いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

死を免れる死刑囚——連続殺人犯トーマス・クリーチ

「43年間続いた悪夢を終わらせるときがきました」

連続殺人犯にして米アイダホ州最長死刑囚のひとりトーマス・クリーチ(73歳)の執行が目前に迫り、被害者遺族の一人はウォールストリートジャーナル紙の取材にそう語った。

2024年2月28日(水)、男は「最期の食事」としてチキン、マッシュポテトのグレービーソース添え、アイスクリームを所望した。

しかし同日午後、州矯正局(IDOC)は、あろうことか死刑執行が失敗したことを報告した。同死刑囚は執行室の台に拘束され、医療チームが薬物注入のためにまず静脈ラインの挿入を行う手順になっていたが、腕と脚に8回、およそ1時間にわたって繰り返し試みたられたが見つけられなかったという。

 

クリーチの犯罪

アイダホ州では12年ぶりの死刑執行となる“はずだった”クリーチの犯罪とはどのようなものだったか。彼の塀の外での行動記録は限られており、犯罪記録についても大半が自白(手紙を含む)が元となっていることに以下留意されたい。

 

1950年、トーマス・ユージン・クリーチはオハイオ州ハミルトンで口論の絶えない不安定な家庭に生まれた。両親が離婚すると幼いクリーチは父親と一緒に暮らすこととなる。厳格だった父親は少年に体罰を与えたが、クリーチは銃やアウトドア、釣りなどの手ほどきをしてくれる彼をとても愛していた。

だが父親の素行不良は子どもたちに悪影響も与え、クリーチは15歳頃から家出を繰り返すようになった。サンフランシスコに滞在した時期に「悪魔教会」に出会い、同性愛者の男性を手始めに、儀式のために100人近くを殺害してロス近郊の2か所に埋めたと主張している。後年、当局は埋葬地とされる場所を捜索したが、見つかったのは牛の骨だけだった。端的に言えば、クリーチは「信用できない語り手」なのだ。

悪魔教会(the church of satan)…1966年4月30日、アントン・ザンドール・ランヴェイにより設立された団体。一般的にイメージされるような悪魔を神仏のごとく崇拝するのではなく、既存の宗教や奇跡(超自然的現象)をフィクションと捉え、肉欲の獣たる人間の本質を追求するサタニスト自身を宇宙の中心(神)とする。信仰のアプローチは一義的ではないが、懐疑的(冒涜的)自己中心主義、肉欲的自己崇拝、「私有‐神」論と称されている。

www.churchofsatan.com

クリーチは「はじめての殺人は16歳だった」とも語っている。結婚するつもりでいた恋人を交通事故で亡くし、その責任はニューマイアミに住んでいた男友達にあると考えての報復だったという。死因は溺死。小学生の頃に喧嘩でボロボロにやられて帰ると「やられたらやり返せ。周囲に押し流されるな」と父親から説教されていたためだと報復に至った遠因を述べている。

また地元紙はクリーチの手紙での告白を基に、同時期「ヘルズ・エンジェルズ」(暴走半グレ集団)に所属し、依頼されてハミルトンのオートバイギャング5人を血祭りにしたとも伝えている。

警察に残されていた記録によれば、1969年に非武装強盗の罪で逮捕され、12月に懲役刑を受けている。70年5月20日、家族が服役するクリーチの面会に訪れた際、目の前で父親が心臓発作に見舞われた。だが常駐看護師が医療機関に届けるのに手間取り、父親は息を引き取った。事情を知って激怒したクリーチは、葬儀の後、件の男性看護師に刃物で襲いかかり20回近く滅多刺しにした。だが男性看護師は奇跡的に死を免れ、14か月入院したとされる。当のクリーチはこの件で起訴されることはなく、2年の服役で仮釈放とされている。そんなことが現実にありうるのだろうか?

出所後のクリーチは流れ者として越境を続け、アイダホ州で出会った当時17歳のトマシン・ローレン・ホワイトと73年に結婚する。翌74年、アリゾナ州ツーソンのモーテルで起きたポール・C・シュレーダーさん(70歳)刺殺の容疑で二人は指名手配を受けた。ユタ州ビーバーで逮捕されたが、審議の結果、起訴は見送られた。彼らを公判に掛けることができない、刑事責任能力がないと見なされたためである。

オレゴン州セーラムの精神病院に強制入院させられ、妻トマシン・ホワイトは入院中の79年に首を吊って自ら命を絶ったとされる。後年のクリーチの説明によれば、麻薬密売組織から足を洗おうとしてメンバー達とトラブルになった際、彼は取引の帳簿を奪って組織犯罪対策課に引き渡すと言って脅し、強引に組織を抜けた。だがクリーチが服役した隙にメンバーがアパートを訪れ、手帳を奪い返された。何も知らされていなかった妻は集団レイプに遭い、建物の4階から突き落とされて心身に深刻な後遺症を負ったという。それが自死に至った決定的要因であろうと言い、彼はレイプ犯のうち2名を殺めたと話している。

病院での拘束期間を終えたクリーチは、オレゴン州ポートランドでたばこ13カートンを窃盗し、仮釈放違反で逮捕される。州当局は精神病院での長期収容になると見越して起訴手続きを行わなかったが、診療に協力的でスタッフや他の患者とも友好的に過ごしたクリーチは「疾患の疑いなし」と診断されてほどなく退院の許可が下りた。ポートランドのセント・マークス教会で墓守の職に就いたが、居住区内でウィリアム・ディーン(当時22歳)の遺体が発見されたのと時を同じくして、17歳の新恋人キャロル・スポルディングを連れてアイダホに移動した。

アイダホ州ジャーナル紙(74年11月21日付)の記事によれば、11月5日頃、2人は州内をヒッチハイクで移動中、テキサスから巡行中だった画家のエドワード・トーマス・アーノルドさん(34歳)とジョン・ウェイン・ブラッドフォードさん(40歳)の車に拾われると、二人を射殺してカスケード近郊を通るハイウェイ55号沿いの溝に死体を遺棄したとされる。遺体は寝袋とキルトで覆い隠されており、車両は同じ道の40キロ先に乗り捨てられていた。

ほどなく男女への疑惑が浮上して指名手配がかけられ、グレンズ・フェリー近郊で逮捕された。クリーチは逮捕当初こそ「現場近くにはいなかった」と主張したが、その日の内に「私がやった。2人を殺したのは私だ。助けてくれ」と犯行を自白。彼らが刃物を見せて恋人のスポルディングがレイプされそうになったため、衝動的に銃で応戦したと供述する。1週間後、クリーチは割れた鏡で手首を切ったが、すぐに取り押さえられて軽傷で済んだ。

75年6月16日には同房で口論となったウィリアム・O・フィッシャーを襲って負傷させたが、容疑事件以外で裁判に影響を与えるおそれのある情報を公表してはならないとして緘口令が敷かれた。

 

審理の行方

〔1〕クリーチの裁判

1975年10月に始まった裁判で証言台に立ったクリーチは、13州で起きた42件の殺人が自らの手によるものだと発言して全米に衝撃を与えた。

だが当局は自白の大半が虚偽であり、悪魔教会の話にしても「一言一句すべてプレイボーイ誌の受け売りだ」と反駁。当時関与の疑いがあるとして当局が追及した殺人事件は合わせて9件で、いずれも悪魔教会とは無関係で主に強盗目的と見られていた。

数多の余罪を告白するクリーチだったが、一方で直近のアーノルド&ブラッドフォード殺害については無罪を主張していた。だが事件直後に偶々クリーチから声を掛けられて親しくなったという男は、クリーチからショットガンを渡されて遺棄するように頼まれていた。

追加証人や再調査により審議は長期化したが、今日のような記録媒体に乏しい当時のことで事実確認の困難な事象があまりにも多かった。陪審も混乱を極めたが、1976年3月25日、2件の殺人によりクリーチに絞首刑の判決が下された。

尚、恋人のスポルディングは一部の殺人幇助を認め、懲役2年の判決を受けた。その間、男児を出産している。

独房で自作の歌を唄う31歳のクリーチ [KTVB]
〔2〕死刑制度をめぐるうごき

アメリカでは法律や裁判制度について連邦(国)と州の二元的な仕組みが採られ、死刑の有無や執行の手段、量刑の判断基準などは州によって異なる。アイダホ州では1957年の執行以来、死刑制度は事実上凍結されていたが、60年代後半から死刑をめぐる国民的議論が再燃していた。

 

1967年8月、ジョージア州サバンナでウィリアム・ヘンリー・ファーマン(24歳)が強盗殺人で逮捕された。いかにも金持ちそうな豪奢な建物だった訳でもなく、事前に計画された犯行でもない。酔っぱらったファーマンはラジオでも手に入ればというつもりで物色を始めたが、物音に気付いて起き出してきたウィリアム・ミッキさんに見つかり強烈なタックルを受けた。怯んだ強盗はミッキさんに銃を向け、後ずさりしたところ、洗濯機のワイヤーにつまづいて転倒し、その拍子で一発誤射してしまう。慌てたファーマンはすぐにその場から逃走したが、弾丸は図らずもミッキさんに命中し、その命を奪う。

情緒障害、精神障害と判定され、過去に4度の前科持ちだった黒人ファーマンの「転んだはずみ殺す気はなかった」という証言が素直に認められるとは思えなかった。黒人弁護士クレランス・メイフィールドは殺人罪適用の可否をめぐって争い、電気椅子の回避に努めた。しかし過失とはいえ発砲は犯罪の最中に生じており、結果的に人命を奪った事実は揺るがず、69年に死刑判決が下される。

当時の社会情勢として公民権運動とその反発が続いていた。テキサスに基盤をもつジャクソン大統領の後押しにより1964年に公民権法が制定され、アフリカ系アメリカ人への差別解消に向けたアファーマティブ・アクションが推進されたものの、差別解消は一筋縄には進まなかった。65年に公民権運動のデモ行進と警官隊との衝突によって死傷者を出した「血の日曜日事件」、68年4月には差別に対して非暴力による抵抗を唱えてノーベル平和賞を受けたキング牧師が暗殺されていた。

弁護団はファーマンの判決についても差別感情や恣意的介入があったのではないかと訴え、公平性を欠いた状況で死刑を下すべきではないと疑義が呈された。これにより法律や裁判は成熟社会の進歩と人道的正義による啓発を反映すべきだとする世論が広がりを見せた。社会正義を求める市民たちが「異論の余地がある」犯罪について死刑という可塑的刑罰を与えることそのものに疑義を抱いたのである。

1972年6月、連邦最高裁判所は「死刑は、差別的な結果をもたらす恣意的かつ気まぐれな方法で課される場合、残酷で異常な刑罰を禁じる憲法修正第 8条に基づき違憲である。」との訴えを評決5対4で可決した。この「ファーマン対ジョージア州判決」は、各州でばらつきのあった死刑適用に法的一貫性を持たせるために、事実上、全米の死刑制度を一時的に無効化させた。ファーマン本人は勿論、当時の588人の死刑囚は死刑適用が失効され、終身刑に改められるという前例のないできごとだった。

(※ファーマン自身は死刑制度への批判や国を相手取る裁判を主導していなかった。84年4月に仮釈放が認められ、目を患って障害者保障や生活保護で部屋を借り、缶拾い等をしながら暮らしていた。2004年に窃盗で逮捕、2016年に再び仮釈放された。)

 

死刑制度無効の「猶予」はそう長くは続かなかった。

1973年11月、ジョージア州グウィネット郡のハイウェイ20号脇の排水溝で頭部を銃撃された男性2人の遺体が見つかり、フレッド・エドワード・シモンズさんとボブ・ダーウッド・ムーアさんと特定される。生前彼らはフロリダ州を走行中に車が故障し、ハイウェイパトロールの助けを借りて近郊の中古車ディーラーに送ってもらっていた。そのとき2人は多額の現金を持ち合わせており、旧車を購入。旅を再開させた直後に殺害されたものとみられた。

新聞報道を見た旅人のデニス・ウィーバー氏は「ヒッチハイクで彼らの車に乗せてもらった」として情報を提供した。彼は北フロリダからジョージア州アトランタまで同乗し、殺害された2人のほか、ヒッチハイカーの先客グレッグと16歳の少年アレンがすでに同乗していたという。同乗者2人はノースカロライナ州アッシュビルを目指しており、グレッグが運転役を買って出ると、シモンズとムーアは深酒したが、5人でいたときにトラブルの予兆はなかったと語った。

当局からの連絡を受けて、アッシュビル警察は車両とヒッチハイカーたちを追跡。ほどなく中古車を奪ったトロイ・レオン・グレッグとアレン、その他3人が同乗しているところを逮捕された。証言台に立ったグレッグは、道路脇で休憩中にシモンズさんとムーアさんに暴行されそうになったと述べ、銃撃は正当防衛だったと主張する。

グレッグが逮捕時に100ドル以上の現金を所持し、ヒッチハイク時とは別の服に着替えていたが、旅行前は手持ちが8ドルだったことが判明。グレッグは「当たり屋行為でタクシー運転手から金を巻き上げた」「服は元々持っていたか、モーテルで拾ったか、アレンが買ってきたもの」と曖昧な証言を繰り返した。

しかしアレン少年は、獄中でグレッグから口裏合わせをするように指示する手紙を受け取ったと暴露し、泥酔した2人を車から降ろした際に「強盗するぞ」と指示があったと証言。また検視官は、3発の銃弾がこめかみや後頭部、右頬に撃ち込まれていたとして、襲われて応戦する場面での反射的な射撃ではないことを示した。グウィネット高等裁判所では先述した「ファーマン対ジョージア州判決」以来の死刑判決が下された。

弁護側は死刑適用に疑義を唱え、1976年3月、連邦最高裁で「グレッグ対ジョージア州判決」の可否をめぐる審理が行われ、7対2で判決の妥当性が支持されることとなる。評決日に因み「7月2日訴訟」とも呼ばれるこの決定で、死刑制度の一時凍結は解除された

死刑に科すべき要素、判断手順のプロセスが明らかとされ、いつ科されるかを決定する合理的基準さえあれば「残酷で異常な刑罰」とは言えないものと判断された。また死刑凍結に対する反発で「死刑は違憲ではない」とする世論が強まっていたことも背景にあろう。

最高裁は死刑制度について「憲法修正第8条の中核となる人間の尊厳の基本概念に適合している」と認定。「社会の道徳的怒りの表現」であり、人道に対する重大な侮辱に対する「唯一の適切な対応」であるかもしれない、との見解を説いた。死は重篤で取り返しのつかないものであるが、意図的に他人の生命を奪う犯罪と不釣り合いであるとは言えず、「最も極端な犯罪にふさわしい極度の制裁である」とした。

死刑制度は半恒久的な不文律として存在するのではなく、有史以来、その場所そのときどきの人権意識や社会情勢に照らしてその必要性が議論され、適用基準や処刑方法などが定められてきた。今日でも州によって死刑の可否は異なる。

余談になるが、死刑囚となったグレッグも「死刑執行」を免れている。1980年7月、ジョージア州刑務所にいた他の3人の殺人死刑囚と共に脱獄を計画し、独房の鉄格子を金ノコギリで破り、壁沿いに非常階段へと伝い、駐車場に準備されていた仲間の車に乗り込んで逃走に成功したのである。グレッグが新聞社に脱獄の成功を知らせるまで発覚していなかった。しかしその晩、ノースカロライナ州のバーで深酒し、ウェイトレスにちょっかいを出していたところをアウトロー・バイカー集団に因縁をつけられて袋叩きにされ近くの湖に遺棄された。享年32。バイカー集団の容疑者は逮捕されたが証拠不十分により告訴は取り下げられた。

 

〔3〕死刑回避と二度目の死刑

クリーチの裁判に話を戻そう。

アイダホ州では翌73年7月7日に死刑制度自体は復活しており、死刑判決の下された76年3月は最高裁でまさに「グレッグ対ジョージア州判決」の審理が行われた直後だった。評決の結果次第で刑の即時執行が予想されるなか、弁護団はそれを回避するため、ひとまずクリーチを他州での余罪に関する裁判へと送り込んだ。

74年にカリフォルニア州サクラメントの自宅で発見された税監査官ビビアン・ロビンソン(当時50歳)の遺体は腐敗が進行して当初は死因の特定も困難な状態だった。だが徹底した鑑識の結果、検出された指紋がクリーチのものと一致し、捜査を経て窒息死と判明した。またクリーチが墓守として勤めていたオレゴン州セイラムの教会で射殺されて見つかったウィリアム・ディーンについても犯行を認めた。最終的にアイダホ、カルフォルニアオレゴンの3つの州で5件の第一級殺人による有罪判決を受けた。

その間、ブルース・ロビンソン弁護士は、「グレッグ対ジョージア州判決」の議論や最高裁の下した判断を精査し、「クリーチは死刑の適用基準を満たしていない」と判決への不服を申し立てた。

79年、「グレッグ対ジョージア州判決」に対する最高裁決定よりも前に制定された当時の州法における死刑制度は「違憲」であり法的正当性はないことが州最高裁で認められた。クリーチへの断罪が白紙撤回されることはなかったが、終身刑への減刑に成功する。弁護人の尽力と時勢によって紙一重で死刑を免れたのである。

 

クリーチの身柄はアイダホ州厳重警備施設に送られた。凶悪犯罪者でありながら反抗的態度を示すことなく、詩や音楽を好み一見温厚そうな様子から所長の信用を得、独房を出て所内清掃などに携わる用務員役を任されることとなる。彼の危険性を知るエイダ郡保安官や裁判で死刑を主張してきた検事、囚人らが抗議したこともあったが担当を外されることはなく、やがてそうした懸念は現実のものとなる。

1981年5月13日、クリーチは電池入りの靴下を凶器にして、自動車窃盗で懲役3年の刑を受けたデビッド・デール・ジェンセンを撲殺した。ジェンセンは元々は警備の手薄なコットンウッド矯正施設にいたが、脱走騒ぎを起こしてクリーチのいたボイジャーの厳重警備の刑務所に身柄を移されていた。当人の弁によれば「麻薬取引」を持ち掛けられて口論になったことがあり折り合いが悪かったとされる。

量刑公聴会に掛けられることとなったクリーチは、運動と入浴のために独房から一時解放されたジェンセンから先に脅迫や攻撃を受けたため応戦した正当防衛だったと説明し、ジェンセンの父親に謝罪した。だがマスコミの前では「残りの人生を独房で過ごすくらいなら死んだほうがマシだ。死を受け入れる準備はできている」と死刑を望んだ。

死亡したジェンセンは数年前に自殺未遂で脳の一部を切除しており、言語や運動能力に障害を持っていた。正当防衛の範囲をはるかに超えて一方的に攻撃し続けたとみなされたクリーチは、82年に生涯二度目となる薬物注射による死刑判決を言い渡され、死刑囚監房へと戻された。

84年、クリーチはジェンセン殺害について連邦最高裁に控訴請求し、即日却下された。訴えによれば、身元は明かせないが「受刑中の第三者」にジェンセン殺害を依頼されたことがあり、自分がその依頼を断ったため「第三者」がジェンセンに刃物を持たせてクリーチを襲わせ、トラブルを誘発させたのだという。つまり「第三者」によって仕組まれた罠によってジェンセンを殺してしまったというのである。

その後も、独房の暴力性を訴えて人身保護令状を提出するなど10年近くにわたってあらゆる上訴や動議を繰り返した。

Thomas Creech, mugshot [Idaho DC]

アイダホ州最高裁によれば、2019年までに「クリーチは少なくとも26人の殺害及び過失致死を認めており、犠牲者のうち7州から11遺体が収容された」と声明を出している。89年の開設以来、キース・ウェルズ、ポール・エズラ・ローズ、ジェームズ・エドワード・ウッドら重度精神疾患が認められた連続殺人犯たちを収容してきたアイダホ厳重警備研究所(IMSI)で専用ベッドの一床を割り当てられてきた。その内なる凶悪性と被害の甚大さはもはや疑いようもなく、長年にわたる経費負担の大きさからも迅速な死刑執行が求められてきた。

1977年以降、全米で1500件以上の死刑が執行されてきた。23州とワシントンD.C.では死刑廃止、3州が執行停止、24州で存続しており、近年は減少傾向にある。80年代以降、全米で死刑執行手段として「薬物注射」が注目された。連邦法による規定はないが、通常は3種類の薬剤を静脈注射する。麻酔薬ペントタールナトリウムで意識を失わせ、臭化パンクロニウムにより心臓以外を筋弛緩状態にさせ、最後に塩化カリウムで心停止させる。だが生産量が厳しく管理されていることから供給が追い付いていないことから、死刑囚たちの長期収容が問題となった。また看守らが投与に不慣れなことや麻薬常習者の場合、静脈注射が難しいといった直接的な課題も指摘されている。

ジェンセン殺害以来は模範囚として過ごし、詩と音楽、対話によって多くの長期収容者、死刑囚の心的ケアを担ってきたクリーチの存在は「獄中の神父」とも例えられる。州の恩赦・仮釈放委員会は、もはや社会的脅威ではないとして男の死刑執行停止を唱えてきた。州が執行の動きを見せるごとに、減刑や恩赦を求める動議が請願され、連続殺人犯の命をめぐって緊迫したシーソーゲームともいえる膠着状態が長年続いてきた。

2023年の減刑を巡る公聴会は3対3で過半数に達しなかったため死刑判決は維持され、これ以上の長期化を避けたい矯正局は薬物の確保を明言し、州知事は「先延ばし」に対してを公然と批判した。2024年1月、ジェイソン・D・スコット判事は2024年2月28日の執行を約する令状に署名。ジェンセン殺害当時、4歳だった娘は恩赦の嘆願を強く非難し、「これまで自分は決して恩赦を受けてこなかった」「父が亡くなって長い年月が経ったのに今なおクリーチが存命であることに憤りを感じます」と述べた。

 

下は二度目の死刑判決を受ける直前にクリーチが受けたインタビュー。落ち着いた様子で整然と語る様子、「娘も私がしてきた過ちを知っており、それによって彼女にも深い痛手を与えてしまったことを後悔している」といった家族への思いは、とても「精神異常者」「凶悪犯罪者」とは思えない。

www.youtube.com

「目に見えない脳の病気」と言われてしまえばそれまでだが、精神病者と健常者、凶悪殺人犯と前科のない一般市民、死刑囚や神父の間に、私たちが思い描くほどのちがいは存在しないのではないかという気にさせられる。

 

被害に遭われた方々のご冥福をお祈りいたします。

------

1981 interview with Thomas Creech, Idaho's self-proclaimed serial killer - YouTube

The men who escaped their fate on Death Row | The Independent | The Independent