いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

松岡伸矢さん行方不明事件について

1989(平成元)年、徳島県で発生した松岡伸矢さん(当時4歳)の行方不明事件について記す。目を離した僅か数十秒の間に忽然と姿を消した「平成の神隠し」とも呼ばれる。

2019年現在も発見には至っておらず、特定失踪者問題調査会のリスト「拉致の可能性を排除できない失踪者」にも含まれている。

www.police.pref.tokushima.jp

情報をご存知の方は

徳島県警察本部 警備部公安課 088-622-3101(公安課担当係) 又は

徳島県美馬警察署 0883-52-0110

 

 

■概要

3月5日(日)、茨城県牛久市で暮らす松岡さん一家の許に、徳島で離れて暮らす伸矢さんの祖母が急逝したとの訃報が届く。一家5人は急遽徳島へと赴き、翌6日、小松島市で営まれた葬儀に参列した。

その後、小松島市から西へ約60キロ、車で1時間強の美馬郡貞光町(現つるぎ町)平石の山間にある親戚宅で一夜を過ごした。

 

3月7日(火)朝8時過ぎ頃、父・正伸さんは子どもたちを連れて散策に出た。朝食ができるまでの間、普段見ているテレビ番組が放映しておらず子どもたちが手持ち無沙汰にしていたので退屈しのぎに出かけたのだという。まだ幼い二男を胸に抱えて、伸矢くんと長女、親戚の子(伸矢くんたちの従姉妹)と一緒に家の近くを10分ばかり歩いた。

ほどなく親戚宅まで戻ってくると、伸矢くんは「まだ散歩をしたい」とせがむ様子だった。正伸さんはそのまま女の子たちと一度家の中に入り、抱えていた二男を居間にいた妻に託した。すぐに玄関先へと戻ったが、そこにいたはずの伸矢くんの姿はなかった。ちょっと目を離した隙に、少年は忽然といなくなったのである。

体感としては僅か20秒、その後の検証でも40秒ほどの極く短時間であった。

 

散策した道を戻って探すも見当たらなかったことから一家は騒然となり、親戚や地元消防団らと手分けして近隣一帯を捜索するも見つけることができず、10時頃に警察へ通報した。

上の地図でも分かる通り、現場となった平石地区は農家が僅かに点在するだけで、一帯はほとんどが山林で占められている。

JR貞光駅周辺には住宅街もあるが、親戚宅のある山間部は通り抜けができないため車通りはほとんどない地域である。その時間に現場から100メートルほど離れた畑で農作業中の住民もいたが通行人や車の出入りには気付かなかったという。

 

貞光警察署員10数名が集められ、機動隊員、消防団員、住民らも併せて100名体制、翌8日には200人体制で捜索が行われた。見落としのないよう隊列を組んでの「山狩り」が行われたが遺留品すら発見することができなかった。警察犬21頭も動員されたものの、晩に降った雪の影響もあってか、車の通れない林の中で匂いを見失った。

貞光署は身代金誘拐の可能性も考慮し、親戚宅に録音機材を設置。予期せぬ事態に一家は同地での滞在を伸ばしたが、長男の消息は掴めないまま17日に茨城の自宅へと戻った。

その後も現地での捜索活動は続けられたが、有力な手掛かりを得ることなく3か月後に打ち切りとなった。

 

■特徴・状況など

松岡伸矢くんは行方不明当時4歳。身長約110センチ、体重約19キロ、やせ型の体格だった。

手は左利き。左眉の上中央付近に蜂に刺されてできた米粒大のうすい傷跡があった。

自宅の住所や電話番号も記憶しており、読み書きや計算もできる年の割にしっかりとした利発な子で、電車が好きだった。

半年ほど前にも同じ親戚宅に訪れたことがあり、そのときはドングリ拾いなどをして遊んだ。

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松岡さん一家は父正伸さん、母圭子さん、姉、伸矢さん、弟の5人家族。

正伸さんは香川県出身で、日本のソフトウェア企業に勤めた後、外資系コンピュータ関連企業に転職しマーケティング部門を担当した。以前は残業や休日出勤などでこどもたちと過ごす時間が取れなかったことも転職理由の一つだったという。

89年初頭に茨城県牛久市に新築一戸建てを購入して、新生活が始まったばかりだった。

 

祖母の死を「急逝」としたのは、訃報が伝えられるつい30分ほど前まで圭子さんと電話で話していたためである。「また会いたいね」などと話していたが、思いがけないかたちでの徳島行きとなった。

祖母の葬儀は徳島県小松島市で行われた。祖母は再婚しており圭子さんも義父方とは疎遠であったため、参列者は松岡さん一家とは縁遠い顔ぶればかりだったとされる。

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親戚宅は標高200メートル前後の山裾にあり、町道の終点付近だったため外部からの出入りは極めて限られる。周辺で交通事故などの痕跡は見られないことからも、当初は「山での遭難」が強く疑われた。

建物は傾斜地のやや高台にあったため、舗装路とは別の近道として、道路から玄関までの急勾配に約10メートルの石段があった。そのため平地と違って道路から人が上がってくるにも時間を要する。

仮に父親が目を離した時間に数十秒程度の誤差があったとしても、こどもにとっては幅の広い急な石段で駆け下りるのは困難なことから、そう遠くへは行けないように思える。

 

 

■不審な電話

一家が親戚宅に留まり捜索を続けていた3月16日の夜、母親宛に不審な電話が入る。電話口の女性は「ナカハラマリコの母親」を名乗った。応対した正伸さんは「だれか分からないけど徳島弁だよ」と言って妻に替わった。

女性の話は、「S幼稚園」のクラスの父兄で見舞金を集めたのでどこにおくればよいか、(徳島から茨城へ)もう戻ってくるのか、という内容だった。S幼稚園は伸矢さんの姉が通う茨城の自宅近くに実在する幼稚園である。母親は、明日17日(金)に帰る旨を答えた。だが茨城に戻ってからは音沙汰もなく、数日経って幼稚園に確認してみると、見舞金を集めた事実はなく、ナカハラマリコという名前の生徒は存在しないことが分かった。

後に正伸さんが警察へ事情を話し、当時の録音テープの内容確認を求めたが、「何も入っていない」として確認を拒まれたという。食い下がってようやくテープを聞かせてもらうことはできたものの、電話を取り次ぐ正伸さんの声は残っていたものの女性とのやりとりの部分はなぜか収録されていなかった

 

この電話についてだけでも様々な疑問が浮かぶ。

第一に徳島の人間と思しき人物がなぜ茨城県の幼稚園のことまで知っていたのか。公開捜索は開始されておらず、茨城の知人が伸矢くんの行方不明を知らされていたのは極く少数と思われる。また茨城県の人間が徳島の親戚宅の電話番号を知っていた(調べてかけた)とはまず考えにくい。

町内放送を聞きつけた近くの住民であれば「茨城から来た男の子が行方不明になっていること」は知れたであろうし、捜索参加者であれば「姉がいること」を窺い知ったとも推測できるが、姉の幼稚園名やクラスまで伝えていたとも思えない。

徳島の近しい親戚や圭子さんの旧友ならば茨城での生活や幼稚園についても話を聞いていたかもしれないが、それとて人数は限られ、声色などからもすぐに目星がついたことであろう。あるいは先日の葬儀に参列した遠縁の親戚などであれば、行方不明のことや家庭の事情を耳にする機会はあったかもしれない。

知らない相手だったことから圭子さんが会話の流れで「S幼稚園の方ですか?」「○○組のですか?」といった問いかけをし、相手がそれに調子を合わせるかたちで返答していたことも考えられる。

録音が残されていなかった点についても、通常であれば「録音機材のトラブルや誤操作」とみるのが妥当なところか。たとえば電話に出た父親が録音ボタンを押し、失踪とは無関係な相手(妻の知人)だと早合点してしまい無意識に録音をオフにしていたり、電話を途中で代わった母親がすでに録音中と気付かず録音開始のつもりで誤ってオフに切り替えてしまった等といった可能性である。連日の捜索で家族は疲弊し、「まさか誘拐犯からの電話ではないか?」といった緊張が重なって無意識に誤操作が生じる可能性は高いように思う。

 

またご両親の作為をくさす意図なく、テレビ制作のやりくちを疑ってみれば、そもそも電話自体なかった、番組出演の際に話題性を加味するための「仕込み」エピソードということは考えられないだろうか。

今日でも広く知られる未解決事件には、印象的な電話や怪文書が多く存在する。

・鈴木俊之くん事件の「なーに、トシちゃん?」の怪電話

・ワラビ採り事件の「この男の人わるい人」のメモ

・安達俊之さんの「俊之つかまっているよ」の怪電話

西安義行さん事件の「明かりをつけましょぼんぼりに…」の怪電話

・南埜佐代子さん事件の「ああ、苦しい…悔しい…」の怪電話

加茂前ゆきちゃん事件の「ミユキサンカアイソウ」の怪文書

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

・増山ひとみさん事件の「お姉ちゃんだよ」の怪電話  などが知られている。

そうした全てがメディアによる「捏造」だとは思わないし、多くは第三者の悪戯(又は行き過ぎた善意)と考えられるが、犯人やその関係者が実際にアクセスしてきた可能性も完全にゼロとは言い切れない。こうした文書や音声として残されるメッセージから滲み出る得体の知れなさ、不穏さは、意味やその意図が不明瞭であるがゆえに却って人々の脳裏に刻み込まれる。

 

ナカハラマリコの母親を騙った電話の目的は何だったのか。会話は偽りであり、父親に伝えてもおかしくはない内容であったのに、なぜ父親ではなく母親と話そうとしたのか。疑問符は際限なく浮かぶが、通話内容からすると犯人や事件解決に結び付く線とはいえないだろう。

一家が徳島を離れたとて捜索が続くことは明白であり、この電話で何かの目的が達成されたようにも思われない。おそらくは母親に励ましの言葉でもかけるつもりで電話を掛けたが、父親の応対に慌ててしまい嘘を重ねた、といったところではないか。

 

■たくさんの“伸矢さん”

事件後、正伸さんは捜索活動に時間を当てるため会社勤めを辞めて自営業となり、以降50回以上ものテレビ出演等で情報提供を訴えた。

目撃者が警察への通報をためらうことを危惧してか、当時は警察不信もあったのか、自ら電話番号を公開して全国各地から情報を受け付けた。

なかには無関係な情報や嫌がらせの類もあったには違いない。しかし両親は一本一本の電話に真摯に応対し、それと予感させる情報が飛び込んで来れば現地へと駆けつけて詳しく話を聞いて回った。

テレビ番組で放映された情報提供の事例をいくつか紹介する。 

◆「山形県米沢市のデパートの前で、そっくりの男の子を見た」との情報提供から、現地でビラ配りを行ったところ、「この子なら上杉公園(宮城県仙台市)で見た」「売店にいた」という情報を新たに得たがそれ以上のことは分からなかった。

◆神奈川県の電車で見掛けて、心配になり声を掛けた。少年の「手首は傷だらけだった」。「おじさんと一緒に住んでいる。おじさんから嫌なことをされる」「普段はよく女の子の格好をさせられている」と不穏な暮らしぶりを語るため、連絡先を渡して別れた。(1998年4月17日放送)。この証言者は後述するYouTube番組にも情報を提供している。

◆「96年8月、山手線の車内で手に包帯を巻いた少年を見掛けた」「男の方が両脇に2人座られて、手の甲とかそういうところに傷がありまして……」(1998年9月11日放送)

◆「夫婦らしき男女に敬語に近い言葉で話して、本当の親子に見えなかった」「お遍路さんいう感じの白い服装」(1999年12月29日放送)

岡山県レンタルビデオ書店で「本を選んでいる伸矢さんらしき少年」の目撃談が寄せられ、現地に話を聞きに行っているVTRも放映された。「手首には多数の傷が見え、付き添いの男性は暴力団員風で見張っているようだった」と言い、不審に感じた店員が店長に報告してから様子を見に戻るとその姿はすでになかったという。

 

番組で取り上げられたものだけでも各地から様々なケースが寄せられており、いずれも切迫した少年の暮らしを想像させる内容である。

だがいずれも本人確認が為された上での情報ではなく、第三者の目から見て「親子には見えない」、「普通の生活をしている子どもではない」といった不安感が失踪した伸矢さんの「その後」を予感させ、松岡さんの元へと連絡したものが多いようだ。

多くの人は伸矢さんに生きていてほしい気持ちと、かわいそうな子どもを見つけて「もしかしたら…」と思うと放っておけない責任感からそうした情報提供を行っており、その中に伸矢さん本人の情報が含まれていた可能性もないとは言いきれない。

とはいえ寄せられた情報の全てに充分な追跡を費やせるものでもなく、できるかぎりのことを続けていく以外に道はない。

母圭子さんは「一日一日、どんな環境のなかでも生きるエネルギーをあげられるのはやっぱり母親の私しかいないのかなと思うので、どんなに自分が辛くても頑張って、あの子に力をあげ続けたい」と決意を語っている。その懸命でけなげな姿、人生を捧げる家族の愛情は全国の人々の胸を打ち、伸矢さんは今なお人々の心に刻まれている。

 

拉致・誘拐被害の中で、そうした親の懸命な捜索活動が本人の目に触れ、生還につながった事例として埼玉県朝霞市で起きた誘拐監禁事件がある。

少女は犯人からの精神的拘束を受けて長期の軟禁状態に身を置いていたが、自分の捜索を続けている両親の姿をインターネットで見つけて脱出を決意したとされる。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

北朝鮮による拉致説

事件から約1か月、徳島県内で「少年の神隠し」は大きく報道されていた。そんな89年の4月か5月の終わり頃、徳島県海部郡日和佐町(現海部郡美波町)の弁天浜で伸矢君によく似た子を抱いて海を眺める不審な男性がいたという目撃情報がある。

情報提供者は目撃当時、事件と係わりを持ちたくない思いから通報を躊躇したが、10年近く経って良心の呵責から連絡に至ったと語る。

浜へ釣りに訪れた際、子連れの男性を目にし、その子の顔が連日報道されていた伸矢さんにそっくりだったことから目を凝らすと、男性はその子を隠すように背を向けてしまったという。特定失踪者問題調査会によれば、日和佐は北朝鮮の船が来航する港の一つとされている。

 

また徳島県近郊での特定失踪者として2005年2月25日(第12次)に公開された戸島金芳(としまかねよし)さん(当時19歳)がいる。

戸島 金芳 | 特定失踪者問題調査会

金芳さんは1956(昭和31)年1月14日、暗くなってから「東京に住む弟に会いに行く」と言って美馬町の自宅から出かけたまま消息を絶った。出掛けに母親が小遣いを持たせていたが、翌日郵送で送り返されてきた。自宅に残された写真の裏には「さようなら 彼(か)の山 彼の川 そして彼の家」と書き置きのようなものがあった。

普段は農家の手伝いをしており、農閑期には山口県へ出稼ぎに出ていた。失踪の半年ほど前から、夜中に部屋から朝鮮語のラジオ放送が聞こえ、悩んでいる様子だったという。
どういった経緯で北朝鮮による拉致被害が疑われているのか(ラジオ?)、詳しい住所や目撃情報の有無などはweb上では確認できないが、「失踪現場」は貞光駅とされており、伸矢さんがいなくなった親戚宅の最寄り駅(約2キロ)で非常に近い。

 

筆者は拉致問題に疎く、一方で北朝鮮による拉致そのものは過去に存在した事実なのでその可能性を完全に否定するつもりはないが、いくつかの疑問が浮かぶ。

まず1989年当時、北朝鮮の船が日和佐や周辺地域に来航した記録はないこと。だがこれは密航の可能性を考えれば大きなネックとは言えない。過去に就航していれば接岸できる箇所など周辺の目星はつけられる。

では「4歳児」を拉致する目的についてはどうか。日本人拉致はそもそも対南(韓国)のテロ工作員養成のために行われた「訓練」のひとつと理解される。1987年11月に起きた大韓航空機爆破テロの実行犯・金賢姫らの日本語などの指導に当たった拉致被害者田口八重子さんとされる)もいたが、爆破テロ以降は西側諸国の強い警戒から「日本人を装った工作員」の密入国・テロ工作は行われなくなった、新たな日本人は必要なくなったと考えるのが筋であろう。

当時の情勢を少し確認しておくと、88年、韓国がソウルオリンピックを成功させロシアとの国交を回復し、南北の溝は一層広がっていた時期に当たる。対外的孤立と食糧難などに陥った北朝鮮は、90年に金丸信副総理の訪朝団、91年に日本からの留学生第一号となる李英和氏受け入れなど、急速に日本との接近を試みている。そうした南北関係・東西情勢の危ういバランス、国交正常化を謳った(植民地支配に対する「賠償金」の引き出しを狙ったとみられる)日本との外交関係をよそに、山で4歳の少年を攫うリスクを冒すとは俄かには考えづらい。

また91年の北朝鮮留学時、李英和氏が聞かされたいわゆる「拉致講義」でも金正日が立案・指揮した日本人拉致作戦は1976~87年で完了したとされ、それ以外の時期にはやっていないとされている。

たとえば伸矢さんが祖母の葬儀が行われた小松島市や、かつて朝鮮船の来航のあった日和佐町のような沿岸地域で迷子になっていたというならばいざ知らず、山間部の家の玄関先まで来て親がいつ戻るかも分からない一瞬の隙を突いて子どもを攫う工作員の姿を想像するのは些か難儀を極める。

工作員であれば作戦前にそれなりの人定を行うものと考えられ、急遽徳島を訪れることになった4歳の少年を狙う意図があるとは思えないのである。

 

■記憶をなくした青年

2018年1月31日にTBS系列で放映された『緊急!公開大捜索’18春 今夜あなたが解決する!記憶喪失・行方不明スペシャル』に出演した和田竜人さん(仮名)について、年齢や境遇などから「伸矢さんではないか」との声が寄せられて注目を集めた。

番組で、和田さんは「記憶を欠損した身元不明者」として出演し、約17年間「おじさん」によって軟禁状態で育てられたと述べた。

4歳頃に両親と思われる人たちと車で移動中に居眠りし、目覚めると「おじさん」のところにいたと説明。「おじさん」は当時50~60歳で大柄な体格だったと言い、家は2階建の一軒家。97年8月21日に「今日で5歳になった」と告げられた。付き添われて15歳頃に10回ほど歯医者に通院した以外、外出した記憶はないと話した。

TVを盗み見るなどして言葉を習得し、20歳頃に児童虐待などのニュースを見て自らの置かれている環境の異常さに気付き脱出を決意。2014年6月に「おじさん」の家から逃走し、愛知県弥富市のショッピングセンター内トイレで脱水症状で意識不明のところを保護された。

しかし過去の虐待に対する防衛本能によるものか、それまでの記憶のほとんどを失ってしまい、施設で保護されてから回復後は便利屋として働いていると紹介された。

 

番組内では三重県四日市市のコンビニで7~8年前にバイトしていたキタザワヒサシさんに似ているとする情報も寄せられていた。中学時代のキタザワヒサシさんの卒業アルバムが流出し、Twitter上では元同僚という人物も現れ、「あっ、これはキタザワですねwwww」とツイート。

ネット上ではいわゆる“特定班”が動き、2012年6月の朝日新聞「僕が支えなきゃ貯金53万円で2700票」なる見出し記事で登場した「三重県から武道館に来た会社員北沢尚さん(22)」ではないかと指摘される。同様にAKB48松井咲子“推し”としてワイドショー番組「ミヤネ屋」にも登場していたことが判明する。

4歳当時の伸矢くんの写真と和田竜人さんは、第三者の目から見れば「どことなく似ている」風貌で、過酷な日々を送ったことを考えれば多少雰囲気が変わっていてもおかしくはないようにも思われた。

だがキタザワさんの卒アルやミヤネ屋出演時の松井咲子“推し”は、だれがどう見ても和田竜人さんと「瓜二つ」であった。このことからネット上では番組側による「仕込み」「ヤラセ」が疑われ、話題となった。

「緊急!公開大捜索」放映の翌日、徳島県警が伸矢さんのご両親と男性のDNA鑑定を行う方針と報じられ注目が集まった。しかし翌日には「別の有力情報が入ったため」DNA採取を見送ったとされ、何やら雲行きが怪しくなる。だが却下する意味合いでの「見送り」ではなく、より本人の可能性の高い情報も寄せられたため、一時DNA鑑定は保留とされるかたちだった。だが結局は当初の予定通り、3日に夫婦の口内からDNA採取が行われた。

 

放映から一週間後の2月6日、正伸さんは自身のFacebook上でDNA鑑定の結果、和田竜人さんを名乗る男性との「親子関係は認められなかった」ことを報告した。鑑定前から親の直感としてこの結果を予想していたと語っている。男性の身元判明を願いつつ、思わぬかたちで伸矢さんへの注目が高まったことに驚きと感謝の意を表した。

 

 

尚、番組放映後に三重県四日市市の男性が「2014年に自宅からいなくなった息子ではないか」と名乗り出ており、DNA鑑定の結果、「親子として矛盾しない」ことが確認された。

親子は当時三重県川越町に住んでおり、男性の発見場所である愛知県弥富市とは木曽川を挟んで12キロしか離れていなかった。以前にも記憶を失って行方が分からなくなった時期があったという。

通常の行方不明者であれば本人確認がなされるものの、和田竜人ことキタザワさんは「本人」である記憶が欠損し、事実にない記憶が形成された解離性遁走だったことから特定が困難だったと考えられる。また愛知県一宮市心療内科院長が患者本人の同意を得たうえで、放映より2年前の「2016年4月17日」に番組で紹介された内容と全く同じ症例を紹介している。キタザワさんが以前に遁走した際の診療で得られた症例ではないかとされている。

 

■目撃者

恐怖体験談や未解決事件を扱うYouTubeチャンネル『ネオホラーラジオ』では、かつて神奈川県の電車内で伸矢さんによく似た少年を目撃した女性がTV等で伝えきれなかった情報を補足紹介している。

 

女性は事情により日本を離れることになったが相当に印象に残っており、少年を苦しい境遇から救うことができず心残りとなっていたことがよく伝わる。

たとえこのときの少年が伸矢くんでなかろうともどこかで生き抜いていることを願いたい。

 

■澁谷美樹さん事件

「ほんの僅か目を離したすきに」幼児の行方が分からなくなった事例として、宮城県川崎町で起きた澁谷美樹さん(当時3歳11か月)の事件がある。

1983(昭和53)年11月1日16時頃、祖父喜代治さんが美樹さんの通う町内の保育園へ車でお迎えに行った。両親は勤めに出ており、お迎えはおじいちゃんの日課だった。

長閑な田畑を臨む帰り道で知人の姿を見掛けた喜代治さんは車を停めて、美樹さんを助手席に残したまま25mほど離れた田んぼへと降りていった。農作業の打ち合わせのために知人と2、3分程のごく短時間会話をして、車に戻ってみると美樹さんの姿はなく、鞄と帽子だけが残されていた。助手席のドアが数十センチ開いていたことから、慌てて知人と周辺を探し回ったが見つけることができず、大河原署に届け出た。

 

行方不明当時は知人が脱穀機を稼働させており、周囲の音が聞き取りづらい状況だったとされ、祖父は助手席のドアが開く音などに気付いていなかった。地図でも分かるように見通しの利く一帯で、側に人家もあり、誤って水路にでも落ちなければ忽然と姿を消すとは考えにくい場所である。

近くで農作業をしていた女性は、美樹さんらしい女児が車の前に立って祖父たちの方を見つめる姿を目撃していた。11月の宮城県川崎町の日の入り時刻は「16時38分」頃で、辺りはまだ真っ暗ではないにせよ街灯もない道は薄暮にかかっていたと考えられる。

翌日、警察の調べにより祖父の車を停めていた近くで、5m程のスリップ痕、路上から美樹さんと同じO型の血痕が検出された。尚、当時はDNA型鑑定技術がなかったため、美樹さん本人の血痕とは同定されておらず、試料の保存が為されなかったのか、鑑定の上で不一致だったのか、その後も情報は出ていない。

血痕近く、祖父の車から約15m程の位置に「薄茶色(「黄土色」とも)の車」が停車しており、車のそばに30歳前後の男女の姿を見たという目撃証言もあった。薄茶色の車について、およそ400m先の路上で猛スピードで走り去っていくのを対向車が目撃していた。そうした状況から総じて大阪市住之江区で起きた田畑作之介さんのひき逃げ連れ去り事件(1978年)のごとく、車外に居た美樹さんが交通事故に遭い、事故の発覚逃れのために連れ去られたものと推察されていた。

また行方不明から2日後、自宅に無言電話、その後身代金を要求する電話もあったとされるが犯人によるものかは特定されていない。澁谷家に対する「私怨」についても聞き込みが行われたが、周辺地域では親戚縁者が多いため口の重い住人が多く当時の捜査は難航したとされる。

 

県内で約7万台もの同色系車両について洗い出しが行われ、その後、大河原町で飲食店を経営する男性(31)が何度も事情聴取を受けている。男性は美樹さんの父親と同級生で、事件のあった時刻に澁谷さん宅の近くにある酒屋へ仕入れに出ていたが、事件後に該当する薄茶色の車両の所在が分からなくなっていた。

しかし逮捕には至らず、その後の捜査資料の再検討などにより、道路の血痕は行方不明直後に付いたものではない可能性があること、路上のスリップ痕は以前からあったとの情報が複数得られたことなどから捜査方針の見直しが行われた。「ひき逃げ」説は減退したとみられ、「連れ去り誘拐」の可能性を視野に入れた捜索が続けられている。

祖父は孫娘との再会を待たずに逝去されたが、家族は事件から40年近く経った現在も当時の写真や服を大切に保存し、美樹さんの部屋をそのままにして帰りを待っている。

 

■所感

僅かな時間、ほんの少し目を離した隙にこどもがいなくなる事件はこわさ以上に悲しさが押し寄せる。近くで遺留品や遺体が出ないことなどから、「人攫い」が疑われるためである。「こども」を狙う誘拐犯にとって、幼児は容易に抱え上げることもでき、赤ん坊に比べて保護しやすく、移動に自立歩行させられる利便性もある。

不明現場が比較的山中であり、小さなこどもであるため、遭難や猛禽の類による急襲なども脳裏を過るが、数十年が経過して尚も遺留品ひとつ出てこないというのは第三者による作為がなければ不自然に思える。

 

誘拐について想像していくと、前述の通り、伸矢さんが家の前でひとりになったのは偶発的な出来事であり、犯人が散歩途中からずっと後を付けて隙を窺っていたとはやや考えにくい。

尾行できたとすれば犯人も徒歩ないしは自転車ということになり、極めて近距離で生活していた人間に限られるからだ。

また10m程の石段は犯人にとって非常に大きな心理的・物理的なハードルとなる。仮に攫われたとすれば、伸矢さんは石段を上がった玄関前ではなく、石段の下の道路にいたのではないか。そこに偶然にも「幼児を求める人物」が車で通りがかり、周囲に大人の目がないと見て瞬時に連れ去ったのであろうか。

 

上述の「たくさんの“伸矢さん”」「目撃者」の段で触れたように、行き過ぎたしつけなのか虐待なのかも判別しがたいような「家族とは思えない家族」も世の中には多くある。一方では、養子縁組や親の再婚などにより血縁関係のない家族や年の離れた親子も存在する。私たちは部外者には一目では窺い知れない様々な家族のかたちを大なり小なり抱えている。

たとえば独身男性がある日突然に子どもと生活を始めれば、人里離れた一軒家に一人暮らしででもなければ家族や近隣住民は大概すぐに異変に気付く。しかしながら現実には新潟女児監禁や綾瀬コンクリート詰め殺人のような、家庭内暴力や歪な家族関係から肉親ですら部屋に立ち入れない・告発できないケースも現実に存在する。社会の隙間、歪な家族にカモフラージュされて無戸籍児として生活していることは充分にあり得る。

 

だがそもそも車通りのない道で偶然にも「幼児を求める人物」が現れ、瞬時に連れ去りの犯行ができるものであろうか。老若男女、夫婦か独身かを問わず、こどもはほしいが授かれない境遇やどうしても男児がほしいと切望する人々は少なくない数存在する。

とはいえ朝8時過ぎの山裾で、偶然にも望みの子どもを見掛けたからといっていきなり行動に移せるようにも思えない。いかに人攫いと言えども、声を掛けて様子を窺ってから、という段階は踏むと思われ、「40秒で決行した」とはどうしても思えない。

仮に実行できたとするならば、場所柄、疑いの目は周辺住民に向くことになる。しかし人々の結びつきの強い農村集落で「みんなで必死に探していた」男児を密かに育てていくことなど到底不可能である。

 

何らかのかたちで生き延び、いつか戻ってきてくれることを願うのは当然だが、ひとつの仮説として「迷子・遭難」に立ち返らざるを得ない。先述のように幼児は概して「かくれんぼ」が得意であること。また2016年5月に北海道七飯町の林道で親が数分間置き去りにして行方が分からなくなった田野岡大和さん(当時7歳)のように約5キロの山道を歩いて自衛隊の宿舎にたどり着き、食料こそなかったが水道水と布団にありついたことで6日後に発見・救出された事例も存在する。

曲がりくねった山道や自然豊かなその土地は、郊外の平野にある住宅地に暮らす少年の冒険心を激しく揺さぶったには違いない。自発的に近くの農作業小屋や廃屋などにたどり着き、却って屋外よりも捜索の目が届きにくかった可能性はないだろうか。建物内の倒壊や物の転倒事故などによって身動きが取れなくなり衰弱。その後、管理者が発見するも行方不明から時間が経ってあまりに事態が大きくなっていたことから名乗り出ることができなくなったとも考えられる。

 

すでに行方が分からなくなってから30年以上が経過し、世の中も大きく変わった。美樹さんや伸矢さんがどんな境遇にあるのか、どんな思いでいるのかは想像もつかないが、ご家族と再会できる日がくることを心より願っています。

 

福島女性教員宅便槽内怪死事件について

30年以上経った現在も日本有数の怪事件として語られるミステリー。

新聞、雑誌の報道やネット上で出回る諸説、また青年の怪死と福島原発とのつながりを謳った映画『罵詈雑言』について検討しながら、はたしてどういう事件なのか考えてみたい。

 

概要

1989(平成1)年2月28日(火)、福島県田村郡都路村古道(ふるみち)の教員住宅に住む小学校教諭Aさん(23)が学校から17時10分頃に帰宅し、和式トイレの便器奥に「靴のようなもの」を見かけた。

不審に思って、外の便槽汲取り口に回ると鉄製の蓋が開いており、穴の中に人間の足のようなものが見えた。すぐに教頭らに連絡を取り、同僚教職員らが駆けつけ18時20分頃、近くの古道駐在所へ通報した。

 

約30キロ離れた三春署員が現地に着くと、既にバキュームカー2台が停まっており、村の消防団員も召集されていた。便槽内の人間を外から引っ張り出すことができず、重機で便槽ごと掘り出して破壊することになった。

便槽は「凹字型(U字型)」で、汲取り口の内径36センチ、深さ107センチ、底面の奥行きが125センチ。槽内は成人男性が入るにはぎりぎりの狭さだった。

中の男性はすでに息がなく、真冬にもかかわらず上半身は裸で、衣類(フード付きジャンパー、トレーナー、下着2枚)を胸に抱えるようにして膝を折った姿勢で発見された。発見現場と近くの消防団の屯所で2度にわたって洗浄された。

 

男性は、車で10分ほどの岩井沢地区に住む村民Kさん(25)と確認された。4日前の24日10時頃に自宅を出たまま行方が分からず、家族から捜索願が出されていた。

地元診療所の医師により、死因は凍え兼胸部循環障害とされ、硬直状態などから死亡したのは26日頃と推定された。ひじ、膝の擦り傷は見られたものの目立った外傷はなかった。

 

警察も当初は「変死」事案として捜査を始めたが、現場周辺に争った形跡などはなく「自らの意思で入ろうとしないと入れない」と事件性なしの見方を強めた。

はたして自ら入って動けなくなりそのまま凍死したものとして「事故死」と判断され、地元の新聞報道では「誤って転落したのではないかとみている」等の表現がされている。

Aさんは24日から27日にかけて休暇をとって県内の実家に帰省しており、男性が転落した当時は留守だった。

 

事実関係

Kさんは独身で両親、祖母との4人暮らし。原発プラントの保守点検業務も手掛けるUバルブサービス社で営業主任として勤めていた。元野球部のスポーツマンで、中学時代にはギターを始め、高校時代にはバンドを組んで活躍。死亡当時は特定の交際相手がいた訳ではなかったが、祖母いわく「電話が鳴りやまないくらい」モテていたと言う。青年団ではレクリエーション部長を務め、友人たちからは結婚式の司会を頼まれるなど周囲の信望も厚かった。

3月末、Kさんの同僚や友人らが怪死の真相解明を求めて、再捜査を嘆願する署名活動を行い、1か月足らずの間に3800人ほどの村の人口を大きく上回る4300筆を集めた。

しかし三春署は「犯罪の匂いが出てくれば捜査もできるが、何ひとつ犯罪に結びつくような材料はない」として再捜査を拒否した。

 

19日(日) 村長選挙

23日(木) 先輩の送別会

24日(金) 大喪の礼(1月に亡くなった昭和天皇国葬につき休日)

       10時頃、Kさんが自宅を出る(父親談)

       Aさん、実家へ帰省する

26日(日) 死亡推定

27日(月) 現場近くの農協駐車場でKさんの車が発見される

28日(火) 18時頃、Kさんの遺体発見

事件の9日前には、2月19日には村長選挙が行われており、4選を期す原発推進派の現職候補と対立候補が争った。Kさんは現職候補支持の立場で応援演説などにも参加していた。一票2万円ともいわれる「実弾」が飛び交う熱戦となり、投票率95.33%、1976対745の差で現職村長が勝利した。

後のAERAの取材に対して、村長は「たしかにいい男で、本当に残念だと思う。選挙も応援してもらって、一生懸命やってもらった。これからの青年だったのに、惜しいことをしたと思います。あんなことする男じゃないと思う。憶測でいろんな話が出ることは困ったことだなと思っている」とコメントを寄せた。

都路村は、郡山市双葉町へとつながる国道288号が東西に通っているものの、駅や都市部からは隔絶された「山間の小村」である。かつて周辺は葉たばこの生産や養蚕が盛んな土地柄だったが、1970年代には過疎地域に指定された。

県東岸部に位置する双葉郡福島原発が稼働すると、約半数近くの世帯が原発関連の仕事と何らかのつながりをもつようになった。村から双葉郡大熊町福島第一原発までおよそ25キロ、楢葉町の第二原発までおよそ35キロの距離にあり“お膝元”とまでは言えないまでも、山々と太平洋に囲まれて産業基盤に乏しい周辺地域においてはなくてはならない一大産業である。

 

事件と同じ1989年の1月4日、東電の原発運転管理責任者が上野駅で飛び込み自殺をしたことが報じられた。東京本社での仕事始めの帰路での出来事である。

しかし1月6日、福島第二原発3号機で再循環ポンプ内の回転翼が破損し、金属片が炉心に流出する事故が発覚したことで、管理責任者の自殺が改めて注目を集めることになる。

すでに前年の暮れから警告アラームが鳴っていたにもかかわらず運転を続けていた事実が判明し、東電職員は責任追及を恐れて命を絶ったものとみられている。

 

怪死図

現在でもネット上ではKさんの死の真相について様々な議論が為される。

その要因のひとつは、AERA1989年7月4日号掲載の略図である。一見すると、何をどうやったらこれほど狭い場所に入ることができたのか想像できず、禍々しい力によって無理矢理閉じ込められてしまったかのような印象を見る者に抱かせる。

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だが付された便槽の実寸の数値と照らし合わせてみると、そもそもの縮尺が大きく異なっていることが分かる。深さ107(60+47)センチ、底面の奥行き125センチとされているが、図像を計測すると比率は概ね72:64と縦方向が実際より長く、横方向が短く図示されてしまっている。おそらく紙面構成上の問題で、縮尺バランスを変更してしまったためと考えられる。

現実にはここまでぴったりと便槽内で身動き一つとれない形で収まるはずがないのだが、図像のインパクトはあまりにも強烈だった。

 

便槽とのぞき

今日では東京、神奈川、大阪などの大都市、政令指定都市は下水道整備が完了し、「便槽」に無縁の人も少なくない。

普及率の推移は地域差が大きいものの、事件当時は全国で45パーセント程度とまだ汲み取り式トイレが多かった(なお2020年現在は全国でおよそ8割の普及が達成している)。

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国土交通省

佐賀女性7人連続殺人事件などでも見られたように、身近にあって汲み取りの場面以外では人目に触れにくいことなどから、「死体遺棄」の現場とされることもある。当時の都路村であればほぼ全域が汲み取り式だったと推測される。

便槽に死体を遺棄する理由として「発覚までの時間稼ぎ」のほか、尋常ならざる怨恨や報復感情などから相手に「凌辱的な死に場所」を望んだケースが思い浮かぶ。あるいは「凄惨な死にざま」を周囲の人間や対抗勢力に対して見せつけることで、自らの力を誇示するため「見せしめ」の意図をもって残酷な手法をとったとも受け取れる。

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便槽内に自らの意思で入ったとすれば、第一に考えられることは「のぞき目的」である。Kさんの遺族や友人らはそんなはずがないと死亡理由に強い疑いを抱き、真相解明を訴えた。

以下、「のぞき目的」とされる他の便槽事件と比較してその実現可能性について考えてみたい。

①1990年4月17日、東京都足立区西新井の諏訪木東公園の公衆トイレの便槽内で、汲み取り作業員が男性の死体があるのを発見した。遺体は槽内に横向きに倒れており、遺体の真上にマンホールの蓋があった。年齢は30~50歳、身長165センチ、死後1~2カ月が経過しており、セーター、ズボンの上にジャンパー2枚を重ね着し、上から雨がっぱを着込んでおり、サンダル履き。目立った外傷はなく、死因は溺死とされ、槽内に溜まったメタンガスを吸って気分が悪くなり、汚物に顔を突っ込んだものとみられている。

②1999年6月13日、秋田市下浜海水浴場の公衆トイレで女性客から「物音がして様子がおかしい」と通報があり、槽内から自動車代行運転手の男性(42)が発見されて逮捕された。便槽は「大人一人が入れる程度の大きさ」とされ、男女兼用の個室トイレ3つとつながっていた。工具を使って便器を取り外して侵入したと言い、釣り用の長靴(腰まで防水されるウェーダー)を着用していた。「10人くらい入ってきたが半分は男だった。匂いがひどくて死ぬかと思った」等と供述している。

③2010年5月19日11時過ぎ、新潟県上越市稲田の上稲田公園で、清掃業者が便槽内に死体があるのを発見した。遺体は市内に住む無職男性(42)で、外出先で友人と別れて以降2週間ほど行方が分からなくなっており、家族が捜索願を出していた。便槽は縦横1メートル、深さ1.5メートル。目立った外傷はなく、食道や胃から糞尿が見つかっており、存命中に自ら槽内に入った可能性が強いとされた。死因は糞尿を吸い込んだことによる水死か、酸欠による呼吸機能障害とされた。

近郊の田村市で2月の平均気温はマイナス0.4度、最低気温はマイナス4.7度にもなる厳寒期に侵入しようと思うものだろうか。

先に挙げた3事案はいずれも季節は春から初夏で、亡くなっている方も含めてそれなりに防水・防寒対策を施した上で侵入している。真夏はガスによる悪臭や有害性が増すため、素人考えでも春や秋の方がハードルは低いだろうと分かる。

のぞき目的の視点に立って考えれば、「便槽に入る」以前にいくつかの性犯罪のステップを踏んできたものと考えられる。たとえば住宅の浴室のぞき、温泉やプールといった場所での不特定多数に対するのぞきなどである。山間部の小村で公衆トイレはほとんどなかったであろうし、海まで片道1時間、公衆浴場や温泉も近場にはない。そもそもが「のぞき」に不向きな土地と言ってもよい。

便槽に入ってまでもという場合、のぞきよりも「排泄行為」や「排泄物」への執着、いわゆるスカトロ趣味の性向が強いと考えられる。前段階としては、下着類の窃盗や生理用品、オムツの収集などであろうか(よく分からない)。過去には便槽に貯め置かれた排泄物を盗み取ることもあったかも分からないが、便槽に入るほどということは排泄行為を直接見たい、さらには「浴尿」や「糞食」が目的と考えられる。古い便は細菌が繁殖しているため塗ったり食べたりすると非常に危険とされ、新鮮なものが求められる。

 

侵入といくつもの謎

Kさんの父親は重機で壊された便槽現物の一部を持ち帰り、Kさんの勤め先の協力により復元してもらって自宅に所持していた。

「身長169.2センチ」「体重69.5キロ」で、野球やギターで鳴らした筋肉質なKさんの肩幅や体躯は決して小さくはなかったと考えられ、25~29歳男性の平均的な肩幅は40.4センチとされることからも物理的な困難が想像される。

現場写真などは公にされていないが、警察は当然Aさん宅内に侵入した痕跡についても確認したと思われる。便器を外した形跡等がないこと等から、「外部からの侵入」と判断したとみるのが妥当である。閉肩姿勢での侵入は困難であるため、腕から先に入ったものと考えられ、事実として内部に収まっていた。

他殺説を唱える人のなかには、「警察も信用できない、村ぐるみで事件を事故に見せかけている」「便槽に入っていたこと自体が捏造である」といった主張も見受けられる。

しかし先に偶発的な殺人が起きていた場合、はたして奥まで人が入れるものかも分からない便槽に無理矢理押し込もうと考えるだろうか。周囲は山々に囲まれており、山中で遭難して凍死してしまったように見せかけることも、崖道から車ごと転落させることも出来る。「村ぐるみ」「警察ぐるみ」だとするならば、汲み取り作業時には必ずや見つかってしまう便槽に遺棄するという発想にはまず至るまいと思う。

 

小村ゆえに、村人たちは事件の真相を「口止め」されている、有力者をかばっての隠蔽があるのではないかと疑う意見もなくはない。しかし転勤の多い学校教諭や警察関係者、消防団員の若者たちも便槽の解体に立ち会っており、だれも過疎地から離れなかったとは考えられない。

もし「便槽に入っていたこと自体が捏造」であれば、村を出た後も20年30年と経った今日に至るまで全員が「口止め」されていると考える方が難しい。

 

便槽のレプリカには、便槽の内径36センチよりさらに狭い直系約30センチのマンホール受けの金枠が付いていた。

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これについても相当無理をすれば成人男性でも通ることができる。下は1994年に放映されたレプリカ便槽での検証キャプチャ。

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ほら。

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あれ?

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金枠が外れてしまった。

元々現物はコンクリ部分に固定されていたがレプリカに接合することができなかったので上に載せていたのか、あるいは現物も経年劣化などで蓋受け部分の金枠自体が外れていたものかは不明である。

 

そもそもAさんと親交のあったKさんであれば、当時彼女の不在を知っていた可能性がある。もし仮にのぞき目的だったとしても何日も前から裸で張り込むとは思えず、はたして入れるかどうかもギリギリの槽内からどうやって地上に戻るつもりだったのか等、納得のいかない状況が多々見受けられる。

片方が「便器の奥に見えた」とされ、もう片方が「家の近くの土手」にあったとされるKさんの靴は不可解である。左右とも便槽の外にあった、あるいは中にあったのならば不思議はないが、なぜ別々に発見されたのか。理由は判然としないが、何者かが便器側から片方の靴を落としたシチュエーションなどが思い浮かび、にわかに事件性を疑わせる。

また近くの農協駐車場で発見されたKさんの車は未施錠で、キーを差した状態で残されていた。しかし着替えやタオル類、石鹼類、抗生物質などのぞきに結びつくものが発見されたという情報はない。

 

衣類をどこで脱いだものかについても判然としない。仮に第三者に脱がされて入れられたのならば、Kさんを内部に押し込んでから足元に投げ捨てるようなことはあっても、わざわざ手に持たせて入るよう強要はしないだろう。ドラム缶で燃やしてしまうなど処分に困るものでもない。地上で自ら脱いで、置き去りにはできずに持ち込んだ可能性もある。上で見たように侵入口は非常に狭く、侵入が困難だったために脱いだものかもしれない。

仮説として、1902年1月に起きた八甲田山雪中行軍遭難事件、1959年2月に起きたディアトロフ峠事件のごとく「矛盾脱衣」が生じたのではないかとする声もある。矛盾脱衣とは、極寒状態に長時間いることで体内で熱をつくろうとする代謝の働きが強まり、外気温と体感の温度差に大きなギャップが生じて「燃えるような暑さ」と錯覚を引き起こして脱衣する現象である(アドレナリン酸化物による幻覚作用、体温調節中枢の麻痺とされる場合もある)。

便槽内で脱げるスペースがあったのかは分からない。しかしKさんが24~26日にかけて存命だったとすれば、極寒状態に長時間身を置いて、槽内に溜まったアンモニアやメタンガス、暗所閉所による恐怖感、呼吸器圧迫による酸欠や昏睡などによって、脱衣に至るほどの著しい変調をきたしたとしてもあながち不思議ではないように思える。

 

事件説

無論Kさんに「のぞき」などの性犯罪歴はなく、スカトロ趣味などにつながる性向も知られていない。だからこそ余計に「便槽でのぞき」という警察判断は彼をよく知る人々には受け入れがたかった。周囲からは到底そんなことをするとは考えられない「明るく真面目な」青年と映っていたのである。

1994年、Kさんの父親はフジテレビ系番組『超常現象を見た』に出演し、息子の怪死について真相究明の糸口を求めた。警察が「単独事故」と決着したこと、世間から「のぞき目的」扱いされた愛息の不名誉、無念の思いを晴らさんがためである。

番組内で霊能力者・木村藤子氏は「息子さんは殺されたんじゃないか」「詰め込んでぎゅうぎゅう詰めにしている姿が見えるから、これは違う場所で亡くなったんじゃないか」との霊視結果を示した。

番組後半でKさんの父親は、夜2時から2時半の決まった時間に「おやじッ、俺は何にもやってねぇんだ。悪いことなんてやってねぇ、おやじ分かるだろ」と亡き息子が夢枕に現れると語っている。

 

1980年『文藝春秋』8月号で近藤昭二とともに三億円事件モンタージュ偽造問題を指摘したことでも知られる推理作家・小林久三氏も出演しており、「悪戯心はあったと思う」「槽内の糞便でつるっと滑って身動きが取れなくなったんじゃないか」「警察の事故死という判断は間違ってないだろうと思う」と警察の見立てを追認している。

 

だが朝倉喬司氏の『都市伝説と犯罪—津山三十人殺しから秋葉原通り魔事件』(現代書館)では、Kさんの父親が青森県のさる有名な祈祷師を訪ねたエピソードが記されている。まだ何も言っていないのに、祈祷師の体を通して“おやじッ、俺は殺されたんだ、俺は殺された”というKさんの無念の声を聞かされたというのである。

本文に名前は載っていないが、その祈祷師こそ青森県むつ市を拠点として当時注目を集めていた木村氏そのひとではないかと思われる。上の番組だけを見ると、両者の関係は分かりづらいが「先生!」と呼ぶ熱のこもった父親の声には強い信頼関係が透けて見える。

木村氏は偶然キャスティングされた訳ではなく、番組制作サイドが他殺説を盛り上げるための演出意図があったと考えられる。

 

事件とすれば疑問になるのが、腕の擦り傷などのほか目立った外傷がなかった点である。集団リンチ等があれば上着の上からでも相応の打撲痕などは負うにちがいない。

たとえば刃物などで脅迫されて服を脱ぎ、槽内に入らされたにしても、Kさんとて言われるがまま「はい、わかりました」と全く無抵抗に入ったとは思えない。声を上げるなり、衣類に血痕や切り跡が残るなり、抵抗した痕跡が見当たらず、周囲で暮らしている教諭らも全く気付かなかったというのは奇妙である。

また他殺であれば、マンホールの蓋は閉じておくのが自然な流れに思える。それとも隠す意図はなく、早期に家主のAさんによって発見されることを狙ったものであろうか。だとすれば、俄然Aさんとの関係が深い人物が絡んでいた可能性が浮上する。

一部にはAさんが家を空けていた理由が明らかにされていないこと、すぐに警察へ通報せず同僚らを先に呼び出していることなどから、「遺体があることを知っていた」など殺害に協力していたのではないかとする見方もある。だが借り物とはいえ自宅を死体遺棄現場に提供する人間がどこにいるだろう。

都路村は殺人はおろか交通事故も年に数件という平和な村で、地元の駐在は事件捜査に不慣れだったと考えられる。便槽に人がいると聞いてすぐに不審死や事件性を疑わず、とにかく人手を集めて引っ張り出そうとした。そのため多くの村人が現場に出入りしており、適切な現場対応や指揮が取れていなかった。三春署員が到着した時刻は19時前後としても、証拠保全や鑑識が機能しなかった可能性は大いにあるだろう。

 

バリゾーゴン

「事件性」を現代に伝える最たる要因として、渡辺文樹監督の映画『バリゾーゴン』(1996)がある。

映画のつくりについて

事件を考える上で避けて通れないのが本作である。

映画パンフレット バリゾーゴン 渡邊文樹・監督

渡辺監督は「87年に『家庭教師』で衝撃的デビューを飾り、『島国根性』『ザザンボ』と過激な題材と大胆な手法で大きな反響を巻き起こしてきた」と評され、本作が4作目。

『家庭教師』では、監督自身のキャリアを基に、問題児や落ちこぼれ、登校拒否児に対して暴力も辞さないやり方で人間関係を築き、ときに女生徒に恋をしたり教え子の母親と不倫する破天荒な家庭教師を自ら演じている。『島国根性』も家庭教師・教材販売を営む主人公が息子の片思いの相手である女子生徒と関係を持ち、それが相手の親に発覚して…というスキャンダラスな内容を踏襲している。

3作目『ザザンボ』は1976年実際に福島県で起きた少年の自殺をモチーフに、事件の背景をさぐり真実を追求しようとするドキュメント・タッチな内容だが、監督は少年に体罰を加えていた教師役としてストーリーテラーとなり少年の死の真相を突きとめようとする。

 

制作のきっかけは地元・福島で映画を自主公開中にKさんの父親が訪れ、息子の変死と事件性を訴えたことによるものとされる。映画冒頭では「真相解明を求める人たちの協力によりつくられた」と銘打たれ、Kさんの両親と祖母、他にも勤務先の社長、Kさんと付き合いのあった元村会議員、村長や反原発派ら多くの人物が登場するなど、よりドキュメンタリー風に仕立てられている。

実在の人物とフィクションの人物のインタビュー場面、三春署、選挙関係者、村医、Aさんの勤め先や実家への突撃取材といった場面が交錯し、どこまでが現実の人々の声なのか、どこまでが事実に基づく再現ドラマなのか、どこからが監督の想像に基づくドラマなのかは極めて曖昧に表現されている。

たとえばKさんの父親のように顔が知られていれば、観客も「現実のKさんの父親」と認識できるが、登場人物が実在する人物か架空の人物かは観客には見分けがつかない。また役者なのか、制作に協力している一般人なのかも、リアルな反応なのか下手な芝居なのかさえ見分けがつかない部分も多い。

フィクションとノンフィクションに明確な区別をつけず、意図的に混在させているように見える。ある意味で、どの場面、どの人物を「真実」と読み取るかは「観客任せ」に制作されているのである。

渡辺監督は誰かの役を演じている訳ではなく、真相解明を求める取材者、リポーターとしてフィルム内に登場する。相手に対して「俺が調べたところあんたの言ってることがおかしい」「〇〇はこう言ってる、あんたは嘘をついている」と独善的にも見える半ば言いがかりに近い取材攻勢をかける。

監督自身は調べがついているのかもしれないがどのような調べを重ねてきたのかは示されておらず、観客は監督の言葉が信用に足るものなのか判断がつかない

 

カメラを向けられて「止めろ撮るな」と抵抗する人々。私たちはかつてのワイドショーでカメラを退けようとしたり、怒鳴ったり、カメラマンに向けて水を撒いたりといった似たような態度を示す「犯人」たちの姿を数多く目にしている。さも取材に難色を示しているように、言いたくないことがあるかのように映し出されるが、突然職場や自宅に押しかけて捲し立てながらカメラを向けられればだれでも同じ反応を示すだろう。

また顔出しせず「村長」や「Aさんの親」に取材を行う場面も存在する。素直に見ればさも実際に取材したかのように見えるが、顔も声も知らない相手の「顔を直接映さない」ことが真実の証明にはなりえない。断言はできないが、監督がメディアの常套手段を逆手にとって「ドキュメンタリーに見える」ように仕立てたシーンである可能性も否定できない。構成・演出はすっきりと見やすいものではなく、観客は114分の間、「だれが嘘をついているのか」「何を信じるべきか」に終始頭を悩ませる。

罵詈雑言のタイトルは、亡くなったKさんや遺族に浴びせられたものか、それとも観客を試し続けるような挑発的な作品にしたことで罵詈雑言を浴びることを覚悟して付されたものかは分からない。事実なのか、はたまたそれ自体も演出なのかは不明だが、全国各地の公民館や小ホールなどで自主公開された本作は不評と顰蹙を買ったとされる。

 

■映画の内容

いわゆる原発推進派の村長を支持していた青年Kさんが、福二原発でのトラブルと関係者の不審死や、ばらまき選挙の実態に触れて嫌気がさし、告発しようとしたが村長陣営に勘付かれて殺害され、便槽に遺棄されたというのが大まかな流れである。警察の買収や村民への口止めについては村長陣営が取り仕切り、検死結果の捏造など背後には原発利権を握る国政代議士の関与を示唆している。

たしかに当時としては、電力会社とのパイプ役を担う大物国政議員、つながりのある行政首長らを通じて地方への「金の流れ」は裏に表にあったにはちがいない。村長選で現実を目の当たりにした青年が、仕事に対する誇りや情熱、愛郷心を踏みにじられたように感じても不思議はない。

だが自殺した東電の運転責任者とは異なり、Kさんは下請け孫請けの営業主任であり、告発する程の重要機密を得られる立場とは到底思えず、つかんでいた証拠もない。

 

新聞記事では、死亡したKさん、現場となった女性教諭Aさんしか具体的な人物は登場していない。ワイドショーでも珍事件のような扱いで報じられたとされるが、当時の映像を今日では目にすることができないため、現在ネット上で(90年代後半以降)語られる人間関係や背景は概ね本作に依拠したものと考えられる。映画でKさんの死に関する不審点とされている情報を確認しておきたい。

・Kさんは選挙前日の応援演説に呼ばれていたが、演説にはいかなかった。選挙に対する不満がある様子だった。

・職場では信頼されており、(反原発的な)偏ったことを言わない人物として原発関連の取材対応を任されていた。

・23日の送別会について出席者に確認すると、Kさんは「自分の車で帰った」「酔っていたので別の車に乗せてもらって帰った」とする食い違う証言があった。また送別会は「村長選の打ち上げ」だったとも噂される。

作中の再現シーンでは、送別会の席でKさんが選挙への不満や原発推進への不信感を顕わにしたことで青年会から集団暴行を受けたように描かれている。

・24日10時頃、父親がテレビを見ていた際に、ドアの向こうから「ちょっと行ってくる」とKさんの声を聞いた。はっきりKさんの姿を見た訳ではなく、普段Kさんは行き先を伝える習慣があった。

上のフジテレビ系番組では、Kさんの行方不明は「24日10時」ではなく「23日深夜」以降としている。

・Aさんはかねて嫌がらせ電話を受けており、相談を受けたKさんは犯人をほぼ特定していたとされる(映画では過去に性犯罪歴のある人物としてインタビューを受けている。「顔も見たことがない」とは言うものの「遠くから見て男が好きそうな体型だった」等と発言)。

朝倉氏の著書によれば、Aさんの婚約者とともに録音をとって三春署に提出したが捜査に動いてもらえなかったという。

・Aさんには同校教諭の婚約者(村長の選挙参謀Fの二男)がいたが、男性関係が多いと噂される人物だった。元村会議員なる人物いわく、AさんはKさんとも男女関係の噂があり、Kさんがのぞきに入る理由はないとしている。

Aさんに婚約者がいたこと、嫌がらせ電話を受けていてKさんと婚約者が犯人を突きとめようとしていたことは具体性があり、事実と考えられる。作中では触れられていないが、Aさんを巡ってKさんと婚約者がトラブルに発展した可能性なども勘繰ってしまう。

 

しかしAさんの男女関係の噂についてはやや疑問符が付く。Aさんは23歳であるから赴任して2年前後、村外から来て教員住宅に暮らしていた。4棟並んでいた教員住宅には他の女性教諭らが暮らしており、それとは別棟で校長の住居もすぐ近くに存在した。新任の教諭が職場には婚約者がありながら、短期間のうちに人目をはばからず村の男たちと情事に耽っていたとはいささか考えづらいのである。

村民からすればAさんはいわば余所者であり、事件後に「Kさんとも関係があったんでないか」「親元から離れて、若いから村中からチヤホヤされて浮かれてた部分もあったんでないか」と根も葉もない風説が流布した可能性も想像される。

・遺体発見前日の27日に農協でKさんの車が発見される。車の発見者である農協職員が「気になることがある」と発言していたが、翌日確認すると「なかったことにしてくれ」と撤回。車体は斜めに停められており、普段は施錠する習慣があったが鍵は差しっぱなしの状態だった。

・家族がKさんの友人に連絡すると「自分たちで探すから今日一日待ってほしい」と通報を遅らせたいような発言をした。

選挙参謀H(村長の従兄弟)は、妻からKさんの遺体発見の連絡を受けた後も行方が分からないかのように振舞っていた。

選挙参謀Fの長男は、事業所が営業時間外にも関わらずバキュームカーを手配していた。

こうした事件後の村内の人々の動向についてはご遺族が集めた情報がベースになっていると考えられる。小さな村で地縁や血縁のあるご遺族では表沙汰にできずにいた様々な疑問や疑惑について、監督が代弁者として追及していったと捉えられる。

 

・もう片方の靴は「家の近くの土手に落ちていた」。

Kさんの父親が発言しているため、遺体発見現場から7キロ以上離れた「Kさんの自宅付近の土手」で見つかったかのようにミスリードしがちだが、靴が発見されたのは「Aさんの家(教員住宅)の近くの土手」である。詳細な位置は不明だが、小学校と中学校の敷地の間に高低差があるため近辺だと推測される。他殺説の根拠として「片方の靴が脱げた状態で長距離移動するはずがない」「自宅付近で拉致された」といった発想につながりがちである。

・担当した医師は事件直後に34年間勤めていた監察医を辞めている。

上のフジテレビの番組によれば、当初解剖が行われなかったという。家族側で要望して解剖が行われ、結果は変わらず凍死とされた。医師の年齢や村内の医療事情は不明だが、60歳定年制が一般的だった当時であればリタイアしても不思議はない年齢だったのではないか。

・その後Aさんの実家が新築された際、電力会社主宰のモデル住宅コンテストで県知事賞を受賞した。

監督は、電力会社からの「口止め」であったかのように追及している。

 

■映画の真意

監督の意図は何だったのか。ひとつは、上述の通り、Kさんの父親の「息子の無念を晴らしたい」という思いに突き動かされて、監督なりに「怪死」を事件として捉えた結果、「村長選挙」さらには「原発問題」といったテーマに行きついたと考えられる。

若者同士のいざこざ、三角関係のもつれといった人間関係のトラブルだけにとどまらず、ジャーナリスト精神や反権力を志向する作家性の強い監督であるため、あえて対立軸に「巨悪」を挙げたとも考えられる。

そもそも一福島県民の政治意識として「反原発」をテーマにした作品を描こうとしていたのではないか。山間の小さな村全体を覆う原発産業と政界の闇を炙り出すための切り口として青年の怪死をモチーフにしたようにも見える。皮肉なことに映画よりだいぶ後になるが「3・11」東日本大震災以降、それは日本全域が抱える問題として再注目されることになった。

実際、作中の再現シーンでは青年団に便槽に担ぎ込まれるだけで、「便槽内に閉じ込められた」かのようなシーンを描いてはいない。監督にとってはいかにして槽内で絶命したかは問題ではなく、自ら便槽内で死んだかのように事実を捻じ曲げた「勢力」を問題視している。

権力によって閉じられた蓋を開くこと、声なき声を拾い世に問いただすことがジャーナリズムの使命である。監督が描いたように原発問題が青年の怪死の背景にあったか否かは別として、見る者を非常に刺激し、一度は決着したはずの「怪死の謎」を再び俎上に上げたことは間違いない。

 

■所感

私見では、青年の怪死は「未解決事件」ではなく「事故」だと確信している。

ひとつは、自分の意志で入ろうとしなければ服を抱えた姿勢は取れないこと。つまり槽内に入った時点でKさんは意識があったことが最大の証左である。口を塞がれていた痕跡はなく、呼ぼうと思えば助けを呼べる状態で、Aさんは不在だったにせよ周囲の住民がだれ一人気付かなかったとは考えづらい。声を出すことができても自ら助けを呼べない理由があったのである。

 

さらに他殺説はその根拠の多くを『バリゾーゴン』に依拠していること。上述のように、映画は監督の一考察とでもいうべき体裁であり、反原発説を唱えるために情報を切り取り、物語を成している。情報の出処の多くは「他殺説」を信じて疑わないKさんの父親による言説であり、反権力プロパガンダになってしまっている。

筆者は、藁をもすがる思いで霊能力者に頼らざるを得ないKさんの父親の訴えを目にして悲哀と同情を禁じ得ない一方で、明らかに「冷静さを失っている」印象を強くした。冷酷に思われるやもしれないが、ただでさえ情報収集や捜査のプロではないご遺族が取り乱した心理状態では(たとえ本人が意図していなくとも)バイアスのかかった証言に傾く。素直に鵜呑みにはできないと感じてしまったのである。

 

そうしたご遺族を間近に見れば、親密なつながりのあった村の人々、Kさんと親交のあった人々は「いやいや、のぞきかもしれないぞ」等とは口にできるはずがない。事件直後、周囲の人々はご遺族の無念を晴らすつもりで署名活動に尽力し、納得のいく決着を見ようとしたのである。しかし再捜査は行われず、ご遺族は無念をずっと抱えたまま、それどころか警察への不信感や他殺への疑念を一層強めた。

署名に賛同した人々の全員がKさんの知り合いという訳ではないだろう。「絶対にKさんはやっていない」「事件に巻き込まれたに違いない」といった確信よりは、ご遺族のショックを聞いて「励ましのエール」の気持ちとして協力を惜しまなかったのだと思う。青年の怪死を事件と結びつけたのは、山間の小村の「闇」などではなく、「父親の息子への思い」と、助け合って支え合って励まし合って生き抜こうとする「人々の思いやり」だったのだと私は思う。

 

亡くなられたKさんのご冥福と、ご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

 

 

桶川ストーカー殺人事件・ドラマ『ひまわり』感想

2003年12月テレビ朝日系列・土曜ワイド劇場枠で放映されたドラマ『ひまわり』の感想など記す。
原作は同系列の報道番組『ザ・スクープ』に出演していたジャーナリスト鳥越俊太郎・取材班らによる『桶川女子大生ストーカー殺人事件』で、冒頭にもご遺族への取材を基にした物語と表記されたノンフィクションドラマである。

桶川女子大生ストーカー殺人事件

本稿ではドラマでは省略された事件内容についても触れつつ振り返りたい。

■事件概要①出会い

1999年1月、埼玉県大宮市のゲームセンターで猪野詩織さん(21)が女友達と遊んでいると、自動車ディーラーと称する「誠」たちに声を掛けられ、2人はほどなく交際に発展した。
青年実業家らしく羽振りの良い「誠」はバッグや衣類などの高級ブランド品を次々に贈ろうとする。あまりに高額なプレゼントなので詩織さんが受け取りを拒もうとすると、人目もはばからず逆上して怒鳴り散らすなど暴力的な面を見せるようになった。
やがて「誠」が偽名であることや、暴力団員風の男たちと親しくしていることなど男の身辺に不信を抱き、交際に不安を募らせていく。

3月、詩織さんが「誠」のマンションに遊びに行くと、盗撮と思しきビデオカメラが仕掛けられているのを発見。問いただすと男は激怒して、「お前は黙って俺のいうことだけ聞いていればいいんだ」と拳で詩織さんの顔すれすれの壁を何度も殴りつけた。恐怖のあまり別れを切り出そうとすると「俺に逆らうのか」「これまでのプレゼント代100万円を払え」「払えなければ風俗で働け」と脅迫し、交際の継続を強要。以降、携帯電話による束縛や行動監視が激しくなる。
その後も万が一を思って秘かに遺書までしたためて別れを訴えた際、男は伝えていないはずの彼女の家族の身辺について語り始め、「親父をリストラさせてやる」「別れれば家族をめちゃめちゃにしてやる」と脅した。彼女の家族について秘かに調査させていたのである。家族への危害をおそれた詩織さんは男に土下座して許しを請うた。この時期、友人らに「殺されるかもしれない」と身の危険が差し迫っていることを相談していたが、4月半ばには友人との連絡を絶つため男に携帯電話を破壊させられている。

■出演キャストと時代背景

被害者・猪野詩織さん役を内山理名さん、「誠」を名乗った元交際相手・小松和人役を金子賢さんが演じている。細い吊眉で一見するとイマドキの女子大生ながらも奥手な性格だった詩織さん、優し気な笑顔の裏に凶暴性を併せ持つ小松和人ともに優れた配役だと感じた。
詩織さんは父親(渡瀬恒彦さん)、母親(戸田恵子さん)、弟らとも家族仲が良く、作中では演出だとは思うが小松の口から「きみはよく“お父さんの話”をする。ファザコンなんだ」とまで言わせている。この後、激化する小松のストーキングに対抗するために家族一丸となる描写は事実と思われ、父親を身近に感じていたからこそ却って交際関係を打ち明けられずにいた娘心が一層悔やまれる。父親もまた大学生の一人娘がバイトや交友で親離れしていく日々に成長の喜びと戸惑いが交差していたように感じられる。

また当時世間には90年代後半のいわゆるギャル文化や女子高生ブームの余韻があったことも、事件後の二次被害・三次被害に大きな影を落とす。後述するが「厚底ブーツにミニスカート」「ブランドバッグ」といった“ギャル(=派手な若い女性)”像が一般に浸透しており、恣意的なものか意図的なものか警察発表や一部報道は詩織さんをそうした文脈に当てはめて非難した。
男女の出会いの場面では「プリクラ」や「カラオケ」が象徴的に使われ、劇中では宇多田ヒカルの大ヒット曲『First Love』が使用されている。「携帯電話」はすでに広く普及した時代であり、NTTドコモの携帯電話インターネット「iモード」のサービスは(交際時期と重なる)99年1月からなので、いわゆる「出会い系」犯罪が流行する前夜にあたる時期であった。


■事件概要②脅迫と警察

6月、精神的圧迫や嫌がらせに疲弊しきっていた詩織さんは意を決して男に訣別を伝え、それまで隠してきた交際についても家族に打ち明けた。
その夜、「誠」は強面の男たちとともに猪野家に押し掛ける。強面のひとり(小松の兄。演じるのは宇梶剛士さん)が当惑する母娘に「おたくの娘と交際していた男がうちの会社の金を500万円横領して、その金で貢いでいた」「うちの社員(「誠」)が女のせいで精神的におかしくされて病院に通っている。誠意を見せろ」と凄んだ。1時間以上に渡って脅迫は続いたが、その日は父親が帰宅して「警察で話を聞こう」と反論し、押し問答の末にどうにか帰らせることができた。
「私が馬鹿だったの」泣きながら自分の愚かな交際を悔やむ娘。父親は警察への届出を決意する。

家族は所轄の埼玉県警上尾署に被害を訴え、詩織さんは男たちとの前夜のやりとりを録音したテープを持参して相談に臨み、「このままでは何をされるか分かりません」と窮状を訴えた。しかし署員は男女の色恋沙汰、民事不介入として「何かあったら来てください」と訴えを退ける。猪野家には連日連夜の無言電話が続いた。法律相談にも救いを求めたが「娘さんもプレゼントを貰っていい思いしたんでしょ」とぞんざいな扱いを受け、まともに取り合ってはもらえなかった。
小松からの嫌がらせの電話に「警察に相談している」と告げるとすぐに電話は切れた。その後、猪野家は電話番号を変えたがその2日後には新たな番号も知られてしまい電話は鳴り止まなかった。
翌週、父親は上尾署を訪れ、これまでの小松からの贈り物を全て送り返したことを報告した。後に、警察側はこの報告を「問題にすべて片が付いた」と曲解していたと説明する。
一方、6月後半のこの時期、小松から兄を通じて殺害の実行グループに詩織さん襲撃の依頼が行われていた。

■ストーカーと関連作品

「ストーカー、ストーキング」は行き過ぎた「つきまとい」のことを指し、アイドルや著名人の「追っかけ」行為を意味する言葉(ジョン・レノン事件など)で古くから心理学の分野で研究されていたが、独立して犯罪行為として認められるようになったのは比較的近年になってからである。
アメリカではリチャード・ファーレーによる女優レベッカ・シェイファー殺害事件を契機に1990年にカルフォルニア州で初のストーカー防止法が成立した。イギリスではつきまとい行為を規制する「嫌がらせ行為防止法」が97年に制定された。
日本でも90年代からそうした被害が問題視され始め、本件などを契機として2000年5月にストーカー規制法が成立した。

恐怖のメロディ (字幕版)
1971年公開のクリント・イーストウッドによる監督デビュー作『恐怖のメロディ』はストーカー概念が普及する以前にその恐怖が描かれた先進的な作品とされる。イーストウッド演じるラジオDJの熱烈なファンとして接近した女性が、勝手に合鍵をつくったり自殺未遂をしたりと異常性を見せ、彼の元交際相手ら周囲の人間に牙を向けるという内容である。

日本では1997年1月によみうりテレビ系列でドラマ『ストーカー 逃げきれぬ愛』が放映され、女性からの善意を自分への好意とはき違えた男性が異様な支配欲を見せていくというもので渡部篤郎の怪演でも話題となった。同クールにTBS系列で『ストーカー 誘う女』も放映されており、こちらは同じ会社の既婚男性に思いを募らせた女性社員が強引に肉体関係を迫り、想像妊娠して男性の家族に危害を及ぼすというドラマである。
国内でも偏執的な付きまとい行為に対しての「ストーカー」という言葉は次第に知られるようになったが、「恋愛関係のもつれ」に端を発するものと捉えられがちであった。

■事件概要③告訴

プレゼント返送以降、無言電話のみならず、自宅や大学などに誹謗中傷を書いたビラが貼られるなど嫌がらせはエスカレートを辿っていた。
7月、「被害」の事実をもってして一家は上尾署を訪れ、「告訴」を求めた。だが「裁判となれば嫁入り前の娘さんが辛い目に遭いますよ」「(大学の)試験が終わってからでもいいんじゃないですか」とすぐには取り合わず。
その間も「大人の男性募集中」と風俗広告の体裁で顔写真・電話番号入りのカードが配布され、インターネットへの同様のカキコミも行われており、知らない男たちから連絡が入ってくるようになった。7月末、上尾署はようやくビラによる「名誉棄損」の告訴状を受け取りはしたものの、「被疑者不明」として署員らの机を行きつ戻りつするばかりで捜査は放置されていた。

8月に入ると父親の勤め先と親会社宛に八百通もの中傷文が送りつけられた。大量の手紙の束を持参して捜査はどうなっているのかと迫ると、「いい紙使ってますね。郵送だから費用が掛かってますね」等と言ってはぐらかした。
8月末、告訴受理の決裁を出す立場にあった茂木邦英刑事生活安全担当次長は「告訴ではなく被害届でよかったのではないか」と担当署員を𠮟責した。未処理の告訴件数が増えると警察にとっては「成績の低下」を意味する。単なる被害届であれば県警への報告義務はなく、捜査を急ぐ必要がないためである。
とはいえ告訴を取り下げた場合「再告訴」はできない。にもかかわらず、9月に署員が猪野家を訪れ、犯人逮捕後に再告訴ができるかのように母親に説明して告訴の取り下げを要望した。母親は警察の要求には屈しなかったが、詩織さんは男が根回しして告訴取り下げを迫ったのではないか、警察は信用ならないと疑心暗鬼に陥っていった。その後も深夜に車での騒音被害など執拗な嫌がらせは延々と続けられた。家族は苦悶する彼女を支え、励まし、解決のために手を取り合うことを心に決める。
しかし10月26日、事件は起こってしまった。

■群馬一家三人殺害事件

1998年1月に群馬県群馬町(現高崎市)三ツ寺で発生した群馬一家三人殺害事件も規制法成立以前のストーカー犯罪であり、現在も犯人逮捕に至っていない未解決事件である。
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元トラック運転手・小暮洋史(指名手配中)は配送先のドラッグストアに勤める女性に好意を抱き、顔を合わせるたびにデートに誘うようになる。女性が「車の運転が好き」と話したことを受けて、男は新車のスポーツカーを購入するほどの熱の入り様だった。職場で頻繁に顔を合わせなければならないため無碍にもできず、女性は根負けして一度だけ誘いに応じたことがあった。だが彼女には全くその気はなかった。
女性には正式な交際相手が居り、すでに親にも紹介していた。心配を掛けさせたくないため、家族には小暮の執拗な誘いについては相談していなかった。女性のつれない態度をよそに小暮の行動は次第にエスカレートし、車での執拗なつけ回しや自宅への無断訪問、嫌がらせの電話を繰り返した。
職場に相談すると、小暮と顔を合わさなくて済むように配送時の対応は他の同僚が代わる配慮が為され、店長からも小暮本人に彼女が怖がっていることを伝えた。協力の甲斐もあって一時は小暮のストーキングも鳴りを潜めた。

だが平穏も束の間、収まっていた無言電話は再開され、車に「2人で会いたい」旨の手紙が残されるようになる。交際相手はすぐに連絡が取れるよう彼女に携帯電話を持つように勧めた。
1998年1月4日、小暮は運送会社の掲示板に「辞めます」と書いて姿を消し、ドラッグストアにも姿を見せなくなった。安堵した女性は成人式を迎え、家族や交際相手から祝福を受けた。

1月14日、この日は母親の誕生日だった。21時頃に女性が花束を用意して帰宅すると、背後から小暮に襲われて玄関脇の和室へ連れ込まれ暴行を受けそうになった。2時間に及ぶ必死の説得の末、男の危害を免れることはできたが、その間も家族の気配がないことが気に掛かった。男に家族の安否を問いただすと「薬で眠らせている」と言い残し、車で立ち去った。
一緒に暮らしていた両親と祖母の3人は押入や浴室から変わり果てた姿で発見された。両親が勤めに出ている間、祖母が一人で在宅している隙に押し入って絞殺、その後、帰宅した父母も相次いで刺殺されたものとみられている。
家族を奪われた被害女性は「(小暮が)もう死んでいるかもしれないと思うこともある。だが生きているなら罪を償うべきだ」と現在も逮捕を願っている。

■事件概要④事件と報道

10月26日12時53分頃、通学途中だった詩織さんが桶川駅西口の商業施設マイン付近で自転車を降りた際、男にナイフで右わき腹と左胸部を刺された。病院に搬送されたが肺損傷の大量出血により間もなく死亡した。事情聴取の名目で両親は病院に駆けつけることも死に目に会うことも許されなかった。
その日行われた捜査本部による記者会見では、「捜査一課長代理ですから、厳しい質問のないようによろしくお願いします」と含み笑いを浮かべながら事件の説明を行った。
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男は逃走して発見に至らず、その間、マスコミは被害に遭った猪野家をスクラム取材の標的にした。当時、自宅の隣が空き地だったため事件から2か月以上に渡って「張り込み」が続けられていたという。大学受験を控えた長男、小学4年生の次男は学校にも通えず、買い物にも出られないため仕出し弁当で間に合わせていた。フジテレビは侵入取材を掛けようと「父親から許可を得ている」と葬儀場職員を騙そうとするなど手段を択ばず、火葬帰りにも取材陣が待ち受けていたため父親が身を挺して家族を家に帰さなければならなかったという。
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それほど熱烈な取材の一方で、記事には被害者のプライベートに関する憶測があることないこと書き連ねられた。捜査本部が所持品について「厚底ブーツに黒のミニスカート」「リュックはプラダ」「時計はグッチ」などとわざわざブランド名を列挙するなど偏った情報の伝え方が拡大解釈され、被害者が「ブランド狂い」の遊び人のように書き立てられたのである。『FOCUS』記者だった清水潔氏によれば、数点のブランド小物を持っていたにすぎず、実物の見た目からおそらくは大事にしながら長く使い込んだもので、派手だったり身分不相応な印象はないとしている。
加害者の情報と関連付けて「キャバクラ嬢」「風俗店バイト」等とも書かれたが、風俗嬢などをしていた事実はない。「水商売をしていた」といった警察のリークも、友人に付き添いを頼み込まれて2週間スナックの手伝いをしたことはあったが、実情は酒の席にも付いておらず働いた分の給与すらも断っていた。
読者も書き手も年配男性が多い雑誌やスポーツ紙が「今どきの女子大生」像にかこつけて想像力を掻き立て、ワイドショーはそれを種にして「被害者の行動にも非がある」かのような論調をとった。警察はマスコミに撒き餌を与え、「元気で明るい家族思いな普通の女子大生」だった被害者を全くの別人に変えてしまった。
友人たちが彼女との思い出を偲んで現場に供えた写真をマスコミは勝手に持ち去って流した。鍋パーティーの楽しそうな様子を切り抜いて、放映時にはさも「遊び人」であるかのような印象操作に使われた。堪えきれず「被害者遺族の知人」を装って抗議の電話をしたこともあったが、局側はまともに取り合おうとはせず一方的に切られたという。

桶川ストーカー殺人事件―遺言―(新潮文庫)
清水氏は警察発表頼みにしない独自取材を重ね、詩織さんが友人たちに伝えていた「ストーカー被害」に丹念にアプローチを進めていた。ご両親は事件後マスコミへの不信感を募らせていたが、取材姿勢に信頼を寄せた詩織さんの友人は清水氏に会うように勧めた。
清水氏は詩織さんの遺言にあった元交際相手(小松和夫)が自動車ディーラーではなく、兄弟で池袋の違法風俗店を経営していたことを突きとめると、周辺人脈から実行犯の割り出しを進めた。12月、実行犯が逮捕され、依頼・仲介をした「誠」の兄・小松武史、中傷ビラなどに係わった面々も逮捕されたが、肝心の「誠」こと小松和人だけが逮捕を免れていた。
6月後半、2000万円で犯行グループに襲撃を依頼し、7月以降は約3か月沖縄で対立する風俗店への電話による嫌がらせ工作を仕掛けていたが、事件後はその行方をくらませていた。翌2000年1月16日、「名誉棄損容疑」による異例の指名手配が行われたが、27日、北海道屈斜路湖で水死体で発見された。着衣の乱れがないことや遺書、保険金等から警察は自殺と断定。被疑者死亡により起訴猶予処分とされている。

ドラマでは被疑者死亡のニュースを受けて茫然とする父親の姿が痛々しい。事件被害者遺族にとっては「犯人逮捕」「裁判による真相解明」「判決」といったひとつひとつが多大な負担を伴うものの事件を受け止める上では大切なステップなのだ。その主犯、核心たる小松の自死は「最大の目的」が永遠に果たされなくなったことを意味する。

「詩織は2度も3度も殺された。刺した犯人にだけじゃなく、捜査を放棄した警察やデマを流すマスコミにも殺された」

この切実な言葉の意味を警察やマスコミだけではなく私たちも胸に留めておかねばならない。

■事件概要⑤裁判

栃木リンチ殺人事件、新潟少女誘拐監禁事件など、当時は各地で警察による不祥事が取り沙汰されており、警察改革が強く求められていた時期でもあった。
『Focus』紙の清水記事以降、メディア側の風向きは変わりつつあった。報道番組『ザ・スクープ』ディレクターでAPF通信の山路徹氏らは県警への質問状を送り、鳥越俊太郎氏は3月に同番組での検証報道を開始した。放送前、鳥越氏がご両親に宛てた手紙には「男の蛮行を阻止できなかった警察については、このまま何も罰を下されることなく過ごさせる訳には参りません」と強い決意が記されていた。
参院予算委員会、埼玉県議会警察常任委員会でもこの問題は取り上げられ「告訴取り下げ要請」の有無が質問され、「ストーカー規制」に関する議員立法の準備が行われた。追及を受けた警察庁は「そのような誤解を与えるやりとりがあったかもしれないが、告訴取り下げを要請した事実はない」と答弁した。事件直後にも県警側からは「告訴取り下げ要請は“ニセ刑事”の仕業だ」と記者らへのリークが行われていた。

だが県警による内部調査を行った結果、遺族の言う警察の不誠実な対応があったことは大筋で事実と認められた。調書にあった「告訴」を「届出」に書き換えた上、事件後も捜査ミスを隠蔽するための改ざんがあった事実も確認された。西村浩司県警本部長は、猪野家に謝罪の訪問を行い「訴えを真摯に聞き、捜査が全うされていれば、このような結果は避けられた可能性もあると考えると痛恨の極みであります」と涙ながら述べた。
対応に当たった3署員が懲戒免職、幹部ら9人に減給などの処分が下る。9月には虚偽有印公文書作成、行使により3名に執行猶予3年の有罪判決が下された(上尾署元刑事第二課長片桐敏男・懲役1年6か月、同元係長古田裕一・懲役1年6か月、同元巡査長本田剛・懲役1年2か月)。
また余談にはなるが2000年10月7日、事件当時、生活安全担当次長だった茂木邦英警視の住むマンション玄関への放火事件が起きた。元上尾署員で本件の不祥事により左遷された巡査部長の逆恨みによる犯行であった。

事件から1年後の2000年10月26日、遺族は犯行グループ17人に対し、合わせて1億1000万円の損害賠償を求めてさいたま地裁に提訴した。後の刑事裁判で多くの者は服役するものとみられており、支払い能力があるとは思えなかった。しかし逮捕を免れ、刑事裁判で裁かれる機会さえない元交際相手・小松和人の責任を追及せずにはおけなかった。
2006年3月には小松が死亡前に掛けていた保険金の受取人でもあった小松の両親も含めて損害賠償を求め、合わせて1億566万円の支払いが命じられた。被告人側は、殺害は意図されていたものではなく拉致監禁して強姦・撮影するように依頼があった等の主張をしたが、依頼は殺害の結果を容認する含みをもたせた内容だったとして退けられた。
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小松の遺書には「自分に対する疑いはすべて冤罪である」旨の記述もあったが、信用に足りないとして却下。殺害の依頼は小松による指示に基づいてなされたものと推認された。

殺人事件の裁判では、元風俗店店長で実行役となった久保田祥史は懲役18年、犯行グループの運転手役と見張り役はそれぞれ懲役15年、元交際相手の兄で襲撃の依頼・仲介をした主犯の小松武史は一審で無期懲役の判決を受けた。小松は控訴・上告したが棄却されて、2006年に無期懲役が確定した。
当時は被害者遺族に参加制度が認められていなかったため、加害者家族と同じ傍聴席に座った。詩織さんの母親は「全国犯罪被害者の会あすの会)」設立に参加し、被害者参加制度をはじめとする被害者・被害者遺族の権利確立の活動にも精力を注いだ。

2000年12月22日、被害者遺族は埼玉県を相手取り、県警による捜査放置に対する国家賠償請求訴訟を起こした。4月の内部調査報告を受けて県警本部長は謝罪していたが、裁判ではその態度を一変させて責任回避に終始した。「被害者家族に危機感はなかった。それほど危機感があれば友人や親戚に娘を預けるはずだが行っていない」と被害者側の非さえ訴えた。調査報告書についても、県警への批判の中でまとめられたもの、警察庁が書けというから書いたまでで現実的評価になっていないとして証拠価値を公に否認している。
2003年2月26日、さいたま地裁は県警の不誠実な対応、市民の期待と信頼を裏切ったことを批判した上で、計550万円の支払いを命じた。しかし適切な捜査が行われていたとしても犯行を断念させられたとはいえないとして、捜査怠慢と殺害との因果関係は認定されなかった。
ときに「死んだ娘で商売するなんて最低だ」と心ない非難を浴びせられることもあったと言い、娘の無念を晴らす思いはあっても警察相手に先の見えない係争を続けるのは並大抵のことではなかった。

■栃木リンチ事件との関連

同じ1999年に栃木で起きたリンチ殺人事件の遺族は、警察の怠慢に憤る詩織さんのご遺族の姿に意を決して、国家賠償請求の訴訟に踏み切った。両者は「警察の不誠実な対応」によって最悪の被害を招いた事件背景から互いの裁判を傍聴するなど交流を深めていた。

自動車工の青年(19)が行方不明となり、各方面に多額の借金を繰り返していたことから青年の両親が事件性を疑って栃木県警石橋署はじめ各署に捜査を要望していた。しかし警察側は「仲間と一緒に遊んでいるのだろう」「警察は事件にならないと動かないんだよ」と取り合おうとはしなかった。その間、約2か月に渡って犯人グループ4人により青年は壮絶なリンチ被害に遭い、遊興費のために多額の借金をさせられた挙句、警察の捜査を懸念して殺害された事件である。

2006年4月、宇都宮地裁は県警の捜査怠慢と殺害の因果関係を認定し、署員ら被告側の供述を全く信用ならないとして退ける。県警側は「不明者側から捜索願の取り下げがあった」、対応に不備はなく「事件を予見できなかった」等と説明した。
警察側の責任を全面的に認める画期的な判決を受けて、取材に応じた詩織さんの母親は「ちゃんとした判決を出せる裁判長もいることを娘に報告したい」とその報告に励まされ、きたる上告審での最高裁判決に期待をにじませた。

しかし同06年8月、桶川事件の国賠訴訟は上告棄却。
さらに2007年3月、栃木リンチ事件でも東京地裁富越和厚裁判長は「県警の怠慢がなくても、被害者を救出できた可能性は3割程度」として賠償額を大幅に減額し、被害者側にも責任があるとの見方を示した。
2009年3月、最高裁は上告を棄却し、2審判決が確定。
「ちゃんとした判決」は砂上の楼閣のごとく崩れ去った。

■その後

2000年5月18日、詩織さんが生きていれば22歳の誕生日となるはずだったその日にストーカー規制法が成立した(11月24日施行)。それまで個別の微罪に当てはめざるを得ず、対応に苦慮された付きまとい事案だったが現在ではストーカー対応の専門部署ができるまでになっている。
付きまといや待ち伏せ行為、交際の強要だけでなく、インターネット上での名誉棄損、リベンジポルノ規制、GPS機器による不当な位置情報の確認など規制は以前より強化されてはいるが、この10年の相談件数は年間およそ2万件前後の横ばい状態が続いている。相談窓口や支援団体も増えてはいるが、ストーカー被害者は減っていないのが現状である。
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また2000年に行われた警察刷新会議では「民事不介入」の名目によって怠慢とみなされる対応が横行している状況を踏まえ、原則にとらわれなすぎないよう提言が為されている。現在では、夫婦の痴話げんかでも通報があれば駆けつける、と語る警察官もおり、対応変化の表れなのか、DV相談件数は年々増加傾向にあり2021年で8万3000人を突破している。

2001年正月、一通のはがきが猪野家に届けられた。はっきりとした平仮名で「いのしおり より」と書かれていた。

「2001ねんのわたしはどんなひとになっているかな。すてきなおねえさんになっているかな。こいびとはいるかな。たのしみです」

1985年に家族で訪れた「つくば科学万博」でポストカプセルに投函した7歳の詩織さんが21世紀の自分に宛てて書いた手紙だった。両親は涙を堪えきれなかった。

裁判が終わっても詩織さんは戻らない。しかし家族は悲嘆にくれるばかりではいられなかった。相次ぐストーカー事件や絶えない報道被害を憂慮して各地で講演活動を行い、ストーカー規制法改正の検討会にも参加して同様の悲劇をなくすために尽力した。制度や組織、社会のあり方を動かしていくことで再発防止に取り組んできたのである。
2019年には京都府警で講演を行い、「呼ばれれば埼玉県警にも行く」と強い思いを示した。2020年には詩織さんの母校で「現代ジャーナリズム論」のゲスト講師として招聘され、「生命の大切さを一番に考えてください」と学生たちに語った。

ドラマのタイトルとなった「ひまわり」は詩織さんが子どもの頃から大好きな花だった。彼女の遺影の額はたくさんのひまわりで縁取られている。その花が決して色褪せることのないように、私たちは事件から学び、成長していかなくてはいけない。

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西浦和也『獄の墓』書き起こし

MUGENJU CHANNEL 月刊怖い話PV獄の墓


こういう話をやっていると、いろんなことが起きるというのはありまして。皆さんもご存知の通り、身内を亡くすということもよくある訳です。
“獄の墓”という話、皆さんもご存知のやつ、があると思うのですけど、これ、なかなかね、全部ちゃんと話す機会というのがないので、ここでしばらくぶりにちゃんと話してみようかな、と思ってます。





そもそものはじまりというのが、僕が高校生に上がったころから始まってまして。
中学の頃からオカルトが大好きで、友達とかともつるんでんでいたのですけれども。高校に入って、家から近い高校ではあったんですけれども、残念ながらその中学時代のオカルト仲間がだれも同じ高校に来なかったものですから、一人どうしたらいいんだろうなー、みたいなことを思っていたんですね。何することもなく、中学生時代はバスケットとかをずーっとやっていて、結構まぁ強くて、高校来るときにもスカウトとかも来たんですが、なんかそこまで本気になる気がなくて、高校に入っても別にバスケをあんまりやる気もなく、何をやりたいのかもわからず…みたいな状態のときに、フラ〜ッと入ったのが“生徒会”だったんですよ。
生徒会で、後に文化祭実行委員会に入るんですけども、そこでたまたま一つ上の“先輩”に出会うんですね。この方が非常にオカルト大好きな先輩で。僕のことをよく引きずりまわしては、「ここはなぁ、ここらへんの地元では怖いとこなんだよ」「ここほら、ここの看板があるだろ、ここはなぁ幽霊が出るって意味なんだよ」とかって色々連れまわしてくれる訳ですよ。僕も自転車でくっついてっては、ああそうなんですね、こうなんですね、っていうので、結構学校の七不思議とか学校の周りとかっていうのを回っていたんですね。



まぁ、思い出深いのは何個かあって、文化祭直前のときに、その方と…先輩と2人で…ここでは仮に、ハンドルネームで“月夜野さん”と呼びましょうか。
月夜野さんと一緒に泊りこんで、学校の文化祭の準備をしていたときに、トイレが校舎内のは使えないんですよ、鍵閉められちゃうから。なので、体育館の脇にある、外からも入れるトイレってのがある訳ですよね。そこに、夜になるとみんなツッカケ履いて行く訳です。
僕と月夜野さんが2人で、ずーっと歩いてトイレの方に向かって行く。トイレの方に行くには体育館の脇を通っていく。
ずっと歩いていくと、体育館の中から
(ド〜ンド〜ン、ドンドン、ド〜ン、ド〜ン…)
太鼓のような音がするんですよ。それも、一定のリズムとかじゃなくて、不規則に鳴る訳です。
(ド〜ンド〜ン、ドンドン、ド〜ン、ドーン)
(なんだろう?)
僕らは実行委員ですから、今、機材が何が入っているか大体分かる訳です。吹奏楽部が明日朝一で練習するので、吹奏楽部の楽器が入っているのが分かっている。言い換えれば、結構“金目のもの”が中に入っている訳ですよ。
(だれか、中に入っているのかな?)
慌てて、僕ら、トイレもそこそこに、体育館の扉をガチャガチャガチャ、ガチャガチャガチャと調べるんですけど、全部中から鍵掛かってるんですね。一応、普通の鉄扉の他に入れるところと言ったら、上の窓を開けて入るとかもあるんですけど、そこも閉まってる。体育教官室ってのがあって、そこの鍵を開けて入ることもできるんだけど、そこも閉まっている。
でも中からは相変わらず(ド〜ンド〜ン、ドンドン、ド〜ン…)と音がする。
(なんだろう?)
とりあえず、ずっとだれか見てよう、てことで、僕と月夜野さんと、あともう一人くらいかな、交代で、体育館の辺りからだれか出てこないかと見張っていた。ちょっと距離離れてるからそんなに音は大きくは聞こえないんですけれど、遠くから(ド〜ン…ド〜ン、ドンドン、ド〜ン…)て音がする。

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だんだん明るくなるにつれ、音が聞こえてこなくなる。
当然、機械警備ってのが入ってるので、人が入っていればセンサーが鳴るはずなので、おかしいね、おかしいね、って言いながらずっと待ってた。
朝になって、7時くらいになって、体育の先生が一人、近くの先生がやってきて。
「先生!先生!ごめんなさい、今、朝方までだれか体育館の中でずっと太鼓の音みたいのがしてたんで、誰か入ってるかもしれない」
「え!なんで連絡しないんだ!」
「いや、連絡先知らないから先生!」
じゃぁ、ってことで先生とついて中に入って。
もちろん中も全部カギが閉まっている訳です。
音は、もうしていない。
みんなでわーって中に入って、見てったら、ステージの上のところに吹奏楽部の楽器が全部並べてある。見たら、そこに大きいティンパニーが置いてあるんです。ほかに太鼓はない。
あれだよ!鳴ってたの、ティンパニーだよ、きっと。と言って、たたたたっと行ってステージに上がってバッと見た。ティンパニーの上には、分厚い布が被せてあるんですよ、音鳴らないように。上から叩いてもボコ、ボコしかいわないで、ド〜ンド〜ンなんて鳴らない。
何が鳴ってたんだろうって話になって、怖いねぇ…と。



そんなような体育館絡みで怖いことが、何回か毎年起きてたんですね。
僕もそうやって月夜野さんと一緒に「ここも怖いよね」「なんかあるよね」「だって他の子たちは、体育館の上のバルコニーをだれか走ってる、って話してましたよね」とかって話をしてた。
学校のできたときの何かないのかな、って話をしているうちに、月夜野さんが
「ここは元は田圃だからそんな怖くないんだけど。俺が通ってた小学校って、すげー怖いんだぜ」って言う。
「なんすか?」って言ったら、
「実はさ、うちのそばって旧中山道のそばじゃん。昔はな、街道の大きい宿場町の手前とかって、必ず処刑場があったんだよ。ここも多分じゃなくて、大きい宿場町の手前に、結構有名な処刑場があった。そこで処刑はするんだけど、晒すのはそこじゃない。街道筋の途中に晒したりするお仕置き場が別にあって、そこで晒すんだよ。それがどうも小学校の場所で、昔はそこで晒してたっていう記録があるんだよね。
「そうなんすか!」
「子どもの頃とかってさ、校舎の窓を見ていると廊下のところを金髪の首が飛んでいくのが見えた。はじめ女の子かなと思っていたけど、それ生首なんだよ。あとさ、音楽室とかだと、手が机の上に這ってるのを見た、とか、階段の途中で、はだしの足が上っていくのが見えた、とか、結構多かったんだぜ。しかも不思議なことにやっぱり“切り刻んだあとのものを晒す場所”だろ?だから、全部“部品”しか出てこない。手だけ、足だけ、首だけ、っていうものしかなくてさ。結構子どもの頃から幽霊で有名でさ。お前ほら俺んちよく寄るじゃん、あそこだよ!」
「ええ!あそこですか」
「んん、あそこだよ」
「ぼくね、こないだ、女の子を送ってくときに先輩ん家の前でしばらく喋ってたんですよ。ほら、あそこ、坂の下だから学校見上げる感じじゃないですか、すぐ横、学校で。
そしたら彼女が突然「綺麗な花ね」って言いだしたんですよ。でも文化祭の準備中、つまり秋口ですよ。花なんか咲く訳ないじゃないですか。何言ってんだろう、と思ってふっと見たら、木のところに白い花が沢山咲いてる。
(ああ、本当だ。花だ)
咲いてる花は、風にそよぐように、ふらふら揺れてるんですよ。ああ、きれいだね、とか言って、よく見てみたら違うんですよ、それ。花じゃない。校舎の窓ガラスに張り付いた“手首”なんです。ガラスいっぱいに張り付いた手首がもぞもぞしてるのが、手前の木を越して見えてるんです。2人でびっくりして逃げたばっかりなんですよ」
「だろ?あそこそんなんばっかりなんだよ」っていう話を高校時代にされたんですね。





昔のことですから、卒業しちゃうと、連絡つかないわけですよ。つまり卒業名簿くらいしかなくて。でも大体卒業すると、専門学校に通うからって下宿して実家出ちゃうとか、すぐに就職しちゃって別のところに住み始めちゃうとかってあるんで、今みたいにケータイがあったり、インターネットがあれば、すぐに検索したり、昔のつながりで、“今どーしてる?なう”みたいなこともできるんですけど。昔はできないので、卒業しちゃうとそれっきりになっちゃう、ってことが結構多かったわけですね。



案の定、僕と先輩も卒業してからしばらくは連絡とり合ってたんですけれども、僕も1年遅れで卒業して、専門学校に通って、就職してって流れの中で、
先輩も先に専門学校卒業して、就職して、結婚してって流れの中で、結局とうとう連絡が取れなくなった。
もう30歳になってからですよ、僕がインターネットとかで怪談を発表して、少しずつやり取りをし始めたりしたときに、突然メールが来て。
「おお、シンヤか!」って。僕(西浦和)、本名シンヤって言うんで。
「久しぶりだな。お前いま何してるの」って。
「ゲームメーカーで働きながら、こんなことしてるんですよ・・・」
「ああ、そうなんだ、俺いま結婚してさ、子どもがいてさ、こんなことやってんだ・・・お前相変わらず幽霊好きだなぁ」
「いやぁ、先輩も好きそうですね」
「いや、俺もいま集めててさ。結婚してね、子どもが生まれてひと段落するまではそんなことできなかったんだけど。子どもが上の子6歳下の子3歳になったんで、まぁ、ようやく自分の時間みたいなのができるようになったから、始めてんだよね、またね」
「今丁度僕イベントとかにレギュラーでずっと出てるんで、今度またやるんで、来てもらえませんか」
「おおいいよ、いくいく」という訳で来てもらったんですね。
僕らがロフト+1てトコでイベントをやってるのに来てもらって、見てもらった。
終わった後に「先輩どうでしたか」って聞いたら「面白いな、お前面白いのやってんだな」と。
「たまたま今こんなことやってるんですけど非常に面白いんですよ。先輩もどうですか、今度ゲストとかできませんか」
「そうだなぁ、面白いんだったらやりたいなぁ」



で、何度か来てもらっているうちに、「次回やりたい」と。
「ああそうですか、じゃぁちょっと紹介しますから、最後壇上上がってください」というのでイベントの最後に、
「今日たまたま次回のゲストの方、月夜野さんが来ていただいてるんでちょっと上がってもらいます。ぼくの先輩で・・・」みたいな紹介したあと、
「次回ゲスト来ていただけますか」
「おう、お願いします」
「どんなのやれます?」って聞いたら「実は今、地元のことを調べてて、その話をやりたいなぁと思ってるんだよ」
「ああ、そうなんですか。そういえば先輩のとこの家のそばって、処刑場があったり、晒し場があったり、不思議でしたよね。ぼくもあそこでこんなことがあって…花みたいなの見たこともありましたし」
「そうそうそう、それなんだよ。実は・・・」って言いながらごそごそッてカバンの中から取り出したのがいちまいの古地図なんです。
で、その古地図には、旧中山道が書いてあって、あと川が書いてあって、線が何本か引いてあって…
昔の本当ザクっとした地図なんで、縮尺とか何も関係ないし、辻堂の曲がり角んとこにも“お地蔵様”とかって、今じゃ分からない目印が書いてあるんですね。川も“何川”と書いてあるのとは違って、ただ単に線が引いてあって“川”って書いてあるだけなんですね。
「この地図が図書館で手に入ったんだけど、これ見てくれると分かるんだけどさ、ここに川があるだろ、川のここに、な、“獄の墓”って書いてある」
地獄の“獄”と書いて、“獄の墓”。
「これなんですか?晒し場のことですか?」
「ちがうんだよ。これ地図で言うと、学校がここらへんだから違うんだよ。多分俺はな、獄の墓っていうのは、処刑しました、で、処刑した時に、首とかは晒したりするし、場合によっては京都に運んだりするわけ。でも胴体とかさ、いらない部分ていうのはわざわざ埋めたりするのは面倒くさいだろ?大概川沿いに捨てたりとか、川っぺりに軽く簡単に埋めたりとかするんだよ。多分俺はそういうんじゃないかなと思う」
「そうなんですか」
「たださ、今これがどこなのかが分からないんだよ。大概の場所っていうのは、そういう場所がありましたっていう記録が残ってるんだけど、これは残ってないから、これを今調べてるから、次回のイベントでやりたい」お客さんもああ面白い、お願いしますって話になって。
「次回12月14日のイベント、月夜野さん、よろしくお願いします」って言って終わるんですね。





しばらくして、月夜野さんの方から連絡があった。
「もしもし、シンヤ?」
「おお、どうもどうも」
「あのさ、、、ちょっとさ、、、ネタ替えたいんだよな」っていう風に言うんですよ。
「え、どうしたんですか。“獄の墓”見つからないんですか」
「いや、そういうことじゃないんだけど、、、ちょっと、嫌なことがあってさ」
「何があったんすか」
「こないださ、かみさんと子ども連れて、ファミレス行ったんだよ。ご飯を食べていたら、3歳の娘がさ、窓の外見てさ「ブドー、ブドー」って指さす。え、何処?って言うと、自分の車の方を指して「ブドー、ブドー」って言う。見てもないんだよ、そんなの。えー?って言ってると、上の6歳の長男も「パパ、ブドー!ブドー!ブドーが浮いてる」と窓の方を見つめる。えーっ?て言って、同じように車の方さしてるんだけど何もない。ブドーって食べるやつか?って聞くと、そう、ブドーっていう」見るんだけど分からない。
(なんだろうな?)
そのうちに家にいるときも、ときどき娘が「ブドー」、窓の外見て、「ママ、ブドー」とかって言う。
それからも母親と外で歩いていても「ママ、うしろからブドーきてるよ」
何か気持ち悪いこと言うな、この子たちと思っていたとき、家に帰って、仕事終わって、ああ、疲れた、と思って、自分の書斎に入ったら、いつも閉まっているはずの書斎の戸が開いてるんですよ。
(あれ?おかしい)
中に行くと、6歳の子が部屋の真ん中に座って、机の引き出しのものを全部広げて見てるんです。
「こら、なにやってんだ。お父さんの部屋入っちゃダメだって言ったじゃないか。しかもお父さんの机の中から色々出しちゃって」
「ちがうよ」
「お前じゃなきゃ入らないし、こんなんならないだろ」
「入るときからこうなってたよ!カギ開いてたもん」
「そんなはずないだろう」
「ちがうほんとだって。こうなってたんだもん!」
あんまり言うんで「じゃぁさっさと出なさい」
出ようとしたとき、「あっ、パパ。これ、ブドーだからね」って言う。

床に散らばってる資料の中の一枚、明治時代の初期に撮られた絵葉書があるんですね。これってお土産物用に、海外に輸出用につくられたやつで、モノクロ写真で写真を撮って、手で色を塗って、絵葉書として配るって中に、日本の資料としてなのかどうか分からないんですけど、その中に処刑場を撮ったものがあるんですよ。その一枚って言うのが、例の、彼の小学校の、お仕置き場の、晒し場の写真だったんですよ。
それは門の前に門番が立っているんですけど。ちょっとしたベストみたいな着物を着てふんどし一丁なんですね。その脇に平台があって、平台の上に生首が並んでるんですけど。その生首が、手前に1こ・2こ・3こ、つまり逆三角形に、ちょうどブドウのかたちのように、生首が並べてある写真なんです。

〇〇〇
 〇〇
  〇

「パパ、これがブドーだからね」



「シンヤさぁ、俺それ聞いたときにゾッとしちゃってさ。それ調べちゃまずいのかなと思って、ネタ替えていいかって聞いたんだよ」
「それは、さすがにまずいっすよね。いいですよ、ちょっと変えたってお客さん怒る訳じゃないから。やめときましょう、今回は」
「そうだよな・・・」ということで止めることになった。





いよいよイベントが近づいて、イベントまであと2日。明後日の夜12時からイベント。大体その時のイベントってのは夜の12時スタートで朝6時に終わるみたいな、ちょっとイカれた時間帯のイベントなんですけど、その前々日の夜に電話がきました。

「シンヤ、シンヤ、明後日の夜12時だよな」
「はい、正確に言うと明後日の24時からです」
「じゃぁ、その時間までに行けばいいんだよね」
「そうです。先輩、やるネタは決まったんですか」って聞いたら、
「んん、“獄の墓”をやることにしたよ」
「ええ?だって、あんなことがあったばっかりじゃないですか。ちょっとまずいんじゃないですか」
「うん、いいんだよ。大体の場所も分かったし。これ一発やったら俺終わりにするから、これ一回だけやる。大体の場所も分かった。結構すごい場所で、これは!と思うような場所」
「そうなんですか。先輩、どこなんですか」って聞いたら、
「それは、お前にだって教えらんねぇわ。当日になったら教えてやるから、楽しみにしとけよ」と言われて、「分かりました」と電話を切った。





翌日、いつもの通り仕事をしていたら、電話が鳴ったんです。
「はい、もしもし」と電話に出たら、
「あの・・・月夜野の家内ですが、今お時間ありますか」
「はい、どうしたんすか」
「ちょっと主人が倒れたので・・・申し訳ないんですけど、こちらに来てもらえますか」
「今日、出張中なんで戻らないんですよ。今晩はちょっと戻れないので、明日朝一で行きますよ」
「申し訳ないです。どこどこにあるなんて言う病院なんで、そこまで来てもらえますか」って言って、電話を切る。

翌日になって朝一で都内に戻る。
奥さんに電話して
「病院の近くまで来てるんですけど、病室は何号室ですか」と聞こうとすると、
「ごめんなさい、申し訳ないです。もう病院にはいないんですよ」
「ああ、退院されたんですか」
「いま葬祭場の方に運んでるんです」
「ええ!?」
「昨日あのまま亡くなりまして。今夜お通夜なんです」

慌ててその足で斎場に行くと、もう棺に入って、祭壇が組まれている状態。
「どうしたんですか」って聞いたら、
「実は、朝方倒れまして。突然家の中でばたっと倒れて。救急車を呼んで病院まで私付き添って行ったんです。原因が分からないんで色々と処置して、MRIを撮るってストレッチャーで運ばれてる時に、私をわざわざ呼び止めて、シンヤに伝えなくてはいけないことがあるから連絡を取ってくれ、と言ったんです。それで昨日、電話させていただいたんです。それが、最期の言葉だったんですよ」って言う。
「大体、私、何のことか知ってます」



その夜、知り合いに連絡をしてお通夜に行って、その足で12時からのイベントに行って。
「実は、今日のゲストの方が亡くなりになりました…皆さん、黙とうをお願いします…」ということで、黙とうしまして。
翌日、告別式にそのまままた行きました。告別式に行って、すっと見てるうちに段々僕もつらくなってきまして、で、もう焼き場に入るのが耐えられなくて、焼く前に帰ろうと思いまして帰ろうとしていたら奥さんに呼び止められまして。

西浦和さん。あの人が何を調べていて、何を発表しようとしていたのか、私は知ってましたし、止められなかったです。ただ今、子どもたちにこれ以上災いが来るのは嫌なので、あの人が持ってた資料、ブドーの映った写真なんかを、全部貰っていただけますか」と紙袋で渡されました。
断れないですよ。
それを受け取って、僕は葬儀場を後にします。



でも、さすがに家に持って帰る勇気はなくて、当時、和光市の方に大きなレンタルのコンテナを僕借りてまして、そこに入れて、そのまんま蓋を閉めて帰ってきました。
その後、そこのおうちのお子さんたちは無事に元気に育って、大きくなられまして。もうあれから10…13年、14年経ちまして、みなさん元気ですけども。
僕の方は資料を何度か見ることになってしまいまして。というのも、倉庫がなくなるので移動してください、ということがあって、持ち帰った時に引っくり返しまして、中味が見えてしまったんですね。十何年ていう歳月は、僕にも多少の知識を与えてくれたので、その場所が、僕も見えてしまいました。つまり、月夜野さんがたどり着いた“答え”に僕もたどり着いたわけですね。

まぁ、ひどい場所です。ちょっと口に出すと騒ぎなるような場所だったりするのでなかなか言えないですけども。今は大きな施設になっている場所、だったりします。
それを調べに行ったときに、目から血を出したとかっていうトラブルがあったので、もう僕自身はそこには触れようとは思っていないのですが、そういう場所って言うのがあったっていうのが。
怪奇とか心霊って言うのは、すごく面白いし興味も湧かせてくれるんですけれども、たまに掘ってはいけない場所とか知っちゃいけないことっていうのがあるんですよね。
ビリビリくるとか、コレは悪いっていう感覚は、そのときに初めて分かった気がするんですが、触れなきゃいけない商売ではあるんですけれども、触れる怖さというのを改めて知った事件だと思います。

なぜこの話を僕が今してるかと言うと、月夜野さんの活躍とか、この月夜野さんがやってきたこと、というのを僕が語らないと、月夜野さんを知る人がいなくなってしまうということもあって、こうやって彼のことも含めて語っているような状態です。
ネットでは、場所はどこだとかっていうのは書かれていますが、言わないようにしています。皆さんもあまり深入りしないようにしてください。<了>

三木大雲『修行時代の怖い話(愛犬家連続殺人事件)』書き起こし(2018年7月7日OKOWA準決勝戦より)

三木大雲
1972年、京都の寺院の次男として生まれる。立正大学仏教学部在学中、日蓮宗宗立谷中学寮、熊谷学寮で学ぶ。その後、多くの寺院で修行を積み、2005年、京都の光照山蓮久寺の第38代住職に就任。布教のための法話に熱心に取り組み、京都日蓮宗布教師会法話コンクールで最優秀賞を受賞。関西テレビ「怪談グランプリ」2014優勝(2010年、2013年準優勝)。OKOWA初代チャンピオン。趣味はボクシング。

OKOWA:OTUNE KOWAI OHANASHI WORLD ALLIANCE
怪談・都市伝説・講談・落語・裏実話・・・「怖い話」ならジャンルレス&プロ、アマ、性別、国籍、一切不問の1vs1タイマントークバトル!大阪発信のWEB番組・おちゅーんLive!が放つ、最恐王者決定トーナメント。「怖い話」を語る行為を、ひとつの技術と捉え、「話」としての怖さとともに、話者の「話術」「個性」までをも包括的に評価し、「今、最も怖い話を語る者」を明確にし「最恐」の称号とともにチャンピオンベルトを与える為の組織。

これはね、私が修行時代の話なんですけれども。
あの、私が修行してたのは、関東の、とある場所なんです。
この関東のとある場所で4年間修業をしてたんですね。





どんな修行をしてましたかって言うと、寮に入って、お経の読み方、筆の使い方、声明の仕方とか、色んなものをこの4年間で習う訳です。朝4時半に起きましてね。水を被って、掃除をして、先輩がまだいるときには先輩の世話までして。お風呂に入るときには先輩の背中を流したりっていう…
まぁ、正直、私にとってはすごく厳しい修行だったんですよ。この、すごく厳しい修行の中にいると、時折、こう、精神が病んでくるんですよね、修行とはいえね。

ああ、しんどいなぁ、って思ってると、その私が修行させていただいてた寮の近くに“アフリカケンネル”っていう、まぁ、ペット屋さん、みたいなのがあるんですよ。そこへ行きますとね、私は犬が大好きで、“アフリカ・マラミュート”っていう大きな犬がいるんですけども、その犬が居るんですよ。で、ゲージにちょっと入らせていただいたりして、頭を撫ぜたりしてね。それがちょっと私、修行の息抜きになっていたんです。そこの方たちとも仲良く段々となっていきましてね。





あるとき私が、またちょっと息抜きに寄せていただきましたら、その日はちょうどね、社長さんが来られてたんです。
関東で修業してますから、その社長さんとお会いした時に、すぐ分かった。
「おお、お前犬好きなんか?」
関西弁なんですよ。
ああ、なんか懐かしいなと思いながら、「あの、関西の方ですか、」ってお聞きしたら、「おお、せやねんせやねん、おお、なんや、お前も関西か」と、これでだんだん仲良くなっていきましてね。

「社長さんと、こうなんか久しぶりに関西弁聞けて良かったです。私ちょっと修業を近くでしてまして、お坊さんの修行をしてて。たまに、ちょっとここ気休めに寄せていただいてるんですよ」
「そうかそうか、いつでもおいでや、そうかそうか、修行厳しいもんな」
そう言いながらね、コーヒー缶を並べはるんですよ、机の上にね。
「好きなコーヒー、飲んでええから。1本、飲みぃ」、そうおっしゃって下さる。
「ありがとうございます」
見ると、銘柄、全部一緒なんですよ。
熱い冷たいがあるのかな、と思って、ちょっと全部触ってみるんですけども、別にそれもないんですね。
じゃ、一本いただきます、ということでコーヒーを飲んで、ごちそうさまでした、と。



「おお、お前、もしあれやったらさ、15分間くらい、ちょっとウチへ毎週喋りに来いよ、週に一回でいいから。そのついでにちょっと犬の散歩行ってくれへんか。そしたら月に15万やる」っておっしゃるんですよ。
「ええ!週に一回、ちょっと喋りに来て、犬の散歩ちょっと15分ほどして、それで一月15万頂けるんですか」
「おお、ええよええよ」
そうおっしゃってくださったんで、「私、修行してる寮に戻って、この寮監先生っていう先生が居られるので、その方の許可が頂ければ、ぜひとも私ここでバイトさせてください」ということで、私、寮に戻りまして、寮監先生にこの話をした。
そしたら寮監先生がね、
「お前は本当に情けない。修行中に気休めなんていらん、ましてやお金を稼ごうなど…欲を捨てるための修行をしてるのに何をやってるんや」と、ひどく怒られましてね。
で反省文を書け、と言われることになって。反省文を書いて、その日の夜に発表させられる訳です。アフリカケンネルでアルバイトの誘いがあったんですけども…みたいなことをね。欲に駆られて申し訳ありませんでした、みたいな文章を書いて。



で、次の日、もう一度アフリカケンネル行きまして。社長さんに謝らなくちゃいけない。
「社長さん、すいません。実は、昨日のお話なんですけども…寮監先生の許可が頂けませんで…」
「ああ、そうかそうか。そら、お坊さんなるための修行大変やもんな。うん、そら、ええよええよ、別に。他の奴探すから」と言って、また缶コーヒー何本か並べられる。
「好きなん、取れよ」
「ああ、じゃぁ、すんません、いただきます」
幾つか触るんですけども、やっぱり全部常温なんですよ。
じゃ、これいただきます、と飲んで。
「そかそか、お前、神仏信じてんのか」とおっしゃるんで、
「はい、それで、信じてるので修行してる訳ですけど」って言ったら、
「あは、そらそやなぁ…まぁ、またな、気休め、時間あったら、いつでも来てくれ。じゃぁ頑張って修行しろよ」と言って、その日別れたんですね。



それから、私もそのアフリカケンネルに、あまり息抜きで行くのもいけないことなのかな、と思って、あまり行かなかったんですけども。
まぁ、月日が経って、修行が終わる日、もう来月には私が修行終わって京都に帰る、そのときにこの最後のあいさつにアフリカケンネルへ行ったんですよ。
あの犬たちにもね、お別れを言って。ありがとうね、今まで修行辛いときにお前たちがいてくれたから頑張れたよ、なんて言って、犬に頭を下げて。
すると社長さんが居られて。
「おお、久しぶりやな、お前。どうした、もう修行終わるんか?」
「そうなんです、実はもうこれで京都へ帰るんです」
「おお、そかそかそか、ほな最後にお前コーヒーでも飲んでけよ」と言って、また何個かのコーヒーを並べられる、いつものように。
1本取って、ありがとうございます、と。
飲んで、私はその後、京都へ帰ったわけです。





京都へ帰ってしばらくしますと、
テレビニュースにその社長さんが出ておられるんですよ。
(あれ、この社長さん何かあったんかな?)
よく見ると、『愛犬家連続殺人事件』の犯人なんです。
捕まってるんですよ。



で、この『愛犬家連続殺人事件』の、この犯人なんですけども、
実は私の先輩が、“教誨師”って言いまして、捕まった犯人と、一緒に罪滅ぼしのためにお経を読まないか、とかっていう話をしに行く仕事があるんです。
その教誨師の仕事で、私の先輩が行かれたときに聞かれた話なんですけど。





その犯人ね、殺すための条件が幾つかある。
ひとつに金が目的でないこと、ひとつに何々、ひとつに何々…
つ〜っと指折り数えていく。
一番最後に、運が悪いやつは俺殺すんや、って、そうおっしゃったそうなんですよ。



「運が悪いやつって、どういうことですか」



「あんたお坊さんやから言うたげるわ。
 昔なぁ、ひとりの修行僧が、うちの、アフリカケンネルに来よった。
 毒入りのコーヒーを出した。
 1本だけ、毒のないもんを置いた。
 そいつ、3回とも、毒なしのコーヒー引いて、飲んどった。
 ひょっとしたら、神仏は居るんかもしれんなぁ」



そう言って、笑ったそうなんです。





これ後に映画になりまして、『冷たい熱帯魚』という題で映画化されております。
もしよければ皆さん見ていただけたらと思います。



どうもありがとうございました。

<了>



【2022年8月追記】
島田秀平『お怪談巡り』にて、ゲストの三木和尚がOKOWAで披露しきれなかった周辺エピソードを交え「完全版」としてお話ししていました。
血も涙もない極悪犯に話術・話法の手ほどきを受けたこと、死を前にした極悪犯が漏らした若き日の和尚が九死に一生を得た「神仏の恩寵」、そのときの同窓生たちがその後の「怪談説法」につながっていくなど、(文字起こしはしないが)単なる怖い話ではなく人生を決定づけた道標的な体験談もぜひ合わせてご覧ください。↓

www.youtube.com

朴の木の祟り[山梨県]

中央本線甲斐大和駅(旧初鹿野駅)付近にある諏訪神社の御神木・朴の木にまつわる話。





神社前に初鹿野(はじかの)という地名の由来が書かれた看板がある。

祭神は建御名方命、起源は詳かではないが、古書に曰く「建御名方命諏訪よりこの地に巡狩せられし折、供奉の臣足痛をなして困苦甚だし。里人蘆茅を以って日向に一宇を結び治療を奨めしに、日を経て茅屋の傍に温泉湧出せり。よって供奉の臣浴し見たるに足痛たちどころに癒え、附近の野にて狩をし初めて鹿を射たれば「初鹿野」の名を賜えりと。里人此処に一宇を建てて祀れり」と。

鹿狩りに訪れた建御名方命(※)の従者が足痛で困り果てていたところ、村人が庵を設けて看病してくれた。すると庵のそばで温泉が湧き、おかげでたちどころに痛みも癒え、近くで初めて鹿を射て、この地を「初鹿野」と名付けた。村人たちはここに建御名方命を祀る堂を建てて祀った。





本殿は、県指定文化財とされ、江戸〜明治期に“甲州流”として全国的に名を馳せた下山大工の手により重厚にして妖麗な彫刻が施されている。しかし現在は“保護”というにはあまりにも無粋な、屈強すぎる鉄骨で幾重にも囲われてしまっている。





また案内板には以下のような文言がある。

本殿の裏にある神木の朴の木は、二千数百年を経たといわれており、幹は幾度か枯れては根本から発芽し、現在に至っている。
 この朴の木は、日本武尊がこの地に憩った折り、杖にしたものが発芽したものと伝承されている。古来からこの神木を疎(おろそ)かにすると、不祥の事件が起きると信じられているので、神意に逆らわないようにしている。
  平成元年三月 大和村教育委員会



この文言と、朴の木との接触を避けるために国鉄が設けた堅固な柵によって、現在も“朴の木の祟り”は生き続けている。


[]


1903(明治36)年、2月、国鉄中央本線大月〜初鹿野間開通。6月、初鹿野〜甲府間開通。

1905(明治38)年、付近にあった川久保集落の住民が、端午の節句の際に、神木から落ちた朴の葉を集めて、餅を包んで食べた(その地域では、柏が育たなかったため昔から代用として朴の葉は用いられていた)。すると集落で次々と人が亡くなり、12戸あったうち10戸がなくなった。コレラ赤痢などの流行り病に罹った可能性はあるが定かではない。

1907(明治40)年、8月、甲府盆地辺域に大水害が発生。日川の氾濫によって一帯は流出し、川久保集落の残る2戸も離散、集落そのものが消滅。





明治期、山梨県下では治水の遅れ、蒸気機関の燃料として山間部で行われた大規模伐採の影響などからか、大水害が頻発している。時を同じくして鉄道開通とそれに伴う開発、山間部に押し寄せた劇的な近代化の波。村人たちの目には、畏れ多いこと、行き過ぎたことによる天罰、に映ったとしても不思議はない。





1918(大正7)年、初鹿野駅拡張
1929(昭和4)年、電化に伴って、線路際にあった朴の木は度々伐採計画が持ち上がるものの、請負いはすべて断られ、計画は頓挫している。



境内には御神木として祀られる朴の木とは別に、立派な杉の切り株がお堂に囲われて残されている。

初鹿野の大杉跡
諏訪神社境内−

 ここにあった大杉は笹子峠の矢立杉(北都留郡大月市笹子町)甲斐奈神社橋立の大杉(東八代郡一宮町)と共に甲州街道の三本杉といわれた巨木である。


 明治36年に鉄道が開通し その震動と蒸気機関車によるばい煙のためか 樹勢が衰え枯れかけたので 名水をして永く大杉の存続を願い鉄道省よりの老樹慰謝金二百円で培養保護に努めたが 神社の境内に枝葉繁茂して雄大な景観を誇っていた大杉は樹勢が衰えついに枯死し二千四百円で払い下げて伐られたのである。
樹齢の周囲目通し 二丈八尺(8.48m)
樹幹の根周囲 三丈八尺(11.5m)
樹高 約十七間半(31.8m)
樹幹 三百七十一年
昭和57年12月 大和村教育委員会

鉄道省は1920(大正9)年〜1943(昭和18)年まで設置された国立機関。「鉄道省よりの老樹慰謝金200円」という記載からも、鉄道開通以後も住民たちは国鉄に対してよしとはせず、少なからずなにがしかの反発があったと見るのが妥当である。国鉄のやり方に異を唱える住民たちは、“御神木”の存在を象徴的に利用していた側面もあるのではないか。







1953(昭和28)年、架線に触れる部分だけでもと、慰霊祭を催したうえで朴の木の枝払い作業を行った。
しかしその後5年ほどの間に、関係者6名のうち5名に急死や不可解な事故死が続き、残る国鉄職員1名も国鉄構内で事故に遭い、大怪我を負った。





1968(昭和43)年、5月、韮崎バイパス修学旅行バス・トラック衝突事故
5月15日午前3時30分頃、国道20号線韮崎バイパスで大和中学校の修学旅行生ら36人を乗せていたバス(山梨交通)に大型貨物トラックが正面衝突。バスの車体右側は大きくえぐられ、3年生担任の女性教師(51)、男性の教頭(45)、男子生徒3人(14)、バスの交代運転手(33)の6名が死亡、21人が重軽傷を負った大事故である。

トラックには引っ越しの荷物を積まれており、正規運転手と荷下ろしの助手(ともに当時19歳)が乗っていた。しかし事故の際、運転していたのは無免許の荷下ろし助手の方だった。運転手は1時間ほど走ったのち、何を思ったのか高速道路の手前で助手と運転を交代したのだという。運転手は2週間の休暇を終えたばかりで、疲れが溜まっていたとは考えづらく、まさしく気の迷いがあったとしかいえない。

大和中学校が諏訪神社から線路をまたいですぐの立地であること、トラック運転手の奇怪な交代劇に絡めて、地元では「事故の3日前に国鉄職員が朴の木の根元をいじっているのを見た」といった祟りの噂が立った。




諏訪の地に生息し、全国各地の神社を巡っている“八ヶ岳原人”氏のブログに興味深い発見があった。

「1868年に県下の神社・寺院から提出された由緒書を翻刻したもの」とある山梨県立図書館編『甲斐国社記・寺記』から転載しました。「因」が抜けているので意味不明になっていますが、全文を読むと「従者が足を痛めたので、この地にとどまった」ことがわかります。

社伝 信濃国諏訪社国体にして健御名方命を祭り、命此地に巡狩ありけるに里人芦茅(あし・かや)を以て日向に一宇を結び奉りけるに、空しく宮居に日を経させくるに忽然として温泉湧出して供奉のもの足痛を治し狩し給う、
 初鹿狩野(はじかの)の郷名を賜り永く邦家(ほうか※国家)を護らんとて樸(朴)の枝を逆に地に指入置賜うに枝葉栄えて今に存す、拾抱(10抱え)計(ばかり)にして繁茂す、神木と号し杉の木八抱計りにして同所日向宮と称す

 ここでは「朴の木は建御名方命が植えた・神木は杉」となっていますから、大和村教委に異を唱えることになります。ここまで、公式案内板「日本武尊が杖にした朴が育った」に沿った話を進めてきましたから、…慌てました。(八ヶ岳原人ブログ『初鹿野 諏訪神社』

社伝の前半部分は本文冒頭で挙げた現在の公式文と合致する内容だが、問題はその後半、朴の木を植えたのは建御名方命であり、神木は杉であるという記載である。氏はブログ中で、国鉄と祟りとの因果関係を認めるのであれば、鉄道敷設と同時期に枯死してしまった“初鹿野の大杉”こそ祟りの原因とする方が合理的、との見方を提示している。

無論、切り株として残る“初鹿野の大杉”は神社の成立年代に存在していたわけではない。だがかつて御神木は代々“杉”であったとしてもなんらおかしくはない。突飛な発想かもしれないが、むしろ“御神木”として古から受け継がれてきた“杉”をどうにか守るために「老樹慰謝金二百円で培養保護に努め」たとも考えられる。





杉を御神木と仮定すると同時に、疑念が膨らむ。
件の“朴の木”はいつから御神木として祀られているのか、と。





古くは朴も杉も御神木だったのか。
甲斐国社記・寺記』編纂に誤りがあったのか。
鉄道開設や“初鹿野の大杉”が枯死する過程で“朴を神木とした”のではないか。





それは、鉄道開発のやり方に反対する運動の中で生まれた着想で、“朴の木”は“祟りのある御神木”に祀り上げられたのではないか。





反対運動の過程で生じたいくつもの“軋轢”が、ときとして「事件」や「事故」になり、隠蔽されて形を変え、そのいくつかは“祟り”として封じ込められて現代にまで語られているのではないか。








建御名方命(たけみなかたのかみ)は大国主命御子神。天照によって中国平定を命じられた武神・建御雷命に相撲を挑むも一捻りにされ、諏訪の地に蟄居したとされる。諏訪信仰はその後、狩猟・漁業の神として全国に広まった。

※死者233名、流出家屋5757戸、埋没や流出した宅地や田地650ha、山崩れ3353箇所、堤防の決壊・破損距離約140km、道路の流出や埋没、破損距離約500km、倒壊した電柱393箇所とされる(『「米キタ」「アスヤル」ー明治四十年の大水害から百年ー』山梨県立博物館、2007年)。古来より甲州一帯は水害頻発地域だったが、山梨県の近代における最大規模の自然災害に数えられる。