トリニダード・トバゴと長木谷麻美さん事件について

2021年3月19日、トリニダード・トバゴの未解決事件捜査班(TTPS)は、16年にクイーンズパークサバンナで遺体となって発見された日本人スティール・パン奏者・長木谷麻美さんの事件について捜査の終結を発表した。

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本稿は、トリニダード・トバゴの文化理解、長木谷さんの足跡と事件の風化阻止を目的に記すものである。

白状しておくと、筆者は生前の彼女と接点はなく、事件当時も知らなかった。先日、捜査終結の報を知って、彼女の曲を聴いて感銘を受けたことが執筆の動機である。

 

事件について触れる前に、日本では比較的なじみの薄いトリニダード・トバゴについて大まかな近現代史を追ってみたい。

 

トリニダード・トバゴの歴史とカーニバル

カリブ諸島最南端の島国トリニダード・トバゴ。南米ベネズエラ沿岸から僅か10キロに位置する。その名の通り、トリニダード島とトバゴ島の2島から成り、首都はトリニダード北部のポートオブスペイン。面積は5000平方キロ超(千葉県と同程度)、人口はおよそ140万人。インド系、アフリカ系がそれぞれ3~4割を占め、残り2割強を混血とその他が占める。英語が公用語とされ、宗教はキリスト教徒,ヒンドゥー教徒が多い。

石油や天然ガスの輸出により20世紀を通して工業化がすすめられ、他の西インド諸国に比べて高い一人当たりGDP(世界50位前後)を誇る。石油危機以来、エネルギー輸出依存を避けるため、国は産業の多角化を目指して製造業、ICT産業、観光産業にも注力している。国家的イベントであるカーニバルは、ブラジルのリオ、イタリアのヴェネチアと並び、世界三大カーニバルのひとつとされ、毎年3万人以上もの観光客が訪れる。

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Michel Tissot, Public domain, via wiki commons

古くは南米の北東部からやってきたカリブ語族系アメリカ先住民が僅かに定住し、「ハミングバードの土地」と呼ばれた。15世紀末以降、スペイン、オランダ、イギリス、フランスなどの欧州列強によって「南アメリカ大陸への玄関口」として島の領有権が争われた。植民統治者との抗争や伝染病の影響によって先住民は18世紀末にはほぼ一掃された。

 

1783年、スペイン領トリニダードはセデュラ勅令を公布し、ローマ・カトリック系に限り外国人の入植を厚遇で募った。直後にフランスやハイチでの革命の影響によって、およそ1500人だった人口は十年ほどで18000人にまで急激に増加。フランス人入植者らが、アフリカ系奴隷や有色人種・ムラート(白人と黒人の混血)を伴なって流れ込み、カカオやサトウキビのプランテーション経営が広がった。

このときフランス人によってキリスト教四旬節典礼暦に依拠する断食や禁欲を行う期間)とともに、謝肉祭(語源は中世ラテン語のcarnelevarium;肉を-除く)という仮面舞踏会や仮装パレードを催す慣習がもたらされている。彼らは禁欲期間の前に連日羽目を外し、島での数少ない娯楽とした。

 

アフリカ系奴隷や使用人たちは、“品行方正”な主人たちが仮面をつけて繰り広げる舞踏会での“珍奇な”行いを揶揄する歌をつくって仲間内で嘲笑った。4分の2拍子を基調とした極めてリズミカルな歌唱は、当初はクレオール(現地化された)のフランス語で、後に英語で歌われるようになりカリプソの起源となる。識字率の低かった奴隷にとって即興のプランテーション・ソングがコミュニケーションツールであり、メディアであり、人権すら持たない彼らに許されたささやかな武器であった。

 奴隷たちは舞踏会への参加を許されておらず、サトウキビの収穫祭を独自に催すようになる。西アフリカの仮面を装着し、太鼓や唱歌、ダンス、カリンダ(音楽やチャントに合わせたスティックファイティング)などが饗され、18世紀半ば以降、彼らの伝統や文化的ルーツを祝する行事Canboulayへと発展を遂げた。

白人が伝えた舞踏会の風習は、イギリス統治下においても引き継がれ、やがてその担い手を換えてカーニバルの源流となっていく。

 

1797年にイギリス軍がトリニダード島を占領、1814年に正式にイギリス領としたが、有色人種らの財産や人権はそのまま保護されることとなった。地権の移譲や割り当てによって各地に町が作られていく。1830年代にイギリスは奴隷制度を廃止、解放されたアフリカ系の人々はプランテーション作業を離れてポートオブスペイン以東の都市部へと移動した。

「大衆」となった有色人種は、かつて白人たちが祝った四旬節前の仮装パレードに参加するようになり、半裸で唄い踊りながら町へと繰り出した。そこにはクレオール(植民地生まれ。「宗主国生まれ」の対義)の白人やムラートも多く含まれていた。彼らは上流階層への罵詈雑言や下ネタを交えたカリプソを公然と披露し合い、カリンダのメンバーらはしばしば暴力的抗争へとエスカレートした。

 

屋内へと追いやられた上流階級の一部は人種的偏見や部族宗教めいた騒ぎに対する嫌悪感を露わにした。有色人種が担う“カーニバル”が公序良俗を乱し、自分たちに対する報復的暴動へとつながることに脅威を感じ、パレード廃止を求めたのである。Canboulay的特色を排除しようと、太鼓の禁止や猥褻・冒涜的な歌の禁止、挑発的なダンスやカリンダの禁止など、20世紀前半まで数々の規制を設けていった。

ポートオブスペインのバラック小屋に住む労働者階級たちはギャングと化し、“ジャメット”という蔑称を付された。フランス語のdiametre(直径)が語源とされ、言うなれば「地下階級」として蔑まれたのである。彼らが「主役」となった1860年代から90年代にかけての祝祭は「卑猥」「堕落」「暴力」が特徴とされ、ポートオブスペインで発行されたGazette紙には1888年の様子が次のように記されている。

(筆者訳)女装した男性バンドのほとんどは、朝から晩まで街全体をパレードし、卑猥なダブルミーニングを含んだ曲、そして下品極まりないスケベなダンスを延々と繰り返した。 

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上流階級の性的思慮深さとビクトリア朝の規範を嘲笑っている・・・白人たちが不平を言えば言うほど、“ジャメットたち”は一層開放的に、ますます卑猥になった。

 

奴隷解放以降、白人農園主たちは労働力の不足を補うための仕組みを必要とした。インド、中国、ポルトガルなどから「研修者」たちが数多く集められ、Indentured servitude;年季奉公(現在で言う「職業実習生制度」に近い)の契約を結ぶことによって合法的に、安い労働力を大量に確保したのだった。奴隷のような私有動産ではなく、最小限の人権が認められ、体罰などは禁止されていた。彼らは「研修」で僅かな賃金を得ることができたが、斡旋業者に渡航費用を「返済」しなければならず二重の搾取に苦しめられた。

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East Indian at Trinidad, Morin Felix, around1890

当初、雇用の契約期間は3年と定められ、満期となれば帰国が保証されていた。しかし雇用主の要望により期間は5年、10年へと書き換えられ、「帰国」から遠ざけられる代わりに僅かな「サトウキビ畑」をあてがわれることとなる。1845年から1917年までの間でおよそ15万人ものインド人移民が訪れ、そのほとんどが故郷へ戻ることはなかった。

彼らは19世紀半ばからイスラム太陰暦に基づくアーシューラー(宗教記念日)の催事として、Hosayという祭りを始めた。モスクを象ったTadjah(木や紙で作られた神輿や山車のような移動式装飾碑)を囲んで数日かけてパレードを行い、最後は海に流した。宗教的には寛容で、インド人コミュニティ全体でかつての故郷を懐かしむ行事とされた。インド北部をルーツとするタッサという打楽器アンサンブルを奏でながら行進した。

植民地政府はこれをCoolie Carnival(Coolieはアジア人移民労働者に対する蔑称)と呼び、1880年代にはCanboulayと同じく厳しい弾圧を加えることとなった。84年、サンフェルナンド近郊に6000人のインド人群衆が接近した際、解散を求めたイギリス警察は暴動法を適用して発砲を行い、9~22名もの死者、100人以上の負傷者を出した(インド人においてはムフラム虐殺、当局によればHosay暴動と認識される)。

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A Tadjah at Hosay, Dr. Ted Hill, during the 1950s.

トバゴ島はかつてのアフリカ系奴隷の子孫たちが人口の大半を占めたが、貧困の拡大と繰り返される暴動により政情は安定せず、1889年にイギリス軍によってトリニダードと併合された。

 

度重なる締め付けにより半ば暴動と化したカーニバルに対して、当局は“アメ”を与えることで“飼い慣らす”施策に転じる。19世紀末、ポートオブスペインの商人によって衣装や賞金が提供され、バンド大会の後援が行われたのだ。商業的インセンティブが提供されたことにより貧困層は暴徒化ではなく、より社会的に容認される音楽活動やMASと呼ばれる精巧な仮装へと関心を向けた。

下は1914年に米国ビクターによりレコーディングされたホワイトローズ・マスカレードバンドを率いたヘンリー・ジュリアンによるカリプソ最古の録音。当時はまだカリプソの定義すら存在しなかったが、カーニバルでは各地のバンドが検閲の目をかいくぐる隠喩によって世相を反映した歌詞や植民政治への批判を唄い、しのぎを削っていた。

  

エクステンポと呼ばれる音に乗せた即興スピーチでの競り合い(フリースタイル・ラップに近い)なども人気を博し、バンドコンテストによって中産階級たちはカーニバルへと戻った。

 

1919年、低賃金の慣行に対する港湾労働者のストライキに端を発し、他の業種組合や労働者を巻き込んでゼネスト(政治・経済的要求のための地域全体に及ぶ総産業ストライキ)へと拡大。西アフリカやインドといったエスニックグループの垣根を超え、階級意識の高まりが大団結を生んだ。砂糖価格の崩壊と農産業の低迷、大恐慌の影響などによって、その後も労働運動は拡大。のちのトリニダード労働党の基盤となるTWA(トリニダード労働者協会)が中核を担い、反植民地主義の礎となった。

その一方で、1930年代には石油輸出が進み、中産階級の成長など、社会構造に大きな変化をもたらしており、インド映画の上映などもこの時期に始まっている。

 

 ドラムを奪われたことでCanboulayは形態を変えてその精神は引き継がれた。バンド隊はタンブーバンブーと呼ばれる竹製の打楽器を手に町を練り歩いた。祭りの存続を擁護した有色人種の中産階級たちは「トリニダード人」として為政者との掛け合いを続けながら、バンドマン達の新たな闘争;音楽的技術革新を後押しした。

下のカリブ海情報番組の動画では、タンブーバンブーやカリンダ(スティックファイティング)の貴重な映像、スティールパン草創期の生き証人たちが登場する。

 

タンブーバンブーは、筒の長さや中に容れる水量を変えるなどして音階や音色を調整し、楽器としての進化を遂げていった。しかし地面に打ち付ける演奏スタイルから竹の耐久性が課題とされた。1937年、労働争議の活性化などを背景に、そのタンブーバンブーにも植民政府から規制が入る。しかしバンドマンたちは竹の武器を奪われたことで、より強い武器を手にすることになる。

1930年代末、竹規制と時を同じくして、スティール・パーカッションを用いたバンドが島内各地で同時多発的に登場した。すでに19世紀からブリキ缶や薬缶、鍬、植木鉢を打ち鳴らすといった代用品の試行錯誤もなされていた。39年には現在のカリプソモナークの前身となるカリプソキングが設立され、新たな時代の幕開けが予感されたのも束の間、第二次世界大戦の影響でカーニバルは禁止された。

戦中には米軍基地が置かれ、人種差別による衝突を引き起こしたものの、島内のインフラ面の改善などに寄与したとされる(独立まで駐留は続いた)。さらに米軍によって大量の55ガロンドラム缶がもたらされたことは、スティール・パンの進化と普及に無関係とはいえないだろう(戦前はビスケット缶が主流だった)。

 

金属は叩けば音が鳴ることは自明であり、スティール・パン開発には多くの島民が関わっているため、“オリジネーター”は明確には存在しない(どのバンドにも“パンの創始者”がいた)。だが戦後の本格的なパン・ムーヴメントを担ったパイオニアのひとりとして、1930年生まれのウィンストン“スプリー”サイモンの名が知られている。彼の幼少期にはすでに竹だけでなく、スティールを楽器に用いるバンドマンたちがいた。いわばスティール・ネイティブ世代である。

そのためスプリー自身がオリジネーターを名乗ったことはないが、一種の「伝説」が残されている。バンド仲間に貸した鍋がボコボコになって却ってきたので凹みを直していると、叩く箇所によって音色が異なることに気付いた。試行錯誤の調整によって、4音に奏で分けられるパンを作成したとされている。大戦中も改良は続けられ、43年までには9音、戦後復活したカーニバルでは14音を奏でる驚異のパフォーマンスで大きな喝采を集めた。

1950年、スティールバンド協会が設立され、革新的チューナー・エリオット“エリー”マネットらは51年にTrinidad All Steel Percussion Orchestra(TASPO)として英国BBCのフェスティバルに招待され、演奏を披露している。

 

 時代が進むとアフリカ的要素はヨーロッパ的表現と中和され、更なる洗練を遂げていった。戦後、カリブ人たちが旧宗主国に渡ってコミュニティを築いたことが契機となり、1950年代にはLord KitchenerやMighty Sparrowといった国際的なカリプソニアンが誕生している。またトリニダードのインド人コミュニティでは結婚式や催事にチャットニーという祝歌が広く普及し、一層の共同体意識が醸成された。

 

かつての植民地支配によって謝肉祭が祝われ、開催日を決定づけた起源ではあるものの、白人やキリスト教文化に“カーニバル”の本質が備わっていた訳ではない点に留意すべきである。元奴隷や年季労働者、その子孫たちが「担い手」となったことで、寓話・演劇を基に「仮装」の概念をMASへと拡張し、西アフリカやインドの祭礼由来のパーカッション、リズムコード、歌唱法がハイブリッドな進化を遂げて、人々をカーニバルへと駆り立てたのである。

いわば白人至上の植民地主義と有色人種の抵抗運動とが衝突し合い、年月をかけて互いの対立意識を擦り合わせながら、カーニバルに魂が吹き込まれたとも言える。

 

 

大戦後、イギリスは脱植民地化のプロセスを開始し、ウェストミンスター制の採用、普通選挙導入など民主化への歩みを進めた。

植民地支配からの決別を謳った政治史家エリック・ウィリアムズによる人民国家運動党(PNM)は産業基盤やエスニシティを基調としない教育改革や工業改革を訴える協調路線を唱えた。1956年、立法評議会の過半数を獲得。62年8月のトリニダード・トバゴ独立へと導き、81年まで長期安定政権を築いた。

インド系トリニダード人を代表する政治活動家バダセ・マラジは工員やトラック輸送から財を成し、バラモン階級の出自等からヒンドゥー・コミュニティで多くの支持を集めた。彼は1952年にMaha Sabaという政治結社を率い、インド人学校の設立などヒンドゥー復興運動を進め、のちに農業重視を綱領に掲げる民主労働党DLP)へと発展。71年にDLPは投票機の使用に抗議して総選挙をボイコットし事実上崩壊したものの、主にアフリカ系からの支持を集めるPNMと、インド系の支持を中心とした第2党によるその後の対立構図を形成した。

また独立前の1960年から、最後の英国総督を務めたソロモン・ホチョイは大英帝国下で初の非白人知事であったことも、(英国側の調整的意図はあったにせよ)同地の民族的多様性を象徴していると言えるだろう。

 

アメリ公民権運動と同時期の68年から70年にかけて、利権の多くは依然として外国資本や白人少数派が掌握していたことや、カナダでの人種的差別への抗議をきっかけに、ゲデス・グレンジャー(マカンダル・ダーガ)率いるNJAC全国共同行動委員会を中心とした反政府デモが過熱した(ブラックパワー運動)。

NJACメンバーのベイシル・デイヴィスが警察に殺害されたことで抗議は激化し、油田や運輸産業によるゼネストへの拡大のおそれから、ウィリアムズ首相は非常事態宣言を発令。反乱は封じられたが、政府はその後も汎アフリカ主義や野党への配慮を余儀なくされる。

 

1963年、カリプソニアンのロード・ショーティはカリプソのメロディに、チャットニー音楽で用いられるタッサ、ダンタル、ドーラクといったインドルーツの楽器を用いてテンポを上げ、アメリカ音楽のソウルの要素を加えたSocaへと昇華させた。その後、ヒップホップやレゲエシーンとも影響し合いながら進化を続け、祝祭的なムードからEDM(エレクトロニックダンスミュージック)界隈でも人気を博している。

またバンド、カリプソはそれまで男性に限られてきたが、大衆化と競技化によって女性カリプソニアン・カリプソローズがこの時期に登場している。

 

 

同じく63年、カーニバルに合わせてトリニダード公式のスティールパンコンペティション大会Panoramaが開始。企業スポンサーによりその規模は拡大し、数十から百人前後で構成されるラージオーケストラほか、ミドル、個人、子ども部門などがある。全国に大小200以上あるとされるバンドが大会を目指し、人気のカリプソなどを演奏する。

カーニバルやコンペティションに観光産業やダンスプロモーターが関わり、商業的な側面が増幅されたことでパフォーマンス水準は上がり、国際イベントとしての注目度も高まった。大掛かりなステージやサウンドシステムがより多くの人々を魅了する一方で、大衆の手によるMASやバンドへの注目は薄れつつあることも一部には指摘されている。

 

 

■事件概要

2016年2月10日、灰の水曜日。ポートオブスペインの街は、前夜までのカーニバルの喧騒から一転して静かな休日を迎えた。清掃員たちだけが慌ただしく街中を駆け回っていた。

朝の会見で、トリニダード・トバゴ警察スティーブン・ウィリアムズは42人の逮捕者を出したが、死者はなかったとして、カーニバルの成功を宣言した。前年には5名の死者を出し非難が挙がったが、治安回復の約束を守ったことを示した。

しかし9時30分頃、クイーンズパークサバンナ公園ではホームレスの男性が茂みの木の根元に何かを見つけて叫んだ。ジェフ・アダムス氏は「男はポッサムかイグアナだと思ったようだが、見てみると下半身のビキニだった」と発見時の様子を記者団に語った。発見されたのはカーニバル用の派手なビキニ衣装をまとった女性の遺体だった。

カーニバルに没頭したアダムス氏は日曜夜から公園で寝泊まりしていたが、「カーニバルの最中は色々なことが起こるので、夜中に女性が騒いでいたとしても気に留めなかっただろう」と述べた。右ひじに裂傷、腰にあざのような跡が見られ、「自分には強姦のように見えた」と語った。

 

女性の遺体は、1月7日に入国していた北海道札幌出身、横浜在住のスティールパン奏者・長木谷麻美さん(30)と判明。着用の黄色いカーニバル衣装はマスカレードチーム・レガシーのものだった。

麻美さんはかねてより定期的にトリニダードへ訪れおり、フェイズⅡパングルーヴ、PCSニトロゲン・シルバースターズといった名門チームで活動し、スティールパン大会Panoramaやカーニバルパレードにも演奏者として参加していた。

11日、解剖を行ったセントジェームスの法医学センター法医病理学者ヴァレリー・アレクサンドロフ博士は扼殺(手による絞殺)と断定。

彼女と一緒にいたと見られる男女数名が取調べを受けたが、全員釈放。19時以降の彼女の足取りは不明とされ、事件は長期化した。

 

事件発生を受けて、ポートオブスペイン市長レイモンド・ティム・キーは、“You have to let your imagination roll a bit and figure out was there any evidence of resistance or did alcohol control?(少しは頭を働かせてみろ。被害者が抵抗したり、酒を飲まされた証拠はあるのか?)」と述べ、vulgarity and lewdness(下品さと淫らさ)が性犯罪を誘発したとする見解を示し、「女性は虐待されないようにする責任がある」と発言。翌日、衣装を着けていなかったと聞いており誤った想像による発言だった、と弁明した。

これに対し、女性団体らは、市長による「被害者非難」、「加害者擁護」とも取れるセカンドレイプ発言を厳しく非難。「公職に適さない」として、市長発言から数時間でオンライン請願を開始し、金曜までに8000を超える辞職嘆願署名を集めた。

キース・ロウリー首相は「“謝罪”は依然ミソジニーに満ちており、犠牲者に非があるという彼の主張を強化している」「市長は哀悼の意を表明することすらしないまま、彼女の死に関するスキャンダラスな憶測を提供し続けた」と遺憾を表明した。キー市長は辞任し、ケロン・バレンタイン副市長が後任となった。その後の検証では暴行を受けた決定的証拠は得られなかったと報告された。

 

2017年、検死解剖を行ったアレクサンドロフ博士は西インド大学セントオーガスティン校での講演で事件について触れた。絞殺跡からは加害者が左利きであったこと、彼女の頬に残された「噛み跡」から加害者は前歯が4~6本かけていたことを明らかにした。この情報に基づいて、10人の容疑者が釈放されたとしている。

 

麻美さんは日本でプロのパン奏者としてフェスティバル出演やライブ活動、ワークショップのほか、医療従事者として働きながらお金を貯め、2011年からは毎シーズン、トリニダードへ通っていた。彼女が単なる一観光客ではなく、何年にもわたってトリニダードの音楽、環境を愛し、地元の人々とも信頼関係を築いていたことが報じられると、現地人や演奏家、彼女と同じようにトリニダード愛する人々の間により大きな悲しみを与えた。

 

彼女はマスター原田芳宏氏率いるPanorama Steel Orchestraのフロントマンとして活躍した。 2015年8月、トリニダードで行われた初のスティールパン世界大会International conference and Panoramaにアジアで唯一の招聘を受け、地元チームや世界の強豪を相手に堂々のパフォーマンスを見せた。

また2009年・10年とPanorama現地大会で優勝した名門Silver Stars Steel Orchestraに魅了され、2012年から活動に参加していた。下の動画はダイナミックなパフォーマンスで7位入賞を果たした2016年大会。

www.youtube.com

事件の2日後、シルバースターズは追悼の演奏とメッセージを発表し、麻美さんへの想いを伝えた。明るい笑顔や仲間たちとの親愛の様子を見るだけでも、トリニダード・トバゴは彼女にとって“第二の故郷”だったことが伝わってくる。

Asami had a special relationship with each and every person in the band. We always anticipated her arrival for every carnival season and just before you know it that bright smile entered the pan yard. There are so many great memories over the years that we will cherish. We love and miss you Asami, it will never be the same without you.(Silver StarsのFacebook、2016年2月12日投稿より部分引用)

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Asami Nagakiya with silver stars family[facebook

(筆者訳)麻美はバンドの一人一人と特別な関係を築きました。明るい笑顔が私たちの仲間に加わってからあっという間に、カーニバルシーズン毎の彼女の到着を待ち望むようになりました。私たちは彼女と過ごしたたくさんの素晴らしい思い出をこれからも大切にしていきます。私たちはあなたを愛していますよ、麻美、もういないだなんて考えられません。

 

2021年3月19日、トリニダード・トバゴ未解決事件捜査班(TTPS)は、長木谷麻美さん殺害の容疑者についてDavid Allen(31)と特定したことを発表。被疑者死亡により捜査終結が報告された。検察局長(DPP)ロジェ・ガスパールは調査が徹底的に行われたことに満足を表明した。

David Allenは、麻美さん殺害からおよそ10か月後の16年12月12日、ウッドブルック・アリアピタアベニューにあるカジノ・レストランで強盗事件を起こし、現場から逃走の際、非番だった警察官と銃撃戦となり死亡していた。男の顔は化粧が凝らされ、ぴったりとした服を着て女装していた。

Allenには遡って前科もあった。2004年の18歳当時、放浪者になりすまして、ポートオブスペインでナイトクラブ帰りの電気技術者を襲い、窃盗を試みた。しかし抵抗の末、技術者は腹部を撃たれ、病院に運ばれたが死亡。殺人罪により起訴された。2012年、過失致死が認められ、(それまでの収監期間8年に加えて)4年6カ月の判決を受けた。

 

死人に口なしで、いかような証拠が被疑者を指示していたかは報じられなかったが(警察発表では、あらゆる証拠がAllenが犯人であることを示したとされた)、事件は解決を見た。

刑期を終えたばかりのAllenは久々のカーニバルの熱気を浴びて興奮していただろう。その目には、麻美さんが東アジアからカーニバルにやってきた観光客に映ったかもしれない。彼が亡くなったときの女装が犯罪のために施された扮装だったのか、彼の性的アイデンティティを示すものかは不明だが、「仮装カーニバル」との符合にも思えて妙に物悲しい。

 

 

私たちはもう二度と彼女の演奏を直接目にすることはできないが、インターネット上にいくつかの演奏や仲間たちとの写真が今もアクセス可能な状態で残されている。多くの哀悼メッセージや楽曲が、彼女のために捧げられている。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

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参考 

Homeless man discovers body of Japanese female pannist - Trinidad Guardian

TRINISOCA.COM - Trinidad and Tobago Soca, Calypso and Carnival

TRINBAGOPAN.COM - "Out of pain this culture was born"

National Archives of Trinidad and Tobago, Nikita Budree, 冥界のカーニバル‐トリニダードのジャメット・カーニバル 

・Trinicenter.com, Corey Gilkes, トリニダードカーニバル アフリカ-カリブ海の抵抗

Caribbean Beat