いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

大牟田4人殺害事件について

2004年(平成16年)、福岡県大牟田市で立て続けに起きた4人の殺害事件。暴力団夫婦と息子兄弟の共謀による犯行として4人全員に死刑が言い渡された。

「かわいそうとは思いますが、申し訳ないとは思ってないです。殺されたのも運命、私が死刑になるのも運命。それに私はヤクザです。親分の命令は絶対なんです」

社会の常道から逸脱した家族の論理とは何だったのか。

 

事件の発覚

2004年9月21日午前10時頃、福岡県大牟田市沖田町の諏訪川に架かる馬沖橋の下流10メートルで通行人が若い男性の腐乱死体が浮かんでいるのを発見し、110番通報した。

遺体は上半身裸で、首と両脚の3か所に重さ約5キロのブロックがロープで括られていた。司法解剖の結果、首に絞められたような跡があり、死因は窒息死とされた。

遺体は、16日午後5時頃に下校してから行方が分からなくなり、19日に捜索願が出されていた同市小浜町・高見小夜子さん(58歳)の二男穣吏さん(じょうじ・15歳・高校生)であることが判明した。

現場は大牟田駅の南約2キロで、熊本県荒尾市との県境に近い田園地帯であった。近郊には三池炭鉱の旧坑が点在する。

 

穣吏さん失踪翌日の17日、小夜子さん本人も「歯医者の後、人と会う約束がある」と知人と電話で話した後、音信不通となった。また二人を捜索していた小夜子さんの長男龍幸さん(18歳・大学生)、兄弟の友人である原純一さん(17歳・定時制高校生)も18日未明ごろを最後に音信が途絶えた。さらに原さんの知人女性も同日に行方不明となり、19日午前に原さんと知人女性の家族が大牟田署に捜索願を届け出ていた。20日午前には原さん方に男の声で「命はない」と脅迫めいた電話がかかっていた。

大牟田署では、以前から小夜子さんとの間に金銭トラブルのあった建設業を営む指定暴力団同仁会系の幹部・北村実雄(60歳)が事情を知っていると見て聴取を行う。捜査員の中では「親の金銭トラブルで子どもの命まで奪う理由には乏しい」とする見方もあったが、4人の誘拐、殺人を視野に周辺捜査を続けた。

22日未明、捜査本部は北村の妻で無職・真美(45歳)を死体遺棄容疑で逮捕。

北村は9時ごろに署2階の刑事課を訪れて「逮捕の理由を知りたい」と問答をしていたが、10時16分、隠し持っていた拳銃で右こめかみを撃って自殺を図った。取調ではないためボディチェック等は行われておらず、突然のことで署員も制止できなかった。弾丸は脳に至らず、病院へと搬送され、命に別状はなかった。捜査本部では怪我の回復次第、銃刀法違反容疑で逮捕するとともに詳しく事情を聞く方針とした。

逮捕された真美は「3人を川に捨てた」などと供述。雨の影響で水質が悪く諏訪川での捜索は難航したが、23日午後6時過ぎ、馬沖橋から350メートル下流の川底(川幅約30メートルで岸から約10メートル付近、深さ3.5メートル)で軽自動車が発見される。ナンバープレートが外された赤茶色系の車両で、小夜子さんのものと確認された。

中から男女3人の遺体が見つかり、いずれも死後1週間程度と見られた。小夜子さんの遺体に目立った外傷はなかったが、体内から睡眠薬が検出され、死因は窒息死と判明。龍幸さんは頭部を1発、胸部を2発、原さんは胸部に3発の銃撃痕があったことが明らかにされた。殺害方法の違いから、小夜子さんと龍幸さんたちは別々に襲われ、後で一緒に遺棄された可能性が考えられた。

 

若者グループと借金

9月22日、若者グループに監禁されていた原さんの知人少女(17歳)が警察に保護される。

北村真美は、息子の孝紘ら若者らのグループと龍幸さん・穣吏さんらの遊び仲間との間で、女性を巡ってトラブルがあったことを仄めかした。夏頃に対立関係が悪化し、穣吏さんは周囲に「蹴りを付けなければならない」などと漏らしていたという。捜査本部では若者グループ同士の争いに小夜子さんが巻き込まれた可能性もあると見て、グループ関係者らに事情を聞いた。

孝紘らのグループは、「先輩が三池港で両手首を縛られて、車で引きづり回された」など喧嘩、暴走、器物破損、言いがかりをつけての暴力沙汰など悪い噂は絶えなかった。ある少年は、飲食店内で声を掛けられ、「あ?」と振り返ったことが理由で集団リンチに遭い、鼻や顔の骨を折られたという。「住む世界が違う。楯突くなんて考えられない」と地元の若者たちは口を揃える。

龍幸さんは前年まで孝紘らのグループと行動を共にしていたとされ、深夜のバイク走行や北村家への出入りもあったが、対等な友人同士という訳ではなかった。内情を知る友人らによれば、孝紘が龍幸さんを「使い走り」にする明確な上下関係があった。龍幸さんは「親同士が親密なので無下に断れない」と友人に漏らし、最近では孝紘グループと距離を置くようにして原さんらと「ダベって過ごす」ことが多くなっていたが、携帯電話で呼び出しが掛かり、完全に関係を断ち切れずにいたという。

9月23日、グループ対立の中心人物と見られる北村孝紘(20)を逮捕。龍幸さん、原さんの行方が分からなくなる直前の17日夜に「龍幸の居場所を知らんか。孝紘くんが捜しよる」などと交遊グループから知人らに複数の連絡が回っていた。

孝紘は北村家の戸籍上の長男だが、真美の前夫との息子が実雄の養子となって同居しているため、実生活では兄がいた。身長は180センチ近く、体重100キロを超える巨漢。中学卒業後は千葉県にある松ヶ根部屋に入門して序二段まで進んだが、2001年11月に廃業。大牟田署員によれば、実家に戻ってからは父・実雄の用心棒的存在を担っていたという。幼馴染によれば、小学生の頃、親が暴力団であることを理由に石を投げられるなどのいじめに遭っていたが、実雄がそれを見とがめて怒鳴りつけて以来いじめはなくなり、次第に不良の中心的存在になっていったという。

北村家は3年ほど前から大牟田市桜町で夫婦とこども4人の6人で暮らしていた。近隣住民によれば、作業員の斡旋などで人の出入りが多く、黒塗りの車が停まっていることもあったという。「人と会っても挨拶もしない。以前は車を5、6台持っていて羽振りが良かったが、最近はそうでもなかったようだ」といった声も聞かれた。家族は地区の集まりには参加しなかったが、地域住民との間で目立ったトラブルは見られなかった。

被害に遭った高見さん方とは約4キロ離れていた。

高見家は、小夜子さんと息子兄弟の3人暮らし。7、8年前に越してきて以来、自治会に入らず近所づきあいはなかった。長男龍幸さんは「明るく礼儀正しい人」でいつも場を和ませてくれたと言い、知人男性は「パチンコや麻雀にもよく一緒に行ったのに」と早すぎる死を惜しんだ。穣吏さんは高校入学後、欠席はなく、まじめな性格とされ、7月16日から8月6日まで米コロラド州デンバーへの語学研修に参加するなど勉学にも意欲的だったという。

原純一さんは病弱な母親の世話をしながら、昼は市内の飲食店などでバイトを掛け持ちしながら夜は定時制に通っていた。元同級生は「明るく、活発で、人のことを思いやることのできる、かけがえのない友達だった」「この世からいなくなった何で信じられない」と嘆いた。

 

真美は取り調べに対して「大それたことをした」と泣いて反省の言葉を語り、4人の殺害と遺棄を認めるような供述をしていたが、変遷や明らかに事実と矛盾する内容が多かった。捜査幹部は「信用度は打撃不振のプロ野球選手の打率くらい(3割に満たない)」と地元紙に語った。

捜査陣は、殺害から運搬、遺棄までを一人で行うのは難しいため、孝紘らも一連の犯行に関与しており、それを庇って故意に虚偽の供述をしているとの見方を強めていた。

孝紘は当初関与を否認していたが、1週間ほどして「全部俺がやったことだ」と供述を始めた。だが取り調べに応じる態度は投げやりで、真美も「息子が銃で撃った」との供述も口にしていたが、両者の言い分には一致しない部分が多く、供述の真偽について慎重な裏付けが必要とされた。

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その間、高見さん方での状況確認の際、立ち会った親族が室内から「小型金庫」が紛失していることに気づいた。小夜子さんは個人で無登録の高利貸を営んでおり、現金や証書の保管用に金庫を使っていた。

北村組は作業員斡旋事業に行き詰まっていたが、正規業者からの融資を受けられず、闇金などに多額の借財を重ねており、小夜子さんからもおよそ300万円を借りて返済が滞っていた。ときに取り立ての協力などをして猶予してもらっていたが、その取り立ても首尾よくいかず、真美は「小夜子さんから責められた」とも供述していた。また6月には金策に苦慮したためか、実雄は車上荒らしの窃盗容疑で逮捕されていたことも明らかにされた(実害が出なかったことなどから猶予処分とされた)。

実雄が自殺未遂に使用した拳銃は25口径の6連発できる自動小銃「F.N.ブローニングベビー」で、2人の遺体にあった銃弾も25口径拳銃から発射された可能性が高いことが確認され、同じ銃が使用されたとの見方も現実味を増した。

孝紘や建設会社関係者が使用していたワゴン車が事件発覚後に自宅駐車場からなくなっていたが、孝紘が市内の整備工場に持ち込み、廃車しようとしていたことが判明。車内からは血液反応が確認され、何者かが遺体運搬に使用して隠蔽しようとしていた疑いがいよいよ濃厚となる。

 

県警捜査本部は10月2日までに死体遺棄の共犯容疑で大牟田市白銀に住む無職北村孝(23)を逮捕。周囲の人間に「これ以上、家族から逮捕者が出ることは絶対にない」と語っていた矢先だった。

孝も弟の孝紘同様に大柄な体格で、1996年に中学を卒業後、相撲部屋に入門し「大蛇(おろち)山」を名乗ったが約1年で廃業。親元に戻ってからは建設会社の作業員として働く一方、暴走族の集会や暴力団事務所に出入りしていた。夏には高見家の外壁工事の作業にも加わっており、事件後は3人の葬儀にも顔を出していた。

 

土俵入り

逮捕された三人は三者三様の供述で、彼らの食いちがいは庇い合いとも罪のなすり合いとも捉えられた。

10月7日夜、捜査本部は退院を待っていた北村実雄を逮捕。実雄は4人の殺害、遺棄を全面的に認めた。捜査幹部は「全員が事件の土俵に上がった」と述べ、家族4人ぐるみでの犯行と見て全容解明に向けて「仕切り直し」と意気込んだ。

実雄は自殺を図った理由について「四人殺せば死刑になるから」と話した。自分が拳銃を6発撃って殺したと言い、動機については「ヤクザを馬鹿にしたから」と述べ、高見さん一家との確執を背景とする供述を始めた。

真美は、軽自動車での三人の遺棄について認め、殺害の実行については否認。「全部自分がやった」と話していた孝紘はその後供述を変え、「自分と母親以外の家族も川に捨てるのを手伝った」と家族の関与を示唆する発言をしていた。兄の孝は「自分は巻き込まれただけ」と主導的立場になかったことを主張した。

証言の食いちがい、被害者4人の失跡時期のずれ、手口や遺棄のちがいなどが、それぞれの殺害・遺棄の実行者の組み合わせを見えにくくしており、一家のだれかが起こした殺人を契機に新たな殺人へとつながっていったとの見方もできた。

 

その後、真美は穣吏さん殺害について「気付いたときには殺されていた。全く知らない」などと関与を全面的に否認するようになっていたが、「夫と息子が小夜子を殺そうとした」「私が落とし前をつけると言って組事務所に匿っていたがどうしようもなくなり、三池港で息子が首を絞めた」「息子らは、小夜子を捜しに来るかもしれないと言って、誰かを捜しに行った」などと具体的な供述を続けた。

捜査本部は、真美、孝、孝紘に大牟田港などでそれぞれ現場検証を行い、証言の食いちがいを埋める作業が進められた。孝の勾留期限となる10月22日に3人を死体遺棄で起訴(実雄は逮捕が遅れたため26日に起訴)。26日、北村親子4人が金目当てで高見小夜子さんを殺害したと断定し、新たに強盗殺人容疑で再逮捕した。

記者会見した大野敏久県警捜査一課長は、事件の動機を「金目当て」と強調。現段階で殺害は穣吏さん、小夜子さん、龍幸さんと原さんの順とみられることを説明した。4人は小夜子さんを新町の組事務所アパートに監禁し、17日深夜に睡眠薬を飲ませ、18日0時半頃、大牟田港に車2台で連行。車内で首を絞めて窒息させ、身に着けていた貴金属類や現金を奪った疑いがあるとした。

北村親子は事件の早期発覚を懸念し、市内で穣吏さんを捜索中だった龍幸さんと原さんを拉致。大牟田港から約1キロ離れた埋め立て地に連れていき、実雄の拳銃で射殺したという。ただその他犯行について否認を続ける容疑者も居り、高校生や知人少年まで犠牲になったことなど一連の犯行には疑問点も残された。

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11月13日午後5時40分頃、福岡地検久留米支部で取り調べを受けていた北村孝が一時逃走し、約3時間後に熊本県荒尾市内で身柄を確保される騒ぎがあった。

3階「同行室」での夕食時、大牟田署警備課の署員3人が付き添っていた。食事中で手錠は外された状態で腰縄も放置されていた。すると先に食べ終えた孝が「暑い」と訴え、エアコン操作を行うため、隣室に向かった。同行室の扉はオートロックの鉄格子になっており、署員のひとりが足で閉まらないように抑えながら監視していた。

孝が「眼鏡を貸して」と言ったため、扉を抑えていた署員が手渡すと、かけるふりをして同行室内の床に投げ、反射的に眼鏡を拾いに動いたところ、孝がオートロックの鉄格子扉を外から閉めて警官3人を同行室に閉じ込めた。

署員は事務官から鍵を借りてはおらず、ドア越しに説得したが、孝は「担当さん、悪い。俺は(強盗殺人など)やっていない。死刑になるかもしれないから逃げる」「三日経ったら戻ってくる」などと言い残して逃走。署員は携帯電話から110番し、被告の逃走を知らせた。管理規定では、食事中は同行室を施錠し、警官らは隣室で待機・監視することになっていた。大牟田署にとっては、実雄の署内での自殺未遂に続く失態であり、一同に不安がよぎった。

4人を殺害したとされる凶悪犯が逃走したとして周辺住民も巻き込まれるのではないかと不安に駆られた。緊急配備が敷かれ、脱走者は荒尾市土井手の駐車場でタクシーに乗車していたところを身柄を確保された。

元力士の孝は「特別要注意者」に指定されており、留置場では機動隊員も監視についていたが、移送の際に隊員の同行を嫌がったため署員3人だけで行っていた。久留米支部は立て替え中で、新庁舎に慣れていなかった署員たちは扉を施錠しないで使用するものと思い込んでいたことが後に明らかとなった。これを受けて警察庁は全国の警察本部に、同行室の運用実態の把握、監視要領の指定、護送体制の再検討などを指示した。

また読売新聞は、10月4日に弟・孝紘が拘置先の筑紫野署で自殺未遂を図っていたことを11月になって報じている。午前0時過ぎ、留置場で看守署員がうめき声に気づいて部屋を確認したところ、孝紘が布団の上でぐったりとしていた。口には丸めたトイレのちり紙が詰まっており、署員が取り出して救急搬送されたが孝紘は診察を拒否し、医師も診察の必要はないと判断した。留置場は部屋ごとにドア付きのトイレが設置されており、使用中の監視規定はない。

 

県警はその後の調べで、孝と孝紘による金銭奪取目的の高見さん方侵入が一連の殺人の発端と位置付けた。兄弟が侵入した際、家に一人でいた穣吏さんに気づかれて絞殺した疑いが強いとして、強盗殺人での再逮捕を視野に追及が続いた。

真美は、穣吏さんが初めに殺害されたことや、孝紘から「おれ、人を殺してしまった」と打ち明けられたことを仄めかしていた。以前から夫婦が高見さん方に現金があると話していたことから、兄弟が先走って盗みに入ったものと見られた。

12月8日、強盗殺人、死体遺棄で孝、孝紘を再逮捕。2人は貴金属数十点(398万円相当)の入った金庫を強奪し、穣吏さんを絞殺して重しを付けて川に遺棄したとされる。合わせて実雄を銃刀法違反などで再逮捕した。

 

公判

2005年3月15日、福岡地裁久留米支部(高原正良裁判長)で連続殺人・死体遺棄事件の初公判が開かれた。逮捕後4人が顔を揃えるのははじめてで、自殺未遂や逃走事件の後とあって、裁判所職員や警官ら約20人が並ぶ物々しい雰囲気で公判が開始された。

 

検察側の冒頭陳述は要約すると以下の通り。

建設業での収入がほとんどないなか、上部団体への上納金のため、北村家は困窮に瀕していた。98年、真美は旧知の高見小夜子に約300万円を借用。それ以外にも各方面への借金は約6600万円にも膨れ上がっていた。

真美は高見方の改装工事を請け負ったが、滞納している借金があることから小夜子は代金の支払いを拒んだ。小夜子は常々「1億2億は右から左」と金回りのよさを豪語し、2004年7月頃には「資本金1億円の金融会社を設立する」などと語っていたこともあり、実雄、真美、そして新居購入を望んでいた孝の3人は小夜子を殺害して現金を奪うことを計画。架空の土地購入を持ち掛け、小夜子に購入費2680万円を準備させ、9月16日に小夜子を殺害することとし、三者の共謀が成立した。

しかし孝は両親に先んじて小夜子の金品を強奪しようと考え、弟孝紘に高見方に大金があることを話し、500万円をやると言って口止めし、家に一人でいる穣吏殺害と現金強奪を共謀した。車中でロープで絞殺後、馬沖橋から重しを付けて川に遺棄した。しかし奪った金庫には貴金属類しかなく、孝紘が質入れしたが6点計10万8000円にしかならなかった。

真美は小夜子を北村組事務所アパートに監禁したが、自力での殺害には踏み切れず孝に電話を掛け、「どげんもしきらんばい。お母さんば助けて」などと言って協力を求めた。孝は母親に睡眠薬を飲ませてから殺害することを提案し、孝紘に殺害実行の協力を求めた。弁当に睡眠導入剤12錠を混入し、真美が小夜子に与えた。

親子4人は小夜子の長男龍幸の口封じのため、車もろとも川に沈める謀議を経て、大牟田港に停めた車内で孝紘がワイヤーを使って昏睡状態の小夜子を窒息死させた。4人は高見方付近の路上で龍幸、原純一の乗る軽乗用車に遭遇。顔を見られたことから、実雄は拳銃を孝紘に渡して2人の殺害を指示した。孝と孝紘は一緒に穣吏を捜すと言って車の後部席に乗せた。

18日2時15分頃、孝紘は龍幸に現金の保管場所を追及し、原を撃って脅迫。だが龍幸は分からないと答え、頭部を撃った。二人は絶命には至らなかったが、実雄に連絡を取ると「胸を撃て。6発全部撃て」と指示。各3発ずつ銃撃し、まだ息のあった原の胸にアイスピックを指してとどめを刺した。

合流した4人は午前3時半頃、土手の斜面から3人の遺体を載せた軽乗用車を諏訪川に水没させた。高見方に戻り、奪った鍵を使って侵入したが、目当ての現金は発見できなかった。孝と孝紘は質入れの事実が発覚することを考え、貴金属の鑑定書などを盗み、証拠を隠滅した。小夜子が所持していた現金約26万円のうち5万円ずつが兄弟に分配された。

4被告が4人を殺害して得た金は、40万円にも満たなかった。

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北村実雄は共謀の事実はないとして自らの単独犯を主張。妻の真美、孝紘は起訴事実を全面的に認めた。孝は地検支部からの逃走以外の罪を全面的に否認した。

第2回公判以降、主張の食い違う実雄・孝と、起訴事実を認める真美・孝紘とに分離して行われる運びとなった。

 

先んじて真美・孝紘の審理となる。

2005年10月11日の公判では、拳銃での殺害について「孝も何発か撃ったのではないかと思う」という真美の供述調書が読まれ、孝紘の弁護人が「親に疑われてどう思うか」と証人として出廷した孝に質問した。孝は「実の親とも身内とも思っていない」と答えると、後方の被告人席にいた孝紘が「あほか、殺すぞ」などと叫んで殴りかかろうとし刑務官に取り押さえられる一触即発の場面もあった。罪状認否を巡って、親子、兄弟にも大きな確執が生じていた。

検察側は、真美は4人共謀の中心的立場にあり、母親が我が子に殺人行為をさせるとは「人間の所業とは思えない」とし、4人殺害の実行を遂げた孝紘は「殺人鬼」としか言いようがなく犯罪性向は「もはや矯正不可能」と糾弾した。弁護人は反省と悔悛の態度から死刑回避を訴え、最終弁論で2人は謝罪の弁を述べた。

2006年10月17日の両被告の判決審では、検察官の論告通り、犯行様態の残忍さ、結果の重大性から罪責は極めて甚大で極刑をもって臨むほかないとされ、真美、孝紘それぞれ死刑の判決を下した。

言い渡しが終わると真美は「5分だけ後ろを向かせてください」と願い出て傍聴席の遺族らに「原さん、色々ありがとうございました。おかげで人間の気持ちを持つことができました。高見家の方々にはまだ言葉が見つかりません。いろいろと社会に迷惑を掛けました。すいません」と語り掛けた。終始落ち着かない様子で遺族側を恫喝するようなそぶりも見せていた孝紘に対し「ごめんね、お母さんが悪い」と声を掛け、息子が不貞腐れると「なるようにしかならんやろ」と怒鳴り、開き直った。孝紘は証言台に立った兄との喧嘩、極刑を望む遺族に対して「ふざけんな」と暴言を吐くなど騒動を繰り返した。

小夜子さんの母、エイ子さん(81歳)は「判決を聞いて改めて許せない気持ちになった。謝罪の言葉は本心とは思えず、死刑は当たり前。ようやく胸のつかえが取れたような気がする」と話した。

 

2006年10月24日から実雄・孝の審理が再開された。

孝は福岡地検久留米支部での逃走罪についても問われており、「前夜、久留米署で自殺を図ったが死にきれず、死のうと思って逃げた」とその動機を述べた。「親父の近くで死のうと思った」「裁判所宛てに『全部一人でやった』と遺書を送れば孝紘が助かると思った」と述べる一方、4人の殺害については改めて否認した。

検察側は両被告の主張の矛盾点を指摘し、実雄を真美と同じく各犯行の主導者と位置づけ、「分け前」をちらつかせて殺害に孝紘を引き込んだ責任は実行犯よりも重大と述べた。

2007年2月27日の判決審で高原裁判長は、両被告に求刑通り死刑を言い渡した。実雄の「単独犯」との主張を不自然、不合理と退けた上で、拳銃自殺を図ってでも真相を隠そうとするなど、暴力団特有の歪んだ価値観が根付いており、強制は困難と述べた。また公判に至って無罪の主張に転じた孝に対して、実行役を孝紘に押し付けて自分はわき役に転じるなど狡猾だと指摘。また逃走について、警察・検察の監視体制に油断や落ち度があったことにも釘を刺した。

被告4人が家族、それも揃って死刑判決が下されることは前代未聞である。4人は揃って控訴した。

我が一家全員死刑

2007年10月11日、福岡高裁(正木勝彦裁判長)で控訴審が開始される。

一審で単独犯行を主張した北村実雄は家族との共謀関係をほぼ認めたが、「金品を奪うつもりはなかった」として罪状の軽減を訴え、孝は有罪とするには客観的証拠が不十分でアリバイもあると主張し、改めて無罪を求めた。

12月25日、福岡高裁は4人の共謀を認定した一審判決を支持し、真美、孝紘両被告の控訴を棄却した。

殺害の実行役を担い「刑事責任が特に重い」とされた孝紘は、黒のスーツにサングラス、ヒョウ柄コートを羽織って入廷し、終始落ち着かない様子で母親に叱られる場面もあった。裁判長の極刑宣告に対して「メリークリスマス!」と場違いな大声を上げ、反省の色を見せることはなかった。後に両被告は判決を不服として上告。

傍聴した遺族は「二人の態度は一審判決のときから何も変わっていない」「殺された子どもたちにクリスマスは来ない。被告らは人間社会から退場し、永遠に戻ってこないでほしい」と怒りを露わにした。

2008年3月27日、福岡高裁は一審判決を支持し、金銭強取の目的に誤りはないと認定。孝のアリバイについては成立しないとして、両被告の控訴を棄却。ともに判決を不服として上告した。

2011年9月から10月にかけて行われた上告審でも最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)、第2小法廷(須藤正彦裁判長)は揃って原審を支持し、4人すべての上告が棄却され、全員の死刑判決が確定した。