いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

サッカー・ワールドカップ盗難事件

オリンピックとともに世界的な祭典として知られるサッカー・ワールドカップ(W杯)。現行のトロフィーは「3代目」だが、初代である「ジュール・リメ杯」は2度の盗難に遭い、現在も発見されていない。その数奇な運命についてみていきたい。

 

■ワールドカップ1966イングランド大会

1966年7月、フットボールの母国イングランドで第8回W杯が開催された。イングランドが栄冠を勝ち取った唯一の大会として知られており、エキサイティングな展開と物議を醸した決勝戦は今もなお語り継がれている。

そしてこのW杯は試合の外でも、大きな話題を集めた。大会前に優勝トロフィーが盗難され、英国は各国から非難を浴びる事態に陥ったのである。その窮地を救い、大会を成功に導いた陰に、ある一匹の雑種犬の存在があった。

 

前回大会の優勝国でペレやガリンシャといった稀代の名選手を擁するブラジルは対戦相手からの露骨なファウルに苦しめられ、まさかのグループリーグ敗退。西ドイツ代表は20歳の新星フランツ・ベッケンバウアーの華々しい活躍により決勝戦へと駒を進めた。初出場を果たした北朝鮮代表は朴斗翼(パク・ドゥイク)のゴールにより強豪イタリアを破る番狂わせを起こし、アジア勢初となるベスト8進出を果たしている。

開催国として出場したイングランドは守護神ゴードン・バンクスら守備陣の奮闘により毎試合僅差で勝ち上がり、7月30日、ウェンブリー・スタジアムで西ドイツ代表を迎え撃つこととなる(下のリンクで試合が見られる)。

https://www.youtube.com/watch?v=y3bcX8NaYW0

母国の初優勝を一目見んとスタジアムを埋め尽くしたおよそ10万人の大観衆に後押しされ、アルフ・ラムジー監督率いるイングランド代表は闘志をたぎらせた。

西ドイツがリードを奪えばイングランドもそれに喰らいつくという展開が続き、90分間で2対2のまま決着がつかず、試合は延長戦に突入した。延長前半11分、その年代表デビューを飾ったジェフ・ハーストの放ったシュートはクロスバー(ゴール上部の支柱)に当たり、ボールはほぼ真下のゴールライン上に落ちてバックスピンし、ゴール外側へと弾んだ。

主審はボールが「ゴールラインを完全に越えたか否か」の見分けが付かなかったため、線審に確認をとり、「ボールは一度ゴール内に入っていた」としてイングランド側の得点が認められた。スローモーションなどもない当時の映像技術では画面上での確認も不可能だったのである。

西ドイツ側の猛抗議の甲斐もなく試合は続行され、延長後半終了間際にもハーストはその日3点目となる追加点を挙げ、4対2のスコアで試合終了。W杯決勝でのハットトリックは現在も残る大会記録となっている。女王エリザベス2世はその栄冠を讃え、大会優勝トロフィーである「ジュール・リメ」をイングランド代表主将ボビー・ムーアに手渡した。

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ドイツ人ならずとも世界中のサッカーファンに疑惑を呼んだその裁定は、後年の解析により、ボールは「ゴールライン上に残っていた(すなわちノーゴールだった)」ことが明らかとされているが、主審の判断が尊重され、試合記録は覆ることはない。

(※なお主審、線審イングランド人ではなく贔屓や買収工作も認められていない。2013年以降、電子的ゴール判定補助システム「ゴールラインテクノロジー」が導入された。)

 

ジュール・リメ

1904年のFIFA(国際サッカー連盟)創立時からサッカー強豪国を集めた世界大会は念頭に置かれていたが、その実現は1930年ウルグアイ大会から始まる。大会を率いたFIFA第3代会長ジュール・リメが優勝トロフィーを寄贈したことからその名が冠され、1970年のメキシコ大会で「三度目の優勝」を決めたブラジルに永久保有が認められるまでこのトロフィーが用いられた。

元々は「Victory」と呼ばれたその像はフランス人彫刻家アベル・ラフレールによる作で、高さ35センチ、重さ3800グラム、純銀製に金メッキが施されており、器を掲げる「勝利の女神ニケ」がモチーフとされている。台座には優勝国の名が刻まれた。

 

1934年のイタリア大会ではムッソリーニが派手な政治ショーを展開し、代表チームに優勝を厳命。なりふり構わぬ戦いぶりで優勝を勝ち取り、2年後のヒトラー政権下でのベルリン五輪の手本にされたともいわれる。

1938年の第3回フランス大会では組織的なプレーでイタリアは連覇を飾り、その後は第二次世界大戦の勃発によって大会は長い中断期間となった。トロフィーはローマに長らく保管されることとなる。

しかし43年7月にクーデターでムッソリーニが追放されると機を見て北部からナチス・ドイツが流れ込みイタリア全土を制圧。ローマを占領したナチスは金採取を目的にジュール・リメ杯を捜索した。危機を察知したイタリアサッカー連盟オットリーノ・バラシ会長はトロフィーを銀行の貸金庫から自宅へ移し、ベッドの下の靴箱に隠して難を逃れたというエピソードが残されている。

 

1950年に大会は再開され、54年スイス大会で西ドイツが勝利し、ジュール・リメ杯は「正式に」ドイツへ渡り、フランクフルトに安置されていた。

しかしフォトジャーナリストのジョー・コイルは写真を研究した結果、次のスウェーデン大会で持ち込まれたトロフィーは元より「5センチ背が高い」としてドイツで偽物に挿げ替えられたとする説を展開したが、台座が大理石からラピスラズリに交換された影響とも考えられている。

 

■ワールドカップの救世主

イングランド大会より遡ること4カ月前の1966年3月20日(日)、ロンドン・ウエストミンスターのメソディスタ・セントラルホールでは前日からスタンペックス(stamp and coins exibitions;希少切手、コインの展示会)が行われており、同じ会場にW杯開幕を目前に控え、大会トロフィー「ジュール・リメ杯」も展示されていた。貴金属としての物質的価値はおよそ3000ポンドとされるが、展示に際しては3万ポンドの保険が掛けられていた。

中には300万ポンド相当の貴重な切手もあり、いずれも南京錠付きの陳列ケースに入れられ、張り付き警護ではなかったものの周囲には4人の警備員が配されていた。しかし正午過ぎの巡回で、何者かによってトロフィーが盗み出されていたことが発覚する。

ロンドン警視庁は警備員が見かけたという「身長およそ5フィート10インチ、油を塗った黒髪、黒目がちな30代後半の男」との不審者情報を伝え、100人の捜査員を動員するが手掛かりは得られず、時間の経過とともに怪情報が錯綜する。

 

21日、FA(イングランドサッカー連盟)会長ジョー・ミアーズ氏のもとに「ジャクソン」を名乗る人物から不審な電話が入り、近く荷物が届くことを伝えた。翌日届いた荷物には、トロフィー上部にあった取り外し可能な裏地と共に、1万5000ポンドの身代金要求が書きつけられたポンド紙幣が含まれていた。要求に沿えない場合、トロフィーを溶かすという。もし対処を間違えば、FAはおろか英国そのものが国際的信用を失い、目前のW杯開催すら危ぶまれる。

通報を受けた警察は身代金引き渡しの場面で犯人を確保するとして、ミアーズ氏らに交渉を進めるよう指示した。バタシーパークでの引き渡しには偽札が用意され、現場に現れた元港湾職員エドワード・ベッチリーを逮捕した。彼は「The Pole」を名乗る主犯が別にいるとし、窃盗犯ではなく仲買人であることを主張した。セントラルホールの来客者には彼を見たと証言する者もいたが、警備員は見覚えがないとした。

 

FAは「この最たる不幸を深く後悔している。事件そのものだけでなく国家への不信感をももたらす」と国際問題への危惧を示した。事実、サッカー王国ブラジルでは「ブラジルでは決して起こらない悲劇」と伝えられ、フィンランドサッカー協会会長エリック・フォン・フレンケルは「I'm damned angry.(怒り心頭である)」と率直な意見を述べた。

イギリス国内でも著名人や企業などが反応した。コメディアンのトミー・トリンダ―氏はカップを救出してくれれば誰にでも1000ポンドを提供すると約束した。安全剃刀で知られるジレット社も500ポンドを供出するなど、最終的に6100ポンド近くの懸賞金が追加されていった。一方で、金銀細工協会は新しいカップの制作を提案した。著名人や各界からの申し出も「純粋なサッカー愛」によるものだけではないとは思うが、イングランド国民のサッカーへの強い関心がその背景に窺える。

 

3月27日、サウスロンドン・アッパーノーウッドに住む26歳のライター、デイビッド・コルベットさんは愛犬“ピクルス”の首にリードを付けている最中にうっかり逃げられてしまった。デイビッドさんはピクルスを呼んだが、白黒ぶちの小さなコリー犬は向かいの家の茂みにもぐり込んでしまう。

デイビッドさんが覗き込むと、ピクルスは懸命に何かの包みの匂いを嗅いでいた。手を伸ばして包みを引き寄せると重量があり、古新聞の上から厳重に紐で縛ってあった。IRAアイルランド共和軍北アイルランド独立を求めて対英テロ闘争を続ける武装組織)による爆弾テロが思いよぎって躊躇するも、恐る恐る包みを開けてみるとニケを象ったまばゆいトロフィーが姿を現した。台座にはウルグアイ、ブラジルといった歴代勝利国の名が刻まれていた。

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ジプシーヒル警察に届け出たデイビッドさんは容疑者としてキャノンロウ署に移されて深夜2時半まで聴取を受けたが、完全なアリバイによって疑いは解かれた。

デイビッドさんは「金がなくて大会のチケットは買えなかったんだ。褒賞が手に入れば何試合でも行けるね」と取材陣の前で喜んだ。後に6000ポンドの報酬が与えられ、ピクルスは“イヤー・オブ・ザ・ドッグ”の称号と共に1年分の食料を与えられた。

FA会長のミアーズ氏も「脅迫状により非常に心配な一週間を過ごし、警察とも緊密に連携した」と主張し報奨金を要望したが、世論の反発もありこれを辞退。エドワード・ベッチリーは脅迫により2年の有罪判決を受け、69年に肺気腫で死亡。窃盗の主犯とされた「The Pole」はその後も捕まっていない。

 

大会の成功、イングランド代表の大活躍もあってピクルスは一躍“時の犬”となり、サッカー界からの多大な感謝と、テレビ番組からの数々の招待を受け、同66年にコメディ映画『The Spy with a Cold Nose』への出演も果たした。

翌67年、ピクルスは猫を追い払っている最中に事故に遭い、他界した。デイビッドさんは「猫嫌いさえなければ最高の相棒だった」と彼の死を悼んだ。

英国国立フットボール博物館ではイングランド代表に本物の“ジューレ・リメ杯”をもたらした功績をたたえてピクルスの首輪と授与されたメダルが常設展示されている。イースターの日曜日は犬の同伴が認められており、動物保護活動に関するセクションが設けられる。

 

■真犯人?

事件から半世紀を経た2018年、事件記者トム・ペティフォーが英ミラー紙に寄せた記事によれば、長男を含む3つの情報筋から、窃盗犯は当時弟と共に武装強盗などを繰り返していたシドニー・クグクレだと結論付けた。

www.mirror.co.uk

周囲に警備員の姿がなく、スリルを味わうための出来心で犯行に手を染めたが、金も手に入らず本当に溶かすつもりもなかったため生垣に捨てたとされる。

 

■奪われた栄光

前述の通り、ジュール・リメ杯はロンドンでの窃盗事件、イングランド代表の栄冠の後、1970年の第9回W杯メキシコ大会でブラジルが3度目となる優勝を果たして恒久保有が認められた。ブラジルスポーツ連盟(CBD)へ贈られ、のちにリオ・ルアダアルファンデガにあるブラジルサッカー連盟(CBF)のオフィス3階に展示されていた。

余談にはなるが1970年のブラジルチームは、ジャイルジーニョ、ペレ、ゲルソン、トスタン、リベリーノのフロント5によるだれもが「ナンバー10」の動きができる魅力的な攻撃を展開し、予選ラウンドからの12試合で42得点を記録。2007年にワールドサッカー誌が行った世界のサッカー専門家による投票で「神話」「美しいゲームの究極」と称され、「歴代史上最高のチーム」といわれている。

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1983年12月19日、2~3名の窃盗団がブラジルサッカー連盟本部に侵入し、夜警2人を縛り上げ、防弾ガラスの陳列棚にあったジュール・リメ杯を奪い去った。当時は厳しい貧困が蔓延していたことやそのままの形状では転売はできないことから、やはり早急に取り戻せなければ溶かされてしまうことが懸念された。

上述のように窃盗団の人数すら曖昧で、夜警たちの証言には一貫性がなかった。しかし他にあったレプリカトロフィーには手をつけていないことから事情を知る内部関係者との見方が強まる。CBFジュライト・コウチーニョ会長は謝罪報告とともに、国民にトロフィーの救出支援を懇願し、窃盗団の「愛国心」に訴えかけるように返還を求めた。

母国の勝利とトロフィーの恒久保有に大きく貢献した「サッカーの神様」ペレは「絶望」という言葉で事件を表現した。大臣だろうと泥棒だろうとサッカーを愛する国民性は「サッカーの母国」イングランド同様であり、「サッカー王国」ブラジルでも自国の栄誉に対して唾を吐くような行為に多くの国民が憤慨した。

 

金庫破りの常習犯アントニオ・セッタが取調べに掛けられ、「仕事を持ちかけられたが断った」と証言。自らの愛国心と、ブラジルがジュール・リメ杯を獲得した時に兄が心臓発作で亡くなったことを理由に依頼を受けなかったと主張した。

セッタの証言から、銀行員でサッカークラブのエージェント業をしていたと称するセルヒオ・ペレイラ・アイレスが強盗の首謀者として逮捕される。元警察官のフランシスコ・リベラと装飾家のホセ・ルイス・ビエイラの2人を雇い入れ、強盗を指示したことを認めた。しかし奪ったトロフィーはアルゼンチンの金商人フアン・カルロス・エルナンデスによって金塊に溶かされたと主張した。

告発を受けたエルナンデスは関与を否認。彼の鋳物工場を捜査・分析した結果見つかった金の痕跡は、トロフィーの材質とは一致しなかった。

捜査を指揮したブラジル連邦警察のペドロ・ベルワンガーも、トロフィーは多くが銀で作られていることから溶かして売るには価値が低いと考え、疑問を抱いていた。溶解や転売の裏付けができず、逮捕者たちは証拠不十分から本来よりも短い服役を過ごした。

 

刑期を終えた元受刑者らは散り散りになった。金庫破りは85年に警察に行く途中に交通事故に遭って死亡。実行役のひとりは89年にバーで5人の男に射殺され、もう一人は別の事件を起こして再逮捕され、98年に釈放された。

金商人のエルナンデスは盗難事件の直後にリオの上流階級が住むフマイタ地区に豪邸を購入していたが、釈放後はフランスに移り住む。その後、フランス、ブラジル両国で麻薬取引により逮捕された。

首謀者のセルヒオは98年に釈放され、2003年に心臓発作で死亡した。

証拠隠滅のためか、捜査能力の問題か、そのかたちが失われてしまったためかは分からないが、奪われたトロフィーは一度も回収されることはなかった。1984年にCBFにはレプリカのジュール・リメ杯が贈られた。

 

■その後

1970年にブラジルへジュール・リメ杯が譲渡された後、公募とイタリアの彫刻家シルビオ・ガザニガにより2代目ワールドカップトロフィーがデザインされ、GDEベルト―二社によって制作された。18金製で高さ36センチ、重さ4970グラムと初代よりサイズアップした。

2005年に3代目トロフィーが制作され現行モデルとされている。アジア大陸と陸続きに表現されていた日本列島部分を独立させるデザイン修正が施され、純金製となって36.8センチ、6175グラムと更に大きくなった。

06年ドイツ大会以降は、ジュール・リメ杯盗難事件の教訓から優勝国による保有ではなく、大会の授与式で使用後は国際サッカー連盟FIFA)が保管し、優勝国へは青銅製レプリカが渡されることとなった。

 

一般には本物のジュール・リメ杯は金塊に変えられたと信じられているが、ブラジル人の悪党がその価値を見抜けずに溶かすとは俄かに信じがたい。その数奇な運命から期待を込めて想像するに、強盗団の小悪党から悪党の大物の手に渡り、やがて大物から別の大物へと贈られるなどして、今も誰かのベッド下の靴箱の中で秘かに眠っているのではないか、という気がしないでもない。