いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

エリサ・ラム事件について

 2013年に起きたエリサ・ラム(藍可兒)の怪死事件について。

もしかするとその若いカナダ人女性の死因や経緯には本来“事件”と呼ぶべき要素は含まれていなかったかもしれない。しかし、今世紀、世界中で最も繰り返し検索され、言及され、検証され続けているその現象を、筆者はひとつの事件と捉えている。

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ロサンゼルスは歴史的に見ると温暖な気候を生かした農産・牧畜が中心の地域だった。19世紀半ばにメキシコから分離してアメリカ領になると、油田開発などにより急速な工業化・都市化が進んだ。1900年におよそ10万人だった人口は、20年代には100万人近くにまで急成長した。それまで東海岸中心だった映画界の変革によって映画の街ハリウッドが形成されたのもこの時期に当たる。

1924年、セシルホテルは主にビジネス旅行者や中産階級向けを見込んで700室を備える大型ホテルとして開業された。しかし直後の大恐慌の影響と長引く不況、LAハイウェイの開通、ダウンタウンの衰退などによって経営不振に陥り、ダウングレードを余儀なくされる。(※2011年以降、Hotel CecilはThe Stay on Mainに改称されたが、本稿では便宜上、よく知られている「セシルホテル」の呼称で扱う)

 

戦後は、スキッド・ロウ(ドヤ街)から1ブロックという立地も手伝って、麻薬使用や取引の場として、売春婦たちのプレイグラウンドとして、犯罪者たちの隠れ家として、人生に絶望し行き場をなくした人が最期に訪れる場所として使われることが多くなり、数々の悲劇を生んだ悪名高いホテルとして知られることとなる。

所有者が変わり、内部はリニューアルされた。2000年代後半はLAダウンタウン再開発の機運にともなって、外国人旅行者やユース向けの低価格ホステル路線へと軸足を移し、新たな歴史を歩み始めたかに思えた。

 

■失踪

2013年2月初旬、ロサンゼルスのダウンタウンでカナダ・ブリティッシュコロンビア州バーナビー在住の大学生エリサ・ラムさん(21)が行方不明になった。

彼女はブリティッシュコロンビア大学に通っていたが1月後半から長期の休みをつくって(授業を取らず)アメリカ西海岸をめぐる一人旅の最中で、 1月27日からセシルホテルに宿泊していた。

そもそも両親は娘の一人旅に乗り気ではなかったため、ラムさんは毎日カナダの親許へ安否確認の電話を入れていたが、その様子は明るかったという。2月1日から急に連絡が途絶えたことで親は心配となり、LAPD(ロス市警)へ捜索を依頼して、自らもLAへ向かった。ホテル側でも31日とされていたチェックアウトの予定がいつまでも更新されないことを不審に思って確認したが、彼女からの応答はなかった。

 

1月31日の午後、彼女は近くの本屋ラストブックストアで、土産に本やレコードを購入。「旅行の途中なので荷物が重くなる」といった話をしており、書店員ケイティさんは「とても社交的で活発、とてもフレンドリーでした」と彼女の印象を記憶していた。

しかしその晩、ホテルのロビーに一人でいるところを目撃されたのを最後に、彼女は行方をくらませていた。出入り口のカメラにも外出する様子は映っていなかった。つまりホテル内で忽然と姿を消してしまったのである。

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ホテルは共同部屋を含めておよそ600室あり、多数の利用客もいたため、即座に全室を確認することはままならなかった(殺人事件と断定されていないため強制捜査はできなかった)。警察犬を動員して可能な範囲で捜索を行ったが、追跡は失敗し、行き先は分からなかった。

5階にあった彼女の部屋は雑然としていたが、何者かに荒らされた形跡は確認されなかった。遺留品は、衣類やコンピューター、財布、処方薬、土産のほか、次の行き先へのバスのチケットも発見されており、自発的な失踪とは考えづらかった。

 

2月6日、LAPD強盗殺人課は「事件の可能性がある」として彼女の写真とプロフィールを公開し、翌日、記者会見を開いて市民からの情報を募った。身長約163センチ、体重52キロ、黒髪に茶色い瞳、英語と広東語に堪能な中国系カナダ人、と説明された(ご両親は香港からの移民だった)。

しかし、高校生以上の失踪者ともなると、世間は「自発的な家出」と見なす傾向が強い。「21歳のカナダ人女性が失踪」というニュースは、年間3000人以上の行方不明者が出る大都市ロサンゼルスでは注目を集めることはなく、有力な情報は得られなかった。

 

■最後の目撃者

失踪から2週間後の2月13日、失踪直前にエレベーター内の監視カメラに収められた映像が公開されたことにより、彼女は世界的な注目を集めることとなる。撮影は1月31日深夜0時過ぎとされる。

荒い画質によって時間表記がグリッチ上に潰れており、早送りやスロー再生、ジャンプカット(抜き取り)などの加工・編集を疑う向きが囁かれている。だがLAPDは動画について説明的なコメントを一切出していない。 尚、当時、ホテルのマネージャーを務めていたエイミー・プライスさんは、Netflixの事件ドキュメンタリー番組『事件現場から:セシルホテル失踪事件』(2021)に登場し、画像は編集されたものではないことを断言している。

赤いパーカーを着たラムさんは、エレベーター内に入ったかと思うと、外の様子をこわごわと窺ったり、隅に身を隠すようなそぶりを見せる。それはまるで誰かに追いかけられている様子を思わせる。

しかし全ての階のボタンを押したかと思うとエレベーターを降り、手をひらひらさせて“誰か”に身振り手振りをしながら話し掛けているかのような行動をとる。しかし相手の姿は映ることなく、結局、彼女はエレベーターで移動することなくフレームから去ってしまう。

(エレベーターのボタンに顔を接近させている様子は、人によって奇妙な動作に見えるかもしれない。これは、普段は眼鏡を必要としていたが、このとき裸眼だったためだと考えられている)

扉がなかなか閉まらない理由としては複数階のボタンとともに「HOLD(開けたまま)」ボタンを押してしまったことが指摘されており、一度HOLDしてから閉まるまで114秒かかったとする検証もある)

 

本人を貶すつもりはないが、公表された映像は見る者を不安にさせた。その様子は、夢遊病者のように脈絡がなく、精神錯乱者や薬物乱用者が幻覚を相手にしているようにも見え、あるいは“不可視な存在”に操られていたとする超自然的な憶測さえ呼んだ。多くの人の脳裏には、彼女の不可解な行動が一種の“悪魔憑き”のようなイメージと重なったのではないだろうか。

 

■見えない犯人

初期には、彼女がSNS上で「どこかいい場所を教えて」などと書き込みをしていたことから、ネット上で知り合った人物の存在を疑う者もいた。映像から見切れた位置にだれかパートナー(犯人)が居て、鬼ごっこやかくれんぼのようにふざけ合っていたのではないか、とする仮説もあった。

また彼女は旅の途中で携帯電話を紛失したことをブログに綴っていた。このことから旅慣れない彼女を狙った人物が電話を盗んでトラッキングし、ストーキングしていたのではないかとの推測もなされた。

また周辺地域の治安は悪く麻薬常用者も多い。人身売買や強姦を目論む犯人と知り合って、違法ドラッグを盛られて逃げ出したため奇妙な行動になったのではないかとする意見も見られた。とあるボディ・ランゲージの専門家は、そのジェスチャーから意味を導き出すことができず、パーティー・ドラッグやレイプ・ドラッグが使用された可能性を指摘した。

 

誘拐されたにせよ、ホテルであれば大型のトランクを持ち運んでも何ら疑われることはない。彼女を見つける手がかりさえ出てこない中、旅先で若い女性が一人でいればどんな事件に巻き込まれていても不思議はないように思えた。

北米でのオカルト的熱狂はすぐに中国の動画サイトに飛び火し、リリース10日間で300万再生、コメント数は4万件を超えた(多くの複製動画を生むとともに、その後1000万再生を越えた)。

 

■ したいことをする

ラムさんはいくつかのSNSやブログに取り組んでおり、2021年4月現在も閲覧可能な状態で残されている。それらは彼女のキャラクターを知る上で手掛かりになるが、穿った見方をすれば、ドラマ化や映画化の契約要件には「web上に彼女が生きていた“痕跡”を保存すること」も含まれていたのかもしれない。

慰霊の意味も込めて、生前の彼女について少しだけ触れておこう。

2010年からBlogspot上で『Ether field』というブログを開始。2011年3月から、tumbler上の『nouvelle / nouveau』(どちらも仏語で「新しい」を意味する形容詞。男性形をヌーヴェル、女性形をヌーヴォーと表す)というショートブログを開設。同時並行で続けていたが、2012年以降は主に後者をメインに投稿していた。

どちらもファッション誌のスナップやアートフォトを転載する記事が多い一方で、“自撮り”やライフフォトを掲載することはなかった。今日的なファッション・美容・ライフスタイル関連のインフルエンサーのように高度にデザイン化・専門化・商業化された統一感のあるものではなく、ときにフェミニズムや政治、ウェブ文化に関する持論などをとりとめもなく記すこともある、学生らしいブログである。

 

tumblerには『ファイト・クラブ』原作者としても知られる小説家チャック・パラニュークの「You're always haunted by the idea you're waisting your life(あなたは“自分は人生の無駄遣いをしているのではないか”という考えにいつも追われている)」という一文が掲げられている。閲覧者に向けられた諧謔性というよりかは、ブログ主自身に対する自省・自戒として掲げられたものと解釈できる。

 

公開捜査の段階で、彼女の両親は娘が精神疾患を抱えていることを明かすことを良しとしなかったが、ブログの自己紹介欄では「双極性鬱病など多くの問題を抱えている」とオープンにしていた。「人見知りではあるが、他人との会話を楽しんでいるし、むしろ必要なことだ」と記しており、ネット上での匿名のやりとりを期待し、「読者が私のことをどう思っているか知りたい」としてリクエストも行っていた。

投稿記事は、以前よりも短文が目立つようになり、とりとめのないインスピレーション、著名人の至言などが連日投稿されていた。「昼夜逆転」「ジャンクフードに運動不足」「仕事しんどい」と病苦で思うようにいかない生活や自分を卑下するような内容も見られた。

2012年4月のBlogspotでは、通学がままならず学業に失敗したことをひどく後悔する投稿もあった(本人には向学心があり、大学院への進学も考えていた)。

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筆者が彼女の文章を読んで感じたのは、自己肯定感の低さ(あるいは自己啓発意識の高さ)、米国に対するあこがれ(あるいはカナダに対する物足りなさ)、若者が誰しも抱く承認欲求(あるいは現状の評価に対する不満足や劣等感)、書く行為が好きだということ・・・彼女の内省的な感覚は、ブログやSNSをする人間にとってはごく当たり前のもので、精神障害による病的な影響や事件そのものとはあまり関係がないように思える。

ただ生前は記事にリアクションを寄せる読者はあまり多くはなかった(皮肉なことに彼女の死後、脚光を浴びることとなった)。これは仲間や誰かのために書かれた文章というより、彼女が自分自身のために続けていた習慣、一種の精神安定剤だったのだと思う。

 

2013年に入ると「西海岸旅行」についての投稿が散見されるようになる。

1月18日~バンクーバー、22日~サンディエゴ、26日~ロサンゼルス、その後、サンタバーバラサンタクルスサンノゼ、サンフランシスコを周る長期計画だった。

旅の冒頭から空港で迷子になって乗り継ぎに失敗し、(映画『ターミナル』の「トム・ハンクスのように」)毛布を借りて二晩を明かしたり、友人から借りていたブラックベリー(携帯電話)を紛失したりと、トラブルに見舞われながらも旅の様子をfacebookやtumblerで発信していた。交通手段は電車とバスに限られていたが、動物園やテレビの収録見学、徒歩での散策と、いろんな場所へ精力的に足を運んでいる。

今日はがっつり寝て、長めの熱いシャワー、3$の馬鹿げた夕飯を胃袋に流し込んだ。なんと生産的で楽しいことか。

サンディエゴに着いてからは、日常生活から完全に離れ、ガチでなんにもしていない。

私は自分のしたいことをする

結局、私は自宅の居心地のよさが好きで、時々、完全に暴走しちゃうところがあるんだよね。一目惚れした男の子にいきなり電話しちゃったりだとか・・・

ホステルでの人間観察が好き。 

がっつり休んで疲れも取れたし、明日からもっと外に出て冒険せにゃ・・・

1.水族館

2.動物園

3.博物館(無料なの‼‼)

4. コロナドかポイント・ロマでホエールウォッチング?

(意訳。2013年1月25日・サンディエゴ、『nouvelle / nouveau』)

1月14日の日記には、「気になる人がいるんだけどー」と「左手首にタトゥーを入れたコントラバス奏者の男の子」に関する記述が現れ、18・19日には「2回会った」だけで「イイ感じかなと思って」告ったけど、相手にその気はなく「拒否られた」と報告されている。

やりとりの詳細までは記されていないが、初出時の舞い上がった書きぶりや「玉砕」後の様子からして、「恋に恋してる」暴走モードの自覚はあった、それなりにダメージを受けてはいるが、自死を決断するような深刻な失恋ではなかったと想像される。

一種の躁状態だったと見ることも可能だが、彼女は自身の劣等感も手伝って、年齢の割には恋愛に奥手だったのかな、と感じた。

尚、彼がブログに登場するのは旅行間際なので、元々は“傷心旅行”にする意図はなかったと思われる。

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[by Jan Vašek via Pixabay]

旅行については、直前にも「オススメあったら教えてくれると嬉しい」とリクエストしていることから、厳密な予定や明確な目的があった訳ではなく、気の向くままに、半ばノープランで飛び込んだ感がある。だが引きこもりがちで「運動が必要だ」と自覚していた点から見ても、漠然と西海岸の晴れやかな気候を求めていたのかもしれない。

己の不甲斐なさやうまくいかない学生生活を変えようと、心機一転するために旅行を思いついたような印象を受けた。自分に対するフラストレーションを発散するバックパッカー、古風な言い方をすれば“自分探しの旅”とカテゴライズしてもよいと思う。

 

1月29日、LAに到着した彼女は、1920年代に建てられた宿泊施設に興奮し、愛読書だった『グレート・ギャツビー』の時代に思いを馳せて喜んだ。それが彼女自身による最後の投稿となった。

 

■水

その後、彼女の滞在先だったセシルホテルでは水道に関する苦情(濁っている、味や匂いがおかしい、シャワーの水圧低下等)が複数寄せられるようになった。

2013年2月19日の朝、原因調査に訪れたメンテナンス作業員が屋上に4つある貯水槽(1000ガロンの重力給水式)を確認したところ、その中のひとつから女性の遺体が発見される。

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21日、遺体がラムさんのものであることが確認されたが、警察は“事件”と“非常に奇妙な事故”の両面から捜査を続けた。遺体の状況には多くの疑問が生じ、より一層の物議を醸した。

①貯水タンクの上部ハッチ(重さ約9キロ)は開いていた(※)。

②タンク内の4分の3は水で満たされていた(遺体はタンクに浮かんでいた)。

③彼女は全裸姿だった(衣類等はタンク内にあり、カメラ映像で身に付けていたものと一致。赤いパーカー、黒い短パン、Tシャツ、サンダル、黒の下着、時計とカードキーが見つかっている)

④タンクは直径6フィート・高さ10フィート(約1.8メートル/3メートル)。脚立などは発見されなかった。

⑤タンク上部のハッチは約54センチ四方で狭く、捜索隊員は中に入ることができなかった(電動工具で底に切れ込みを入れて遺体を回収した)

⑥屋上に通じる扉は施錠され、警報アラーム装置も作動していたため、ゲストが意図せず(誤って)侵入することはできなかった。

⑦失踪中に警察犬を伴なって屋上でも捜索活動は行われていたが、追跡反応を示さず、タンク内の確認は行わなかった。

死因は特定されなかった

(警察の公式発表によれば、強姦による外傷、銃創や刺し傷などの他殺を示す証拠はなく、死因は不明だった)

(検死解剖では、肛門開口部周辺に血液が溜まっている指摘があった。担当した法医学者デビッド・クラッツォウ氏は、肛門部の変質は腐敗性によるものと説明しており、検体の分解によって「打撲痕などの外傷を確認することは困難」だと見解を示した。つまり外傷を受けた可能性を明確に否定するものではなく、腐敗の進行により外傷を確認できる状態ではなかったと解釈できる)

(薬物検査を担当したジェイソン・トヴァール博士は、体内から彼女が所持していた4種の処方薬成分が検出されたが、既存の毒物や違法薬物、アルコール類などは検出されていないと発表。しかし「Interestingly(興味深いことに)」処方薬の成分は、彼女の服用すべき規定量に対して極めて少なかった)

※①の上部ハッチの状態について、「閉じられていた」「施錠されていた」とする誤報が多く、余計に人々を混乱させ“怪死”の憶測を広げる結果につながった。

 

2013年9月、エリサの両親デビッドさんとインナさんは、セシルホテルを相手取り、施設の安全管理の責任を問う訴訟を起こした。出廷したメンテナンス作業員のサンティアゴ・ロペスさんは「ハッチが開いていて中を見ると、水槽の上部から約12インチのところにアジア人の女性が顔を上にして横たわっているのを見た」と当時の状況を証言している。

彼は水に関する苦情のあった各部屋を確認したのち、扉の警報ロックを解除して屋上階へ上がった。タンクは大型なので、上部ハッチにアクセスするためにハシゴを使用した。4つあるタンクのうち3つは蓋を閉じて施錠された状態で、1つだけハッチが開いていた。タンク内を覗いてみると、遺体と赤いパーカーが浮かんでいるのが見えたという。ロペスさんは本人との面識はなかったが、すでに警察に行方不明の捜査協力を行っていたため彼女が思い当たり、無線ですぐに通報を要請した。

尚、裁判ではホテル側の過失は認められなかった。

 

 

2013年6月22日、当局は、ラムさんの持病である双極性障害うつ病を主な原因とした「偶発的な事故」による溺死と判断し、捜査の終を宣言した。

彼女は当初、5階の別室で共同宿泊を行っていたが、ルームメイトのベッドに意味不明なメモを置くなどして苦情を受け、ホテル側から個室を割り当てられて移動していた。つまりすでにホテル到着の時点で、彼女には不可解な兆候が現れていたと受け取ることができる。死亡当時の彼女は処方薬が適切に使用されなかったことにより、症状が悪化していたとする見方である。

尚、彼女がどのように貯水タンクに入ったかは解明されていない

 

■妄想 

筆者も「病理的な妄想」が原因で起こった事故の可能性が極めて高いと考えている。憶測を述べるならば、彼女は自らの意思で休薬・断薬を試みていたのではないかという気がしてならない。

精神疾患の症状として、ものごとに不合理な自己解釈を当てはめてしまうこと、いわゆる強い「思い込み」がある。彼女の中で、恋も勉強も頑張りたいのに頑張れない、自分の病気が良くならないのは、「薬」の副作用なのではないかという考えに至ったとしても不思議はない(精神病と診断されていなくとも人はこうした発想に陥りやすい)。

あるいは旅による気分の高揚が、「薬なしでも大丈夫かもしれない」と彼女に思わせてしまったのかもしれない。彼女は新たな自分に生まれ変わるために、旅の途中で薬からの脱却を決意したのではないか。

たとえば共同部屋であれば、「あの人が自分の悪口を言う」「物を盗った」というような症状となって現れる(現れていた)かもしれない。だが個室に移された彼女は狭い部屋の中で一人ぼっちに浸りながら、「見えない敵」を生み出してしまった

人によっては休薬そのものを自殺行為と呼ぶかもしれない。だが彼女は「見えない敵」によって殺されたのである。

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“事故”の様子はたとえば次のように想起される。

悪質な妄想に耐えきれなくなった彼女は衝動的に部屋を飛び出す。だがホテル内の廊下は両側が部屋で埋め尽くされており、非常に閉塞感が強い。動画などを見れば分かるが、逃げ場のない空間であり、ますます「追いかけられる」心理が働く。

ようやく行き着いたエレベーター内での「隠れる」「見回す」動作は、非実在ストーカーの「存在」を示している。しかしボタンを押してもエレベーターは移動しない(「HOLD」ボタンを押したことによる)。彼女は「動かない」と錯覚したのか、エレベーターでの逃走を諦めて廊下に戻る。このとき不可解なやり取りによって、一時的に逃げ隠れる必要がなくなったのかもしれない。

しかし廊下で再び恐怖に駆られた彼女はいつしかフロアの隅へと追いやられていった。

追い詰められた彼女は窓の外に見えた非常階段へと飛び移った。しかし彼女は「上」に向かって逃げてしまう。

非常階段の最上部には屋上につながるハシゴが存在する(ある中国人動画クリエイターは、窓~非常階段~ハシゴを使ったルートはあまりに“脱出”が容易なので驚いたと語っている)。妄想はいつまでも彼女から離れようとはせず、屋上でも彼女を追い詰める。彼女は身を隠すため、配管やタンクの壁を伝ってタンクの上によじ登る(高校時代に陸上部だったため運動能力には長けていたものと考えられる)。

自ら逃げ場をなくしていった彼女は、タンク内に飛び込む。しかし着衣の重みで沈んでしまうため、慌てて着ていたものを脱ぎ捨てる。溺れなかったとしてもタンク内は大量の水に満たされており、閉塞空間である。屋外であれば周囲の灯もあるが、タンク内となれば完全な闇に包まれ、心理的パニックに陥っても不思議はない。

明晰な思考や判断力は奪われ、低体温で体力もみるみるうちに失われていく。たとえ開口部に手が届いたとしても、そこには彼女に襲い掛かろうとする“魔の手”が立ちふさがっていた。彼女は自らの妄想と意思によって、タンクの中に「閉じ込められていた」と考えられる。

 

■偶然 

現場が事件フリークにとって悪名高い“セシル”であったこと以外にも奇妙な偶然が重なった。

ひとつは、ウォルター・サレス監督の映画『ダーク・ウォーター』(2005)との類似性。

Jホラー映画の金字塔『リング』のコンビとして知られる鈴木光司原作と中田秀夫監督のタッグ作品『仄暗い水の底から』のハリウッド・リメイク版である。小説は“水”にまつわる7つの恐怖オムニバス集で、映画はその中の『浮遊する水』という短編をベースとしている。

ネタバレは自重するが、シングルマザーと幼い娘が引っ越してきた古びたマンションで様々な奇怪な現象に巻き込まれる内容で、「濁った水道水」、「貯水タンク事故」への疑惑、「エレベーター」でのパニックなど、事件と符合する描写は確かに多い。鈴木氏はかつての家事・育児経験、あるいは趣味のヨット航海など実体験の中から着想を得たと語っている。

 

もうひとつは、事件と同時期に「結核」が流行していたこと。

米国疾病対策センターは「ここ10年で最大の発生」としてスキッド・ロウでの結核の流行を食い止める措置を講じていた。その感染者特定に使用される標準検査キットのネーミングが“lam-ERISA”と呼ばれるものだった(結核に含まれるリポアラビノマンノンに反応して発色する酵素結合免疫吸着測定法の呼称で、人名を表すものではない)。

心ないオカルティストたちは喜々として事件に関連付けようとし、陰謀論のモチーフのひとつとなった。

 

また不可解な出来事として、彼女が行方不明となった後、2月7・13・16日にもtumblerの更新が計5回行われている。いわゆる“リブログ”と呼ばれる他人の投稿を再投稿する機能(Twitterでいうところのリツイート)で、生前の彼女も頻繁に行っていた。

これを彼女の霊的現象として捉える向きもある。だが彼女自身が何かしらの自動更新機能(人気投稿やお気に入りアカウントの投稿がリブログされるなど)を予めセットしていたか、何者かによってアカウントをハッキングされた、と見る方が妥当に思う。

あるいはレアケースではあるが「携帯電話を拾ったか盗んだかした人物」がアクセスしたと考える方がまだ現実的かと思われる。

 

■周辺事件と人種問題について

最後に異なる2つの事件の話を付け加えておきたい。

ひとつは、エリサの失踪とときを同じくして発生し、LAPDに不当解雇されたと訴えたクリストファー・ジョーダン・ドーナー事件である。

 

www.abc.net.au

正直さと誠実さを取り柄としていたドーナーは10代の頃から警官を志すようになり、南ユタ大学卒業後の2002年に米海軍予備役に入隊、その後、警察学校を経て07年にLAPDに就職した。

指導役の捜査官テレサエヴァンスとペアを組み、認知症統合失調症を抱えた市民が起こしたある騒動への対応を任された。その後、エヴァンスは厳しい業績評価をドーナーに下し、一方のドーナーは騒動を収めたエヴァンスには「当該市民への不必要な暴行があった」と内部告発した。

当該市民は「騒ぎの中で暴行を受けたこと」を家族に話していたものの、懲戒審査の公聴会では「質疑応答が困難」とみなされ、証言として認められなかった。結局、ドーナーの告発は虚偽と判断され、08年に解雇。激昂したドーナーは州控訴裁にLAPDを訴えるも、彼には「不当解雇」を立証する術がなく、11年10月、「ドーナーの主張を信用できない」とするLAPD側の主張が認められることとなる。

 

13年2月1日、ドーナーはジャーナリストに向けて自らの主張をまとめたDVD等を送りつけると、3日、カルフォルニア州アーヴァインで20代のカップルを射殺。一人はドーナーを非難した元上官の娘だった。4日、オンライン上でTo:Americaとするマニフェストを公開。

“will bring unconventional and asymmetrical warfare to those in LAPD uniform(ロス市警に対して従来とは異なる一方的な交戦を行う)” と復讐を宣言し、“Unfortunately, this is a necessary evil that I do not enjoy but must partake and complete for substantial change to occur within the LAPD and reclaim my name.(私も楽しんでいるつもりはない。残念ながら、これは私自身の名誉挽回、そしてLAPDの根本的な内部変革のための“必要悪”なのだ) ”と殺害の動機を公表した。

以降、名指しされた元上官ら数十名に対しボディガードが配備され、カルフォルニア州全域で厳重警戒態勢が敷かれた。

 

彼はロドニー・キング事件(1991。スピード違反をきっかけとしたカーチェイス後、警官隊が非武装のキングに対して50数回もの殴打を繰り返した事件。個人撮影によるビデオがメディアで紹介されると、アフリカ系アメリカ人に対する差別だとして翌年のロサンゼルス暴動に発展した)やランパート・スキャンダル(90年代後半、ランパートブロック担当の警官数十名が、証拠の捏造や偽証での不当逮捕、押収した麻薬の盗難・転売、銀行強盗など犯罪行為とそれらの隠蔽に関わったことが発覚した米国最大の警察腐敗事件。犯行の多くをギャングの仕業だとでっち上げていた)を引き合いに出して、警察組織の構造や権力の腐敗は変わっていないと訴えた。

マニフェストは告発文の体裁を取ったが、後半はほとんど理路整然としない内容であった。メディアはこれを「解雇の逆恨み」と表現した。しかし軍隊や警察で経験を積んだ彼の危険性は明らかだった(自身の射撃スキルを示すため、弾丸が貫通した2.5センチのコインと「1MOA(約91メートル)」と書いたメモがDVDに同封されていた)。

キング事件を例示していることからも、彼は不当解雇を人種差別問題だと認識していた。警察組織の面子をかけて、あるいは社会全体が警察への不満をバイラルする前に解決しなければならない極めて緊急性の高い重大事件として、LAPDは捜査に全力を挙げた。

 

エリサ事件と同時期に起きたこのドーナー事件はLAPDにとって最重要案件だったことは間違いない。警察に手抜かりや捜査漏れがあったかどうか筆者は確かめる術を持たないものの、「いつどこで何が起こるか分からない」性質上、ほかの事件捜査への心理的影響(注意力の低下)や、人員投入ができず集中捜査が行えないなどの物理的影響はあったといえるのではないか。

 

7日、警官2名が銃撃され一人が即死。数時間後、炎上したドーナーの車輛が発見されるが、本人は尚も逃走を続けたため、周辺地域で一斉捜索が開始された。10日、ドーナーをテロリスト認定し、100万ドルの報奨金を掛けて捜索を拡大。

12日、ドーナーがカージャックしたトラックが発見され、警察は追跡とともに包囲網を展開した。銃撃で警官一人を殺害ののち、山小屋に立て籠もった。警察は周辺を封鎖し、催涙ガスの使用と解体車を動員。ドーナーの降伏を求めた。やがて花火型の催涙ガス弾から小屋に発火。小屋内部での発砲によってガス爆発を起こし、小屋は大炎上した。その後、焼け跡からドーナーの遺体が発見され、銃創が確認されたことから自殺と断定された。

 

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もうひとつは、同年3月4日にLAから程近いオレンジカウンティーニューポートビーチで遺体となって発見されたティナ・ホアン事件である。ジャーナリストのマレリーズ・ファンデルメルウェ氏は、この事件とエリサ事件を関連付け、警察の捜査対応の遅れの背景に人種差別が含まれているのではないかと不信感を示している。

latimesblogs.latimes.com

ティナさんはビーチの砂に顔を埋めるようなうつ伏せ状態で発見され、当初から事件性が疑われた。検死で性的外傷は確認されなかったと発表されたものの、死因については不明とされた。現場周辺の治安はLAダウンタウンに比べれば良好だった。

彼女の居住地ベルフラワーから現場までは30マイル(約50キロ)ほど離れており、もっと近くにもビーチがあるにもかかわらずなぜこの場所に至ったのかは不明であった。

彼女は20歳のベトナムアメリカ人で、カルフォルニアネバダ、フロリダの三州で売春関連の逮捕歴があり、遺体発見の1週間前にも売春で逮捕され、3月末に出廷予定の裁判を抱えていた。

彼女を担当していた弁護士は、生後2か月の彼女の赤ん坊の安否を気遣った(詳報はないが無事を祈りたい)。OC保安局は5月になって彼女は「殺害」されたと断定したが、やはり正確な死因は公表されなかった。

 

ネット上では「近隣で起きた若い女性被害者」という共通点から早々にエリサ事件との関連を唱える者もあった。

だが捜査の遅れや不透明さに関して、アジア系人種、職業などに対する偏見や差別から捜査を怠ったとする疑いへと変化していった。

その後、近郊でセックスワーカーを狙ったシリアルキラーの逮捕はあったものの、本件はその犯行には含まれていなかった。はたしてこの事件はコールドケースとされたままである。

 

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 筆者は被差別意識に乏しいため、欧米でのアジア人差別の現状や根深さについてあまり把握できているとは言いがたい。21世紀の中国における驚異的な経済成長は、おそらく20世紀までのアジア人像とは違ったモデルを世界に印象付けている。さらに2019年後半に始まる新型コロナウイルス感染症Covid-19の世界的流行は、アジア系の人々にとって新たな人種差別やヘイトクライムの火種にされてしまった感もある。当たり前のことだが、アジア人嫌悪の状況は刻一刻と変化している。

エリサ・ラム事件は人種問題を孕むのかについては、他のヘイトクライムなどの考察を深めた上で今後の課題としていきたい。


 

最後になりましたが、エリサ・ラムさんはじめ被害に遭われたみなさんのご冥福とご家族の心の安寧をお祈りいたします。 God bless you. Good journey…

 

 

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参考

nouvelle/nouveau: Archive

lopez-declaration.pdf

Elisa-Lam-Autopsy-Report.pdf

Police arrest two men suspected in sex workers’ deaths – Orange County Register

Downtown LA’s Hotel Cecil could reopen in late 2021 - Curbed LA

Body of Woman Found on Sand in Newport Beach – NBC Los Angeles

Woman Found Dead on OC Beach Was Homicide Victim: LAist

The Elisa Lam mystery: Still no answers | Daily Maverick