ブラック・ダリア事件について

1947年、カルフォルニア州ロサンゼルスで発生し、半世紀以上を経た現在も語り継がれる戦後アメリカの象徴的な猟奇殺人、通称“ブラック・ダリア事件”について記す。

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Elizabeth Short, 1947, police bulletin LAPD

なぜマニアたちはアメリカの数ある事件の中で今もこの事件を追求するのか、という問いに対して、研究家の一人ラリー・ハルニッシュ氏は次のように答えている。

 “元祖”探偵たちのセオリーに従って、3つの理由を挙げてみましょう。

1つは、未解決であること。2に、そのニックネーム。そして3つ目は、犯罪の恐ろしい性質。いずれか1つの要素でも欠けていれば、誰も今日まで気に掛けることはなかったでしょう。

そして、もうひとつの要素を付け加えるとすれば、noir(仏語で「黒」)でしょうか。そもそもは第二次世界大戦後のロサンゼルスの出来事でしたが、今日ではノワール全体が非常に大きくなっています。それは、事件に新たな生命を吹き込んだと言えましょう。(CrimeReads.com

 

事件には一種の時代のムードが投影されることが多い。ハルニッシュ氏の言うよう、事件当時を直接知らない世代がこの事件について言及するとき、そこには“戦後の抱えた闇”に対するある種の憧憬、ロマンチズム、未知への探求心が刺激されることは否定しえない。フィクション/ノンフィクションの形式を問わず多くのクリエイターの想像力を掻き立て、創作へのインスピレーションを与えたことで、歴史的未解決事件であるとともに文化的アイコンのひとつともみなされている。

ブラック・ダリア (文春文庫)

代表的なものとしては、ジョン・グレゴリー・ダンの小説『The Confessions』(1977、未邦訳)と、本人が脚本を担当し、ウール・グロスバード監督により映画化された『告白』(1981)がある。またジェイムズ・エルロイの名声を高めた暗黒のLA4部作の一作目も本件を主題とした『ブラック・ダリア』(1987)であり、こちらも2006年にブライアン・デ・パルマ監督の手によって映画化されている。

 

■概要

1947年1月15日の10時40分頃、カルフォルニア州ロサンゼルス・レイマートパーク地区サウスノートンアベニューで、女性の変死体が発見された。

当時、周辺に中流向けの住宅はあったものの開発途上で、この通りにはまだ建物はなく空き地だった。第一発見者のベティ・ベルシンガーは幼い娘が路上にできた水溜まりで遊ぶのをたしなめながら、靴の修理を頼もうと店へ向かっていた。

「あれ、なぁに?」と、娘の無邪気な問いかけ。しかし母親は歩道脇の草むらに横たわる“不自然な人型”を見て言葉を失った。

「それは、とても真っ白で…店のマネキンが捨てられているのかと思いました」

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Norton Ave, LAPD

胴体を腰から上下に両断されて、血液が抜き取られており、太もも(後に「バラの花」のタトゥーがあった箇所と判明)や乳房の肉は薄くスライスされていた。灰色がかった瞳は見開かれ、顔の口角は両耳にかけて無惨なグラスゴー・スマイル(『バットマン』に登場する“ジョーカー”のような口裂け)に裁断され、はみ出た腸は丁寧に尻の下に敷かれていた。両肘は上方向に“くの字”型に曲げたポーズを取らされ、開かれた両脚はまっすぐに伸びていた。

 

LA警察は、発見現場に血痕が残されておらず、近くで「水で薄まった血液の入ったセメント袋」が発見されたことから、他の現場で殺害されてから袋で持ち込まれて遺棄されたものと断定。

その日は大寒波の影響で飛行機が欠便だった。LAエグザミナー紙の記者の提案により、社に設置されていたサウンドフォト(FAXの原型)を用いてFBIに指紋照合の依頼を試みた。米軍基地内での職歴と1度の逮捕歴があったため、わずか1時間ほどで被害者はエリザベス・ショート(22)であることが特定され、翌日には身元が公開された。

 

検死官は、死因を顔面裂傷による出血性ショック、頭部への殴打によるくも膜下出血によるものと断定。遺体発見時刻のおよそ10時間前となる14日深夜から15日未明にかけてを殺害時刻と推定した。

手足と首には結紮(けっさつ)痕が見られ、拘束されて虐待を受けたことを窺わせた。切断は死後に施されたもので、腰椎を切断する「半体切除」という術法と考えられた。臍(へそ)から恥骨上部にかけては108ミリの切開があった。肛門管に拡張が見られ、強姦の可能性が示唆されたものの、遺体は念入りに洗い流されたものと見られ、精液の検出はされなかった。

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Elizabeth Short [FBI Mugshot]

身長165センチ、体重52キロ、水色の瞳、茶色い巻き毛。

普段は黒のスーツ、襟なしのコート、ブラウスやカーディガン、黒革のハイヒール、ナイロンストッキング、ベージュの長手袋といった服装を身につけ、黒いハンドバッグや黒い手帳を持ち歩いていたこと、カクテルバー等のナイトスポットに頻繁に出入りしていたことなどが伝えられ、9日に車でビルトモア・ホテルを出て以降の消息が不明とされた。

 

■報道と偶像

 当時のロサンゼルスのマスコミ各社は急増する凶悪犯罪を種に過激なスクープ合戦を繰り広げていた。記者たちは警察署内で捜査員たちと懇意となり、フレッシュな特ダネにありつこうとデスクに通い詰めた。事件現場に警察より先に報道記者が到着していることさえあった。

第一報を受けた新聞社の編集者は「若い女性の全裸遺体」という犠牲者情報に、「美しい」という語句を付け加えた。女性解放よりはるか以前、新聞王ウィリアム・ハーストが健在の時代だった(cf.『市民ケーン』1941)。

 

各紙は犯罪にしばしばニックネームを付ける慣行があった。LAヘラルド紙は、近郊のドラッグストアの客が彼女のことを“ブラック・ダリア”と呼んでいたことを取材で聞きつけ、その呼称を採用した。これは彼女が印象的な黒髪の持ち主でしばしば黒い服装を身につけていたこと、あるいはジョージ・マーシャル監督によるフィルム・ノワールの犯罪映画『The Blue Dahlia;青い戦慄』(1946)に準えたものと考えられている。

フィルム・ノワールは1940年代から50年代にかけてハリウッドで量産された犯罪映画のジャンル。コントラストの強いシャープなモノクロ画面、スタイリッシュな構図が映像的特徴とされ、大都市の下層市民やギャング、精神を病んだ帰還兵、詐欺を目論む戦争未亡人など陰鬱な事情を抱えたキャラクターが登場し、ハードボイルドでありながら閉塞的な時代状況を反映した作風が多く含まれる。)

ある者は彼女が売春婦だったとほのめかし、ある者は戦争未亡人だと憐み、ある者は女詐欺師が報復を受けたんだろうと嘲り、ある者は野心的な若手俳優が“ハリウッド”の毒牙に掛かったと仮説を試みた。

 

LAエグザミナー紙は、身元が判明するとすぐにショートの実家に連絡を取り、「美人コンテストに優勝した」と偽って母親から多くの個人情報を引き出した。その後も情報協力の便宜を図る(資金提供)などしてニュースを大々的に報じた。父親は「あの娘は悪い男に唆されたんだ」と嘆き、警察への不満を語った。

ライバル紙・LAタイムズでも“色情狂による惨殺”と煽り立て、その後も各紙はスキャンダラスな報道を続ける。彼女が死の間際に性虐待を受けたとは当局から公表されていない。だが少なくともメディアと大衆による“セカンドレイプ”の犠牲者であった。

記者たちの自由闊達すぎる“捜査”により、読者は2か月以上に渡ってセンセーションを享受した。その一方で、初期の証拠は踏みにじられ、情報の捏造が相次ぎ、ときにはスクープを独占するために関係者への口止め工作さえ為された。

目撃者を騙る不届き者が量産されたことはいうまでもなく、発見から数か月で数十人の虚偽の自白者を生んだ。男性だけでなく「ショートが私の男を盗んだから切り倒した」と語る婦人陸軍部隊の元メンバー等、女性も数人含まれていた。その後も身内の関与を告発した者を含めれば延べ500人以上に上り、警察の捜査に甚大な支障をきたした。

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1月21日、ショートを殺害したと称する人物からエグザミナー紙編集部ジェームズ・リチャードソンの許へ電話が入る。その人物は報道記事について讃えた後、自分は最終的に自首するつもりであること、警察の追求が及ぶ場合はそうしない可能性もあること、ショートの形見を郵送することを告げた。犯行声明ともとれる内容だが、それだけで済んでいれば愉快犯による悪質ないたずらとも考えられた。

だが24日、アメリカ郵便公社で「ロサンゼルス・エグザミナー紙およびロス新聞各社」宛の不審な郵送物が発見される。封書前面には「Here is Dahlia’s belongings, letter to follow(ダリアの品物在中、追って手紙を送る)」と新聞の切り抜き文字で記されていた。中にはショートの出生証明書、名刺、写真、名前の書かれた紙片、75人分の記載がある「住所録」が入っていた。封筒はガソリンで洗浄されており、完全な指紋は採取できなかった。

同日、遺体発見現場から3.2キロ地点でショートのハンドバッグとハイヒールがゴミ箱の上に置かれた状態で発見された。こちらもガソリンで指紋を拭き消されていた。

この日をピークとして、その後、真犯人を示す事件の大きな展開はほとんどなかった。しかし記者たちは情報の余白を埋めるために、心理学者や精神科医、ミステリー作家らによって加害者と被害者に関する数多の偶像を「描かせた」。

 

■その生涯

ショートは1924年に(五人姉妹の)三女として生まれ、マサチューセッツ州ボストン郊外のメドフォードで育った。父親はミニゴルフ場の造成で生計を立てていたが、29年の世界恐慌で損害を被って破産、翌年にチャールズタウン橋に車を乗り捨てたまま失踪した。自殺として処理され、母親は簿記の仕事をしながらアパート暮らしで娘たちを養った。

ショートは白い肌と美しい黒髪の持ち主で、周囲からは当時のスター女優ディアナ・タービンに喩えられ、羨望の的だった。しかし気管支炎や喘息に悩まされ、15歳で肺の手術を要し、医師からは温暖な地域で過ごすように勧められた。冬はフロリダに住む知人家族の世話になりながらウェイトレスとして働き、夏は実家で家族と過ごす生活を送ることとなり、高校は中退した。

(メドフォード時代のショートは“可愛らしい少女”だった。そのため同郷の人物には「私はベス(エリザベスの愛称)を“ブラック・ダリア”と同一視することができません」とまで言う者もあった。)

 

42年、生死も不明だった父親から謝罪の手紙が家に届き、カルフォルニアの造船所に勤めていることが発覚。18歳のショートは父親を頼ってサンフランシスコ・ヴァレーホへと移住する(生き別れた当時ショートはまだ6歳だった)。

43年1月、父親のもとを去り、サンタバーバラの米軍施設にある小売店で職を得ると、友人や陸軍将校らと生活を共にした。9月23日、バーでの未成年飲酒により検挙され、数日の保護観察を経て実家に送還されるが、すぐにフロリダへ舞い戻った(当時は成人年齢が21歳だった)。担当警官は「きちんとした身なりで、バーフライ(バーを渡り歩いて酒を乞うアル中)とは程遠いものだった」「左足のバラのタトゥーをわざと見せるように座っていた」と当時の印象を語っている。

 

基地周辺にはダンスクラブが作られ、ラジオ収録、ミュージカル、ボクシングの試合などが慰問のために度々催された。戦時中に娯楽が享受できる数少ないスポットだった。

“戦争を知らない世代”が留意しなければならないのは、俳優やアスリート、社交場のホステスたちは、金や自分への見返りのためではなく、将校たちのために率先してもてなしたという点だ。

もちろん地位のある将校と縁故になりたい下心や、結婚したい願望もあっただろうが、自分たちの代わりに命を賭けて国を守る英雄たちを信頼し、心からもてなすことこそが非軍人にできる社会奉仕であった。多くの若い女性は、ドレスを身にまとい将校たちを喜ばせるダンサーやホステスの務めに対して、(一種の愛国心とともに)憧れを抱いていたのである。

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ショートは、事故で療養中だった航空部隊将校のマシュー・マイケル・ゴードン・ジュニア少佐と親密な交際に至り、彼からのプロポーズを受け入れたと周囲に語っていた。しかし終戦目前の45年8月10日、出征先の中国・ビルマ・インド戦線で墜落死してしまう。終戦後、ショートは傷心を癒すため、しばしメドフォードの実家で過ごした。

46年7月、航空部隊ジョセフ・ゴードン・フィックリング中尉を頼ってLAに転居。ハリウッド大通りにあるフロレンティン・ガーデンズ・ナイトクラブでウェイトレス(ダンサー見習い?)として職を得ると、店の裏の寄宿舎に身を寄せた。

 

余談ではあるが、フロレンティン・ガーデンズは1938年開業の最大500人規模のイタリア料理店で、バンドの生演奏やダンス・パフォーマンスを提供するステージを売り物にしていた。戦時下に休暇中の軍人たちが憩う社交場となった。42年、後にマリリン・モンローの名で時代の寵児となる16歳のノーマ・ジーン・ベイカーが披露宴を開催した場所としても知られている。

ショートに関する“噂”の一部には、無名だったベイカーがヌードモデルをして糊口をしのいだことに代表される当時の無名女優たちの歴史が多分に織り込まれている。

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Florentine Gardens [1939, The L.A.Times]

戦後も帰還兵や水兵たちはハリウッドに癒しを求めて集まった。ある者は“将来の銀幕デビュー”を夢見て、またある者は恋人や一夜のパートナーを求めて、夜の街へ繰り出したことだろう。そんな都会の片隅で、エリザベス・ショートもまた夜な夜なバーを渡り歩く生活を送っていた。

 事件後の48年に所有者が変わり、コットンクラブに改称。水着姿の女性ダンサーたちがステージパフォーマンスを披露するクラブへと業態を変えた。

 

■被疑者

警察は、顔に刻まれた“グラスゴー・スマイル”からショートに対する個人的な怨恨を読み取った。さらに“切断”には解剖の医学的知識が用いられた可能性が高いとされ、あるいは死後に「持ち運び」を容易にするために解体したとの見当をつけていた。

容疑者や仮説についていくつか触れておきたい。

■老外科医の「秘密」

冒頭に挙げたハルニッシュ氏は90年代半ばに調査を始めた遅咲きのマニアだった。そのため既に“ブラック・ダリア”は様々な“神話”に塗れ、真実を見えづらいものにしていた。

彼は新聞の校閲編集者としてのスキルを用いて、過去の記事から“確定的事実”のみを抽出する消去法的アプローチによって、伝説に埋もれた真の“エリザベス・ショート”を掘り起こそうと試みた。

FBIの伝説的プロファイラーとされるジョン・ダグラス氏に事件への見解を請うたときのこと、彼は「自分の近所のことをどれくらい知っていますか」とハルニッシュに尋ねた。そのとき意外にも自分の行動範囲についてさえあまり多くを知らなかったことを再認識させられた。

またダグラスは、車で1時間も走れば海や山へ行ける距離であるにもかかわらず、「近くに住宅がある空き地」を投棄(展示)場所としたことから、犯人には近隣住民への“見せしめ”の意図があったと推察した。つまり容疑者は当時の近隣住民とつながりがあった、という見立てである。

ハルニッシュは現場周辺3600ブロックについて、事件の起きた“開発前”どころかメキシコ統治下時代の歴史からしらみつぶしに調査を開始した。彼はダリア・フリークでも、素人探偵でもない、生粋の“調査オタク”だった。ときに当時のギャング集団の行動や他の事件との関連を疑い、ときに関係者を捜してはインタビューを試み、かつての住民同士の関係性さえ把握するようになった。そして彼はある“老外科医”に思い至る。

 

外科医ウォルター・ベイリーは1946年10月に妻と別居するまで、遺体発見現場の空き地から1ブロック離れたノートンアベニューで暮らしていた。彼は個人開業医としてだけではなく、郡病院や大学准教授としても知られたLAでは著名な医師の一人だった。周囲から“紳士”と評される温厚な人物で、自ら人助けを買って出る人格者として知られた。

医学会の第一線から退いた後、見習い医師であったアレクサンドラと親密な関係となり、離婚を決意して別居。ベイリーは、離婚協議中の妻ではなく新たなパートナーに遺産を託すよう遺言を書き換えた。

48年1月、彼が肺炎で亡くなると、未亡人は相続権を得たアレクサンドラを訴えた。その言い分は、彼女が「夫の秘密」を握っていたために強請(ゆす)って遺言を書き換えさせたにちがいない、という言いがかりに近いものだった。裁判では「ベイリーの秘密」の中身についてまともに検討されることなく、アレクサンドラの相続無効を主張した未亡人の訴えは退けられている。無論、亡きベイリーに具体的な容疑は何もかけられなかった。

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ベイリーは解剖学的知識を持ち合わせており、事件当時67歳と高齢で、ショートの遺体をそのまま抱えて移動することは困難に思われた。また検死により、彼は脳卒中脳軟化症の進行が確認されており、前頭葉認知症などの疑いもあった。医師時代の知人たちはベイリー氏が“愛人騒ぎ”を起こしていたなど思いもよらず、晩年には現役時代とは異なる「人格的な変化」が生じていたことも十分に考えられた。

彼の娘はショートの姉夫婦と親交があり、二人の仲人まで務めた間柄だった。ベイリー本人とショートとの直接的な交際の証拠は発見されなかったが、結婚式やその後の家族的交流などで一時的な接点があったとしてもおかしくはない。老いた人格者が地に足つかない若者に「困ったらいつでも頼りなさい」と連絡先のひとつでも渡していたとておかしくはない。

ベイリーには二人の娘があったが、ともに養子であった。1920年に交通事故で最愛の一人息子を11歳で亡くしていたことが娘たちを迎えるきっかけだった。その不幸な少年の命日は1月13日であり、つまりショート失踪の9日~殺害推定時刻の15日未明の間に当たる。

 

疾病による人格の変容、老境での離婚協議による過重のストレス下で気力体力は相当に磨り減っていたことは想像できる。もしそんな平静ではない老医師のもとへ僅かな縁を頼って突然押しかけ、「あら、この男の子は?」などと不注意にも亡くなった息子のことを思い出させるような人物がいれば、思いがけず暴力衝動に駆られたとしても不思議はないように思われた。

 

■潔白な浮気者

警察は、失踪前の1月9日、“ショートを最後に目撃した人物”としてロバート・マンリー(24)に嫌疑の目を向けた。

マンリーは妻が妊娠中だったことにかこつけて、サンディエゴで出会ったショートに下心を抱いたことを認めたが、セックスはしていないと証言した。彼女に「姉妹がLAに遊びに来るから」と言われて、9日の午後、ビルトモア・ホテルに素直に送り届けた。

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Robert Manley, Lie detector test [Tessa LAPL]

彼は逞しい体躯であったが、精神障害による幻聴症状があり、軍を退役後はセールスマンをしていた。嘘発見器で二度に渡って鑑定されたものの、供述との齟齬は発見されなかった。

捜査によって、彼が過去に暴力を振るった経歴がないこと、医療的訓練を受けていないこと、解体技術を持つ医師などとの人脈を持たないこと、遺体発見直前の14日から15日に掛けて完璧なアリバイが成り立つことが判明し、ほどなく容疑者リストから外される。マンリーは“浮気者”ではあったが“シロ”であることが証明された。

後に発見されたハンドバッグやハイヒールをショートの所持品と確認したのも彼である。当然マークされている渦中で郵便物を送ったり、荷物をゴミ箱の上に置きに行ったりということは考えられない。

だがそれでもメディアや大衆は(半ば面白がって)彼に疑惑と好奇の目を向け続け、「結婚生活や赤ん坊がマンリーの精神的負担になっていたのではないか」といった憶測が消え去ることはなかった。

マンリーの病状は悪化し、54年にパットン州立病院に入院。86年1月に偶発的な転倒事故によって亡くなった。

 

■実業家の「住所録」

犯人からの郵送物にあった「住所録」、その表紙には元々の所有者を示すマーク・ハンセン(事件当時55)の名が付されていた。

1890年にデンマークで生まれたハンセンは、1919年に渡米し、各地に劇場や飲食店を所有するやり手の実業家となった。30年代にハリウッド界隈に進出し、フロレンティン・ガーデンズをはじめ演劇事業で名を馳せた。ショートは写真家シド・ザイードの紹介で1946年5月から10月の間、マークのゲストハウスを間借りしていた。

 

47年1月8日、ショートは滞在先のサンディエゴからマークに電話を入れている。しかし彼は当局の調べに対して、服や帽子を買い与えていた事実を伏せ、ショートとの交際事実はなかったとする、矛盾した証言をいくつか行っている。事件後に送付された「住所録」はマークの所持品だったが、「我が家からショートが持ち去ったのでしょう」と説明し、彼女を流れ者扱いした。

それらが彼の社会的保身のためなのか、犯行を隠蔽するためなのかははっきりしていないものの、ショートとルームメイトをしていた若手俳優アン・トスらの証言により容疑者リストに記載されることとなる。

 

49年の大陪審に出廷したアンは、「お互いマークに告げ口されることを恐れてそれほど干渉し合わなかった」としつつ、二人とも雇い主であるマークに気に入られようとしていたこと、やがてショートは(暴力を受けたかは分からないが)マークを恐れるようになったこと、などを証言。ショートの印象について、自分と同じ俳優を目指すショーガールの卵で、マークの数多くのガールフレンドの一人のように思えたと述べている。

彼女はショートから、「何度かマークがちょっかいを出そうと迫ってきたので、処女だと偽って彼を振り払った」という話を聞かされていた。ショートが一度“家出”したものの行く宛てがないと言って戻ってきたことや、マークに隠れてどこかに電話する姿も目撃したことなどの証言もあった。アンによれば、電話の相手はコロンビアスタジオで働くモーリス・クレメント(ベンジャミン・バグシー・シーゲルやミッキー・コーエンらのギャング組織、売春宿主ブレンダ・アレンら売春シンジゲートとのつながりもあった)だとされた。

 

11月、ショートはマークが連れ込んでいた他の女性とケンカになり、彼はショートに出て行くように命じた。その際、アンはショートを気の毒に思って逃亡を手助けし、周囲には「田舎に帰った」と嘯いて行き先を明かすことはなかった。アンの連れ合い達はマークと懇意にしていたため、彼女自身はマークから手荒な真似をされずに済んだという(従属的な立場にはなかった)。

またアンは、47年1月2日にショートから金を貸してほしい旨の手紙が送られてきたとも話した。未解決事件ライターとして知られるブレンダ・ホーゲンは著書の中で、ショートの忍び先であったドロシー・フレンチ宅に見知らぬ2人の男性と1人の女性が来訪したこと、ショートとフレンチは居留守を使ったことを示し、何者かに追われていたことがサンディエゴに旅立った原因ではないかと推測している。

(画像左がアン、一番右が1月までショートを泊めていたドロシー・フレンチ。)

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さらにアンは「彼女は他の女の子たちと違った」と“ブラック・ダリア”の噂を否定する発言を行った。こんなことを言っても自分には何の得にもならないけど、と前置きしたうえで、ショートは深夜まで酒を酌み交わしたり煙草をふかしたりといったあざとい演出はせず、23時までには帰ってくる“まともな子”だったと擁護している。二人で遊びに行くような親密さではなかったが、同情的な仲間意識をもつ特別な関係性を窺わせる。

またショートは未成年飲酒による逮捕歴があり、遺体からは少量のアルコールが検出され、バー通いでも知られているが、アンの証言からも分かるように“バーフライ”のようなアルコール中毒者ではなく、もっぱらソフトドリンクを好んだともいわれる。

 

マークは若い女性たちを“食い物”にしていたことで知られていた。明確な原因は不明だが、49年には彼のクラブのダンサーのジャン・スパングラーが行方不明になっている。同年、元交際相手のダンサー、ローラ・タイタスから恨みを買ってマークは銃撃を浴び、重傷を負った。何人かの医師とも親交があり、(証拠は出ていないが)闇社会とのつながりも噂された彼は50年代まで主要な容疑者の一人であり続けた。

 

■魅力的な容疑者

 すでに述べたように、この事件は虚偽の自白者だけでなく、自分の身内を犯人だと告発するケースが多いことでも知られている。

元LA警察の刑事だったスティーブ・ホーデル氏は、2003年に告発本となる『ブラック・ダリア・アベンジャー』を発表し、1999年に亡くなった自分の父ジョージ・ホーデルこそが犯人だと主張した。スティーブは元々ブラック・ダリア事件のマニアではなかったが、父親の遺品にあったブロマイド写真の女性が気に掛かり、調べたところブラック・ダリアなのではないかと考えるようになった。

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By Steve Hodel - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61289103

ジョージ・ホーデルは1907年に生まれ、ロサンゼルスに暮らすユダヤ人家庭で十分な教育を受けて育った。少年時代にピアノの天才として知られるようになると、セルゲイ・ラフマニノフが彼の演奏を聞きに訪問した。IQテストで186点を獲得し、15歳でカルフォルニア工科大学に飛び級。教授の妻との不倫が発覚するなどして1年で退学したが、彼は真剣に家庭を築こうと考えていたとされる。

その後、モデルのドロシー・アンソニーと結婚し、カルフォルニア大学で医学の学位を取得。郡衛生局長に就任するなど社会的成功をおさめ、ロサンゼルスの上流社会とつながりを深めた。退廃美やシュルレアリスム、サドマゾヒズムなどの文化・哲学に傾倒し、写真家マン・レイ、映画監督ジョン・ヒューストンら芸術家たちのパトロンとなった。

45年、ロイドライト(フランクロイドライトJr)設計によるジョン・ソーデン・ハウス(通称“ジョーズハウス”)を購入し、ハリウッドの若い芸術家たちを集めて怪しい饗宴を愉しんだ。

1949年10月、前妻の連れ子であった14歳の娘・タマルに性的暴行を行って告訴され、3人の目撃証言がありながらも無罪とされた。だが「異常性欲者」として、1950年に警察の監視下に置かれることとなる。

“Supposin’ I did kill the Black Dahlia? They couldn’t prove it now. They can’t talk to my secretary anymore because she’s dead.

They thought there was something fishy. Anyway, now they  may have figured out. Killed her,I did kill secretary...

(私がブラック・ダリアを殺ったと思っているのか?やつら(LA警察)は今もって解決できていない。あいつらは私の秘書と話すことができない、なにせもう亡くなっているのだから。何か匂うと考えたんだろう。とにかく、あいつらは今になってようやく分かったんだ。秘書は殺された、彼女は私が殺ったんだ)

テープは失われているが、警察の監視に気付いたジョージ本人が盗聴器に向けて言い放った挑発の“写し”が捜査資料として残されていた。45年までジョージの秘書を務めたルース・スポウルディングはオーバードーズにより亡くなったが、何枚かの書類が焼却されていたため、当時ホーデルに殺害の嫌疑が向けられていた。証拠不十分で立件されなかったものの、ルースはジョージの誤診や医療制度を悪用した不正請求を告発しようとしていた。

ジョージの周囲には常に犯罪の香りが付きまとい、当時のLA警察を黙らせるだけの地位と財力、コネクションを備えた人物だった。50年にアメリカから離れ、90年までフィリピンなどで生活し、生涯で多くの妻を娶った。

 

21世紀になって現れた“魅力的な容疑者”は大きな反響を集め、2004年には米CBSのドキュメンタリー番組『48 hours Mystery』でも特集が組まれている。

 ジョージ自身には解体できる技術はなかったと考えられているが、当然、知人には腕利きの外科医も存在し、金で雇うこともできただろう。彼がショートに個人的な恨みがあったかは分かっていないが、穿った見方をすれば、悪趣味が高じてパーティーの余興に“生贄”を買い付けたなども考えられる。

stevehodel.com

ティーブ氏は上のサイトで現在も調査中であり、続編も執筆中だとしている。

筆者個人としては、女性のブロマイドはショートには見えないし、手紙の筆跡も似ているようには思わない。だが、当時の警察・検察の腐敗を踏まえて考えると、「変態趣味+金持ち」による快楽殺人というプロファイルは存外とありうるのではないかと思う。

 

クリーブランド・トルソー事件

別名“キングズベリー・ランの屠殺者(マッド・ブッチャー)”とも呼ばれるオハイオ州クリーブランドで1934~1938年に起きた連続殺人との関連を疑う者もいる。

 

禁酒法時代、シカゴ・ギャングの顔役として一時代を築いたアル・カポネは、エリオット・ネス率いる財務省捜査チームの摘発により密造酒の流通や脱税の罪で懲役に科せられた(ネスの自伝『アンタッチャブル』(1987)の映画化もブライアン・デ・パルマである)。

1935年12月、ネスはクリーブランドの公共治安本部長に就任。クリーブランドは鉄鋼業・石油産業(ロックフェラーのお膝元)を中心に多くの労働者が流れ込み、アメリカ第6の規模を誇る工業都市であった。ニューヨークとシカゴを結ぶこの街もギャング組織の強い影響下にあり、長引く大恐慌の影響で街にはスラムが発生するなど、混沌とする時代状況の中で市民の期待は大きかった。

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Shantytown, Cleveland

1935年9月、キングスベリー・ランにあるジャッカスヒル地区で2つの男性の遺体が発見された。指紋鑑定により、ひとりは逮捕歴のあったエドワード・アンドラッシー(28)と特定。彼はギャンブル・飲酒・売春の多い歓楽街/第三警察区(The Roaring Third)内によく出没し、ホモセクシュアルと噂されていた。もう一体は40歳前後と見られたが、“John Doe”すなわち男性身元不明者とされた。靴下だけ履いた状態の全裸姿で性器が抉られており、皮膚には化学防腐剤が施されていた。両手首に擦過傷があり、検死官は死因を斬首によるショック死(生前に斬首された)と断定した。

翌36年1月、工場脇に2つの木製バスケット籠が置かれているのが発見された。中にはパンや野菜でも包むように新聞紙でくるまれた女性の半身遺体が入れられていた。10日後に別の通りで頭部が発見され、飲食店員や売春婦などをしていたフローレンス・ポリリオと判明。彼女の遺体は、死後硬直の後、裁断されたものと判明した。

6月、ズボンにくるまれた男性の頭部、翌日にはその首以外は無傷の遺体が発見された。綺麗な指紋と6つの特徴的なタトゥーが採取されたが身元は判明せず。その年の五大湖博覧会の会場で、“タトゥーマン”のデスマスク(顔の複製)とタトゥーのモデルが展示され、10万人もの来客の目に触れたが、特定されなかった。

翌7月、人口の少ないブルックリン地区の用水路で40歳代男性の下半身と足の一部が発見され、近くで血まみれの衣類と頭部が発見された。こちらはすでに死後2カ月ほど経過しており、やはり身元不明とされた。

9月、またキングスベリー・ランで、男性の下半身が未着衣の状態で発見された。頭部、胴体は見つからず、身元不明とされた。検死官ピアス氏は、関節離断の断面がなめらかだったことから、人体の解剖学に精通しているか、剛力で全くためらいのない大胆な殺人者だと指摘した。この時期になると、クリーブランド中のラジオ、新聞メディアは連日この連続殺人について報道するようになった。

翌37年2月、エリー湖岸の遊園地ユークリッド・ビーチパーク付近で20歳代半ばとみられる女性の首なし遺体が発見され、“Jane Doe”すなわち女性身元不明者とされた。また同地で1934年9月にも女性の下半身(膝下は発見されず)が発見されており、身元不明のまま“The Lady of the Lake; 湖の乙女”と呼ばれていた。見解は諸説あるものの、クリーブランド警察博物館では彼女を“victim 0(第ゼロ犠牲者)”と表記している・・・

 

・・・捜査官らは繁華街やスラムを重点的に、延べ5000人にも及ぶ聞き取り調査を行ったが本星にたどり着くことはなく、連続殺人は止まらなかった。犠牲者はその後も1938年8月まで断続的に発見され、少なくとも12人の犠牲者が同一犯によるものと考えられた(最後の2件は発見が遅れたため、殺害時期は38年4月までとされる)。

犠牲者は20歳前後から50歳前後と推定され、性別や人種による一貫性はなく、関係性や共通項は不明瞭であった。犯行の特徴としては、斬首による殺害が多いこと、胴体の切断が多いこと、男性は去勢されることが多いこと、いくつかは防腐処理を施していたこと等が挙げられる。また身元が判明した2人は下層社会に属しており、身元不明者が大半であることから、身内のいない下層社会の住民、セックスワーカー、浮浪者、遠方からの漂流民などが標的にされたと考えられた。

 

エリオット・ネスは2度、有力な容疑者に対する取調べを行っている。フランク・ドルザルは一度はポリーロ殺しの自供をしたものの、「自白の強要があった」として撤回。その後、彼は獄中で不審死を遂げており、多くの人は彼を冤罪・無実だと考えている。

もうひとりの外科医フランシス・スウィーニーは、極度のアルコール依存と精神病質(第一次大戦での頭部外傷の後遺症とも言われる)によって妻子への虐待のある人物で、2度のポリグラフ嘘発見器)テストでグレーの判定が出ていた。しかし彼の親族はネスの政敵でもあり、決定的証拠が揃わないかぎりは裁判で勝機がないものと考えられた。その後、フランシスは精神病院への入退院を繰り返し、起訴されることなく64年に死去した。

ネスは12人目の犠牲者発見から2日後、犯人が“獲物”を物色する場としたスラム街そのものを焼き打ちして事件の根絶を図り、公式にはそれ以降、犯行は止んだとされた。しかし“治安回復”“犯人逮捕”といった市民の期待には充分に応えきれないまま、4年後に表舞台を去った。

(その後、転落した人生を送りつつ武勇伝を酒のつまみに余生を過ごしていたところ、スポーツライターだったオスカー・フレイリーと知り合い、57年に共著『The Untouchables』が誕生。出版直前にネスは亡くなり、彼の抱えていた負債は印税によって返済された。)

 

1936年7月から40年9月にはペンシルベニア州ニューキャッスル近郊でも首なし遺体が発見される事件が相次ぎ、両都市はボルチモア-オハイオ鉄道でつながっていたことから同一犯の可能性が指摘されている。

またクリーブランド警察ピーター・メリロは、1920年代から50年代にかけて40件以上の未解決殺人に関与した可能性があると述べている。

Severed: The True Story of the Black Dahlia

LA育ちの俳優・ハードボイルド作家として知られるジョン・ギルモア氏の著書『切断』(1994)は、“ブラック・ダリア事件”を扱った作品で現在まで最もよく知られるもののひとつである。この中では、ジョーゼット・バウアドーフ強姦殺人の有力容疑者だったジャック・アンダーソン・ウィルソンがショートの殺害にも関与していたとする説を採用している。

ジョーゼット事件を担当した刑事ガーナー・ブラウン警部補は、ウィルソンが「ブラク・ダリアの真犯人を知っている」とする告発テープを聞いた。しかしその内容があまりに詳細で「犯人にしか知りえない情報」を含んでいたため、ウィルソン本人が殺害した可能性が高いと見当づけた。しかし参考人として尋問を予定した矢先に、寝煙草による火災により当のウィルソンが焼死。

警部からその話を仕入れた新聞記者が記事にしようとすると、社の上層部からストップがかかったという。ジョーゼットの父親が金融業界の大物であったため、報道を自粛するよう上層部に圧をかけたものと考えられた。

ギルモア氏は記者からその話を聞いて書いている。つまり知人(記者)の知人(ブラウン)による考察で、しかももう裏を取りようもない(被疑者死亡)という、まるで小説のような話だ(小説だ!)。

 

アルコール依存症で多くの強盗殺人の疑いを掛けられていたウィルソンは、同じくトルソー事件の嫌疑も向けられていたことから、 “ブラック・ダリア”は“ジョーゼット”に加え、“トルソー”事件にまで接続する仮説が生み出されることとなった。それぞれの犯行の特徴は異なり、シリアルキラーたちはメディア報道を通じて共鳴的な相互作用を得ていたかもしれないものの、すべてを同一犯とみなすのは些か短絡的にも思う。 

『切断』の刺激的な内容は多くの支持を集め、“売春婦”“バーフライ”といった“ブラック・ダリア”像を植え付けることに成功したが、ハルニッシュに言わせれば「50パーセントのフィクションと25パーセントの誤解」が含まれているという。

ギルモア自身が役者・タレントとして戦後ノワールやハリウッドの事情に通じ、さらにビートニク文化からの薫陶を受けている。彼の父親がLA警察だからといって彼自身に捜査分析力があったとは思われず、その作風は魅力的なハードボイルド時代小説のひとつと言っていい。筆者としては、資料的価値には乏しいものと考えている。

 

■性の疑惑について

彼女の物語をある意味で魅力的にし、最も不鮮明にしている要素として、セックスに関する事柄について避けて通ることができない。

たとえばヌードモデルやポルノ映画に出ていた、あるいはコールガール、売春婦だったとする噂について、元主任刑事ハリー・ハンセンは「同じ名前の売春婦と混同されていた」と否定しており、未だかつて彼女のヌード写真や映像は出回っていない(存在していたとすれば流出しない理由がない)。また解剖所見では、彼女に妊娠・出産の経験は認められなかった。

『The Confessions』でそのような人物像として描かれたことが「売春婦神話」を補強した最大の要因とされるが、ジャック・ザ・リッパーをはじめ古今東西を問わず「売春婦」は社会的立場が弱い女性としてシリアルキラーの標的にされてきた歴史とも関連があるだろう。また市民は「被害者は売春婦」とする偏見を強化することで、事件を自分たちとは違う裏社会の話と捉え、心理的距離をとりたい防衛本能のようなものが働いているかもしれない。

たしかにショートは強い結婚願望や男性への寄生的な依頼心を感じさせる。しかし金のために身体を売っていた事実は確認されておらず、見境なく誰とでも寝る異常性欲者でもなかった。アンの証言から考えても「性に奔放」というよりは、交際男性や友人の家を渡り歩く「家出少女のライフスタイル」によって、人が集まるバーに通っていたと考える方が自然ではないか。

筆者の感覚で言えば、性に自覚的な“パパ活”女子のごとき投機的な目的意識よりも、成り行き任せの“神待ち”少女のような警戒心が薄い印象を受ける。

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対極的な噂として、性腺発育不全(先天性の生殖器未発達)いわゆる「幼児性器」により彼女はセックスができなかったとする説も存在する。

だがLA地方検察局のファイルには、彼女と性交渉を持った3人の男性に取調べを行ったことが記録されている。解剖所見によれば「彼女のuterus子宮は小さかった」と記されていたが、今日でいうアンドロゲン不応症のような性器の形成不全や「正常ではない」ことを示す報告はされていない。

またショートをレズビアンバイセクシャルとする噂、同性愛者の社交場での捜査記事も存在する。たとえば「ショートにセックスの誘いを断られた男性」に聞き取りをすれば「あいつは男と寝ない。レズだ」といった暴言は得られるだろう。

また「子宮が小さい」とする所見から、「男性との性交渉がない」可能性や「男性拒絶」とする見方につながり、そうした疑いを向けられたのではないか。

警察は「切断」理由のひとつとして「犯人が一人で動かすのが難しかった」とも考えており、女性容疑者の線も捨ててはいない。警察から「容疑者は男性に限定されない」と聞かされれば、話題性を狙ってショートをレズビアンバイセクシャルに見立てて新たな「女性犯人像」を考案する作家がいてもおかしくはない。

 

虐待について、彼女の乳房に煙草の火傷痕があったとする噂がある。これは事実無根であり、ショート事件より数週間後に起きた家出少女の事件が混同されている。少女は自ら煙草で火傷をつくって「誘拐犯から逃げてきた」と嘘の証言をして家に出戻ったという事件である。

また「胃の内容物から糞便が検出されたこと」については、消化残滓と「切断」に起因するもので食糞行為(プレイ、虐待)を示すものではない。私たちの好奇心や想像力はときとして厄介な方へ奇怪な方へ歪な方へと事実を捻じ曲げる。

 

 ■やわらかい記憶

 ここまで見てきたように、エリザベス・ショートの死には、戦後アメリカン・ノワールの、大都会LAと文化的中心地ハリウッドの、どこにでもいる家出少女たちの、様々な歴史文化が上書きされている。

(日本でそうしたスケールで類似した事件は思いつかないが、過剰報道が被害者の性格を「つくっていった」側面でいうと、後に佐野眞一氏によって「メディアが発情した」と表現された東電OL事件(1997)などは近いかもしれない。なぜ被害者は昼はエリートOL、夜は立ちんぼ(フリーの売春婦)という二重生活を送らなければならなかったのかについて様々な見解が提示され、彼女の「心の闇」に多くの女性がジェンダー的共感を示した。)

 

古い精神医学においては「虐待経験」が疾病の原因だとする理論に引っ張られるかたちで、多くの患者に「経験したことのない虐待の記憶」が植え付けられていたことが知られている。

カルフォルニア大学教授で認知科学の専門家エリザベス・ロフタス氏は、記憶生成のメカニズムを解明するため“虚偽記憶”の植え付け実験を行い、「記憶はwikipediaのように書き換えが可能なものだ」と実証した。

さらにロフタスはトラウマの植え付けだけでなく、ポジティブな記憶操作によって食生活の改善やダイエットのような人々の思考・行動習慣を変えることができることを示した。催眠療法のような特殊な誘導を介さず、“親のしつけ”のように情報の刷り込みによって虚偽記憶の植え付けは可能だとしている。

 虚偽の記憶を確実に見破る方法はなく、実証を重ねていくことでようやく反証できる(誤った目撃証言による逮捕者の冤罪を晴らすためにDNA鑑定が利用された)。これは逆にいえば、反証しえない事柄について私たちは「虚偽記憶」を証明できないことをも示している。

 

筆者の考えでは、多くの大衆は当時のLAやハリウッド文化、ノワール的風潮を“ブラック・ダリア”に上書きし、自白者や告発者たちは自己暗示のようなかたちで自身が「物語」の登場人物であると思い込んでしまったものと考えている。

 

“I never knew her in life. She exists for me through others, in evidence of the ways her death drove them”

(私は生前の彼女を知ることはない。彼女の死に駆り立てられたひとびとの“証拠”を通して、その姿を現すのだ)


― James Ellroy, The Black Dahlia

 

エリザベス・ショートが生前最後に目撃されたビルトモアホテルでは、彼女への弔い酒として“Black Dahlia”の名を冠したカクテルが提供されている。シトラスウォッカやシャンボールリキュール、カルーアが含まれる特別メニューだが、現地で飲むことはおろか、酒が飲めない筆者にとってはその味を想像することさえできない。

 

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・参考

Dr Francis Edward “Frank” Sweeney (1894-1964) - Find A Grave Memorial

Torso Murders - Cleveland Police Museum

Heaven Is HERE! Larry Harnisch's Site on Elizabeth Short, the Black Dahlia

The Black Dahlia: The Long, Strange History of Los Angeles’ Coldest Cold Case ‹ CrimeReads

The Black Dahlia in Hollywood