2023年8月23日、茨城県利根町で起きた強盗殺人いわゆる布川事件で無期懲役からの再審無罪となった桜井昌司さんが76歳で亡くなった。事件から再審無罪まで40年以上を戦い、無罪確定後も再審制度の改正などを訴えて冤罪被害者の支援活動を続けていた。
本稿では事件の概要、裁判の争点などを振り返る。
事件の概要
1967年(昭和42年)8月30日、茨城県北相馬郡利根町布川で一人暮らしの大工・玉村象天(しょうてん)さん(62歳)が自宅8畳間で殺害され、現金を奪われる事件が起きた。
朝、仕事の依頼に訪れた住民が戸外から声を掛けたが、庭に自転車が残っているのに応答がないため不審に思い、僅かに開いていた勝手口から中を窺う。すると部屋の押し入れ近くの床が裂けており、窪みで息絶えている男性を発見した。
室内には争ったり物色されたりしたような形跡があり、死体検視の段階で取手署は強盗殺人と断定する。
被害者男性は両足をタオルとワイシャツで縛られ、首にはパンツが巻きつけられたうえ、口にも別のパンツが押し込まれていた。死因は絞殺による窒息死、死亡推定時刻は28日夜の19時から23時頃と推認された。
現場状況として、自宅玄関と窓は施錠されていたが、勝手口が僅かに開いたままになっていたほか、便所の窓が開いており木製の桟が2本外されて外に落ちていた。8畳間と4畳間の蛍光灯はともに点いたままで、両部屋はガラスの引き戸で区切ることができたが2枚とも4畳間側に倒れ、割れたガラスが散乱していた。机や箪笥の引き出し、ロッカーなどに明らかな物色の痕跡が見て取れた。
また男性が普段使用していた白い財布は発見されず、個人で金貸しを行っていたとの噂もあったことから現金や借用書が盗まれた可能性も考えられた。だが被害者が独り身だったこともあり、被害額や盗品被害などははっきりとしなかった。室内から指紋43点が採取されたが、照合できたのは本人や出入りの銀行行員のものだけであった。
近隣との付き合いが日頃なかった玉村さんに関する聞き込みは困難を要したが、8月28日の夕方に吉岡宅での大工仕事を終え、その夜19時から19時半ごろに米元方に工事代金の取り立てに立ち寄っていたことが判明する。
さらに近くの栄橋や被害者宅の前で「2人連れの男」の目撃情報が浮上する。一人は被害者宅の上がりはな(土間から座敷などに上がる場所)に立ち、もう一人は壁の方にいたとされる。警察はこの「2人連れの男」が犯人との見立てで捜査を進めた。
だが犯人をだれか同定できる目撃情報はなく、直接犯人につながる物証も出てこなかった。県警は利根町、布佐町、竜ケ崎市など近郊の前科者、素行不良者、被害者から金を借りていた人物などを片っ端からふるいにかけていった。総勢180名近くが捜査対象として取り調べを受けたが、事件から約1か月後には捜査は行き詰まりを見せた。
容疑者逮捕
10月10日、素行不良者として捜査線上に名前の挙がっていた桜井昌司(敬称略。当時20歳)がズボンとベルトの窃盗で逮捕される。16日には、知人を殴った暴力行為等の容疑で杉山卓男(たかお・敬称略。当時21歳)が逮捕される。2人はそれぞれ逮捕容疑については早々に認めたが、その後の勾留期間を強盗殺人の取調に充てられた。食事も睡眠もまともに与えられない代用監獄での違法取調べである。
両人は地元竜ヶ崎一高の出で(桜井は家の事情で中退、杉山は無免許運転で退学)、ともに不定職、旧知の間柄であったが、杉山はむしろ桜井の兄の方と親しかった。当時の杉山は喧嘩や恐喝は日常茶飯事で、桜井も殴られたことがあり、彼を別格な乱暴者とみなしていた。
アリバイを追及された桜井は40日前の行動を具に記憶しておらず、「東京・中野にある兄貴の家に泊ったと思う」と述べた。しかし取調官の早瀬四郎警部補は、「兄貴は、来ていないと言っている」とアリバイを否定し、「現場でお前と杉山の姿を見た者がいる」と畳み掛けた。
まさか警察が嘘を言うとは思いもよらない桜井は混乱し、杉山が自分に似た誰かと犯行に及んだものと考えるようになった。事実として28日には桜井と杉山は桜井の兄の家に居り、アリバイがあった旨を兄は証言していた。しかし両人には警察の嘘を確認する手立てもない中、もうひとりが自分を陥れようとしているのではないかと疑心暗鬼に陥っていった。
早瀬刑事は桜井に「お前の母ちゃんも、やってしまったことは仕方がない、早く本当のことを言え、と言っている」と囁き、桜井は唯一の味方と信じていた母親さえ自分を信用していないと知って絶望の淵に立たされた。「噓発見器」(ポリグラフ検査)であれば裏表なく無実を晴らしてくれるものと一縷の望みをかけて検査に臨んだが、早瀬刑事は「残念だったな、お前の言うことはみんな嘘と出た」と告げ、桜井はその言葉に心が折れた。
10月15日、桜井は自白供述を開始する。取調べの苦痛に耐えきれず、親からも見放されたと思い込み、「捨て鉢な気持ち」になっていたと後に当時の心境を振り返っている。
桜井の供述から翌16日に杉山も別件の暴行容疑で逮捕される。取調官久保木輝雄警部補は桜井の自白調書を片手に「お前がやらないと言っても無駄だ」「桜井はお前とやったと言いながら、泣いて謝っている」と強盗殺人の自白を迫った。
杉山も桜井の兄の家にいたと主張したが、「泊めたのは8月中頃までだった、と言っている」として桜井の兄の調書の写しを見せられた。杉山はそれを見て、事件の真犯人は桜井兄弟で、捕まった弟が兄を助けるために自分を相棒だとでっちあげて道連れにしようとしているのではないかと考えた。
久保木刑事は「お前を見ている者は20人も30人もいる」と虚偽の目撃証拠を突きつけ、殺人をいつまでも認めないで死刑になった者もいる、泣いて謝ったら懲役5年で済んだ者もいる、認めなければいつまででも調べを続けると迫り、杉山の抵抗心を削いでいった。
また杉山自身、19歳の頃に暴力沙汰で検挙された経験があり、警察の対応というものを心得ていた。そのとき目撃者が誤認して無実の少年まで捕まり、杉山は「あいつは無関係だ」と主張したが警察は全く聞き入れず、少年も巻き添えになって罰を受けた。事実がどうあろうと、取調官が一度クロと決めてかかったら何を言っても覆らないという認識があった。
もはや真実を明るみにするためには取り調べを長引かせずに、むしろ公判の場で桜井と直接対峙して決着した方がよいとの考えに至り、その場しのぎで自白することを決意する。
現場から検出した指紋から2人のものは一切検出されなかった。両人は体験していないことを事実のように述べる「虚偽の自白」をせねばならなかった。取調では2人が「正解」にたどり着くまで取調官が同じ質問を延々と繰り返して誘導したり、室内状況を示す前には現場検証した図面をみせたりといった捜査側の「協力」が不可欠だった。
両者の食いちがいや多数の変遷がおざなりとされた杜撰な「自白調書」がそれらしいかたちになると、10月23日、両人は強盗殺人の容疑で再逮捕された。11月に土浦拘置所へ移管された桜井は、取手署に比べると拘置所は天国である、と日記に綴っており署内での取調べがどれほど過酷を極めたかを物語る。
彼らに耳を貸さない警察から検察による調べに切り替わったことで、2人は容疑否認に転じ、担当の有本芳之祐検事もその訴えに否認調書を作成した。11月13日、強盗殺人では処分保留の釈放となった。
ところが同日、新たな別件容疑で起訴されるとその勾留期間を利用して、12月1日、桜井は取手署に戻され、杉山は土浦警察へと再移管されてしまう。当局にとっても法の網を縫った奥の手ともいうべき姑息なやりかたであった。有本検事が担当を外れ、吉田賢治検事に交替すると、再び連日連夜の自白強要が繰り返された。杉山に至っては片手錠に腰縄付きで調べが行われた。
なぜか現場での「引き当たり」はされなかった。捜査当局からすればヘマを踏むリスクがあったからではないか、と後に両人は振り返っている。
絞りに絞られ続けた2人の脳裏には、否認を貫いて死刑になるか、虚偽自白で死刑を免れるか、の2択しか存在しないように思われ、極刑への恐怖から再自白に墜ち、2人は1967年(昭和42年)12月28日、強盗殺人罪で起訴されるに至った。
裁判
杉山は私選で弁護人を立てたが、介入したのはすでに強盗殺人の調べが全て終わった11月。桜井は金の都合が付かず国選弁護人を立てたが、最初の接見は公判の一週間前だった。
1968年(昭和43年)2月15日、水戸地裁土浦支部で第1回公判が行われた。
公訴事実を要約すれば、競輪で金に事欠いていた桜井・杉山の両被告人は、8月28日19時20分頃に栄橋の袂で落ち合い、金策について論ずるに、桜井の知人であった玉村氏より借金しようと考えた。申し入れを断られて一旦は引き返したが、諦めきれずに勝手口から上がり込み、玉村氏と口論となった。21時頃、2人は共謀して殺してでも金を奪おうと決意し、玉村氏を拘束し、頸部に布を巻いてその上から両手で扼殺。押し入れ等から現金合計10万7千円を強取した、というものであった。
検察側は冒頭陳述で、2人が我孫子駅で出会った後、列車で別れて布佐駅で下車後、栄橋の袂でまた出会ったこと、殺害後に現金を手にすると他人の犯行と見せかけるためにガラス戸を倒したり、便所の窓の桟を外すといった工作を仕掛けたこと、2人は列車で東京へと逃走し、車中で杉山は4万円を桜井に与え、翌日には取手競輪場で使い果たしたことなどを追加した。
両被告人は公訴事実を全面的に否認。
証人尋問として、栄橋の石段付近、我孫子駅・布佐駅、被害者方周辺での目撃者、翌日取手競輪場での目撃者らが集められたが、日時が判然としない証言も多かった。警察の取調で作成されたはずの員面・検察官の取調で作成される検面調書や捜査報告書は再審に至るまで開示されず、弁護側は、事件当夜の目撃は識別が困難だったとし、目撃が別の日付だとして対抗した。
約半年後に出廷したクリーニング業を営む渡辺昭一証人は、事件当夜の19時半頃にバイクで被害者宅前を通り過ぎる際に2人の姿を見ており、21時少し前の帰宅途中にも被害者宅から100メートル程離れた酒店前でも目撃したと証言した。帰途には鶏を絞めるような声(悲鳴?)まで耳にしたという。偶然にも犯行前後と思しき2人を見たという証言が事件の1年後に現れたのである。
証人は事件直後の聞き込みでは現場前を通った旨を話していたが、人を見かけたとは証言していなかった。後になって、被告人の自白撤回を知り、事実を話さなければと思い直して証言台に立ったと述べた。
また弁護側は警察で自白の強要があり、不当逮捕・取調によって得られた自白に証拠能力はないとして、その任意性と信用性を争った。
たとえば被害者が使用していた「白い財布」について、10月15日の供述調書では「(被害者宅を出た後)土手に上がる途中で杉山が手に持っていた財布を見せました」「つり橋の二つ目の真ん中あたりで杉山が下流の方に向かって川に投げ込んでしまいました」と語られていたが、31日の供述では「玉村さんの尻の左ポケットから抜き取って自分のポケットに入れた」「こんなものをもっていては証拠になると思い、栄橋を渡るときに橋の左側から下流にめがけて投げ込んでしまいました」と変遷した。金目当てで押し入ったにもかかわらず肝心の財布の強取さえはっきり供述できなかったのである。
また侵入から殺害に至る場面の供述であっても、さも室内に押し入ったかのように細かく供述されているが、実際の現場状況と照らし合わせれば、戸棚で遮られて普段は開閉されていなかった側のガラス戸を開けたことになっていたり、見えるはずのない場所から奥の8畳間に被害者の姿を見つけたり、と矛盾は明らかであった。だが裁判官は独自の「道理」に沿って、なぜ前の供述と内容が違うのかと2人の自白が変遷するようすに疑いを向けながら、虚偽の自白によることを一考だにしなかった。
検察側は強制・拷問・脅迫・利益誘導はなかったとして、2人の供述の録音テープを証拠提出した。前述のように2人は警察取調べにおいて2度の自白をしており、自白テープも2度作成されたが、証拠とされたのは「再自白」のテープだけでもう一本は不見当とされた。
当時、2人とも端から弁護士と共に無罪を勝ち取るというような体制は構築できておらず、双方の弁護人にもコミュニケーションはなく、事件の真相さえ関心がない様子だったという。審理も細かな証拠請求や厳しい反証はなく、為されるがままに検察主導で進んでいった。それでも2人はでたらめな自白で物証もなく、目撃証言だってはっきりしない中、犯してもいない罪で有罪になる訳がないと信じていた。
1970年10月6日、水戸地裁土浦支部・藤岡学裁判長は、「捜査未了の段階での移管そのものは違法ということはできない」とし、両者の自白は齟齬も見られるが互いに補完する部分もあり信用性は高いと判断。犯行時刻を21時頃として公訴事実と冒頭陳述通りの事実を認め、刑責は重大ながら殺害行為は偶発的な点を考慮して、両被告に無期懲役を言い渡した。
1973年12月20日、東京高裁・吉田信孝裁判長は控訴を棄却。
被告らは控訴趣意として、目撃証言の不確実性や信用性の低さ、被告人と犯行とを結びつける物証のなさ、不適法に得られた虚偽の自白であることなどから、強盗殺人についての証拠は不十分だと訴えた。新たな弁護人は多くの証拠開示を請求したが、裁判所はそれに消極的で、検察側も開示を拒否した。
検証により目撃証言のなかには識別不能な点も認められた。しかし証言を全面的に採用することはできないものの「往路での識別は可能であった」と認定され、日付についても「列車事故の翌日」という体験に基づく記憶に疑いをさしはさむ余地はないとして自白にある行動を裏付ける補強証拠とされた。
高裁は、物証がないとはいえ2人の犯行を否定することはできないと判断。また取り調べは手続き上の瑕疵はなく、本件自白は別件による拘束中に為されたがそれを以て直ちに違法な自白とは言えない、として取調官ら捜査側を擁護。
自白内容に変遷や食いちがいはあるものの、通観するとロッカーから約7千円、押し入れから約10万円を取り、杉山が桜井に4万円を渡したものであるところは動かしがたい。アリバイ供述にも食いちがいや曖昧な点が多く、起訴前に外部と連絡を取ってアリバイ工作をする余地もなくはなかったなど強引なアリバイ崩しが為され、有罪ありきの予断が見え隠れする偏った審理・判決であった。
両被告は、自白に追い込まれていった心境や二人三脚ともいうべき自白形成の過程、事件前後と当日の行動、取調官や目撃者の弾劾と原判決への痛烈な批判を加えた上告趣意書を提出した。
二審で杉山の弁護を務めた柴田五郎弁護士は長期化を見据え、冤罪との見方を世に問い、1976年、劇作家・村山知義氏を代表世話人として「布川事件櫻井昌司さん・杉山卓男さんを守る会」が設立された。手弁当が当たり前だった弁護活動において、専門分野ごとの新たな弁護人を擁立したり、鑑定や実証実験を賄う資力は大きな負担となる。柴田弁護士は、守る会などから提供されたカンパを基にファンドを立ち上げ、その後の弁護活動、再審支援の支えとなった。
都立大・清水誠教授、東北大・小田中聰樹教授らはそれまでの公判の問題点を厳しく糾弾する論文を発表し、多数の法学者が最高裁に慎重な審理を期するよう批判を表明した。
だが1978年7月3日、最高裁は上告を棄却。2人は千葉刑務所で服役を開始した。
再審とその後
最高裁までには無実が晴らされると信じていた2人であったが、ここで断念することなく雪冤を誓った。気の短い杉山は意気消沈しながらも、なぜこんな目に遭うのかと度々憤慨し、7度も懲罰房への出入りを繰り返したという。お金の続く限り拘置所から手紙を出し続け、事件や逮捕のあらまし、自白強要の実態などを綴って無実を訴え、支援を求めた。
奮起した杉山は獄中で法律や冤罪事件の学習をしていたが、元監察医・上野正彦氏の『死体は語る』を読みながら本件の判決に違和感を抱いた。判決文では手で首を絞めて窒息死させた「扼殺」と認定されていたが、弁護団を介して死体検案書を確認してみると、扼殺を示す痕跡ではなく三本の帯状の絞殺痕と思われた。なぜかそれまで議論されてこなかったが、殺害方法まで違うとなれば「自白」の信用性は根底から覆される。弁護団は改めて死亡状況の再鑑定を依頼することとなる。
日弁連の人権擁護委員会で再審支援が決まり、1983年12月に第一次再審請求が開始された。だが92年9月に最高裁が特別抗告を棄却して終審。
事件から29年後の1996年11月、2人は仮釈放が認められる。支援団体「守る会」と共にその後も第2次再審請求の準備にかかり、各地で支援を呼び掛けた。
2002年10月、長年「不見当」とされてきた逮捕の一週間後に録られた自白テープが証拠開示される。テープの中で刑事は時刻を何度か吹き込んでいたが、実際に計測してみると本来より17分短い、つまり編集が施されていることが分かった。
さらに犯行当夜に現場を自転車で通りがかった女性は杉山と旧知で、被害者宅の前で腕組した男と目を合わせたが、顔も体格も杉山さんではなかったと断言した。
現場遺留品であった頭髪の鑑定が実施され、被害者とも被告人とも異なる第三者の頭髪5本の存在が確認された。
2003年以降、当時の捜査報告書や検面調書が開示されると、それまでの警察・検察側の主張と大きく異なる内容が次々と判明した。
水戸地裁への申し立てが認められ、2005年9月21日に再審開始が決定した。
検察側は即時抗告、特別抗告で再審開始決定に異議を唱えたが、2009年12月15日、最高裁・竹内行夫裁判長は検察側の特別抗告を棄却し、遂に再審開始が確定する。
審理の終盤には東日本大震災の影響を受けながらも、2011年5月24日、水戸地裁土浦支部・神田大助裁判長は強盗殺人罪について無罪、別件の窃盗や暴行罪について懲役2年執行猶予3年(執行済み)の判決を下した。
検察側は新たな立証は困難と判断し、控訴を断念。6月7日、無罪判決が確定した。逮捕から無罪確定までかかった44年は戦後事件としては最長であった。
プライベートでは仮釈放中に共に伴侶を得ており、先に結婚して子どもを授かった杉山は「いやぁ、いいものだぞ。人生バラ色だ」と桜井に自慢していたという。役人だった父親を早くに亡くし、教員をしながら育ててくれた母親にも事件前に先立たれていた杉山には、家族団らんに対する憧れが強かったにちがいない。再審決定より前に両親を亡くした桜井も、相手方の両親からの反対を押し切って結婚した。世間の風当たりは相当厳しいものだったと思われるが、絶対の無実を確信する家族を築けたことは2人のその後の人生を支えた。
かつて不良者だった2人は、支援者たちが塀の外から一方的に抱いていた理想像と現実とのギャップに苦しめられたとも言い、就職がなかなか決まらずに頭を抱える時期もあった。布川に戻った桜井は祭りやカラオケの集まりなどには進んで参加したが、地元の人間もあえて事件については触れてこない“アンタッチャブル”なのだと語っている。
国は裁判費用のほか、刑事補償として両人に1億3千万円の支払いを決定した。
2012年3月、桜井は刑事補償とは別に、冤罪の責任追及のため、国と県を相手取る国家賠償請求訴訟を東京地裁で起こした。また自身の裁判と並行して、冤罪が取り沙汰された当事者たちとも連絡を取り、支援活動のために全国を周った。
一方の杉山は「妻や息子と過ごす時間を犠牲にしてまでいつ終わるとも知れない長い裁判を戦う気持ちにはなれない」として訴えを起こさなかった。2015年10月27日、杉山卓男は家族に囲まれ、69歳でその生涯を閉じた。
2021年9月13日、賠償訴訟で国と県は上告を諦め、桜井への計約7400万円の支払いを命じた二審・東京高裁判決が確定した。一審・東京地裁では、警察の取り調べや証拠の不開示などについて違法と判断されていた。
桜井は「やっと解放され、ほっとしている」と心境を語り、「冤罪で苦しむ人が救われるような法改正に全力を尽くしたい」と述べ、取り調べの可視化、証拠開示の制度化などの推進を最期まで訴えた。
彼らを「雪冤のヒーロー」と軽々しく持ち上げるつもりはないが、無罪確定後の対照的にも見える生き様の念頭には第一に家族があったように思う。
両人のご冥福をお祈りいたします。
参照
ざ・布川事件 資料集
https://web.archive.org/web/20211023171424/http://www.fureai.or.jp/~takuo/fukawajiken/shiryou.htm
布川事件国賠訴訟・警察と検察の違法行為が冤罪を招いたと認める判決(江川紹子) - エキスパート - Yahoo!ニュース
https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/committee/list/data/fukawajiken.pdf