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気になる事件と考えごと

セレブ一家の困惑と美少女の死——ジョンベネ殺害事件

現代アメリカでもっとも有名な未解決事件のひとつ、1996年に発生したジョンベネ殺害事件について記す。少女はなぜ僅か6年でその生涯を終えなければならなかったのか。

ここでは犯人像を挙げる訳ではなく、なぜ人々はこの事件に注目し続けるのか、を中心に考えていきたい。

 

■概要

1996年12月26日朝5時52分、コロラド州ボルダーに暮らすパトリシア・ラムジーさんは「娘が誘拐された。いなくなった」と取り乱した様子で911番に通報を入れた。誘拐された彼女の娘こそジョンベネ・ラムジーちゃん(6)である。

前日25日の夜は友人フリート・ホワイトさん主宰のクリスマスパーティーに家族で参加し、ジョンベネちゃんは帰りの車中で疲れて眠っていた。帰宅後、父ジョンさんに抱えられて2階の寝室に運ばれ、寝かしつけられた。

翌朝、母親が部屋を覗くと少女の姿はなく、1階キッチン近くに身代金目的の誘拐を示す内容の手書きのメモが残されていた。通報を受けてボルダー警察は直ちにラムジー家へ急行。クリスマスシーズンで雑然とした邸内を一通り捜索したが、彼女の行方は分からなかった。

夫婦は夫の勤め先や知人らに連絡を取ったため、ラムジー邸には朝からホワイトさんら多くの関係者が集まり、動揺する夫婦を励ました。少女の部屋は立ち入りが禁じられたものの、客人らは広い邸内を歩き回り、片付けのために物を移動させたりした。脅迫状のメモには「明日の8時から10時頃」に連絡すると記されていたが、26日もその翌日も犯人からは何の音沙汰もなかった。

26日13時過ぎ、改めて少女の痕跡を見つけようと邸内の徹底捜索が開始される。父親が地下室の小部屋(ワインセラー)に入ると、白い毛布の上に横たわる娘の遺体を発見し、即座にテープを剥がして頬に触れた。手首のロープを解くことは諦め、蘇生を願ってそのまま2階へと移動させた。床に寝かせられた少女は警官によって死亡が確認された。誘拐と思われていた事態は殺人事件へと変わり、結果的に、人々は邸内に潜在していたかもしれない犯行の痕跡や事件の証拠をうやむやにしてしまうこととなった。

 

■殺人事件

22時45分、遺体は検死局スタッフによりラムジー邸から搬出された。

 

ジョンベネ事件で最初に任務に当たったボルダー警察リンダ・アーント氏は、通報直後は誘拐事件だと考えていたが、遺体が邸内で発見されたことやジョンさんの行動、態度などを通じて自身の「経験と訓練から」ジョンさんによる児童虐待を強く疑ったという(http://www.acandyrose.com/03182000-arndtdepo-04102000.htm)。彼女は現場の証拠保全を怠り、見込み違いをしていたことで責任を追及され、半年のうちに現場を去ることとなる。

少女の遺体は口をダクトテープで塞がれ、手を腰で縛られた状態だった。死因は頭蓋骨が割れるほどの右頭部脳外傷及び3/16インチのナイロンコードで首を絞められたことによる窒息と判断され、性的暴行の痕跡(膣粘膜の擦過傷と鬱血)も見受けられた。脳浮腫の状態からみて、頭部骨折後45分から2時間程度存命だったと考えられ、絞殺されるまで息はあったとみられている。

身長47インチ、体重45ポンド。胃の中にはパイナップル様の断片が未消化で残っていた。死亡推定時刻については25日22時から26日6時とされ、より限定的な時刻を示すレポートはない。遺体を持ち運んだことにより死斑の出方に影響を及ぼしたため、死亡時刻の判定が一層難しくなっていた。

詳しくはデンバー・ポスト紙ジョンベネ剖検報告が確認できる。ジャーナリストのチャールズ・ボスワース・ジュニア氏と法医学者シリル・ウェクト博士による共著『WHO KILLED JONBENET RAMSEY?』では法医学的見地から事件の解釈が試みられている(下)。

Who Killed JonBenet Ramsey? (English Edition)

誘拐を示唆するメモの内容に反して遺体が自宅で発見されたことで、少女は家から連れ出されることなく殺害された可能性が俄然増してくる。当局は、身代金要求のメモは偽装工作であり、少女の両親ジョンとパトリシアが殺害を隠蔽するため“狂言誘拐”を装ったのではないかとの見方を強めた。

ジョンさんは1997年1月1日の初めての記者会見で、ラムジー家への疑いが増している状況について問われ、「(そうした考えは)信じられないほど吐き気を催させる」と憤りをあらわにした。筆跡サンプルの提出や毛髪などDNA鑑定資料の提供は行ったものの、警察の対応に強く反発したとも伝えられている。夫婦が早々に弁護士を介在させたことで警察は思い通りの捜査が難しくなった。

同年4月、郡捜査当局を率いるアレックス・ハンターはラムジー夫婦に対する疑惑を公に認める。任意聴取やポリグラフテスト(嘘発見器)を拒否したことが報じられると、全米中から広く疑惑を持たれることとなった。4月30日、妻は6時間半、夫は約2時間の事情聴取が行われた。翌5月1日、夫婦は会見で改めて無実を表明した。

ボルダー郡地方検事アレックス・ハンター氏は、警察が両親への追及に執心するあまり捜査が難航したことを踏まえ、別の理論を探求する必要を感じていた。そこで97年3月、30年の捜査人生で200もの難事件を解決に導いたベテラン捜査官ルー・スミット氏に捜査チームへの参加を依頼した。スミット氏は事件当初「誰かがその家に入ったのなら、それはサンタクロースが煙突から降りてきたに違いない」と家人に語り、やはり夫婦による犯行と目星を付けていたことを後に明かしている。しかし調査に入ると彼の推測は当てが外れ、「外部犯」の可能性を疑う必要があると考えを改めた。

遺体の置かれていた地下室には小さな窓があり、そこから犯人が出入りした可能性があった。しかし警察は事件後に撮った写真を見せて、蜘蛛の巣があったのだから人の出入りはなかったと説明した。老捜査官は自ら蜘蛛の巣を壊すことなく窓から出入りして見せた。また蜘蛛の巣は一夜にして張り巡らされることもあるとして、前日に人が通らなかったことの証明にはならないのだと話した。スミット氏の目から見れば、当局は夫婦犯行説の見立てを補強するための証拠しか探していない有様だった。

ラムジー家はボルダー警察に対して強い抵抗を示したため、代わってデンバー警察とスミット氏が事情聴取を行った。この尋問でスミット氏は夫婦の無実を確信したと言い、その後も外部犯行説にこだわり続けた。しかし警察捜査との方向性のちがいなどから98年9月に現場を離れる決意を固めた。その後もスミット氏は真犯人が野放しになっていることを警告し続け、捜査方針の転換を訴えた。ラムジー家の弁護士ハル・ハドン氏はスミット氏、検察との軋轢により辞職したスティーブ・トーマス元刑事らに協力を要請し、ボルダー警察の捜査に対するネガティブキャンペーン論陣を張って対抗した。

こうして少女の殺人事件は、おおまかにラムジー家を疑う陣営と、外部犯を想定する陣営とに分かたれ、それぞれの主張に見合った証拠や仮説、論戦が世に放たれることとなった。

 

ラムジー

ジョンベネ・ラムジーは1990年8月、父ジョンさん、母パトリシアさんの間に生まれ、3歳年上の兄バークくんとの4人家族だった。

ジョンさんは1966年にミシガン州立大学で電気工学の学士号を取得後、海軍で土木技師などを11年間務め、大学時代から交際していた前妻との間には3人のこどもを授かったが、退役後の78年に離婚して別々に暮らした。尚、ジョンさんの兄弟、前妻(事件当時アトランタで再婚)と長男・長女らは事件後のインタビューに応え、虐待疑惑を断固として否定。ジョンは常に愛情深く優しい親だったと語っている。

89年にコンピュータソフトウェアを扱うアドバンスプロダクト社を設立。同社は企業合併により、ロッキードマーティンの子会社「アクセスグラフィックス」となり、ジョンさんは社員380人を率いるCEOとして手腕を振るった。同社は1996年に10億ドルを超える収益を上げ、ジョンさんはコロラド州ボルダー商工会議所による年間最優秀起業家に選ばれるなど実業家として社会的成功を収めた。同年5月時点で氏個人の純資産は640万ドルと報告されている。

パトリシアさんはウェストバージニア大学でジャーナリズムの学位を取得し、在学中の1977年にはミス・ウェストバージニアにも輝く美貌の才女であった。80年11月、23歳でジョンさんと結婚。7年後に、長男バークくん、90年にジョンベネちゃんを出産した。91年、一家はアクセスグラフィックス本社のあるボルダーの地に新居を構え、アトランタから引っ越した。

92年にジョンさんは前妻との娘エリザベスさん(22)を亡くしているが、交際相手とのドライブ中の車両衝突事故で事件性はないものと確認されている。

 

パトリシアさんは数々の慈善活動やこどもたちの学校活動を精力的に行い、さらに自分が果たせなかった「ミス・アメリカ」の夢を幼い娘に託すかのように、ジョンベネちゃんを数々のこども美人コンテストに出場させることに心血を注いでいた。これはパトリシアさんの一存だけではなく、彼女の母親も妹もミスコンテストで女王に輝いた経歴があり、一家にとってはごく自然なことだった。

幼くして家族の期待を背負い、歌やダンスのレッスンに励んだジョンベネちゃんは「米ロイヤルミス」「リトルミスシャルルボワ」「コロラド州オールスターキッズカバーガール」「ナショナルタイニーミスビューティー」といった数々の称号を獲得し、6歳児でありながらその道では知らぬ者のいない美少女となった。祖母ネドラさんは「私の“ミス・アメリカ”よ」と言って幼い孫娘を紹介することもあったという。

1993年、パトリシアさんが36歳のとき、ステージ4の卵巣がんと診断され、以後3か月毎に定期検診を受けていた。多くの療法書を読み、病状は寛解を示していたが、子どもたちの成長を見守り続けることができない不安も抱えていた、と家政婦リンダさんは語る。そうした身体的不安がパトリシアさんをより精力的に活動させていた、一刻も早い我が子の栄冠を望ませていたと捉えることもできるだろう。だがジョンベネを知る人たちは、彼女は生まれながらにして「ステージに立つことを楽しむ才能があった」と讃え、「決して強制されていた訳ではない」と主張する。

少女は小学1年上半期しか登校することは適わなかったが、成績は優秀で思慮深く思いやりがあり礼儀正しく勤勉で模範的な生徒であったとされる。その一方で「こどもたちは衣類はその場に脱ぎっぱなし、自分で片付けができなかった」とリンダさんは語っており、家事や生活面でのしつけは疎かな面があったようだ。

1995年のクリスマスパーティーにサンタ役として雇われたビル・マクレイノルズさんは、まだ5歳だった少女に「特別な感情を抱いた」と振り返る。少女から瓶入りのゴールドラメ(グリッター)を贈られたのだという。サンタ役として多くの子どもたちと接してきたが、パーティーで自分がクリスマスプレゼントを貰うのは初めての経験だった。96年の夏、彼は心臓手術を受ける際もラメ入りの瓶をお守りとして病院に持っていき、自分が亡くなって火葬されたときは灰にラメを混ぜてほしいと妻に頼んだという。彼はサンタ役の仕事を引退し、少女から貰ったラメの瓶のひとつを葬儀でパトリシアさんに手渡した。

 

邸宅の部屋数は15、一家4人には広大すぎるもので、施設維持や家事代行のためにハウスキーパー(家政婦)を雇っていた。リンダ・ホフマン・ピューさんは月水金の週3日、9時から15時まで日当72ドルで働き、洗濯や日常的な清掃業務などに当たっていた。庭の手入れや大掃除で人出が要りようの際は他のメイドスタッフが集められることもあり、感謝祭の大掛かりな飾り付けの際にはリンダさんの家族が手伝いに来たこともあった。リンダさんのほか親しい知人など複数人に合鍵を渡していた。

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ラムジー邸は地上3階地下1階。両親は最上階、兄妹は2階に部屋があった

児童虐待の加害者は約8割が「児童の親」であることは知られている。当然、ニュースを見知った人々の多くは真っ先に両親を疑った。葬儀を終えた夫婦は犯行への関与を全面的に否定した。だが庶民とはかけ離れた「セレブ家族」の暮らしぶりとプライバシーへの関心は高く、警察も夫婦への追及を止める気配はなかった。大衆心理として「成功者を襲う悲劇」は好奇の対象とされ、華美なメイクや衣装で飾り付けられた美しい人形のような少女は、一般庶民の目から見ればどこか「こどもらしさ」とはかけ離れた存在に映ったし、パトリシアさんの教育方針に疑義を呈する反応も大きかった。

やり手ビジネスマンに対する幼い娘への性的虐待疑惑や、いわゆる「ステージママ」そのものが児童虐待に当たるとするラディカルな反応、夫婦の過度な要求が少女の死に関連するのではないかといった憶測は、メディア報道や議論をスキャンダラスな方向へと過熱させていった。生前から脚光を浴びた少女の悲劇的な死は、皮肉なことにタブロイド紙や庶民の欲望を満たすあらゆる要素が含まれていた。

また日本でいえば年末に特集報道が組まれる「世田谷一家殺人事件」が有名だが、メディアに登場する人物が多く、いくつもの仮説が生まれやすい素地を持った本事件もクリスマスと共に「毎年思い出される恒例の事件」となってしまった。多くの人々が家でテレビを見て過ごす時期に事件が起きたことも長きにわたって注目され続けてきた大きな要因であろう。

The Death of Innocence

全米中から疑惑の目を向けられた一家は現場となった邸宅を離れ、97年8月にアトランタ郊外へと引っ越した。上の共著『The Death Of Innocence』(2000)の中で、愛娘の喪失、一家に対する迫害と誹謗中傷の日々、そして拠り所となった信仰などについて、両親の言葉が綴られている。過去にジョンさんの会社で内部告発を行って職を辞した人物など同書に名前を挙げられた2人の人物から名誉棄損で訴えられるなど、事件の「場外乱闘」のように話題は続いた。

その後、母パトリシアさんは2002年に卵巣がんが再発、06年6月に亡くなり(享年49)、ジョージア州セントジェームスエピスコパル墓地で娘の隣に埋葬された。

父ジョンさんは別の行方不明事件の募金活動を通じて知り合った女性と一時交際が報じられるなど事件に直接関連しないプライベートも注目された。その後、ユタ州モアブに移り住み、2011年に3人目の妻となる宝石商ジャン・ルソーさんと結婚してミシガンへ移った。

2016年、心理学者フィル・マグローがホストを務めるトーク番組『Dr.Phil』に出演したジョンさんは、犯人像について「ページェント(ミスコン大会)であの娘のことを知っていた小児性愛者だと思っている」と自説を述べ、フィル博士からの「犯人の本来の目的はあなたに罰を与えるためだったのかも」との投げかけに「残念ながらそうです、そう信じています」と語った。

 

■第三の声

911コールセンターに届いた通報は録音テープに記録され、内容の確認やバックグラウンドの音声から場所の特定や周囲の状況確認に用いられることもある。下の動画で911テープに残されていた当時の音声(通報者はパトリシアさん)を聞くことができる。

 

「755 15th St.誘拐です、急いで」

911「何が起こったか説明してください」

「メモが残っていて…娘が居なくなった」

911「娘さんはおいくつ?」

「6歳、金髪で…6歳」

911「いつのことですか」

「分からない。ちょうどメモを見つけた。私の娘は…」

911「メモには彼女を連れ去った犯人が記されていますか?誰が連れ去ったと?」

「いいえ、よく分かりません。メモに身代金のことが書いてある」

911「身代金のメモですね」

「SBTCビクトリーと書いてある…お願い」

911「分かりました。あなたのお名前は?あなたは」

「パッシー・ラムジー...母親です。オーマイゴッド。お願い」

911「承知しました。警官を派遣します。よろしいですね?」

「お願い」

911「いなくなってどれくらいか分かりますか?」

「いいえ、分からない。私たちが起きたらあの娘がいなかったの。オーマイゴッド、お願い」

911「OK」

「お願い、誰か寄越して」

911「私はハニーと申します」

「お願い」

911「深呼吸しましょう…(不明)」

「Hurry,hurry,hurry…(不明)」通話口を離れる。

911「パッシーさん?」5回呼びかける。

オペレーターの呼びかけに答えることなく、取り乱した母親は壁掛け式電話の受話器を元通りに置き直すまでの数秒間、「通話状態」が続いていた。音声テープでは分かりかねるが、録音内容を強化することでバックグラウンドに上述の会話以外の声が含まれていたことが2016年にCBSのドキュメンタリー番組内で指摘されている(下リンク)。

www.nowtolove.com.au

専門家らによれば、新たに判明した音声は「ヘルプミー、ジーザス、ヘルプミー、ジーザス」と取り乱したパトリシアさん、「お前に言ってるんじゃない」と荒ぶるジョンさん、そして「どうしたらいいの」「何を見つけたの?」と尋ねる第三の声だという。応対した911担当オペレーターのキム・アルクレタさんも番組に出演し、電話中に「部屋に2、3人の声があったように聞こえた」と専門家の説を補強し、「私にはリハーサルされたように聞こえた」と自身が感じた違和感を述べている。しかし彼女のそうした証言は事件当初から法的に採用されることはなかったという。

素直に受け取れば、第三の声の主は長男バークくんと考えられた。その短い会話の断片からは、早朝から声を荒げ取り乱した両親のもとに不安げに駆け寄る起きたばかりの無垢な少年の姿がイメージされる。

その一方で、人物の声や会話について「専門家にしか判読できない」として疑義を呈する者もいる(自分にはこう聞こえたと独自の説を示す視聴者もいる)。またその内容について、両親の前で無垢を「装って」状況を窺う少年という受け止め方をする者、あるいは家族は電話を切断し損ねた「フリ」をして演技を聞かせ続けていたのではないかとする見方さえあった。

またこの通報より3日前の12月23日にもラムジー家から911へ呼び出しが行われていたことが分かっており、これもリハーサル説を想起させる要因の一つである。このとき既にジョンベネちゃんの身に何かが起きていたのではないかといった見方がされることもあるが、97年1月10日時点で「ラムジー家に訪れていたゲストが酔っ払って掛けた可能性が高い」とCNNが報じている。あらゆる情報が一家の犯行と結びつけられて受け取られる状況からも、彼らに向けられていた疑惑の目がどれほど厳しいものだったかが窺える。

 

両親は事件当初から、「娘の不在を知って同じ2階フロアにあるバークくんの部屋に確かめに入った」「彼は寝ていた」と話していた。上の著書でも、彼を起こして動揺させない方がよいと考え、知人宅で預かってもらうために7時頃に起こすまでの間、部屋で寝ていたと記されており、公にはバークくんは7時頃まで「部屋から出ていない」とされている。

事件直後から警察に強い疑念を抱かれたことでラムジー家は態度を急速に硬化させ、捜査は思うように進展しなかった。98年6月、両親以外の証言を必要としていた捜査当局はどうにかバークくんに再度の任意聴取を試みる機会を得た。少年は、パーティーから帰宅後、クリスマスプレゼントのニンテンドー・ゲーム機で父親と一緒に遊んだことは覚えていたが、何時に寝たかといった記憶はなかった。

www.youtube.com

聴取当時には911テープの「第三の声」は解析が進んでおらず、バークくんが電話口の近くにいたとも考えられていなかった。早朝の様子についてバークくんは、「大きな声が聞こえて目を覚ました」「母親が通報したとき起きていた」と話した。たしかに娘を捜し回って彼の部屋を覗いたとき、パトリシアさんは気が動転していたと想像される。布団でじっとしたままのバークくんを「寝ている」と勘違いした可能性は高い。さらに「7時に起こされるまで両親と会話したか」の質問には、ノーと答え、「ずっと自室にいた」と語っていた。

ラムジー家との関係悪化を望まない捜査当局は、その後も一家への強制捜査に踏み切ることはできずにいた。事件発生から1年後の97年12月時点で、捜査当局はジョンベネちゃんの両親について「疑惑の傘の下」にいるとし、兄バークくんについては「証人」のひとりだと説明した。

では第三の声はだれのものだというのか。少年自身の中で記憶が変容したのか、それとも両親に言い含められて嘘をついているのか。あるいは「第三の声」は存在しないもので専門家による誤認や番組制作サイドによる捏造なのか。バークくんの証言にしても、仮に「嘘」をつくつもりがあれば「7時まで寝ていた、騒ぎに気付かなかった」とシラを切れば済む話であり、インタビュー時の落ち着きのなさ、子どもらしい制御能力の低さはむしろ「嘘が上手な子」ではない印象を見る者に与える。

 

■多弁すぎるメモ

下は台所近くで発見された2ページ半に及ぶ脅迫状のメモである。

当初、犯人の要求する身代金の額が年初めにジョンさんが得たボーナスとほぼ同額だったことから、家族の財産事情に詳しい近親者や社内の人間によるものかと推測された。

https://web.archive.org/web/20061208031500if_/http://www.thedenverchannel.com:80/2006/0818/9699449.jpg

ミスター・ラムジー
よく聞け!我々は外国人少数派閥を代表する個人の1グループである。わが国での提供はないものの、我々はあなたのビジネスを尊重している。現在、我々はあなたの娘を保護している。彼女は安全で無傷だ。もし彼女に1997年を見せたいのであれば、我々の指示におとなしく従え。
口座から118,000ドルを引き出すこと。100,000ドルは100ドル札で、残りの18,000ドルは20ドル札で用意しろ。銀行には適切なサイズのアタッシュを持っていくように。家に帰ったら、その金を茶色の紙袋に詰めろ。明日の午前8時から10時の間に、電話で配達の指示をする。配達には体力を消耗するので、休息を取るように。もし、あなたが早く金の支度が出来たのを確認したら、早めに電話をして、金の配達を早めて、娘と早く会えるように手配するかもしれない。
私の指示に反した場合、お前の娘は直ちに処刑され、遺体を適切に埋葬することもできなくなる。見張り役の2人のジェントルマンはお前のことを特に嫌っているので、刺激することのないように。警察やF.B.I.など、誰かに事情を話した場合、娘の首が切られる。野良犬と話しているところを見つかったら、娘は死ぬ。銀行に通報すれば娘は殺される。お金に印がついていたり、改ざんされていたりすれば、彼女は死ぬ。電子機器のスキャンを行い、発見された場合、彼女は死ぬ。騙そうとしても、我々は法執行機関の手口や戦術に精通していることを予め警告しておく。

私たちを出し抜こうとすれば、99%の確率で娘は死ぬ。指示に従えば、100%の確率で娘を取り戻すことができる。お前たち家族は常に監視されており、当局の動きも同様だ。頭で考えようとするな、ジョン。太った猫はお前だけではない、殺すのが難しいとは思うな。我々を見くびるなよ、ジョン。お前の南部の常識を使え。ここから先はお前次第だ。
勝利を!
S.B.T.C.

コロラド州調査局はラムジー家をはじめ関係者数十人から手書きサンプルを集めて鑑定を行った。メモ作成者の候補からジョンさんを除外したが、パトリシアさんを除外することも断定することもなかった。後に米ABCの特番で、手書きの専門家Cina Wongによってこの脅迫メモとパトリシアさんの100点余りの手書きサンプルの中に200もの類似点があったと指摘され、彼女の捏造である疑惑を補強した。

しかし911通報の際、「メモを見つけた」というパトリシアさんに対し、オペレーターは「誰が連れ去ったのか」と質問する。質問が求めていた答えはメモの冒頭にある「外国人少数派閥のグループ」である。しかしパトリシアさんは文末の「S.B.T.C、ビクトリー、と書いてある」と返答した。“S.B.T.C”が何を意味するのかは今も判明していないが、メモを一見すると「犯行グループ名」のようにも受け取れる。だが彼女が作成したのであれば、未知の「外国人グループ」であることを真っ先に伝えるのではないか。この返答は彼女がメモを発見したばかりで全文を通読しておらず全容を理解していなかったこと、メモを作成したのは彼女自身ではないことを示しているように思える。また事件直後、夫婦は筆跡サンプルとしてメモ帳の提出を拒んでいない。

デンバーポスト紙によれば、ボルダー警察が雇った筆跡鑑定士4人、ラムジー家で雇った鑑定士2人のいずれもが脅迫メモを「パトリシアさんによるもの」とは断定していないし、容疑から完全に排除もしていない。5段階スケールの4以上のスコアで「おそらく手紙を書かなかった」と判定されたと報じられている。筆跡鑑定を非科学的とは言わないが、鑑定人によって結果が異なるあくまで属人的な技術のひとつにすぎない。筆記のクセ・特徴を指摘することはできても、筆記者の特定や同定の精度はそれほど高くないと捉えるべきだろう。

 

2ページ半に及んだこのメモはあまりに饒舌多弁な印象を見る者に与える。ドキュメンタリー番組では同じ内容の「写し」を手書きするだけでも20分以上かかると検証されている。メモは外部から持ち込まれたものではなく、その家にあったメモ帳とペンで書かれたもので、侵入者が犯行の最中に考えながら書いたものにしてはあまりにも冗長であり、それだけでも夫婦共謀による偽装工作を人々に想像させるものであった。

犯人は脅迫メモをどの時点で書いたのか。少女と接触する以前に書いたとは考えにくいが、殺害後に書いたとすれば、なぜ「誘拐」を匂わせた書き方をとったのか。地下室に遺体を置いたままで金を強請る目論見は本当にあったのだろうか。誘拐をするつもりでメモを書いたが、逃走前に少女が抵抗したり騒いだりしたため意に反して殺害に至ったのだろうか。それとも単独犯が「誘拐グループ」を装い、捜査を攪乱する目的で組み立てた特殊なシナリオなのか。「彼ら」は社会的成功者から「宝物」を盗もうとしたのか、変質者が性的対象として美少女を標的としたのか。犯人との貴重な接点でありながら、このメモから書き手の真意や実存性を読み取ることは極めて難しい。

文言のすべてをここで精読する余裕はないが、冒頭にある“We are a group of individuals that represent a small foreign faction. We xx respect your bussiness but not the country that it serves.”という表現はとりわけ不自然さを感じさせる。たとえば「我々は集団Xに属する少数派閥である」といった表現であれば妥当な自己紹介に思えるが、自らを「外国人少数集団」を代表する「個人によるグループ」と名乗るのはいかにも遠回しで曖昧な表現であり、犯意の属性を示唆する犯行声明の体裁になっていない。「私はアメリカ人ではありませんよ、個人ではありませんよ」と言わんがために書かれた、稚拙な偽装工作のようにすら思える。

「わが国でサービスの提供はないが、あなたのビジネスに敬意を表します」と付け足していることも脅迫や身代金要求といった本筋からすれば不必要な自己紹介に感じられる。 "instruction" "monitor" "execution" "scanned" "electronic"  "device"といった語句は、当時としては主にコンピューター分野で用いられていたとする指摘もある。この見方が正しければ、犯人は社名こそ出していないが「金持ちの娘」ではなく「アクセスグラフィックス社CEOであるジョンの娘」と認知した上で狙ったことを示唆しており、脅迫文の後半ではYouではなくJohnに対する声明へとニュアンスが変化していく。

文面には、少女の容姿など求愛的な表現は一切含まれていないことと併せて考えても、単なるペドフィリアのストーカーによる犯行ではなく、ジョンさん個人を強く意識した内容だと判読できる。

基礎的な単語のスペルミスや冠詞の誤り、繰り返されるフレーズ(she dies)や感嘆符(!)、あまり一般的ではない移行語(hence)の使用など、それは意図的に英語教養の低さを演出し、拙い文章に見せかけられたものだと考えられている。また事件の翌年に捜査コンサルタント業務に当たったルー・スミット氏により、誘拐ドラマ『身代金』、映画『ダーティハリー』『スピード』の会話に同じような言い回しがあることが指摘されている(「太った猫」のこどもを誘拐する点など)。

仮に犯人の意図したものが身代金や少女の殺害ではなく、「成功者の残りの半生を台無しにすること」だったとすればどうか。誘拐と思わせておきながら家に遺体を残すことで、「家族によって遺体が発見されること」をはじめから望んでいたとも考えられる。また結果論ではあるが、自宅から幼い娘の遺体が出れば「保護者」への強い疑いは避けられないことから「一家の社会的抹殺」、今でいう「炎上狙い」のシナリオも含まれていた可能性すら感じさせる。

 

■虐待疑惑

1997年8月、当時、児童の性的虐待の第一人者と見なされていたカルフォルニア大学デービス校ジョン・マッキャン博士が被害者の剖検報告、写真、顕微鏡スライドを再調査した。膣の開口部の異常な広がりや処女膜の状況から見て、炎症のような急性傷害だけではないと判断。排泄や自慰行為によるダメージではなく、「事件より以前の性的虐待」「慢性的な性的暴行」が行われていたとの見解を示した。

また少女は頻繁に「おねしょ」があり、幼児のようなトレーニングパンツを必要としていた。ボルダー郡の性的虐待チーム責任者ホリー・スミス氏は、調査3日目に被害者の全ての下着に便の染みが見つかったとも述べている。「おねしょ」についてはジョンベネちゃんの親も家政婦リンダさんも認識しており、94年10月には小児科医の診察も受けている。医師は同年代で2割程度はおねしょの兆候があるとして、それを大きな問題とは見なさなかった。

また、かかりつけの小児科医は「おねしょ」での診察のほか、泡風呂による皮膚炎、健康診断などを含めて3年間で5~6回の膣の検診を行ったと証言している。検鏡検査は行ったことはないものの、性的虐待の可能性となる兆候は認識されなかった、そうしたものが確認されればその都度通報している、と話した。しかし虐待への疑惑と絡めて、幼児期の性的暴行により泌尿器の発育に悪影響を与えたのではないかという印象を抱く者も少なくない。

ジョン・マッキャン博士とて少女の身体を直接検査した訳ではなく、報告書やデータから「慢性的な性的暴行」と見なしうる徴候を示唆したまでである。博士の社会的立場や、両親が嫌疑の最有力候補とされていたことも少なからず所見に影響しているようにも思える。「慢性的な性的暴行」が事実だとすれば、かかりつけ医が両親から虐待を口止めされている、あるいは医師の立場から虐待に気付かなかったり通報義務を怠ったことを隠蔽するためにこのような証言をしたというのだろうか。事件の根幹にかかわる部分で、専門家や関係者から相反する見解が提示されることで事件はより複雑怪奇なものとされていった。

ジョンさんを疑う者は彼による性的暴行を、バークくんを疑う者は少年による性的イタズラを疑い、パトリシアさんに強い疑惑を抱く人々は少女のおねしょに腹を立てたことが殺害の動機ではないかと考える者もいた。世間の好奇と分かれる鑑定人たちの意見によって、少女の死をめぐる議論は醜悪な「お人形あそび」へと陥った。

 

■自白

事件発生から10年後、パトリシアの死から2か月後となる2006年8月、タイ・バンコクで容疑者が逮捕された。タイ移民警察は、インターナショナルスクール教師で小児性愛者であるアメリカ人男性ジョン・マーク・カー(42)が「身代金目的の誘拐を図った」と証言していると発表した。男性は2001年にアメリカで児童ポルノ所持ほか5件の罪で起訴されたが出廷せず、国外逃亡を続けていたことが判明する。

集まった報道陣からの質問に対し、カー容疑者は「私はジョンベネを愛しています」「彼女の死は偶然だった」と訴え、意図して殺害した訳ではなく、アクシデントだったと述べた。「彼女が亡くなったとき、私はジョンベネと一緒でした」

しかしカーの元妻は、事件当日に彼と一緒に居り、事件現場であるコロラドにはいなかったと証言。かつてラムジー家も男性もアトランタ郊外で暮らしていた時期はあったが、両者の接点は不明であった。コロラド州に移送後のDNA型鑑定は不一致で、この男性は同月中に釈放されている。

異国で逮捕されて裁判に不安を感じて強制送還を求めたのか、狂言により有名犯罪者の仲間入りを果たしたかったのか、妄想性疾患があったのか、その目論見ははたして知れない。一時は国際ニュースとして大きく取り沙汰されたものの、衝撃の自白から一週間後に起訴は取り下げられた。

 

他にも未成年者に対する性的虐待の前歴があったことからジョンベネ事件の後、警察が注目した人物の一人としてゲイリー・オリバがいる。事件当時わずか数ブロックしか離れていない地域で生活していたホームレス男性である。1992年にオレゴン州で6歳の少女に性的暴行を行ったほか、電話コードで母親の首を絞めようとしたこともあり、ジョンベネ事件後に彼女への強い関心を公言していた。

彼は2000年に薬物事件で逮捕された。その際、オリバのバックパックにスタンガン(一部の研究者は外傷の一部をスタンガンによるものだと指摘している)やジョンベネの写真を所持しており当局は疑いを強めた。しかしオリバは取り調べに対し、スタンガンは護身用に知人から貰ったものだと説明。写真については「彼女は並外れた少女だった、彼女の死は著しい損失だ。彼女を思い出すために記念碑を建てるべきだ」などと性的嗜好から彼女に強い関心があった狂信的なファンであることは認めたが、DNA型鑑定によって事件への関連はないと容疑からは外された。

2016年4月に幼児と思われる性的暴行画像を複数所持したとしてオリバはまたしても逮捕される。押収された携帯電話には、美人コンテストの女王の写真が多数含まれていた。2019年1月矯正施設から旧友に宛てた手紙の中でジョンベネ殺害を自白する内容が書かれていたと報告されている。

ブラック・ダリア事件の過去エントリーでも似たような「虚偽の自白」について取り上げている。被害者への妄執から自らを「特別な関係」でありたいと願う感情を昂らせ、自分が対象を殺害したのだと思い込む異常心理はこうした大々的な事件ではまま報告されている。

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■法医学的根拠

2008年7月、停滞した事件は大きな転機を迎える。コロラド公安調査局は従来の分析技術と異なり、触れた程度で遺留するわずかな皮膚細胞などからDNA型を検出する「タッチDNA型鑑定」を実施。その結果、被害者の下着とレギンスの3カ所からラムジー家のものと一致しないDNA片が検出されたと発表した。犯人のものと思われる体液のDNAが判明したことで、ラムジー家の潔白は証明された。

ボルダー郡地方検事メアリー・レイシー氏は、DNA証拠は家族ではない外部犯だと示しているとし、「あなた方が犯罪に関与したかもしれないという疑念を一般に与えてしまった可能性について、深くお詫びします」とラムジー家に宛てて公式に謝罪している。これに対し、ボルダー警察の元署長マーク・ベックナー氏は、メアリー・レイシーは母親が娘の殺害に加担することはできないとする強い信念からラムジー家を免罪しようとしたと主張している。レイシー氏は2000年に地方検事に選出されるまで弁護士として10年間にわたって性的暴行犯罪の訴訟に携わってきた人物である。

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この発表を受けて、侵入者による殺人事件として2010年に改めて捜査は再開された。公的には容疑が晴れた一方でラムジー家に対して疑念を抱く人々が完全に払拭された訳ではない。タッチDNAスクレイピング法の鑑定技術について疑義を呈する者もあれば、新たに検出されたDNAはナノグラム単位の微量であることから、衣類の製造過程や事件発生から検証に至る過程で付着したコンタミネーション(試料汚染)ではないかとする主張もある。

2016年10月、より精度の優れた法医学分析により、元のDNA沈着物には被害者のものとは異なる2人の男性の遺伝子マーカーが含まれていることを明らかにしたが、いまだ犯人特定にはつながっていない。事件の捜査そのものも閉じてはいないが新たな証拠発見の望みは薄く、今後犯人の自白がないとすれば、DNA鑑定技術の進歩が事件解明の最も大きなカギを握っている。

 

■思惑

ラムジー家への公的な疑いが晴らされた後、かつての捜査当局の動きが明らかとされる。2013年10月、コロラド州の地元裁判所が事件捜査を受けた1999年当時の大陪審の決定書を公表。娘を「誘拐されるような家庭環境で放置した」として両親を虐待の嫌疑で起訴するよう促す大陪審側の決議に対して、地方検事アレックス・ハンター氏が「証拠不十分」として反対して起訴を見送っていた事実が判明する。

それと聞くと、体制にNOを示す高潔な人物と思われるかもしれないが、一方でゴシップ誌の記者と頻繁にやり取りして未発表の捜査状況をリークしていた疑いも持たれており、ハンター氏に捜査を依頼されたルーク・スミット氏ですら彼の介入の仕方に難色を示している。また上述のスティーブ・トーマス元刑事の辞表提出は、このハンター氏による“妨害”を強く批判する内容であった。ラムジー家犯行説に異を唱える側の陣営も“一枚岩”とは言い難いものだった。

過去の大陪審の判断についてラムジー家の弁護人の一人L.リン・ウッド氏は、「明らかに混乱して妥協したプロセスの結果」と初動捜査の不備に加え、見込み捜査のために起訴を仕掛けていた事実を厳しく批判した。DNA型鑑定で潔白を認められた今日にあってそれまでの警察・大陪審側の“見込み違い”が明らかにされたことにより、ラムジー家を「被害者」とする見方が一気に強まった。

法執行部は強引に起訴に持ち込むことで(当時最も疑いを掛けていた)両親の離反を狙っていたのではないかとする見方もある。

 

■おしゃべりな前任者

2015年2月、98年からジョンベネ事件の指揮を執り、2014年までボルダー警察署長も務めたマーク・ベックナー氏は、ソーシャルネットワーキングサービスのRedditにおいてジョンベネ事件に関するAMA(Ask Me Anything)形式のオンラインセッションを行った。その後、オープンアーキテクチャだと知らずに発言していた(未解決事件について討議するクローズドサークル内での対話だと誤解していた)と後悔の弁を述べ、発言内容を削除した。氏は前年4月に法執行部を退任後、ノリッジ大学でオンライン講師を務めていた。捜査当局はベックナー氏がRedditでやりとりを行うことについて関知していなかったが、氏の発言内容はすでに公開済みの情報であり問題はない、とした。

当局の事件の処理について、同地では極めてまれな事件であり(クリスマス休暇で)十分な人員が配置されなかったことが現場の混乱を招いたとしたうえで、警察の初動捜査、調査のための現場保存について失敗があったことを認めていた。また夫婦に対する事情聴取について、2人を同席させて行うべきではなく、別々の機会を設けて供述書を作成すべきだったと付け加えた。ラムジー家はすぐに弁護士を雇ったため、事件後5か月間にわたって聴取が滞ったことにも言及。2008年に少女の下着、レギンスから検出されたDNA痕について、汗や唾液である可能性が高いが極微量であるため特定することはできなかったと述べている。上述のアレックス・ハンター率いるボルダー地区弁護士事務所についても、事件に介入しすぎたとして批判し、当時の捜査部門と検察との間に亀裂があったことを認めた。

 

■深夜のおやつ

2016年9月、米CBSのドキュメンタリー番組“The Case of :JonBenet Ramsey”では少女の胃の中に残っていた「パイナップルの断片」からある仮説が試みられた。それは消化状態から、彼女が生前最後に(専門家によれば、死の1~2時間前に)口にしたものと考えられた。事件のあった26日に撮影された邸内の現場写真では、ラムジー家のダイニングテーブル上にカットされたパイナップルとミルクの入った陶器のボウルが写り込んでいた。

だが母パトリシアさんは、娘にパイナップルを供した事実はないと尋問に答えている。ボウルがなぜそこに置かれていたのかも見当がつかない、と。警察は現場保管を怠って洗い物の許可を出してしまっていたため現物は遺棄され、検死報告でパイナップル片が見つかるまでその存在にだれも気を止めなかった。だれが死の間際に少女にパイナップルを食べさせたのか。

番組では、同じ家に住む9歳の少年に着目した。バークくんは親の目を隠れて夜更かしをし、妹を起こして遊び相手にしたのではないか。そのとき彼が深夜のおやつとしてパイナップルの支度をしていたものを、妹も口を付けた。一緒にシェアしたものか、あるいは少女が勝手に食べたのかは分からない。しかし何かのきっかけで2人は争いとなり、少年はカッとなって凶行に及んだのではないか。兄妹喧嘩が引き起こした最悪の「事故」を知ったラムジー夫妻は残された我が子を守るために事実を隠蔽しているのではないかとする見方である。

法医学者ヴェルナー・スピッツ氏は、キッチンカウンターの写真に見られた「大型の懐中電灯」について、少女の頭蓋骨を割った8.5インチの傷に「完璧に」フィットすると主張した。ただしこの懐中電灯が事件に用いられた痕跡は発見されておらず、頭部損傷と「完璧に」フィットする場面を再現するために撮影チームは数回のリテイクを要したとも伝えられている。

さらにスピッツ氏は、少年には精神的な問題による「糞便の問題行動」があったと指摘する。元ハウスキーパー兼乳母だったジェラルディン・ヴォディカさんは、パトリシアさんが癌で闘病中だった1997年にバークくんがトイレの壁に糞便を塗ったと述べている。元ハウスキーパーのリンダさんは、かつてジョンベネちゃんのベッドシーツに「グレープフルーツ大の糞便を見つけたことがあった」と言い、少女がクリスマスに貰ったキャンディ箱にも糞便が塗布されていたのを捜査官が発見したと述べた。そうした異常報告は、もしかすると少年はよく妹に糞便で嫌がらせをしていたのではないかと想像させるものだった。

放送直後、ジョンさん、バークさんは弁護士を通じて番組内容の一部に著しい名誉棄損がある、視聴者を騙す内容だとしてCBSスピッツ博士らを相手取り総額10億ドル近くの賠償を求める訴えを起こし、2019年に和解したとされる(Burke Ramsey vs. Werner Spitz | PDF | Violence | Crime Thriller)。

 

法廷は番組に行き過ぎた内容があることを認めたが、兄妹喧嘩隠蔽説は多くの人々に説得力を持って受け入れられた。ビジネスマンとして家庭で過ごすことの少ない父親、長い闘病ののち娘に執心するようになった母親。両親の不在は少年に心理的不協和を生じさせ、発達を歪めてしまっていたとしても不思議はないように思われた。

兄が起こした「事故」説は、事件に新たな光をもたらし、事件マニアたちを再び活気づけた。バーク説によって導かれた新たな推論として、膣の内傷について「妹の膣を肛門と区別できずに指や物を挿したりしていたのではないか」という“お医者さんごっこ”仮説や、首にできたナイロンロープの痕跡は「少女を地下に隠そうとして運ぶために縛ったのではないか」とする理論、隠されたプレゼントを探すために兄妹は深夜の地下室へ訪れたのではないかといったクリスマス説などがある。

 

■20年後

ジョンベネ事件から20年を迎えた2016年には、数々の捜査ドキュメンタリー特番が組まれ、バーク犯行説を取り上げたニックファン・デルリークとリサ・ウィルソンによる著書The Craven Silenceも大きな反響を呼んだ。「ページェントの小さな女王」として脚光を浴び、母や周囲が期待する「自慢の娘」は、思春期に差し掛かろうとしていた兄にとって目の上の瘤であり、妬みの対象だったとする仮説は一般に広く受け入れられた。

『Dr.Phil』に出演した父ジョンさんは、世間がバークくんに対しても疑いを抱いていることについて聞かれ、「私はそうでないことを知っているので、そうした意見に何とお答えすべきか分かりません。9歳児には不可能な犯行だとする意見もあります」と慎重に否定した。

兄バーク・ラムジーさんは大学卒業後にソフトウェアエンジニアとなり、同番組で単独インタビューに応じた。自身が容疑者であるかのように制作された2016年のCBSドキュメンタリー番組について問われると「嘘、不正、歪曲、欠落」した表現であり、「偽りの、道義に反したテレビ攻撃」だと強く非難した。事件直後に彼は知人の家に預けられたが、その後父親が訪れ「ジョンベネが今天国にいると私に言いました、そして彼は泣き始めました。そして何も言わず私も泣き始めました」と当時を振り返った。

放送直後からジェスチャーの専門家やYouTuberらによって、彼のインタビューでの表情や語り口、挙動などから心理分析が試みられており、米国民の根強い関心と彼に対する強い疑いを裏付けるものと言える。普段からなのか極度の緊張のためなのかは分からないが、バークさんの表情は“不敵な笑みを浮かべている”印象をもたらした。

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バークさんはこの番組でも「就寝中に異変には何も気づかなかったか?」「物音などで目を覚ますこともなかったか?」の質問にNoと答えている。母親がジョンベネを探しに入室した際、"Oh my gosh. Oh my gosh."  "Where's my baby."という声を布団の中で横になったまま聞いただけで、自分がどうすればよいのか分からなかったと話した。悪者が家に来ているのか、父親は追いかけていったのかどうかも分からず、ただ怖かったのだと思うと述懐する。

「第3の声」に関する疑惑についても、通報をしたその場に自分はいなかったとし、ジョンさんが「We're not speaking to you」とあなたに向かって発言したと推測されているとの問いかけに、「Definitely don't remenber that.I don't know.Unless someone erased my memory or something.(絶対にそんなことは記憶にありません。どうでしょうね、だれかに記憶を消されたとかでなければ)」と答えている。

また脅迫メモについて「母親の手記と思うか」の質問に対し、Yes/Noを示すことはなく、「ああ、正直に言えば、私はいつも母に「字を丁寧に書きなさい」とうるさく言われていたし、書き直させられていました。その脅迫文の書き方はだらしがないですよね」と、亡き母は筆にうるさい人物だったことに触れ、疑いについて間接的に否定した。

 

陰謀論との接続

2019年8月10日早朝、ニューヨーク・メトロポリタン矯正センターの独房でシーツで首を吊り、66歳の総資産5億5900万ドルの“億万長者”が命を落とした。性的人身売買の容疑で拘留されていた投資家ジェフリー・エプスタイン氏である。翌年には2002~05年にかけての未成年者に対する性的搾取および暴行について裁判が予定されており、45年の実刑が下される見込みであった。

施設では自殺警戒の監視役が配されていたが、看守2名が監視を怠りながら書類上では見回りを行ったと虚偽の署名を行ったことが判明。氏の兄弟から検死の立ち合いを依頼された病理学者で元ニューヨーク市監察医のマイケル・バーデン氏は、自殺としては稀な、絞殺を示す特徴が発見されたとして他殺説の立場をとった。これにより単なる自殺ではないと考える懐疑論、エプスタイン氏と交友のあった政治家や著名人らが口止めのために彼を“抹殺”したとする陰謀論をはびこらせることとなる。

(そもそもバーデン氏自身が反主流、懐疑的立場をとる人物、物議を醸す病理学者として知られている。詳しくは下のワシントンポスト記事参照。

Michael Baden investigated JFK assassination and was defense witness for O.J. Simpson before Jeffrey Epstein autopsy - The Washington Post

エプスタイン氏の死亡により人身売買の全容を詳らかにすることは困難となったが、多くの被害者の証言、関係者への裏付け捜査が今日も続いている。少なくとも2000年代には思春期前の少女や未成年女性らが数多く犠牲になったことは事実である。氏の元交際相手で、少女らの調達や斡旋を担ったとして逮捕されたギレーヌ・マクスウェル被告は、(ジョンベネ事件以前の)1992年にエプスタイン氏のもとで働き始めた。

TikTok上では、過去のジョンベネちゃんの写真にマクスウェル被告に似た風貌の女性が写り込んでいるとして、彼女の死をエプスタイン氏の事件と関連づけようとする#pizzagate陰謀論がバイラルされている。黒い短髪の白人女性が斜め後ろの角度から顔半分が見切れて写り込んでいるのは確かだが、その女性がマクスウェル被告だとする証拠はなく、「見ようによってはそう見える」程度である。画像は下のSnopes記事で確認できる。

www.snopes.com

別の事件との比較や関連性を疑う態度は事件ウォッチャーには必須のプロファイルスキルともいえる。しかし「少女の人身売買」があったこと、ジョンベネが知られた美少女だったことは事実だが、両者を結びつけるにしてはあまりに根拠が薄いように思われる。

こうした主張が真摯な推論というよりBuzz狙いの陰謀論のように思われるのは、彼らがあらゆる児童誘拐・失踪事案を「反撃してくることのない億万長者」に強引に結びつけようとするためでもある。人々が相手にし続ける内は「壊れた玩具」で遊び続けることだろう。

 

■所感

ラムジー家の弁護士がOJシンプソン事件やトランプ元大統領との関連があるとして、端から疑惑を向ける人々は現在も数多くいる。だが一般的な事件と違い、セレブリティが対象であり、メディア対策イメージ演出が重要視されること、注目度の高い事件や警察への批判的対応に実績があることなどから弁護士事務所が選定されたこともそうした符号を生んだ一因と考えられる。

多くの登場人物はすべて真実のために、社会正義のためだけに行動してきたわけでは決してない。公権力の大きい日本とは異なり、有能な弁護士事務所であれば警察発表を覆す論客を揃えることやメディアキャンペーンを張ることも可能なのである。黒を白にすることはできないがグレーに変えることはできる。警察の初動捜査のミスに付け込み、弁護側はありとあらゆる手で対抗軸となる「外部犯」説を築き上げてきたと言っても過言ではない。

私たちの良心は疑惑のシーソーゲームに乗せられ、降りることができずにいる。犯人の実像も、犯行の動機もはっきりとしない脅迫メモを目にしたときから20年以上に渡って行ったり来たりを繰り返し、大きく進展していないのと変わりがないようにも思える。