いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

津田塾女装替え玉受験事件

津田塾は日本初の女子留学生・津田梅子が1900年に麹町で開いた女子英学塾を前身とする名門私立女子大学である。

幼くして米国の価値観の中で育ち、フィラデルフィアにあるブリンマー大学で生物学の功績を修めた梅子は、帰国後、日本の女子教育のあり方に疑問を強めた。明治の女子教育といえば、高貴な華族子女を対象とし、イエ制度の影響の強い家政学が主であり、男子が修める高等教育とは質の異なるものだった。

梅子は婦女子も同等の高等学問を積んで力を発揮し、男子と切磋琢磨し合うことこそ自立への道につながるとの信念を掲げ、華族・平民の別なき新たな女子教育を推進した。

 

1970年代半ば、国は高度経済成長をひた走りながらも富の分配は追いついておらず、都市ではライフスタイルの転換は起きていたが、庶民の暮らし全体として見れば大きく好転してはいなかった。

団塊世代流入や女子進学率の向上もあり進学希望者は増加していたが、裕福とはいえない家庭では断念する者が多かった。大学進学率はおよそ2割、受験競争は過酷を極めていた。一方で詰め込み教育への批判も高まり、日本教職組合は学校週5日制(週休2日制)導入を提起し、教育政策の見直しを求めたのも同時期(1972年)のことである。

その当時、津田塾は「女子の東大」とも称され、私学でも早稲田・慶應に並ぶ高い人気を誇り、優秀な女子たちが入学試験でしのぎを削った。

 

事件の発生

1975年(昭和50年)2月14日、東京都小平市に拠点を置く津田塾大学であってはならない事件が発覚する。

 

13日の入学試験終了後のこと、受験生のひとりから大学の試験官に申告があった。

あの人、男の人ではないかしら

見れば、白いタートルネックのセーターに赤茶色のパンタロン、縞柄の七分コート、身の丈165センチほどのその受験生は周りの18、19歳の女子たちに比べて大層老け込んでおり、強い違和感があった。

試験官が近づいて横目に見ると、手は妙に骨ばって、顔にひげ剃り跡のようなものもあった。

だが受験票の証明写真はその受験生の顔立ちと同一であることから、大学当局としても対応は慎重にならざるをえない。

調べてみれば出身は東海地方の名門高校。不審に思った大学側は連絡を取ってみたが、高校の教頭は「受験勉強の疲れが出ているのではないか」などと首をかしげるばかりで電話では埒が明かない。

出願状況を確認してみると、その受験生は翌日の別学科の試験も受けることが分かった。

14日、大学職員が件の受験生と同じ高校出身の受験者2人をつかまえて受験写真を見せると、2人は名前の学生と写真の人は“絶対に別人”だと断言する。

試験終了後、“別人”とされた受験者は会場に居残るように指示された。

職員が「あなたは〇〇さんですか」と尋ねると、受験者は「ハイ、そうです」と女っぽい裏声で答えた。

続いて生年月日を問われると、あっさり観念し、別人による“替え玉”で受験したことを白状した。

「一体あなたはどなたなんですか」

父親です

女装男は取り乱した様子もなく「なにとぞご内聞に」と平身低頭、替え玉行為を謝罪したという。

彼はまもなく50歳になろうかという年齢で、当時は娘の通う高校の英語教師をしていたが、事件発覚により勤め先に辞表を提出。娘は卒業保留となった。当の試験の方は、合格水準以上の出来栄えだったとされるが、もちろん違反行為により失格である。

 

3人の娘をもつ作家の井上ひさし氏は替え玉事件の話を聞いて「すばらしい話です」「涙なくしては聞けない心温まる話」と絶賛。推理作家・小林久三氏は「異様だとは思いません」「切実感がありますねえ。自分が代わりに受けられたら、ってだれでも一度は思いますからね」と父親の行動に理解を示した。

「父親必読」「女装替え玉受験に見る悲しき父性愛の訴えるもの」と冠して、週刊朝日では両人へのインタビュー等と共に、我が子のためを思って身を挺した父親をだれも笑うことはできないとの論調で誌面を展開。世の父親たちの共感を呼んだ。

 

疑問

『戦後ニッポン犯罪史』を著した在野史家・礫川全次氏は、古来から好まれる女装文化に触れ、この替え玉受験をした「父親は女装という手段を思いつき、実行した。娘を含め、家族もそれを知っていてあえて制止しなかったのである」と記述している。

筆者は週刊朝日記事しか確認できてないが、家族が父親の女装替え玉受験を知っていたとの内容は出てこない。

礫川氏の持論としてそう記したのか、家族との合意形成があった根拠となる情報が他で報道されていたのか、不見識ゆえ分からない。

 

娘は校内でも成績はトップクラスで、実力的に「間違いなく合格できたはず」と評価されており、父親による替え玉受験という無謀に関係者は首をひねったとされる。

もちろん教員という立場からも父親の主導と思われ、本人が実行した訳だが、はたして妻や娘らは共犯関係だったのかというと筆者は疑問に思う。

 

成城大・石川弘義助教授(社会心理学)は替え玉受験した父親について、子の心配で居ても立っても居られなくなる親心には一定の理解を示したうえで、「しかし、これ、本当は女親の心理ですね」と指摘する。

「仮にこの替え玉作戦が成功しても、父の権威を確立するわけにはいかなかったでしょう。母親が二人できたようなものでね。だから単純な『娘かわいや』ではないかもしれません。擬似近親相姦というか、ほら、嫁に行く娘を殺してしまう。あんな感じ…」

 

フロイトエディプス・コンプレックス概念では、男児は父親に対して潜在的な敵意「父親を殺して母親を独占したい」という願望をもつとされる。それゆえ父親が息子に示す愛情は、息子が社会的にもつ意味により、父親はその自己中心的な期待を満たすかぎりにおいて息子を愛するという条件付きの愛情だと理解される。裏を返せば、息子の出来が悪ければ我が子と認められないのが父親なのだ。それに対して母性愛は生物学的必然として我が子に対して無条件に捧げられると解されている。

つまり石川助教授は、父親がその枠組みを超えて娘への無条件の愛を発露させて、女装替え玉受験した、だから家父長制として見ればNGだよね、という見方である。社会評論としては現象に対するひとつの見解として誤りではないように思えるが、はたしてそれが真実だろうか。

続く「擬似近親相姦」「嫁に行く娘を殺してしまう」の意味するところも、おそらくはクリアするであろう名門大学受験によって娘に「父親殺し」が為されることを恐怖し、自立させずにおくためにその可能性を排除することを意味している。父親が娘の替え玉となることで、彼女の自立を妨げたという結果につながる。

 

事件からおよそ半世紀が経とうとしている。

今日ではテレビを点ければ、LGBTQを自認する人々や異性装愛好者らを見ない日はない。1975年であれば十把一絡げにオカマだオトコオンナだと揶揄されたであろう。非当事者における好き嫌いの程度や支持不支持について宗教・政治上の立場の違いこそあれ、そうした自認、志向、表現をもつ人々の存在や男/女の二極で割り切ることのできない性的グラデーションについては理解が進んできている。

2023年7月に起きた北海道ススキノ首切り事件では、被害者男性が女装愛好家だったことでも大きな注目を集めた。男性は妻帯者で、普段は周りの同僚たちと同じく男性装で勤務しながら、週末になると女装姿でクラブやバーに足を運んで夜な夜なガールハントに精を出し、旅先では出会った人々に女装を勧めていたと報じられている。家族がどう感じていたのかは不明だが、彼個人としては男性として生活しながら女装趣味と奔放な異性愛を両立していた訳だ。

 

検討

家父長制も形骸化し、そうした新たな人間観や家族観が次々と再発見されていく中で、本事件について見直しを試みたい。

父親は「子殺し」をしたかったのではなく、別の自分を生きようとしていたのではないかという検討である。

 

父親は海軍経理学校の出身で、おそらくは18、19歳頃の在学中に終戦を迎えた。

経理学校は兵学校や機関学校より少数で、大戦中は採用数も増加したが海経36期(1943年12月入校)は約250名、海経37期(1944年10月入校)は約500名とされる。全国の旧制中学から集められた英才たちは海軍生徒として少尉候補生へと養成された。

彼も秀才だったにちがいないが、海軍出仕の道は断たれ、戦後に通信教育で教諭資格を取得した。経済事情や生家の家庭状況などは分からないが、子どもの頃から「御国のため」と日々学問に勤しみながら、はたしてその夢は叶わぬものとなった。少年時代の同窓には戦場に散った者もあったはずであり、戦地にも行かず生き延びたことで「エリート」としてある種の恥辱や挫折を味わった世代、戦争が生み落とした苦学生とも言えるだろう。

       ( --以下、筆者の妄想となる-- )

教諭という安定した職にありつき、家庭を築いて子どもも育った。受験戦争や高校紛争といった騒動に繰り返し頭を抱えながらも、そうではなかったはずの自分がいつも心の何処かに棲みついて彼のアイデンティティを蝕んだ。

時代は変わったと自分に言い聞かせ、生徒たちの進路を後押ししてやるのが教師の務め、娘にも英才教育して大学まで面倒を見るのが親の務めだと信じてきた。

(しかし、俺はどうだ。)

娘の自立を前に、ふと立ち止まって考えたとき父親は娘に憧れ、激しく嫉妬していることに気づいた。

自分も女であれば、こんな苦悩に煩わされることなく仕事や結婚を受け入れること、人生を正面から受けとめることができたのかもしれない。

 

津田塾に実力で合格できるほど成績優秀な娘であれば、第一志望は国立大だった可能性も充分ある。父親が娘や高校の正規ルートを介さず、教諭の立場を利用して秘密裡に津田塾への入試を企てた可能性はなかったのだろうか。

他の共学の難関私大ではなく、彼が選んだのは名門女子大への替え玉受験だった。

それは単なるリスクや一か八かの賭けではなく、むしろ彼にとって転生するために必要な通過儀礼だったのではないかと思えてならない。

父親は娘のために無謀なトライアルに臨んだのではなく、彼自身のための、過去の自分との訣別を意図していたというのが筆者の推論である。