いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

ナタリー・ホロウェイさん行方不明事件

2005年、カリブ海西インド諸島のリゾート地・アルバ島へ高校の卒業旅行に訪れていたアメリカ人女性が行方不明となり国境を越えての大きな関心事となった。2012年に法的に死亡者とみなす認定が行われるも、最大の容疑者はその後も事件を繰り返すなど多くの余波を生み、今日も尚、真相解明に向けた捜査の進展が注視されている。

 

事件の舞台となったアルバ島はオランダの旧植民地、今日ではオランダ統治下の自治領として認められている。1920年代に始まった精油産業は80年代までに衰退し、90年代以降は観光リゾートとカジノ開発によって「カリブ海のラスベガス」と呼ばれるまでになった。189平方キロの国土におよそ11万人が暮らし、メスティソ系を主とするアルバ人が6割を占め、高賃金を求めての南米からの流入者も多く、島民の4分の3はローマ・カトリック教を信仰する。年間123万人が島を訪れ、観光客の4分の3をアメリカ人が占めている。

 

事件とは直接関係しないが、2019年にはつながりの深いベネズエラから約17000人の難民を受け入れた。ベネズエラでは政情不安による社会混乱によって600万人以上が難民化したとされ、近年、国際的なトピックになっている。約半数は隣接するコロンビア、ペルーへと逃れたが、陸路で北米を目指してコロンビア武装組織が闊歩するジャングルに入って命を落とす者や、窮状を逃れた先で差別や性暴力に直面するなど複雑な問題が各方面で表面化している。

 

旅行最後の夜

2005年5月30日(月)の朝、アルバ島から飛行機で帰国予定だったNatalee Ann Holloway/ナタリー・アン・ホロウェイさん(18歳)の姿がなく、行方不明であることが分かった。彼女は24日にアメリカ・アラバマ州バーミンガムにあるマウンテンブルック高校を卒業したばかりだった。26日から7人の付添人、124人の級友たちと共に卒業旅行に訪れており、島の北端に近いホリデイ・イン・リゾートに定泊した。

この旅行は卒業を祝う高校の「非公式行事」として恒例となっていたもので、卒業生らの自立性と裁量を尊重しつつ、教師と少数の保護者が付き添って全員の無事を確認しながら3日間の滞在をトラブルなく過ごせるよう運営されていた。マウンテンブルック高に通う生徒たちの育ちの良さと家族や学校との信頼関係、またアルバ島の安全性を物語るものでもあった。

 

29日の失踪当夜、ホロウェイさんはマルチカラーのホルタートップ、青いデニムのミニスカート、黒いビーチサンダルといういでたちだった。引率者のひとりボブ・プラマー教諭もカジノ併設の飲食店で彼女らと交流していた。時刻は21時頃で大量の飲酒などは確認されておらず、問題行動はなかった。教諭はその後も他の学生らの行動確認のため、24時前後まで周辺のカジノやプールエリアの見廻りを続けた。

30日朝に空港へと向かうバスに乗り込む際、学生から「昨夜から戻っていない」と言われてホロウェイさんの不在にはじめて気づいた。宿泊施設には彼女の荷物、パスポートがそのまま残されていた。

教諭は学校にホロウェイさんの所在が確認できないことを連絡。旅行を企画したひとりがホロウェイさんの母親エリザベス・ホロウェイさん(以下、通称「ベス」と表記)に「娘さんが予定時刻を過ぎても宿泊先に戻らず、予定の便で帰国できない」旨を伝えた。

 

ナタリーの友人のひとり、ラレイン・ワトソンさんは旅の当初をこう振り返る。

「私たちはとても興奮していました。つまり、そこは南国の楽園だった…見張り役の両親がいないのですから」「仲間たちとバーではしゃぐのがとにかく楽しかった。我々は18歳で合法的にお酒を飲むこともできますし」

中学時代からの親友クレア・フィエールマンさんは島で彼女と行動をよく共にした。

「私たちは1日中外出し、よくビーチにいました。昼寝をして、服に着替え、夕食を食べに出掛けて、どこかのバーへと足を運びました。帰りたくなったら、好きに宿に戻るというような感じで」

「その晩、私がブラックジャックのテーブルの近くで見かけたとき、彼女は見知らぬ大柄なオランダ人青年と何か話していました。同年代で、誰だろうとは思ったけど、違和感や変な様子もありませんでした。店が閉まる頃、最後の曲だと言って『スイートホーム・アラバマ』の演奏が始まりました。彼らは私たちがアラバマ出身だと知って演奏してくれたのだと思います」

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クレアたちの証言により、失踪直前まで彼女が首都オラニエスタッドにある飲食バー「Carlos’n Charlie’s/カルロスアンドチャーリーズ」にいたことは分かっていた。店は1時に閉店時刻を迎え、店にいた他の学生たちは宿に戻ったり、他のバーにハシゴしたりした。ホロウェイさんも1時前後まで店の前で見られており、学生らの話を総合すると、3人の若い男と銀色のホンダ・シビックに乗って走り去ったのが最終目撃情報とされた。

卒業生たちの多くは楽しい思い出の余韻に浮かれ、そして彼女の不在を知った一部の友人たちは一抹の不安を抱えながら空港を発った。

バーの防犯カメラが捉えたホロウェイさん

娘が卒業旅行で家を空ける間、ベスは家事を離れて女友達と湖畔で3日間の休息を楽しんでいた。「娘の失踪」の連絡を受けたのは、ちょうどアラバマへの帰途であった。彼女はすぐに「娘はアルバ島で誘拐された」と直感したという。「ナタリーは人生で約束の時間に遅れたためしがない」ためである。

ベスは「取り乱すことなく、むしろ集中力が増していたように思う」とそのときのことを振り返る。夫でナタリーの継父ジョージ・トゥイッチ(以下、通称「ジャグ」と表記)に連絡を取り、FBIに通報した。帰宅までの間に知人に連絡を取ってプライベートジェットを手配し、ジャグと彼の親友2人と共に夕方5時にバーミンガムを離れ、夜10時にはアルバ島のベアトリクス女王国際空港に着陸した。

 

前述のように観光を主幹産業とするアルバ政府は、アメリカ人旅行者の捜索活動に全面的に取り組む必要があった。数千人の公務員に休暇を与え、初期捜索の動員に充てることを決定する。

その後、オランダ政府も海岸線の捜索などのために50名の海兵隊員を派遣。3機のF-16戦闘機に赤外線装置を取り付けて「新たに土地が掘られた痕跡」を発見しようと広域をスキャンした。大々的な初動捜査でアルバ警察の年間活動予算の4割に当たる300万ドル以上が費やされたが、遺留品の発見や遺体の回収は果たされなかった。

 

被害者

ホロウェイさんは1986年テネシー州生まれ。ミシシッピ州に移住後、93年に両親が離婚し、彼女と弟は特別支援教育に携わる母親エリザべス(ベス)・ホロウェイによって育てられた。

2000年にベスは実業家ジョージ(ジャグ)・トゥイッティと再婚し、一家はアラバマ州北中部のバーミンガム郊外で裕福に暮らした。継父のジャグは事件当時、金属産業施設のGMを務めていた。

生物学的な父親デイブ・ホロウェイ氏は、娘の失踪当時、ミシシッピ州の大手保険代理店に勤めていた。彼女の生還を信じ、私設探偵を雇って独自調査を続けており失踪翌年には『アルバ;ナタリー・ホロウェイの悲話と楽園の腐敗』を出版するなど、積極的に捜索に協力している。ベスとも協調しながら、事件番組などへの出演を行い、捜索状況などを発信した。

2005年撮影〔FBIによる公開〕

NATALEE ANN HOLLOWAY — FBI

ナタリー・ホロウェイさんは身長5’4”(約163センチ)、体重110ポンド(約50キロ)、髪はブロンド、瞳は碧眼の白色人種。高校では優秀な成績を修め、全額奨学金アラバマ大学への進学が決まっており、医学博士課程を志していた。生徒会メンバーであり、仲間内では相談役として信頼も厚かった。

ベスによれば、彼女は飲酒経験もなく、ボーイフレンドをつくったこともセックスの経験もないと主張しており、「とても賢かったが、とても世間知らずだった」と語っている。

ダンスチームで磨かれた彼女の美貌はネット市民たちに強い関心をもたらし、「卒業旅行での夜遊び」というシチュエーションは様々な憶測を喚起させた。「彼女は羽目を外しすぎた」「若い男女100人でカジノリゾートとはいかがなものか」「優等生はクラスメイトから恨みを買っていたのではないか」「異変に気付いても彼らはすぐに取るべき行動をとっていない」と贅沢にも思える校外活動そのものに否定的な反応を示した。

だが若者が夜遊びに羽目を外すことは常識的な逸脱の範疇であり、咎められ罰を受けるべきは、彼女や家族、学校や級友たちではなく、犯人といかがわしい期待に胸躍らせて妄想を書き連ねる「良識ある」匿名市民たちである。

両親はホロウェイさんの卒業旅行の参加には元々あまり乗り気ではなかった、と事件後に語っている(事実か自己弁護かは判断できない)。だが彼女は入学時からその旅行を楽しみにしていたこと、数年前に同校を卒業したジャグの息子も旅行に肯定的だったこと、100名以上の参加者と一緒だということも分かり、最終的には彼女の意志を尊重した。

 

キャッチ&リリース

ホロウェイさんの両親は、地元警察に話を聞きながらバー、ビーチ、ホテルと彼女の行動を追跡。捜査員は「旅行者が飛行機に乗り遅れてしまうのはこの島ではよくあることだ。近いうちに見つかる」と話した。

バーの店員は彼女の写真を見せられてもだれも昨夜来店した客と気付かなかった。だがホテルの従業員に彼女を車に乗せた男たちの特徴を伝えると、地元住民のオランダ人ヨラン・ファン・デル・スロート(17)、スリナム人の友人サティシュ・カルポー(18)と車の所有者デパック・カルポー(21)の兄弟と判明する。

彼女の両親はアルバ島の警官2名と、オラニエスタッド近郊のノールト町に住むファン・デル・スロート家を訪れ、ヨランに失踪当夜の行動について追及した。

ファン・デル・スロート家

当初ファン・デル・スロートは、「バーで3人で遊んだのは確かだがホロウェイさんに心当たりはない」としらを切っていた。ベスは「知らないはずはない。あなたたちが彼女を車に乗せるのを目撃した人もいる」と詰め寄った。ヨランの父親パウルス氏は「手荒な真似はよしてください。ここはアメリカではない。そうした振る舞いは許されない」とけん制した。その場に居合わせたデパック・カルポーが、車で彼女をホテルに送ったことを認めた。

ファン・デル・スロートによれば、ホリデイ・インのカジノでホロウェイさんと知り合い、後でカルロス・アンド・チャーリーズに来るように約束していた。深夜11時前に家を抜け出し、彼は店で旅の最後の夜を楽しんでいたホロウェイさんと再会した。彼女が「サメを見てみたい」と言うので、車でアラシビーチにあるカリフォルニア灯台までドライブし、2時頃に宿に送ったと話した。ホテルに着いて彼女が車を降りるときに転倒し、助けようとしたが彼女は自力でロビーまで歩いて行った。黒シャツを着たホテルの警備員のような男がエスコートに駆け寄るような姿に気づいたが、はっきりと誰だったかまで見ずに車を出してしまった、と証言した。

 

アルバの法律下では、警察の権限が米国とは異なり、当局は「合理的な容疑」に基づいて容疑者を逮捕することができる。検察は裁判官に対し、8日間の勾留延長を3回、その後2回のさらに長い拘留延長を承認するよう求めることができる。証拠収集を継続するため、容疑者は起訴されるまで最長で116日間拘留される可能性があり、まれにそれ以上の拘留が認められる可能性もある。

6月5日、警察がはじめに逮捕したのは、3人の話で彼女を「ホテルでエスコートした」と思しき男たちだった。元警備員エイブラハム・ジョーンズ(28)とミッキー・ジョン(30)の2人は以前ホテルの改装に伴って職を追われており、従業員になりすましての犯行が疑われた。「ホテルへの逆恨み」が動機のひとつになっても不思議はなかったが、誘拐や殺人の証拠は出ず、8日後に釈放された。

逮捕理由は明かされていないが、2人は島の東端の貧しい工業地帯の移民家庭の出身者であった。両親は逮捕前にホテルの防犯カメラにホロウェイさんの姿は一切映っていないことを確認しており、その逮捕が明らかな無駄骨であることを知っていた。そして彼女を車に乗せた3人が偽証していることに確信を持っていた。

6月9日になって「ホテルに送った」というファン・デル・スロートとカルポー兄弟の3人が逮捕された。カルポー兄弟は「ファン・デル・スロートと女性をビーチで降ろしてそのまま帰った」と言い、ファン・デル・スロートも「ビーチで彼女を残して歩いて帰った」とそれぞれ証言を変えた。

14日以降は彼らが訪れたという海岸線での捜索が強化されたが、物的証拠や埋めた痕跡などは発見されなかった。

ファン・デル・スロート家の家宅捜索で車両2台、PC、カメラを押収。さらに警察は、カルポー兄弟の「遺体が出なければ事件化しないとの助言があった」旨の供述を受け、ヨランの父・パウルス・ファン・デル・スロート氏を逮捕する。

弁護士だったパウルス氏は美術教師の妻アニタさんと幼いヨランを伴って、1990年にオランダ・アルンヘムからアルバに移住してきた。当時は判事になるための訓練を受けていたこともあり、犯罪隠蔽の教唆や指示が疑われていた。

Aruba Police Department 2005 photograph of Joran van der Sloot

ヨランはインターナショナルスクール「スクール・オブ・アルバ」の優等生で、サッカーとテニスの選手として活躍しており、彼も秋には米フロリダ州への大学進学を控えていた。逮捕はスクール卒業当日のことであった。SNS上での彼は、TV番組「サウス・パーク」やラッパーのノートリアスBIGを好み、バラク・オバマを支持する「イマドキの若者」と評されている。両親と面談したベスによれば、ヨランの母アニタさんから、彼は「うそをつくのが苦手」だと聞かされたという。だが反抗期以降、親子関係は決して良好とは言えず、「夜な夜な家を抜け出してカジノに出歩くこともあった」と話したという。

3人の取調べで名前の挙がった、ホテル近郊のパーティーボートで働くDJの友人クロエス氏も17日に出頭要請を受けた。先のパウルス・ファン・デル・スロート氏、クロエス氏は事情聴取を受けたが、証拠不十分でともに6月26日に釈放された。

釈放後、パウルス氏は不当拘禁でアルバ政府に訴訟を起こして勝訴し、無罪認定を得たが、その後の損害賠償請求は長期化し、財政的な疲弊を伴った。2007年には自身の代理人を務めていた法律事務所で働くことになった。

7月4日にカルポー兄弟の勾留延長は認められず釈放となったが、ファン・デル・スロートについては「投獄するに足る証拠がある」として追及は続けられた。

捜査は膠着状態を呈し、当局は造成地の工事にストップをかけたり、近郊の池の水を抜くなど捜索の範囲を拡大させていた。17日、島の北東岸で髪束の付着したダクトテープが発見されると捜査の進展が期待されたが、オランダの犯罪研究所ではすぐに鑑定結果が得られず、FBI犯罪研究所に送られた。28日、鑑定の結果が知らされ、ホロウェイさんとは一致しないことが判明した。

8月26日、カルポー兄弟は強姦および殺人の嫌疑で再逮捕。ファン・デル・スロートの供述が、「自分は自宅で車を降り、兄弟がそのまま彼女を連れ去った」旨に変わったためであった。だが彼らが何時まで行動し、どのように別れたのかを示す証拠は何一つなかった。9月3日、捜査の継続を条件にカルポー兄弟とファン・デル・スロートは勾留から解放された。遺留品や物的証拠が何一つ出ないまま「試し撃ち」のように逮捕と釈放が繰り返されただけで、事件から早3か月が経過していた。

事件捜査や裁判に精通したヨランの父・パウルス氏がすぐに弁護士をつけて適切な対応がなされたことも釈放につながった背景にあろう。ほどなく裁判所は3人に対する制限を解除。ヨランは生まれ故郷オランダの大学へと留学した。この時期にはアルバ警察からホロウェイさんの家族への連絡はすでに途絶えていた。

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アルバ島・カルフォルニア灯台付近を捜索するオランダ海兵隊 By Mark Richards

 

母親の訴え

ホロウェイさんの母親ベスは当初からヨラン・ファン・デル・スロートとカルポー兄弟への疑いを隠さず、積極的にメディアに登場して主張を繰り広げた。ヨランの父親パウルス氏が司法省の役人だと知ると、警察が隠蔽や保護をしているのではないかさえと疑った。だが彼は「特権階級」に属する人物ではない端役に過ぎず、庇護を享受する立場にはなかった。

また当初娘の帰還に17万5000ドルの報奨金を懸けたが、寄付金などによって最大100万ドルにまで増額され、遺体発見につながる情報にも25万ドルが支払われると発表し、島を訪れたこともない人々でさえ事件の進捗に注視した。多くの励ましのメッセージと共に、各地から真偽不明の情報が寄せられた。テレビ各局からも人員協力や「うそ発見器」などの支援が行われた。

ヨラン・ファン・デル・スロートとカルポー兄弟

彼女はデパック・カルポーの職場に押し掛けたときのやりとりも明かしている。

「あなたは参加者だったの?助けようとした?」ベスは下を向いたまま何も言おうとしないデパックに投げかけた。デパックは弁護士から口止めされていると話した。ベスは何度も顔を上げるように命じ、「25万ドルの賞金か、終身刑か、どちらがいいの?」と迫った。デパックは金は必要ないと言い返し、最後にベスに「メディアの前とは全然違うんだな、みんなはあんたのこういう面は知らない」と言った。ベスは答えた。「あなたのために取っておいたの、デパック」と。

デパック・カルポーは業務を妨害するようなベスの付きまといについて告訴状を提出した。

 

ベスは地元マスコミに対しては捜索協力に感謝を述べながらも、アメリカのメディアを前にすると態度を豹変させた。現地捜索の進展のなさに怒り、証拠もない逮捕、自白も得られない取調の稚拙さに呆れ、カルポー兄弟の釈放に際しては「犯罪者」という言葉で罵り、アルバ警察の無能さと法制度の脆弱さを「アメリカ国民に向けて」嘆いて見せた。アメリカ国内ではアルバーオランダ政府に対する不満が形成され、彼女はそうした民意を扇動した。

一方、島内では「有罪が立証されるまで無罪」「オランダの法律を遵守せよ、さもなくば帰国せよ」といったプラカードを掲げたアルバ人によって反発アピールのデモが行われた。地元メディアでも彼女の二面性のある言動を察知し、野放しにすれば国益を損ねかねないと注意が喚起された。歴史的に醸成された、アメリカ白人社会において一般化した中南米カリブへの蔑視や偏見もあるとして問題視された。カルポー兄弟の弁護士も名誉棄損を含む行き過ぎた発言だとして、法的措置も辞さないことを表明して釘を刺した。最終的にベスはアルバ国民とアルバ当局に対して謝罪を述べた。

ベスがカメラの前で語る全てが演技だとは言わないが、ホロウェイ家が雇ったアルバ出身のアメリカ人弁護人が戦略的示唆を与えなかったとは思えない。日本と違い、アメリカの裁判では陪審員制が採られ、収集された証拠品の開示はもちろんのこと、メディア側も調査報道を交えて事細かに事件の周辺情報を伝え、被疑者家族がスポークスマンとして登場して意見することも少なくない。事件によっては容疑者も反論に登場する等、ある種マスメディアを通じた「公開裁判」の様相を呈する。

アメリカの世論を味方に付けることはアルバの捜査機関や政府にプレッシャーを与え、アクションを促すために有効な手段のひとつであった。双方の文化、慣習、法制度を理解した上で、どういうメッセージを送れば「敏感に」反応させられるかは計算されていた。アメリカ社会の肥大化した愛国心や日頃抑圧させられている人種差別意識を逆撫ですること、外国相手、それも有色人種に「ナメられている」という侮辱感は彼らにとって耐えがたいものだ。

「これはアルバに対する共同攻撃、テロ攻撃だ」「OJやマイケル・ジャクソンジョンベネの悲劇は『アメリカの正義』で一件落着したというのか?」とアルバの政治家は語気を荒げた。捜査関係者もベスらの介入によって、余計なプレッシャーを受けて早急な逮捕を迫られ、捜査を混乱させたと後年認めている。

やがてベスの支持者と反支持者とに別れ、事件の議論は被害者が処女だったのか誘惑者だったのか、アルコール中毒者だったのかドラッグ中毒者だったのか、とあらゆる方向へ飛散していった。ベスが娘について語るとき、人々は全てが事実であるとは受け取らず、ベスが噓をついているか、あるいは娘が母親をうまく騙していたと捉えるようになった。

 

アルバ警察の副署長ジェラルド・ドンピッグ氏は言う。「学生たちは毎晩激しいパーティーを過ごし、大量の飲酒や部屋の入れ替わりもあった。定宿だったホリデイ・インが来年は歓迎しないと言っている。彼女は一日中酒浸りで、二日酔いで朝食に姿を見せない日もあった」。

アルバ警察は、彼女を車に乗せた3人の若者は性行為を認めていないと発表したが、トゥイッティ家の弁護士ビンダ・デ・ソウザ氏は「警察の発表は信用ならない」とし、「性行為を認める供述があり、彼らが合意の上で性交した可能性がある(強姦ではなかった)とアルバ警察は見ている」と述べた。

TV番組に出演したベスは「警察発表とは食い違う内容を語った容疑者の証言テープがある」とし、証拠品のテープと引き換えにアルバ警察に番組に出演しての公開説明を求めた。彼女の主張するところによれば、ファン・デル・スロートは5月30日1時40分頃に娘を自宅に連れ込んでセックスしたという。地元警察がすぐに身柄を押さえなかったために、10日間もの猶予を与え、証拠隠滅と偽証工作が可能になったと非難した。

2005年10月、ドンピッグ副署長は、ファン・デル・スロートの供述に一貫性がなかったこと、「自宅に連れ込もうとした(が下車しなかった)」という供述が出たことはあったものの「一貫して性行為を否認している」との警察発表は事実だと主張し、討論番組に出演する意思はないと交換条件を拒絶した。

副署長は「3人の青年に前科はなく、本件でも犯行を示す証拠は出ていない。また現時点で彼ら以外に容疑者となる人物は存在していない」と話した。「アメリカであれば、3人の力関係を把握し、司法取引を持ち掛けるでしょう。しかし私たちにはそうした司法取引のツールがなく、制度に従わなければなりません」と述べ、為すべき捜査は行われたが解決に至っていない現状に理解を求めた。

 

2006年2月にはベスの元夫でホロウェイさんの実父デヴィッド・ホロウェイ氏がヨランとパウルス親子を人身傷害の疑いで訴えを起こした。父親の行き過ぎた寛容と過保護が事件の引き金となったと主張したが、管轄上の理由によって却下された。

捜査の進展を願う被害者家族と捜査が難航する警察との間でさえミスマッチが生じることはよく聞かれる。国外で事件に巻き込まれた際には、コミュニケーションの齟齬、文化・慣習や法的手続きのちがいなどによって芽生える摩擦、長期化によって募る不信感は増し、現地警察と信頼関係を構築することは一層容易ではなくなる。

 

日本でも、日光で起きたフランス人女性行方不明事件では、日本の警察が刑事事件として扱わないため強制捜査が不充分だとして、家族はフランス当局による日光での捜査介入を強く望んでいる。日本のメディアは捜査協力に感謝しビラ配りなどの様子だけを放映し、フランスでの家族の活動や「わいせつ目的の誘拐」を疑う彼らの持論について積極的に取り上げようとはしない。

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違法薬物の疑いと再逮捕

2006年3月にFOXニュースで放映されたインタビューでファン・デル・スロートは次のように語った。

ビーチでホロウェイさんからセックスアピールを受けたが、避妊具がないため断念した。後でカルポー兄弟に迎えに来るよう約束をしていたが現れず、彼女はビーチに留まるよう求めたが、翌日学校があったため、そのまま彼女をビーチに残して歩いて帰った。そのことは後悔している。失踪を知らされた当初は、すぐに彼女が現れる、発見されるだろうと思い、無関係を装ったと一部偽証を認めた。

清廉潔白な無実であれば偽証の必要はなく、すでに幾度も変遷を繰り返してきた彼の証言を鵜呑みにする者は少なかったが、母親が語る被害者像との食い違いは人々を戸惑わせた。

 

警察からホロウェイさんの服用薬や病歴などを問われたベスは「なぜそんなことを聞くのか」と不思議に思った。

ドンピッグ副署長によれば、失踪当日、ホロウェイさんは大量の飲酒をしており、(使用の有無は確認できないが)違法薬物を所持していた証拠があるという。アルコールの過剰摂取による異常酩酊や他の薬物に起因するショック状態により正常な意識を失っていた可能性があると指摘した。それは「他殺」ではなく「自死」の可能性があることを示唆していた。

家族が知るかぎりホロウェイさんに違法薬物の使用はなく、当時は副鼻腔炎の治療薬Z-pacの使用しかなかった。彼女の実父デイブ氏は、死因となるような薬物摂取の可能性があるとすれば、バーで昏睡用のレイプドラッグを盛られたのではないかと見解を述べた。

2006年4月、麻薬取引でアルバ当局に逮捕された人物にホロウェイさん失踪との関連が疑われるとして3人の容疑者が浮上したが、ほどなく釈放された。なぜ警察は失踪から10か月も経って「違法薬物を所持していた証拠」が出てきたと発表したのか。娘の「潔白」を信じる親からすれば、アルバ当局は事件の責任の一端を彼女に背負わせようとしているかのように感じられても仕方ない。

翌月にはアルバのファン・デル・スロート家で家宅捜索が再度行われ、庭や周辺の掘り返しが行われた。両親が使うパソコンや夫人の日記も押収されたが後に返却された。カルポー家でも強制捜査が行われ、抗議したカルポー兄弟が一時勾留されるなどしたが、検察庁は事件捜査の一環と釈明した。

 

ベスはその後も精力的にTV番組への出演や講演活動を続けていたが、2006年12月に「気質が合わないため、もはや一緒に暮らしていくことはできない」として夫ジャグとの離婚手続きを開始した。2007年10月、『愛するナタリー;願いと信心による母の言葉』を発表し、母娘の半生と島で直面した捜査の障害について綴られ、ベストセラーとなった。翌年にはドラマ映画化が決定し、09年4月に放映されて320万人が視聴した。

アルバ島では浜辺の捜索活動に区切りをつけ、沖合での捜索が中心になった。かつて娘を誘拐・殺害された経験を持ち、行方不明者捜索のプロとなったティム・ミラー氏も捜索に参加しており、失踪の前後に付近の漁師小屋に侵入者があったとの情報を得ていた。金属ワイヤーや魚の罠が盗まれており、遺体に括って浮上しないよう工作した可能性が推理された。島の東北部で溺れた遺体は海流によってベネズエラ沖まで運ばれることが9割だとされており、漂着の危険を予防した土地鑑のある者による犯行と推測された。2006年12月、実父デイブ氏はミラー氏の理論に基づいて水中探査の専門家に海中探索を依頼。沖合に沈下したいくつかの漁罠が彼らを緊張させることはあったが、はたして遺体発見にはつながらなかった。

かたやオランダのファン・デル・スロートも「起きたすべてのことについてオープンかつ正直になる機会だ」として、2007年4月にホロウェイさんの事件に関する本を記者との共著で発表した。事件から2年が経過していたが事件は沈静化するどころか、いつどのように転がり出すかと人々はその行方を見守った。

 

2007年11月21日、ファン・デル・スロートとカルポー兄弟は、過失致死と死亡につながる傷害への関与の疑いで再逮捕された。アルバ当局は前年からオランダ当局と連携してファン・デル・スロートの動向を見張っており、オランダ警察から島に人員が派遣され、合同捜査本部が設置された。

検察側は、3人のうちのひとりが電子チャットでホロウェイさんの死亡をほのめかす発言をしたと主張した。しかし裁判所は、凶悪犯罪によりホロウェイさんが亡くなったことを示す証拠はないとして、3人の釈放を命じた。カルポー兄弟の弁護士によれば、全く別件の溺死者についての発言を、捜査当局が翻訳する際に誤訳してホロウェイさん失踪に結び付けた誤認逮捕であると糾弾した。

 

2008年1月、オランダの犯罪記者によって、ファン・デル・スロートが「ナタリー・ホロウェイの遺体は決して発見されない」と発言したことが報じられた。彼はオランダ人実業家との車中での会話が隠し撮りされていることに気付かないまま、ホロウェイさんは助手席でマリファナを吸引し、ビーチで性行為をした後、震え始めてそのまま死亡したと事の経緯を語ったのである。

嫌疑を避けるため、ファン・デル・スロートは友人に連絡を取り、ボートに遺体を積んで海上で遺棄したと発言。そのほか2度の「誤認逮捕」に関する賠償請求(アルバ政府に対する金銭補償)について長時間語った。

捜査当局も強い関心を示し、テープに基づいて逮捕令状を請求しようとしたが裁判官はその申請を却下した。ベスは、娘がカリブ海に捨てられたという発言内容をそのまま信じ、すぐに治療が受けられていれば助けられたと嘆いて、薄情な若者への憎しみを滾らせた。逮捕状の申請却下の報を受けても「私の慰めは、彼に生き地獄を味あわせること」と復讐心を露わにした。

ファン・デル・スロートはでっち上げだと反論し、隠し撮りされた当時、彼はマリファナの使用で酩酊状態にあったため責任能力はないと主張した。オランダの法心理学者らは「犯行の自白には当たらない」との見解を示し、テープがすぐに捜査当局の手に渡っていれば取り調べでファン・デル・スロートの心を折る「最後の切り札」になり得たかもしれない、とスクープした記者や報道に苦言を呈している。

 

変貌と逮捕

2008年11月、FOXニュースが放映したファン・デル・スロートのインタビューでは、ホロウェイさんを性奴隷として売り渡し、黙秘を条件に報酬を受け取ったと言い、ホロウェイさんがベネズエラに連行されたことを知った捜査員に父親が口止め料を支払ったと主張した。更にファン・デル・スロート提供による「父親との人身売買に関する会話」という録音テープも放映されたが、他のメディアによってヨランによる自作自演であると指摘されている。

彼はその時期、タイに移り住み、表向きはランシット大学へのビジネス留学の名目、また現地ファストフード店の経営者という立場にあった。一方で、モデル・エージェンシーを騙ってタイ人女性をヨーロッパに輸出して売春婦にさせる性的人身売買の疑いをタイ当局からかけられていた。翌年にはオンラインポーカーで12000米ドル以上を獲得し、プロのポーカープレイヤーを自称した。

2010年2月、RTL放送のインタビューに応えたファン・デル・スロートは、彼女の遺体を島の沼地で処分したと発言。新しい首席検察官は「彼が挙げた場所、名前、時間は全く意味がなかった」と述べた。

偽証によって捜査をかく乱させる術を心得、群がる人々やマスコミから金を巻き上げる暮らしが板についたファン・デル・スロートはもはや一般人に戻ることも許されず、かつてのジゴロはペテン師になるしかなかった。同時期、かつて共に嫌疑をかけられた父パウルス氏が心臓発作で亡くなると、彼はレストラン事業を売却してアルバへ帰国した。

 

2010年3月29日、ヨラン・ファン・デル・スロートはベスらの弁護人ジョン・Q・ケリーに連絡を取り、総額25万ドルで遺体の在処と死亡状況を明らかにすると話を持ち掛けた。ケリー弁護士は男と交渉を続けながら、連邦捜査局に通報し、おとり捜査が開始された。

2万5000ドルの前払いが確認されると、ファン・デル・スロートは「父親がアルバの家の基礎部分に遺骨を埋葬した」との情報を伝えてきた。だが説明された箇所は当時まだ家が着工されておらず、男がもたらした情報は虚偽と判断された。FBIは直ちに恐喝罪を提起したが、男はコロンビア・ボゴタで電子送金を受け取り、5月14日、ペルーに入国した。6月3日、アラバマ北部地裁はファン・デル・スロートをベスと弁護人に対する恐喝および通信詐欺の罪で起訴した。

Stephany Flores

 

6月2日、ペルー・リマのミラフローレス地区にある「ホテルTAC」309号室でステファニー・タチアナ・フローレス・ラミレスさん(21歳)が遺体となって発見される。部屋には凶器とされたテニスラケットが放置されており、ホテルマンや宿泊客の証言、周囲の防犯カメラから同室の宿泊利用者ファン・デル・スロートとラミレスさんが部屋を使用していたことが確認された。

検死の結果、頭部に鈍的外傷を負い、頭蓋骨骨折、脳出血、頸部骨折や顔の重傷に起因する窒息の兆候があった。アンフェタミンの陽性反応があったが自発的な摂取か否かは不明。生前に性交渉はなく、アルコールの影響は少なかったことが判明した。

ラミレスさんはリマ大学を卒業したばかりのビジネス学生で、大統領選挙にも立候補したことのあるエンターテインメント業界などで著名な実業家リカルド・フローレス氏の息女だった。リカルド氏によれば、警察がホテルから約50ブロック離れた場所で彼女の車を見つけ、車内でレイプドラッグが発見されたという。クレジットカードやカジノで獲得した1万ドル以上の現金、貴金属類や身分証も車内にあったとみられているが発見されなかった。

事件が起きたのは、きしくもホロウェイさん失踪からちょうど5年となる5月30日とみられた。防犯カメラの記録には、30日早朝に部屋から外出してコーヒー2杯とパンを購入して部屋に戻るファン・デル・スロートが捉えられ、8時45分頃に再び一人で外出する彼の姿が確認された。

 

ペルー当局は殺人容疑でファン・デル・スロートを指名手配し、インターポールはアルゼンチン経由で逃亡する恐れありとして国際手配を行った。6月3日、チリ第4の都市ビーニャ・デル・マールと首都サンティアゴ間をタクシー移動中にチリ捜査警察(PDI)の手によって逮捕された。男は外貨と名刺、血まみれの衣服(後に被害者の血液と確認される)、ラップトップPCや海流グラフを所持していた。携帯電話のSIMカードが紛失しており、位置情報による追跡ができない状態だった。

ファン・デル・スロートの弁護士は、彼は自首するためサンティアゴに向かう途中だったと主張したが、本人は当初「身元不明の武装強盗に襲われて、命令に背いたフローレスさんが殺害された」と語った。リマ警察本部に連行されて尋問を受け、独房の壁に頭をぶつけて自殺を図ったことが伝えられた。

ファン・デル・スロートは6月7日にフローレスさん殺害を自白した。ペルー警察の発表によれば、朝食を買って部屋に戻ると彼女が勝手に自分のラップトップPCを使用していたという。彼女は錯乱状態でヒートアップしたため、殴打に及んだと説明を加えた。

彼女が男とホロウェイさん失踪とを結びつける情報を見つけたために逃走を図ったのではないかと見られたが、解析の結果、ホテル滞在中にそうした情報にアクセスしてはいなかった。捜査関係者によれば、フローレスさんは事件よりも前にホロウェイ事件に関する情報にアクセスしたことはあったという。

ペルーでは軍法に関する犯罪以外で死刑は廃止されているが、アラン・ガルシア・ペレス大統領は本件の発生を援用して殺人に対する死刑制度復活を提起して物議を醸した。ペルーの法律の専門家によれば、強盗殺人の場合は終身刑を言い渡される場合もあるが、標準的な殺人罪では終身刑はなく最長35年の懲役刑となると言う。彼の自白は計画性のない衝動的犯行(Crime of Passion)、過失致死での減刑を意図したものではないかとの見解を示した。

 

男の通信履歴からは「チリ国境通過」「ペルーとチリの警察の関係」「ラテンアメリカで身柄引き渡しを行わない国」など逃亡を意図した検索が認められたことも判明。ペルー警察ではホロウェイさん事件に関する聴取は回避したが、2011年3月にはFBIにハードディスクのコピーが提供された。

精神鑑定によれば、ファン・デル・スロートは「反社会的性格」の特徴を示し、「他人の幸福に無関心」とされ、ペルー・メディアや世論からは「連続殺人犯」「サイコパス」のレッテルが貼られ、反発が高まった。2010年5月上旬にペルーやコロンビアで起きた若い女性たちの失踪を彼と関連付ける報道さえあった。

 

移送に際して見物人から腐ったレタスを投げつけられるなど、ペルー国民からの反感は極めて強かった。ファン・デル・スロートは一般の受刑者から隔離され、24時間の厳重警戒の独房で審理を待った。ペルーとオランダに受刑者の引き渡し協定は結ばれていないが、アルバ当局との捜査協力を約束した。

ファン・デル・スロートは「調書がスペイン語で弁護士も内容を理解しておらず、分からないまま調印させられた」「弁護士が周囲から嫌がらせを受けてすぐに辞任しており、適切に代理人を務めていなかった」などを理由に自白の撤回を求め、更に主任刑事を違法行為で告発し、不法拘禁だと訴えた。

ペルーの裁判所は陪審制ではなく3人の裁判官による合議で審判が下される。そうした「手続きを麻痺させる」法的戦略に則って訴訟を遅らせるべきではないとし、申し立てを次々に棄却した。

 

時同じくしてベス・ホロウェイさんは2010年6月8日にワシントンで「ナタリー・ホロウェイ・リソースセンター」の立ち上げを発表。3月にあった恐喝の容疑でファン・デル・スロートを起訴したことを明かした。

事件から5年が経って尚、ファン・デル・スロートは第一容疑者のままであり、その年の「最も話題となったオランダ人」「最も注目すべき事件」「最も読まれた記事」などに名を連ねた。オランダの放送局デ・テレグラフに語った獄中談として、米・蘭を中心とした彼のプリズン・グルーピー(囚人愛好者)たちから手紙で求婚されているとされる(真偽は不明)。ベスもペルーのミゲル・カストロ刑務所まで面会に訪れたが、弁護士の立ち合いなしで話せることは何もないとして対話はすぐに打ち切られた。

ファン・デル・スロートの母アニタさんは、オランダメディアに対して「息子と面会するつもりはない」と話し、被害者の家族に謝罪したいと述べた。「私はカルマ(業)を信じています。やってはいけないことをすれば、たくさんのわざわいが身の上に降りかかると信じています」と子育ての後悔とも息子へのメッセージとも取れる発言をしている。

2012年1月11日、ファン・デル・スロートはステファニー・フローレスさんの「適格殺人」と「単純強盗」について起訴事実を認め、13日、懲役28年の判決を受けた。弁護士によれば、ホロウェイ事件で告発されたことによる心的外傷が彼のその後の人生を左右し、殺害の遠因とも言えると述べた。

時同じくして1月12日、アラバマ州のアラン・キング判事はホロウェイさんの法的死亡の宣言に署名。長らく捜索活動を続けてきた実父デイブ氏は死亡宣告を支持していたが、母ベス・ホロウェイ氏は反対していた。

 

事件の現在地

2014年初頭、ファン・デル・スロートはカストロ刑務所で物品販売をしていたペルー人レイディ・フィゲロアさんとの獄中結婚が認められた。フィゲロアさんはすでに彼との間に新たな命を授かっており、同年9月に出産した。

2014年3月、ペルー政府は、アラバマ州で恐喝と通信詐欺容疑で起訴されているファン・デル・スロートの身柄引き渡しに合意したが、釈放資格は2038年の見通しとされた。

フィゲロアさんは産後に受けたメディアのインタビューで、夫が所内で肩と腰の2箇所を約2センチ刺されて重傷だと語った。だがペルーの刑務所を監督する国立刑務所研究所のホセ・ペレス・グアダルーペ所長は彼女の証言は虚偽とし、彼女を「強迫的なウソツキ」とレッテルを貼り、「まず第一に正気の女性が獄中の、しかも最大の殺人犯と結婚することはない」と辛辣な人格攻撃を加えた。当時ファン・デル・スロートはペルー南部の標高の高い山間部にあり厳しい環境で知られるチャラパルカ刑務所に移送されたことやアメリカへの身柄引き渡しを恐れたため、医療施設や別の刑務所への移動を図ったものとみられた。

 

2021年2月、チャラパルカ刑務所で、コカイン密売の罪で有罪判決を受けた。日本ではあまり考えにくいことだが、密売は所内に留まらず、小包で海外へと転送されるネットワークを構築していた。メディア出演などで得た原資を利用して刑務官や出入り業者を買収して行った犯行と見られる。元の刑期に18年の懲役が加算され、釈放予定は2045年とされた。

2023年5月10日、ペルー政府は方針を転換し、アメリカに一時的にファン・デル・スロートの身柄を引き渡し、法的手続きが結審し次第、ペルーに返還することに同意した。

翌11日、ファン・デル・スロートの弁護士はペルー司法当局の引き渡し決定に対して控訴する方針を発表。ディナ・ボルアルテ大統領は移民問題や政治的課題から国民の関心を逸らす試みだと主張された。だがファン・デル・スロートから弁護士に手紙が届き、控訴取り下げを求め、本人に「訪米の意志がある」と報じられている。

ペルー国立刑務所・ハビエル・ラク・モヤ所長は「身柄拘束のために米国当局が6月8日に訪れることで合意している」「8日までの彼の身の安全と健康を保障する」と述べた。すでに身柄は首都リマに移送されている。

駐米ペルー大使のグスタボ・メサ・クアドラ氏は、受刑者の米国への一時的な引き渡しが「悲しみに暮れているホロウェイ夫人とその家族に平和をもたらすプロセスを可能にすることを期待している」と述べた。

 

2023年6月現在、ホロウェイさんの死について起訴されている人物はいない。しかし渡米後に予定される審理において「限りなく黒に近いグレー」とされてきたヨラン・ファン・デル・スロート被告の口から「なにか」が明らかにされることを人々は固唾を飲んで見守っている。

現状ナタリー・ホロウェイさん生還の可能性は低く、誰にとっても「幸福な結末」とはならない公算が高い。だが彼女を傷つける無用な論戦に終止符が打たれ、家族や島民たちに少しでも穏やかな日々が戻ることを願いたい。