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気になる事件と考えごと

北海道鹿追町老人ホーム殺人事件

1997(平成9)年6月に北海道鹿追町にある特別養護老人ホームで発生した殺人事件について記す。80歳の高齢者がなぜ殺されなければならなかったのか、犯人の目的は何だったのか。十勝平野の長閑な町を襲った悲劇は現在も未解決のままとなっている。

 

 

概要

1997年6月3日午前0時半頃、北海道河東郡鹿追町北町の特別養護老人ホームしゃくなげ荘で「ぼたんの間」入所者の沼倉忠さん(80)がベッドで首から血を流して亡くなっているのを巡回中の施設職員の女性(25)が発見し、すぐに新得署に届け出た。

当然、入所者たちは就寝時間である。遺体はパジャマ姿で布団を胸までかけた仰向けの状態だった。室内には争った形跡や物色された痕跡もなかった。各室の枕元には緊急呼び出し用のブザーがあったが鳴らされることはなく、就寝中に一気に刃物で切りつけられたと見られている。

司法解剖の結果、死因は頸動脈切断による失血死。傷は長さ約5センチ、深さ約1センチ、左の耳下からのど元にかけて鋭利な刃物で切断されていた。死亡推定時刻は午前0時前後と推認されている。現場から凶器とされた刃物類は見つかっていない。

 

状況

老人ホームでは夜間は職員2人と警備員1人の計3人の体制で仮眠を取りながら交代で部屋を巡回している。2日の23時時点で職員が施設内を見回ったときには異常はなかった。巡回と巡回の間、約1時間半の隙を狙って何者かが侵入し、沼倉さんを襲ったのであろうか。
施設の出入り口は玄関や非常口など4か所あり、定期的に施錠点検がされていた。施設内の廊下から沼倉さんの個室にかけての入り口は施錠できるドアではなくアコーディオンカーテンで仕切られているだけなので、中からは誰でも出入りができる。

個室の窓は施錠するようになっているが、沼倉さんは閉め忘れることが多かったとされ、事件発生時にも庭に面した窓は開いたままになっていた。さらに窓枠や室内から枯れ草のついたアメリカ製の高価なスニーカーの足跡が数個見つかったことから、犯人は窓から侵入した可能性が高いと見られている。

また廊下の先の非常口の庇(ひさし)部分には手を掛けていたような跡が見つかった。廊下は一直線で、施設の外から廊下を見渡せる場所にあったため、犯人はここから犯行のタイミングを伺っていたとも考えられた。

イメージ

 

沼倉さんは事件の起きる8年前の1989年11月から入所。4人の息子が独立して同じ町に暮らしていたが、一人暮らしが困難となり施設に預けられた。生来から強情で気性が荒く、大声で怒鳴り散らすこともあり、それに認知症の症状が加わり、家族の手に負えなくなった。

入所当時から足に障害があり、移動に歩行器を使用していた。事件前は1日中ベッドの上に横たわっていることも多く、認知症の症状も進んでいたという。

それに比べて、犯人像は事前に所内を窺う周到さを持ち、スニーカーを履いた身軽な人物は被害者と同年代とは考えにくく、ただ命を奪うためだけに侵入したかのような現場状況は不釣り合いのようにも思われた。

事件前の5月12日(13日?)にも、沼倉さんは左目の下から血を流して2針縫う怪我をしていた。沼倉さんは「30歳くらいの男にやられた」と話していたが、認知症も進んでおり、歩行も困難なことから施設側は何かにぶつけて出来た傷と判断して警察には届け出ていなかった。

また遺体発見直後に部屋から病院への搬送作業などによって、現場保存が適切でなかったことも現場検証など基本捜査が難航した一因とされている。

 

■環境

鹿追町十勝平野北西部に位置する畑作や酪農を主要産業とする人口約6000人(1995年当時)の小さな町である。1960年には約2000世帯、人口10000人を超えて増加のピークを迎えたものの、交通網の整備などにより70年には人口7883人と流出超過が進み、微減傾向が現在まで続いている。

1947年、町と然別湖の間に陸上自衛隊然別演習場が設置され、駐屯地を備える。

十勝平野に位置し、地図で見ても分かる通り、町の周囲は広大な耕作地に囲まれている。最寄り駅は根室本線新得(しんとく)駅で事件現場からは約18キロ、車で25分程の距離にあり、比較的距離がある。付近の都市としては35キロ程離れた帯広市が中心街となる(車移動でおよそ40分)。

しゃくなげ荘は1980(昭和55)年に町立の特別養護老人ホームとして開設。85年に法人化され経営が移管された。平成に入ってから利用者が増加し、事件当時の入所定員は50名、スタッフは28名であった。男性職員は施設長を含めて6名、うち2名が介護担当職員で、残る22名は女性が占める職場であった。専門学校を出て就職した若い女性介護スタッフが多かったという。

1997(平成9)年11月には食堂が増築され、その後、ショートステイ棟、ユニット棟の増築が進められ定床数を増やしていったことからも、ほぼ定員いっぱいの利用者がいたとみられる。

 

気象庁データによれば事件のあった97年6月2日から3日にかけての気象状況は、

〔2日〕降水量0mm、最低気温3.8度-最高気温9.0度、最大風速2m、日照時間0.0h

〔3日〕降水量5mm、 最低気温4.6度-最高気温10.3度、最大風速2m、日照時間0.0h

とされ、5月の平均気温8.7度、6月の平均気温14.0度であるから、厚い雲に覆われて肌寒い日が続いていたと見ることができる。尚、3日の降雨は3時前後である。

事件前に目の下を怪我した5月12日(13日?)についても見ておくと、

〔12日〕降水量1mm、最低気温0.8度-最高気温16.5度、最大風速3m、日照時間9.6h

〔13日〕降水量0mm、最低気温0.9度-最高気温23.2度、最大風速3m、日照時間8.5h

とされ、日中よく晴れて寒暖差が非常に大きく、13日に関しては当年5月の最高気温を記録している。

 

犯人像について

睡眠中の老人の頸動脈を切りつける犯行からは明確な殺意が窺える。その一方で、沼倉さん自身はすでに入居から8年で認知症も進んでいたということから、外部の人間とは長らく交流する機会もなかったにちがいない。

また通常こうした施設では紛失やトラブルの元となるため貴重品を所持させない。荒捜しした形跡がなかったことからも金銭等の強盗目的ではなかったと考えることもできる。

数は少ないと思うが、施設の特性上、退所した元利用者なども高齢者であるため、窓からの侵入や非常口のひさし(数十センチ程度の屋根)に上って様子を窺うといった犯行とは相容れない。もし動機が怨恨にあるとすれば、ホーム職員ら施設関係者、あるいは親類や古い縁故の者に限られてくる。

 

まず施設関係者であれば建物の構造、夜間巡回についての知識もあり、最も犯行に適している立場にあるといえる。日常的な不満やトラブルから殺害に至る動機も充分にありうる。当然、道警の取り調べも最も時間が費やされたと思われる。沼倉さんは認知症もあり突発的に不満をあらわにする場面も多く、着替えやおむつ交換などの際に激しく抵抗し、女性職員では制しきれない力で叩かれたり、蹴られたりしたこともあったという。

親類や古くからの縁者であれば、強い怨恨があったとしてもおかしくはない。だが親族や通常の面会者であれば、施設側でも把握されており、警察の聞き込みも早々に及んだものと思われる。また沼倉さんの死に遺産相続などが絡んでいれば親族は真っ先に疑いが向けられたはずだ。

 

そうすると1か月前に沼倉さんに怪我を負わせたという「30歳くらいの男」という話が引っ掛かるところである。話の出処は不明だが、ホーム職員か治療した医師あたりであろうか。

沼倉さんが複数人に対して直接そのように話していたとすれば重要証言のひとつとなるが、たとえばなじみの担当職員が「沼倉さんがそのように言っている」と他職員に伝えたり、日誌などに記録したり、病院側に説明していたことも考えられる。

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認知症に関して言えば、自分の失敗について理屈の通らない「言い訳」をすることは非常に多い。「30歳くらいの男」発言についてもその信用性は決して高いとはいえず、おそらく警察に通報していても100パーセントは信用してもらえないのではなかろうか。

しかし穿った見方をするならば、被害者が認知症で「信頼できる」状態にないのをよいことに、虐待した施設職員が揉み消すために「30歳くらいの男」発言を捏造したとは考えられないか。日常的な虐待がなかったとしても、急に物を思い切り投げつけられて咄嗟に投げ返す、強い力で腕を掴まれて思い切り突き飛ばしてしまうといった突発的な出来事で怪我をさせてしまい、隠蔽が行われた可能性も脳裏をよぎる。

元警視庁捜査一課長田宮榮一監修『捜査ケイゾク中 未解決殺人事件ファイル』(2001、廣済堂)では、施設側は沼倉さんが窓を開けて物を投げ捨てる奇行に手を焼いており、容態の進行から病院への転室を促したが、一般病院ではトラブルを起こしてホームに戻されたことがあったとされる。事実上、家でも病院でも特養ホームでもお手上げに近い状態だったといえる。

未解決殺人事件ファイル―捜査ケイゾク中

仮に「30歳くらいの男」が事実いたとして、当時80歳だった沼倉さんにとって一般的には「孫世代」に当たる人物となる。直接的に沼倉さんと面識があった、怨恨を抱くような人物となれば、実際の孫(不明)かホームで働く職員以外には考えづらい。

「沼倉さんは窓を施錠し忘れることが多かった」とされているが、はたして本当に沼倉さんが施錠し忘れていたのであろうか。当日夜勤でなくとも、職員であれば密かに解錠しておいて侵入経路を確保することも不可能とまでは言えない。

事件が発生した1997年6月2日は月曜日、3日は火曜日。さらに事件前に目の下を怪我した5月12日は月曜日である。これが偶然の一致なのかは分からないが、当時の施設の勤務状況や出来事と照らし合わせれば何か分かることもあったかもしれない。

一方で、容態は思わしくなく、自立的に寝起きできない「寝たきり」に近い状態で、死期が迫っていたとさえ記されている。

 

別の犯人像

既述の通り、施設関係者や親戚縁者などは真っ先に疑いを向けられる対象である。孫には20代、30代の者もいたが、同居経験はなく、疎遠と言ってよく、殺害に至るような恨みや金銭的なからみもなかった。

警察では、有力な証拠もなく、ほかに容疑者が浮上しないこともあって特養ホームの施設長、現場責任者の生活指導員に追及の矛先が向けられたとされる。しかし長年にわたって対応に苦慮しながらも、受け入れを続けてきた彼らがもはや「死期の迫った」入所者をどうしても殺さなければならない理由というのもどうにも酌みがたい。

十分な調べによって、施設関係者や古くからの縁者の線は排除されたとすれば、はたしてどのような犯人像が想定されるか。被害者に対する個人的な怨恨が動機ではないケースをいくつか挙げて終わりにしたい。

 

ひとつは老人嫌悪による差別的犯行が考えられる。相模原市障碍者福祉施設で起きた連続殺傷事件(植松聖)のように、強烈な差別意識から無力な老人男性や認知症を持つ老人を狙う動機になったのではないか(相模原の場合は障碍者に対する嫌悪・優生思想)。同業他社の介護従事者や自宅での身内の介護ストレスなどによっても、そうした差別感情を拗らせ、その腹いせで犯行に及んだ人物なども想像されないか。

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また鹿追は非常に小さな町であることから、同じ町内で犯行を犯すには大きなリスクを伴う。帯広、芽室、清水といった近郊の市町村に在住していることも考えられる。過去に鹿追在住だった可能性もある。

 

もうひとつは、被害者でなく施設職員に対して恨みを持つ人物による当てつけ的な犯行である。第一発見者の施設職員は25歳女性であり、同僚も女性ばかりという労働環境である。

事件捜査となれば被害者との個人的トラブルについて真っ先に目が向けられるが、28人の職員について、たとえば恋愛関係のもつれ、離婚の有無といった周辺の人間関係やトラブルまで充分な洗い出しきれたのだろうか。そうした職員の身内や知人であれば、施設情報や勤務形態などについてもある程度知る機会はあるだろう。

類推して考えれば、たとえば職員の息子が、責任を負う立場になる親に対する当てつけとしてそうした犯行に至ることもありうるのではないか。だとすれば、事件当日(および5月12日)の施設職員の身辺に恨みを持つ人物はいなかったか。

 

あるいは無知な若者による犯行も当然考えられる。事件の起きた1997年当時、若者の間ではハイテクスニーカーブームが絶頂の時期であった。NIKE社の「エアマックス95」は元々1万5千円程度で販売されたものの、斬新なデザインが人気に異常な拍車をかけ、20万~30万円近い高値で取引されることもあった。当時はまだインターネット黎明期でパソコン通信をする人口はひと握りに限られており、フリーマーケットや個人情報交換雑誌『じゃマ~ル』などを通じて個人間売買も盛んになっていた。その異常人気から、模造品の転売、街中での「マックス狩り」も社会問題となるほどであった。

現場で発見されたスニーカー痕の製品名は明らかにされておらず、模造品の可能性も排除しきれないように思うが、そうした高価なファッションに金をかけるために強盗に押し入る発想は想像できる。親の介護などの経験のない若い世代であれば、入所者は金品を持たされないことなどを知らなかったことも考えられる。侵入したはいいが、金目のものは見当たらず、脅かして聞き出そうとしたが激しく抵抗したため、咄嗟に切りつけ逃げ去ったというのがシンプルな見方かもしれない。

この筋読みであれば、犯人は10代から20代。個人を狙っていた訳ではなく、窓がよく開いている「ぼたんの間」に目を付けていたとすれば相当に近場に住んでいたことも推測される。

 

現在では監視体制の強化や防犯意識の向上により容易にこうした施設を襲撃する事件は起こりづらくはなっている。とはいえ、カメラの外、防犯の隙をついていついかなる凶行が襲ってくるとも限らない。介護従事者の方々だけで防犯するにも限界があるため、今後もより安全で快適な施設づくり、制度設計が求められる。

 

沼倉さんのご冥福と、ご家族の心の安寧をお祈りいたします。