1992年(平成4年)、福岡県飯塚市で起きた7歳児2人の殺害遺棄事件は同じ町内で起きた過去の事案との連続犯行が疑われ、2年半後に近くに住む中年男性が逮捕された。
男は一貫して容疑を否認するも、いくつもの状況証拠から死刑判決を下され、刑は執行された。しかしその後も導入から間もなかった当時のDNA型鑑定や精緻すぎる目撃証言などについて冤罪疑惑がつきまとっている。
■遺体の発見
1992年2月21日(金)12時10分頃、福岡県飯塚市から甘木市(現・朝倉市)方面へとつながる国道322号・通称「八丁峠」の崖下10m付近に女児2人の遺体が発見された。
甘木市秋月野鳥(あきづきのとり)と呼ばれる地域で、旧秋月藩の城跡に近く、古処山(862メートル)の三合目付近に位置する。市内の最低気温は氷点下2度、当時の捜査員は、現場の山は時折雪がちらつく寒い日だったと振り返っている。
国道といっても周囲は木々が鬱蒼としており、つづら折りの急カーブがいくつも連なる険しい峠道で昼間でも交通量は極少ない。難路のため、地元の人間は近くの国道200号「冷水道路」に迂回するのだという。
第一発見者の男性(52)は営林関係の仕事でその道を利用しており、小用を足すために偶然その路肩に停車したまでで、当初はマネキンが捨ててあると思って驚いたと証言する。周囲に民家はなく、まず子どもが徒歩で通りがかるような場所ではない。
通報を受けた甘木署は、前日朝から通学途中で行方不明となり捜索活動が続けられていた飯塚市立潤野(うるの)小学校1年生Aさん、Yさん(ともに7)とみて連絡を取り、21時に親族が遺体を本人と確認した。2人の遺体は司法解剖のため九州大学に運ばれた。
自宅から発見現場までおよそ29キロ。2人の遺体は重なるように倒れており、上半身の衣服は登校時のままで、下着が剥ぎ取られて下半身が露わな状態、靴を履いていなかった。顔などに殴られたらしい皮下出血が見られ、首には絞められたような痕跡があった。
福岡県警捜査一課は二児の自宅に近い飯塚署に捜査本部を、遺体発見現場を管轄する甘木署に準捜査本部を設置し、殺人・死体遺棄事件として捜査を開始した。翌22日には、遺体発見現場から数キロ離れた八丁峠沿道の山中で二児のランドセル、衣類、靴の片方などが発見された。
上のマップでは便宜上「八丁峠の地蔵」と銘打たれている地点までのルートを示しているが、この地点は遺留品発見現場であり、遺体発見現場は更に南に4km程の地点である。
■連続犯
2月20日朝7時40分頃、Aさん宅にYさん、近くに住む同級生が集合し、3人で学校に向かった。10分ほどしてYさんが「行きたくない」とぐずり出し、同じクラスのAさんがそれをなだめるようにして遅れを取るかたちとなった。結局、別のクラスの同級生は一人だけ先に登校した。
Aさん宅から学校までおよそ1.5キロの道のりで、同級生と離れてしまったのは学校まで残り500メートルといった辺りだった。
毎朝交通指導に立つ男性(64)は、いつもは8時前に通りがかる3人組の姿がないことに気づいていた。8時10分近くになって1人が通っただけだったので、あとの2人は先に行ったのだろうと思い、15分頃に帰宅したという。
二児が通りかかったのは男性の帰宅直後とみられ、8時20分頃に100m先の地点で目撃されていた。
8時30分頃には学校まで残り300メートルの農協付近の三叉路で、学校とは逆方向に歩く姿が通勤中だった農協職員に目撃されていた。だがその3分後に同じルートで出勤してきた同僚は女児たちの姿には気づかなかったという。
下のストリートビューが最後の目撃地点とされる三叉路付近だが、古くからの住宅地で道路は入り組んでいる。住宅は高い外塀で覆われ、道路の見通しは利かないものとみられる。
定刻の8時20分になっても2人は教室に姿を見せず、当初は道草でもしているのではないかと思われた。話を聞いた司書補助の職員が周辺を探して回ったが、行方は露として知れず、担任の犬丸千秋教諭は保護者に連絡を取った。
その日、Yさんの母親が市街の病院に出掛けることになっていたので、それを心配して「2人で病院に向かったのではないか」とも推測されたが、母親は8時45分頃に車で出かけて10時頃には診察を終えて帰宅しており、病院でも二児が訪れた様子はなかった。その後も2人とも家に帰ってこないことから12時半に捜索願が出された。
失踪当時、Aさんは身長116センチ、体重19キロ、おかっぱ頭で、白ジャンパーにチェックのスカート、ピンクのランドセル姿で黄色い傘を持っていた。Yさんは身長118センチ、体重22キロ、黄色のジャンパーに赤い襟付きトレーナー、赤いキュロットスカート、茶色のランドセル姿だった。
二児が通っていた市立潤野小学校は4時間目で授業を打ち切り、教職員やPTA会員ら35名で通学路周辺を捜索。関係者らは、二人で励まし合ってどこかで無事にいると固く信じていた。夜には飯塚署員ほぼ全員に当たる約100人を動員し、地元消防団らも捜索に加わった。
翌21日に予定されていた授業参観は父母集会に切り替えられ、捜索状況の説明などを行い、当面は保護者付き添いでの集団登下校を要請した。「数か月前から小学校周辺で不審者が出没している」「女子高生が車に追いかけられた」といった報告もあった。
しかし18時過ぎのテレビニュースで二児と見られる遺体発見の報が流れると、職員らは驚きと落胆に包まれた。
同校では3年前の1988年(昭和63年)12月4日(日)にも明星寺団地に住む1年生女児Mさん(7)が行方不明となっていた。
Mさんは9時半頃に弟と一緒に近くの友人宅へ遊びに出掛け、その後自宅から150m離れた宅地の建築現場で一人で遊んでいたところを近くの子どもが目撃したのを最後に消息を絶った。道迷いや事故、誘拐など事件に巻き込まれた可能性もあったが有力な手掛かりはなかった。
雑木林の一斉捜索、周辺の大小15のため池で水抜きが行われるなど大掛かりな捜索活動が行われたが遺留品も見当たらず、捜査は事実上の凍結状態とされていた。
二児がいなくなった92年当時といえば、世間では東京埼玉連続幼女誘拐殺人(広域重要指定117号事件)の衝撃もまだ記憶に新しく、90年5月には栃木県足利市で4歳女児が犠牲となった事件で91年12月に犯人が逮捕されて話題となっていた。91年の1~11月に幼児対象誘拐は54件と前年同期より9件増加していた。
捜査本部は両事案の関連を視野に、88年のMさん行方不明についても再捜査を決定する。連続犯を野放しにする訳にはいかないと総力を挙げて捜査に臨んだ。
■22日
2月22日未明、九州大学医学部・永田武明教授による司法解剖で、死因は首を手で絞められての窒息死(扼殺)と確認された。Aさんは頭部、Yさんは顔に殴られた跡があり、両者とも手足に擦り傷、陰部には姦淫による損傷があった。
死亡推定時刻は20日15時から同19時の間とされたが、胃の残留物の状態から、二児の殺害に時間差があったか、あるいはコメの未消化物が含まれていたことから犯人がおにぎり等を与えていた可能性も考慮された。
捜査本部は、車に乗った犯人が二児を連れ去って暴行に及び、殺害後に峠道で遺棄したとの見方を強め、変質者の洗い出しに全力を挙げた。
遺体発見現場では鑑識作業を急ぐとともに、周辺での遺留品の捜索に機動隊約200名を動員した。
10時45分頃、遺体発見現場から北に約4キロ離れた甘木市と嘉穂町の境界にあるスギ林でランドセルや傘、キュロットスカート、下着、靴下など被害者の遺留品が発見された。靴は片方ずつしか見つからず、下着には各被害者の尿斑が付着していた。
22日朝、二人は二日ぶりの無言の帰宅となった。Yさんの葬儀は24日の午前、Aさんの葬儀は同24日の午後にそれぞれ営まれることとなった。
22日15時頃、Aさん宅に犯行を匂わすかのような不審電話があった。遺族が告別式などの段取りに追われており、知人男性が代わりに「もしもし」と電話口に出ると15秒ほど沈黙が続き、低い押し殺したような声で「Aちゃんらと一晩過ごさせてもらった」といった内容のことを喋って通話は切れた。捜査本部は犯人の可能性もあるとして録音機材を設置したが、その後はかかっていない。
■初期報道
二児が学校に来なかった理由やその後の足取りもはっきりとしないなか、いくつかの目撃情報が上った。飯塚市内のおもちゃ店で20日14時頃に2人と見られる女の子がぬいぐるみを見ていたもの、同市本町の商店街で同19時半頃に少女2人が中年男2人に話しかけられていたとするもので、被害者との関連の確認を進めた。
周辺の不審者情報も多く寄せられた。
潤野小学校区では92年に入って、「白色軽乗用車」に乗った男が6年生女子にコートの前を開いて裸体を露出した事件があった。
二児の通学路近くの商店で目当てのマンガが買えなかった男子二人に「マンガがある店を知っている。一緒に行こう」と中年男性による声掛け事案もあった。
事件前の2月15日には男が4年生女児3人を集め小用を足すという露出事案も発生していた。
また同区と、隣接する若菜小学校区では「白い車」が児童をつけ回すケースが相次いで報告されていた。車の横を児童が通り過ぎると発進し、振り返ると停車する怪しい動きをしていたという。
こうした情報もほとんど地域住民に共有されておらず、飯塚署管内でさえ把握していないものも多かった。3年前のMさん行方不明の教訓が生かされてこなかった防犯実態が露呈した。
背景には都市の遷移も挙げられている。かつて筑豊炭鉱が栄え、炭住(炭鉱労働者向けの長屋住宅)も多く見られた地域だったが、30年前の閉山後は労働者の多くが町を離れた。その後、元々の農村地域の色が強まっていたが、80年代後半に入って再び新興住宅が増え始め、潤野小学校も生徒数560名近くに増加していた。田舎の長閑さ、子どもの増加、新旧住民の結びつきの弱さが影響して犯人に付け入る隙を与えてしまったと見る向きもあった。
遺体発見現場から数百メートル甘木市街寄りの国道322号脇で、2月21日未明に不審な「白いセダン」が駐車されていたと複数の目撃情報がもたらされた。ヘッドライトを点灯させた状態でトランクを開けていたとされ事件との関連が疑われた。
現場から南に3キロほど山を下った甘木市秋月地区でも「白い車の男」の付きまとい事案が頻発していた。91年11月頃には女児が「学校に送ってやろう」と誘われていた。
生徒らは逃げて無事だったが、その前後にも30から40歳代の男が「たばこを買ってきて」「学校はどこね」などと声を掛ける事案が確認されていた。
3年前のMさん行方不明の前後にも秋月地区で拉致未遂の事案が続発していたことから、八丁峠の南・北に土地勘があり、周辺を行き来しての同一犯も疑われた。
2月26日には車に乗せられたAさんらしき目撃情報もあった。潤野小学校から南東約800メートルの福岡県穂波町の交差点で自営業男性(39)が信号待ちをしている際、横に停車した白色ハッチバック式小型車に目をやると、後部席に女児が床にひざまずき座席に手を突いたような後ろ向きの格好でうずくまっていたという。
女児は身を隠すような不自然な姿勢で、目を見開き怯え切った表情に見えた。目撃者は運転手の顔やナンバーは見ていなかったが、22日の新聞に掲載された顔写真によく似ていたことですぐに気づいたという。
27日夕刊では、早くも「捜査難航」の見出しが付けられた。
捜査本部は連日430人体制の動員で、飯塚市内約2万9千軒の大掛かりなローラー作戦を実施したほか、遺棄現場に通じる周辺ルートにも聞き込み対象を広げ、八丁峠につながる道では日夜検問を張っていたが直接犯人につながる情報は得られていなかった。変質者の情報収集、遺留品の分析など「あらゆる方向に間口を広げて」捜査したが、車を運転する変質者という犯人像から絞り込みが進まなかった。
白い車の目撃や不審情報も車輛特定にまでは至らず。遺留品発見現場では、たこ焼きや焼きそばが入っていたと見られる持ち帰りパックが発見されたが被害者は食べた形跡がなく、犯人が途中で購入したとの見方もなされた。
捜査陣の間でも、目撃情報の精度や死亡推定時刻の食い違いで評価が分かれ、①朝の内に拉致されて早い時間帯に殺害、②午後に本町商店街近くで拉致され、夕方以降に殺害、③朝に犯人と接触し、商店街で別れた後、午後に再会して連れ去られた、といった見方がなされ、③の見方では顔見知り説も浮上する。
■T証言と容疑者の浮上
しかし3月初旬、峠道での別の目撃情報から、飯塚市に住む無職・久間三千年(54)に嫌疑が向けられることになる。
88年の行方不明直前にもMさんが久間宅で遊んでいる姿を見たとの情報からリストにも名前が挙がっていた人物である。Mさんが連れていた弟が久間の長男と友達で、一緒に遊びにきたとされる。
久間は1938年に飯塚市に隣接する山田市(現・嘉麻市)に生まれ、地元の定時制高校を中退。19歳で山田市職員として市長公用車の運転手などを続けた。だが1977年、20年間務めた役場を依願退職し、退職金や株を元手に貸金業などをした時期もあったが定職には就かなかったとされる。母親、妻、長男と飯塚市の一軒家で暮らし、Mさん失踪当時は町内会長も務めていた。
久間の妻の証言では、自分は産みっぱなしで外に出て仕事をし、子育ては久間に任せきりだったという。妻の送迎も久間の日課であった。子どもの喜ぶことを何でもしてやりたいという子煩悩で、テレビで面白そうな場所を見かけるとよく連れて行ったという。
久間の愛車マツダステーションワゴン・ウエストコーストは1982年3月から83年9月まで製造販売されたマツダのボンゴ車種では最上位グレードで、同車は1991年末で全国に2854台登録されていた。
新たな目撃情報は、3月2日、地元・甘木市の森林組合に勤める男性職員Tさんからもたらされた。
二児の失踪直後となる2月20日11時頃、昼食を摂るために車で山を下っていたところ、「紺色のワゴン車」に男が「乗り降りしていた」のを見かけたというもので、目撃地点が被害者の遺留品発見現場と合致。犯人が遺棄していた可能性が高いとして、9日には実況見分が行われた。
Tさんは甘木市側を目指して走行しており、紺色のワゴン車は飯塚市側を向いて停車していた。Tさんは男が何をしているのか不審に思い、横を通り過ぎる際も更に振り返って見たという。証言によれば、通称八丁峠「第5カーブ」付近の対向車線の路肩に停めてあった車に向かって斜面から一人の男が上ってきたと言い、Tさんの車が接近すると男は足を滑らせたように前のめりに躓いて両手をついたという具体的な内容だった。
Tさんは仕事で訪れた現場を日記に記載しており、2月20日という日付の確度は高い。
4月20日の読売新聞では、同車のほかにも2件の目撃情報を伝えている。
ひとつは潤野小校区に隣接する穂波町若菜小校区での目撃で、20日8時半すぎ、T字路で女性が停車中に前方を大型でやや古いタイプの黒色乗用車が横切った。運転していたのは中年男性で、後部座席に乗った女児二人をしかりつけ、女児たちは窓にへばりつくようにしており、助けを求めているようにも見えた、という。
もうひとつは潤野地区で20日9時ごろ、紺色ワゴン車に女児二人がおびえた様子で乗っているのを、女性商店主が見たといい、「後輪がダブルタイヤだった」という点は八丁峠の目撃車両と類似していた。捜査本部は紺色ワゴン車に焦点を絞り、筑豊地区で使用されている約1600台に絞って捜査を進めることとした。
捜査本部は車両の特徴が一致したことから参考人として久間に任意聴取を行うも、Tさんへの面通しでは峠で目撃した男かどうかは分からなかった。
久間は談話には応じていたが事件に話が及ぶと一貫して否認し、ポリグラフでも大きな成果が得られず、3月下旬に毛髪の任意提出を求めた。現場や遺体から採取されていた血痕等の試料と一致するのではないかと警察庁・科警研に送られ、血液型鑑定のほか、導入されたばかりだったDNA型鑑定にかけられた。
当時は血液型と合わせて1000人に1.2人の低い精度とされたが、異同識別鑑定の結果、犯人由来と見られる血痕と久間のDNA型が一致したとの報告が入る。今日のDNA型鑑定のように個人識別が可能なレベルになく、全国に同じ型をもつ人間が12万人近くいる程度の分類で、それだけを以てして犯人と断定する証拠にはなりえない。
地元紙は鑑定精度の低さとスクープ報道を天秤にかけ、結局「重要参考人浮かぶ」と匿名記事を打った。その日、久間の妻は在宅しており、記事を読んで嗅ぎつけた共同通信の記者が久間の家を訪ねてきたことを記憶していた。久間は重要参考人の記事を見て「この分なら犯人は捕まりそうだね」などと他人事のように記者に語り、記者も「あなたじゃなさそうですね」などと話していたという。
■逮捕
福岡地検はその精度の問題からDNA型を決め手として立件するには不安が残るとして、県警の逮捕に待ったをかけ、更なる物証の提出を求めた。自白が得られないことで焦れる県警は残っていた試料で東京大学、帝京大学の法医学教室にもDNA型鑑定を依頼したが、同一の型は出なかったとの結果が届き、久間の逮捕は見送られる。
だが捜査陣は久間の行動確認で、マツダ・ボンゴを売却できないかと複数の中古車業者に打診していたことを掴んでいた。また普段はそんな様子はなかったが、このときは座席シートを取り外すなど念入りに車内の清掃を行っており、周囲の人間は不思議に思っていたという。捜査関係者から見れば「犯人」が証拠隠滅を図ったと疑うのも当然だった。
一方、妻はその行動について、久間は元から警察不信で、でっち上げの証拠捏造を警戒していたと振り返る。警察に何かされた場合でもすぐに分かるよう、「自己防衛」のために念入りに清掃したのだとしている。
2月中は「あらゆる方向に間口を広げて」捜査に当たっていたはずの捜査陣は、3月上旬の「車両目撃情報」を契機として久間への異様な執着に転じた。3年前に行方が分からなくなったきりのMさん、そして二児の連続犯との見方が捜査陣を奮い立たせていた。
通常であれば参考人対象の行動確認は秘密裡に行われるものだが、近隣住民の目でもそれと分かる尾行、見張りを、昼夜を問わず連日続けていたという。捜査員は聞き込みの際、住民らに余計な先入観を与えないように具体的に誰をマークしているとは伝えないよう注意を払うのが原則とされる。警察が探りを入れていると犯人側に気取られれば、証拠隠滅、自殺、逃亡などの恐れも生じるためである。
しかし本件では久間の顔写真を見せて聞き込みに回っており、もはや公開指名手配と変わらない有様だった。無言の圧力のつもりなのか、過度の自信がなせる業なのか、典型的な「見込み捜査」と言わざるを得ない。地元では警察が久間に注視していることは周知の事実となっていた。
久間も衆人環視に置かれていることを承知でメディア取材に応じ、女児との面識はなく事件とは無関係だと主張し、八丁峠も十数年前に通過したことはあるが下車したことはない、だから現場から自分の体液が見つかるはずがない、と話した。犯人呼ばわりする捜査によって自宅に脅迫電話が来るようになったと述べ、警察のやり方に対して怒りを露わにした。
93年9月29日朝には、久間宅で出したごみ袋を無断で持ち去ろうとしたことから一悶着となり、久間が剪定鋏を手に抗議してもみ合いになった末、県警捜査一課と飯塚署の巡査長(31・48)が全治5~10日の軽傷を負った。傷害による現行犯逮捕となり、処分保留の釈放とされ、間もなく10万円の罰金刑が確定した。新聞記事では捜査員二人について「通学路の安全確保を兼ねて私服で警戒していた」と記載されている。
92年9月26日に久間が下取りに出したマツダ・ウエストコースト車両を県警が買い取って押収し、事件の痕跡が残されていないか10月5日まで入念な鑑識にかけられた。その後、93年末になって3列目(後部)座席シート及びフロアマットに血痕、尿痕が見つかっていたことが明らかとされた。
科警研は尿は判別できなかったが、血痕の血液型は「O型」で被害者の一人と一致するとした。
83年7月に新車で購入して6年間乗っていた前オーナーは、主に大工仕事の足替わりに使用し、購入直後から座席にはシートカバー、フロアには玄関マットのような足拭きを敷いて使用していた。休日には自家用として夫婦と3人の子どもを乗せることもあったが、家族にO型の者はなく、使用当時に流血や尿漏れがあった記憶はなく、他人に車両ごと貸したこともなかった。89年7月に下取りに出したものを、中古車販売店が購入し板金塗装修理後、展示販売した。
久間はその中古車を9月末ごろに購入して3年間使用した。主に母親、妻、長男を乗せており、久間以外の3人はO型だった。高齢の母親、幼い長男も居り、弟(O型)の家族や長男の友人家族を乗せたこともあったが、取り調べ段階で久間や妻らは尿漏れの心当たりはないとしている。足のけがをして流血した母親や擦りむいた長男を乗せたことはあったが、シートに血が付着したかは記憶にないとした。
また被害者の毛糸の下着に付着していた繊維片を、「東レ」、「ユニチカ」の繊維研究所に持ち込んで鑑定を依頼。微量の繊維ではあったが東レ製とほぼ断定、染色成分がマツダ・ウエストコーストで使用されていた特殊な座席シートに使われたものとほぼ一致するとの結果を得た。科警研による血痕鑑定に時間を要したのは、この外部鑑定で使用されたシート生地・スポンジ等試料のやりとりのためとされる。
久間が主張する事件当日の行動は、8時10分頃に妻を職場に送り届けた後、その足で山田市に住む母親にコメを持っていき、帰りにパチンコ屋に立ち寄ったというものだった。13時頃に帰宅し、15時頃に長男が下校してきて、17時頃には妻を迎えに行ったという。
パチンコ店の映像記録は残っておらず、身内の証言はアリバイ証拠にならないため、行動の裏付けができなかった。捜査陣は周辺地域の同型車両9台の持ち主のアリバイを全て確定させることで、久間のアリバイの弱さを際立たせ、久間以外には犯行は不可能だったとする結論を導いた。
現場付近での目撃証言、DNA型鑑定だけでは不安視されていたが、ここにきて新たな状況証拠が加わったことで、福岡地検はゴーサインを出さない訳にいかなくなった。事件から2年7か月が経過した1994年9月23日、福岡県警は死体遺棄の容疑で久間三千年を逮捕。
逮捕時、自宅にいた久間は妻に「動くな」と言い残して出ていった。捜査員の目から見ても、家族がいるためか抵抗することなく従ったとされる。
捜査一課特捜班・飯野和明氏は、逮捕後の副取調官として事情聴取に同席し、取調を主導した福田係長と久間のやりとりを傍で見ていた。福田係長と久間は任意聴取ですでに面識があり、「調べ尽くしたがやはりお前しかおらん」というような応酬を繰り返し、時折「飯野、ちょっと出ておれ」と二人きりでの密談もあったという。久間は当初雑談にも応じており、感触は悪くなかった、これはいけるかなというような期待が感じられたと飯野氏は振り返る。
2022年12月に放映されたNHK『正義の行方 飯塚事件 30年後の迷宮』では、久間の妻や捜査関係者、地元紙記者ら多数の当事者の証言からそれぞれの「真実」に迫ろうというコンセプトで描かれる。当初雑談にも応じていた久間が警察不信に陥り口を閉ざした契機として「妻との面会」があったとされる。
福岡県警・山方泰輔捜査一課長は、久間は妻子を横浜の親類のもとに移したがっていたようだと振り返る。山方氏は、久間の言質から「これはもうすぐうたう(自供する)な」、いよいよ自白する心づもりを決めたとの心証を得ていた。久間の弁護士に連絡を取り、特別面会許可を取って久間の妻を連れてくるようにと伝えた。
だが久間の妻の話とは大きな食い違いがある。弁護士は「警察から連絡があって、離婚の話し合いのためであれば面会が許されるそうだ」と久間の妻に話していたという。妻は警察に離婚の相談をしたことなどなかったため奇妙に思ったが、逮捕後一度も面会しておらず、ひょっとすると夫がそう考えて言い出したことなのかもしれないと考え、面会の手続きをしてもらうことにした。だが夫と対面して「“離婚の話し合いのため”と言われてきたんだけど、お父さんが警察にそう頼んだの?」と尋ねると、「いや自分も頼んじょらん」との返答があった。
久間の妻は、「結局私たちが家を離れて主人から離れれば、もうあんた(久間)のことを諦めたわい、という形で持っていくつもりだったのかな」と、警察には久間を孤立させて自白に追い込む意図があったのではないかとの見方を示している。
久間は妻との面会後、それまでと一変して雑談にも応じなくなり口を噤んで「貝のようになった」と飯野氏は述べる。「もう、とにかく自分じゃない、俺じゃない」と、そのとき腹積もりを決めたのではないかと推測している。
■発見
県警では逮捕以前からMさんの行方不明も久間による犯行との印象を深めており、逮捕直後から庭が掘り返された。久間の妻は警察がなぜそんなことをしているのか分からなかったが、捜査本部は以前からこの庭に目を付けていた。
連日の行動確認で、久間が庭先に出てくる姿が頻繁に目撃されていたことから、庭先にMさんの遺体を埋めているため連日気になって仕方ないのではないかと推測していたのである。だが見当は外れ、久間家の庭には穴だけが残された。
妻との面会後、久間が口を噤んだことで取調は暗礁に乗り上げた。何とか打開策をと再びポリグラフに頼ることとなった。殺害した人数を調べに掛けた際、久間は「2人」には反応せず「3人」に反応があったと飯野氏は言う。Mさんだと確信し、検査官が追及を重ねていくと遺棄した範囲が絞りこまれ、最終的に「明星寺団地のヒノキ林」とされた。久間の自宅、Mさん宅からも1キロと離れていない町内であった。
11月11日朝に開始された捜査員約120人態勢、消防団の応援を求めて行われた再捜索は僅か30分でほぼ決着した。遺体こそ出なかったものの、車一台が入れる道幅の細い林道から約10メートル地点に子ども用の赤い上着と赤いトレーナーが発見されたのである。
最終目撃のあった建築現場から約100メートルの雑木林の斜面で、当時は雪があったとされるが、これまでなぜ発見されていなかったのか当時捜索に参加した住民らも驚きを見せた。午後の捜索に備えて弁当を用意していた捜査幹部すら「正直言って驚いた」と話している。
読売新聞は「斜面の草むらに1、2メートル離れて無造作に捨てられていた」とし、朝日新聞は衣類の状態について「あまり傷んでいなかったという」と伝えている。
元西日本新聞記者・宮崎昌治氏は、警察による捏造ではないと信じているとしつつ、「5年も6年も雨風に晒されている状態ではなかった、と」「何でそんな服が今頃出てくると?」「そんなきれいな状態で服が見つかるはずない」と疑問に思ったと振り返る。
発見現場付近にはゴミ集積場があり、周囲にも不用品が散乱していたため、他にも遺留品が紛れていないか確認が急がれた。
Mさんも失踪時、赤地に白色の横縞が入ったトレーナー、赤いジャンパーを着用しており、同11日17時20分にMさんの母親(47)が娘のものと確認した。
飯塚署で記者会見した永留慶造署長は「当時は事件に巻き込まれたのかどうか分からなかった。自宅周辺のため池や側溝などは徹底的に調べたが、少し捜索が足りなかったかもしれない」と語った。6年ぶりとなる発見で、県警はMさんが事件に巻き込まれた可能性が極めて高くなったとした。
久間はMさん失跡についての関与を否認しており、93年のメディア取材でも、失踪当日9時ごろに他の子どもたちと一緒にMさんも遊びに来て菓子を配り、その後9時半ごろにまた子どもたちが菓子を貰いに来たときMさんはいなかった、と証言していた。
山方捜査一課長は発見された衣類を久間の妻に見せ、ポリグラフで特定された場所から発見されたと告げると「ああ、やっぱりお父さんやったんですね」と漏らしていた、と振り返る。
番組制作側からそうした発言の有無について問われた久間の妻は、「それはないです、見てないです」と即答している。見つかった衣類はおろか具体的な証拠を今まで見せてもらったことはないと全面的に否認しており、早すぎる衣服の発見についても疑問視していると語った。
どちらが嘘を言っているのか。
その後、初公判を目前に控えた95年2月9日から同じ山林で再捜索が再開された。前回の捜索以降、「失跡当時、動物の死体のような臭いがした」との情報が寄せられていたという。朝日新聞では、捜査幹部の話として発見された衣類を久間に見せたところ「骨も一緒に見つかったのか」と質問する等、同じ場所に遺体があることをほのめかすような発言があったとしている。
翌10日にはジャンパー発見場所付近のゴミ捨て場の土中から「こどもの骨らしき骨片」3点が見つかり、いよいよMさんではないかと注目された。捜査幹部によれば「埋めている感じではなく、長い間に骨の上にゴミや土が積もったようだった」とされ、骨片は小さく、髄液などは残っておらず、当時の鑑定技術では仮に人骨と判明してもMさんのものか否か解析することは不可能であった。
事実は「ゴミ捨て場から不審な骨が僅かに見つかった」というもので、それが人かどうかもはっきりしておらず、久間に結び付く証拠は一切出ていない。しかし報道を見れば「久間」を「Mさん」と結びつけて捉えるのが人情というものである。どこまで作為があったのかは不明だが、聞き込みやメディアを利用した「劇場型」ともいえる警察の捜査が、市民の久間に対する印象形成に大きく作用していたことは疑いようもない。
■裁判
95年2月20日、福岡地方裁判所(陶山博生裁判長)で初公判が開かれた。
殺害現場や殺害時刻、具体的な犯行手順などは明らかにはならなかったが、検察側は「八丁峠の目撃証言」「DNA型鑑定」「車内の血痕」「繊維鑑定」ほかあらゆる状況証拠から重ねて見れば、被告人による計画的犯行は明らかであり、それ以外の人物による犯行とは認められないとした。
これに対し、被告人は「私は起訴事実のようなことを、絶対にしていません。全く、身に覚えがありません」と全面的に容疑を否認。弁護側はDNA型鑑定は犯人性を示す決定的な証拠となりえないことを示し、個々の証拠は久間による犯行と断定できないものだと主張する。
本件の特異性として、被害者の局部(膣内容物、周辺付着物)に精液や唾液は検出されず、犯人由来と見られる血液が付着していたことが挙げられる。検察側は久間の病歴から、犯行時に亀頭から流血していた可能性を示唆し、犯人性を疑わせる強い証拠とした。
1991年10月頃、久間は喉が渇く、体重が6kg減る、歯茎が腫れる、太腿が吊る、光に目が痛む、陰茎の亀頭粘膜が痛むといった症状に見舞われ、11月に病院に行くと血糖値502の異常値を示し、糖尿病と診断され、入院治療を薦めて別の病院を紹介していた。だが久間は長男の世話もあり、入院はできず自宅で食事療法をしていたとしている。
92年3月21日の捜査員との談話では、病状について「両足が痛いし歩けない。目も曇って悪くなる一方だった。陰茎の皮が破けてパンツにくっついて歩けないほど血がにじんでしまう。オキシドールをかけたら飛び上がるほど痛かった。シンボルが赤く腫れ上がった。事件当時ごろも挿入できない状態で、食事療法のため体力的にもセックスに対する興味もなかった」と話し、8月には親類にも同様の趣旨の話をし、同行していた新聞記者もそれを録音していた。
病状が事実とすれば、事件発生時も陰茎は出血を伴っていた、ないしは容易に出血しうる状態だったと推認される。だが公判に至って、久間は来院後の食事療法で20日から1か月程して、事件前の91年11月終り頃には完治していたと供述する。
診察したY医師は、被告人は仮性包茎(平時は亀頭が包皮を被った状態で、勃起や手で剥くことができる状態のこと。真性包茎は剥くことができない状態)で包皮内板(亀頭と包皮の接触部)および亀頭が炎症を起こしていたと証言した。
弁護人は別の医師による診察で仮性および真性包茎とは認められていないことから、Y医師の証言は信ぴょう性が低いとした。
当初、久間は犯行を否定する材料として「亀頭包皮炎」の症状を訴えていたが、DNA型鑑定により「犯人由来と見られる血液」の存在を知ったことから公判では「治っていた」と証言を一転させたと捉えることができ、裁判官は「到底信用できない」と結論付けている。
久間の妻は公判で「治っていたと思う」「病院の紹介状を捨てた記憶がある」と証言したが、捜査段階では久間の性器の状態については「全く分からない」と相反する証言をしていた。
薬局経営者や元店員らは、久間が湿疹など皮膚病に効果のある「フルコートF」を月に1度程度購入していたと証言している。ステロイド成分含有で効き目が強く、過敏症状や副作用が出ることもあるとして店の人間は客に勧めていなかったが、久間は商品名を名指しして買っていったため記憶にあるという。だが久間も妻もその購入事実を一貫して認めなかった。陰茎患部に使用していたかは判然としないが、なぜ購入事実を偽らなければならないのか。
取り調べでは記憶にないとしていた車内の尿痕と血痕について、公判では自分がけがを負って運転したことは複数回あった、90年2月頃に妻が流産した際に下着に血がついていたがどの席に乗せたか記憶になく付着していたかは気付かなかった、長男や妻の母親だった可能性もあると久間は述べた。
取り調べ段階との齟齬について追及された妻は、取り調べを受けることになって当時は混乱しており「そういうふうには言っていないと思いますけど分かりません」と曖昧な応答に終始した。とくに以前は「車内で出血したりおしっこを漏らしたりすれば、後始末が必要になったりするはずですが、そういうことをした記憶もありません」と断定的に否定する供述をしていながら、後になって実母の排尿の可能性を否定できないのは明らかに不自然とされた。
1999年9月29日、福岡地裁は「状況証拠を総合すれば被告人が犯人であることは合理的な疑いを超えて認定できる」と判断し、求刑通り死刑判決を言い渡した。久間は即刻控訴し、その後も一貫して無実を訴える。
2001年10月10日、福岡高等裁判所(小出錞〔じゅん〕一裁判長)は控訴を棄却。
2006年9月8日、最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は上告を棄却。久間の有罪は覆らず、死刑が確定する。
捜査陣営は被害者の無念を晴らそうと残酷極まりない犯人を生かしておいてはいけないと強い信念をもって捜査に当ってきた。徹底的な裏付けに基づき、確固たる自信を持って裁判所の導いた死刑判決に誤りはないとしている。
■死刑執行
2008年10月28日、死刑執行。
妻によれば、久間は教誨師に最期まで無実を訴えていたと言い、執行後、教誨師は久間の息子に対し「お父さんを誇りに思っていていい」「絶対自分は違うと言っているからお父さんを信じてあげなさい」との言葉を託したとされる。
再審請求の意志を知りながら迅速な手続きに至らなかった弁護人らは取り返しのつかないことになった自責の念にさいなまれたと言い、遺族らと共に再審準備を急いだ。
事件発生当時、西日本新聞で事件担当サブキャップを務めていた傍示(かたみ)文昭氏は、それまで久間の犯行として報道を続けてきた立場から、死刑確定の報を受けて第一に安堵した、ホッとした、とそのときの本音を語る。だがそれと同時に、公判中も審理、決定、証拠の採用のされ方に、「本当に久間三千年が犯人なのか」と疑問が浮かぶことがあった、本当は違うんじゃないかという気持ちもあったと吐露している。
死刑確定から2年後の執行を知ったときにはあまりにも早すぎるので「何なんだ、これは」「なぜこんなに早いのか」と感じたという。
刑事訴訟法第475条は死刑執行は法務大臣の命令によると規定されている。他の刑罰と異なり、執行について徹底して慎重な運用が求められている。
第2項で、死刑の執行の命令は、判決確定から6か月以内にしなければならない旨が規定されているが、法務省では訓示規定であると解されている。2023年現在、100余名の死刑囚が執行されずにいる状態である。
執行の公表が98年11月から行われるようになり、2007年12月以降は執行死刑囚の情報が公表されるようになったが、確定から執行までの平均は5~6年程度とされる。確定順に執行される訳ではなく、選定の基準もブラックボックス化されているが、捜査や事実認定の中に問題点が見いだされれば再審などとの兼ね合いからスムーズな執行にはなりづらいとも言われている。
手続きのながれとしては、管轄する検察庁から上申を受けて、法務省刑事局がそれまでの公判記録を精査し、執行に問題がないと確認されれば「死刑執行起案書」が作成される。これが各部局の稟議に掛けられ、最終的に法相が決裁する。執行は最終決裁・執行命令から5日以内と規定されている。
死刑確定から執行までの期間が短いものとして、古くは栃木雑貨商一家殺害(1953年)の菊地正は55年6月28日に上告棄却で確定し、11月22日に執行されている。これは上告中に菊地が脱獄しており、再収監されて死刑が確定した直後にも妹が金鋸や安全剃刀を密かに差し入れしようとするなど再度の脱獄の恐れからだったと言われている。
近年では大阪の付属池田小事件(2001年)を起こした宅間守が死刑確定からおよそ1年で執行されているが、罪状は疑いようもなく、自身も「命をもって償いたい」と述べ、控訴を取り下げて裁判で争う姿勢すら示さない(当時としては)異例の事案で単純な比較はできない。
久間の執行にゴーサインを出したのは、2008年9月に発足した麻生太郎内閣で法相に就任したばかりの森英介法務大臣であった。時同じくして執行命令が出されたいわき資産家母娘殺し(2004年3月)の高塩正裕(享年55)は、判決を不服としたが被疑事実は認めており、自ら上告を取り下げ06年12月に死刑が確定していた。同じ「確定死刑囚」でも捜査段階から一貫して否認を続け、再審の意志もあった久間とはやはり事情が異なるのである。
執行後、法務省で会見に及んだ森法相は「法の求めるところに従い、粛々と自らの職責を果たしました。遺族にとって痛恨極まりない事件であり、慎重かつ適切な検討を加えたものです」と述べている。
■足利冤罪事件とMCT118型鑑定
久間の死刑執行からおよそ半年後となる2009年6月4日、栃木県足利市の4歳女児が殺害されたいわゆる足利事件に驚くべき動きがあった。
足利事件は1990年5月12日に4歳女児が失踪し、翌日近くを流れる渡良瀬川河川敷で遺体となって発見された。プロファイリング等により元幼稚園バス運転手・菅家利和が浮上し、警察庁科学警察研究所によるDNA型鑑定で犯人由来とみられるものと菅家のDNA型が一致したとして、91年12月1日に任意同行。自白を得、翌2日に逮捕。一審の途中で被告人は否認に転じたが、無期懲役判決が下され、2000年7月17日に最高裁が上告を棄却して無期懲役が確定した。
2008年から日本テレビ・清水潔記者らが中心となり目撃証言の食い違いやDNA型鑑定に疑義を呈するなどの冤罪キャンペーンを展開。12月、東京高裁・田中康郎裁判長は検察側・弁護側双方が推薦する鑑定人によるDNA型の再鑑定を認めた。ともに犯人由来と見られるDNA型とは一致しないとの結論を受け、高裁は刑執行の停止、菅家の釈放を命じたのである。再審では主にDNA型鑑定の信用性と自白について争われ、2010年3月26日、無罪が確定する。
宇都宮地裁で行われた再審公判では、弁護側推薦の鑑定人だった筑波大学・本田克也教授に証人尋問が行われ、犯人由来と見られるMCT118型を新たに特定し、科警研の鑑定が当時としてもいかに誤ったものであったかまで言及した。検察側は科警研所長・福島弘文氏を証人申請し、当時の方法としてMCT118型鑑定に誤りはなかったとし、旧鑑定を擁護する立場を示した。
2009年10月28日、弁護団は飯塚事件の再審請求を申し立てた。弁護団が争点として着目したのは「DNA型鑑定」と「八丁峠での目撃証言」だった。
きしくも飯塚事件の科警研鑑定も足利事件と同じMCT118型で行われ、担当技師も複数重複していた。弁護団は筑波大・本田教授に鑑定を依頼した。
本田鑑定では、科警研が犯人の血液型をB型とした解離試験に誤りを指摘し、AB型と見る方が矛盾がないとした。またHLADQα型についても誤りがあることを指摘している。
2012年10月、弁護団は科警研が鑑定に使用したネガフィルムの撮影を許可された。専門家による検証で裁判で証拠された写真はデータが加工されていると指摘され、弁護団は「改竄されている、もしくは捏造されていると解釈せざるを得ないのではないか」と糾弾した。
上の画像の左がネガフィルム、右が検察側が裁判で提出した犯人由来と見られる試料を鑑定した際の写真である。右の写真は不鮮明な中に赤色でマーキングが施してあり、久間の毛髪から出た「16-26型」で一致すると説明された。だが本田教授の見解では、ネガで見ても26型が出現しているとは到底言えないという。
光量や焼き付け時間を調整すれば、もっと鮮明化できたはずのところ科警研はなぜ不鮮明な暗い写真を使用したのか。他のエキストラバンドの存在を隠すために故意に不鮮明な画像を用いたとしか考えられない、というのが弁護団による主張である。
一枚のネガだけで判別することはできないが、左のネガから切り取られた「41-46型」に相当する部分にも反応らしきものが出ていると本田教授は指摘する。つまり久間とも被害者とも異なる「真犯人」の可能性があるデータを隠蔽したとの疑いも掛けられた。
科警研は切り取った部分はエキストラバンド(無関係な反応)なので切り取ったに過ぎず、複数回のチェックによってエラーと確認済みだとしてネガフィルムの改竄を否定している。
これに対し、弁護団側はエラーチェックで行われた複数回の実験結果の公開を求めたが、現存しないとして科警研から断られた。
2013年1月、弁護団は検察にDNA型鑑定の試料と実験データの開示を求めたが、すでにないとの回答だった。技官が退官したときに実験ノート等と共に処分したのではないかとしている。
試料の使い切り、データの未保存、ノートの処分…研究者から見れば再現性のない実験結果とも捉えられ、弁護側からすれば、久間が車を売却する際に行った清掃よりもはるかに周到な証拠隠滅と捉えられても致し方ない。
山方捜査一課長は、誤認逮捕を隠すために無理やり犯人をでっちあげようとする刑事はおらず、科警研にしても無実の人間を犯人に仕立ててやろうと捏造することなどありえないとしている。
前述の通り、足利事件と飯塚事件のMCT118型鑑定はほぼ同じ時期に、同じような顔ぶれの技官らの手により、大きな差のない技術水準で鑑定が行われたと言ってもよい。飯塚事件の鑑定試料は、足利事件や東電OL事件の試料などとは違い加害者の精液単体ではなく、今日の鑑定でも高度な技術を要する被害者との「混合体液」が試料とされた。
当時のMCT118型鑑定の技術水準ではたして「証拠」として挙げるにふさわしいものだったのであろうか。背景にはDNA型鑑定の実績を挙げて、全国の科捜研への技術導入を推進したいとする上層部の思惑があったとみられている。
弁護団は、失敗ともいえる実験結果を隠蔽するため、加工を重ね、実験データやノートを廃棄し、自らの実験の正当性を主張する義務さえ放棄したのではないかと指摘。「科学的に信頼される方法で行われたと認めるには疑いが残る」とされた足利事件の鑑定より劣悪な実験結果であり、証拠能力が認められる余地がないことは明白だとしている。
■T証言と厳島鑑定
当初の検察の主張から確定判決まで、3月初旬に八丁峠での目撃者がいたことが分かり、9日に詳細な見分調書が作成され、11日に久間の車両が目撃された特徴に一致することが判明したというストーリーラインがあった。
だが後に公開された捜査資料から、見分調書作成前の3月7日に捜査員が久間の車の特徴を下見し「ラインはなかった」と報告していたことが発覚する。マツダ・ボンゴは当時のCMでも車体にストライプの「ライン入り」が宣伝されていたが、標準仕様ではなくオプションのひとつである。
弁護団はこれを逆手にとって、T証言は捜査員が予め得ていた久間の車両の特徴に合致するように誘導して作成されたものと主張した。
森林組合に勤める女性から「その日に峠で不審な男を見た人がいる」との情報を得、捜査員は3月2日に初めて目撃者Tさんと接触。そのときTさんは「男が車を乗り降りしていた」「紺色のワゴン車を見た」と証言した。
9日には実況見分が行われ、峠道を3回上り下りして目撃地点を確認し、細かくは下のように詳述した。
1,車のナンバーは不明
2,標準タイプのワゴン車
3,メーカーはトヨタや日産ではない
4,やや古い型
5,車体は紺色
6,車体にラインは入っていなかった
7,後部タイヤはダブルタイヤ
8,後輪のホイルキャップの中に黒いラインがあった
9,窓ガラスは黒く車内が見えなかった
10,頭が禿げ上がっていた
11,髪は長めで分けていた
12,上着は毛糸
13,胸元はボタン式
14,薄茶色の
15,チョッキ
16,その下は白いカッターの長袖シャツ
17,年齢は30から40歳
18,右の雑木林から出てきて
19,慌てて前かがみになって滑った
Tさんは時速25~30キロで峠道を下り、第5カーブでワゴン車が目に入ってからすれ違うまで、その目撃はほんの数秒間の出来事である。車に特別詳しくなくても、自分と同じ車種や家族や知人が使用するものと同型車両などであれば印象に残るかもしれないが、証言中にそうした裏付けはない。
また2、4、5のような車両の外面的な印象であれば多くの人が瞬時に読み取ることは可能だが、当該車両は高級スポーツカーなどのように稀有な特徴を備えた車という訳でもない。Tさんは仕事柄、ワゴン車を目にすることは多かったかもしれないが単なる「紺色の古い型のワゴン車」のホイールキャップやラインの有無、後部タイヤまで注視し、何日も前のことを細かく記憶している人間がそうそういるものだろうか。
ほぼ同時に不審人物についても挙動だけでなく、はっきりと風貌まで捉えている。だが年代や頭髪などは久間と一致しているようには思われず、久間の所持品に該当しそうな衣服も発見されなかった。判決文では被告人に円形脱毛症があったことから禿げ上がっているように見えたと推察している。
弁護側はT証言の信ぴょう性を確認するため、控訴審の途中で日本大学心理学教室・厳島行雄教授に行動心理の実証実験を依頼。八丁峠・第5カーブで45人の被験者に類似した経験をしてもらい、1週間後に記憶の再現を行った。T証言のような詳述をできた者は一人もいなかった。しかし実験時期は季節が異なり、使用したのが同型車両ではなく擬似的な様態だったこと等から実験結果は信用できないとして控訴審では却下された。
再審請求に当たり、同型のマツダ・ボンゴ車を使用するなど条件をより合わせて、再検証・再鑑定を実施。同じく詳述できた被験者はいなかった。
鑑定では「事後情報効果」という概念で、捜査員から事後情報が与えられたことを示された。「車のボディにはセンターラインが入っていなかった」といった否定形での記憶は喚起するのが非常に困難な情報であるという。
当時の特捜班長・坂田政晴氏が実況見分を指揮して、死刑事件だから後になって再審で弁護士から突かれないよう注意を払い、矛盾が出ないよう何遍も現場検証を重ねて調書をつくったという。まるで未来から来た人の発言のようではあるが、再三再四、事細かく聴取を重ねたことは事実であろう。
捜査員による積極的な誘導工作があったかは定かではない。しかし久間の車両の特徴を知ったうえで聴き取りを行えば、「車体にラインは入っていたか」「あれば覚えているんじゃないか」「リアウィンドウはどうなっていたか」「何か張っていなかったか」といった照合作業が無意識にも進められた可能性は高い。
また「肯定的フィードバック」という概念でTさんの心理状態を説明している。「ここが遺留品の現場だ」と知らされれば誰しも事の重大性から事件解決に協力したいという意識化に置かれ、捜査員とのやり取りの中で僅かな反応にも忖度し、肯定的に引っ張られていくことはおかしなことではない。
善良な市民として捜査協力したTさんが偽証しているとは全く思わない。だが人間の記憶ほど曖昧なものもない。裁判ではTさんの証言に矛盾があっても記憶違いで認められ、久間や妻の証言に矛盾があれば否定される、ただそれだけのことである。
2014年3月、福岡地裁は再審請求を棄却。DNA型鑑定の証拠能力に「慎重な評価をすべき状況に至っている」ことは認めたが、「他方でこれが一致しないと認めることもできないのであり、両者の可能性がある」とし、他の重層的証拠から犯人性は揺るぎないとして、弁護側から提出された証拠の明白性を認めなかった。
検察側は、3月7日の久間の車両確認の前にも、4日にTさんに聴取を行っていたとする報告書を提出。車両の特徴として「後輪がダブルタイヤだった」との証言が4日時点で得られていた、つまり少なくともダブルタイヤについては捜査員の影響とは考えにくいとする内容で、弁護団の主張を部分的に崩した。
そもそも捜査資料や証拠が全て開示されないことで、弁護側は余計な開示請求手続きをする必要に迫られ、検察の「後出しじゃんけん」との戦いを強いられているのである。
■現在地
免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件、これまでに4つの事件で死刑確定からの再審無罪があった。判決を変更すべき明らかな証拠が新たに発見されたと認められ、再審が開始されれば無罪になる公算は大きい。だが筆者は飯塚事件に関しては再審が開始されることはないと考えている。執行死刑囚の判決文を後から書き換えるということは死刑制度の根幹を揺るがす問題だからである。
昭和23年3月12日の最高裁大法廷判決など、死刑は残虐刑には当たらない合法的・合憲な処罰とされ、今日も遺族感情やいかなる厳罰も生命には代えがたいとする社会倫理などから死刑容認が国民の80%を占めると言われている。再審開始決定を出せば組織からつまはじかれ、80%の民意が牙をむき、裁判官は法廷を下りることを余儀なくされる。
久間の犯人性について、決定的証拠はないと弁護団は言う。だが久間を無実と立証しうる証拠も揃ってはいない。筆者の心象としては久間が限りなく「グレー」ではあるが、不適切な捜査で久間と敵対し、家族を持ち出して「貝」にさせてしまったのは警察の失策である。事件の真相解明を困難にしたと言わざるを得ず、状況証拠の積み上げによる判決に対して執行は拙速の感も否めない。「疑わしい」を積み重ねれば死刑は執行してよいものなのか、再審議論の余地は本当になかったのか。
執行までの過程について、法務省はDNA型鑑定の問題も当然把握していた、議論が飛び火する前に執行したと捉えるのが自然ではないだろうか。ブラックボックスは開示されず、さりとて刑事局の検事たちが自然発生的に執行への順位を早めることができたとは思わない。問題は、DNA型鑑定の全国への普及を推進した警察庁長官ら、上層部の後押しがあったのか否かである。
NHK『正義の行方 飯塚事件 30年後の迷宮』では、2017年から行われた西日本新聞での検証報道についても伝えている。
編集局長になった傍示文昭はかねてから払拭できなかった冤罪の疑念に決着をつける思いで飯塚事件の特集を決定。「重要参考人浮かぶ」と報じた彼らにとって、久間の逮捕、刑の確定、再審の棄却に「一種の安堵感」を覚えつつも、久間犯人説のとっかかりとなった重要な柱「DNA型鑑定」がひっくり返されたことは大きな衝撃であり心のつかえともなっていた。
これまで飯塚事件・裁判報道に携わってこなかった先入観をもたない中島邦之、中原興平記者が抜擢され、ゼロベースからの再検証が続けられた。
二児の最終目撃地点・潤野の三叉路では、紺色のワゴン車が目撃されており、久間の車の特徴をはっきりと捉えていたが、証言は5か月後の7月30日とかなり時間が経過してから得られたものだった。疑念を抱いた中島らは1年以上かけて証言者を探し求め、中国地方に移住したことを突き止め話を聞くことができた。目撃者は「以前にその車の購入を考えていた」ためはっきりと覚えていたと語り、その様子に不審な点はなかった。
県警からDNA型鑑定を依頼された帝京大・石山昱夫(いくお)教授のDNA型鑑定についても疑念が浮かんだ。石山教授が94年1月に出した鑑定結果は、試料から久間のDNA型と合致するものは検出されず、第三者の型が検出されたというもの。しかしその後、依頼された試料が微量だったことなどを理由に「正確な鑑定ができなかった可能性がある」と主張を変えていた。
石山教授は一審の中(97年3月5日)で、警察庁幹部から「捜査の妨害になる」と口止めがあった可能性を示唆していた。教授への取材では、幹部から「先生の鑑定が出ると困る」とサジェスチョンを受けていたことを認めた。
事件発生当時、警察庁刑事局長でDNA型鑑定による捜査を全国に導入させる推進役を担い、94年から警察庁長官を務めた國松孝次(たかじ)氏がその人であった。飯塚事件を犯人逮捕の手前で足踏みさせ、科警研のDNA型鑑定結果を否定したとなれば面白く思わないのも当然である。
國松元長官は取材に対し、DNA型鑑定の権威・石山教授にレクチャーを受けに行ったが非公式な訪問で記録もないとし、当時頭にあった飯塚事件についても話したかもしれないと濁したが、「教授に圧力をかけた」との見方については繰り返し否定した。
検証報道の連載は2年間で延べ83回に及んだが19年6月にひとまず終了した。
2021年7月、弁護団は第2次再審請求の申し立てを行い、「二児を乗せた白い車」の新証言を提出した。
行方不明となった2月20日11時頃、遺留品発見現場から約15キロ離れた国道で白いワンボックスタイプの軽自動車を追い抜いた際、後部座席にランドセル姿の女児2人を見たというもの。目撃者は20日夜に行方不明の報を聞き、21日朝に110番通報したが、警察が聴取に来たのは一週間後だったという。
弁護側は新証拠を元に当時の捜査状況の開示などを求める方針。
難路であった八丁峠は、2019年(令和元年)に国道322号バイパス「八丁トンネル」が開通している。再審に向けた新ルートはもはや「真犯人」を見つける以外に残されていないのかもしれない。
被害者のご冥福をお祈りいたします。
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2024年2月15日、第2次再審請求に向けた裁判所、検察、弁護団による非公開の三者協議が行われた。福岡地裁は4月以降に再審を認めるか否かの決定を下す見通し。
弁護団は、確定判決で通学途中の二児を最後に見たとされる女性の証人尋問が行われたことを明らかにした。女性によれば、失踪日とは別の日に二児を目撃したと説明していたが、捜査機関の誘導・押し付けにより記憶に反する調書が作成された、と主張した。事実とすれば、「2月20日8時30分過ぎ」とされる犯行時刻、「三叉路付近」とされる犯行場所の前提が崩れることになる。女性は「自らの証言が影響して死刑になったのではと責任を感じていた」と証言の訂正を訴え出た理由を述べたという。
検察側は女性の新証言を信用に足りないとしている。