1978・79・80年にそれぞれ起きた、男たちと猟銃に関する事件について。
熊野一族7人殺し
1980年(昭和55年)1月31日(木)午後、三重県熊野市二木島町のみかん農家池田一通(44歳)方で集まっていた親族7人が殺害され、3人が重軽傷を負う凄惨な事件が発生した。親族らを襲った池田は猟銃を手に自宅に籠城し、最終的に自ら命を絶った。
生き残った家族らの話によれば、男は数日前から心身に不調をきたしており、挙動不審や妄言が見られていた。二日前にも妻楠美さん(38歳)の実家へ突然訪れて、妙に塞ぎ込んだ様子を見せ、親類になだめられてようやく帰るという出来事があった。
熊野は大正末期に喧嘩が元で発砲沙汰となった事件が起きた程度で、凶悪事件とはほぼ無縁ともいえる土地柄だった。
1959年に三重県亀山市から和歌山県新宮市、さらに紀伊半島に沿うかたちで和歌山までを結ぶ国鉄紀勢本線が、1970年には三重県尾鷲市から和歌山県田辺市を結ぶ国道311号が開通した。だが熊野は近畿や中部の都市部とは隔絶された地理条件にあり、南紀の他の村々と同じく、漁業と林業を中心産業とした古くから続く暮らしぶりが劇的に変わることはなかった。
現場となった池田の自宅は紀勢本線・二木島駅から南東約1キロに位置した。眼下に熊野灘を臨む新田山の急勾配に建てられた8部屋ある平屋建てで、乗用車一台がやっとという狭路が家の前を通る。
下は付近のストリートビューだが、当時の建物はすでに取り壊されている。狭路はこの先すぐに行き止まりとなるが、道沿いには17戸が点在していた。
事件当日も池田は不調を訴え、農閑期に勤めていた石切り場の仕事を早く切り上げて、正午ごろに帰宅した。その様子を心配した母親とめさん(80歳)と楠美さんは、15時頃に「どうも様子が変だから」と親類たちを家に呼び集めた。報せを受けて近所に住む池田の弟夫婦や姉夫婦、市内で暮らす池田の妹らが駆けつけた。
16時半ごろには市内からかかりつけの内科医が呼ばれたが、池田は興奮状態で「体調は悪くない」と言い張って頑なに診察を拒んだ。医師は血圧測定ののち注射を試みようとするも断念せざるを得ず、精神安定剤と睡眠薬を家人に託して帰った。
このとき医師は、万が一に備えて数日前から猟銃の保管用ロッカーのカギを隠してあると池田の妻から聞かされていたという。猟銃は害獣駆除用に7年ほど前から所持を認められていたものである。
医師が帰ると池田も落ち着きを見せ、集まった親類たちは別室で寿司折りなどをつまんだ。その後、実弟の寿一さん(38歳)、義弟(実姉の夫の弟)にあたる岡本充さん(29歳)、二男忠くん(5歳)、三男正和くん(4歳)とともにテレビを見ながら過ごしていた。
午後5時頃になって、池田は「みんなにジュースでも買って来てくれ」と命じ、寿一さんと妹実子さん(41歳)、忠くん、正和くんがライトバンに乗って買い出しに出掛けていった。
するとその直後、池田は手斧で義弟の充さんに襲い掛かり、その後散弾銃を持ち出して親族を次々に殺害していった。保管用ロッカーのカギは隠されていたが、男は手斧でロッカーごと破壊していた。手斧は刃渡り8センチで「枝払い」に用いられる極小型のものだった。
池田は同居していた母親を玄関近くで手斧で斬殺、庭先に逃れようとした姉を散弾銃で射殺した。その後、買い出しに出ていた4人が戻ってきて、帰宅の合図に庭先で車のクラクションを2度鳴らした。それに対し、池田は運転席の弟を猟銃で射殺、助手席の妹と後部席の幼い実子ふたりを手斧で殴り殺した。
頭部を負傷したが逃げのびた義弟の充さんは隣家の鉄工所に助けを求めた。駆けつけた田川半七郎さんは家の前で池田が猟銃を支度する姿を目の当たりにした。田川さんの長男は池田が猟銃を調整している隙を見て、足元の手斧を奪って逃げ、すかさず路傍に投げ捨てた。
池田は軽トラックに乗り込もうとした義兄に約50センチの至近距離から発砲して射殺。まだ近くにいた田川半七郎さんに対しても遠巻きから5、6発発砲し、右太ももに軽傷を負わせた。田川さんによれば、池田は口論したり叫んだりしていた訳でもなく終始無言のまま行動していたという。
午後5時27分に田川さんの妻から熊野消防署へ通報。ケガ人が複数いるとして救急を求めた。午後6時過ぎ、騒ぎに気付いた住民が後から警察に通報した。池田が酔って猟銃を手に暴れてケガ人が多数出ている、人質を取って自宅に立てこもったと知らせた。
6時20分頃に救急隊が到着したが銃撃の危険から敷地内に立ち入ることができず、茂みに身を隠して状況を見守った。38分頃、熊野署から警官隊8名が到着。池田はしばらく落ち着きなく外の様子を窺っていたが、やがて部屋の奥に身を潜めた。
警官隊は近隣と県警に応援部隊を要請。邸に接近して人質解放を求めて壁越しに説得を開始するが、池田からの応答はなく、屋内の生存者や武装状況が把握できないことから迂闊に飛び込むことができずにいた。
しかし6時50分に猟銃の射撃音が、やがて7時3分にも室内から2発の銃声が響き渡り、以後、屋敷一帯は静けさに包まれた。5分後に警官隊は突入を決行するが、池田は子ども部屋で腹部と頭部に散弾を撃ち込み、すでに息絶えていた。
玄関先の車内に1人、軽トラックの荷台に1人、庭先と玄関に1人ずつ。わずか1時間ばかりで池田本人と合わせて8名もの命が奪われたことになる。妻楠美さんは頭や胸に打撲や切り傷を負い、一時は意識不明の重体に陥り、回復までに全治2か月を要する重傷だった。
2月初旬に被害者たちの葬儀が営まれ、入院中だった長男はショックと失意の中、けなげにも喪主を務めた。
事件の背景
事件は戦後の大量殺人としては帝銀事件の12名に次ぐ大惨劇であり、当初「家族ら7人次々射殺/3人けが、本人自殺」と新聞でも大きく報じられた。しかし今日では他の事件や大量殺人犯に比べて詳しい内容はあまり語られなくなっている。当時としても片田舎で起きた事件だったため、取材が少なかったのであろうか。
当初、通報者は警察に「酒に酔って暴れている」と話したが、池田に飲酒習慣はなく、司法解剖でも本人からアルコール反応は検出されなかった。近隣住民の目にも男はとても素面の、正常な状態とは思えなかったということであろう。
その日、診察に訪れていた医師は、「妙にニヤニヤと笑いを浮かべていた」「日頃大人しい人が診察や注射に拒否反応を示したり、妙な笑みを浮かべるのは精神分裂病の症状だと思った。月曜(2月4日)まで様子を見てから正式に精神科の診察を受けさせようと考えた」と事件後に振り返っている。
だが犯人は過去に精神科への通院歴などもない中、報道側が自主規制を敷いたというのだろうか。
池田一通は二木島町の生まれだったが、その生家は数百メートル西に位置していたとされる。高校に進むも成績は悪く、遅刻癖もたたり、やがて中退。その後は家の農業手伝いや養豚、農林の仕事に携わっていた。
20歳の頃、熊野市内で言いがかりによる傷害事件を起こして2万円の罰金刑を受けていた。その後もトラック運転手をしていた折、和歌山県新宮市で暴力行為、建造物等破損容疑で逮捕され、執行猶予付きで懲役10か月の有罪判決を受けた前科があった。
1959年7月に紀勢本線が開通し、地元にも二木島駅が開業する。町の発展も期待されていた矢先だったが、2か月後には伊勢湾台風が上陸して周囲の家々を数多く破壊した。このとき池田の生家も被災して、山際の集落で暮らしていた義兄を頼って現場となった山海の狭路へと移り住んできたため、同地の住民と深い結びつきはなかった。
事件の10年ほど前に父親を亡くして地元に戻ったが、かつての素行不良は落ち着き、家長として目立ったトラブルもなく過ごしていた。むしろ近隣住民からは大人しい性格だとみなされており、消防団の班長や保育所役員、交通安全協会委員など地域の仕事も務めていた。
山や稲田、ミカン畑を有する土地持ちで、地元ではその暮らしぶりは「中の上」とされる裕福な家とされていた。
目下の悩みの種と言えそうなのは、家族の健康問題であろうか。中学生の長男(15歳)は腎臓病のために三重県津市の国立療養所に入院しており、79年12月には二男が肺炎を患っていた。また池田本人は土木仕事の手伝いとして石割職人をしていたが、削岩機の長期使用によって白蝋病(*)を患って、事件より2年前に労災認定を受けていた。
(*血行不良により指が白くなることに由来する病名で、機械振動によって引き起こされる血管性運動神経障害とされ、振動病とも呼ばれる。チェーンソーや刈払い機などの機械使用、そのほかレーサー等が発病しやすい。)
池田は療養のための休業手当として月に20数万円を支給されていたが、実際には現場作業にも相変わらず従事しており、およそ一年余にわたって給料との二重取り状態を続けていた。だが79年夏には症状の進行を訴え、外科にも通院していた。
79年12月に熊野労働基準監督署は市内の石切事業所に帳簿類の提出を求めた。これは一般的な労働監査のひとつに過ぎなかったが、知人によれば、池田は「労災の不正受給を疑われているから、そのための調査ではないか」と思い込んで、二重取りが明るみに出ることを恐れていた様子だったという。
近隣住民は「物腰柔らかいやさしい人」と言い、休日には子どもたちを連れて堤防へ釣りに出掛ける姿も見られていた。一緒に働いた土木関係者は「仕事はまじめだが小心な面がある」「こだわりやすい神経質な面があった」と話した。
後年、セゾン・グループから映画製作の後押しを得た監督・柳町光男は『十九歳の地図』(1979)でもタッグを組んだ芥川賞作家中上健次にオリジナルシナリオを依頼。紀州にルーツを持つ中上は本件発生時に熊野市内の新鹿町で暮らしていたこともあり、事件をモチーフとして『火まつり』の脚本を執筆した。
シナリオでは、辺鄙な田舎の閉塞感やムラ社会における人間関係、一家皆殺しという男の暴発を描いてはいるが、そこに至る動機については緻密に言語化しようとはしなかった。
事件はあまりにも壮絶極まりない出来事だったが、明確な殺意に比して、その動機は常人には理解しがたいものだったことも語り継がれていない理由のひとつと言えようか。
田宮二郎の最期
本事件から近い時期に「猟銃」による象徴的な出来事が起きている。
1978年12月28日には、映画、ドラマ、番組司会者などで知られた人気俳優田宮二郎が猟銃で自殺を遂げた。
田宮二郎の妻“没後38年目の初激白”(1)「命を絶った理由とは?」 | アサ芸プラス
田宮二郎は60年代に勝新太郎との共演作が話題となり、端正なルックスも相まって「大映」の看板スターとなったが、68年に主演格ながらも四番手扱いの序列とされたことに猛反発し、大映社長の長田雅一と衝突。長田は田宮との専属契約を打ち切った上、他社へも映画出演させないように通達した。つまり業界から「干され」たのである。
窮地に立たされた田宮であったが、舞台や地方回りなど仕事を選ばずこなし、やがてTVの『クイズタイムショック』や音楽番組などの司会業に活路を見出していく。TV業界で揺るぎない人気を博すると、政財界へと交友を広げ、マンションやゴルフ場経営などビジネスの多角化を目論むようになっていった。
国際情報社 撮影者不明 - 国際情報社『映画情報』第28巻4月号(1963)より, パブリック・ドメイン, リンクによる
司会業と並行してTBSで立て続けにドラマに出演したが、俳優として満足のいく仕事にはなかなか巡り合うことはできず、制作陣への介入や現場との衝突も増えていたという。共演女優との不倫スキャンダルにも苛まれ、ストレスは蓄積されていった。
かつてはオシドリ夫婦と呼ばれ、真面目で几帳面、それでいて他人に無理強いしない人格者だった田宮は家族にも当たるようになった。食卓を囲んでも「料理の味が分からない」「うらやましい、自分はそんな風に笑えない」と泣き出すことさえあり、家族の目にも変調は明らかだった。過労が重なり「躁うつ病」の診断を受けたが、完治不能とされる心の病を彼は受け入れることができなかった。
自信過剰な躁状態のときは、ウラン採掘権やM資金など有象無象の詐欺にも投資を続けた。77年には主演・製作を務めた日英合作映画が不発に終わり、多額の負債を抱え込んだ。現場との軋轢の中で板挟みになったマネージャーが顔面麻痺になるなど、これ以上の仕事の継続は不可能だった。
金策に行き詰まると公私の支えとなっていた幸子夫人をも敵視するようになり、彼女も身の危険を感じて一時は距離を置いたという。夫の快癒を信じ、俳優田宮二郎の名誉を守るためにも一定のブランクが必要と考え、夫人は断腸の思いでTBSドラマや司会番組にも降板を願い出て、長期療養させる段取りを進めていた。
しかし夫人も与り知らぬところで田宮とフジテレビが『白い巨塔』の完全ドラマ化の企画を進めており、すでに原作者山崎豊子の了承を得て、田宮の療養計画は流れてしまう。『白い巨塔』は過去のラジオドラマ版、映画版で好評を博した田宮のライフワークとも言える作品のひとつだったが、それまで物語中盤までしか描かれなかった「財前五郎」の生涯を演じ切りたいという役者魂から心血を注いだ。
一方、撮影現場で田宮は「妻に毒を盛られた」「実際に手術させてほしい」などと荒唐無稽な発言で共演者たちを困惑させた。集中力が続かず台詞覚えも困難を極めたが、夫人は夫の熱意を汲んで相手役となって付き添った。
全31話、約8か月に及ぶ長期撮影の期間に、躁も鬱もピークを越え、間には失踪騒ぎまで起こしていた。11月にクランクアップし、12月26日に最終話の試写を見終えた。放映も残すところあと2話で完結するというところで、田宮は自ら命を絶った。
12月28日の昼近く、田宮が「お腹が空いた」というので付き人が洋食屋に昼飯を頼みに出掛けて戻ると、自室で布団を被り、クレー射撃用の散弾銃で顎から頭部を撃って意識を失っていたという。享年43。尚、顎から上に目掛けて放たれた弾丸は頭部を突き抜けてから飛散したため頭部がはじけ飛ぶことはなかったとされる。
訃報の話題性も重なって最終話は31.4%を記録し、テレビドラマ史でも不朽の名作として今なお語り継がれ、リメイクが繰り返されている。
妻・幸子さんは密葬を終えた後の会見で夫の最期を「哲学的な死を遂げたのだと思います」と述べ、後年のインタビューでは「『白い巨塔』をやっていなければあのような最期にならなかったと思います。ボクシングに例えるならとっくにタオルを投げ込んでいるのに、それでも12ラウンドまで戦いきった。そして今でも名作として観ていただけているのであれば、遺族としては大きな慰めとなります」と語っている。
田宮の遺書には、妻子への万感の愛情が綴られ、家族のためと思うばかりにがむしゃらに働き続けてきたことへの後悔もにじませていたとされる。
三菱銀行北畠支店猟銃立てこもり事件
1979年1月26日には大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店を舞台にして猟銃を持った男の立てこもり事件が発生し、テレビ各局が中継して大きな注目を集めた。犯人は梅川昭美(あきよし)(30歳)で、借金の返済に行き詰まっての犯行を主張した。
銀行の閉店間際となる午後3時前に黒スーツにハット帽、サングラスに白マスクといういでたちの男が窓口に現れ、ニッサンミクロ上下二連銃を天井に向けて連射し、金をリュックに詰めるように指示した。男は非常電話で通報しようとしていた行員男性を容赦なく射殺。その場から逃げ出せた客が住吉警察に通報した。駆けつけた警官らが投降の説得を試みようとしたが、警部補と巡査の2名が射殺された。
男は客12名行員31名を人質に取り、シャッターを閉じて立てこもりを開始した。親子連れや妊婦、高齢者といった客たちや負傷者の解放を認めていく一方で、「金を出さんかったお前の責任や」と支店長を射殺する容赦ない凶暴性、行員に別の行員の耳を切り落とさせるといった残虐性を併せ持っていた。
梅川は行員たちに命じてバリケードをつくらせ、服を脱がせて自分の周囲に配置させて警察からの射撃を防ぐ「肉の盾」を築かせた。ステーキやロ-ストビーフ、ビールやワインを要求しながら42時間近い籠城を繰り広げた。人質に毒見までさせる周到さで、人質用の食料として届けられたカップラーメンについて「栄養がない」と文句をつけて、栄養剤やサンドイッチなどが追加された。
ラジオニュースで「ウメカワテルミ」と呼ばれたことに腹を立てて発砲し、「テルミやない!アキヨシ言うんや!」と捜査本部に言い放った。深夜になって、行員に借金返済の手立てを考えさせるようなことをし、人質の行員にサラ金まで密かに返済に走らせ、戻ってきたら別の人質を釈放するという交換条件を出した。行員が500万円程の返済を終えて戻ってくると梅川は満足した。
27日には投降を呼びかけるために母親らが招かれたが、梅川は電話での会話を拒絶。「母上のたのみですからゆるしてあげてください。早くだしてあげてください 母上のたのみです」といった手紙が差し入れられ、女子行員が代読したものの人質を解放するまでには至らなかった。
だが梅川は「おふくろはそんな字しかかけへんのや」「おれにはおふくろしかおらんのや。子どもの頃から一緒に苦労したんや。おふくろは大好きや、一緒に暮らしたいんや」とこぼし、本来はもっと早く銀行を襲うつもりだったこと、猟銃で脅せばすぐに金を出すと思っていたことなど、後悔を口にしていたという。午後6時過ぎにローストビーフとワインが差し入れられると「これが最後の晩餐や」と漏らした。
警察では前夜に一時脱け出した行員らとの内通によって、行内の人質たちの状況や梅川の行動の細かな癖まで聴き取り、突入の隙となる好機を探っていた。27日の深夜には梅川は人質に自分の服を着せて、弾を抜いた猟銃を持たせ、自身は人質に紛れ込んで「人質解放」を偽って現場から脱出する偽装工作まで画策していたという。
遺体から腐臭が漂い始め、人質となった行員たちが搬出してほしいと懇願。梅川もそれを認め、捜査員が搬送に当たった。薄氷の上に立たされている行員たちの気力・体力はもはや限界が近づいていたが、それは梅川にとっても同じことだった。
28日朝、強行突入が指示された。SATの前進である警備部第二機動隊「零中隊」の7名は死角から行内カウンターに接近して射撃の機会を窺っていた。
梅川は零中隊の動きに気づかず朝刊を読み始め、手から猟銃を離した。女子行員に茶を汲むように命じると、周囲に人質がいない状態が生じた。それに気づいた内通の行員が合図を送り、午前8時41分、バリケードの隙間を縫って零中隊がカウンター内に突入。「伏せろ!」の号令とともに8発が発射され、うち3発が梅川の頭と首と胸に命中する。
男は床に転倒して身柄を確保され、すぐに大阪警察病院へと搬送された。銃弾摘出などの手術を受けたが、右頸部の銃創が致命傷となり午後5時43分に死亡が確認された。
梅川の母親は、自分だけは最後まであの子の見方でいてやりたかったと涙した。彼女は梅川のことを「テルミ、テルちゃん」と呼んでいたという。
梅川照美は1948年3月、広島県大竹市生まれ。父親は繊維工場の配管工として勤めていたが、梅川が8歳の頃に椎間板ヘルニア、リューマチの悪化で退職。女癖が悪く、頼母子講(*)にのめり込んでヤミ金融に借財をつくり、評判のよくない人物だったとされる。
(*頼母子講・無尽…掛け金を払い、一口ごとに抽選・入札・談合(競り)などを通じて物品や金銭を与えるギャンブル性の高い金融形態。鎌倉時代以降に寺社寄進、講における労働共助などの互助的金融のひとつとして広まったものだが、近世以降は物品購入の積み立てや貯蓄目的、賭博要素の強い「富籤(とみくじ)」などに多様化した。戦前は法人を通じて盛んに行われ、利殖を目的とする金融商品となったが銀行の拡大で縮小した)
10歳の頃、両親は離婚し、梅川は父親に引き取られて引っ越すも、すぐに母親の元に舞い戻った。母親は独身寮の炊事婦で、長女を亡くして高齢で授かった子だったこともあり、貧しいながらも梅川を甘やかして育てた。梅川は母親にも暴力を振るう粗暴な少年となり、高校をすぐに退学。
63年、大竹市内で土建業者に勤め始めたがバイク窃盗などで辞めることとなり、直後に社長の家に盗みに入った。社長の義妹(21歳)を殴打して滅多刺しにし、現金、通帳、株券などを奪った。1週間後、梅川は15歳にして強盗殺人容疑で逮捕された。
無惨な犯行様態、「他の奴らはぬくぬくと暮らしているのに、なんで俺だけが貧乏で苦しまないといけないのか」と語る悔悛の情のなさなどから梅川は中等少年院に送られた。少年院の技官は「このような資質の少年を社会に放任することは極めて危険」と指摘されており、反社会性の強さは矯正困難な「病的人格」で「累犯の可能性が極めて高い」とまで記録しており、その危険性はすでに認識されていた。
しかし僅か1年半で仮退院すると、大阪でバーテンや飲み代の取立人などの職に就いた。67年に父親が亡くなったとき、葬儀に顔を出すことはなかった。その後も非行や借金生活に溺れていくのだが、立てこもり事件までの14年間は警察沙汰を起こしていなかった。
事件後、自宅からは大藪晴彦のハードボイルド小説、フロイトやニーチェの思想書、ヒトラー、ムッソリーニの伝記など600冊の本が見つかった。ボディビルで体を鍛え、73年には猟銃を購入する等、アウトローの美学を模索するような自分磨きを惜しまなかったと言われている。
周囲には30歳を前に「おふくろを心配させたらあかん年齢や」とぼやき、77年2月には友人に5000万円必要だと言い、銀行強盗を持ち掛けていた。
78年2月、勤め先のクラブが閉店となり、失業する。母親への仕送りもできず、セールス販売の職にありつくがうまくいかなかった。事件前には数の子を手土産に2年ぶりに母親の許を訪れ、羽振りよく見せて親孝行のまねごとをした。事件直前には理髪店でアフロパーマをかけ、一張羅を羽織ると目当ての銀行へと盗難車を走らせた。
所感
3つの事件について、田宮は元より、男たちは自分で自分を追い詰め、自決に近い最期を遂げたという印象を強く受ける。さらに動機について思いめぐらせば、根底には家父長制や当時の男性ジェンダー(性的役割)に強く囚われた・追い詰められた男たちの挫折を感じずにはおれない。
その人生や置かれた社会的立場や評価は三者三様であり、自死や犯行を称揚するものではないが、犯人の立場からしてその最期にどんな意味や価値を見出そうとしたのかを検討して結びとしたい。
田宮二郎には、テレビタレントとしての地位を得て以降も役者への強いこだわりがあった。それが彼自身を苦しめ、人生の終わりを早めたのは間違いない。元をたどれば、映画界を放逐されたのもそのプライドが衝突を招いたことにあった。映画界からの追放という危機的状況を経験したことで、田宮は政治力の必要性と投資欲に憑りつかれることとなった。
個人の資質とともに、有名人の取り巻きとして有象無象が近づいてきやすいことも災いした。個人プロダクションでは映画制作会社や大手芸能事務所のようなセキュリティはなく、相談役となる弁護士やマネージャー、出納管理の手薄さが、男を容易に無謀な投機へと走らせてしまった。
充実をえない仕事への不満、再起をかけた映画製作での失敗、周囲からの評価が田宮の混乱に拍車をかけた。銀幕のニュースターとして将来を嘱望されていた自分、おしどり夫婦として広く好感を得たかつての自分、人々が思い描く田宮二郎という偶像によって、男は首を絞めつけられていった。
自分の人格を失い、自分のしでかした言動を疑い、後悔に喘いだ男は最期のその時まで役者であり続けようとした。自分に戻れば家族を苦しめ、周囲を不安にさせてしまう。田宮はプライドの塊ともいうべき孤高の天才外科医財前五郎を自身に重ね、「治療不能の末期がん」による非業の死という結末はまさしく自分の物語の結末と受け止めたにちがいない。田宮は役者人生に命を捧げる殉死を選んだのだ。
梅川照美が読書やボディビルに傾倒したのは、彼の思い描くダンディズムとして文武両道的なものが目指されただけでなく、学のない母親や体を壊した父親に起因するコンプレックスを本や筋肉によって克服しようとしたのかもしれない。その企ての甲斐もあってか、少年院を出てからは同じ過ちを繰り返さんと何度となく芽生えたであろう殺意を押し殺して10年余を凌いだ。
一方、女と家族を築くことはならず、仕事も実らず、残ったのは多額の借金だけとなった。きれいな身になって、一人前の男となって母親を迎えに行くのはおそらく彼の長年の悲願であったはずだ。しかしかつて憎んだ父親よりも惨めな自分のありように落胆し、再び男は誤った道へ足を踏み出した。彼の中でそれは無謀な賭けではなく実現可能と思われたが、想定外の1、2分というごく短時間で数名の警官が駆けつけてきた。すでにこのときバッドエンドは見えていたはずだ。
無謀な要求や無慈悲な犯行が報じられ、四方を警察に包囲された立てこもり映像を見た人々は、自暴自棄な犯人のでたらめな犯罪に見えたにちがいない。現代であれば、不特定多数を巻き込む拡大自殺や「無敵の人」に一括りとされていたかもしれない。
だが男の目的は母親とのささやかな幸福、せめてもの親孝行にあった。男は白旗を挙げるをよしとせず、殺しても死なない小説の主人公のように悪あがきを続けることを選択した。恥の多い男の人生は、82年の映画『TATOO〈刺青〉あり』のモチーフともなった。
池田一通の呪縛は熊野の地であった。男の人間性を知る手立てはあまりないが、学業は芳しくなく、そのまま家を継いでも良さそうなところ、故郷を離れてトラックドライバーなどをしていたことからも田舎への恨みや都会に対する人並みの憧れはあったと考えられる。故郷に戻ったのは池田34歳の頃で、すでに所帯もあり、果てない夢を追い求める青年時代という訳でもなかった。
何が男を狂わせていったのか。まず息子たちが腎臓病、肺炎を患い、自身も白蝋病に罹ったことは、まるで「呪い」さながらに感じられたのではなかろうか。さらに言えば、自分を故郷に帰らせるきっかけとなった父親の逝去に因縁めいたものを感じたのではないか。池田も梅川同様に「親不孝」をして故郷を離れたくちである。先祖や故郷に対するいくばくかの後ろめたさはそうした不穏な想像を引き寄せる。
しかし土地を憎んでも病気は快癒されないし、亡き父親を恨んでみてもわだかまりが晴れることはない。職場や地域の会合で暴れたとて他人を巻き添えにするのも筋違いに思われる。長男が入院中で一家心中が物理的に難しい一方、呪われた「血」に対する憎しみは地元に残る一族の者へと向かっていったのではないか。
故郷に縛り付けられることを宿命づけられた池田の思惑は、その血を絶やすか、この土地に居られなくすることこそが本望だったように思われる。
1970年代後半から80年代初頭にかけては、家庭内暴力や非行少年などが表面化して物議を醸した時期であった。70年前後で学生運動の季節が事実上終結し、彼らが就職して核家族を築くようになるのが80年前後と見ることができる。旧態依然としたイエ制度への反発、男たちが背負わされた企業戦士や一家の大黒柱といった役割に対する鬱憤、その一方で新たな価値観やライフスタイルを生み出せない時代でもあった。
銃社会と呼ばれるほど拳銃が普及していないことが第一の前提条件にはなるが、本稿で取り上げた猟銃事件の背景には、根強い男性的規範に縛られてもがき苦しんだ男たちのそれぞれの苦悩が透けて見える気がしてくる。