いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

和歌山毒物カレー事件について

1998年に和歌山県で起きた無差別大量殺人、和歌山毒物カレー事件について記す。

被疑者とされた主婦は無実を訴えたが、2009年に最高裁で死刑が確定。2020年現在も死刑確定囚として再審請求を続けている。

 

■概要

1998年7月25日、和歌山市園部で行われた第14自治会の夏祭りで多数の住民が吐き気や腹痛等の症状を訴えて救急に通報。

当初、大人こども合わせて10名程度の「集団食中毒」と見られたが、その後も被害は拡大。異変を訴えた住民らが共通して口にしていたのが「カレー」だった。味におかしなところはなかったが、食べ進めるうちに腹の具合に異変が生じたという。

 

県科捜研が残っていたカレーや複数人の吐瀉物を調べたところ「青酸化合物」の反応が検出され、翌日の会見で県警は何者かによって混入された事件性を示唆した。急性中毒症状を起こした被害者は合わせて67名に上り、うち自治会長男性(64)、副会長男性(53)、高1女子生徒、小1男子児童の計4名が死亡した。

7月26日、県立医大では死亡した自治会長の胃の内容物などから、死因を「青酸化合物」中毒と判断。しかし他の3人の遺体からは青酸化合物は検出されず。

8月2日、和歌山県警は犠牲者4人の体内から若干の「ヒ素」を検出したと発表。6日には「混入されたヒ素は、亜ヒ酸またはその化合物」と発表された。

警察庁科警研はその後も毒物の特定調査を続け、10月5日、4人の死因は「ヒ素」中毒と変更された。含有していたヒ素は、カレールーを約50g食べれば致死量に達するほど極めて高濃度であることが分かった。

ヒ素は無味無臭だが生物に対する毒性が強い。そのため古くから毒薬や化学兵器に使用され、農薬や殺虫剤、木材の防腐剤に利用されることもあったが人体への影響から事件当時にはほぼ使われなくなっていた。

 

祭りの現場は多くの地域住民が行き交うため、部外者が鍋に近づいて薬品を混入するのは難しい状況にも思われた。不特定多数の住民を毒牙にかけておきながら、犯人は今も住民として平然と過ごしているかもしれない。住民相互の疑心暗鬼を招く中、警察は聞き込みや実況見分を続けた。捜査は難航したが、祭りの約1か月後、ひとりの女に焦点が絞りこまれていった。過去に知人男性をヒ素中毒で入院させて保険金詐欺をした疑いがもたれた林真須美(37)である。

自宅周辺は昼夜を問わずマスコミが囲い込まれ、煩わしい記者たちを嘲笑うかのようにホースで水を掛ける様子が繰り返しワイドショーを賑わせ、過熱報道はエスカレートしていった。視聴者の多くは、不敵な態度をとる元保険外交員の主婦に疑いを強めた。

テレビインタビューに応じた際には、保険金詐欺の疑惑について「自信をもって何もしていない事実がありますので堂々としているんですけれど」と強く否定し、祭り当夜の騒動についても「あくる日の朝まで全然知りませんでした」と述べ、カレー鍋に近づくことはなかったと主張。ヒ素や亜ヒ酸を扱ったり見たことはないと言い、シロアリ駆除業をしていた夫の仕事でも一切扱っていないとしてヒ素事件との関連を否定した。警察発表もされていないのに犯人扱いするマスコミ報道に対して涙ながらに怒りを示し、無実を訴えた。

しかし10月4日、保険金詐欺の容疑で県警による強制捜査のメスが入り、夫・林健司氏とともに逮捕される。その日は長男の小学校の運動会当日だったという。

夫婦は複数の詐欺および詐欺未遂容疑で再逮捕と追起訴が続けられ、取り調べは無論カレーの毒物混入にも及んだ。そして事件発生から138日目となる12月9日、殺人と殺人未遂容疑で林真須美が再逮捕され、ようやく事件の真相が明らかにされるかと思われた。

 

■「決定的な証拠」の曖昧さ

しかし捜査当局は林真須美による犯行を裏付ける「直接証拠」を得られてはおらず、黙秘権の行使により犯行の自供もなかった。彼女が一人で当該のカレー鍋の見張り番をしていた時間帯があり混入する機会を有していたこと、彼女が調理済みの鍋の蓋を開けるなど不審な挙動をしていたとする目撃証言、97年から4度に渡って亜ヒ酸(シロアリ駆除剤)を用いた保険金詐欺を夫婦で繰り返していた類似事実などが逮捕理由とされた。

その後の捜査で林家にあったミルク缶容器に入った薬品と現場に捨てられていた紙コップの付着物、カレーに混入された毒物が同一のものと鑑定されて「決定的な証拠」になったと伝えられた。

 

1999年5月に和歌山地裁で開かれた一審初公判には、5200人以上が傍聴抽選に集まった。検察側は上述のように状況証拠や関連性を積み重ねて林被告の単独犯行の立証を行う。黙秘によって供述が得られなかったことから、それまでのテレビインタビューを転用して証拠とするほど立証の材料は充分とは言えなかった。弁護側は無実を主張した。開廷数95回、一審は約3年7か月の長期に及んだ。2002年12月、和歌山地裁小川育央裁判長は、求刑通り死刑判決を言い渡した。即日控訴。

尚、一審でインタビュー素材が証拠として採用されたことを受け、民放6社とNHKは「国民の知る権利・報道の自由の制約になりかねない」として大阪高検に対して証拠申請の取り下げを要請、大阪高裁に対しても熟慮を求める上申書を提出している。

その間、3件の詐欺で総額約1億6000万円を詐取した罪で起訴された林健司は、2000年10月に懲役6年の実刑判決を下された。双方とも控訴せずに刑が確定し、健治は2005年6月の刑期満了まで滋賀刑務所に服役した。4人の子どもたちは児童養護施設で育った後、それぞれ仕事や家庭を持つなどして自立した。

2004年4月から05年6月まで開かれた控訴審では林真須美自らの言葉で無実を主張したが、証言の信用性を否定される。動機について、検察側は主婦たちから疎外されたことを理由としたが、断定は困難とされた。大阪高裁・白井万久裁判長は「犯人であることに疑いの余地はない」と原審を支持し、控訴を棄却した。即日上告。

2009年4月21日、最高裁は林の上告を棄却して死刑が確定した。

 

だが有罪の決定打とされた東京理科大学・中井泉教授らによる大型放射光施設spring-8での異同識別分析データは、被告人が自宅に隠し持っていたヒ素をカレーに混入したと結びつけるには証拠不十分であった。

その分析結果からわかることは、林家にあった薬品と紙コップ付着物とカレーに混入された毒物が、中国の同一工場で同時期に精製された起源を同じくする亜ヒ酸といって差し支えないという点だけである。専門家でなくても、それらを「同一」といわないことは明白だった。

また中井教授が起訴前に鑑定結果を公表し、悪事を裁くために鑑定した旨を公言するなど鑑定人の中立性、鑑定自体の公正性についても疑問がもたれている。

http://www.process.mtl.kyoto-u.ac.jp/pdf/Shinpo43pp49-87.pdf

分析化学の専門家である京都大学・河合潤教授は、上の論文で鑑定内容を再検証し、中井教授らの証言についても信頼性に疑義を唱えている。

判決が正しかったとすれば、林家で発見された「ミルク缶容器に入った薬品」(亜ヒ酸純度64%。デンプン、セメントまたは砂が混じっていた)よりも、カレーへの混入に使ったとされる「紙コップに付着していた残留物」の方が高純度(99%)となる矛盾を指摘している。

鑑定不正---カレーヒ素事件

純度・成分がほぼ同じか、紙コップの方がやや純度が低いならばまだ理解できるが、ミルク缶から紙コップに移す際に不純物がすっかり除去されたとでもいうのであろうか。

 

■冤罪の問い

2018年7月には歴史社会学者・女性学者の田中ひかる『「毒婦」和歌山カレー事件20年目の真実』(ビジネス社)が発表され、帯文の通り「動機なし、自白なし、物証なし」の冤罪事件として再び注目を集める。

「毒婦」和歌山カレー事件20年目の真実

「毒婦」和歌山カレー事件20年目の真実

  • 作者:田中 ひかる
  • 発売日: 2018/07/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

更に2019年4月、Twitterに和歌山カレー事件 長男@wakayamacurryがアカウントを開設、同年7月に著書『もう逃げない。~いままで黙っていた「家族」のこと~』(ビジネス社)を発表。その名の通り(匿名ではあるが)林死刑囚の長男自らが、世間を騒がせたカレー事件や「母親」について、事件後の自身の生い立ちなどについて語っている。母の手紙を公開し、TV番組へも出演するなど、両親の保険金詐欺は事実と認めつつもカレー事件への関与については冤罪を訴えている。

もう逃げない。

 未解決事件の謎に迫るネット番組・だてレビ【ミステリーアワー】でもこの事件を取り挙げ、spring-8の実験装置の稚拙さ、目撃証言や物証への疑惑など、素人目線ならではの忌憚ない意見が交わされている。

https://www.youtube.com/watch?v=Vj_RvA9y5nA

 

 

「冤罪」といっても、痴漢冤罪のように被害者の訴えで無実の人間が誤認逮捕されてしまうケースとは趣が異なる。警察、検察、裁判所、見方を広げればマスコミや世論もその冤罪に加担したことになるかもしれない。

刑事裁判において裁判官は、被疑者を真犯人かどうか裁いているのではなく、検察が被疑者の犯行を特定する(有罪とするに足る)立証が成り立っているか否かを裁いている。有罪が確定するまで被疑者・被告人であれ「疑わしきは罰せず」、“推定無罪”として扱われるのが近代司法の原則となっている。言い換えれば、検察が立証できなければ被告人は自ら無罪を立証するまでもなく無罪とする考え方だ。

この事件で“冤罪”が指摘されるのは、警察の捜査や検察の立証が明らかに不確か・証拠不十分でありながら、裁判所が「判決の事実認定に合理的な疑いが生じる余地はない」という林眞須美“推定有罪”に固執するかのようなおかしな裁判に対しての疑義なのである。

www.youtube.com

ジャーナリストの神保哲生氏は、証明しようがないため陰謀論的立場はとらないとし、警察も検察も裁判官も「自分が正しいと思って」それぞれの本分を果たしているだけかもしれない、と冤罪問題の難しさを指摘している。

 

現場捜査員たちは被疑者をあぶり出すことに躍起になり、取り調べの段には被疑者から“自白”を引き出すことが手柄とされる。グレーを“クロ”にするための強権的な捜査手法は警察組織に永遠に付きまとう課題と言える。

マスコミによる過熱報道が世論を膨張させ、有罪判決への加担になったともいえなくはない。事件の深刻さだけでなく、国民的注目度の高さも、捜査当局や裁判官を絶対に「失敗」が許されない窮地へと追い込んでいたのではないか。

実態の危うい「最新の科学鑑定」で証拠の不十分さを誤魔化そうと、科学の名のもとに結論ありきの非科学的な検証結果を示してはいまいか。

いくつかの冤罪事件を振り返るたびに悲劇は、歴史は繰り返されるのだと感じる。

 

2020年3月、大阪高裁・樋口裕晃裁判長は「自宅などにあったヒ素が犯行に使われたとするもとの鑑定結果の推認力が、新証拠によって弱まったとしても、その程度は限定的だ。新旧の証拠を総合して検討しても、確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じる余地はない」として、和歌山地裁に続いて再審を棄却。

この決定に対し林死刑囚の弁護団主任弁護人・安田好弘弁護士は「大阪高裁は新たに提出した意見書により捜査段階の鑑定による証拠の価値が弱まることを認めながらも、ほかの事実と合わせれば依然として犯人であることに疑いを差し挟む余地はないという。これは争点を意図的にずらして確定した判決や和歌山地裁の決定を維持しようとしたもので不当だ」と最高裁へ特別抗告する意向を示している。

 

ーーーーー

(2021年6月追記)

2021年6月10日、林真須美死刑囚(59)が新たに和歌山地裁に再審請求を申し立て、5月31日付で受理されていたことが報じられた。

 

ノンフィクションライター・片岡健氏は現在ほど冤罪報道が多くない時期からマスコミの報道姿勢や林冤罪説を記事にしてきた人物である。片岡氏は、いわゆるロス疑惑で冤罪となった三浦和義氏による疑義をきっかけに本事件について調査を進め、直接林と面会して「他に真犯人がいる」という考えに行きついたという。

 下のYouTubeチャンネル・dig TVの動画では、夫・健治さんをはじめ6人に食べ物にヒ素を混ぜるなどしていたものの、うち4人は単なる被害者ではなく保険金を受け取る共犯者でもあったことから、無差別殺人の様相を呈したカレー事件とは根本的に違うと説明。ヒ素に関する知識がそれほどない人物が衝動的にやった可能性を示唆している。

 

ーーーーー

 

 私見を述べれば、保険金詐欺を繰り返す人間が疑われやすい状況下で金にならない殺生を図るとは些か考えづらく、母親が娘の犯行を庇うとすれば「自分がやりました」と罪を認める自供をするように思われる。

自宅にヒ素が保管されていたのが事実であれば家人による犯行の可能性は当然高くはなるが、他の住民が誰一人としてヒ素を隠し持っていなかったかははたして分からない。極刑に値するだけの十全な立証が為されたのか、検証方法に不備はなかったのか、といった点は不満に思う。