いつしかついて来た犬と浜辺にいる

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映画『LAMB』(2021)感想

ヴァルディミール・ヨハンソン監督の長編デビュー作『LAMB』について感想など記す。

2021年カンヌ映画祭ある視点部門で話題を集めた、超自然的存在と伝承的なフォーク・ホラーのハイブリッド作品である。ワールドプレミアに先立ち、『ヘレディタリー/継承』や『レディ・バード』などのヒット作をもつA24が配給権を獲得した。

 

 

LAMB』(2021・106min、アイスランドスウェーデンポーランド)

監督ヴァルディミール・ヨハンソン

脚本ショーン、ヴァルディミール・ヨハンソン

出演ノオミ・ラパス(ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女、プロメテウス)

  ヒルミル・スナイル・グズナソン(101レイキャビク、The Sea)

  ビョルン・フリーヌル・ハラルドソン(The Northman)

 

監督を務めたValdimar Jōhannssonヴァルディミール・ヨハンソンは1978年アイスランド生まれ。『Game Of Thrones』のTVシリーズや映画『オブリビオン』(2013)等で電気技師、『ローグワン』(2016)や『The Tomorrow War』(2021)等では特殊効果技術を担当した。

共同脚本のSjónショーンは、Sigurjón Birgir Sigurðssonが自らのファーストネームから取ったペンネームで英語のsightと同義。ショーンは作家、詩人、作詞家として活動し、80年代からビョークの盟友として音楽活動や作品提供を行っていることでも知られる。

マリアを演じたノオミ・ラパスは、『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(2009)のリスベット役で評価を高めたスウェーデン生まれの俳優で、本作では製作総指揮としても参加している。

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■あらすじ

第一章

アイスランドの荒涼としたツンドラ地帯、山間の僻地で羊飼いをしながら暮らすイングヴァルとマリアの夫婦。広すぎる家で夫婦は黙々と、憂鬱そうに日々の仕事をこなす。

「タイムマシンは原理的に可能だそうだ」と語りかける夫に、マリアは表情で「過去に戻りたい」とつぶやき、夫婦関係の不調を想像させる。

クリスマスの晩、二人は羊が産んだ「羊ではない何か」にアダと名付け、我が子として育てることを決心する。哺乳瓶や乳児ベッド、幼児服といった育児用品の存在は、かつて夫婦が幼な子を亡くした過去に由来している。

当初イングヴァルの中に受け入れがたい葛藤もあったが、妻が精神的安定を取り戻し、共に生活していく中で、いつしか愛おしさが芽生え、幸せな家族の時間を過ごすようになる。

 

一方、アダを産んだ母羊“3115”は引き離された我が子を探し回る。

あるとき部屋からアダが居なくなり、イングヴァルとマリアが必死になって探し回ると山中に“3115”とアダの姿を発見する。

「あっちへ行け!」

母羊を強く威嚇するマリアだったが、「再び」我が子が連れ去られてしまうのではないかという恐怖心が湧き上がり、ある晩、“3115”を撃ち殺して土に埋めてしまう。

 

 

第二章

そんなある日、借金苦で行き場をなくしたぺトゥールが兄イングヴァルたちを頼って訪ね、しばらく家に逗留することになる。

しかししばらくぶりに再会した夫婦が半人半獣と生活する様子を目の当たりにしてショックを受け、「こどもじゃない、動物だ」とアダの存在を拒絶する。しかしイングヴァルは、アダは(それまでの憂鬱な)夫婦の人生を変える天に与えられた機会であると弟を説得しようとする。

ぺトゥールはアダを夫婦がおかしくなった元凶と考え、夫婦が寝ている隙に、アダを屋外へと連れだす。その手には猟銃が握られていた。銃を構えたぺトゥールだったが、夫婦の気持ちを考えたのか、無抵抗なアダを前にその決心は揺らぎ、共に帰宅することを選ぶ。

 

第三章

丘の上の墓所で拝むマリア。墓標には亡き子の名前として「アダ」と刻まれている。

ぺトゥールはすっかりアダの存在を受け入れて叔父らしく振舞うようになり、漁をしに2人で湖へと出掛けていく。親しくなった2人の様子に安堵したイングヴァルとマリアも、夫婦関係を回復していく。

ラクターが故障し、徒歩で帰宅するぺトゥールとアダ。その夜、大人たち3人は酒を飲みながらハンドボールの試合やぺトゥールのバンドマン時代のビデオを見て大はしゃぎする。

その間、アダが戸外へ出ると「なにか」に出会い、一緒に暮らしていた牧羊犬が殺されてしまう。アダは何を見たのか、何があったのかを夫婦に語ることはない。しかし部屋に戻ると鏡で自分の姿を見つめ、寝室に掛けてある「羊の群れ」の写真を凝視する。

 

イングヴァルが酔って眠りにつくと、ぺトゥールはマリアに肉体関係を迫ろうとする(かつて男女関係であったことが2章で示唆されている)。拒むマリアに「母親が殺されたことをアダは知っているのか」と投げかけるぺトゥール。マリアが母羊を殺した様子を密かに目撃していたのである。しかしマリアはその脅迫に応じるふりをしてぺトゥールを物置に閉じ込める。

一夜が明け、マリアはぺトゥールを起こして車でバス停へと送り届ける。ぺトゥールも自らが夫婦の亀裂となる存在であることを自覚し、謝罪こそ口には出さないが後悔の表情で「出発」を受け入れる。邪魔者がいなくなったことで再び「家族の時間」が過ごせると期待しているのか、帰路でのマリアの表情は明るい。

 

目覚めると妻と弟、牧羊犬までいなくなっていることに気付いたイングヴァルだったが、アダを連れ立って昨日故障したトラクターの修理に出掛ける。

入れ違いに帰宅して、家にイングヴァルとアダの姿がないことに気付くマリア。玄関先に戻るとどこぞより不穏な銃声が鳴り響く。

撃たれたのはイングヴァル、そして彼を撃ったのは得体のしれない、しかし他でもないアダと同じ姿をした「ラムマン」であった。ラムマンはアダの手を引き、イングヴァルは引き留めようとするも適わない。連れ去られていくアダは動けないイングヴァルの方を物悲し気に振り返る。

マリアは草丘に倒れた夫を見つけ、「アダはどこ?何があったの」と叫ぶが返事はない。ひとしきり慟哭し、振り返ってしばし一点を見つめ、「大丈夫、きっと大丈夫よ」と自分に言い聞かせながら夫の遺体を抱きしめる。

白くぼやけた背景の中、マリアがひとり佇んでいるエンディング。物思うように、あるいは何かを決意したように、深くため息をついて物語は幕を閉じる。

 

 

■感想

原題のDÝRIÐはアイスランド語で「動物」の意味。

監督が幼少期に祖父母の許で羊の親子に魅了されていたことと、アイスランドの民間伝承との融合により、2009年にショーンと共同執筆を始める際には何か「生き物」が念頭にあったという。しかし監督自身はどのようにその生き物が生まれたのかは分からないと語る。

 

何も知らず映画を見始めると、アダはイングヴァルと羊との間にできたこどもではないかと誤解してしまう。見終えると、父親は「ラムマン」であったことが明かされるが、彼はどこから来たのか、どこでどんな暮らしをしているのかは作中ではヴェールに包まれたままである。異形でありながら大自然の守護者、神話的存在のようでもある。

ラムマンについて、古代ギリシャ神話に登場する牧神パンとの共通点が指摘されている。パンはアルカディア(牧人の楽園、理想郷)の山岳地に住んだとされる山羊の頭と下半身を備える半人半獣の姿をした自然神で、多淫な性格とされ性質を同じくする群れを形成することができ、「羊飼いにマスターベーションを教えた」「月の神セレーネを誘惑した」等の逸話が残る。

古代ギリシャ・ローマの歴史を記した紀元1世紀の学者プルタルコスによれば、第2代ローマ皇帝ティベリウス・シーザーの治世に「偉大な神パンが死んだ」旨が報告されたと記されている。この報告について現代では、神話的古代秩序の崩壊とキリスト教的新秩序の到来と解釈される。つまりキリスト教的視座からすればパンは「最後の異教徒」とみなすこともできる。

ダフニスを誘惑するパン像

18~19世紀には西ヨーロッパのロマン主義運動(文学・音楽・絵画等で巻き起こった自然の理想化や「反近代」が特徴とされる、直感的な独創性を追求した運動)や20世紀のネオペイガニズム運動(キリスト教以前の、前近代的異教研究・復興の動き)の中で、パン神もリバイバルされ大きな位置を占めた。

象徴派詩人ステファヌ・マラルメが半獣神が森でニンフたちと出会う場面を官能的かつ陶酔的に著した『半獣神の午後』(1876)、この詩に影響を受けたクロード・ドビュッシー管弦楽『牧神の午後』、この曲にバレエのシナリオを演出したヴァツラフ・ニジンスキーの作品は広く知られている。

 

主演のラパスによれば、ディレクターの多くはキャストにまずキャラクターの心理的・感情的視点から伝えようとするが、ヨハンソン監督のやり方はビジュアルから入るという。脚本に取り掛かる前に監督はラパスとビジョンを共有するため、子羊の頭を持った人間のこどものハイブリッドをスケッチして見せ、浮かんだビジョンをつなぎ合わせてストーリーの筋を組み立てていった。

制作段階でアダのコンセプトも当初想定したものとは変わっていった。

「彼女は話したり、もっとたくさんのことをしたりしていましたが、それがアダについての映画ではないことは明白でした。結局、彼女から多くのことを取り除いていき、そしてそれがどういう訳か、彼女の存在をより強くし、物語ははるかに良いものになりました」

ラパスも、アダのキャラクターがあまりないことで観客が「彼女」の余白を埋める効果を期待している。可愛らしいと感じる人もいれば、薄気味悪いと感じる人もいるでしょう、と。また撮影について、過去に子どもや動物と仕事をしたときの感触は好ましくなかったが、本作ではむしろ自分が何か大きなものの一部であるかのように思え、非言語的なリズムの中に没入していったと振り返っている。花冠を捧げるシーンではお互いの呼吸が合い、意思疎通ができているかのような魔法の感覚にあったという。

 

「それはまるでラブストーリーや夏の羽ばたきのようなものです。秋になると終わります」

ラパスは、マリアたちがアダと過ごした短い幸せを「借り物の時間」と表現する。自然の意志に逆らうことに躊躇しなかったマリアは、いつかその報いを受けること、その短い幸せに終わりが来ることを予感していた。だからこそマリアは夫の死体を抱えて遠く一点を見つめながら、以前のように愛するアダを探し出そうとは、夫の命を奪った何者かを追いかけようとはしない。ラスト・シーケンスは「マリアが生き返り、目覚めるまでの時間」だったのだと述べている。

 

本作は、俯瞰的に見れば禁忌を侵したことによる自然界の「業」を描くネイチャー・ホラーであり、人物に焦点を当てればマリアの「2度の喪失」の物語である。「1人目のアダ」の喪失によって、マリアはトラウマを抱え、ある種の精神的な混乱が「2人目のアダ」へとつながっていく。しかしラパスの見解を踏まえれば、いつのことかははっきりしないが「1人目のアダ」喪失からマリアはずっと精神的不調和の状態で生きてきたことになる。

その名の通り、マリアは聖母マリアを表しており、クリスマスに誕生した奇跡の子アダはキリストに由来する。古代ユダヤ教の習慣において「小羊」は生贄である(過越の小羊)ことから、キリストは人間の罪に対する贖いの存在として「神の子羊」と表現される。ヨハネによる福音書1:29では「Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.(世の罪を除き給う天主の子羊、われらを憐れみ給え)」と祈祷され、ヤン・ファン・エイクによるヘントの祭壇画では、視覚的表象として使徒らに拝まれるキリストを子羊の姿で描かれている。

ぺトゥールが湖上の舟で「水上を歩く子羊」の詩を語り聞かせる場面があるが、ぺトゥールは「信仰の薄い人」ペテロを表している(マタイによる福音書14:27、マルコによる福音書6:48)。12使徒たちが湖の舟上で嵐に見舞われた際、イエスは湖上を歩き「安心しなさい」と語りかけるが、幻かと疑ったペテロは「主よ、あなたでしたら水上を歩いてそちらへ行くように命令してください」と訴える。イエスが湖を歩いて来るように命じ、ペテロは従って近づこうとするが暴風によって一抹の不安が生じ、溺れかける。イエスはペテロの手を取り「信仰の少ない人よ、なぜ疑いに負けたのか」と諭す。信仰の厚い者にとっては湖上を歩くことも、羊頭のこどもを授かることも「奇跡」として現実のものとなる。

 

余談だが中国題の『羊懼』が中国語で「男性器」を意味する「陽具」と同じ発音であることからネットミームとして拡散され、一部にはフロイト理論のエディプスコンプレックスに係わるPenis Envy(男性器羨望)の主張と絡めた考察もなされたという。

フロイトによれば、女性は発達段階で男根の欠如(去勢)を認識し、女性性(母親)への憎悪や価値低下、クリトリスへの諦めと膣性交による受動性の容認を経て、陰茎への羨望を出産への願いに変えるものとした。配給サイドが意図して陰茎とのダブルミーニングを用いたとは到底考えにくいが、映画の見方としては興味深いものがある。

牧歌的と表現するにはあまりに荒涼とした、物質的にミニマムでミニマルな暮らしが想像される僻地において、人間であっても「筋力に優れた牡」と「仔を産む牝」というような生物的な性差がより鮮明になる環境といえるだろう。

 

母羊のナンバリング“3115”は、旧約聖書・三大預言書のひとつエレミヤ書31:15を指している。

 15 主はこう仰おおせられる、「嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞こえる。ラケルがその子らのために嘆くのである。子らがもはやいないので、彼女はその子らのことで慰められるのを願わない」

引き離された我が子を探し、喚いていた母羊“3115”は、子を失ってからのマリア自身の姿でもある。続くエレミヤ書31:16では映画のその後の展開が示されている。

16 主はこう仰おおせられる、「あなたは泣く声をとどめ、目から涙をながすことをやめよ。あなたのわざに報いがある。彼らは敵の地から帰ってくると主は言われる。

はたして2度の喪失を受けたマリアは、それからどうしたものかは観客の想像に委ねられている。アダを失い、夫さえ失ってしまったマリア。頼る者もない厳しい環境で以前のような生活を続けるのは困難に思え、夫婦の侵した禁忌を共有するぺトゥールのもとに身を寄せるのが、経緯としては妥当にも思える。

だがマリアは(二者択一という訳ではないにせよ)過去にぺトゥールではなくイングヴァルとの結婚を選んでおり、現在のぺトゥールへの未練はないようにも見える。彼女が結果的に夫と2人のアダを失うことになった経緯を踏まえれば、もはや結婚という方法を選ばないことも充分に考えられる。現実的に見れば別天地での再スタートの方が甲斐性なしとの復縁よりは賢明といえるかもしれない。

しかしエンディングで何かを決意したかのようなその女の胸中は、この地に残り、アダの奪還を期する覚悟を決めたかのように見えなくもない。ヴァルディミール監督がどこまでエレミヤ書との符合を意図しているかは分からないが、続く31:17にはこう記されている。

17 あなたの将来には希望があり、あなたの子供たちは自分の国に帰ってくると主は言われる