いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

月ヶ瀬村女子中学生殺害事件

1997年に奈良の山村で起きた女子中学生殺し。男が犯行に至った背景には「村八分」の慣習があったとされている。

 

事件の発生

1997年5月4日午後、奈良県添上(そえかみ)郡月ヶ瀬村「嵩(だけ)地区」に住む中学2年生・浦上充代さん(13歳)が行方不明となった。充代さんは卓球大会に参加した後、夜になっても帰宅せず、心配した家族が21時40分頃、地元の派出所に届けた。
 
その日は朝から約50km離れた橿原(かしはら)市で卓球の大会が催されており、学校のチャーターしたバスで部員たちは送迎された。
14時前、充代さんは自宅から約1.7キロ地点にある名張川沿いの食堂の前で、先輩、後輩と下車。3人は一緒に県道を歩いて帰路に就いた。700mほど東進して分岐点となり、先輩と後輩は月瀬地区へ、充代さんはここから一人で嵩地区へと別れ、その後の足取りが途絶えた。
 
翌5日、周辺の捜索により、自宅に向かう県道に充代さんの履いていた靴2足が見つかる。路上にはタイヤ痕が残され、ガードレールに血痕が付着した状況は「交通事故」を思わせた。警察は、車両との接触事故に加え、少女が連れ去られた可能性があると見て捜査を開始する。
 
ほどなく充代さんの自宅から約3km離れた村内の「西部浄化センター」の公衆トイレの浄化槽から、切り裂かれた被害者のジャージなどの所持品が発見される。
更に、トイレの隣にあった休憩所(あづまや)のゴミ箱として使われていたドラム缶には、犯人の遺留品と見られる血痕のついた黒色ダウンベストが無造作に捨てられていた。後日、周辺を再捜索した村の職員が、焼却炉として使われていたドラム缶から複数の毛髪の付着した「使用済みのビニールテープ」を見つけ、後にこれが被害者の毛と確認される。
タイヤ痕などから使用された車両は大型の四駆車とみられ、周辺地域での該当車種は5000台ほどに絞り込まれた。
 

逮捕

 奈良県東北部にある月ヶ瀬村は、京都・三重との県境に当たる「大和高原」に位置する。村の中央を「名張川」が流れており、風光明媚な名勝「月ヶ瀬梅渓」や「五月茶」の生産で知られる、人口2000人ほどの長閑な山村であった。現場となった「嵩集落」は、村の中心部から川で隔てられた、戸数16の小さな山間集落だった。
 
聞き込みを開始すると、被害者と同じ嵩地区に住む無職・丘崎誠人(25)の悪評が聞かれ、焼却炉から見つかったものと酷似したダウンベストを着用していたことや、最近は大型の四駆車・三菱ストラーダを乗り回しているとの情報、さらには車で付きまといの被害に遭ったという女子学生の証言もあった。丘崎は道交法違反の罰金以外に前科はなく、女子生徒の捜索活動にも参加しており、当初は失踪後の目撃者の一人として捜査にも協力的な態度を示していた。
だが駆け付けた報道陣に連日取り囲まれるようになると、「俺はシロ。疑われて迷惑や」とわめいて小競り合いを起こし、取材カメラに蹴りを入れるなど反発する態度を見せた。これが火に油を注ぐ展開となり、マスコミは2か月余りにわたって「凶暴な容疑者」を喧伝し、小さな集落で起きた大騒動を演出した。
「私の記憶する限り、村内でこれまで発生した事件と言えば、交通事故か、たまに空き巣があるくらい。強盗ひとつ起きた例がない」
窪田幹三村長は、連日の報道で村の悪名が知れ渡り、村落の秩序が荒らされることに憂慮を示した。

7月25日、奈良県警は未成年者略取誘拐の容疑で丘崎を逮捕した。
事件後、丘崎は購入からまだ3か月の車を修理・売却していた。県警は車内の後部シートから血痕を発見し、被害者と合致するDNA型が検出された。ジャージに残されていたタイヤ痕との一致も確認され、ダウンベストに丘崎と血液型の一致する毛髪が付着していたことが逮捕の決め手とされた。
当初は「知らん」「分からん」と容疑を否認していた丘崎だったが、遺体こそ見つかってはないものの物的証拠も揃っていたことから、8月1日に自供が開始された。きっかけは女子生徒に声を掛けたが無視されたことだと話したが、それ以外にも、以前から村で受けていた差別に対する当てつけ、逆恨みがその動機形成の背景とされた。
「断り方も知らない奴や。”もうすぐ家やからいいです”、くらいの言い方あるやろう」
「俺をよそ者やと思ってるから無視しよる。返事もしやがらん。嵩(だけ)の者は俺を嫌っている。この女も一緒や」
「許さん、車を当てて連れ去ってやろう。これまでの恨みを晴らすええ機会や」
「てんご(悪戯)するつもりだった」
「俺や家族をよそ者扱いする村の人間、風習、しきたりがすべて嫌いだった」
「幼少の頃から貧しい家に育ち、嵩地区の他の家と同様のレベルの生活をすることができなかった。母親が文盲で、しかも父母の姓が異なっていたことなど、他人とは異なるという認識を持っていた」
丘崎は「帰宅途中の充代さんを見かけ、家に送ってあげようと声を掛けたところ、無視されて腹が立った。歩行中の彼女を車ではね、近くの公衆トイレ付近で石で殴打して殺害した」旨を供述。その後の犯行供述に基づき、事故現場から約13キロ離れた三重県伊賀上野の御斉(おとぎ)峠の崖下で、白骨化した少女の遺体が発見された。
 

ムラ社会と差別

当初の報道では、押収品に制服姿の女性を凌辱する内容のアダルトビデオや成人雑誌が多く含まれていたこともあり、「わいせつ目的の誘拐殺人」といったニュアンスで伝えられたが、その後の公判で、犯行動機として「集落で受けてきた差別」が挙げられたことにより、犯行以外の側面にも注目が集まることとなる。
 
月ヶ瀬村を含む大和高原周辺は、両墓制と呼ばれる「土葬」の風習が2010年代まで残っていた地域である。都市化の影響が少ない山間部の信仰形態、中世より引き継がれる村落共同体の固い秩序がそうした慣行を長い間維持してきたともいえる。集落には、江戸時代の「五人組」が元になったとみられる「与力」と呼ばれる慣行・しきたりが深く根付いていた。
 
「五人組」は、いわゆる「ムラ社会」の統治・秩序維持のためのシステムといわれる。相互監視・相互扶助、更に集団に連帯責任を課すことで、年貢の徴収や争議の解決をスムーズにし、「火付け」等のトラブルや「逃散」を防ぐ効果もあったとされる。互助会的な性格はその後も形を変えつつ、戦中の「隣組」、戦後の「区会」「町内会」などに引き継がれていった。
「与力」は集落に複数人置かれ、イエ制度と重なって同族組織のまとめ役、あるいは地縁内の有力者、「親方」として権威づけられた。冠婚葬祭、家の普請や農作業等での労力提供、争議の仲裁・調停など、身の回りの一切を取り仕切っていた。
外地からの新規移住である「村入り」「区入り」の際には、永代にわたる身元引受人となる「与力」の認可、いわば保証人による「親受け」が必要とされた。村入りが許されなければ村の共同墓地も割り当てられず、どこの家も身元保証を易々とは引き受けないため、10年以上にわたって村入りを許されない場合もあるという。
 
約30年前に同地に移住してきた丘崎の家は、集落では「新参者」扱いだったとされる。村人は「地縁血縁による古い制度もあり、村外から移ってきた丘崎の家族が入れないものもあったかもしれない。しかし、村の行事などにも誘いがけをしてきたつもりだ。差別をしてきたようには思わない」等と証言する。
たとえば村の行事「氏神祭り」には、誰でも自由に出入りができる。だが、その運営は、宮座を中心とした村の組織に任されている。丘崎も祭りを訪れることはできたが、成人して尚、運営に携わることが許されることはなかった。生まれたときから村の住民であっても、決して一人前の「村人」として受け入れられることがない現実は、外から移住してきた親以上に被差別感情を増幅させていたかもしれない。
 
余所から来た内縁の夫婦は「村入り」を許されなかったが、民生委員をしていた浦上定宣氏が地主に取り計らい、茶畑の奥にあった雑木林の小屋を月1万円程で貸してそこに住むことを許したという。定宣氏は本件被害者の祖父に当たる人物だった。
茶栽培には適さない日当たりの悪い傾斜地で、コンクリートの基礎部分さえないトタンとベニヤで囲われた物置小屋のようなみすぼらしい建物だった。下水道は敷設されておらず、穴を掘って用を足さねばならない粗末な家であったが、夫婦は村はずれのその場所で5人の子を育てた。田畑を持たない夫婦はダムの建設工員などで日銭を稼いだが、母親が朝鮮人だったこともあってか、いつまで経っても「村入り」を許されることはなかった。
公判で、被害者の母親は「今までそんな差別という言葉も聞いたことありませんし、村の人もだれも差別していないと思います」と述べた。かたや丘崎の母親は「火事と葬式だけは村で面倒を見てやるが、それ以外は付き合わない」と言われていたことを証言している。事実とすれば、典型的な「村八分」である。
 
母親は家事も疎かで気性も荒かったとされる。いつしか父親は外に女をつくり、家を空けるようになった。母親や姉は村の「慰み者」にされていたという話もあるが、その真偽は村人しか知りようがなく、そうした噂が立つこと自体、村人からの蔑視が少なからず存在していたことを裏付けるものだ。
丘崎は「元々おとなしくて素直ないい子だった」、と語る長老もいる。転機は小学校3年生のとき、公民館が全焼する火災があり、現場で「誠人、逃げ!」という声が聞かれたとの住民証言から丘崎が放火犯のひとりと疑われた。ビニールハウスのボヤ騒ぎも、青年団での金の紛失も、集落で何か事が起これば丘崎の仕業とあらぬ濡れぎぬを着せられ続けた。学校へ行けば教諭からいわれのない体罰を受けることになり、中学も2年で通わなくなった、と丘崎は主張する。担任らは自宅に通って復学を促したが、3年時には一度も登校することなく、クラスメイトが自宅に届けた卒業証書は自ら破って燃やしたという。
 
村での暮らしに幻滅していた丘崎は、奈良県で測量事務所のアルバイトを開始する。半年後、大阪の専門学校に入学したが長続きせず中退。東京へと赴き、住み込みの調理師見習などをしたが、気性の粗さや短気な性格からいずれも長続きせず、1年ほどで月ヶ瀬の実家へと戻ることになった。
地元で土木作業員や警備員の職に就いたがやはり半年と続かなかった。隣村に住む親類の左官会社で見習工となるも遅刻常習者で、注意されるとすぐに不機嫌となり、口利きで紹介された工務店でも遅刻を理由に解雇された。事件前の時期は定職に就かず、テレビゲーム、ビデオ、車、風俗通いと遊興に耽っていた。働く意思すら失った若者に対し、村人たちは白眼視を一層強めていたとみられる。
事件当時、両親と四女と暮らし、同じ敷地の6畳ばかりの「離れ」に長姉と3人の子どもが暮らしていたが、逮捕後の9月には空き家となった。
 

裁判とその後

1997年10月27日、奈良地方裁判所(鈴木正義裁判長)で初公判が開かれた。
検察側は冒頭陳述で、「これまで嵩地区の住民から差別を受けてきたとして、不快感を抱いていたこともあり、(送ってやろうと声を掛けたのに)充代さんが無視したのもその表れであるとして、車をぶつけて連れ去ろうと思った」と動機を指摘。連れ去り後、「病院や警察に連れて行けば、自分が犯人と分かり、家族までが嵩に住めなくなると思った」と殺害に至った経緯を明らかにした。
 
起訴状によれば、5月4日14時25分頃、帰宅途中の充代さんを拉致しようと時速約30キロで故意に車を衝突させて、後部座席に押し込み、御斉峠まで連れ去り、17時頃、粘着テープで首を絞めた上、5キロ近い石で頭部を繰り返し殴りつけて殺害したとされる。死因は左頭蓋底骨折による脳挫傷。身元判明を避けるため、カッターナイフで着衣を切り裂き、村内の公衆トイレなどに遺棄した。5月7日には、更なる隠蔽を目論み、再び峠の殺害現場に戻り、近くに捨ててあった布団を遺体に被せたという。
 
被告人は起訴事実を全面的に認め、「充代さんとその家族に心からお詫びし、一生をかけて謝罪していきたい」と謝罪文を読み上げた。高野嘉雄弁護士ら弁護団は、村内での処遇の実態と、被告人の被差別感情を動機の重点として情状酌量を求めた。
一審では懲役18年が言い渡されたが、検察側がこれを不服として控訴。
 
2000年6月14日、大阪高裁(河上元康裁判長)は、事件の背景とされた差別を量刑判断から斥けて、原判決を破棄し、無期懲役判決を下した。
検察側は、浄化槽から発見された被害者の下着の形状が、「ハイレグ状に切断されている」と説明。また着用させたままの状態で、股間部分から半弧を描くようにして切り取られていたとして、その過程を楽しんだ凌辱的異常性向の持ち主だと糾弾した。被告人はパンティーを切った記憶は一切ないとしている。
退官後の取材で河上氏は、「罪の重さを自覚してほしかった。自覚するにはより時間が必要で無期懲役を科すべきと考えた」と述べている。
弁護団は上告を強く勧めて手続きを取ったが、間もなくこれを取り下げたため、無期懲役が確定した。
2001年9月4日夜、丘崎は、収監先の大分刑務所の独居房内で、巡回の目を盗み、ランニングシャツで自らの首を括った。享年29。遺書の類は残されておらず、遺骨は両親が引き取ったという。

2005年4月、月ヶ瀬村は100年余の村史を閉じ、奈良市編入
事件後、丘崎のきょうだいは離散したが、彼の両親は被害者の月命日になると墓の掃除などに通い、2010年頃まで墓前に手を合わせ続けたとされる。一家が暮らした母家は取り壊され、今日では湿った傾斜地に長姉とその子どもが暮らした小さな「離れ」と石垣の残骸が残るばかりで、草木に侵食されている。
 
 
所感
はたして丘崎が訴えるような村ぐるみの差別の実態は存在したのだろうか。私たち部外者は、田舎には差別が残っている、悪しき因習が蔓延っていることを「期待」しがちである。インターネット社会においては都市生活者の比率が高く、田舎暮らしの高齢者が少ないことなどから、田舎のムラ社会が背景とみられる事件はセンセーションをもって捉えられることが多い(キー局によるワイドショーや都会から取材に訪れる記者らの視点・印象もそうした田舎に対する偏見助長につながりやすい)。
無論、都会にはない文化やならわし、男尊女卑など差別的要素を孕んだ慣習も地方では残っており、移住者は住みづらさや息苦しさを感じることも多いと聞く。たとえば秋田県小阿仁村の医師いじめ問題山口県周南市で起きた連続殺人放火事件、土佐市の飲食店経営移住者による告発騒ぎなどの反応も、偏った情報やどこか歪んだ憶測が飛び交う過剰なものであった。

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丘崎の家が「村入りを認めてもらえなかった」「子どもの頃に放火犯として疑われた」というのは事実に思われ、男の心的発達によからぬ影響を及ぼしたおそれはある。だが本人が動機と語る「差別」をあえて懐疑的に捉えるならば、集団ストーカー被害を訴える者のような自己保身や心的な不穏さも俄かに漂う。

放火の真偽は分からないし、若い頃には村を離れて人知れず努力した日々を過ごしたかもしれないが、気性の粗さや遅刻の常習、失職後の生活などを聞く限り、男は人から信用を得られない人間性だったと見受けられる。「引きこもり」は社会的評価や周囲の視線を気にする傾向があり、そうした自意識がますます彼らを社会生活から遠ざけるとも言われる。我が身の不幸を全て親のせい、出自のせいに帰する「親ガチャ」と呼ばれる思考停止が昨今の風潮だが、丘崎は家族の不遇、自らの不成功の責任をその「集落」に擦り付けていたとは考えられないか。

過去に誹謗中傷をした人間や「村入り」を認めない「与力」、村の権威者に対する犯行であったならばまだ情状の余地はあるかもしれないが、男の不遇な生い立ちを13歳の少女を殺害する動機に結び付けて論じるのはどうしても無理がある。丘崎の話がすべて事実であろうとも、やったことは積もり重なった不満を弱い者へ向けた卑劣極まりない犯行に違いないのである。

 

誠人君が罪を深く悔いていたことは、接見して直感した。自殺も、おそらく罪の意識からだと思う。かれは最後まで心を閉ざし続けた。刑事や検事はいうまでもなく、弁護士すらも信用していなかった。かれの心をこじ開けられなかったことを、私は弁護士として慚愧に思う。

高野弁護士は丘崎の自殺について上のように述べている。本人としては事実であれ虚言であれ自分の言葉を信じてくれる人間はいない、もはや理解者は必要ないというような絶望の淵に立っていたことは確かであろう。男は人間の助けや情愛に触れる機会、他人への信頼があまりにも不足していた。

収監先でリンチや嫌がらせなど深刻な問題に直面していた可能性もないとは言えないが、「一生をかけて償う」と反省を口にしながらも、自ら命を絶つ決断をしたことも彼らしい態度、白々しい最期と言えるかもしれない。

男は生まれてから29年間ほとんど苦しみの中を生きてきたかもしれない。だがたった13年間でその命を閉じられた被害者、彼女との時間を奪われ弔いを強いられることとなった遺族、それまで以上に逃げるように隠れながら生きていかなくてはならなくなる自分の家族の気持ちさえ思い巡らせることを止め、自分を殺すことを選んだ自己中心性は嘆かわしいとしか言いようがない。絶望を生き、苦しみに悶えながら、許されることがないと分かっていても謝り続ける生き様を丘崎は選択できなかったのだ。

 
被害者のご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。
 
 
 
参考