いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

秋田連続児童殺害事件

今も昔も児童虐待は後を絶たないが、本件加害者は自子のみならずその幼馴染にまで手を掛けた。子を失った悲痛な思いを叫ぶ「悲劇の母親」はやがてカメラの前で感情を爆発させるなど、不可解な言動や心理状態にも注目が集まった。はたしてその動機についての解明は果たされていない。

 

事件の概要

2006年(平成18年)4月9日19時45分頃、秋田県の北端に位置する藤里町で、小学4年生の女児・畠山彩香さん(9歳)の行方が分からなくなった、と母親から通報が入った。「娘は2軒隣の男児に人形を見せに行ってくる、と言って出掛けた」と母親は話したが、その男児は他の友人たちと遊んでおり、家の前で彩香さんの姿を見かけてはいたが一緒に遊んではいなかった。
 
翌10日、遺体が自宅から南へ約6km離れた能代市内を流れる藤琴川の中州で発見される。能代署は事件と事故両面から捜査を開始。女児の遺体は後頭部に軽い骨折があったが、目立った外傷はなく、死因は「溺水による窒息死」であったこと等から、誤って川に転落した事故死と判断した。
地元消防署消防司令・大高正春さんは、通常の水死であれば顔色が青白くなるものが、遺体は「頬に赤みがさしていた」と語った。
解剖所見を見た女児の母親は、水流の中で関節が動くため死後硬直は起こりづらいのに「右手は硬直しており、擦り傷ひとつなかった」、「頭部の骨折は打撲痕ではないか」とマスコミの前で警察の事故死とする判断に疑問を呈した。
母親は目撃情報を求めるビラを作成し、「悲劇に見舞われた母親」としてカメラの前に繰り返し登場して情報提供と警察の再捜査を訴えた。

5月17日15時頃、女児宅の2軒隣に住む三兄弟の二男で小学1年生の米山豪憲くん(7歳)が、下校途中に団地の手前で友人と別れた後、行方が分からなくなった。翌18日午後に自宅から約10km離れた能代市二ツ井を流れる米代川沿いの市道脇で遺体となって発見された。帽子やランドセルも傍で発見され、中身は手付かずだった。
遺体や衣服には複数の繊維片が付着しており、毛布などでくるまれて運ばれたと考えられた。首には索条痕があり、司法解剖の結果、窒息死と判明する。
19日、県警は殺人事件として能代署に捜査本部を設置。前月の女児死亡事故との関連も視野に捜査を始めた。連れ去り現場とみられる通学路付近で立ち話をしていた主婦などもいたが悲鳴などは聞かれておらず、遺体に争った形跡がないこと等から計画的な犯行とみられた。
その後、ランドセルからは被害男児や家族とも異なる指紋が検出、通学路周辺で白い軽自動車が目撃されており、現場で採取されたタイヤ痕など状況証拠は出揃いつつあったが、警察庁秋田県警に慎重な裏付けを指示した。
 

母親の逮捕

白神山地の南端に位置する自然豊かで人口4000人程という小さな町を舞台に、立て続けに起きた児童の連続不審死。それも彩香さんと豪憲くんは2軒隣の幼馴染だったこともあり、周辺住民や取材陣はカメラの前に頻繁に姿を見せる被害女児の母親への疑惑を強めていった。
当初は悲劇の母親にワイドショーのコメンテーターや一般のテレビ視聴者らも同情的だった。しかし第2の事件後は、和歌山毒物カレー事件のときと同様、逮捕の瞬間を待ち構えるかのように連日メディアスクラムを組んでの過熱報道が続いた。メディアは被害者面をしていた「鬼母」「毒親」へと見出しをすげ替え、視聴者も掌を返すように憎悪感情をぶつけることとなる。
鬼の形相でカメラに掴みかかる猛々しい様子は人々に恐怖心すら抱かせた。だが学生時代を知る同級生らは、「内向的だった」「すぐには思い出せなかった」等と語り、以前は目立たない存在だったと証言している。改めて当時の映像を見ると、発言は至極真っ当で、マスコミのやり方に露骨な怒りを見せていただけというのが見て取れる。撮れ高のためなら何でもという横暴な態度は迷惑YouTuberのそれと大差ない。
 
6月4日深夜、秋田県警は、彩香さんの母親で無職・畠山鈴香(33歳)を豪憲くんの死体遺棄容疑で逮捕。ランドセルには頭髪が付着しており、容疑者のDNA型と一致した。家宅捜索では、容疑者の部屋や車内から血痕や豪憲くんのものとみられる体液も検出された。
 
鈴香は豪憲くんの失踪直後に「私は16時ごろまで家にいた。知り合いが新聞配達をしていたはずだから(行方を知らないか)聞いてあげる」等と少年の父親に声を掛け、その後も2度電話を掛けてきたという。豪憲くんの葬儀後、県警捜査員を通じて「彩香がいなくなったときはお世話になりました。お互いに子どもを亡くしましたが頑張りましょう」といった旨の手紙と花束を送っていた。
逮捕後、豪憲くんの父親は「(親同士は)普段から付き合いはなかった。会釈をする程度」とし、「同じ被害者の立場を演じるための偽装工作だったのではないか」と振り返っている。
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6月6日、男児殺害をほのめかす供述を開始。「自分一人で首を絞めて殺して遺棄した」と犯行を自白した。しかし自白後も「帰宅したら家に死体があった」等と証言を二転三転させた。6月25日、豪憲くん殺害の容疑で再逮捕。

手帳には56人の男性の名が記されていたこともあり、逮捕直後には交際相手との共犯説も噂されたが、娘の殺害についてはすぐに認めようとはしなかった。7月に入ってようやくそれまでとは異なる証言を始め、「大沢橋から突き落とした」「邪魔で疎ましかった」と供述。18日、彩香さん殺害容疑で再逮捕。
しかし両事件の起訴前後にも「なんで私が犯人なの?」「彩香は事件で殺められた」と、急に否認に転じたり、自分以外の犯人がいたかのように供述を覆すこともあったという。
 
地元住民らは二児を殺めた畠山容疑者への憤りと共に、「警察が彩香さんの死を事件と認識していれば第2の事件は防ぐことができていた」と非難の態度を露わにした。
事件から2か月後、豪憲くんの父親は、容疑者について「憎いという一言です。許せない。そういう言葉でしか表現しようがない。現実を受け入れるにしたがって、その気持ちが強くなる」と述べた。被害者対策の警察官に感謝を示す一方で、逮捕会見で「事件性があるという情報がもう少し早く入ってくれれば」と話した県警幹部の発言を責任転嫁だとして厳しく批判し、捜査内容の説明と責任を求めた。
 

生い立ちといじめ

逮捕前から鈴香への疑いの色は濃くなり、彼女の生い立ちや来歴にも注目が集まっていた。被虐待の過去やいじめ体験が明らかになると、そうした経験が禍根となって彼女の精神を蝕んだのではないかとする見方もなされていった。
 
1973年、秋田県二ツ井町で運送会社を経営する父親と元飲食店従業員の母親との間に鈴香は生まれる。両親と4歳年下の弟と4人家族で、幼いころから強権的な父親の暴力に怯えて暮らしていたとされる。
小学校では1年の担任から「水子の霊が憑いている」と言われたことがきっかけとなり、「心霊写真」とあだ名された。それと聞くと、教師によるいじめのようにも聞こえるが、担任は「佛所護念会」(1950年、関口嘉一、トミノ夫妻により創設された仏教系の新宗教)の信徒で、親を学校に呼び出して信心を求めたという。このときは鈴香の父親がかつて恩師だった校長に直談判して担任を転属させた。
個人的な見解として、教師は鈴香をいじめたり、家族の入信を目論んで「水子の霊」と発言した訳ではなく、一教師として彼女の心的な歪みや当時はまだ研究や理解の乏しかった「発達障害」の素質に気づき、その対策として「善意」から親に信心を求めたのではないかと推測する。非科学的ではあるが、霊媒や宗教にのめり込む人の中には動物などの悪い霊の影響で病苦や禍がもたらされていると考える傾向が強い。
 
鈴香は食が細く食べきれない給食を机の中に隠して叱られることが屡々あった。高学年になると教師は食べるのが遅い彼女の手におかずを載せて一気に食べるよう強要した。その姿を見た級友たちは「バイキン」と囃すようになり、トイレに押し込まれて洗剤を撒かれたりといじめはエスカレートしていった。
学校ではいじめの標的とされ、家庭では帰宅が少しでも遅れたりすれば父親の鉄拳制裁や髪をつかんで引きづりまわされる日々が繰り返され、少女に安息の居場所はなかった。小さな田舎町、進路の選択肢もなく、そうした過去を知る同級生らと離れることもできなかった。
 
高校の文集には「元気で」「さようなら」「がんばれ」といった言葉を記したのが8人。それ以外は「いままでいじめられた分、強くなったべ。俺たちに感謝しなさい」「目の前に来んな」「一生会わないでしょう」「会ったら殺す」「戦争に早くいけ」「山奥で一生過ごすんだ」「秋田から永久追放」といった言葉が並ぶ。
いわゆる「〇〇な人アンケート」の欄には、「すぐに仕事を辞めてしまいそうな人」「墓場入りが早そうな人」の女子で第1位に名前が挙げられている。「将来何で有名になるか」という問いに対する寄せ書きでは「自殺、詐欺、強盗、全国指名手配、変人大賞、女優、殺人、野生化」と記され、もはや悪ふざけで済ませてよい次元ではない。
学校や教師が鈴香と周囲とのそうした軋轢を全く把握できていなかったとは考えにくい。鈴香と級友らは「そのような関係性しか築くことができなかった」ため、学校側もやむなく了承していたと捉えることもできる。たとえ行きたくないと感じていても、鈴香には「学校に通わない」という選択肢が許されたとも思えない。
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犯罪心理学者・碓井真史教授は、こうした言葉を書いてよい理由にはならないが、「おそらく級友達もずいぶん傷ついてきたのではないかとも感じます。。彼女は大変なトラブルメイカーだったのではないでしょうか」と指摘する。
いじめは許される行為ではないが、彼女の人格障害の側面から、仲間内でのルールを平気で破り、責任を転嫁し、自分の行為が周囲からの反発や報復を生むと自覚のないまま嘘を繰り返してきた可能性があるという。理由なきいじめではなく、日常的に問題行動や衝突を繰り返すことで嫌われて仕方ない立場だったとも推測される。
人格的な歪みや人間不信を募らせた鈴香は、高校2年のときには部活で集めた10万円以上の遠征費の窃盗により1か月近くの停学処分を受けた。その後は粗暴な性格が顕著になったとされ、仲間外れにされたくなかったためか不良グループの使い走りなどをして過ごしたという。窃盗の理由は定かではないが、自発的犯行ではなかった、周囲から何がしかの教唆を受けた可能性も否定できない。
 

高校卒業後、父親の束縛から逃れるように栃木県の鬼怒川温泉川治温泉などで仲居の仕事やコンパニオン(酌などの接待を行う)の職を求めた。当時はまだバブル景気の余韻もあって温泉街も今より賑わいがあった。だが1年ほどで父親に連れ戻されて秋田へ帰郷させられる。
バーのホステス等をする傍ら男性遍歴を重ね、高校で1学年下だった男性と関係を持ち、21歳で結婚。2年後に長女・彩香さんを授かることになるが、その1年後には離婚し、鈴香はシングルマザーとなった。
友人女性によれば、鈴香は育児の自信がなく出産をためらっていたが父親に押し切られるようなかたちでの結婚だったという。父親は相手の男性に自分の会社でダンプカーの運転手をさせるべく二種免許を取得させた。だが若い夫婦には家庭を築けるだけの生活力がなかった。鈴香にできる家事といえば洗濯だけで料理や片付けができない上に気性が激しく夫を足蹴にし、夫は夫で月賦が払いきれないうちに新車を購入する経済観念の希薄な人間で、サラ金に借金を重ねることとなる。藤里町の町営団地に引っ越し、彩香さんを出産したものの夫は娘に興味を示さず、鈴香が彩香さんを引き取ることになったという。鈴香本人は離婚理由を夫の浪費と浮気と周囲に話していた。
 
その後も鈴香は職を転々とし、やがて奥羽本線鷹巣駅近くの国道7号線に面したパチンコ店の勤めを他より長く続けた。給料は手取り17、18万円で、家賃は収入に対して1万6000円程度だったため、母娘2人でどうにか食べていくことができた。
鈴香は自分より7歳年下の同僚男性と男女関係となった。前夫と違って背が高く見栄えするタイプで鈴香の方から声を掛けた。男性は物事を明け透けなく言う年長の鈴香の態度に「自分を引っ張ってくれる」ような幻想を抱き、惹かれていった。
『橋の上の「殺意」——畠山鈴香はどう裁かれたか』(2009、平凡社)を著したルポライター鎌田慧は、自身を認めてくれる年下男性と交際したり、優柔不断で頼りない元夫を見るに、絶対服従を強いてきた自身の父親の束縛から解放されようという心情がよくあらわれていると指摘する。
鈴香の逮捕後、元夫は週刊文春の取材に以下のように答えている。
「離婚してからも彩香のことは一日も忘れたことはありません。彩香を引き取ることには再婚相手も納得してくれていました。再婚相手との間にできた子供を間違って『彩香』って呼んだこともあったくらいです。ですが、親権を取り戻すことも難しく、収入も途絶えたため結局、断念せざるをえませんでした。」           「彼女は私が一度テレビで話したことに対して、『今まで一度も顔を見せないで、(彩香の)葬式にも来なかったくせに父親面して!』ってすごい剣幕で実家の母親に電話してきたんです。それ以降、私はマスコミに話をすることをやめました。鈴香の逮捕については、残念ながら、『やっぱり』という気持ちです。豪憲くんが殺害された約三日後、警察が私のところに鈴香の性格や職歴などを聞きに来たんです。今思うと、警察は最初から鈴香のことを疑っていたんだと思います」
見ず知らずの夫婦の事情に口を挟むのも野暮なことだが、元夫の発言も自己弁護的で言い訳がましく感じられるのは私だけではないだろう。
 
鈴香は少女時代から立ち眩み、嘔吐、難聴、円形脱毛などの病歴があり、修学旅行にも参加させてもらえなかった。精神安定剤を常用していたが、パチンコ店退職後に生活保護申請を担当する民生委員から精神科での再診療を助言されていた。年下彼氏との別離によって薬で制御できないほど精神的に不安定だったと推測される。翌年には卵巣嚢腫の手術を受けていた。生まれつきの体質だけでなく虐待やいじめによる抑圧、自暴自棄な資質などが彼女の肉体を蝕んでいたようにも思える。
彩香さんは事件当日もカップ焼きそばを与えられていたこと等から、児童虐待、今で言う育児ネグレクトを疑うバッシングが多く聞かれた。自宅では交際相手か、売春のためか、18時ごろに男を連れ込み、彩香さんが近くの公園で時間潰しをさせられていたと近隣住民は語る。「お母さんは何をしているの。家にいないの?」と声を掛けると、少女は泣きながら「お母さんは今人助けをしているの」と答えたという。
 
2007年11月の第7回公判で交際相手以外との性交渉について聞かれた鈴香は「男の方から金をあげるからお願いします、というようなことはあった」「金をもらってセックスすることはあった」と答えている。彩香さんの死が当初「事故」として処理された背後には、鈴香の「顧客」の中に県警本部や能代署署員がいたためだとする声もネット上では囁かれている。「裏が取れなかった」とする記事もあれば、「近所では昼間から声が漏れ聞こえていた」とする噂も存在するが定かではない。
一般的な社会人から見れば、幼子のいる自宅で売春など何を考えているのかという意見もあるかもしれない。だが母子が安定的に生活できるほどの収益を上げていたとは考えられず、生活保護受給との兼ね合いから性風俗店でのアルバイトなども始めづらい状況で、流されやすい傾向のあった彼女は連れ込み売春が半ば常態化されてしまったというのが現実ではないか。事件化しないだけで似たような生活を送る事例は少なくないようにも思う。
 

希死念慮と娘への感情

事件の前年となる2005年5月、鈴香は大量の睡眠薬を服用し、家族と娘に宛てて遺書を残し、自殺未遂を図っていた。両親には「彩香のことをお願いします」と伝え、「10年後の彩香へ」と娘の将来を慮る母親の言葉が綴られていた。幸か不幸か日常的に睡眠薬などを常用していたことから人より耐性ができており、一命をとりとめた。
インターネットの自殺サイトにアクセスし、練炭自殺を思い立って買いに走ったが、練炭の使い方が分からなかったため実現しなかった、というどこか間が抜けたエピソードもある。いずれにせよ彼女は生きづらさを抱え、強い希死念慮に囚われていたことが分かる。
逮捕後も鈴香は自殺未遂を続けた。取調室で煙草をくすねて飲み込む、浴場でボディソープを1/3瓶飲む、取り調べ中にボールペンを腕に突き刺すといった自傷行為を繰り返し、裁判直前の2006年8月には独房で首にタオルを絞めて自殺を図った。翌年も手鏡を割って左腕に破片を突き刺している。
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児童が死亡した交通事故のニュースを見ながら「彩香があの中にいたら」と杞憂する発言もあったとされ、彩香さんと豪憲くんが遊ぶ際には「彩香が年上なんだから待っててあげてね」と言い聞かせていたともいう。鈴香の中に娘への愛情が微塵もなかったとは思えない。
私の考えでは、生活の不安定や育児能力の欠如、愛情表現の不得手などから結果的にネグレクト状態に陥っていたとみられる。一方で、鈴香と母親の関係は親離れ子離れできていない親密さがあったとされ、祖母は彩香さんを溺愛していたとも伝えられている。
 

代理ミュンヒハウゼン症候群

事件当初、鈴香の代理ミュンヒハウゼン症候群を疑う声もあった。児童虐待にしばしば見られる兆候で、子ども(親や配偶者)を病気と偽って甲斐甲斐しく世話することで自身の心の安定を図る症例である。単なる詐病のケースから、高体温や血尿など検査を捏造してまで症状を偽装するもの、薬物投与や窒息させるなど人為的操作によって病的状態や不調に陥らせるものもある。
 
近年では次のようなケースで代理ミュンヒハウゼン症候群を疑われている。
2019年、神奈川県大和市派遣社員・上田綾乃(42歳)が「子どもがゲームをしていて突然息をしなくなった」と自ら通報。死亡状況から鼻や口を塞がれたことによる窒息死の可能性が高いとして二男(7)殺害の容疑で逮捕された。上田には4人の子がいたが、乳児期に長男がミルク誤飲による窒息、長女が乳幼児突然死症候群、三男は死因不詳で3人が死亡していた。二男は生後4か月で心肺停止となり一命をとりとめたものの児童相談所も虐待の可能性を疑って2度に渡り、合わせて約4年間保護していた。
上田は中学時代に両親を相次いで亡くし、高校も中退して弟2人の世話をした。上田の父親は二男で、本家に家を建ててもらって以降の交流はほとんどなく、両親を失った上田たちにも充分な支援はなく、窮するたびに祖母から金を融通してもらうだけの関係だったという。少女時代から周囲の憐憫を買う以外に生きる術がなかったとも言えるかもしれない。
上田は殺害を否認しており、鑑定留置も実施された。2022年7月には二男殺害で起訴され、三男の死因についても再鑑定により窒息の疑いがあるとして再逮捕された。
 
はたして鈴香の場合はどうだろうか。幸福とは言えない生い立ちではあるが、関心を集めるための嘘というよりその場しのぎの自己弁護的な嘘であり、「悲劇の母」と取り沙汰されたことで一時的な同情を買ったかもしれないが、私にはそれが彼女の安定につながっていたとは思えない。罪悪感を誤魔化している様子はなく、ある日突然娘の命を奪われた悲しみと怒りで混乱している。その上で男児殺害という危険をなぜ冒す必要があったのか。
鈴香は娘を愛してはいた。しかし自身の生活さえままならぬことで「邪魔で疎ましい」という感情も同時に募らせていた。あるとき衝動的に娘を死に至らしめ、そのショックと心理的な自己防衛によって健忘に陥り、周囲から「悲劇の母」とされる内に現に何者かに殺されたと信じ込んでいた、彼女は現に「被害者遺族」になり切っていたのではないかと私は考えている。
彼女の分裂病質と娘への愛憎が事件の記憶を抑圧(封印)し、連日のメディアスクラムや殺害の疑惑を向けられることで却って「私は犯人じゃない」という頑な信念を膨らませ、記憶の捏造が生じたとしても不思議はないように思われる。それは警察の取調で刷り込まれた虚偽自白を自ら「真実」と思い込む冤罪被害者心理のそれに近い。
 

裁判

2007年9月12日、秋田地方裁判所で開かれた初公判で、被告人は男児の殺害については認めたものの、長女への殺意を否認。男児殺害についても当時の精神状態が正常だったか自信がないと述べ、弁護側は「被告人は心神耗弱状態だった」と主張。裁判の争点は、殺意の有無と責任能力の有無となった。
 
検察側は自白を基に、「魚を見たい」と長女に駄々をこねられて渋々連れて行ったが、かねてからの苛立ちが極限に達し、欄干に立たせて突き落としたとして、長女殺害を確定的殺意があったと起訴事実を説明。すぐに救助や通報をしなかった面から見ても、「記憶を失った」とする説明は不自然極まりないとした。
これに対し、弁護側は、急に娘に抱きつかれて驚き、反射的に振り払ったと殺意を否認し、偶発的な出来事だったとして過失致死の適用を求めた。
また男児殺害については起訴内容通り、自室玄関に連れ込み、腰ひもで首を絞めて殺害し、車で運んで遺棄したことを認めた。動機について、亡き娘の玩具を貰ってもらおうと部屋に招き入れると「彩香がいないのに、なぜ元気な豪憲くんがいるのか」という切なさと嫉妬心、憎らしさが込み上げ、衝動的に犯行に及んだ旨を述べた。
また警察やマスコミが娘の再捜査に向かわない、思い通りにいかないことも憤懣の念を抱く原因となっており、連続事件となれば亡き娘の再捜査の希望が叶うとして男児に手を掛けたとされる。
 
精神鑑定では分裂病人格障害(統合失調症)、回避性人格障害、依存性人格障害が併存すると診断され、刑事責任能力に問題はないとされた。
初公判で被告人は「1年半前はうそつき、卑怯でした。どう変わったのか見てほしい」「(被害男児の親が望む通り)極刑にしてほしい」と改心の態度を見せていたが、時折、黙秘を繰り返した。公判中の獄中手記では次のように心中を記しており、検察側は真摯な反省は期待できないとして糾弾した。
豪憲くんに対して後悔とか反省はしているけれども悪いことをした、罪悪感というものが彩香に比べてほとんどないのです。ご両親にしても何でそんなに怒っているのか分からない。まだ2人も子どもがいるじゃない。今でも何もなく幸せで生きてきてうらやましい。私とは正反対だ。よかれと思って何かしても裏目裏目に出てしまった。正反対の人生を歩いてうらやましい。……辛いことも苦しいことも何もいらない。ただ静かにひっそりと生きたかった。それすらもかなわなかった。十分がんばって生きた。もういいだろう。〔2007年10月21日〕
 
弁護側からの精神鑑定を依頼された臨床心理士長谷川博一氏は、鈴香は騙そうとして嘘をついている訳ではなく、ショックにより殺害時の記憶を部分的に失った「解離性健忘」と診断している。
長谷川氏は、彩香さんを突き落としたとされる「大沢橋」での出来事について記憶の再現を試みた。
鈴香はおもちゃを持った娘と一緒に橋の欄干から首を出して下をのぞき込む光景を思い出した。右手を伸ばして娘に触れたところで、途端に「言えない」「言いたくない」と泣き出して喋れなくなり体も支えられない状態になったという。心の葛藤が体の麻痺となって現れる転換性障害で、そうした反応は警察の取り調べの中でも頻繁にあったとされる。
長谷川氏は、大沢橋から数キロメートル下流で発見された遺体は靴も脱げておらず、藻の付着や多くの擦り傷も見られなかったことから、過去に「連れて行ったことはあっても、事件とは直接関係はない」との見解を述べている。
大沢橋は地上8mの高さがあり、過去には飛び降りた男性が川底に打ち付けられて即死状態で発見されたこともあった。事件検証番組は、当時の水量や川の水流から逆算しても、大沢橋から発見現場にたどり着いたとは考えにくいと報じている。
鈴香は娘を転落死させていないというつもりはないが、大沢橋の犯行供述は作話の可能性が高い。後頭部の打撲痕も母親がどこか別の河原の石か何かでつけたものではないか。
 
2008年3月19日、秋田地裁・藤井俊郎裁判長は2人の殺害は殺意をもって行われており「死刑を選択することも十分考えられる」とした上で、長女殺害に幾分なりとも情状を考慮する余地があること、男児殺害・遺棄について計画性のない場当たり的な犯行であるとし、検察側の求刑死刑に対して無期懲役の判決を下した。
閉廷間際、「ひとついいですか」とサンダルを脱いだ被告人は、殺害された米山豪憲くんの両親に向かって土下座し、「大事なお子さんを奪ってしまって申し訳ありませんでした」と泣きながら謝罪の言葉を述べた。父親は表情を変えず、母親は目を閉じてそれを聞いた。
同年、かつて母娘が暮らした家は取り壊された。
2009年3月、仙台港等裁判所秋田支部・竹花俊徳裁判長は地裁判決を支持し、控訴審を棄却。
同年5月、弁護側の上告取り下げにより無期懲役が確定した。
 
男児や遺族の立場からすればいかなる刑においても償いが果たされるべくもない。おそらく鈴香は本意から謝罪をするとともに、一方で3兄弟のうち2人は元気ではないかと考えている。そうしたアンビバレントな感情が併存し、統合や制御されずに突発的に表出してしまうことこそが長女殺害となり、男児殺害につながったのだと思う。
ひとつの「病名」で受刑者の心理を適確な言葉で表現することはできない。育児に不適当な人間が子を宿し、結婚を強いられ、パートナーの支えもなく生きていかねばならなかった運命は不幸としか言い表せない。犯した罪に同情する余地はないが憐憫の情は禁じえない。そしてそうした生き方を歩む家庭は決して珍しいものではないことを私たちは知っている。同じような不幸を生まないためには多くの目や小さな手助けが必要な世の中になっている。
罪なき二児のご冥福を祈ります。