札幌丘珠羆事件・石狩沼田幌新事件

 野生の熊は警戒心が強いため遭遇する機会こそ少ないが、テリトリーを侵害されたと感じたり、仔熊を守るといった習性から、むやみに人が接近すれば危害に及ぶ。また一度、食害に味を占めてしまった個体は好んで人を狙うおそれもあるとされる。

 

前回のエントリーで取り上げた日本最悪規模の獣害事件“三毛別羆事件”の“袈裟懸け”と呼ばれる羆は、食害、とりわけ女性に執着したことが指摘されている。 

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 今回は、同じく開拓期の北海道で発生した2つの羆事件を見ていきたい。

 

■札幌丘珠(おかだま)羆事件

1878(明治11)年1月に石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現・札幌市東区丘珠町)で発生した死者3名、重傷者2名を出した国内で3番目に被害の大きかった獣害事件。

札幌での発生だったことから多くの調査記録が残され、その後、明治天皇が見学したこと等から最もよく知られていた羆害事件であった。逆にいえば当事件が耳目を集めたことで、木村盛武氏による「再発見」まで三毛別事件は歴史の陰に伏されていたと言えるかもしれない。


上記エントリーでも触れているが、明治政府は開拓使を設置して内地からの移住者を募ってはいたものの、開拓者が激増したのは明治後半から大正期にかけてである。事件当時は開拓初期に当たり、札幌市に該当する区域の人口は8000人足らずだった。

 また雑食で家畜や農作物を荒らす熊や狼の存在は開拓における最大の障害でもあった。明治10年に開拓使は熊・オオカミ1頭あたり2円の捕獲奨励金を出して駆除を図ったが、翌11年には熊5円、オオカミ7円に値上げしている(当時コメ1俵が2円50銭)。

 

1月11日、札幌の円山・藻岩山腹で、猟師の蛭子勝太郎が穴羆を発見。しかし勝太郎は打ち損じてしまい、冬眠を邪魔された羆の逆襲に遭い死亡。穴から追い出される格好となった手負いの羆は、冬眠による飢餓状態により、数日間に渡って札幌の町中を徘徊し、農作物や家畜が多くの被害を受けた。
17日、数々の被害報告を受けた札幌警察署は駆除隊を編成。豊平川を渡った平岸村で羆を発見し、討伐を試みるも、月寒村、白石村、雁来まで逃走し、猛吹雪と大森林地帯に阻まれて見失ってしまう。

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開拓地の炭焼き小屋[北海道大学・明治大正期北海道写真目録]

するとその晩、丘珠村で炭焼を生業とする開拓民・堺倉吉宅を羆が襲撃。屋外の異変に気付いた倉吉が筵戸(むしろの簡易戸)を開けた途端に一撃で撲殺された。妻・リツはまだ乳児であった留吉を抱えて逃げ出すも、後頭部に打撃を受けた際に留吉を落としてしまう。リツと雇女(不詳)は重傷を負いながらも近くの村民に助けを求めたが、戻る頃には父子は食害を受けて絶命していた。
18日正午頃、駆除隊の面々は付近の山中で加害熊を発見し射殺した。雄のヒグマで体長1.9メートル。

札幌農学校北海道大学)でクラーク博士の愛弟子デヴィッド・ペンハロー指導教授らが解剖したところ、膨らんだ胃中から赤子の頭巾や手、リツの引き毟られた髪の毛などが発見された。

羆は剥製化、胃の内容物はホルマリン漬けにされ北海道大学付属植物園に保存され、現在は一般非公開だが下の北海道新聞リンク記事で剥製のみ見ることができる。

www.hokkaido-np.co.jp

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■ 石狩沼田幌新事件

1923(大正12)年8月、北海道雨竜郡沼田町の幌新(ほろしん)地区で発生した死者4名、重傷者4名(後1名が死亡)を出した熊害事件。三毛別事件でも見られた羆の「保存食」をする習性が、事の発端だったのではないかと考えられている。

8月21日、沼田町恵比島で太子講(工匠の職能神として聖徳太子が祀られ、江戸期、職人達の親睦や結束などを目的に盛んになった)の祭りが開催された。明治後期から大正にかけては民間企業を介した団体移住が最盛期であったが、開拓作業や農耕の振興のために飲酒や遊戯集会などの日常的な娯楽は制限されることが多かった。そのため祭には近隣からもここぞとばかりに多くの人が詰めかけていた。

 

帰路についた一団が幌新本通りの沢付近に差し掛かった23時半ごろ、少し遅れて歩いていた林謙三郎(19)が背後から羆の襲撃に遭った。林は命からがら脱出したが、羆は先を歩く一団へと狙いを変え、村田幸次郎(15)を撲殺、その兄・与四郎(18)に重傷を負わせると生きたまま土中に埋め、傍らで幸次郎を食害し始めた。

 

パニックに陥った一団は少し離れた農家宅に助けを求め、囲炉裏の火を強めるなどして身を潜めていた。30分ほどすると、羆が幸次郎の内臓を咥えたまま農家宅に接近。

屋内から座布団や笊を投げて追い払おうと試みるも空しく、村田兄弟の父・三太郎(54)は羆を侵入させまいと立ちふさがったが叩き伏せられて重傷を負った。羆は囲炉裏の火を怖れることもなく踏み消すと、村田兄弟の母・ウメ(56)を咥えて山へ引きずっていく。心身に痛手を負い、鉄砲さえ持たない彼らに立ち向かう術はなかった。闇夜の向こうからウメの叫声が響いた後、微かな念仏が聞こえたが、やがてそれすらも聞こえなくなった。

 

翌朝、一行は下半身を全て食い尽くされたウメの亡骸と、生き埋めにされていた与四郎を発見。与四郎はまだ息があったものの病院へ搬送後に死亡した。

 

惨劇は瞬く間に沼田全域に知れ渡り、23日には羆撃ち名人・砂澤友太郎らマタギ衆と、雨竜村の伏古集落在住の3人のアイヌの狩人が応援に駆けつけた。そのうちの1人、恵比島出身の長江政太郎(56)は羆の暴虐振りに憤慨。周囲が引き留めるのも聞かず、単身で退治に赴いたものの、山中で数発の銃声を響かせたきり行方不明となった。


翌24日には郷軍人、消防団青年団など、総勢300人余りの応援部隊が幌新地区に到着。更に幌新、恵比島の集落民の男子が全員招集され、羆討伐隊が結成された。
討伐隊が羆探索のために山中に入るや否や、それを予測していたかのように、隊後方から羆が襲撃。最後尾にいた上野由松(57)を一撃で撲殺、側に居た折笠徳治(不詳)にも重傷を負わせた。
更に羆は雄叫びを上げて追撃してきたが、除隊間もない在郷軍人が咄嗟に放った銃弾が見事に命中。羆が怯んだと見るや鉄砲隊が一斉射撃を浴びせ、巨体は動かなくなった。

現場付近で長江政太郎が、頭部以外を食い尽くされた状態で遺体となって発見された。その傍らにはへし折られた愛銃が遺されていた。

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[Eszter Miller, Pixabay]

体長約2メートル、重量約200キロの雄だった。解剖の結果、胃袋の中からはザル一杯分にも及ぶ人骨と、未消化の人の指が発見された。

後の調査の結果、一行が最初に襲われた地点で斃死した馬の亡骸が発見された。これは羆が「保存食」として埋めたものと見られ、偶然現れた一行を"餌を横取りする外敵"と見なし、排除に及んだ事が発端と推察された。「保存食」は、嗅覚に優れた羆たちにとって自らのテリトリーを他の個体に誇示するマーキング行為でもある。

幌新太刀別川上流部は、その後、炭鉱開発により2000人規模の小都市が生まれた。留萌鉄道も開通して栄えたが、1960年代、炭鉱閉山に伴い過疎化。現在ではダム湖の底に沈んでいる。

沼田町ふるさと資料館分館・ほたる学習館・炭鉱資料館には、襲撃した羆の毛皮が現在も展示されている。

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前者は冬眠を妨害したことに端を発し、後者は領域侵犯がきっかけであり、両事件の性格は大きく異なる。だが農民だけでなく、ともに日頃から鳥獣を追うことを生業とし銃器を備えたマタギが被害に遭っており、山野での熊の圧倒的優位性を示している。優れた嗅覚、聴覚、犬と霊長類の中間ほどの知能を備える熊にとって、山中での人間の動きを察知することはたやすいのである。

また今日であれば家屋への避難によって被害の拡大は免れたであろうが、当時の開拓民の住居事情ではひとたまりもなかった。

 

現在、日本国内では、北海道のおよそ半分の地域に羆(ヒグマ)が、本州・四国の33都府県にツキノワグマが生息している。北海道の開拓期とは違い、多くの人は都市部・平野部に暮らしているにせよ、国土のおよそ半分は熊とシェアリングしていることには変わりない。どのようなかたちで衝突が発生し、どういった予防策が可能なのかを探るきっかけとしていきたい。

被害に遭われたみなさまのご冥福をお祈りいたします。

 

 

■参考

全国のクマ類の近年の動向について・環境省

羆の恐怖&神秘的な話

WWFジャパン クマによる被害

・北海道沼田町 熊事件

日本ツキノワグマ研究所