長木谷さんの足跡と事件の風化阻止を目的に記すものである。

白状しておくと、筆者は生前の彼女と接点はなく、事件当時も知らなかった。先日、捜査終結の報を知って、彼女の曲を聴いて感銘を受けたことが執筆の動機である。

 

事件について触れる前に、日本では比較的なじみの薄いトリニダード・トバゴについて大まかな近現代史を追ってみたい。

 

トリニダード・トバゴの歴史とカーニバル

カリブ諸島最南端の島国トリニダード・トバゴ。南米ベネズエラ沿岸から僅か10キロに位置する。その名の通り、トリニダード島とトバゴ島の2島から成り、首都はトリニダード北部のポートオブスペイン。面積は5000平方キロ超(千葉県と同程度)、人口はおよそ140万人。インド系、アフリカ系がそれぞれ3~4割を占め、残り2割強を混血とその他が占める。英語が公用語とされ、宗教はキリスト教徒,ヒンドゥー教徒が多い。

石油や天然ガスの輸出により20世紀を通して工業化がすすめられ、他の西インド諸国に比べて高い一人当たりGDP(世界50位前後)を誇る。石油危機以来、エネルギー輸出依存を避けるため、国は産業の多角化を目指して製造業、ICT産業、観光産業にも注力している。国家的イベントであるカーニバルは、ブラジルのリオ、イタリアのヴェネチアと並び、世界三大カーニバルのひとつとされ、毎年3万人以上もの観光客が訪れる。

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Michel Tissot, Public domain, via wiki commons

古くは南米の北東部からやってきたカリブ語族系アメリカ先住民が僅かに定住し、「ハミングバードの土地」と呼ばれた。15世紀末以降、スペイン、オランダ、イギリス、フランスなどの欧州列強によって「南アメリカ大陸への玄関口」として島の領有権が争われた。植民統治者との抗争や伝染病の影響によって先住民は18世紀末にはほぼ一掃された。

 

1783年、スペイン領トリニダードはセデュラ勅令を公布し、ローマ・カトリック系に限り外国人の入植を厚遇で募った。直後にフランスやハイチでの革命の影響によって、およそ1500人だった人口は十年ほどで18000人にまで急激に増加。フランス人入植者らが、アフリカ系奴隷や有色人種・ムラート(白人と黒人の混血)を伴なって流れ込み、カカオやサトウキビのプランテーション経営が広がった。

このときフランス人によってキリスト教四旬節典礼暦に依拠する断食や禁欲を行う期間)とともに、謝肉祭(語源は中世ラテン語のcarnelevarium;肉を-除く)という仮面舞踏会や仮装パレードを催す慣習がもたらされている。彼らは禁欲期間の前に連日羽目を外し、島での数少ない娯楽とした。

 

アフリカ系奴隷や使用人たちは、“品行方正”な主人たちが仮面をつけて繰り広げる舞踏会での“珍奇な”行いを揶揄する歌をつくって仲間内で嘲笑った。4分の2拍子を基調とした極めてリズミカルな歌唱は、当初はクレオール(現地化された)のフランス語で、後に英語で歌われるようになりカリプソの起源となる。識字率の低かった奴隷にとって即興のプランテーション・ソングがコミュニケーションツールであり、メディアであり、人権すら持たない彼らに許されたささやかな武器であった。

 奴隷たちは舞踏会への参加を許されておらず、サトウキビの収穫祭を独自に催すようになる。西アフリカの仮面を装着し、太鼓や唱歌、ダンス、カリンダ(音楽やチャントに合わせたスティックファイティング)などが饗され、18世紀半ば以降、彼らの伝統や文化的ルーツを祝する行事Canboulayへと発展を遂げた。

白人が伝えた舞踏会の風習は、イギリス統治下においても引き継がれ、やがてその担い手を換えてカーニバルの源流となっていく。

 

1797年にイギリス軍がトリニダード島を占領、1814年に正式にイギリス領としたが、有色人種らの財産や人権はそのまま保護されることとなった。地権の移譲や割り当てによって各地に町が作られていく。1830年代にイギリスは奴隷制度を廃止、解放されたアフリカ系の人々はプランテーション作業を離れてポートオブスペイン以東の都市部へと移動した。

「大衆」となった有色人種は、かつて白人たちが祝った四旬節前の仮装パレードに参加するようになり、半裸で唄い踊りながら町へと繰り出した。そこにはクレオール(植民地生まれ。「宗主国生まれ」の対義)の白人やムラートも多く含まれていた。彼らは上流階層への罵詈雑言や下ネタを交えたカリプソを公然と披露し合い、カリンダのメンバーらはしばしば暴力的抗争へとエスカレートした。

 

屋内へと追いやられた上流階級の一部は人種的偏見や部族宗教めいた騒ぎに対する嫌悪感を露わにした。有色人種が担う“カーニバル”が公序良俗を乱し、自分たちに対する報復的暴動へとつながることに脅威を感じ、パレード廃止を求めたのである。Canboulay的特色を排除しようと、太鼓の禁止や猥褻・冒涜的な歌の禁止、挑発的なダンスやカリンダの禁止など、20世紀前半まで数々の規制を設けていった。

ポートオブスペインのバラック小屋に住む労働者階級たちはギャングと化し、“ジャメット”という蔑称を付された。フランス語のdiametre(直径)が語源とされ、言うなれば「地下階級」として蔑まれたのである。彼らが「主役」となった1860年代から90年代にかけての祝祭は「卑猥」「堕落」「暴力」が特徴とされ、ポートオブスペインで発行されたGazette紙には1888年の様子が次のように記されている。

(筆者訳)女装した男性バンドのほとんどは、朝から晩まで街全体をパレードし、卑猥なダブルミーニングを含んだ曲、そして下品極まりないスケベなダンスを延々と繰り返した。 

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上流階級の性的思慮深さとビクトリア朝の規範を嘲笑っている・・・白人たちが不平を言えば言うほど、“ジャメットたち”は一層開放的に、ますます卑猥になった。

 

奴隷解放以降、白人農園主たちは労働力の不足を補うための仕組みを必要とした。インド、中国、ポルトガルなどから「研修者」たちが数多く集められ、Indentured servitude;年季奉公(現在で言う「職業実習生制度」に近い)の契約を結ぶことによって合法的に、安い労働力を大量に確保したのだった。奴隷のような私有動産ではなく、最小限の人権が認められ、体罰などは禁止されていた。彼らは「研修」で僅かな賃金を得ることができたが、斡旋業者に渡航費用を「返済」しなければならず二重の搾取に苦しめられた。

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East Indian at Trinidad, Morin Felix, around1890

当初、雇用の契約期間は3年と定められ、満期となれば帰国が保証されていた。しかし雇用主の要望により期間は5年、10年へと書き換えられ、「帰国」から遠ざけられる代わりに僅かな「サトウキビ畑」をあてがわれることとなる。1845年から1917年までの間でおよそ15万人ものインド人移民が訪れ、そのほとんどが故郷へ戻ることはなかった。

彼らは19世紀半ばからイスラム太陰暦に基づくアーシューラー(宗教記念日)の催事として、Hosayという祭りを始めた。モスクを象ったTadjah(木や紙で作られた神輿や山車のような移動式装飾碑)を囲んで数日かけてパレードを行い、最後は海に流した。宗教的には寛容で、インド人コミュニティ全体でかつての故郷を懐かしむ行事とされた。インド北部をルーツとするタッサという打楽器アンサンブルを奏でながら行進した。

植民地政府はこれをCoolie Carnival(Coolieはアジア人移民労働者に対する蔑称)と呼び、1880年代にはCanboulayと同じく厳しい弾圧を加えることとなった。84年、サンフェルナンド近郊に6000人のインド人群衆が接近した際、解散を求めたイギリス警察は暴動法を適用して発砲を行い、9~22名もの死者、100人以上の負傷者を出した(インド人においてはムフラム虐殺、当局によればHosay暴動と認識される)。

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A Tadjah at Hosay, Dr. Ted Hill, during the 1950s.

トバゴ島はかつてのアフリカ系奴隷の子孫たちが人口の大半を占めたが、貧困の拡大と繰り返される暴動により政情は安定せず、1889年にイギリス軍によってトリニダードと併合された。

 

度重なる締め付けにより半ば暴動と化したカーニバルに対して、当局は“アメ”を与えることで“飼い慣らす”施策に転じる。19世紀末、ポートオブスペインの商人によって衣装や賞金が提供され、バンド大会の後援が行われたのだ。商業的インセンティブが提供されたことにより貧困層は暴徒化ではなく、より社会的に容認される音楽活動やMASと呼ばれる精巧な仮装へと関心を向けた。

下は1914年に米国ビクターによりレコーディングされたホワイトローズ・マスカレードバンドを率いたヘンリー・ジュリアンによるカリプソ最古の録音。当時はまだカリプソの定義すら存在しなかったが、カーニバルでは各地のバンドが検閲の目をかいくぐる隠喩によって世相を反映した歌詞や植民政治への批判を唄い、しのぎを削っていた。

  

エクステンポと呼ばれる音に乗せた即興スピーチでの競り合い(フリースタイル・ラップに近い)なども人気を博し、バンドコンテストによって中産階級たちはカーニバルへと戻った。

 

1919年、低賃金の慣行に対する港湾労働者のストライキに端を発し、他の業種組合や労働者を巻き込んでゼネスト(政治・経済的要求のための地域全体に及ぶ総産業ストライキ)へと拡大。西アフリカやインドといったエスニックグループの垣根を超え、階級意識の高まりが大団結を生んだ。砂糖価格の崩壊と農産業の低迷、大恐慌の影響などによって、その後も労働運動は拡大。のちのトリニダード労働党の基盤となるTWA(トリニダード労働者協会)が中核を担い、反植民地主義の礎となった。

その一方で、1930年代には石油輸出が進み、中産階級の成長など、社会構造に大きな変化をもたらしており、インド映画の上映などもこの時期に始まっている。

 

 ドラムを奪われたことでCanboulayは形態を変えてその精神は引き継がれた。バンド隊はタンブーバンブーと呼ばれる竹製の打楽器を手に町を練り歩いた。祭りの存続を擁護した有色人種の中産階級たちは「トリニダード人」として為政者との掛け合いを続けながら、バンドマン達の新たな闘争;音楽的技術革新を後押しした。

下のカリブ海情報番組の動画では、タンブーバンブーやカリンダ(スティックファイティング)の貴重な映像、スティールパン草創期の生き証人たちが登場する。

 

タンブーバンブーは、筒の長さや中に容れる水量を変えるなどして音階や音色を調整し、楽器としての進化を遂げていった。しかし地面に打ち付ける演奏スタイルから竹の耐久性が課題とされた。1937年、労働争議の活性化などを背景に、そのタンブーバンブーにも植民政府から規制が入る。しかしバンドマンたちは竹の武器を奪われたことで、より強い武器を手にすることになる。

1930年代末、竹規制と時を同じくして、スティール・パーカッションを用いたバンドが島内各地で同時多発的に登場した。すでに19世紀からブリキ缶や薬缶、鍬、植木鉢を打ち鳴らすといった代用品の試行錯誤もなされていた。39年には現在のカリプソモナークの前身となるカリプソキングが設立され、新たな時代の幕開けが予感されたのも束の間、第二次世界大戦の影響でカーニバルは禁止された。

戦中には米軍基地が置かれ、人種差別による衝突を引き起こしたものの、島内のインフラ面の改善などに寄与したとされる(独立まで駐留は続いた)。さらに米軍によって大量の55ガロンドラム缶がもたらされたことは、スティール・パンの進化と普及に無関係とはいえないだろう(戦前はビスケット缶が主流だった)。

 

金属は叩けば音が鳴ることは自明であり、スティール・パン開発には多くの島民が関わっているため、“オリジネーター”は明確には存在しない(どのバンドにも“パンの創始者”がいた)。だが戦後の本格的なパン・ムーヴメントを担ったパイオニアのひとりとして、1930年生まれのウィンストン“スプリー”サイモンの名が知られている。彼の幼少期にはすでに竹だけでなく、スティールを楽器に用いるバンドマンたちがいた。いわばスティール・ネイティブ世代である。

そのためスプリー自身がオリジネーターを名乗ったことはないが、一種の「伝説」が残されている。バンド仲間に貸した鍋がボコボコになって却ってきたので凹みを直していると、叩く箇所によって音色が異なることに気付いた。試行錯誤の調整によって、4音に奏で分けられるパンを作成したとされている。大戦中も改良は続けられ、43年までには9音、戦後復活したカーニバルでは14音を奏でる驚異のパフォーマンスで大きな喝采を集めた。

1950年、スティールバンド協会が設立され、革新的チューナー・エリオット“エリー”マネットらは51年にTrinidad All Steel Percussion Orchestra(TASPO)として英国BBCのフェスティバルに招待され、演奏を披露している。

 

 時代が進むとアフリカ的要素はヨーロッパ的表現と中和され、更なる洗練を遂げていった。戦後、カリブ人たちが旧宗主国に渡ってコミュニティを築いたことが契機となり、1950年代にはLord KitchenerやMighty Sparrowといった国際的なカリプソニアンが誕生している。またトリニダードのインド人コミュニティでは結婚式や催事にチャットニーという祝歌が広く普及し、一層の共同体意識が醸成された。

 

かつての植民地支配によって謝肉祭が祝われ、開催日を決定づけた起源ではあるものの、白人やキリスト教文化に“カーニバル”の本質が備わっていた訳ではない点に留意すべきである。元奴隷や年季労働者、その子孫たちが「担い手」となったことで、寓話・演劇を基に「仮装」の概念をMASへと拡張し、西アフリカやインドの祭礼由来のパーカッション、リズムコード、歌唱法がハイブリッドな進化を遂げて、人々をカーニバルへと駆り立てたのである。

いわば白人至上の植民地主義と有色人種の抵抗運動とが衝突し合い、年月をかけて互いの対立意識を擦り合わせながら、カーニバルに魂が吹き込まれたとも言える。

 

 

大戦後、イギリスは脱植民地化のプロセスを開始し、ウェストミンスター制の採用、普通選挙導入など民主化への歩みを進めた。

植民地支配からの決別を謳った政治史家エリック・ウィリアムズによる人民国家運動党(PNM)は産業基盤やエスニシティを基調としない教育改革や工業改革を訴える協調路線を唱えた。1956年、立法評議会の過半数を獲得。62年8月のトリニダード・トバゴ独立へと導き、81年まで長期安定政権を築いた。

インド系トリニダード人を代表する政治活動家バダセ・マラジは工員やトラック輸送から財を成し、バラモン階級の出自等からヒンドゥー・コミュニティで多くの支持を集めた。彼は1952年にMaha Sabaという政治結社を率い、インド人学校の設立などヒンドゥー復興運動を進め、のちに農業重視を綱領に掲げる民主労働党DLP)へと発展。71年にDLPは投票機の使用に抗議して総選挙をボイコットし事実上崩壊したものの、主にアフリカ系からの支持を集めるPNMと、インド系の支持を中心とした第2党によるその後の対立構図を形成した。

また独立前の1960年から、最後の英国総督を務めたソロモン・ホチョイは大英帝国下で初の非白人知事であったことも、(英国側の調整的意図はあったにせよ)同地の民族的多様性を象徴していると言えるだろう。

 

アメリ公民権運動と同時期の68年から70年にかけて、利権の多くは依然として外国資本や白人少数派が掌握していたことや、カナダでの人種的差別への抗議をきっかけに、ゲデス・グレンジャー(マカンダル・ダーガ)率いるNJAC全国共同行動委員会を中心とした反政府デモが過熱した(ブラックパワー運動)。

NJACメンバーのベイシル・デイヴィスが警察に殺害されたことで抗議は激化し、油田や運輸産業によるゼネストへの拡大のおそれから、ウィリアムズ首相は非常事態宣言を発令。反乱は封じられたが、政府はその後も汎アフリカ主義や野党への配慮を余儀なくされる。

 

1963年、カリプソニアンのロード・ショーティはカリプソのメロディに、チャットニー音楽で用いられるタッサ、ダンタル、ドーラクといったインドルーツの楽器を用いてテンポを上げ、アメリカ音楽のソウルの要素を加えたSocaへと昇華させた。その後、ヒップホップやレゲエシーンとも影響し合いながら進化を続け、祝祭的なムードからEDM(エレクトロニックダンスミュージック)界隈でも人気を博している。

またバンド、カリプソはそれまで男性に限られてきたが、大衆化と競技化によって女性カリプソニアン・カリプソローズがこの時期に登場している。

 

 

同じく63年、カーニバルに合わせてトリニダード公式のスティールパンコンペティション大会Panoramaが開始。企業スポンサーによりその規模は拡大し、数十から百人前後で構成されるラージオーケストラほか、ミドル、個人、子ども部門などがある。全国に大小200以上あるとされるバンドが大会を目指し、人気のカリプソなどを演奏する。

カーニバルやコンペティションに観光産業やダンスプロモーターが関わり、商業的な側面が増幅されたことでパフォーマンス水準は上がり、国際イベントとしての注目度も高まった。大掛かりなステージやサウンドシステムがより多くの人々を魅了する一方で、大衆の手によるMASやバンドへの注目は薄れつつあることも一部には指摘されている。

 

 

■事件概要

2016年2月10日、灰の水曜日。ポートオブスペインの街は、前夜までのカーニバルの喧騒から一転して静かな休日を迎えた。清掃員たちだけが慌ただしく街中を駆け回っていた。

朝の会見で、トリニダード・トバゴ警察スティーブン・ウィリアムズは42人の逮捕者を出したが、死者はなかったとして、カーニバルの成功を宣言した。前年には5名の死者を出し非難が挙がったが、治安回復の約束を守ったことを示した。

しかし9時30分頃、クイーンズパークサバンナ公園ではホームレスの男性が茂みの木の根元に何かを見つけて叫んだ。ジェフ・アダムス氏は「男はポッサムかイグアナだと思ったようだが、見てみると下半身のビキニだった」と発見時の様子を記者団に語った。発見されたのはカーニバル用の派手なビキニ衣装をまとった女性の遺体だった。

カーニバルに没頭したアダムス氏は日曜夜から公園で寝泊まりしていたが、「カーニバルの最中は色々なことが起こるので、夜中に女性が騒いでいたとしても気に留めなかっただろう」と述べた。右ひじに裂傷、腰にあざのような跡が見られ、「自分には強姦のように見えた」と語った。

 

女性の遺体は、1月7日に入国していた北海道札幌出身、横浜在住のスティールパン奏者・長木谷麻美さん(30)と判明。着用の黄色いカーニバル衣装はマスカレードチーム・レガシーのものだった。

麻美さんはかねてより定期的にトリニダードへ訪れおり、フェイズⅡパングルーヴ、PCSニトロゲン・シルバースターズといった名門チームで活動し、スティールパン大会Panoramaやカーニバルパレードにも演奏者として参加していた。

11日、解剖を行ったセントジェームスの法医学センター法医病理学者ヴァレリー・アレクサンドロフ博士は扼殺(手による絞殺)と断定。

彼女と一緒にいたと見られる男女数名が取調べを受けたが、全員釈放。19時以降の彼女の足取りは不明とされ、事件は長期化した。

 

事件発生を受けて、ポートオブスペイン市長レイモンド・ティム・キーは、“You have to let your imagination roll a bit and figure out was there any evidence of resistance or did alcohol control?(少しは頭を働かせてみろ。被害者が抵抗したり、酒を飲まされた証拠はあるのか?)」と述べ、vulgarity and lewdness(下品さと淫らさ)が性犯罪を誘発したとする見解を示し、「女性は虐待されないようにする責任がある」と発言。翌日、衣装を着けていなかったと聞いており誤った想像による発言だった、と弁明した。

これに対し、女性団体らは、市長による「被害者非難」、「加害者擁護」とも取れるセカンドレイプ発言を厳しく非難。「公職に適さない」として、市長発言から数時間でオンライン請願を開始し、金曜までに8000を超える辞職嘆願署名を集めた。

キース・ロウリー首相は「“謝罪”は依然ミソジニーに満ちており、犠牲者に非があるという彼の主張を強化している」「市長は哀悼の意を表明することすらしないまま、彼女の死に関するスキャンダラスな憶測を提供し続けた」と遺憾を表明した。キー市長は辞任し、ケロン・バレンタイン副市長が後任となった。その後の検証では暴行を受けた決定的証拠は得られなかったと報告された。

 

2017年、検死解剖を行ったアレクサンドロフ博士は西インド大学セントオーガスティン校での講演で事件について触れた。絞殺跡からは加害者が左利きであったこと、彼女の頬に残された「噛み跡」から加害者は前歯が4~6本かけていたことを明らかにした。この情報に基づいて、10人の容疑者が釈放されたとしている。

 

麻美さんは日本でプロのパン奏者としてフェスティバル出演やライブ活動、ワークショップのほか、医療従事者として働きながらお金を貯め、2011年からは毎シーズン、トリニダードへ通っていた。彼女が単なる一観光客ではなく、何年にもわたってトリニダードの音楽、環境を愛し、地元の人々とも信頼関係を築いていたことが報じられると、現地人や演奏家、彼女と同じようにトリニダード愛する人々の間により大きな悲しみを与えた。

 

彼女はマスター原田芳宏氏率いるPanorama Steel Orchestraのフロントマンとして活躍した。 2015年8月、トリニダードで行われた初のスティールパン世界大会International conference and Panoramaにアジアで唯一の招聘を受け、地元チームや世界の強豪を相手に堂々のパフォーマンスを見せた。

また2009年・10年とPanorama現地大会で優勝した名門Silver Stars Steel Orchestraに魅了され、2012年から活動に参加していた。下の動画はダイナミックなパフォーマンスで7位入賞を果たした2016年大会。

www.youtube.com

事件の2日後、シルバースターズは追悼の演奏とメッセージを発表し、麻美さんへの想いを伝えた。明るい笑顔や仲間たちとの親愛の様子を見るだけでも、トリニダード・トバゴは彼女にとって“第二の故郷”だったことが伝わってくる。

Asami had a special relationship with each and every person in the band. We always anticipated her arrival for every carnival season and just before you know it that bright smile entered the pan yard. There are so many great memories over the years that we will cherish. We love and miss you Asami, it will never be the same without you.(Silver StarsのFacebook、2016年2月12日投稿より部分引用)

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Asami Nagakiya with silver stars family[facebook

(筆者訳)麻美はバンドの一人一人と特別な関係を築きました。明るい笑顔が私たちの仲間に加わってからあっという間に、カーニバルシーズン毎の彼女の到着を待ち望むようになりました。私たちは彼女と過ごしたたくさんの素晴らしい思い出をこれからも大切にしていきます。私たちはあなたを愛していますよ、麻美、もういないだなんて考えられません。

 

2021年3月19日、トリニダード・トバゴ未解決事件捜査班(TTPS)は、長木谷麻美さん殺害の容疑者についてDavid Allen(31)と特定したことを発表。被疑者死亡により捜査終結が報告された。検察局長(DPP)ロジェ・ガスパールは調査が徹底的に行われたことに満足を表明した。

David Allenは、麻美さん殺害からおよそ10か月後の16年12月12日、ウッドブルック・アリアピタアベニューにあるカジノ・レストランで強盗事件を起こし、現場から逃走の際、非番だった警察官と銃撃戦となり死亡していた。男の顔は化粧が凝らされ、ぴったりとした服を着て女装していた。

Allenには遡って前科もあった。2004年の18歳当時、放浪者になりすまして、ポートオブスペインでナイトクラブ帰りの電気技術者を襲い、窃盗を試みた。しかし抵抗の末、技術者は腹部を撃たれ、病院に運ばれたが死亡。殺人罪により起訴された。2012年、過失致死が認められ、(それまでの収監期間8年に加えて)4年6カ月の判決を受けた。

 

死人に口なしで、いかような証拠が被疑者を指示していたかは報じられなかったが(警察発表では、あらゆる証拠がAllenが犯人であることを示したとされた)、事件は解決を見た。

刑期を終えたばかりのAllenは久々のカーニバルの熱気を浴びて興奮していただろう。その目には、麻美さんが東アジアからカーニバルにやってきた観光客に映ったかもしれない。彼が亡くなったときの女装が犯罪のために施された扮装だったのか、彼の性的アイデンティティを示すものかは不明だが、「仮装カーニバル」との符合にも思えて妙に物悲しい。

 

 

私たちはもう二度と彼女の演奏を直接目にすることはできないが、インターネット上にいくつかの演奏や仲間たちとの写真が今もアクセス可能な状態で残されている。多くの哀悼メッセージや楽曲が、彼女のために捧げられている。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

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参考 

Homeless man discovers body of Japanese female pannist - Trinidad Guardian

TRINISOCA.COM - Trinidad and Tobago Soca, Calypso and Carnival

TRINBAGOPAN.COM - "Out of pain this culture was born"

National Archives of Trinidad and Tobago, Nikita Budree, 冥界のカーニバル‐トリニダードのジャメット・カーニバル 

・Trinicenter.com, Corey Gilkes, トリニダードカーニバル アフリカ-カリブ海の抵抗

Caribbean Beat

マイソールの黒熊/ペトロパブロフスク羆事件/秋田八幡平クマ牧場事件

本稿では、インド「マイソールの黒熊」、ロシア・カムチャッカ半島で起きた「ペトロパブロフスク羆事件」、「秋田八幡平クマ牧場事件」ほか、熊によるいくつかの襲撃事件などを見ていきたい。

 

近年、日本国内では熊の遭遇事案は増加傾向とも言われ、被害防止目的での捕獲頭数も増えている。環境省によれば、熊類による死亡者数は公開されている1980年~2007年までの27年間で28件と「稀」ではあるが、年度によって増減はあるものの人身被害は1990年代半ばからやや増加傾向にある。

生息数の多い北海道、東北地方に限らず、近年では東北地方以外での出没や人身被害が増える年も見られる。主食の凶作などによって生息地を移動したり、山を下りて人里へ接近するためと考えられる。

また河川を導線としながら市街地にまで出没するケースや、熊類が警戒する狼や野犬が里山から消失したこと、春先に行われる一斉駆除が禁止された地域などで個体数が増えていることなど、旧来との環境の変化が熊の動態に影響を与えているとの指摘もある。

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近年の熊類による人身被害件数[環境省

国内では、山菜取りや茸狩り、タケノコ狩りや渓流釣りといった場面で遭遇するケースが多数を占める。普段は立ち入らない場所であっても、春や秋には山の恵みを求めて人々が近づくようになる。それもまた自然の営みといえ、危険に身を晒す行為と非難することはできない。

たとえ都会暮らしであっても、キャンプや登山などレジャーで山奥へ訪れることもあれば、霊場や温泉巡り、知床や紀伊といった世界遺産などへ旅行する機会もあるかもしれない。実際に熊に殺害される人は多くないかもしれないが、接近するリスクというのは存外に多いように思われる。

熊について何も知らないでは済まされない。いくつか過去に起きた人身被害から危険性だけでなく、その習性を知っておくことも無益ではないだろう。 

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マイソールの黒熊

世界有数の被害を出したシリアルキラーとして、1957年、インドで報告されたナマケグマによる襲撃が知られている。

ナマケグマはインド、ネパール、バングラディシュ等南アジアに生息する種で、体長140~190センチ、体重80~145キロ(メスは55~90キロ)程と、熊としてはやや小柄な部類に属する。草原や湿地の常緑樹林などに生息し、低木にぶら下がる姿がナマケモノに似ていたことがその名の由来である。

シロアリを主食とし、採食のために顎や口・舌、蟻塚を掘るための長く湾曲した硬い爪が発達している。昆虫や動物の死骸、花や果実、蜂蜜なども食べる雑食性。環境変化等により現在は絶滅の危険が増大している(絶滅危惧Ⅱ類)。

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Melursus ursinus[by JudaM, via Pixabay]

インド生まれの英国人作家兼ハンターであるケネス・アンダーソンが討伐の依頼を受け、『Man-Eaters and Jungle Killers』(1957)にその追跡記を残している(ナマケグマのほかに、42人を襲った豹、虎、象などさまざまなマンイーター達との出会いやジャングルでの冒険生活を綴っている)。

 

インド南部に位置するマイソール州アルシケア近郊の岩場の丘にナマケグマが巣穴をつくり、日没とともに村の落花生畑や牧草地へ頻繁に出没するようになった。夜21時頃、男性(22)が神社近くの道でナマケグマの襲撃に遭い絶命した。

通りにはイチジクの木が植えられており、ナマケグマがその倒木を漁っていたと見られ、男性は気付かずに接近して襲われたと考えられた。長く強靭な爪によって、顔を砕かれていた。アンダーソンは周辺の畑や丘の巣穴を捜索したが熊を発見することができなかった。

1か月後、サクレパトナの町で薪割りの職人2人が襲撃され、1人は殺害された。チクマガルル地区の森林官はアンダーソンに討伐を要請。彼が到着するまでの間にも、森林警備隊や牛の放牧者らに被害は拡大していた。ヘルパーたちに同行を拒否されるも、アンダーソンはジャングルの奥地へと捜索を続け、更なる犠牲者を発見することになる。

アンダーソンはナマケグマの性格について「興奮しやすく、警戒心が強く、気性が荒い」と説明している。その名に反して夜間の行動範囲は広く、調査によれば周辺で少なくとも36人が次々と襲撃されており、12人が殺害され、内3人は食害にあっていた。ほとんどの犠牲者が、強靭な爪と歯で顔面を削り取られて損傷を負い、生き延びた者も目や鼻を失った。

かつてナマケグマは大道芸に用いられるなど、人に危害を与える習性はない温厚な生き物と考えられてきた。地元民たちは“かつて人間に奪われた仔熊を取り返そうと復讐しにきた”と考え、襲撃を恐れたが、アンダーソンはかつて人間から危害を受けたことがある個体ではないかと推察した。

ジャングルで負傷したアンダーソンは、しばしの休養を要したがその間も被害は続いた。しかし「最新の捕食地」が把握できたことによって、新たな策を講じる。捕食地一帯を見渡せる位置に身を隠し、6時間もの待ち伏せの末、ナマケグマを仕留めることに成功したのだった。

 

36人襲撃が単一個体による犯行かについて明確な証拠はなく、アンダーソンの調査報告に頼るほかないものの、複数頭であったとしても甚大な被害である。背景としては生息する岩場の周囲に人々が開放農地を広げたことで熊の安定的餌場となってしまったことや、小柄な体格で人目に付きづらいことも不用意な接近につながったと考えられる。

ナマケグマにとって見れば「自分の餌場にヒトが頻繁に近寄ってくる」ように映っていたのかもしれない。

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■近年の国内での事案

羅臼・お姉ちゃんには手を出すな!

2008年7月、知床国立公園の内陸部にある野営場で発生した羆襲撃事件である。野営場とは、自然の醍醐味を味わえるキャンプ地のこと。レジャーキャンプ施設とは異なり、トイレと水場だけといった簡素な設備、管理人は常駐せず夜間不在か点検見回りのみの野営場もある。

 

7月20日午前4時ごろ、北海道羅臼町にある羅臼温泉野営場に羆が現れ、北見市から来ていた家族のテントを襲った。

羆はテントを外から押し続けたが、テント内で就寝中だった女子中学生(12)は寝ぼけて、それを「妹(10)のいたずら」と勘違い。内側から手で押し返したがあまりにしつこいのでキックで応戦すると、羆は笹薮に逃亡した。

テントは裂けたが、中学生らに怪我はなかった。そばにいた母(40)には幕の向こうに羆の影が見えていた。

当時は場内にテント二十数張り、約50人が利用しており、目撃者もいた。最初は鹿の親子を追っていたが、匂いを嗅ぐような仕草でテントに接近したという。体重70キロ前後の若い羆とみられる(2008年7月21日、朝日新聞)。

 

羅臼イヌ連続襲撃

知床は世界自然遺産にも登録され、多くの観光客が訪れる。周辺部には漁業や観光に携わって生活する人々の暮らしもある。

2018年以降、同じ羅臼町内の4か所(20キロ圏内)で5匹の外飼いされていた犬が食い殺される連続被害も起きている。なかには犬用の鎖が引きちぎられて連れ去れら埋められていたものもあった。残された糞のDNAから同一の雄羆による襲撃と断定。三毛別事件ではないが、吠えられて反射的に殺めた「犬の味」を「学習」してしまい、偏食しているようにも見受けられる。

羆は狼のように獲物を追いかけて狩猟する習性はあまりないが、優れた嗅覚によって動物の死骸を見つけて捕食することは知られている。自然死した動物だけでなく、他の獣が捕食した残骸やハンターが撃ち落としてその場に残したものも彼らの糧となる。狩猟犬であれば抗戦できたやもしれないが、鎖につながれた飼い犬では羆にとっては赤子同然であろう。

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[by Jerzy Górecki via Pixabay]
・池田町・ヒツジ連続襲撃

飼い犬だけではない。道東の十勝地方、池田町にある羊牧場では、2018年6月から8月末にかけて放牧地(様舞)に放したメス480頭のうち70頭がいなくなり、その後に放したオス10頭も姿を消した。

喉を抉られた死骸や鼻血を出して泥まみれとなった羊のほか、羆の足跡も見つかった。牧場の社長は「首のあたりの骨も嚙みくだかれていた」「狐とかではない、熊の被害ではないか」と話した。

池田町はハンターに駆除を要請し、放牧地近くの林道に2.5メートル四方、高さ0.8メートルの箱罠を設置。9月5日から鹿肉や蜂蜜などを置いておびき寄せ、8日、体長170センチ重さ157キロの5歳前後の雄が捕獲され、駆除された。現場に残された足跡ともほぼ一致したが、襲撃が一頭によるものかは不明。その後も警戒が続けられた。

 

 ・上高地・キャンプ場襲撃

同じくキャンプ場で起きた襲撃事件として、2020年8月には長野県上高地でのツキノワグマによる危害が報告されている。本州・四国に生息するツキノワグマは羆に比べて小柄で、雑食ではあるがやや草食性が高いといわれる。

事件のあった小梨平野営場はビジターセンターや宿泊施設、バーベキュー場等も備える人気施設であり、シーズンには多くの利用者で賑わう。日本アルプス観光の玄関口でもあり、周囲には古くから続くホテルや食堂も多い、いわば人間にとっては観光地といえる場所である。

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河童橋周辺には多くの人が訪れる [by kasahariman via Pixabay]

被害に遭ったのは松本市から来た50歳代女性。キャンプ場で山仲間と合流し、翌朝には登山をする予定で、8日18時頃にソロテントで就寝した。23時半ごろ、テントを引っ張る気配に目を覚ますと、幕の向こうに大きな影が立ち上がった。一瞬にしてテントが引き裂かれ、女性の右膝に衝撃が走った。

物凄い力でテントごと20メートルほど引きづられた後、静かになったことを確認し、女性は自力でテントから近くのトイレに逃げ込み、助けを呼んだという。爪で引っ掛かれたような約8センチの裂傷が2列あり、縫合手術を受けた。片付けをした山仲間によれば、ザックや衣類が荒らされ、レトルトカレーなど持参した食料がきれいに食べられていたという。

13日、女性を襲ったと見られるツキノワグマは捕獲された(2020年8月21日、朝日新聞)。連日の雨によって餌が不足がちとなっていたこと、若熊で警戒心が低かったことなどが背景と見られている。

 

こうした人や動物の群れを恐れない熊の襲撃に対して対処の取りようはあるのだろうか。他のキャンパーではなく就寝中の彼女たちを襲ったことに理由はあったのか。たとえ周囲に人がいるキャンプ場であってもそこが熊の生息地である以上、常に接触するリスクが伴うことを忘れてはならない。

犬や羊にしても、その手口からして食料にするためだけに襲った訳ではなく、きっかけは「ワンダーフォーゲル部事件」のように、逃げる相手を追いかけた、悲鳴を聞いて反射的に攻撃したような背景があったものと推察される。一度“獲物”と見なすとそればかりを襲う羆の偏食的習性が被害を拡大させたケースである。

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ペトロパブロフスク羆事件

2011年8月13日、ロシア・カムチャッカ半島東部にあるペトロパブロフスク郊外のパラトゥンカ川周辺で発生した凄惨な事件。

前記事、カムチャッカ半島南端部のクリル湖での襲撃事件でも触れたが、カムチャッカ半島は世界有数の羆生息圏とされており、その個体数は半島全域でおよそ18000頭にも上る。

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音楽学校を卒業し、数日前に運転免許も取得したオルガ・モスカヨワさん(19)は、継父イゴール・ツィガネンコフさん(45)と一緒に記念のキャンプ旅行に訪れていた。
正午頃、河原でイゴールさんが休んでいると、突然、背の高く生い茂った葦の中から巨大な羆が襲いかかって来た。イゴールさんは抵抗する間もなく一撃で首の骨を折られ、さらに頭蓋骨を圧し割られて即死。

その様子を近くで目撃したオルガさんは、直ぐにその場から逃げようと試みたが、彼女の存在に気付いた羆の反応の方が素早かった(最大速度は時速50キロ程)。70ヤード程逃げた地点で、彼女は足を攻撃され身動きが取れなくなった。そして羆はまだ生きている彼女の体を下半身から喰い始める。

 

絶望的な状況下で、彼女は手持ちの携帯電話で母親に助けを求めた。
母タティアナさんが電話に出ると、娘の声。
『ママ!羆が私を食べている!ひどく痛い!たすけて!』
当初、母親は娘の悪いジョークだと思ったものの、近くで獣の息遣いと咀嚼音が聞こえたことで現実と理解し、気が動転しながらも夫イゴールさんの携帯電話に掛けた。

しかしイゴールさんは既に息絶えており、応答はない。

タティアナさんは直ぐにキャンプ地近くのテルマルニーの警察に通報。通報の最中、オルガさんからタティアナさんに二度目の電話が掛かってきた。
「羆が戻ってきた・・・3頭の仔熊を連れて・・・彼らが私を食べている・・・」
と弱々しい声で自身の差し迫った状況を語り、一度は去った羆に再び襲われていることを知らせ、電話が途切れてしまった。

タティアナさんは警察に事情を伝え、救援を急ぐよう要請し、夫の親族にも様子を見に行って欲しい旨を連絡した。


それから数分後、タティアナさんの許へオルガさんから三度目の着信。はじめの電話からすでに一時間近くが経過していた。
「もう噛まれていない・・・痛みも感じなくなった・・・今までごめんなさい。愛してる」
と自らの死を悟ったかのように慈悲を求め、それが母親が最後に聞いた娘の声となった。

最後の電話から約30分後、イゴールさんの兄アンドレイさんは現地に到着。彼が目にした物は、羆に貪られる兄の亡骸と、食害され無惨にも亡骸と化した姪の姿だった。
直ぐに、警察と救急を呼び、地元レンジャーに羆退治を要請。翌14日、ハンター6人が猟犬を連れて到着し、母羆1頭と小熊3頭は射殺された。

タティアナさんは娘について「娘はとても元気な子でした。陽気で、親しみやすく、温かい人でした」「恋人のステパンともうまくいっていて、順風満帆に思えたのに」と語った。9月からは幼稚園の仕事に就くことが決まっていた。

亡くなったオルガさんとイゴールさんは17日に埋葬された。

 

なぜ母羆がイゴールさんを襲ったのかははっきりしていないが、仔熊を連れていたことから警戒心が極めて強かったと推察され、あるいは2人が立ち入った場所は「石狩沼田幌新事件」のように羆が“保存食”を埋めていたエリアだったのかもしれない。

カムチャッカ地方では、毎年数多くの遭遇・熊害は報告されるものの羆の襲撃による死者は平均すると年間1人ほどとされる。

*****

 

■秋田八幡平クマ牧場事件

2012年4月、秋田県鹿角市の秋田八幡平クマ牧場で従業員2人が熊に襲われて死亡した事件。これまで幾度か「熊害」という語句を用いてきたが、この事件は人災であり、熊も犠牲者・被害者と言えるケースである。

八幡平クマ牧場は1987年に開業され、当時はエゾヒグマのほかツキノワグマ、コディアックヒグマなど合わせて29頭の熊類が飼育されており、利用者が餌付け体験などを行うこともできる施設だった。

4月20日8時頃、冬期閉鎖中のクマ牧場では、春の営業再開に向けて3名の従業員が作業中だった。

クマ牧場内は自由に動ける運動場3区画と「冬眠房」に区切られていた。女性従業員は餌場に餌を置き、熊を運動場に放つ為に冬眠房を開けた。運動場の壁は高さが4.5メートルあり、熊が登れないようになっていた。

しかしこのとき、運動場の1区画の壁際に処理しきれず堆積したままの雪が残っていた。9時頃、運動場に放たれた羆のうち6頭が雪山を利用して脱走。雪山は高さ約3.3メートルにもなっていた。
餌場で作業していた従業員・舘花タケさん(75)は、羆の脱走に気付いて「熊が逃げ出した」と除雪作業中の男性従業員に叫び知らせた。男性従業員はタケさんの叫び声で瞬時に事態を把握したが、駆け付けたときには羆がタケさんを押し倒し、噛み付いている状態だった。しかしそんな状況にも奥通路で作業中のはずのもう一名の従業員・舘花タチさん(69)は姿を見せず、最悪の事態も想定された。

男性従業員は、急ぎ事務所に戻り、牧場経営者に電話連絡。その足で近隣に住む鹿角市猟友会・青澤さん宅へ事態を知らせに向かった。
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10時5分頃、牧場経営者は警察と救急に通報し、現場に到着。その後、男性従業員、青澤さんとも合流したが、熊がどこにいるか分からないため迂闊に場内に立ち入ることができない。やや高台に位置する国道側に上った青澤さんが場内を見渡すと、2頭の羆を発見。餌でも奪い合うかのように2つの遺体を引っ張り合っていた。

その後、警察隊も到着したが危険と判断し、猟友会に緊急救助を要請。脱走熊に対する射殺許可要請も行われた。
11時半頃、猟友会の熊撃ちの名人・斉藤良悦さん(57)らも現地に到着。猟友会メンバーの多くも自然のツキノワグマを相手にしたことはあれど、人に慣れている羆などと対するのは初めてで戸惑いがあったという。正午頃に射殺許可が発令、猟友会メンバーは駆除に奔走する。

一匹目は、脱走原因になったとされる雪山近くの外通路におり、体長は約1.5メートル、体重は約250キロ程の大きさだった。
体長約2メートル、重さ300キロ近くと見られる羆2頭を発見。
手摺で銃身を支えながら銃弾を放って一匹の射殺に成功するも、もう一方の羆が仁王立ちの態勢で威嚇。急ぎ、斉藤さんは装弾し、頭部を一撃、3匹目を仕留めた。

餌場付近に4匹目の羆を確認。一斉射撃では眩暈などのリスクが起こるため、数人が一拍置きに連続して銃弾を浴びせ、これを駆除。
同様に5匹目も一拍置きに銃弾を浴びせ、手応えを感じたが、羆は踵を返して餌場に隠れた。
そこで、斉藤さんらは餌場を包囲したが、羆は中から出て来ない。無理に進むことは危険と判断し、斉藤さんがショベルカーを動員して餌場の外壁を強引に剥がした。中では5匹目が既に絶命していた。
しかしその亡骸の近くに、6匹目の羆が潜んでおり、近づいた斉藤さんを威嚇。その距離、5メートル程だった。
斉藤さんが目を見開き睨みを利かせると、羆は一瞬怯み、後ずさる様子からすぐに飛び掛かっては来ないと判断した斉藤さんは、急いでショベルカーに乗込み、半身を乗り出す姿勢でライフルを構えると、一閃で決着をつけた。

脱走した6頭の駆除が終わる頃には16時近くとなっていた。

襲撃を受けた従業員2名は病院に搬送されたがすでに絶命。死因は頸椎損傷、外傷性ショックとされた。
22日に羆が解体解剖され、胃中からは、握り拳程度の肉片、毛髪、捲れた皮膚、胃液で黄濁したタイツなどが確認された。

 

事件後、クマ牧場は経営難で秋には閉園が決まっていたことが判明。

現地視察を行ったNPO団体の報告などによれば、牧場では個体管理がなされておらず、譲渡先を探すにしても困難な状況だとされた。

給餌量自体に問題なかったが、群れの中で強い個体が弱い個体の採餌を妨害するなど虐げていたことも観察され、著しく痩せた個体も数頭見られたという。全体に老朽化が進み、給水の循環がないため汚れた箇所や汚水溜まりも見られ、獣舎の一部には破壊された痕跡もあった。閉園予定にも拘らず避妊薬等の繁殖制限はされておらず、無計画に繁殖させていたと見られる。管理責任者は、熊の生態を知らず、個体の健康管理・福祉という概念がなかったとされ、いわば“ネグレクト”に近いような状態だった。

特定動物の管轄は県であるため、市に立入権限はなく状況把握に乏しかったこと、また飼養許可基準の甘さや今回のような「廃業」や脱走といった事態に備えた取り決めがなされていない点も問題視された。

 

6月9日、秋田県警は牧場経営者・長崎貞之進容疑者(68)と元従業員・舘花清美容疑者(69)を業務上過失致死の疑いで逮捕。

管理者による適切な業務指示が行われず、安全措置を怠ったために事故を招いたとして刑事事件となったが、被害者遺族が厳罰を求めなかったことから略式起訴とされた。元従業員は雪山の放置について、「熊のプールの近くだからすぐに解けるものと思った」と話した。
業務上過失致死により罰金50万円の略式命令が下され、共に即日納付して釈放された。

 

クマ牧場は閉園が6月に早まり、引取手探しは難航したが、自然保護団体等により支援金・物資が集められ、県非常勤職員の派遣により飼育は継続された。

2014年、秋田県は3億円超を出資し、北秋田市・阿仁マタギの里内の熊牧場を「くまくま園」として拡充リニューアルし、引き取り手に苦慮した熊たちも移送され、大切に飼養されている。

 

飼養された熊たちは山で生きることができない。2004年に閉園した札幌市・定山渓クマ牧場では引取手のない羆がそのまま残され、その後、衛生管理も施されない劣悪な飼育環境が発覚して問題視されていた。動物の生存権をも考えさせられる事件である。

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■参考

ヒグマの会Top

地球生物会議ALIVEのホームページへようこそ!

Косолапые людоеды — Блоги — Эхо Москвы, 16.08.2011

【この人は誰?】千丈寺湖殺人死体遺棄事件【青野ダム】

2011(平成23)年2月14日、兵庫県三田市千丈寺湖でコンクリート塊の中から人間の頭部の骨が発見された。

www.police.pref.hyogo.lg.jp

朝10時45分頃、釣りに来ていた男子高校生(16)が、岸辺にランドセル大のコンクリート塊を見つけ、中から人間の頭蓋骨のような目鼻の部分が露出していたことから110番通報した。

湖を管理する兵庫県宝塚土木事務所によれば、当時は、少雨による渇水状態で、満水時から約4.5メートルの水位低下が確認されている。普段は水没している旧県道・曽地中三田線が見えるほどに干上がっていた。

塊の大きさは26×35×17センチの直方体だったとされる。頭から上顎にかけての骨がむき出しの状態で、全体的に崩れていた。骨の表面は茶色く変色しており、死後1~5年ほど経過していると見られ、コンクリートには髪の毛のようなものも残っていた。付近から左足首、頸椎の骨も発見されたが、その他胴体は見つかっていない。

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 千丈寺湖周辺と発見現場(赤印)   [google map]

湖東部にある「黒郷橋」の北詰付近で発見されたことから、三田署は橋から投入れた可能性があると見ている。

千丈寺湖青野ダム)は1988年に完成した大規模な貯水湖で、ブラックバスやワカサギ釣りの人気スポットとして広く知られている。湖の外周には市道が走り、湖畔には多くの公園が整備されている。

発見場所付近の飯森山公園周辺にも民家が数十軒まとまって存在するが、店舗などはあまりなく夜間の人通りは少ない道である。近くに住む男性は「約15年前に一度、渇水があったが、普段は水量も多い。現場付近は夜間真っ暗で、誰が居ても分からない」と話している。

ダム湖はJR新三田駅から北に約2.5キロ、兵庫県南部や大阪市といった都市部からも車で1時間程度でアクセス可能な立地。

 

司法解剖の結果、遺体は30~40歳代の男性、身長は推定145~165センチの小柄な体型と見られ、血液型はAB型だった。特徴として「歯並びが非常に悪く、治療もあまりしていない」点が指摘されている。

三田署は歯科医にカルテ照合の協力を要請したが、捜査の進展は見られず、警察庁の被疑者データに照会しても適合する人物は見つけられなかった。

 

コンクリート詰めにされていたことから、単なる行旅死亡人(身元不明の行き倒れ)や災害・事故死ではなく、明らかな他殺体だが、頭蓋骨と骨片だけで「被害者」特定にたどり着くのは容易ではない。遺棄から発見までの歳月も、人物の絞り込みを難しいものにしている。

兵庫県警は、頭蓋骨とコンクリートに残った顔跡を元に、特殊メイクや特殊造形を手掛ける会社に「復顔像」の作成を依頼。2011年11月に復顔像が公開された。

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公開された復顔像

これにより県内外から21年2月現在までで計183件の情報が集められたが、身元判明には至らず、新たに寄せられる情報の数は年々減少してきている。発見から10年を迎えた21年2月14日、署員11人がJR三田駅前で情報提供を呼び掛けるビラ400枚を配った。

県警は10年間で捜査員延べ3万2000人以上を動員。死体遺棄容疑の時効はすでに経過したが、三田署は県警捜査一課と共に殺人容疑で合同捜査を継続している。

 

三田市千丈寺湖における男性死体遺棄事件合同捜査班
  兵庫県三田警察署
電話 (079)563-0110(代)

 

*****

 

事件内容どころか被害者が身元不明という謎の殺人事件である。すでに頭部発見から10年が経過し、事件の風化が危惧されている。

インターネット上ではすでに発見現場周辺は“心霊スポット”の汚名を着せられている。どういった現象が起こるといった話は知らないが、かつて千丈寺湖周辺にはお供え物が置かれ、しめ縄の巻かれた“首吊りの木”というスポットがあったことや、阪神都市部から車で一時間という立地も肝試しに手頃なのであろう。

しかし未解決事件のまま都市伝説化(風化)させてしまえば、犯人を野放しにすることにつながる。殺人犯が大手を振って歩いている、一般市民を装って生活していることの方が筆者にとってはどんな怪現象より不穏でおそろしい。

本稿は一日も早い被害者の特定と、事件の解明を期待して、風化阻止を目的に執筆するものである。以下では、他の事件を参考にどのような事件が考えられるか想像力を働かせてみたい。

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まずコンクリート詰めというと、1988年から89年にかけて起きた綾瀬女子高生事件が思い出される。不良少年グループが17歳少女を猥褻略取誘拐から監禁し、強姦、暴行、虐待の限りを繰り返した末に殺害へ至り、遺体をドラム缶にコンクリート詰めして、東京湾の埋め立て地に遺棄したものである。

この事件では、少年の一人がかつての勤め先からトラックを借り、セメントを貰い受け、近くの建材屋から砂やブロックを盗み出し、付近でごみ入れに使われていたドラム缶を持ち去ってきて詰め込んでいる。

コンクリートというと土木建築業で使われることが多いものの、家の外構や車庫スペース、ブロック塀などをDIY(自工自作)する人もいる。成分分析や製品識別がどの程度まで有効なのかは不明だが、入手経路の特定すら容易ではないだろう。綾瀬事件からも分かる通り、10年以上前のセメント材や砂の購入者や持ち主を探し出したとて、コンクリートの元所有者から直接犯人へとたどり着けるかは難しいところだ。

 

また発見されたコンクリート塊は「直方体」と表現され、部位は頭蓋骨、左足首の骨、頸椎部位とそれぞれ体の異なる箇所であること、他の部位が付近で発見されなかったことから考えると、バラバラに解体したものを小さなサイズで固めたと見られる。

丸ごと固めればサイズも相当であるし、重さ200キロ近くともなり、大人2~3人でも容易に持ち出すことは難しい。たとえばゴミ箱状の容器を型にして各部位を詰め合わせて固めれば、一人でも車に積んで遺棄することが可能となる(18リットル一斗缶の規格は約238×238×349のためやや異なる)。発覚を遅らせるために、すべてを千丈寺湖には投入せず、海や各地のダムに投棄したとも考えられる。

作業の手間を思うと、単独犯による殺害・解体・コンクリ詰め・遺棄は骨の折れる仕事量であり、少なくとも大人2人以上が関与していたのではないかと感じさせる。

 

 渇水時のダム湖から・・・というと、2002年9月に広島県世羅町にある京丸ダムで、ほぼ白骨化した一家4人と飼い犬の乗った車両が発見された広島一家失踪事件(2001年6月3~4日発生)が思い浮かぶ。失踪から1年以上経って、干水したところを発見されたものだ。

この事件では、車が転覆してフロントガラスが割れていたこともあり衣類や遺体が激しく損傷していた。明確な死因は特定されなかったものの、骨折や外傷の痕跡は認められず、エンジンキーはONにかかっていたこと、運転席に乗っていた父親はかつてダム湖建築に携わっていて周辺に詳しかったこと等から一家心中として処理された。

しかし「母親は翌朝からの社員旅行の支度を整えていた」、家の中も「食事の支度が残されており、乱れた様子もない」、「娘は婚約者があった」など他殺や一家心中を匂わせる証拠もみられなかった。失踪当初は“神隠し”として取り沙汰されたものの、のちに母親の不倫、親類筋の借金問題など様々な憶測を呼んだ。

現代では法医学によって「死体」から殺害方法や犯人の特徴など様々な情報が導き出されることは知られているが、結果的に見れば水中での遺体の風化浸食によって「死体に語らせない」効果があったといえる。

 

被害者が身元不明の殺人事件というと、1996年4月に栃木県芳賀郡市貝町多田羅の竹やぶで発見された男性遺体が思い起こされる。部活帰りの男子中学生らが竹林に落ちていた布団袋に遺体を発見。栃木県警は殺人死体遺棄事件と断定して捜査を進めたが、身元が判明しなかった。

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ズボンのタグ  [栃木県警]

遺体は死後一カ月以上経過し腐敗が進んでおり、着衣の乱れや目立った外傷もなく死因は特定できなかったが、年代や体格は判別しうる状態。遺留品となった着衣が重点的に捜査され、ズボンのタグに記載された「トナリ」「山本」が千葉県内のクリーニング店2店で書かれたものと判明。2017年に「千葉県内に住んでいた可能性が高い」として千葉県内で再度の情報提供を呼び掛けた。

この男性も「歯槽膿漏が著しい」「大量の虫歯が治療されずに放置されている」といった特徴が挙げられている。保険未加入などで治療する経済的余裕がなかったのか、歯磨きする習慣がない歯医者嫌いな人物だっただけなのか、は判断が難しい。

 

行方不明であっても正式な届け出がされない点については、少なくとも殺害当時、「定職についていなかった」「安否を気に掛けてくれる近親者がいなかった」と見てよいのではないか。

住人が消えたとなれば通常であればアパート管理者や近隣住民から情報提供がありそうなものだが、もしかすると“迷惑住人”として長らく忌避されていたり、関わり合いを持ちたくない等の理由でだれも届け出ないことも考えられる。住所不定でだれも失踪に気付かなかった、あるいはその逆に、同居人や近親者との諍いによって殺害された可能性も十分ありうる。

そう考えていくと、社会的地位は低く、頼れる身よりもない生活に困窮していた人物だったと想像され、事件の背景としては“金銭をめぐるトラブル”が濃厚ではないか。

たとえば男性数人で生活を共にしていたが、あるとき被害者が病気や解雇などで周囲への借金返済のめどが立たなくなる、男性らは紛糾して殺害するに至り、周囲には「夜逃げした」などと口裏を合わせた筋書きなどが思い付く。

妄想は尻切れトンボで終わりにするが、遺体は見つかり、事件は明るみに出た。たとえどんな人物であろうとも、死因が「事件」である限り、被害者は無念のうちに亡くなったことを意味する。

被害者のご冥福をお祈りしますとともに、今後の捜査の進展を願ってやみません。

 

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千丈寺湖死体遺棄事件から10年 「この人は誰?」情報提供、今年も呼び掛け 三田|三田|神戸新聞NEXT

福岡大ワンダーフォーゲル部羆事件/クリル湖襲撃事件

福岡大学ワンダーフォーゲル部羆事件

1970(昭和45)年7月、北海道日高山脈カムイエクウチカウシ山で発生した羆襲撃事件で、犠牲となった3名は福岡大学ワンダーフォーゲル同好会(のち部に昇格)に所属していた。

(Wandervogelはドイツ語で渡り鳥。主に登山など野外活動を推奨する自然主義運動を指す。日本では昭和に入ってから学生サークル活動として広まり、ワンゲル、WVなどと略される)

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当時主流だったキスリング型ザック。横幅が広い

18歳から22歳の同好会メンバー5人は日高山系縦走合宿のため、7月14日に北海道上川郡新得町に到着。その足で登山計画書を提出すると、午後から芽室岳に入山した。予定では13日間で[芽室岳~北戸蔦別岳~幌尻岳~七つ沼カール~エサオマントッタベツ岳~春別岳~札内川九の沢カール~カムイエクウチカウシ山~ペテガリ岳]を巡り、下山する予定だった。

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23日、提出していた計画書の予定より大幅に遅れていたため、当初の中間地点・カムイエクウチカウシ山登頂後に、縦走は打ち切って下山する旨を話し合って決めた。

25日、一行は春別岳を経て、九の沢カールにてテント設営。16時半ごろ、夕食を済ませてテント内で寛いでいると、テントから6~7メートルの距離に羆が接近していることに気付く。

5人はこのとき危機意識を持たず、興味本位に観察していた。30分程すると、羆は外に放置していたキスリング(帆布製の大容量リュック)を漁り、中の食料に手を付け始めた。一行は隙を見てキスリングをテント内に移し、焚火、携帯ラジオや金物音を立て、懐中電灯を羆の目に当てる等して追い払う事に成功し、就寝した。

21時頃、5人は羆の接近に気付く。羆はテントにこぶし大の穴を開けて去って行った。一行は羆の再襲撃に備えて見張りを立て、2人ずつ2時間交替で睡眠を取った。

 

26日3時起床。一行がパッキング(荷詰)も終わりに差し掛かった4時半頃、上方よりまたしても羆が出現。睨み合いが続いた後、徐々に距離を縮めて来たため、一行はテント内に避難。羆がテントに手を掛け侵入しようとしたため、5人はポールを支え、幕を引っ張る等して抵抗。やがて一行はテントを諦めて、入口反対側から一斉に脱出。50メートル程逃げて、振り返ると羆はテントを倒し、残されたキスリングを漁っていた。
リーダーは「九の沢を下り、札内ヒュッテか営林署に連絡し、ハンター要請を依頼して欲しい」とメンバー2人に下山を指示した。2人は道中の八の沢で北海道学園大学・北海岳友会の一行(約10人)と出会う。北海岳友会の一行も同じく羆に襲撃され、下山の最中だった。2人は一行に「ハンター要請」の伝達を頼み、一行から食糧2日分、地図、コンロ、ガソリン等を借り受けた。

事件後、北海岳友会メンバーは「あの時、我々と出会っていなければ、3人を助けに戻らなければ、(被害メンバーは)死なずに済んだかもしれない」と語っている。

 

2人は13時ごろ、リーダーら3人と合流(道中で鳥取大、中央鉄道学園の一行とも遭遇している)。夕食、テント修繕・設営を済ませた17時過ぎ、またしても羆が現れる。50メートル程離れて様子を窺っていつつ、メンバー2人を八の沢カールにいる鳥取大の幕営地に遣り、宿泊を依頼させた。羆は立ち去る様子もなく、夜も近いことから残った3人は先の2人と合流し、八の沢カールを目指した。

しかし18時半ごろ、後方から羆の追撃を受けて一行はパニックとなり分散してしまう。メンバーの叫び声や「チクショウッ」といった声が聞かれ、集合の号令をかけたが3人しか集まらなかった。3人は鳥取大テントに向けて助けを求めた。鳥取大は焚火やホイッスルなどで羆への警戒を行い、その後、川沿いを下山。3人は安全と思われる岩場へ身を隠し、ビバーグ(風雨をしのぐだけの簡易宿営)した。

 

27日朝、視界5メートルの濃霧に見舞われ、はぐれた仲間2人の捜索は困難だった。3人は8時から下山を開始したが、15分ほど下ると2~3メートル眼前に羆が現れる。一人が羆に追われて逃げ出し、残った2人は八の沢から沢を下った。13時、2人は五の沢にある砂防ダム工事現場へ到着して生還した。

 

すでに鳥取大のメンバーによって通報はなされていたが、27日は乱気流、28日は濃霧によりヘリでの捜索はできず。ハンター、地元山岳関係者らにより捜索隊が組まれ、29日、八の沢カール周辺のガレ場(岩石の急斜面)でメンバー2人の遺体、ユニフォームが発見される。

遺体はともに衣服が剥ぎ取られており、一人は顔面右半分を完全に損傷、胸部、背、腹部に無数の爪痕。もう一人は更に傷みが激しく、顔で判別することは不可能な状態だった。腹部が抉られ、内臓が露出し、頸動脈は切られていた。周囲の岩には、引きずられて出来たと思われる小さな肉片が広範囲に付着していた。

 

夕方、カール下方で羆が現れ、ハンター10名による一斉射撃により射殺された。推定3~4歳の金毛の雌、体長約2メートル、重さ約130キロ(後の解剖では胃の内容物に食害の形跡はなかった)。
翌日、鳥取大のサイト地だった付近から、残る一名の帽子、遺体が発見された。やはり衣服は剥がされており、顔面左半分が陥没、全身に無数の傷。腹部は抉られ、内臓が露出。死後硬直が残っていた。

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本件は生存メンバーの証言のほか、子細な登山記録が残されている。また、はぐれたメンバーの一人は熊に追い立てられた後、鳥取大が残していたテントに避難した際、死の直前にメモを書き遺していた。外に出ることへの不安、羆再来の恐怖と、避難により得られたほんのささやかな安堵が綴られていた。

27日

4:00頃目がさめる。外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時まで、テントの中にいることにする。テントの中を見回すと、キャンパンがあったので、中を見ると御飯があった。これで少しほっとする。上の方は、ガスがかかっているので、少し気持ち悪い。もう5:20である。またクマが出そうな予感がするのでまた、シュラフ(※寝袋)にもぐり込む。

ああ、早く博多に帰りたい。

 正直に言えば筆者には、事件発生の背景に「熊になじみの薄い九州の学生だから」「若者らしい好奇心や体力任せな行動、侮りがあったのではないか」といった偏見があった。だが福岡大ワンゲル部による事件報告書(保存版「福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃事件報告書」|YAMA HACK)を読んで印象は変わった。

 

 7月に入ってから日高山系に入山した51パーティー、276人は羆との遭遇報告はなく、発生当時も30前後の一行がおり、福岡大がはじめて羆に遭遇したテント設営地点も他大学の一行に教唆されたポイントだった。

地元派出所・営林署に入山手続きをした際にも事前に羆についての注意喚起もなかった。さらに先月に行方不明登山者が出た際に行われた捜索ではハンターは同伴していなかったという。
羆の生息は予測できたであろう地元民でも「羆が人を襲う」ことは当時それほど意識されていなかったのである。実際にこの羆は食害には及んでおらず、遺体を弄った痕跡からはまるで犬がボールを転がして遊んでいたかのような印象さえ感じさせる。羆は警戒心が強い性格とされるが、きしくも「人をおそれない羆」が存在したということだ。

 

1984年、野生生物情報センター・小川巌氏による実験では、猟犬のように「背を向ける者」を追いかける性質が確認され、ザック袋を与えると好奇心を抱いて弄り1時間以上も執着していたという。

事件発生前の行方不明登山者がその後発見されたか否かは確認できない。事件を起こした羆がなぜ福岡大の一行を襲ったのかについて推論を述べるとすれば、もしかすると以前に行方不明登山者と接触していた、あるいは遭難登山者のキスリング(中の食料)に手を付けていた可能性をも感じさせる。

3人は八の沢カールで荼毘に付され、現在も慰霊プレートが設置されている。

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■クリル湖星野道夫氏襲撃事件

1996年8月8日、ロシア・カムチャッカ半島の南端部に位置するクリル湖で写真家・星野道夫氏が羆に襲われ死亡した事件。

星野氏は、アラスカの大地でグリズリーやカリブーの大群、クジラやホッキョクグマなどの野生動物や、厳しくも恵み豊かな美しい大自然を主な被写体とし、第15回木村伊兵衛賞ほか実績と経験を備えたその道のプロフェッショナルである。

www.michio-hoshino.com

 7月25日、星野氏はテレビ番組『どうぶつ奇想天外!』(TBS、1993~2009)の撮影のため、番組スタッフ3名、現地ガイド2名とともに、クリル湖畔グラシ—ケープを訪れた。「羆と鮭」に関する星野氏の持ち込み企画だった。

 

クリル湖周辺は世界有数の羆の生息地として知られ、個体数は600~800頭と言われる。雄大な自然と動植物の営みが手つかずのまま守られ、世界遺産にも登録されている。夏季には7種類、最大で500万匹もの鮭が遡上する魚類資源の豊富さが羆の個体数を支えており、本来単独行動を好む羆たちがあちらこちらで姿を現す。

 

保護区域のため銃器類の所持・使用は認められていないが、付近には鮭観察タワーや宿泊小屋などの施設が備えられている。到着時、小屋の食料が漁られた形跡を発見したが、スタッフとガイドの5人は予定通り宿泊小屋を利用した。星野氏は小屋から数メートル離れた地点に一人でテントを張って宿営した。

 

27日、星野氏の近くでテント泊していたアメリカ人写真家が金属音で目を覚ますと、宿泊小屋の食糧庫に羆がよじ登り、飛び跳ねている姿を目撃する。体長2メートル超、重さ250キロ、額に赤い傷のある雄の羆だった。アメリカ人写真家が大声を出して手を叩くと、羆は地上に降りて星野氏のテントに接近した。

「テントから3メートルのところに羆がいる。ガイドを呼ぼうか」

星野氏はテントから顔を出し、アメリカ人写真家の問いかけに了承した。

駆け付けたガイドは鍋を叩きながら熊除けスプレーを噴射するなどして対抗。直射できなかったが、やがて羆はテントから離れていき事なきを得た。アメリカ人写真家はこれに危険を感じて鮭観察タワーへと移っている。

 

ガイドは星野氏に小屋で宿泊するように説得したが、星野氏はテント泊を続行した。「鮭が川を上って食べ物が豊富だから、羆は襲ってこない」との見識に基づく氏の判断だったとされる。 

その後も近隣で羆の出没は続き、8月6日には再びテント近くに来たところをガイドが熊除けスプレーで追い払う一幕もあり、人間への接近を執拗に繰り返していることが窺えた。ガイドは星野氏に小屋への移動を再三勧めたが、このときも聞き入れなかったとされる。

 

8日深夜4時、星野氏の絶叫が聞こえ、スタッフが「テント!ベアー!ベアー!」とガイドに叫んだ。懐中電灯を照らすと、星野氏を咥えた羆が森へと引きずっていく姿があった。ガイドが大声を上げてシャベルを叩いて大きな音を立てたが、羆は一度頭を上げただけで、そのまま森へと消えていった。テントは破壊され、星野氏のシュラフ(寝袋)は引き裂かれていた。ガイドが救助を要請し、その後、ヘリコプターによる上空からの捜索で羆を発見し、射殺した。森の中で発見された星野氏の遺体は食害に遭っていた。

 

TBSの作成した遭難報告書によれば、その羆は地元テレビ局の社長によって餌付けされており、人の食料の味を知っていたこと、人に対する警戒心が薄かったことが判明している。また背景に、この年、鮭の遡上が例年より遅れており、食糧不足も影響したとされた。遺族の意向により、後日『極東ロシアヒグマ王国~写真家・星野道夫氏をしのんで~』と題して放映され、追加報告書の作成は見送られることとなった。

 

 現在、クリル湖南岸のシユシュク岬には星野氏の追悼碑が設置されている。下のリンクは2011年にクリル湖を調査に訪れた考古学研究者によるエッセイである。同地での羆との関わり方が記されており、番組制作に携わった現地ガイドの行動(シャベルを叩く等)は基本的に誤りはなかったことが確認できる。

hoppo-let-hokudai.com

クリル湖にかぎらず,カムチャツカのヒグマはあきらかに人間をおそれており,つねに一定の距離を保とうとする。私たちの行く手にヒグマがいても,15〜20m以上離れた位置から大きな声を出したり,スコップを叩いて音を出すだけで走り去っていくのが通例である。クリル湖にかぎらず,カムチャツカの踏査においては,ヒグマがつくった「道」を使うのがもっとも歩きやすい。必然的にヒグマに出会うことになるが,早めに相手を発見し,一定の距離をたもったうえでこちらの存在を知らせれば必ず逃げてゆく。

 過去に地元テレビ局社長がどのような認識で行動したのかは不明だが、この悲劇における最悪の過誤は羆の営みを歪ませてしまった「餌付け」行為に他ならず、人に近づくことに慣れた羆の側もまた被害者なのである。

 

被害に遭われたみなさんのご冥福と関係者さまの心の御安寧をお祈りいたします。

札幌丘珠羆事件・石狩沼田幌新事件

 野生の熊は警戒心が強いため遭遇する機会こそ少ないが、テリトリーを侵害されたと感じたり、仔熊を守るといった習性から、むやみに人が接近すれば危害に及ぶ。また一度、食害に味を占めてしまった個体は好んで人を狙うおそれもあるとされる。

 

前回のエントリーで取り上げた日本最悪規模の獣害事件“三毛別羆事件”の“袈裟懸け”と呼ばれる羆は、食害、とりわけ女性に執着したことが指摘されている。 

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 今回は、同じく開拓期の北海道で発生した2つの羆事件を見ていきたい。

 

■札幌丘珠(おかだま)羆事件

1878(明治11)年1月に石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現・札幌市東区丘珠町)で発生した死者3名、重傷者2名を出した国内で3番目に被害の大きかった獣害事件。

札幌での発生だったことから多くの調査記録が残され、その後、明治天皇が見学したこと等から最もよく知られていた羆害事件であった。逆にいえば当事件が耳目を集めたことで、木村盛武氏による「再発見」まで三毛別事件は歴史の陰に伏されていたと言えるかもしれない。


上記エントリーでも触れているが、明治政府は開拓使を設置して内地からの移住者を募ってはいたものの、開拓者が激増したのは明治後半から大正期にかけてである。事件当時は開拓初期に当たり、札幌市に該当する区域の人口は8000人足らずだった。

 また雑食で家畜や農作物を荒らす熊や狼の存在は開拓における最大の障害でもあった。明治10年に開拓使は熊・オオカミ1頭あたり2円の捕獲奨励金を出して駆除を図ったが、翌11年には熊5円、オオカミ7円に値上げしている(当時コメ1俵が2円50銭)。

 

1月11日、札幌の円山・藻岩山腹で、猟師の蛭子勝太郎が穴羆を発見。しかし勝太郎は打ち損じてしまい、冬眠を邪魔された羆の逆襲に遭い死亡。穴から追い出される格好となった手負いの羆は、冬眠による飢餓状態により、数日間に渡って札幌の町中を徘徊し、農作物や家畜が多くの被害を受けた。
17日、数々の被害報告を受けた札幌警察署は駆除隊を編成。豊平川を渡った平岸村で羆を発見し、討伐を試みるも、月寒村、白石村、雁来まで逃走し、猛吹雪と大森林地帯に阻まれて見失ってしまう。

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開拓地の炭焼き小屋[北海道大学・明治大正期北海道写真目録]

するとその晩、丘珠村で炭焼を生業とする開拓民・堺倉吉宅を羆が襲撃。屋外の異変に気付いた倉吉が筵戸(むしろの簡易戸)を開けた途端に一撃で撲殺された。妻・リツはまだ乳児であった留吉を抱えて逃げ出すも、後頭部に打撃を受けた際に留吉を落としてしまう。リツと雇女(不詳)は重傷を負いながらも近くの村民に助けを求めたが、戻る頃には父子は食害を受けて絶命していた。
18日正午頃、駆除隊の面々は付近の山中で加害熊を発見し射殺した。雄のヒグマで体長1.9メートル。

札幌農学校北海道大学)でクラーク博士の愛弟子デヴィッド・ペンハロー指導教授らが解剖したところ、膨らんだ胃中から赤子の頭巾や手、リツの引き毟られた髪の毛などが発見された。

羆は剥製化、胃の内容物はホルマリン漬けにされ北海道大学付属植物園に保存され、現在は一般非公開だが下の北海道新聞リンク記事で剥製のみ見ることができる。

www.hokkaido-np.co.jp

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■ 石狩沼田幌新事件

1923(大正12)年8月、北海道雨竜郡沼田町の幌新(ほろしん)地区で発生した死者4名、重傷者4名(後1名が死亡)を出した熊害事件。三毛別事件でも見られた羆の「保存食」をする習性が、事の発端だったのではないかと考えられている。

8月21日、沼田町恵比島で太子講(工匠の職能神として聖徳太子が祀られ、江戸期、職人達の親睦や結束などを目的に盛んになった)の祭りが開催された。明治後期から大正にかけては民間企業を介した団体移住が最盛期であったが、開拓作業や農耕の振興のために飲酒や遊戯集会などの日常的な娯楽は制限されることが多かった。そのため祭には近隣からもここぞとばかりに多くの人が詰めかけていた。

 

帰路についた一団が幌新本通りの沢付近に差し掛かった23時半ごろ、少し遅れて歩いていた林謙三郎(19)が背後から羆の襲撃に遭った。林は命からがら脱出したが、羆は先を歩く一団へと狙いを変え、村田幸次郎(15)を撲殺、その兄・与四郎(18)に重傷を負わせると生きたまま土中に埋め、傍らで幸次郎を食害し始めた。

 

パニックに陥った一団は少し離れた農家宅に助けを求め、囲炉裏の火を強めるなどして身を潜めていた。30分ほどすると、羆が幸次郎の内臓を咥えたまま農家宅に接近。

屋内から座布団や笊を投げて追い払おうと試みるも空しく、村田兄弟の父・三太郎(54)は羆を侵入させまいと立ちふさがったが叩き伏せられて重傷を負った。羆は囲炉裏の火を怖れることもなく踏み消すと、村田兄弟の母・ウメ(56)を咥えて山へ引きずっていく。心身に痛手を負い、鉄砲さえ持たない彼らに立ち向かう術はなかった。闇夜の向こうからウメの叫声が響いた後、微かな念仏が聞こえたが、やがてそれすらも聞こえなくなった。

 

翌朝、一行は下半身を全て食い尽くされたウメの亡骸と、生き埋めにされていた与四郎を発見。与四郎はまだ息があったものの病院へ搬送後に死亡した。

 

惨劇は瞬く間に沼田全域に知れ渡り、23日には羆撃ち名人・砂澤友太郎らマタギ衆と、雨竜村の伏古集落在住の3人のアイヌの狩人が応援に駆けつけた。そのうちの1人、恵比島出身の長江政太郎(56)は羆の暴虐振りに憤慨。周囲が引き留めるのも聞かず、単身で退治に赴いたものの、山中で数発の銃声を響かせたきり行方不明となった。


翌24日には郷軍人、消防団青年団など、総勢300人余りの応援部隊が幌新地区に到着。更に幌新、恵比島の集落民の男子が全員招集され、羆討伐隊が結成された。
討伐隊が羆探索のために山中に入るや否や、それを予測していたかのように、隊後方から羆が襲撃。最後尾にいた上野由松(57)を一撃で撲殺、側に居た折笠徳治(不詳)にも重傷を負わせた。
更に羆は雄叫びを上げて追撃してきたが、除隊間もない在郷軍人が咄嗟に放った銃弾が見事に命中。羆が怯んだと見るや鉄砲隊が一斉射撃を浴びせ、巨体は動かなくなった。

現場付近で長江政太郎が、頭部以外を食い尽くされた状態で遺体となって発見された。その傍らにはへし折られた愛銃が遺されていた。

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[Eszter Miller, Pixabay]

体長約2メートル、重量約200キロの雄だった。解剖の結果、胃袋の中からはザル一杯分にも及ぶ人骨と、未消化の人の指が発見された。

後の調査の結果、一行が最初に襲われた地点で斃死した馬の亡骸が発見された。これは羆が「保存食」として埋めたものと見られ、偶然現れた一行を"餌を横取りする外敵"と見なし、排除に及んだ事が発端と推察された。「保存食」は、嗅覚に優れた羆たちにとって自らのテリトリーを他の個体に誇示するマーキング行為でもある。

幌新太刀別川上流部は、その後、炭鉱開発により2000人規模の小都市が生まれた。留萌鉄道も開通して栄えたが、1960年代、炭鉱閉山に伴い過疎化。現在ではダム湖の底に沈んでいる。

沼田町ふるさと資料館分館・ほたる学習館・炭鉱資料館には、襲撃した羆の毛皮が現在も展示されている。

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前者は冬眠を妨害したことに端を発し、後者は領域侵犯がきっかけであり、両事件の性格は大きく異なる。だが農民だけでなく、ともに日頃から鳥獣を追うことを生業とし銃器を備えたマタギが被害に遭っており、山野での熊の圧倒的優位性を示している。優れた嗅覚、聴覚、犬と霊長類の中間ほどの知能を備える熊にとって、山中での人間の動きを察知することはたやすいのである。

また今日であれば家屋への避難によって被害の拡大は免れたであろうが、当時の開拓民の住居事情ではひとたまりもなかった。

 

現在、日本国内では、北海道のおよそ半分の地域に羆(ヒグマ)が、本州・四国の33都府県にツキノワグマが生息している。北海道の開拓期とは違い、多くの人は都市部・平野部に暮らしているにせよ、国土のおよそ半分は熊とシェアリングしていることには変わりない。どのようなかたちで衝突が発生し、どういった予防策が可能なのかを探るきっかけとしていきたい。

被害に遭われたみなさまのご冥福をお祈りいたします。

 

 

■参考

全国のクマ類の近年の動向について・環境省

羆の恐怖&神秘的な話

WWFジャパン クマによる被害

・北海道沼田町 熊事件

日本ツキノワグマ研究所