いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

30年間名前を失った女——エルドラドのジェーン・ドゥ

英語圏では身元不明者や匿名の人物を表す場合、日本で言うところの「名無しの権兵衛」として、男性に「John Doe」、女性に「Jane Doe」の仮称が用いられる。

2022年5月、米・アーカンソー州捜査当局は長年にわたる捜査の結果、エルドラドで起きたジェーン・ドゥ殺害事件の被害者の身元が特定されたことを報告した。若くして命を絶たれ、実に30年以上に渡って本当の名前を失くしていた女性の数奇な運命は人々の関心を集めた。

 

事件の発生

1991年7月10日、アーカンソー州の南端、ルイジアナとの州境に位置する、ユニオン郡エルドラドのモーテル「ホワイトホール」121号室で若い白人女性の遺体が発見された。

現場では銃声が聞かれ、銃を手にした男が車で走り去る様子が目撃されていた。警察が駆けつけると、女性は床に倒れた状態ですでに死亡しており、頭部には銃創が確認された。モーテルでは同行していた男と争っていたとの情報も得られ、エルドラド捜査当局はただちに殺人事件と判断し、逃げた男の追跡および捜査を開始した。

 

モーテルは麻薬の密売や売春といった犯罪の根城とされ、出入り客たちにも悪評が付きまとい、逃走した男の素性もすぐに浮かび上がった。界隈で売春婦のポン引きなどを生業にし通称“アイス”と呼ばれていたジェームズ・ロイ・マカルフィン(当時26歳)で、殺された女性と交際関係があった。男は彼女をセックスワーカーとして従事させていたとされ、痴情のもつれ、売春絡みの金銭トラブルなど事件の発端はいくらでも想像がついた。

以前から彼女が交際相手とトラブルを抱えていたことは、医療関係者や警察関係者の耳にも入っていた。彼女は「家庭内暴力」により度々救急搬送されており、その支払いに困って、5月には不正小切手を使用した罪で警察の厄介にもなっていた。携わった警官は、暴力男と離れてこれまでの暮らしを変えるようにアドバイスしていたという。

女性はエルドラド周辺で「メルセデス」という源氏名で通っており、病院では「ケリー・カー」の名義で訪れていた。警察などで記名を要した際には「シェリル・アン・ウィック」という名を使用していたが、綴りには余計な「s」が付けられており、これも後に偽名と判明する。

 

ほどなくマカルフィンは逮捕され、取り調べが開始された。女性を部屋に呼び、暴力を振るった事実は認めたが、殺害については徹底して否認した。二人の関係を問われると、死んだ女は先月部屋から追い出した「元・恋人」だと訂正を求めた。

事実、女性は6月からクラブ「プライムタイム」の同僚アンドレアさんのアパートに転がり込んでいた。彼女も「メルセデス」という源氏名しか聞かされていなかったが、事情を抱えた者同士に余計な詮索は必要なかった。女性はアンドレアさんに「昔から踊り子をしていた」と自己紹介し、「母親との折り合いが悪く、二児を預けたままにしている」と身の上を明かしていた。マカルフィンの元を離れた彼女は殺害当時には新たな交際相手もおり、「メルセデス」とは別の人生を歩み出そうとしていたとされる。

7月、マカルフィンはアンドレアさんの家に電話を掛け、「元恋人」を脅迫したこともあった。だがその後の連絡で、ホワイトホール・モーテルで滞在している男の部屋で二人は会う約束をした。アンドレアさんによれば、男が金をくれる約束をしたので、その金で子どもたちにプレゼントを贈るつもりだと彼女は話していたという。

事件当日、近くの部屋に滞在していたメノン氏は貸していたカセットテープの返却を求めて121号室のマカルフィンの元を訪ねた。部屋から男女の言い争う声が聞かれ、ドアを開けた男に様子を尋ねると、中にいた女性は「話し合う必要があるの」と口論の最中であることを示唆した。すぐにその場を辞したメノン氏だったが、彼女が部屋を出て駐車場に向かおうとすると、マカルフィンが後を追い、「部屋に戻れ、ビッチ」と引きずり戻す様子も目にしていた。その後も二人は出たり入ったりしていたようだったが、銃声が聞こえてから121号室には近づけなかったと振り返った。

 

ジェーン・ドゥの誕生

逮捕されたマカルフィンは「“殺人”なんて起きていない」「あいつは俺の銃を掴んで、自殺してやると脅しをかけてきやがったんだ」「前にも似たようなことがあったもんで、俺はてっきりあいつがまたふざけてやがるんだと思った」「俺が“二人のために…”と言いかけた瞬間、銃声が鳴ったんだ」と当時の状況を説明し、実際には女性の自殺であると主張した。

交際時のマカルフィンと被害者

女性の遺体はユニオン郡検視局に運ばれ、銃撃前に首の骨が折られていたことも判明。

女性の身体的特徴として、次のことが報告された。

身長およそ5'10"(177.8センチ)

体重約162ポンド(73.4キロ)

白人女性

推定年齢は18~30歳

碧眼

長さ9インチ(約23センチ)のブルネット(栗色)ヘアで、過去につや消しブロンド(金髪)にしていた痕跡もあった。

そばかす

左耳に2つ、右耳に3つのピアス

左胸の下にアザ

右目と左手首には過去に暴力を受けてできた古傷が確認された。

着用品は、黒いベルト付きのケミカルウォッシュのジーンズ、白色Tシャツ。

白色の足首丈ソックスに白色テニスシューズを履いており、右腕に金色のチェーンブレスレット、2本のヘアゴム(ポニーテールホルダー)を巻いていた。

 

男の部屋に残されていた遺留品の中から女性の社会保障IDカードが見つかり、氏名「シェリル・アン・ウィック」、生年月日「1970年11月13日」の記載があった。照会してみると女性は「ミネソタ州ミネアポリス」に住民登録されていると分かり、捜査員が電話で家族に殺害の事実を伝えた。家族は警察からの報せにショックを受け、隣にいた妹は悲しみのあまり気が動転して、離れて暮らす姉の自宅に電話を掛けた。

すると誰も出るはずのない電話がなぜかつながり、驚いた妹は今しがた警察から姉の死亡報告を受けたことを伝えると、電話口のシェリルさんは言った。

「No, I’m fine!(全然元気だよ)」

シェリルさんはミネアポリスのクラブ「パーティタイム」でダンサーとして働いており、普段から財布に身分証の類を全て入れて持ち歩いていた。連絡を受けて慌てて財布を確認し、自分のIDカードが紛失していることにはじめて気づいたという。シェリルさんと家族は警察の調べに対しても快く協力したが、彼女は亡くなった女性と面識はなく、事件にも全く心当たりがなかった。

警察も思わぬ事態に唖然としたが、シェリルさんがステージに出ている間は不特定多数の人間が控室の財布に触れることができたと判断し、カードは盗品偽造と確認された。女性自ら盗み出したのか、あるいは別の誰かが盗んだIDを彼女に転売したものかは分からなかった。すぐに終結するかに思われた捜査は「被害者の身元不明」により、発生から30年以上の長期化を強いられることとなった。

マカルフィンは、テキサス州ダラスで被害者女性と出会い、交際するようになったと供述。彼女の遺留品には、南部テキサスの音楽スタジオのチラシや東部バージニアの海鮮レストランチェーン店のメニュー表などが含まれており、どこからか流れ着いた「余所者」と思われたが、本名や出自を明確に示すものはなかった。男は「かつてメルセデスの母親と妹にあったことがある」と話し、彼らはフロリダに住んでいるとまで明かしたが、元恋人の名前の提供を頑なに拒んでいた。

「彼女は素性が知れることを恐れて偽りの人生を選んだ」とマカルフィンは述べ、「本当の名前や出自を知っているのは自分だけだ」と自負した。

捜査員によれば、警察で被害者の身元確認が取れていないことをマカルフィンは取り調べ段階で察して、司法取引や優遇措置を求める“交換条件”、いわば交渉の道具として彼女の詳細を明かそうとしなかったとみられる。ポン引き連中の例に漏れず、男は少年期から窃盗や暴行などで拘置所に何度も出入りし、警察に対する「振る舞い」を学習していた。だが警察側もそうした男の性質を見抜いており、「彼女のすべてを知っている」という男の証言を鵜呑みにはせず“交渉”は成立しなかった。

偽造IDに使用された証明写真〔El Dorado PD]

周辺捜査によって、女性に関するいくつかの行動履歴が浮上していた。女性は1990年12月31日、テキサス州ダラスのモーテルで売春容疑で逮捕されており、これは当時の調べに対しても「シェリル・アン・ウィック」名義を使っていたため浮上したものだ。居住地には売春に使われるモーテルの番地が記載されており、指紋照合等によって亡くなった女性と一致することが確認されている。

91年1月にもダラスで逮捕。翌2月はテキサス州ガーランドのモーテルで公然わいせつ容疑で逮捕。その後、マカルフィンと共にルイジアナ州シュリーブポートに滞在して、アーカンソーの州都リトルロックへと移住してきた。トップレス・ダンサーとして働きながら、エルドラド周辺でも商売をしていたとみられる。

91年3月にはエルドラドの救世軍(国際支援のため募金、バザー、音楽活動など多岐に展開するプロテスタント系布教団体)のボランティア活動に参加しており、以前は「カディスストリート1100番地に住んでいた」と話していた。該当する住所にはホームレスシェルターがあったがたどり着いた頃には記録は廃棄され、施設職員も入れ替わっていた。彼女は子どもが社会福祉施設に連れ去られてしまったが、偽名を使っていたため子どもを取り返せなかった、と明かしていた。

僅かな足どりを辿って話を聞くと、女性は周囲の人間に「フロリダ出身である」と話しており、他にも「シャロン・ワイリー」などいくつかの偽名や源氏名を使ってストリップダンサーやセックスワーカーをしていたことが分かった。いくつかの身の上話も報告されはしたが、「父親が元マフィア」で「証人保護プログラム(FBIが口止めやお礼参りから生命の安全を守る仕組み)に参加している」など、裏付けが取れるような話はほとんどなく、どの線を辿っていっても本当の彼女の来歴には行きつかなかった。

マカルフィンは彼女を家族にも紹介していたらしい。後年ハフィントンポスト誌の取材に応じたマカルフィンの姪は、幼い頃に会ったその女性のことを「シェリルおばちゃん」と呼んで慕っていたと語る。姪は「彼女は本当に性根の優しい人でだれにも迷惑を掛けませんでした。どうも何かから逃げているような、ちょっと臆病な面がありましたから。また、切りっぱなしのショートパンツにタンクトップ姿だったせいで、ストリッパーのように思ったことを覚えています」「いつも、いつだって札束ほどのお金を持っていました」と証言している。

 

1991年逮捕時のマグショット [el dorado PD] 

女性の遺留品には日記の一部などもあったが自身のルーツに係る記載は出てこなかった。登場する人物からの解明も試みられ、90年8月に一緒にいたとされる「ゲイル」「ティロン」と呼ばれる人物を追ったがいずれも消息不明だった。そんななか注目されたのは、一冊の聖書だった。ウィリー・ジェームス・ストラウド、シャロン・イベット・ストラウド、ラドンナ・エレイン・ストラウドら8人の名前が記されていたからだ。

追跡調査を進めていくと「ストラウド家」はテキサス州アービングに実在すると分かり、彼らはアフリカ系アメリカ人の家族で女性の血縁ではなかった。見つかった聖書は代々一家が家宝としてきたもので、女性は1990年半ばまでストラウド家に身を寄せていたためそのとき持ち出されたのではないかという。

しかし彼女は当時から「シェリル・アン・ウィック」を自称しており、ストラウド家の人々は「ミネアポリスからアービングに移ってきたルイジアナ出身の家出少女」という以上のことは何も知らされておらず、捜査はふりだしに戻った。

 

はたして被害者不詳の「ジェーン・ドゥ」殺害事件として公判に掛けられた被告人は殺害を否認したものの、虐待を裏付ける診察履歴、発砲前の口論や暴行が目撃されていたこととそれら事実を認めたこと、銃を持ってモーテルから逃走したことが決定的な情況証拠とされ、懲役15年の判決が下され、13年を獄中で過ごした。マカルフィンは2011年にもアーカンソー州で第2級家庭内暴行罪で逮捕、起訴された。

 

「正体」に関する議論

徹底した秘密主義、非公開原則が敷かれる日本の警察組織と違い、アメリカでは刑事捜査で得られた証拠物は「住民/国民の知る権利」に基づいて多くの情報が公開される。そのため未解決事件や行方不明者、行旅死亡人などについて推理探究を深める「安楽椅子探偵」たちがネット上のフォーラムで古今東西の事件を日夜議論している。犯人への刑罰は確定し、事件についてほとんどだれもマカルフィンの犯行を疑ってはいないが、被害者ジェーン・ドゥの「正体」は好事家たちの議論の対象となった。

刑期を終えたマカルフィンはその後もいくつかの犯罪で「出たり入ったり」を繰り返し、取材者に対して「彼女の身の上は“ミステリー”なんかじゃないぜ」と口にし、「真相が分かれば更にいくつかの未解決事件も解決する」「4000ドル支払えば本にしてもいい」と語る。

たしかに彼はまだ公にしていない彼女に関する情報を大なり小なり握っていないとも限らない。だが警察の見立て通り、男は大した情報がないにも関わらず、よい“交換条件”を求めているだけのようにも思える。一方で、彼女の身元を明かすことが男の余罪(たとえば誘拐など)を引き出すことにつながるため、証言できないのではないかといった見方もできた。前科にまみれ、口先で女を騙し、暴力でヒモ暮らしを送ってきた元ポン引き男の証言は信用に値するものだろうか。

マカルフィンの暴露によれば、彼女は16歳頃から路上でセックスワーカーとして働き、ダラスでは別の男の下で強制させられていたが、メキシコへの人身売買に掛けられそうになって二人で逃げ出したとしている。ダラスでの売春関係者には、行方不明者として知られる別の少女たちも含まれていたと言い、彼らは監禁生活を強制され、出産で命を落としたものもあったと語っている。

遺留品から見つかった年代不詳の写真 [El Dorado PD]

1988年11月にオクラホマで起きたドウェイン・マッコーケンデールさん殺しとも関連が疑われた。高速道路の休憩所の電話ボックス脇でトラック運転手がショットガンで射殺された事件である。当時、彼は普段通りデトロイトからオクラホマシティの工場へと自動車部品を配送する道中で、家族に電話を掛けようとしていたと見え、周囲にはコインが散らばっていた。着衣が荒らされ、遺留品からカギと財布が奪われていた。

目撃者はなく情報は乏しかったが、全米のトラック関連誌に情報提供を求める記事を掲載すると、当時、茶色いフォード・ピント車が無理な割り込みや他のトラック運転手と無線で口論していたとの情報が入る。また同じハイウェイを使用していた別の運転手は、事件前日に現場から13マイル離れた休憩所で昼食をとっていると妙にみすぼらしい女性が声をかけてきたという。その若い白人女性はひどく震えており、運転手は不可解に感じた。道迷いかと思い、運転手が地図に手を伸ばした瞬間、女はトラックの窓から突如上半身を突っ込んできた。被害はなかったが、女は駆け出して、近くに停めてあった茶色のピント車で走り去ったという。

メルセデス」は警察から追われている身であると周囲に漏らしたこともあり、いくつかの事件で逃走犯ないし関係者ではないかとリストアップされることもあった。事件を担当したキャシー・フィリップス刑事によれば、「ケリー・リー・カー」「24歳」を名乗る人物からFBIに投書があり、銀行強盗容疑でバージニア州東海岸で指名手配を受けているとの記述があったという。エルドラドのジェーン・ドゥも「ケリー・カー」を名乗っていたが、最終的に投書との関連が裏付けられることはなかった。

 

売春婦の殺害は比較的ありふれた、忘れ去られやすい事件トピックではあったが、遺留品の写真や歯の治療痕から、多くの人はもともと彼女は生まれ育ちがよかったとのインスピレーションを受けたようだ。ジェーン・ドゥの謎に引き付けられた人々は、全国の行方不明者リストや犯罪リストから同年代の白人女性が彼女と結びつくのではないかと電子フォーラム上で各地の情報や古い事件が掘り起こされた。

いずれの場合も、ジェーン・ドゥの大柄な身長や大きな鼻、孤を描いた眉といった特徴によって不一致と思われたが、行方不明少女のその後の発育の可能性、ジェーン・ドゥの写真の不鮮明さや厚化粧などにより人々の憶測に幅をもたせた。あるテキサス出身者は、家出したまま消息を絶った知人の娘ではないかと心配し、ある元トラック運転手は、自分もハイウェイで休憩中にそれらしき女性に声を掛けられたことがあるとコメントを寄せた。

国内の行方不明者に一致するデータが存在しないのであれば外国人ではないかとする仮説もあり、ヨーロッパからの人身売買説を補強した。またある者は、遺体にあった胸の下の古傷は豊胸手術の痕跡ではないかとして、詳しい術式を解説して見せた。「メルセデス」の源氏名や「Kerry Carr」の偽名などから、彼女の本名にも「車」を意味する名称、たとえば「Ford」などが含まれるのではないか、あるいはマカルフィンのタトゥーに刻まれた「BGD」「Jams」「Elvira」といった文字に着目した推理を披露する者もいた。当時のミス・コンテスト受賞者の中から彼女の偽名を見つけて関連を疑ったり、なかには「彼女は映画『ジョーズ』の序盤で悲劇に見舞われていたように思う」といった冗談なのか本気なのか分からないカキコミも散見される。

彼らの議論が実際に捜査の後押しになったかどうかは疑わしいが、素性の解明が被害者や家族のためになると信念をもつ人々が事件風化のささやかな防波堤となっていた。ときに新たな報道や情報提供のうごきにつながったことも確かである。

 

捜査の終結

2019年1月、捜査班はDNA Doeプロジェクトに被害者のDNA鑑定を登録。遺伝系図学者は、アラバマ州に住むクリスティーナ・ティルフォード氏との関連を突き止め、コンタクトを取った。彼女は家系や祖先を辿るために、2018年7月に「GED match」という自身のDNA型から遺伝系図探索を行う活動に登録したという。ティルフォード氏の家族関係に行方不明者はなく、それまでジェーン・ドゥのことを知らなかったが、顔相などに家族関係との類似性を感じ取った。

2022年5月24日、法医学者ヨランダ・マクラリー氏は『closingthecase.com』でジェーン・ドゥの素性が解明されたことを報告した。

closingthecase.com

 

彼女の名前は「ケリー」、プライバシー保護の観点からファミリーネームは伏せられた。1968年バージニア州で生まれたが、生物学上の父親は特定されていない。

母親は裕福な家の出で、生活費は夫に頼っていた。1972年に離婚が成立すると、母親はすぐに別の男性と再婚。相手の男性は虐待的で、7年の結婚生活を経て離婚。母親はまた別の男性と再婚するが、間もない1979年12月、ケリーが11歳のときに自殺した。

その後、母親はケリーと幼い妹を連れてバージニアビーチの叔母を頼った。ケリーは高校を中退して売店で働き、母親に代わって家計を助けた。閉店後、翌朝オーナーに届けるために売り上げや品物を家に持ち帰ることがあったが、しばしば母親はその金に手を付けて困らせた。叔母に見放された母娘たちは転居を強いられ、85年頃(ケリー16‐17歳)にはフロリダで暮らしていた。

母親はボーイフレンドをつくったが、いつしかコカイン中毒となり、売春婦として働くようになっていた。彼女に避妊のアイデアはなく、度々中絶の世話をしなくてはならなかった。詐欺、コソ泥、麻薬、強盗、車両窃盗などの罪で刑務所の出入りを繰り返した。ケリーもまた母親や周りの大人たちと同じように、ティーンエイジャーが金を稼ぐために道を踏み外していった。

薬物リハビリ施設を出たケリーは、コカイン中毒者の母親の元に戻ることを断念した。母親を捨てたケリーは、クラブでショーダンサーになる道を選んだ。おそらく18歳の年齢制限が彼女に新たな「身分証明書」を必要とさせた。「シェリル・アン・ウィック」という新しい名前を手にしたケリーはテキサスへ移り、そこでマカルフィンと出会う。

ケリーは1986年から89年にかけてアーカンソー州リトルロックでダンサーとして暮らした。その後、母親と妹と再会するため、しばらくフロリダへと戻った時期もあったが、一年ほどして別れ、バージニアに立ち寄った際にお気に入りのレストランのメニューを持ち帰った。テキサス州ダラスで恋人と商売を再開し、91年、アーカンソー州エルドラドに拠点を移した。

1992年、ケリーの母親はフロリダで喧嘩別れした叔母と再会を果たした。叔母はケリーのことを心配したが、母親はしばらく会っていないと話した。だがすでにそのときケリーは亡くなっていた。母親は最終的に故郷バージニア州へ戻り、2008年に亡くなったが、家族はだれもそのことを知らなかった。親戚の誰もが彼女をすでに見捨てていたのだ。

母親同様に、人々はもはやケリーのことも忘れかけていたが、「エルドラドのジェーン・ドゥ」は30年以上経っても見捨てられることはなかった。マクラリー氏は、ケリーの代筆者として捜査関係者や調査協力者に感謝を綴り、その報告を次のことばで結んでいる。

 

皆さん、私の事件を生かしてくれてありがとう。

 

さようなら、

ケリー

 

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https://www.doenetwork.org/cases/81ufar.html

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