いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

地下鉄サリン事件とオウム真理教

1995年(平成7年)、朝の通勤で混み合う東京都心の地下鉄で猛毒サリンがばら撒かれる世界でも稀に見る大都市無差別テロが発生し、死者14人、重軽傷者6300人の甚大な被害を生んだ。《人類救済》を唱えるカルト教団オウム真理教による犯行が明るみとなり、日本中を震撼させた。

事件の発生

1995年3月20日(月)8時頃、東京都下を走る営団地下鉄(現・東京メトロ)の千代田線の1編成、丸ノ内線日比谷線の各2編成、計5本の地下鉄車内で神経ガスサリン」が散布された。
月曜朝のラッシュアワーに起きた同時多発テロで、後に霞が関周辺の官公庁の通勤時刻を狙った犯行が明らかとされる。
実行犯は各車両1人ずつの合わせて5名。溶液の入った袋を車内に持ち込んで傘の先で突くなどしてガスを発生させ、逃走していた。
 
被害者が次々に発生し、千代田線は「国会議事堂前」駅で緊急停車。中身を知らずに袋の回収に当たった駅員2名が死亡した。
丸ノ内線の一便では通報を受けた駅員が被害者を搬送し、車内に残っていた溶剤入りのパックを回収。除染されないまま終点荻窪駅まで運行した後、折り返して新高円寺駅で停止するまで体調不良を訴える被害者は増え続け、2人の犠牲者を出した。
逆進行のもう一便は、8時30分に終点池袋駅まで走行し、本来行われる車内の遺留物点検が行われないまま折り返し、9時27分まで走行を続け、死者こそなかったものの重傷者は約200人にまで広がった。
日比谷線の一便は霞ヶ関駅で運航を停止。2名が死亡し、532人もの重傷者を出した。
前述の4便では溶液のパックは2パック見つかっていた(1パックしか穴が開けられていなかった路線もあった)が、北千住発中目黒行きの便では3パックが見つかった(破損は1パックのみ)。乗客の咄嗟の判断でパックは小伝馬町駅プラットホームに蹴り出されたが、液体が残った車内は次第にパニックとなり、築地駅で非常停止された。またパックが蹴り出された小伝馬町駅では、運航停止となった後続5便の乗客らが構内でガスを吸引することとなり、合わせて8名が死亡、2500名近い重傷者を生んだ。
 
下のANNニュース動画では、当日の周辺での警察無線の音声を一部公開している。ラッシュで車内は車両の行き来もできないほど混み合い、スペースの限られた地下駅では搬出作業も困難を極めた。被害状況も頭痛やめまい、吐き気、視覚障害、呼吸困難など影響の度合いによって症状が異なり、緊急度合いによって治療優先度を決めるトリアージを含め対応も困難を極めた。
「透明の液体」「シンナーのような臭い」。
都心を混乱と恐怖に陥れた得体の知れない毒ガスの報せを受け、直後に組まれた対策本部には刑事部・警備部・公安部が総動員された。機動隊を出動させて現場からの搬出を急がせる一方で駅や車輛での鑑識を行い、自衛隊の化学部隊が防毒マスクを着用して次亜塩素酸カルシウム溶剤による中和、除染作業に当たった。
科捜研は現場に残った液体から使用された毒物が有毒神経ガスサリン」と特定し、11時の緊急記者会見を通じて伝達された。だが名医や有能な看護師たちとはいえ普段から化学兵器、毒ガスの症例知識や療法などを身に着けている訳ではなく、病院には途切れることなく被害者たちが担ぎ込まれ戦場さながらの様相を呈した。
 
毒物鑑定とほぼ同時並行に、松本サリン事件(94年6月27日発生)の被害者対応に当たった信州大付属病院・柳沢信夫教授が、テレビで報道された症状からサリン被害に似ていると判断して連絡を入れていた。対処や治療法を東京の病院に伝え、適切な処置の助けとなった。
一方で、治療薬となる有機リン系中毒の解毒剤・プラリドキシムヨウ化メチル(PAM)は、甚大な被害者数に対して、搬送先の聖路加国際病院など都内の大病院でも大量のストックは保管されていなかった。PAMは一般的な農薬中毒の治療でも使用される薬剤だが、標準的には一日2本が使用される。サリンの治療では2時間に2本が必要となるため、数千人分のストックを抱える病院はどこにもなかった。都内の在庫が全て使い果たされ、各地の病院や陸上自衛隊などから空輸と陸路で緊急輸送された。
 
その後も被害拡大を想定して駅構内のゴミ箱撤去などが行われ、連日、緊急テロ対策として警官らが配備される物々しい警戒態勢が都心のみならず各地の中心駅や大規模施設周辺などで見られることとなった。
 
 

深刻な被害

当初は軽度の症状でも治療せず後に悪化させるケースも少なくなかった。視力障害や慢性疲労のほか、電車の乗車に不安を感じるなど心的外傷(PTSD)を負うなど、多くの被害者をその後も苦しめた。
事件当日は墓参りや食事などができていた76歳男性は、翌日銭湯で倒れ、心筋梗塞で死亡。サリン吸引との因果関係が証明できないとして2008年12月のオウム被害者救済法の施行まで被害者認定されずにいた。そのためそれより以前の資料では犠牲者「12名」とカウントされていることが多い。
2020年3月10日、丸ノ内線で被害に遭い、その後もサリン中毒の後遺症で中枢神経障害を負い、寝たきり状態となっていた浅川幸子さんが低酸素脳症により56歳で亡くなった。発生から25年が経とうとしていた矢先、犠牲者は延べ14人となり、事件の深い爪痕を人々は思い知らされた。
かつては安全神話で知られた日本の首都を襲った毒ガスによる未曽有の無差別テロの被害は世界各国でも大々的に報じられた。
 
 

松本智津夫オウム真理教

後にオウム真理教教祖・麻原彰晃と名乗る松本智津夫は1955年(昭和30年)に熊本県八代市の畳職人の第七子として生まれる(男6人女3人の9人きょうだい)。全盲の長兄、弱視の五男に似て、先天性緑内障により生まれつき左目にほとんど視力がなかった。水俣病を疑って役所に申請したが却下されたこともある、と後年、長兄は語っている。
1961年、智津夫は八代市内の小学校から熊本市の盲学校に転校し、寄宿舎生活を送る。八代市は畳の材料「い草」の産地として知られているが、畳産業が斜陽となり、子沢山の松本家は極貧だったとされる。20歳で卒業するまで両親が寄宿舎を訪ねたり、援助物資を送ることもなく、本人は「親に捨てられた」と思い、近所でも「口減らしだ」と噂が立った。
智津夫は右目が見えるため、盲学校では他の生徒たちを子分扱いして暴力支配し、金銭や物品を恐喝、窃盗やリンチをさせるなど非行化が進んだ。体格が良かったことから柔道に打ち込み19歳で講道館の2段を取得。成績は中程度だったが生徒会長や寮長に立候補して全て落選。医師や内閣総理大臣を目指すと公言するなど権力志向が強かったと言われる。
 
卒業後は熊本市の長兄の漢方薬店の手伝いや東大受験を目指して上京を重ねた。1978年、代々木ゼミナールで出会った石井知子と結婚し、その後3女に恵まれる。千葉県船橋市に居を構え、鍼灸院や漢方薬局などを開業した。占術や仙道の研究を始め、神秘体験を得たことからそれまで触れてこなかった宗教の世界に傾倒し、翻訳仏典や新宗教阿含宗に出会う。
80年代初頭には健康食品の違法販売などで収益を上げていたものの、保険料の不正請求で670万円の返還要求、薬事法違反による逮捕などが続いた。松本は家庭を顧みず宗教活動にのめり込み、知子は神経を病んで家出を繰り返したという。
1983年夏、阿含宗を脱会して、渋谷区桜丘に超能力開発の学習塾・鳳凰慶林館を開所。この時期から麻原彰晃を名乗り、翌年には塾をヨガ道場「オウムの会」に改称した。当時は宗教的指導でも命令的でもない一般的なヨガ講師の類を出なかったとされる。だが1985年には雑誌『トワイライトゾーン』『ムー』に「空中浮遊」を騙る写真や記事を掲載し、取材の中でハルマゲドンや救世主思想に触れることとなり、その後の思想に影響を与えた。
86年4月に宗教団体「オウム神仙の会」に改称。麻原の自著『マハーヤーナ・スートラ』によれば、その年の7月にヒマラヤで最終解脱を遂げたとされる。その当時には武力と超能力による国家転覆を公言しており、「そのときはフリーメイソンと闘うことになる」等と持論を展開していた。
健康ブームの影響もあり、ヨガ道場は拡大を続けた。1987年にはチベット密教など既存宗教を基に独自色を強めた「オウム真理教」と改め、世のオカルトブームやメディアでの露出で布教活動を拡大させていった(宗教法人格は89年に東京都が認証)。世間一般には半信半疑というより嘲笑的な見方が主だったものの、お笑い番組で超能力者として取り上げられた縁から、ダライ・ラマ14世との接見機会を得る。これを教団の宣伝に利用し、最盛期には1万人の信者を集めた。
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核戦争を予言し、教団の拡大と人類の救済を説く精力的な勧誘活動、出家制度による布施を集める一方、87年以降は教団内での支配や統制の色を強めた。「グルと共に転生するためにはタントラ・ヴァジラヤーナの実践が必要である」として阿含宗からのスパイを摘発するように命じたり、「魂の転移」を意味する「ポア」という用語を転用して教団内での粛清を指示し、果てにはリンチや殺害の意味と解釈されることとなった。
88年9月22日には在家信者死亡事件が起こり、ドラム缶で遺体を焼却。10月には富士宮市に富士総本部道場が建設されると、「資本主義と社会主義を潰して宗教的な国を作る。オウム信徒以外は生き残らない」と反国家的な思想を標榜するようになっていく。内部統制によって離反者の監禁や暴行が常態化。
1989年2月10日には脱会の意思を示した信者が殺害された。その後『サンデー毎日』で「オウム真理教の狂気」なる告発連載が始まると出版社への敵意を募らせ、当初は爆撃が指示されたが頓挫。麻原はテレビ出演などで釈明に追われることとなる。
11月4日には「オウム真理教被害者の会」を組織してオウム批判や宗教法人格取り消しの民事訴訟を準備していた坂本堤弁護士、妻、当時1歳の長男の3人を殺害させた。実行犯の一人が現場にプルシャ(教団のバッジ)を残したため、当初から教団への嫌疑が強まった。教団への疑惑を隠蔽するため、事件直後からプルシャを大量生産して信者や外部に配布していたとされる。麻原は擁護派の宗教学者中沢新一と雑誌に登場し、監禁殺害への疑惑や事件について「オウム真理教は全く関係がないとしか言いようがない」と説明した。
 

先鋭化

教団への風当たりが強くなったこともあり、1990年2月の衆院選議席を取って政治を変える道と、さもなければ武装して国家転覆し世直し救済をするという極論へと陥った。「真理党」は奇抜なダンスで注目を浴びたが結果は惨敗に終わり、テロに向けた準備が進められることとなった。
ボツリヌス菌の培養を行い、街頭での散布や荒川への投棄などを実行したが目に見える被害を与えることはなかった。化学兵器の生産プラント施設建設に向けて山梨県上九一色村に、テロ計画に先駆けた信者の移住先として阿蘇に土地を購入したが、いずれも地域住民と激しく対立して強制捜査などが入り、武装化計画は一時中断された。
その間も、雑誌の対談や討論番組、バラエティ番組などに麻原は積極的に登場しており、物珍しさや知的好奇心による安易な起用が布教宣伝となり若者を中心に被害者を増やしたとの見方もある。また批判的な扱いをするメディアに対しては押しかけての嫌がらせやスラップ訴訟も辞さない態度を繰り返したことから各事件への追及が尻込みされ、教団の暴走を許す結果につながったとする見方もある。
 
92年、教団は国外に活路を見出そうとロシア進出を開始し、300人の信者を連れてモスクワを訪問。各所に経済支援を行って結びつきを強め、ラジオ番組で布教活動を続けた。オカムラ鉄工の乗っ取りに成功すると、同社のレーザーによるプラズマ切断機を応用して兵器製造を計画。93年には再軍備路線を取り、ロシアで兵器の開発研究を進めるとともに、武器の調達も行った。モスクワ郊外にビレッジ建設を進め、最大3万人もの信者を集めたとされる。
核兵器開発を視野にオーストラリアの土地を購入したが、目的のウラン発見には至らず。その一方で炭疽菌の培養、サリンの合成に成功を果たし、実用化に向けたシミュレーションが進められていった。
この頃になるとハルマゲドン;最終戦は97年に起こるとし、「神仙民族」たるオウム信徒が生き残る終末論を説き、物質主義;資本主義によって世界を洗脳下に置こうとするフリーメイソンが教団を潰そうとしていると主張した。ユダヤ資本によって牛耳られた日米政府、公安やCIAから攻撃を受けていると陰謀論を説き、外部社会との隔絶を強めた。
LSD覚醒剤PCPなど合成麻薬を自家製造して信者のイニシエーション(瞑想)に用いるようになり、かつての健康志向やヨガ教室の面影は完全に失われていた。
 
 

松本サリン事件

1994年6月27日深夜、長野県松本市深志周辺で悪臭が発生し体調異変を訴える住民からの通報が相次ぎ、翌日までに死者7名、重軽傷者140名以上を数える惨事となった。「農薬の調合に失敗したと話していた」とするリークから、県警は「被疑者不明の家宅捜索」によって第一通報者である河野義行さん(当時44)に対して嫌疑を向けた。
自身も中毒被害を受けた河野さんは弁護士を通じて関与を強く否定。
7月3日に県警が周辺6か所から神経ガスサリン」が検出されたと発表した後も、農薬からサリンは合成されないにもかかわらず、その後半年余りの間、疑惑は打ち消されることなく、河野さんはメディアスクラムや全国からのいやがらせ、中傷に晒され続けた。

サティアンと呼ばれる教団施設では化学兵器などが生産されていた〔警察庁
11月頃、「HtoH&T.K」名義で各メディアに怪文書が送付され、オウム教団によるサリン計画の一環と告発する内容だったこと、都市部を狙う可能性も指摘されていたことでも後に話題となったが、内部密告か事実関係からの推測かは今も不明である。
地下鉄サリン以後、オウムによる犯行が明らかとなり、国や捜査機関、メディア、文化人ら各方面から謝罪を受けた河野さんは、捜査機関とメディアによる冤罪被害者の立場から報道に対する警鐘・啓蒙や被害者支援活動を続けた。重い後遺症を伴うこととなった河野さんの妻・澄子さんは長い闘病の末、2008年に息を引き取り、松本での犠牲者は8人となった。
後に、松本でのサリン散布は、教団の地上げ・施設建設に反発した市民らへの報復だったことが動機と判明する。
 
 

教祖の逮捕

1995年3月22日、オウム真理教の本部施設への一斉捜索が行われた。教団幹部で顧問弁護士であった青山吉伸は捜査妨害を信者らに指示したが、翌日までに教団の武装化を裏付ける兵器開発データ等が押収された。上祐史浩ら広報幹部はテレビ出演などで教団の潔白を主張。
 
地下鉄サリン事件から10日後の3月30日、國松孝次警察庁長官狙撃事件が発生。教団の関与が強く疑われたが、直接的な証拠のないまま2010年に時効が成立した。公安はオウムによる組織的テロと主張したが、刑事部では別の真犯人がいると意見が割れたままの幕引きとなった。
2002年、名古屋の現金輸送車強盗で逮捕された中村泰(ひろし)が08年になって國松長官狙撃を自供し、刑事部はこちらがホンボシと考えていた。男は捜査員も舌を巻く狙撃の技量の持ち主で、狙撃事件前後に武器庫としていた貸金庫を使用。長官の車両が変更されたことなど具に長官の行動を監視していたことを匂わせる「秘密の暴露」もあった。
 
4月には兵器購入等を担当した防衛部門のトップ・岐部哲也、教団のPCショップ「マハーポーシャ」取締役で信者へのリンチ殺人を主導した越川真一、地下鉄サリン実行犯で逃亡中だった林郁夫、イニシエーション開発や三女アーチャリー(松本麗華さん)の家庭教師として忠誠心を認められていた石川公一、弁護士一家殺害や松本サリンなど数々の事件で実行役を務めた新実智光、不動産取得やプラント建設、ロシアからの密輸のパイプ役なども担った早川紀代秀ら古参信者、最高幹部が次々と逮捕された。
科学技術部門最高幹部で教団のナンバー2と目された村井秀夫は秘密裏に新宿駅での青酸ガステロ、都庁爆弾事件を指示していたが、4月23日、南青山総本部前で右翼団体神州士衛館」構成員・徐裕行に左腕、右脇腹を刺され、翌日死亡した。徐は現行犯逮捕され、動機を「義憤に駆られた」と語った。背後に暴力団の関与や教団の口封じなどが疑われたものの、組織的犯行とは認められていない。

手錠をかけられた麻原〔牛島さん私物〕
5月16日、上九一色村にあった教団施設の再捜索で、第6サティアン3階の隠し部屋に現金960万円を持って潜伏していた麻原彰晃(40)が発見され、逮捕された。
麻原が施設内に潜伏しているとして早朝から捜索活動が行われていたが、3時間ほど経ってもその姿は確認されなかった。諦めて別の施設での捜索に移ろうかというとき、所轄から応援として送られていた牛島寛昭警部補は、以前に信者が換気扇工事のような作業をしていたことを思い出した。牛島警部補は、麻原が可愛がっていた三女の部屋に当たりをつけたが、「入ってくんじゃねえ」と激しい抵抗にあった。それでも強引に床をぶち抜くと「棺桶のような箱」を発見。中にはヘッドギアを付けて震えるようにイニシエーションを続ける教祖の姿があった。
 
1996年4月24日、地下鉄サリン事件、教団内リンチ殺人、麻酔剤密造を皮切りに一連の裁判が行われる。被告人は認定質問に「麻原彰晃です」と述べ、「松本智津夫では」と問い直されると「その名前は捨てました」と答えた。本籍や住所も覚えていないとし、罪状認否を問われると「いかなる不自由、不幸、苦しみに対して一切頓着しない、聖無頓着の意識。これ以上のことをここでお話しするつもりはありません」と不遜な態度を示した。
証人尋問ではかつての弟子に対して「地獄に落ちるぞ」「何のために村井が死んだのか考えろ」などと発言を遮ろうとして退廷を命じられる場面もあった。
同年秋ごろから異常行動が顕著になり、弁護団との接見もほとんど拒否されることが続いた。接見できても鼻水や涙を流しながらの錯乱状態で、呼びかけにも反応は心もとなく、97年以降は弁護団とも意思疎通ができなくなったとされる。
出廷しても発言は英単語交じりの支離滅裂な内容で、その一方で責任を問われると自分は殺害の指示はしていないとし、弟子たちに転嫁した。かつて師と仰いだ人物が半狂乱になりながらも責任逃れを続ける姿を目の当たりにして、元幹部らも抗弁する意志を失い、計画や殺害に関与した幹部たちは軒並み死刑判決が確定していく。
 
 

結末

教団は村岡達子代表代行により活動を継続したが、95年10月に宗教法人法による解散命令を受け、翌年3月には破産宣告。破壊活動防止法の適用を避けるため、弁護士の助言により松本被告は教祖を辞任し、殺人肯定に通じる教義タントラ・ヴァジラヤーナを禁じた。1999年、村岡代表代行が「当時の教団関係者の一部が事件に係っていたことは否定できない」と教団と一連の事件との関連を公式に認め、被害者に謝罪した。
破防法の適用が却下されたものの、再発防止や後継活動への治安立法として同年末「オウム新法」が制定され、Alephなど後継団体に分かれた。
 
2004年2月27日、東京地裁小川正持裁判長は被告人松本智津夫に求刑通り死刑判決を下す。
 
12人からなる国選弁護団は即日控訴し、辞任した。
私撰弁護人・松井武、松下明夫が着任したが、松本は面会を拒否し、7月の面会でも意思疎通ができなかった。弁護人は公判停止と精神鑑定の申し立てを行うが、東京高裁は2度に渡ってそれを斥け、控訴趣意書の提出期限を2005年8月31日までと定めた。
精神鑑定の要望が通らなかったことから、弁護人は控訴趣意書を期限日に持参しながらも提出しない抵抗を見せる。高裁は弁護人の作為的な不提出に対して、即時提出を要請。また精神科医・西山詮に精神鑑定を依頼し、12月には裁判官が被告人と面会した。
2006年、弁護団は独自の精神鑑定を実施し、精神科医・野田正彰らは被告人の訴訟能力を疑問視した。かたや高裁の依頼した西山鑑定では、97年7月以降、被告人は独房で独り言しか言わなくなったが、自身の公判での不規則発言に対して元弟子の公判では多弁で、精神病というより立場によって振る舞いを使い分けていると判断された。食事の介助は受けておらず、意思の発動に偏りが生じるのは不自然だと指摘し、逃避願望による一種の黙秘とみなし、訴訟能力はあるものと結論付けた。
弁護側は3月15日に西山鑑定に対する反論書を提出し、28日に控訴趣意書の提出をすると伝えた。しかし高裁は以前から即時提出を重ねて勧告していたとして3月27日に控訴棄却を決定する。
国家転覆を企て、世間を震撼させたカルト教団の主宰者は、弁護人と裁判所のチキンレースの末に控訴機会を失い、2度の再審請求も認められなかった。その量刑について極刑回避がありえたとは思えないが、抗弁や説明責任の場、何より被告人を自身の罪と向き合わせ、反省や謝罪を世に伝える最後の機会を失わせた両者の責任は大きい。
 
地下鉄サリン事件発生から17年後の2012年6月12日、特別指名手配されていた高橋克也が情報提供により都内の漫画喫茶で逮捕され、これにより同事件の被疑者全員が逮捕された。11年12月31日には目黒公証人役場事務長殺害の送迎役だった平田信が自首しており、高橋が最後のオウム逃亡犯だった。高橋は(新実を除く)他の送迎役と同じく無期懲役が確定。平田は5年前に麻原の写真を鋏で切るなど教団への信仰を自ら断っていたのに対し、高橋は麻原への帰依、教団の教えを支えに逃亡生活を続けていたと思われる。
18年1月25日、最高裁第二小法廷は高橋の上告棄却の異議申し立てを却下。これによりオウム関連の一連の刑事裁判が終結を迎えた。
 
2018年7月6日、松本智津夫早川紀代秀、井上嘉浩、新実智光土谷正実中川智正遠藤誠一に死刑執行。
同月26日、岡崎一明横山真人林泰男豊田亨広瀬健一端本悟に死刑執行。
 
逮捕、裁判、執行。そうしたことは事件の大きな区切りではある。
だが司法手続き簡素化のために立件されなかった事案や、関連が疑われるも証拠不十分で事件化できなかった行方不明者等、表に出てきていない教団の被害者は計り知れない。
そして被害者、家族らが負った身体的・精神的な苦痛は、謝罪されれば、犯人が断罪されれば、時間が経てば消えるというものではない。
 
 
被害者のご冥福を祈ります。