いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

西成女医不審死事件について

大阪市西成区で生活困窮者の支援活動を行っていた女性医師が水死体となって発見された。警察は自殺と判断したが、遺体や行方不明の状況から事件性が高いとして遺族は再捜査を求めた。「釜ヶ崎」の人びとから「さっちゃん先生」と愛された彼女はどうして死ななくてはならなかったのか。

 

情報提供は 大阪府警西成警察署 06-6648-1234 まで

 

概要

2009年(平成21年)11月16日(月)1時20分頃、大阪市大正区の木津川千本松渡船場を訪れていた釣り人が川の中に女性の水死体を発見する。

女性は13日(金)の深夜から行方が分からなくなっていた西成区「くろかわ診療所」に勤務する内科医・矢島祥子(さちこ)さん(34)と判明する。

 

失踪当夜の矢島さんについて、13日22時ごろに一人で残業していた姿を黒川所長と看護師が最後に目撃している。その後、23時過ぎに診療所を出たとみられるカードキーの使用履歴があった。

しかしそれから20分後に防犯システムを解除して再び入室した記録もあった。14日(土)4時18分頃、診療所の警報システムが作動。一般的な誤作動であれば利用者からすぐに警備会社に警報の解除を行うように連絡するはずだがそれもなく、30分後に警備会社が駆け付けた。だが所内は無人状態で、室内に荒らされたような形跡もなかったことから「異常なし」と報告された。

このときの出入りにも矢島さんのカードキーが使用されていたが、診療所に立ち入ったのが本人だったのかどうかは確認できていない。

 

14日朝、出勤してこない矢島さんを心配した診療所スタッフが彼女の自宅を訪問した際、部屋は無施錠で無人だった。また診療所にある彼女が使用していたパソコンを確認したところ、警報作動直前の4時15分に患者カルテをバックアップしていた形跡があったという。また4時50分には知人に「15日に会えなくなった」旨のメールが送信され、以降の音信は途絶えた。

15日(日)朝、診療所スタッフは依然として矢島さんとの連絡が取れなかったことから西成署に捜索を依頼するが受理されず。10時頃、黒川渡所長から群馬に住む矢島さんの家族に行方不明であることが伝えられ、群馬県警高崎署に捜索願が提出された。

15日に矢島さんの暮らす部屋の中を確認した際には、通勤に使用するカバンが残されていたほか、自宅、診療所、デスク、ロッカー等の鍵をまとめた束が発見された。

 

大阪市立大・前田均教授が行った司法解剖によれば、推定死亡日時は14日未明とされ、死因は溺死」と推認された。西成署は、矢島さんが連日遅くまで働いていたことや周囲から自殺だとする声が挙がったことなどから過労による自殺の可能性が高いと判断し、ほどなく捜査は打ち切られた。

遺族は警察側の自殺を基調とした見方や捜査に消極的な「粗末な説明」に不信感を抱いた。ともに医師であった両親は遺体状況や検案書の内容に不自然さがあると指摘し、頭部にあった大きな瘤(こぶ)については西成署も生存中にできたものと認めた。

遺族は他殺ではないかとの疑いを深め、支援者らと共に「さっちゃんの会」を立ち上げて再捜査を訴え、10年8月から元兵庫県警飛松五男氏に調査を依頼。元東京都監察医・上野正彦氏にも相談して見解を求めた(2011年3月11日現場検証)。

 

遺族は釜ヶ崎に通いながら情報発信や再捜査要望の講演活動を行い、2010年9月14日までに4830人分の署名を集め、再捜査の要望書が大阪府公安委員会に提出された。報道番組への出演などで事件性を訴え続け、その後の署名数は約4万人分にまで膨れ上がった。

11年2月25日には矢島家のある群馬県高崎に地盤を持つ民主党中島政希議員(当時)が事件について国会で取り上げた。金高雅仁警察庁刑事局長は「これまでの捜査からは必ずしも犯罪であるということを明確に断定できる状況は出て来ていない。事件事故両方の観点から捜査を尽くしている」と答弁した。

遺族が提出した殺人および死体遺棄の告訴状が2012年8月22日に受理され、殺人事件と断定はされなかったが、殺害の疑いのある刑事事件として自殺、他殺両面での捜査が継続されることとされた(死体遺棄は同年11月15日時効成立)。

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その後も遺族は西成署や「釜の仲間たち」と定期的に情報交換を重ね、月命日の14日には講演会や音楽イベントなどを通じて呼びかけを続けているが、事件から14年が経った現在も全容解明には至っていない。

 

「西成」「釜ヶ崎」「あいりん地区」

この事件について語る際、「西成」「釜ヶ崎」「あいりん地区」という3つの地名が用いられる。それらの呼称と地域の成り立ちについて簡単に確認しておく。

 

「西成」は大阪市の行政区で、東に阿倍野区、西に大正区、南に住吉区住之江区、北は浪速区天王寺区に囲まれている。「釜ヶ崎」は西成区内の北東部に位置する狭い範囲(地名でいえば萩野茶屋、太子界隈)を指す俗称で、固有の地名は今日の地図上には存在しない。

明治初期にまで遡れば「西成郡今宮村字釜ヶ崎」という地名があった。江戸後期、大阪の都市化に伴って天王寺・難波など各地に無宿人の集まる木賃宿街が成立していたが、市政拡張や鉄道敷設、コレラの感染予防や1903年内国勧業博覧会に伴って度重なる取り締まりを受けた。行き場を失った生活困窮者たちは安息の地を求めて流れ着いたのが当時、低湿地帯で田畑しかなかった釜ヶ崎地域で、明治期後半には集住が進み木賃宿(ドヤ)街が成立した。

1912年に「新世界」、16年に「飛田遊郭」が誕生して周辺地域も市街化が進み、22年に町名改正に伴って釜ヶ崎の地名が失われた。大正期には「大大阪時代」と呼ばれて大阪都市部は目覚ましい発展を遂げた一方、1930年の昭和恐慌で財を失った人々、第二次大戦で焼け出された被災者たちは浮浪者・貧困対策に手厚い「釜ヶ崎」の地へと流れ着いたとされる。

 

戦後の復興、その後の大阪万博、高度経済成長期を裏で支えたのはこの場所に集まってきた日雇い労働者たちだった。3万人余が集住し、貧しくも活況を呈していた1961年、警官が車にはねられた労働者をしばらく放置したとして「釜ヶ崎暴動」へと発展する。

70年代前半は新左翼流入して暴動を扇動することとなり、連日の騒動がTVで報じられると、釜ヶ崎ホームレス、貧困、犯罪が根付いた危険な町というパブリックイメージが定着する。

政府、府、市は「釜ヶ崎」対策の一つとして、そうした悪いイメージを払しょくするため、1966年以降は「あいりん地区」という呼称を用いるようになった。

その後も、日雇い労働を求めて集まる人々は後を絶たず、貧困・失業者たちを支援する団体が寝場所と食、人権と十分な福祉を求めて、連帯と「闘争」の活動拠点となった。そうした歴史的経緯を踏まえ、人々の間で「釜ヶ崎」という呼称が失われることはなかった。

一方で悪名の浸透もあって若者の流出や子育て人口の少なさ、男性比率の極端な多さによって、歪な人口ピラミッドが形成されていった。1970年代に最も多かった30代~40代人口がそのままスライドするようにして2000年代には60代から70代人口となった。

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かつての「労働者の町」では、建設現場など肉体労働の仕事を世話する手配師によって上前のピンハネが問題視され、新左翼たちは手配師ややくざ者からの暴力や不当搾取に激しく反発してきた。だが今日では「ピンハネしようがないほど低賃金の仕事」ばかりだと言い、高齢者の増加に伴って軽作業や自転車整理、清掃作業など社会的就労機会としての雇用捻出が増加している。

身寄りのない「高齢者の町」へと変貌した釜ヶ崎界隈では、住宅付き介護施設の整備が急速に進んでおり、施設も生活保護の受給手続き支援を積極的に行っている。それと聞くと福祉の手厚さというポジティブな印象も受けるが、審査の甘さが不正受給増加の一因とも言われている。

さらに生活保護受給者らに流入する多額の生活保障、医療保障に群がる「貧困ビジネス」が蔓延している。貧困対策として行政から支給される額が大きいため、福祉施設側としては一般的な在宅ケアよりも生活保護受給者を受け入れた方が実入りがよいとされ、大きな事業所では無宿者向け住居を併設し、家賃と介護費用の二重取りが行われている。

悪質な医院では無宿者を診療したと架空請求を行って不正に利益を得たり、必要がないと知りながらも大量の薬剤を処方する医院・薬局も少なくない。戦後の闇市のごとく出処不明の品々を並べた路上販売は地域の名物になっていたが、生活保護受給者が不正に得た睡眠薬向精神薬を転売して日銭を稼ぎ、違法薬物の流通を拡大させるルートにも変貌する。違法な手段で得た金で生活の立て直しを図ろうとする者はなく、酒や薬物への依存を深刻化させるか、公園の一角で開かれる賭場ですぐに溶けて消えるのである。

 

2008年2月、タレント弁護士として人気を博していた橋下徹大阪府知事に就任。早々に1000億円の歳出削減を見込んだ財政再建プログラムを立ち上げ、情報公開の徹底や公会計制度の見直し、補助金漬けとの批判が大きかった同和問題や府暴排条例にも着手した。大阪は街頭犯罪やひったくりの多さで悪名を誇っていたことから犯罪情勢にも厳しい対応を求め、警察庁に警察官定員の増員を認めさせたほか、防犯カメラ設置、巡回指導体制の強化、捜査システムの整備を進めるなど治安対策が推進された。その後、大阪都構想を掲げて地域政党大阪維新の会を結成し、11年には第19代大阪市長に就任した。

2012年、橋下市政下で西成区の治安や環境改善のための特区構想が推進され、総額118億円の予算が投入された。大規模な浄化作戦が行われ、通りには監視カメラが多数設置され、路上販売、職安界隈を根城とした闇金の出張所、公園に公然と立てられていた多くの賭場も、度重なる摘発と環境美化によってほとんど見られなくなり、町の風景は様変わりした。

同時期、インバウンド需要の拡大と共に「大阪のディープスポット」として国外でもその名が知られるようになり、コロナ禍前には日に2000人近い外国人が訪れていたという。インバウンドの受益とは全く無関係な日雇い労働者や、「美化」の名目で排斥されて街を漂う行路生活者の姿は半ば見世物化され、その数を減らしていった。彼らはどこに消えたというのか。

 

さっちゃん先生

矢島祥子さんは1975年、群馬県高崎市生まれ、兄2人弟1人の4人きょうだいで育った。両親は祥子さんが1歳半の頃に診療所を開設。幼少期には泣いている人を見ては共感してもらい泣きする子どもだったという。

両親と同じ医師の道を志し、1993年に群馬大医学部に入学。1994年1月には受洗してクリスチャンとなり、インドへマザー・テレサに会いに訪れたこともあったという。99年に卒業すると沖縄県うるま市の県立中部病院勤務を経て、2001年から大阪市にある淀川キリスト教病院に内科医として赴任した。

当初は産科医の勉強をしていた矢島さんだったが、ネパールでの海外医療ボランティア等を経て貧困地域の抱える医療問題に関心を深め、帰国後も東京・山谷、横浜・寿町など寄せ場に生きる人たちの医療支援に取り組んだ。兄も何度か行動を共にしたが、インドや寄せ場といった不用意に入るべきではないような場所へも進んで歩み寄る彼女の危機意識を疑ったと綴っている。

2004年10月には両親に宛てた手紙の中で、群馬に戻って実家の上大類(かみおおるい)病院の跡を継ぐことができない、「自分がずっとやりたいと思ってきたことをやっていきたい」とその決意を伝えた。

 

2007年4月から西成区鶴見橋商店街にある「くろかわ診療所」(05年12月開所)に勤め、週5-6日の外来、週5の往診を受け持ち、休日・夜間も電話での相談や往診要請に応えてきた。さらに診療だけでなく生活支援、地域の見廻り活動等にも精力的に取り組んでいた。

日雇い労働者や生活困窮者たちには、経済的不安や心理的抵抗感から重篤化して動けなくなるまで医療にかからないケースが多く、アルコールや覚醒剤への依存から抜け出せない人、慢性疾患を抱えた者も多い。黒川医師らと共に毎週夜回り活動を行い、そうした人々の話に耳を傾け、路上で凍えないための寝袋や適切な医療を提供し、必要に応じて生活支援につなげるといった献身的な生活を送っていた。

活動の根底には一時的なボランティア精神ではなく、彼女が理想とする医療への信念があった。生活困窮者と共に生活を送り、「ここで、家族への思いを抱え、過酷な労働条件の中で生きてきた人々が、安らいでその生涯を閉じられるような関りができたらという夢があります」と神父への手紙にその使命感を綴っていた。

 

矢島さんを知る医師は、通常の支援者の場合は自分の生活や活動継続のために「自分たちができるのはここまで」とどこかで線引きをしてしまうが、彼女は時間もお金も「生活のすべてを惜しげもなく支援に捧げていた」と述べ、宗教心のない自分でも彼女の活動や人間性には「信仰の力を感じた」と振り返っている。

群馬大時代の恩師・中島孝氏も矢島さんの死に疑問を呈しており、彼女が高い志を持って医療や支援活動に従事していたことに加え、「クリスチャンであることからも自殺の可能性が低いことは一般の方々でも容易に察しが付く」と指摘する。

だが信仰に基づく高潔な生活態度はときとして現実社会との摩擦を引き起こすこともある。事実、薬物中毒患者の対応をめぐっては売人と揉め事を起こして脅迫を受けることもあったと言われる。また兄のひろしさんも感じていたように、彼女の人並み外れた使命感や正義感から自分の身辺への危機意識が働かなかったのかもしれない。

不正が罷り通る現実を目の当たりにして憤りを募らせた矢島さんが何か告発を行うつもりでいたために、それを快く思わない相手から口封じのため殺害されたのではないか、といった見方がネット市民の間では多く囁かれている。

 

かつて路上生活者だった佐藤豊さんは、矢島さんに自殺したいと口にしたところ、「そんなこと言うたらあかん」と強く諫められたと振り返った。彼女の熱心な支えによって男性は生活を立て直したと言い、「あんな笑顔をくれる人が自殺なんてするはずがない」と話し、恩人の不審死の再捜査を求めて集会活動や取材対応にも積極的に関わっていた。

だがおよそ3年後の2012年8月6日、西成区花園北のアパートが火災に遭い、全焼した3階自室で一人暮らししていた佐藤さんが遺体となって発見される。119番通報したのは佐藤さんのケアを担当していた福祉職員男性で、彼と50代の住人男性は煙を吸って病院に搬送されたがいずれも軽症であった。

因果関係は確認されていないものの、ネット上では、矢島さんの死を風化させたい犯行勢力によって佐藤さんも殺害されたのではないか、といった見方も流布される。

筆者は佐藤さんの暮らしぶりや病状について詳しく知らないが、亡くなった時点で64歳、福祉支援を要していたことからも病状は進行し、矢島さんとの別れもあって心身の疲弊・衰弱もあったと考えられる。現場に他殺の証拠となるものはなく、持病の悪化から生活に支障があったとみられ、事故死や自殺のリスクも相当に高かったのではないかと思う。

 

元患者だった塩野澄江さん(80)は、矢島医師から生前「あんたが死ぬまで私が面倒を見る」と何遍も言われてきたと述べ、遺体発見当初から「これは自殺じゃなく他殺だ、間違いなく」と声を挙げてきた。

一時的な善意ではなく平静の、素の感覚で困窮者の救済に奔走し、元路上生活者たちとも取り繕うことなく語り合い「さっちゃん先生」と呼ばれて親しまれていた矢島さん。事件性を疑い、真相解明を求めて遠方から通い、ビラ配りや署名活動などを続ける遺族の支えとなったのは、生前のさっちゃん先生に恩義を受けた「釜の仲間たち」であった。

 

疑い

そもそも家族が違和感を感じたのは、行方不明の連絡を受けたときからだった。

「祥子さんが行方不明です。高崎署に捜索願を出してください

開口一番そう口にしたのは矢島さんの上司にあたる黒川医師であった。一般的にはまず「連絡が取れず自宅にもいないのだがご実家に戻られていないか」「本人から何か聞かされていないか、心当たりはないか」といったやりとりが為されると考えられ、あまりに性急な印象を受ける。

家族が受話器を置くと、すぐに診療所からFAXが届いた。最終目撃や診療所の警報、自宅訪問などこれまで医師らが取った確認行動の経緯・判断を事細かに箇条書きしたものだった。たしかに遠隔地での行方不明を届け出るためにそうした書面は有効に違いなく、医師の用意周到な気配りで電話を寄越す前にまとめていたものと思われた。

しかし一般的な感覚に照らせば、親元から遠く離れて治安に不安のある街で単身暮らす女性のこと、「行方不明と判断した経緯」をまとめるよりも何より先に家族に連絡を入れて然るべきかと思う。

くろかわ診療所のある商店街周辺で家族や支援者らは度々ビラ配りの街宣活動を行ったが、診療所の向かいにある理容室では事件から5か月経っても行方不明になったことさえ知られていなかった。矢島さんは診療所を出てから自宅までの数百メートルという近場でトラブルに遭ったにもかかわらず、診療所では近隣の人たちにさえ確認や声掛けが為されていなかった。

黒川医師は普段は冷静で温厚な人柄で知られており、矢島さんと共に困窮者支援活動に尽力していた。直属の部下の不審死について不安や憤りを覚えて然るべき立場にあったが、なぜか取材に一切応じることはなかった。それどころか事件について話題が及ぶと血相を変えて声を荒げたり、逃げるように立ち去ったりするといった話も聞かれた。遺族は事件当初から「さっちゃんの会」広報誌などを通じて医師の態度や沈黙に対して強い不信感を表明している。

 

事件当夜は雨、鶴見橋商店街にある職場から長橋にあった矢島さんの自宅までは僅か700mほどの距離だった。自転車通勤だった矢島さんは傘をさすよりも商店街アーケードを通過する可能性が高いと想像されたが、商店街に設置されていた8か所の監視カメラにその姿は映っていなかった。また自宅アパート近くの監視カメラも警察に提出されたが、機器の故障で何も映っていなかったとして管理会社にすぐに返却されたという。

医療の仕事と支援活動に心血を注ぎ、慌ただしい日々を過ごしていた矢島さんは部屋の掃除もままならなかったに違いない。しかし事件後、家族がアパートの部屋を訪れた際には、テレビの裏や押し入れの桟といった場所にさえ埃ひとつなかった。また彼女には若い頃から些細なことでもメモ書きする癖があったが、自宅のメモには11月以降に記したものは一切見つからなかった。

洗濯機の中には衣類が残されており、10日前にはクリーニング店に冬物のセーター類5点を預けているなど、自殺直前らしからぬ生活の痕跡もあった。警察が行った部屋の鑑識では、なぜか住人である矢島さんの指紋さえ検出されず、第三者が証拠隠滅の為に清掃した疑いがもたれた。

事件から1か月後、千本松渡船場から2.5km北に位置する北津守の団地駐輪場で矢島さんの通勤用自転車が発見された。いつから置かれたものか目撃情報はなく、なぜか自転車からも指紋は一切検出されなかった。

医師である矢島さんの両親の見立てでは、遺体にあった右額、右手の甲、右足頸部にあった生体反応のある(生前に受けた)外傷について、矢島さんが自転車で帰宅中に左側からなぎ倒されるようにしてできた傷ではないかと見当づけている。

『死体は語る』など多数の著書で知られる元東京監察医務院長・上野正彦氏は、数々の変死事例の経験則から、元々泳ぎが得意だった矢島さんが「おもり」もなしに入水自殺ができたとは考えづらいと指摘している。

 

遺体を確認したのは矢島さんの兄弟だった。彼らは医師ではないが、首の左右にできた幅1cm程の赤紫色の圧迫痕が真っ先に目に付いたことからすぐに他殺を疑ったと話している。また遺体の後頭部から頭頂部にかけて幅5cm、高さ3㎝程の大きなこぶ(頭血腫)があった。

府警は遺族の疑問に対して、首の圧迫痕は発見者が水中から引き上げる際に用いた鎖を首の後ろにかけたためにできたもの、頭のこぶは船上に寝かせる際に落下させてしまってできたものであろうと説明した。

だが死後に生傷やこぶができるはずなどない、生前受けた外傷による生体反応であることは明らかだとして両親は食い下がった。3か月後に剖検を行った担当医と面会し、「後頭部の傷(こぶ)は生前にできたもの」「首の左右の傷ができたのは生前か死後か判別不能」と説明を受けた。

両親が見せてもらった剖検書には、「溢血点(まぶたの裏や口内粘膜の毛細血管が破裂した際に見られる小さな内出血)」との記載もあったという。溢血点の有無は絞殺か否かを見極める上での最たる特徴の一つである。

 

千本松渡船場は釣り禁止なうえ、そもそも夜間はゲートが封鎖されていて発見場所付近には進入できなくなっていた。だが警察の説明では、有刺鉄線の張られた鉄条網を越えて船着場から飛び込んだとされた。

船着場のゲートには身長より高い鉄柵に、長さ50㎝程の串が左右上部から出ており、容易に侵入できないようになっている。串と串の間にも鉄条網が張り巡らされ、暗闇の中で侵入を試みればいかに身軽な人間であっても手足に怪我を負ったり、着衣が破れたりといった事態が想像できる。たとえ希死念慮に駆られていたにせよどうしてこの場所から入水する必要があったのか説明がつかない。

左は遺体の首にあった傷のイメージ、右は鎖を用いた検証

第一発見者は船着き場の接岸部に設置されていた「タイヤの所に頭が引っ掛かっていた」「映画などで見る水死体のイメージとは程遠く、ものすごくきれいだった」と話す。「最初はマネキンかと思った」が、とりあえず水面から揚げてみようということになり、顔を見るなり水死体と気付いて警察に通報したという。また「履いていた靴の片方だけが一緒に浮かんでいた」と語っている。

脱いだ靴を揃えて陸地に置いていれば「自殺」という見立ても説得力を持つかもしれないが、彼女は「靴が片方脱げそうな状態」で入水したとでもいうのであろうか。

また元兵庫県警で本件の独自調査を続ける飛松五男氏によれば、第一発見者である2人の釣り人のうち、一人はくろかわ診療所向かいのマンションに暮らし、もう一人は西成警察署から数十mのゲームセンターに勤めていたとされる。つまり第一発見者の2人は被害者と面識はなかったが、奇遇にも被害者と同じ「釜の住人」だったことになる。

 

死亡推定時刻は「14日未明」とされ、発見された「16日1時半」まで遺体が脱げた靴と一緒に船着き場近くをずっと漂っていたとは考えられない。ダミーを用いた検証実験では自転車発見現場付近の木津川沿いから入水した場合、2~3時間で発見現場を通過し、人形は河口へと流されてしまった。遺棄されてからほとんど時間を置かずして発見されたと見る方が自然である。

また遺体のポケットからは彼女のPHSが発見されているが、家族が連絡を取ろうとした「15日午後2時」にも呼び出し音は鳴っていた。PHSは非防水仕様であることからその時間まで水没していない状態だったと推測される。

調査を続ける飛松氏は「第一発見者が怪しい」と断言こそしていないが、「死亡推定時刻すらも誤りの疑いがある」「(発見間際の)15日夜に遺棄されたのではないか」と見立てている。

府警では、発見された靴から採取された付着物のDNA型鑑定、砂の分析を行い、行方不明から死亡までの足取りをつかもうとした。だが2010年12月の捜査報告では、皮膚片2点が検出されたが矢島さんのものとは断定できず、付着していた砂からも有力な情報は得られなかったと伝えられた。

 

死因は「溺死」とされていることから、陪見では肺から海水が検出されたものと考えられる。だが通常の溺死であれば大量の水を飲みこむため、肺に空気は残らず遺体はうつ伏せ姿勢で発見されることが多いとされる。

だが2018年10月のFNN系列の事件捜査番組に出演した法医学者の杏林大学・佐藤喜宣名誉教授によると、遺体は水面に頭頂部だけが浮かんだ「立位姿勢」で見つかったため、肺に空気が溜まっていた可能性があると話した。

また佐藤名誉教授は、書類には溺死に特徴的な兆候について言及がなされていないと指摘。通例は溺死体に顕著な兆候として「口に泡沫を蓄えている」、血筋状に空気が入っている部分とそうでない部分ができることから「肺がまだらになる」といった特徴の記載があるはずだとしている。

空気が肺に残存していた可能性や剖検書の記載からは「溺死」と判断するには弱く、「頸部圧迫」、つまりは絞殺ではないかとの見解を示した。

 

自称元恋人

警察が死因を自殺と判断した理由の一つに、矢島さんの恋人だったと称する60歳代男性の証言があったとされている。彼は行方不明と前後して矢島さんから「絵葉書」を受け取っており、メッセージの内容は「出会えたことを心から感謝しています。釜のおっちゃん達の為に元気で長生きしてください」というものである。

葉書の絵は沖縄県辺野古の景色を描いたもので、西成郵便局管内で彼女が行方不明となった「14日の消印」が押されており、17日に届いたという。男性は自ら警察に届け出て、「矢島さんの遺書だ」と説明した。彼女の署名や住所は書いておらず、メッセージと日付だけが記されていた。遺族が調べた限りでは、矢島さんが署名なしで他人に手紙を出したことは過去にないという。

 

男性は赤軍派の流れを汲む元左翼活動家で、貿易業を興したのち2007年に会社を整理し、釜ヶ崎日雇労働組合(釜日労)に身を投じることとなったM氏(本件発生当時62歳)である。

1972年、「赤軍ラーメン(勝浦飲食店)」を開き、新左翼学生らを巻き込んで「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」を結成した赤軍派・若宮正則らは日雇い労働者の違法派遣や暴力管理を行っていた暴力団勢力(淡熊会系天海会、山口組系佐々木組ほか)の一掃を図って暴動を牽引。1000名規模での殴り込みや投石、放火などを繰り返し、年間7万人前後が斡旋を受けていた労働者の不当搾取に抵抗し社会問題として世に問うた。釜日労はその共闘会議を母体として結成された労働運動、政治グループである。

釜日労は元赤軍派の横のつながりによって釜ヶ崎だけでなく全国各地で行われる都市浄化策などに対抗して「仕事をよこせ」「寝床をよこせ」といったスローガンを掲げて、日雇い労働者らの権利獲得を目指す「闘争」を長年繰り広げている極左集団として知られる。事件後のM氏は2013年から辺野古の基地建設反対闘争に参加し、2023年現在も阪神地域と沖縄を往復している。

 

M氏はテレビ取材で事件について問われると、

「他殺という形で人を追っかけても犯人は捕まらないよ」

「他殺が壁にぶつかって闇になっちゃう」

「まあ真相は闇になってもいい」

「例え犯人がいたとしても捕まらなくていい」と述べた。

恋人というのであれば事件の真相解明を求める立場にも思えるが、はたしてM氏は「犯人は捕まらない」と匂わせぶりな発言を繰り返す。「彼女は自殺だ」という確信からくる他殺説への無関心なのか、それとも「真相」や「犯人」を知っているが明かせない、とでも言わんばかりの含みを持たせた口ぶりに様々な疑惑を呼んだ。

 

フリージャーナリスト・寺澤有氏はM氏に追加取材のインタビューを行っている。M氏は、矢島さんとは釜ヶ崎の日雇い労働者や野宿者の人権を守ろうという志が一緒で交際するに至ったと述べる。

周囲に交際関係を知る人がいないのではないか、との問いに対して「知られないようにしていた。自分のような人間と交際していると風評が流れれば、彼女の活動の妨げになる」と答え、交際関係を裏付けるものは何も出てこなかった。

矢島さんの住居、第一発見者の釣り人については「知らない」と否定。

絵葉書については、出さないままにおいて後から警察の追及を受けたくなかったため自ら届け出はしたが、「自殺の根拠としたわけではない」とも述べている。その一方で、特に根拠はないが自殺だと確信しているとの考えを述べ、自身が今も変わらず同じように釜ヶ崎で過ごしていることからも「釜ヶ崎で私を犯人と疑う人はいない」と身の潔白を主張した。

 

一部の雑誌では、西成区の行政運営に新左翼系団体が強い発言力を持っているとされ、本件の背後に釜日労の存在を疑う記事もあった。釜日労は山田實委員長(当時)名義で抗議文を出し、SNS上で止まない疑惑の声に対して反駁を繰り返した。

そうしたM氏の謎めいた発言、部外者から団体の実像が見えづらいことなどから、M氏は真犯人側から依頼を受けて金銭目当てで絵葉書を提出し自殺説を吹聴して回っているのではないか、団体が何らかのかたちで不審死に関与しているのではないかといった疑念を示すネットの声は少なくない。

 

ふるさとの家

矢島さんが信頼を寄せていた本田哲郎神父は、フランシスコ会の日本管区長を務めた後、1989年に志願して三角公園の隣に社会福祉法人「ふるさとの家」を構えた。職にあぶれて再三再四路上生活に逆戻りするのではなく、いつでも帰ってこられる「家」のような居場所が確保されなければならない。食堂、図書室、談話室からなり、腹が空けば200円で温かい定食にありつけ、神父や労働者仲間たちが迎え入れて体調変化や生活状況を気に掛けてくれる直接的なセーフティネットの場である。

釜ヶ崎へと流れ着いた人々がよりよく生きていくためにどんな助けが必要か、ボランティア精神で一宿一飯や古着などを与えてその人を助けることはできても、半永久的な助けにはならない。心身の安定を取り戻し、リスタートをきるためのきっかけとなる再起の砦として、行き場のない彼らにとって「教会」ではなくまず「生き場」が必要だった。

バブル崩壊阪神淡路大震災を経て、本田神父ら釜ヶ崎関連のNPO法人が連携し、99年9月に自立援助団体「釜ヶ崎支援機構」を発足させた。釜日労・山田實氏が理事長となり、ホームレス化の予防と脱却のために制度の隙間を埋める支援を続けている。

行政に就労機会の創出、民間企業の下請けなどの働きかけを行って高齢者にも経済活動の場をエンゲージするほか、就労訓練や就職相談なども受け付けている。2013年7月から高齢の生活保護受給者の孤立を防ぎ、生活自立・社会参加を促す事業をNPO法人と合同して手掛け、いわば労働者と元労働者たちの生活総合支援事業となっている。

下のストリートビューは本件発生と同じ2009年のもの。

 

木島病院事件

社会から追いやられるように西成へとたどり着いた者たちの中には精神疾患患者やアルコール中毒覚醒剤中毒者などの割合が多い。また大阪に限ったことではないが、精神医療業界では対応の難しい患者への処置が人権軽視と紙一重となることも少なくはなく、身体拘束や行き過ぎた指導が暴力に至るケースは度々報じられる。

栗岡病院での患者リンチ事件、安田病院での看護人によるバット暴行死事件、診療報酬の水増しや看護師基準を違反した使役労働が明るみとなった大和川病院など、一般病棟に比べて本人の能動的な対処が難しく発言力に乏しいと見なされる患者たちを「食いもの」にする医療の闇は今日も根絶されてはいない。

 

1986年(昭和61年)10月、大阪西成区福祉事務所職員と貝塚市の木島病院との癒着、贈収賄事件が公になった。元々大阪市は精神病床が少なく、西成区内で路上生活者らがアルコール中毒等で救急搬送された際に、福祉事務所職員が入院先として木島病院に便宜を図ることでキックバックを受けていた。その上、この職員は病院事務長と結託し、死亡患者の生活保護の金まで着服していたことが発覚した。

汚職の対象になった行路患者の多くは身内の同意が得られないことから「市長同意」という権限によって入院措置が取られた。府内の精神病院の新規入院者の約1割が「市長同意」によるもので、その半数が大阪市長の認可であった。

木島病院では入院患者の約半数が「市長同意」の患者で占められており、それほどの集中は異常であった。彼らの入院期間についても7割が「5年以上」、5割が「10年以上」という長期在院の傾向が顕著であり、いったん受け入れされると福祉事務所や保健所職員の訪問もなく、退院希望も確認されないまま収容され続けている実態があった。

市長同意書発行数の推移〔大阪精神医療人権センター『精神病院は変わったか』より〕

昭和59年 870件

昭和60年 851件

昭和61年 831件

昭和62年 733件

昭和63年 320件(7月から精神保健法施行)

平成元年 150件

平成2年 140件

平成3年 148件

1988年7月に精神保健法が施行され、任意入院の規定が導入されたことで「市長同意」の件数は激減していることが分かる。昭和60年の851件のうち西成区は364件(42.8%)と大きな割合を占めており、その構造的な癒着はマスコミによって「あいりん汚職」と呼ばれた。

かつて日雇労働者の支援団体により発行・配布されていた『釜ヶ崎夜間学校ニュース』1986年10月17日号には次のように書かれている。

木曜日の医療相談の日にわざわざ訴えに来てくれた仲間の話は、阪和病院へ肝臓が悪くて市更相(大阪市更生相談所)から入院したが、しばらくして、アンタはアル中やと言われて木島病院へ送られた。送られた日は一日中保護房に入れられ、ベッドにしばりつけられていたという。

その仲間によると、木島病院には身元保証人のない仲間が長期にわたって入れられており、中には死んでいく仲間もいる。

木島病院はみんなも知ってるように、最近、西成福祉事務所第八係との間に贈収賄事件をおこしている。

木島病院から措置認定を早くしてもらうように働きかけたり、仲間が伝えてくれたように結核病院や一般病院から患者をまわしてもらいやすくするために金品を渡していたのだ。

我々の病んだ仲間を、まるで羊や乳牛のように扱っている。ろくな治療もせず、長期間病院にとどめておくことで、ボロもうけをしているのだ。

木島病院だけが我々の病んだ仲間を喰いものにしているのではない。

市更相の前に連日のように色んな病院の車がとまっている。

その病院のすべてが、患者を喰いものにしようと待ちかまえていると考えても、まちがいではなさそうだ。

ニュースビラの後半では、1984年に日雇健康保険が廃止されて医療費の一割負担が適用されることとなり、病院は利用者が減って収入に困り、市更相に日参して獲物を待ち構えているとし、福祉切り捨てを続ける中曽根内閣とそれに追従する市民生局を非難する内容へと向かっていく。やや煽情的な物言いにはなっているが、木島病院事件当時の背景として、労働者目線から見れば医療不信が強まっていたことが分かる。

 

山本病院事件

奈良県大和郡山市の医療法人雄山会・山本病院は、病床数およそ80で心臓血管外科、脳神経外科、内科などの診療科があった。この病院では診療報酬の不正請求のため、不要な治療や検査を繰り返していた。

2009年6月21日、奈良県警捜査2課は、生活保護受給者の診療報酬を不正受給した詐欺容疑で山本病院及び山本文夫理事長宅を家宅捜索した。捜査の結果、女性看護師に不必要な手術を強要したり、生活保護を受給する入院患者ら8名に心臓カテーテル手術をしたように装い、診療報酬総額1000万円を騙し取った疑いが強いとされ、同病院は閉鎖。12月から破産手続きを開始。元理事長には詐欺罪で懲役2年6か月の実刑が確定した。

 

手術による診療報酬の詐取は理事長自ら主導しており、不必要な手術だった上に、術中に適切な止血や縫合措置などを放棄して手術室を後にしたために死亡させた事例も発生していた。山本元理事長は心臓血管外科、助手を務めた医師は呼吸器外科が専門で亡くなった男性に施された肝臓切除手術の経験は共になかった。医師法に基づき「異状死」の届け出をせず、急性心筋梗塞と偽って処理したとされていた。

輸血準備などもされておらず、限りなく殺人に近い医療犯罪だったが、故意と認定する証拠がなく過失致死罪での立件となり、こちらは禁固2年4か月の実刑判決となった。亡くなった男性(51歳)は生活保護受給者で、術前には「早期にガンを見つけてもらえてよかった。早く治して自立したい」と喜んでいたという。

聞き取りによって、身寄りのない生活保護受給患者のほぼ全員に症状や所見に関わらず心臓カテーテル検査をしていたとされ、インフォームドコンセントの手続きもなく機械的にあらゆる検査を受けさせていた。そのほか放射線技師による画像の加工、注射によって頻脈に導くなど病状を捏造していたことも発覚。「病人」を捏造し、医療報酬に変えていたのである。検査を拒否する患者は強制退院させられ、罪悪感を持つ職員は次々と辞め、違法行為を指摘した医師は辞めさせられたという。

2011年1月、山本病院で生活保護受給患者に対して行われた心臓カテーテルによる血管内手術のうち140人分は不必要なものだったことが専門医たちの鑑定により明らかとなった。大阪市の場合、治療動画の残されていた116人の内98人が不要な手術だったと判断された。医療法人が自己破産した後、29の府県市が過去の診療報酬のうち3億2000万円余の債権届を提出したが、破産管財人はこれを認めず、最終的に7自治体で僅か143万円余の返還となった。

生活保護受給患者の入院が半数以上を占め、実数は437人。そのうち県内は14%で、大半が県外、なかでも大阪市が60%を占めた。

 

大阪市の病院や行政側がこうした受け入れ先病院の診療実態をどこまで把握していたものかは分からない。しかし行路死亡や行き倒れを防ぐためには受け皿となる病院がどうしても必要であり、病院側としても福祉が手厚く身寄りのない生活保護受給者を手なずけることにやぶさかではなかった。一般患者と違って、言いなりにならなければ追い出したり手足を括って言いなりにさせることもできる、たとえ亡くなっても困る人はいない、という蔑視もその根底にはあったのではないか。

そうした一方で、自治体や関係団体に通報が入っても、すぐに厳しい監査が行われることは少なく、改善指導が通知される程度で済まされがちである。具体的な措置や対策は病院任せとなっており、福祉施設での虐待事案などと同様に重大事件の発覚までに時間を要することが指摘されている。山本病院のように明らかにされる事例は氷山の一角にすぎないと考えるべきであろう。

 

命の灯

2023年11月、矢島医師の死から14年目に出された「さっちゃんの会」発行の広報紙『さっちゃんと共に生きる』150号では、支援者の植田敏明氏が手記を寄せている。

それは事件に関して黒川所長が「事件解決のために十分な協力をしてきた、とは思えない」、社会的弱者のための医療という志のもと活動を共にした「祥子さんやご家族のためにも口をひらく責任があるはずだ」という「ふみきった内容」であった。

 

 

西成で居酒屋「集い処はな」を営み、『日本の冤罪』(鹿砦社、2023)を著した「はなまま」こと尾崎美代子氏は、デジタル鹿砦社通信で矢島さんの死について寄稿している。

患者のセカンドオピニオンを提案したり、適切な診療方針を要望する矢島医師は、患者からむしれるだけむしりたい病院からすれば相当に煙たい存在だったにちがいない。また彼女が亡くなる約1か月前、釜ヶ崎でのフィールドワーク報告会で「貧困ビジネス生活保護受給者への医療過剰状態」などを問題視する報告を行っていたとされる。

尾崎さん自身は医療関係者ではないが、客や知人の見舞いでそうした生活保護受給者や行路生活者を専門にする福祉病院(「行路病院」)を目にしてきたという。

「福祉病院は、数か月いると、別の同様の病院にタライ回しにされる。そこでまた一から検査などを受け、そこの病院を儲けさせるためだが、先のお客さんが次に回された京橋の病院は、私が見舞いに行くと驚いていた。生活保護者の患者に見舞いに来る人がいるとは思っていなかったのだろう。」と振り返っている。

https://www.rokusaisha.com/wp/?p=48381&fbclid=IwAR3RgTr0ifZYyWUkSb2LadP4buXQkH7wPeVQw9Xwki_U-iK0RSqYZRuiBMM

矢島さんが行った報告の詳細は不明だが、釜の「部外者」として赴任してきてから2年半、多くの診療や生活支援を手掛け、人々と語らい、関係を深めていく中で、自分の患者たちも釜ヶ崎に巣食った貧困ビジネスの内部構造に組み込まれていることに危機感を募らせたはずである。彼女が知りえたものは業界を震撼させた山本病院事件と直接関係していたのか、あるいは別ルートの病院とのつながりであったのか定かではない。

いずれにしても彼女の倫理観には到底許容しえない診療実態と知り、その動きを察した西成の特殊な保険福祉医療業界に巣食った面々が片づけたと考えるのが妥当に思われる。発覚したのは身近な相談相手だったのか、はたまた外部と思って情報を流した相手が逆に彼女を「売った」のかもしれない。

釜ヶ崎の町医療を支えてきた黒川医師や生活困難者たちの心の拠り所となってきた本田神父らでさえも太刀打ちできない、不可侵な勢力とは何なのか。巨大な闇に向けてさっちゃん先生が命を賭して点けた灯を決して絶やしてはならない。

 

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貧困と生活保護(33) 必要のない手術を繰り返していた山本病院事件 | ヨミドクター(読売新聞)

遺体なき殺人——フランス邦人留学生行方不明事件

フランス留学中だった筑波大生・黒崎愛海(なるみ)さんの失踪事件。現地捜査当局は“遺体なき殺人事件”と断定して元交際相手のチリ人男性を逮捕し、2023年12月に控訴審が行われた。

 

事件の発生

2016年12月5日、フランス東部ブザンソンで留学中だった筑波大学学生・黒崎愛海さん(当時21歳)がその消息を絶った。

5日未明から早朝にかけて寮で寝起きする学生10数名が、彼女の暮らす106号室付近から叫び声やドスンという何かを叩くような音を耳にしていた。

「甲高い女性の叫び声が響いて、最初はホラー映画かと思ったけど、しばらく続いたので不安になりました」

女性の悲鳴は1分か2分近く続いたとされ、驚いて廊下に飛び出した学生もいたが異変の発生源を特定するには至らなかった。変事を察した学生は少なくなかったにもかかわらず、そのときは警察への通報はされなかった。

愛海さんは8月末に渡仏し、9月からブザンソンにあるフランシュコンテ大学に留学していた。同大学は3万人近い学生の12%を外国人学生が占め、フランス語およびフランス言語学では世界有数の教育機関である。彼女は寮で生活しながら1月の経済学部への編入に向けて、応用言語学センターでフランス語を受講していた。

 

クラスメイトたちはそれまで休んだことのなかった彼女の突然の無断欠席を心配し、寮生たちも異変に気付いてSNS等でメッセージを送り続けたが、ほとんど返事はなく12日以降は完全に音信不通となる。

最後のメッセージは日本で暮らす愛海さんの母親や妹たちの元に届いていた。「新しいボーイフレンドができた」「一週間ルクセンブルクに行く」「ひとりで行く」と一方的に告げる内容だった。ブザンソンの友人たちは度々彼女の部屋を訪ねたがずっと不在が続いていた。その後、友人と寮の管理人によって106号室の様子が確認され、14日、応用言語学センターから行方不明者として警察に届け出がなされた。

翌15日夕方に警察は彼女が暮らす学生寮の立ち入り調査を行い、自発的失踪とは結びつかない状況を把握した。前述のように住人たちは不審な叫び声や物音を聞いたと証言し、室内に血痕や争った形跡などはなく整理整頓されて見えたが、いつもはもっと雑然としていると違和感を示した。

降雪も近い時季だというのに、彼女の唯一のコートやスカーフは残されたままとなっていた。現金565ユーロや交通カードの入った財布やラップトップPCも置きっぱなしで、旅行や家出とは考えにくい。その一方で、パスポート、携帯電話、毛布、スーツケースが部屋から紛失していることが判明する。

隣室には同じく日本人留学生が暮らしていたが、5日未明の騒音以降は生活音さえ聞いていないという。詳しい聞き取りの結果、悲鳴を聞いた寮生のひとりがグループチャットに「誰か殺されてるっぽい」と投稿していたことが確認される。投稿は午前3時21分であった。

 

疑われた恋人

警察は当初、愛海さんの当時の交際相手に疑いの目を向けた。同じ地区に暮らし、国立機械マイクロテクノロジー高等学校に通うアルトゥール・デル・ピッコロさんである。

「12月4日の午前11時半まで一緒にいたが、午後には通っていたダンスクラスに行ったと思います。夕方に少し見かけて以来、会っていません」

4日夜にメッセージを送ったが返信はなく、心配して5日夜には彼女の部屋を訪れたが応答はなかった。毎日顔を合わせていた恋人の予期せぬ失踪に心配した彼は無事を信じて「直接会って話がしたい」とメッセージを送り続けた。ようやく6日深夜にになって「後日にしてほしい」と返信があった。ピッコロさんは恋人が無事だったことを知って多少安堵したものの、“失踪”の説明を求めた。

「メールには“ある男性と出会い、その人と一日を過ごした”と書かれていました。私が“戻ってくるつもりはあるか”と尋ねると、ノーと返信があり、私は彼女に裏切られたように思いました」

メッセージには、男性への感情は一時的な、恋愛ともいえないようなものだが、どうしたらよいのか自分でもよく分からない、と記されていた。ピッコロさんは、悲しみと怒りがないまぜになった、とその時の心情を振り返る。

「12月6日(火)に“パスポートの手続きのためリヨンに行く”というメールを受け取りました。変だと思いましたが、彼女には一人になって考える猶予が必要なのだと思い、私はその気持ちを理解しようと努めました」

ピッコロさんは交際自体は順調で、今後に向けて二人で様々な計画を立てていたと語る。クリスマスには彼女を家族に紹介する約束をしており、すでに飛行機のチケットも準備していた。

「しかし8日の木曜日に送られてきた最後のメッセージには“独占欲”という単語が繰り返し使われていて、何かがおかしいと思いました」

ブザンソンに来てからの彼女の周囲で敵になる人間はいませんでした。私の知るかぎり、有害と思われたのは彼女の過去の関係でした」

 

二人が知り合ったのは愛海さんが来日したばかりの9月初旬で、ピッコロさんは「交際相手との遠距離恋愛がうまくいっていないことで折角の留学が台無しにされている」と彼女から相談を受けていた。愛海さんが関係を解消した10月初旬に二人は交際を開始したが、“元カレ”が関係修復を求めて11月に来仏する意向だという話も耳にしていた。

取り調べを求められたピッコロさんは“元カレ”への捜査を訴えたが、地理的な問題があることから警察はすぐにはその言い分を聞き入れなかった。しかし、いざ裏付け捜査が始まるとすぐにピッコロさんへの疑いは晴れた。あらゆる捜査結果がその“元カレ”による犯行を裏付けており、直接証拠は得られていなかったがすでに行方不明者は殺害されているとの見方が強まり、逮捕状が請求されることとなる。

 

嫉妬と征服

愛海さんは両親と2人の妹の5人家族で、東京都江戸川区の出身。都立国際高校を卒業後、2014年に茨城県筑波大学国際総合学類へと進学した。

同年10月、同じ筑波大学に留学中で経営管理を学ぶ5歳年上のチリ大学学生ニコラス・ゼペダ・コントレラス氏と知り合い、2015年2月頃から男女は交際関係に発展した。

愛海さんは結婚を前提としない非公式なかたちで家族にもゼペダ氏を紹介している。その年の9月から約1か月にわたってチリに旅行し、彼の家族とも面識を持った。彼の留学期間が終わると、二人は日本とチリでの遠距離恋愛となった。

 

Querido Nicolás, mi amor, estoy muy feliz... Eres un compañero extraordinario. Muchas gracias por tu apoyo, gracias por la forma en que me apoyan y la forma en que te comportas conmigo. Intento merecerte. Te amo con tu corazón, soy tuya para siempre. ❤️

(親愛なるニコラス、私の愛しい人、とても幸せです...。あなたは素晴らしいパートナーです。私を支えてくれてありがとう。私はあなたにふさわしい存在でありたい。私は永遠にあなたのものです。)

 

もともと愛海さんは貧困問題に関心を持っており、母子家庭の支援事業を立ち上げることを目標として学業に励んでいた。交換留学制度を利用して他の先進国の現状を理解したいと考え、社会保障制度が充実していることからフランスへの留学を志した。

ゼペダ氏は2016年に再来日し、彼女との生活を夢見て就職活動をしていたが、学内とは勝手の違う生活になじめず、就職もうまくいかなかった。結局、愛海さんは渡仏し、彼も10月にチリへの帰国を余儀なくされ、再び離れ離れとなった。

 

部屋の鑑識捜査によって、カップから指紋が検出され、遺伝子サンプルの分析により、水筒、Tシャツ、壁、バスルームの床、シンクの隅からも同一男性のDNA型が確認された。フランス当局のデータベースから一致するサンプルは見当たらなかったが、後にそれはゼペダ氏のものと照合されることとなる。

ピッコロさんの証言の裏取りも進められた。愛海さんの銀行口座の動きからは、12月6日にリヨン行きの片道列車の購入履歴が確認される。割り当てられた購入座席から同じ客車の乗客たちに確認を取ったが、なぜか彼女と一致するような日本人女性の目撃は皆無だった。またメッセージにあった通り、実際に彼女がパスポートに問題を抱えていたとすれば目的地とすべきはリヨンではなく、日本領事館のあるストラスブールと考えられた。

携帯電話の位置情報を解析したところ、12月4日の夜、寮から約20キロ離れたオルナンにある宿屋兼レストラン「ラ・ターブル・ド・ギュスターブ」を訪れていたことが判明。午後9時57分に愛海さんとゼペダ氏が店を出る姿が記録されており、その約1時間後、学生寮正面玄関の防犯カメラでも元恋人同士が寮に入っていく姿が捉えられていた。

彼らは何の目的で会い、何を語らったのか。二人が寮に到着して4時間半後に悲鳴や騒音が聞かれたが、表玄関から二人が外出する様子は記録されていなかった。代わりに裏の非常口から一人で出ていくゼペダ氏の姿が捉えられていた。

愛海さん失踪前後のゼペダ氏の足取りを辿ってみると、マドリードジュネーブを経由して11月30日(水)にフランス・ディジョンに到着。2週間前にチリ・サンティアゴから予約していたルノー・メガーヌ車に乗り込み、市内のショッピングセンターでプリペイド式携帯電話をチャージすると、その足で愛海さんの暮らすブザンソンへと向かっていた。

翌12月1日、昼過ぎにディジョンに戻り、スーパーマーケットで9.80ユーロの買い物をしている。その中には5リットルの燃料入りキャニスター(蓋つき保存容器)、Winflamm社製のスプレー式塩素入り洗剤、ゴミ袋、マッチが含まれていた。

レンタカーの走行記録によれば、翌2日はジュラ地区にある森林地帯を徘徊。ハイキングや観光に適した場所ではなく、森林地帯を横断するひと気のない林道である。2日と3日は前述の「ラ・ターブル・ド・ギュスターブ」に宿をとっていた。だが愛海さんと同じ寮で暮らすイギリス人のレイチェルとアルジェリア人のナディアは、2日夜それぞれ別の時間に不審な男性が寮の台所に隠れていたと証言し、写真でゼペダ氏であることを確認した。

3日、ブザンソンのH&M(衣料品店)で青いジャケットと白いシャツを購入し、翌日の愛海さんとのディナーの場で着用したことも確認された。愛海さんの失踪前、ゼペダ氏は寮に忍び込んだり、旅人らしからぬ不可解な物品や着替えを手に入れて、ひと気のない森をさまよっていたことになる。

 

レンタカーの返却は12月7日(水)正午ごろで、5日、6日には愛海さんの寮に駐車されていたとの目撃情報もある。返却された車は8日間で延べ776キロを走行し、運転席とトランクは「非常に汚れていた」とレンタカー従業員は記憶していた。

午後にはジュネーブ行きのバスに乗り、そこからバルセロナ行きの飛行機に乗ったゼペダ氏は、従兄弟で医学生のラミレスさんの元を訪れていた。ラミレスさんの供述によれば、ゼペダ氏は「ジュネーブの学会に出席するため渡欧してきた」と語り、以前交際していた愛海さんの話題を振ると「9月以来会っていない」と答えたという。また10日(土)の会話で、ゼペダ氏が窒息死について関心を示し、死に至る原理や要する時間、生死の判断について問われたという。

別の機会には「ナルミは海がとても好きだった」となぜか過去形で話していたことを従兄弟は不審に思ったという。またバルセロナでの滞在をだれにも話さないように口止めされたことも奇妙に思われた。1月になってフランス当局から連絡を受けた直後にゼペダ氏から連絡が入り、「困ったときは家族で助け合うべきだ」と言われたと証言する。

そうした不可解な行動履歴は到底旅行者らしくはない。ブザンソン地方検察は、犯罪のための下準備や隠蔽工作だったにちがいないとの確信を深め、警察犬なども動員して周辺での捜索活動を急がせた。

一方で彼女のラップトップでの通信履歴を照会してみると、8月28日から10月8日までの間にゼペダ氏との間で981通に上る破局までの激しいやりとりが明らかとなった。フランス当局はその内容から男の性格を「嫉妬深く独占欲が強い」と判断。

ゼペダ氏は愛海さんが来仏後にできた男友達に嫉妬し、SNS上での絶縁と実際の交友関係の解消を求めていた。「きみの誠意を見せてください。私はきみの決意が知りたい」「きみのパートナーは私だと彼らにメッセージを送って、これ以上つきまとわれないようにしてほしい」と主張していた。彼が愛海さんに関係を切るよう求めていた相手のひとりが、後に彼女の新恋人となるピッコロさんであった。

ゼペダ氏は彼女に自分の意に背かないよう説得を繰り返していたが、愛海さんも無抵抗に追従する性格ではなかったと見え、横暴な執着を続ける彼に対して「警察に通報する」と相手を脅すことさえあった。男性のこれまでの行いを非難し、最後には「くたばりやがれ」と吐き捨ててやりとりを終えていた。

彼女が男の要望を拒絶すると「もはや我慢の限界だよ、ナルミ。きみは私をゴミのように扱うんだね」と告げ、その2日後に動画投稿サイトDailyMotionに動画メッセージを公開した。

「きみはいい子になるんだ、これからはもっといい子になれる」

「ナルミは悪い子なので、この関係を維持するためにはある条件に従ってもらわねばならない」

「彼女は約束を守ると同時に信頼関係を再構築し、自分のしたことの代償を支払わねばならない。自分を愛してくれる人にそのような過ちを犯すのであれば、責任をとらなければいけない。期限は、そう、2週間だ」

10月9日、日本から帰国した“元カレ”はチリ・サンティアゴに戻り、行動療法センターに通うようになった。

 

指名手配

2016年12月23日、行方不明者が殺害されたことを確実視したブザンソンの捜査当局は、インターポールを通じて誘拐・拘禁などの容疑で国際指名手配を開始することを発表した。欧州を発ったゼペダ氏はすでに13日にチリに再入国していた。

国際指名手配の報道を受け、12月29日、潜伏していたゼペダ氏はチリ刑事警察庁(PDI)に文書を提出。愛海さんから過去の交際を後悔するメッセージを受け取ったため、「友好的な関係を取り戻したいと考えてブザンソンを訪れた」だけだとして殺害を否認した。交際の破局は「合意の上」だったため、「こうなっても不思議はありませんでした」と言い、自発的失踪や自殺の可能性を示唆した。

文書では、4日夜の会食の場で二人はまだ愛し合っていることに気づき、「親密になる」ために彼女の部屋に入ったことを認め、その晩は「うめき声」をあげるほど夢中に愛し合ったと説明。彼女は(交際相手ピッコロさんに対して)浮気による罪悪感を抱いたらしくひどく動揺し、彼に立ち去るように言い、非常口から帰った。現地に数日滞在したが彼女と再び接触する機会はなかった、と綴られていた。

 

翌2017年の1月4日、チリ検察当局はフランスの捜査当局からゼペダ氏の身柄引き渡し要請があったことを発表。5日にはチリ中部サンティアゴの実家周辺にいることが伝えられた。

チリの報道によれば、ゼペタ氏の父親は中南米の大手通信プロバイダー「モビスター」の幹部を務める。マスコミの詮索を避けるため、海岸沿いのリゾート地ラ・セレナの短期滞在型コンドミニアムの部屋を契約して妻を住まわせ、1月2日(月)に父親の車でマンションに入るゼペダ氏の姿も目撃されていた。父親は勤め先で1月3日から約10日間の休暇を取得しており、一緒に行動していると報じられた。

 

2017年3月、フランスの捜査当局は日本に捜査協力を要請し、ゼペダ氏の友人サカマキリナさんとスギハラメグミさんに事情聴取を行った。

彼女たちは愛海さんの失踪直後の時期にゼペダ氏から連絡を受け、「新しいボーイフレンドができた」などいくつかのフレーズについて日本語に口語訳してほしいと頼まれていた。数週間後、知人伝いに愛海さんの失踪を知らされ、愛海さんの家族宛ての最後のメッセージを目にした。LINE上で使われていた文言は自分が翻訳したものであり、ゼペダ氏によって失踪の隠蔽工作に使われたと直感した。

また彼は二人にメッセンジャーアプリでのやりとりを消去するように求めていた。サカマキさんはそのとき愛海さん失踪を知らなかったこともあり、言われるまま削除に応じたという。スギハラさんは後に「なぜ削除させたのか」と彼に問い詰めると「私が元交際相手だったからと言って、失踪の容疑者にはなりたくない」「心配しないで。彼女は別の男性と楽しくしているでしょう」と応答があったという。

 

身柄引き渡しと裁判

ニコラス・ゼペダ氏とその家族はフランス当局による取調や身柄引き渡しを拒絶。検察局は粘り強い交渉を続け、チリ司法においてその可否を決することとなった。

2020年1月13日、3年間沈黙を守っていた愛海さんの母親と妹たちは「家族の気持ち」と題した嘆願書を在チリ日本大使館に送付。在チリ日本領事から検察庁に照会され、チリ最高裁で行われる身柄引き渡し審問に提出される。

私は24時間、愛海の写真を胸に抱き、『どこにいるの、帰ってきて』と祈り続けています。毎日が地獄で、身も心もボロボロです。走行中の車から身を投げたこともある。——

―—ニコラスがフランスで捜査されることを祈ります。愛海の命を奪ったニコラスを、そして彼女が一番大切にしてきた家族全員の人生を奪ったニコラスを、私たちは絶対に許すことはありません。たとえ命が尽きようとも、この恨みが失われることはありません。

母親は失職し、妹たちも学業に励むことに苦労したという。愛海さんの身に何が起こったのかを正確に知ることもできないまま、家族はただ毎日を生きるのみだった。フランスに渡って愛海さんの捜索活動をすることも考えた。しかし母親は沈黙を続ける娘の“元カレ”が真相を、彼女の居場所を知っていると確信し、チリに渡って面会を要求したが結局実現は果たされなかった。

5月18日、チリ最高裁はゼペダ氏の身柄引き渡しを承認。自宅軟禁に置かれた後、チリ捜査警察によりフランス当局へと引き渡されることとなる。7月24日、パリ・シャルル・ド・ゴール空港に到着した容疑者は予審判事の許へと連行され、ブザンソン公判前拘置所に収容された。

 

2022年3月から4月にかけて、ブザンソン裁判所で一審刑事裁判が行われ、フランスのほか日本、チリ、スコットランドの証人が中継で参加し、日本語とスペイン語の同時通訳で傍聴が可能となった。各国のジャーナリストや市民が詰めかけ、2つの法廷が解放されてスクリーンモニターで審理の様子を見守った。

ゼペダ氏の弁護を担当したのは、サルコジ元大統領の盗聴事件などで知られるパリ弁護士会ジャクリーヌ・ラフォン弁護士でゼペダ被告の無実を主張した。

愛海さんの母親、妹のクルミさんも2週間の審理を傍聴し、証言台にも立った。ブザンソン弁護士会のシルヴィ・ガレー氏が家族の代理人として手続きをサポートしている。

公判の中で、ゼペダ氏が参加していたSmule、last.fmDeviantArtなどのオンライン上でのやりとりが参照され、様々な日本風のイラストがあったほか、実際の彼の行動さながらに「元パートナーと再会するためにチリから米国へと旅する男の物語」の投稿も見られた。

失踪後の12月10日にも愛海さんのFacebookアカウントはログインが報告されており、IPアドレスはゼペダ氏がバルセロナ滞在中に使用したものと一致。また交際していたピッコロさんのSNSアカウントへゼペダ氏からの攻撃があったことも証言された。

エマニュエル・マントー検事総長は、通信履歴や各種投稿の内容から被告の嫉妬深く独占欲の強いストーカー気質を示した上で、ブザンソンへの訪問は「復縁の説得」のためと推測されるが、二人が再開する12月4日より前の行動履歴と照らせば、彼女の対応如何によっては殺害することも事前に想定されていたと主張した。

現状“遺体なき殺人”であることから「最も可能性の高い仮説」として、彼女は自室で窒息死させられ、遺体はスーツケースで車に積まれてジュラ地区の森林地帯に運ばれ、森林地帯に埋められたかドゥ川に遺棄されたとする公訴事実を述べた。

4月12日、マチュー・ユッソン刑事裁判所長官は懲役28年の有罪判決を下した。

ゼペダ被告は判決を不服として控訴。2023年2月に控訴審が開始されたが、公判途中で法定代理人(ジュリアン・アサンジの弁護で知られるアントワーヌ・ヴェイ弁護士)との間でトラブルが生じ、ルノー・ボルトジョワ弁護士、シルヴァン・コーミエ弁護士が新たに担当することとなった。

 

〔2023年12月22日・二審判決加筆〕

2023年12月4日からヴズール控訴裁判所で改めて控訴審が開始された。

33歳になったセペダ被告は、尋問に対し、「プレッシャーやストレスを感じながらも、ようやくこの瞬間を迎えることができた。無実の罪でひどい非難を浴びている。質問に答える準備はできている」と口を開いた。

彼は2014年に日本で出会った愛海さんについて「尊敬」と「思いやり」に基づくパートナーシップだったと振り返り、「私はこの失踪とは関係がない」「私も何が起こったのか知りたい」と元恋人の安否を危惧した。彼女から「一生一緒にいるのか」と問われ、「僕はそう望んでいると答えた」と交際当時を振り返った。

それに対し、ピッコロさんの代理人である弁護士は「彼の物語は“ディズニーランド化”された架空の話だ」と喝破し、「被告は身の安全を図ろうとしている」と指弾する。被告は自分の言葉で証言を続けるものの、質問が細部に及ぶと答えに窮する場面も見られた。

 

証人として出廷した愛海さんの母親は、娘から紹介されたチリ人のボーイフレンドに対して「事件前から不信感を抱いていた」と明かした。

そもそもチリは話題にもしない遠い異国という認識だったため、娘から交際の事実を聞かされたときは驚かされたという。被告と初めて会ったのは愛海さんがアパートの引っ越しをしようとしていた時期だった。見た目は「ハンサムで優しそうな子」という印象だったが、彼は初対面の母親に挨拶ひとつしなかった。

引っ越しを手伝う約束をしていたが、当日、彼は姿を現さなかった。日本では信用を失うため守れない約束事はするべきではないとされている。一緒に食事をした際に家族の話題となり、青年は「スペイン系で、母親は裕福な家の出身だ」と紹介した。日本では「裕福な家柄である」と自称することは、品性の観点からあまりよい行いとはみなされない。家族はゼペダ氏の性格や対応に違和感や不安を感じていたが、娘のためにも「文化の違い」と寛容な理解に努めてきた。

男への不信感が決定的となったのは、愛海さんからチリ滞在時の出来事を聞かされたときだった。愛海さんは彼とスキーに出かけた際に雪道で遭難してしまい、叫び声をあげて助けを求めて命からがらの思いをして救助されたことがあったという。しかしゼペダ氏は「遭難についてだれにも言わないでほしい」と彼女に口止めしたというのである。なぜ人命が掛かったそんな大事をひた隠そうとするのか、その人間性に疑いを抱くのも当然である。

 

愛海さん家族の代理人シルヴィ・ガレー弁護士は、被告が送った“きみはいい子になるんだ、これからもっといい子になる”との動画メッセージについて言及する。関係修復のやりとりの中で、彼が元恋人に出した条件、その意味するところは、決して問題を起こさず、決して怒ることなく、決して意地悪をせず、決して悪口を言わず、決して歯向かったりしない、という絶対的な服従関係の要求であった。

彼女は生理の遅れから妊娠を危惧してクリニックを訪れていたとみられ、2016年10月には「あなたは私の体を傷つけ、大金を奪い、私から未来の子どもを奪った」と厳しい口調で男の不誠実な態度をなじっていた。彼女は完全にパートナーの言いなりになる女性ではなく、そうした過去の出来事も破局の引き金になっていたと考えられる。説明を求められたゼペダ被告は「妊娠検査薬の反応を疑って彼女は病院へ行ったが結局妊娠の事実はなかった」と述べているが、彼女のメッセージを字義どおりに捉えれば(男が関知していなかったとしても)堕胎手術があったようにも解釈できる。

筆者の憶測になるが、2016年に彼女を追って来日した恋人は自分を差し置いてフランス留学する彼女の決断を快くは思っていなかったに違いない。就職活動は不調に終わったが、地球の裏側から恋人との生活を求めて駆けつけた愛情は疑いようがない。「一生一緒にいよう」と願ったのは愛海さんではなく、男の方ではなかったか。彼女の留学は第一義には学業のためであれ、彼の支配や束縛、性的暴力などから逃れたい、早く離れ離れになって関係を終わらせたいとの気持ちも念頭にあったのではないか。

被告は一審判決後の収監について言及し、メディアの悪意ある報道と彼がフランス語を話せなかったことから「問題を抱えている」と見なされ、他の囚人とは一切交流できない境遇に置かれていたと語った。隣室の囚人の自殺や聴覚障害をもつ囚人への虐待も目にしたと獄中生活の過酷さを振り返った。ブザンソンでの勾留期間中にも看守から数回の殴打を受けたと報告すると、被告は嗚咽し始めた。ゼペダ被告の母親は立ち上がり、「息子の人権はどこにあるのですか」「私の息子を犬のように扱って」と叫んだ。公聴会は15分間中断した。

 

ギャレー弁護士は、マッチ、洗剤、燃料入りキャニスターの購入について説明を求めた。被告はマッチや洗剤は日用品として、キャニスターは燃料を携行するためではなく容器のデザインが気に入っていたためと購入理由を述べた。検察側は「あなたの証言は信用できない。カルフール(マーケット店)では空の容器も販売されていた」と語気を強めた。

被告の言い分が変わったのは、12月4日にブザンソン二人が“再会”した経緯である。これまでGPSに導かれてたどり着いたとしていたが、彼女の暮らす寮は事前に知っていたと述べ、否認していた学生寮周辺での事前の徘徊を告白した。

「一緒に過ごした時間よりも、私にとって重要なのは出会いだった」

遠くチリ・サンティアゴからフランス・ブザンソン学生寮までたどり着いたものの途方に暮れたゼペダ氏は、車の後部にA4用紙を挟んで彼女が気づくことを信じて待った。紙には、二人にだけわかる「暗号」として、ニコラスとナルミの名前を縮めてつくった「ニコミ」という恋人時代に考案した二人の愛称を日本語で書き添えていた。

気づくと「ニコミ」の紙が抜き取られており、車を降りてみると目の前に元恋人の姿があった。涙ながらに「もう会えないと思っていたのに」と再会に驚く彼女を車に乗せて食事に向かい、そこで両者の愛情が失われてしまった訳ではないことを確認し合ったという。

その晩から5日明け方にかけて二人は彼女の部屋で肉体関係に及んだ。避妊具をどうしたかは記憶にないとしている。また5日早朝に追い出されたとの証言を覆し、翌6日まで彼女の部屋に留まり、6日に二人で外出したと述べた。検察側が愛海さんの生存を匂わせる偽装工作だと位置づける「リヨン行きの鉄道切符の購入」について、被告は彼女から頼まれて購入したものだと説明した。

ゼペダ被告の父親は「愛海さんが今現在死亡していることを断言できる人は存在しない」と述べて、死体なき殺人の犯人にされかけている息子を擁護した。弁護団は「部屋の暖房器具に頭をぶつけて亡くなったとすれば…」と、彼女の失踪について計画殺人以外の解釈をする余地がない訳ではないことを陪審員に訴えた。

 

2023年12月21日、控訴審裁判所フランソワ・アルノ―裁判長は陪審員ら12人での5時間に及ぶ審議の末、前年の一審判決を支持し、被告に懲役28年の判決を言い渡した。尚、刑期満了とともにゼペダ氏には国外退去が命じられるとともに、黒崎さん家族に22万ユーロ、ボーイフレンドだったピッコロさんに5000ユーロの賠償金の支払いも命じられている。

「私は殺人者ではない!ナルミを殺していない!」

無表情で判決を聞き入っていた被告は泣き崩れ、通訳を通して判決内容を知らされた父親は息子の頭をなでて慰めようとした。結審後、記者団に囲まれた父親は「具体的かつ直接的な証拠」を提出していないとして検察側を非難し、「今日、フランスで無実の人が有罪判決を受けたことをだれもが目撃することになった」と判決への不服を露わにした。

約3週間の公判を終えた愛海さんの家族と代理人シルヴィ・ガレー弁護士は、判決そのものに不服はないとしたが、ゼペダ被告が真相を語ろうとしなかったことは遺憾であると述べた。

被告側の弁護団は、上告も含めて慎重に検討すると述べ、裁判所を後にした。

 

騙る共犯者——山中事件

「共犯者」の自白によって死刑判決が下された巻き添え型の冤罪事件である。なぜ己の罪と向き合わずに別の人物を首謀者のように仕立てたのか。

 

事件の発覚

1972年(昭和47年)7月26日午前11時ごろ、石川県江沼郡山中町の通称・南又林道の奥を流れる大内谷川で、山林調査に訪れていた役場職員が白骨遺体を発見し、警察に通報した。

 

着衣には刃物によると思われる多数の損傷がみられ、頭蓋骨の右前頭部には直径2.5センチ、深さ0.7センチの楕円形の陥没骨折、右頭頂骨に直径1.5センチ、幅1.1センチ、深さ1ミリ程の浅い骨折が確認された。警察は殺人・死体遺棄事件として捜査を開始した。

翌27日、遺体は着衣や所持品の照会によって、現場から約5.5キロ離れた隣町の山代温泉町に住む元タクシー運転手男性Dさん(24歳)とみられ、家族によって確認が取られた。Dさんは5月11日の夜に「ちょっと遊びに行ってくる」と言い残して外出したまま行方不明となっていた。

下のストリートビューの本流が国道364号・大内道路、分岐右手が発見現場とみられる。我谷ダムより上流域(南)には民家や店はほとんどない山道が続く。

 

捜査当局はDさんの交友関係を確認し、失踪直前に会っていた山中町在住の男性K(24歳)を参考人として取り調べを行う。Kは金融業者からの借り入れをしており、Dさんから実印を借りて保証人に立てていた。

7月28日、Kは取り調べに対して、蒔絵職人をしている友人S(26歳)と共同して犯行を行ったと自白を始めた。

 

山中町

山中町は石川県の南端、福井県との県境に位置し、その名が示す通り、周囲を山に囲まれた土地である。

奈良時代行基が北陸行脚の際に薬師如来の導きによって開湯したとされる山中温泉で知られる。浄土真宗第8代宗主・蓮如の湯治や松尾芭蕉がその名湯に惚れこんで8泊したと伝えられる。山々と大聖寺川が織りなす風光明媚な渓谷が人々を魅了する。

上流の九谷村では良質の陶石が採出され、江戸期、加賀藩は殖産興業とすべく後藤才次郎を技能習得のために有田へ派遣、戻ってから窯を開かせたが元禄末期に廃窯。19世紀になって京都から青木大米を招聘して再び窯を広め、前者を古九谷、後者を再興九谷と呼ぶ。陶匠・九谷庄三は能登呉須顔料の発見、舶来の顔料を取り入れた彩色金襴手と呼ばれる絵付けにより中興の祖とされ、以後の九谷焼の代名詞となった。

九谷焼大皿

後に国産マウンテンバイク販売やリム(車輪の外円)製造でも知られる新谷(あらや)工業の創設者・新谷熊吉が明治期に輸入自転車に対抗して国産自転車の生産を始めたのもこの地であった。

戦時下では傷病兵に効能のあるその泉質もあって、山中海軍病院が開設された。戦後は看護学校がつくられ、国立病院として地域医療を支えた。

2005年に加賀市と合併し、町名は消えたが、現在も旧山中町の地名には「山中温泉」が付されている。

 

Kの自白と2人の逮捕

Kの自白によれば、友人SがDさん殺害を実行したとし、金融業者のMを殺害する計画も持ち掛けていたという。両者の殺害によって、借金したことが家族に露見せず、返済の必要もなくなるという算段だったと明かす。

 

事件前日の5月10日、Kの父親が所有する30万円の約束手形を密かに金にできないかと画策したKとSは、金融業を営むMと交渉して25万2000円の小切手と交換した。二人は被害者Dさん方を訪れ、保証人とするために借りていた実印を返却。「明日、金ができたら礼をする。飲みに行こう」と話していた。

11日、KとSは現金化し、夜8時ごろ、自宅付近で待っていたDさんを拾い、Sの運転するブルーバードでひと気のない南又林道へと連れ込んだ。車を停めたSは後部座席のDさんの隣に座り、「どこか面白いところはないか」などと話しかけて油断させ、いきなり切り出し小刀で左脇腹を突いた。SはDさんを車外に引きずりおろし、逃げようとするのを追いかけて腹部等を複数回刺した。

KはあらかじめSがトランクに積んでいたヨキ(枝打ちや小さな薪割りなどに用いる斧。公判では「根切りよき」とされる)を取り出して手渡すと、Sは倒れているDさんの頭部をヨキの峰部分で殴打して殺害した。

遺体は二人で谷川の橋の上から落とし、さらに川に入って橋の下に隠した。

帰りにSの勤める工場で凶器のヨキを洗った。Kの目には、ヨキの峰部分の角が潰れて丸くなっており、赤い血のようなものが付着して見えたという。

 

Kの自白では、借金をしたのは自分だが、殺害の起案、準備、輸送、殺害実行、遺棄に至るまで、Sが主導的立場にあったかのように語られており、その後の公判を通じて上記のような主張を維持した。

自白を元に、7月28日、Kと共にSもDさん殺害と死体遺棄の容疑で逮捕された。

29日には「Sが運転席から投げ捨てた」とのKの供述に基づいて、死体遺棄現場から約12キロ離れた片山津町のはずれにある草原を下草刈りしたところ、被害者の遺留品である両足の靴が発見された。靴の中は枯れ草が詰まり、豆虫の巣になっていたとされる。

 

Kと共に逮捕されたSだったが、すでに金沢刑務所の拘置監に未決囚として勾留されていた。というのも、Dさんの行方不明から間もない5月14日に別の強盗殺人未遂事件を起こして緊急逮捕されていたのである。

Sは友人とのドライブ中に、加賀市須谷町の林道で小刀で右脇腹を刺したり、顔や胸部を切りつけるなど安静加療約1か月の傷害を負わせており、辛くも逃げのびた被害者は20万円余りの現金を所持していたことから狙われたと主張した。警察の追及により、Sは「殺して金を奪うつもりだった」と自白し、5月31日に起訴された。このSに刺された友人、逃げのびた被害者こそKであった。

Sは公判で、Kに対する傷害の事実については認めたものの、強盗殺人の意思はなかったと一部否認に転じた。

またKにはDさん殺害、死体遺棄の主犯格とされながら、Sは一貫して全面否認を続けた。その後の捜査では客観的証拠が得られなかったものの、9月14日、双方の主張は食い違ったまま、ともに起訴された。

 

裁判

Sを事件と直接結びつけるものはKによる証言しかなかった。一方でKは、自分は見ていただけとする自白内容であり、Sによる「強盗殺人未遂」の被害者という微妙な立場からの言い分でもあった。恨みのあるSに罪をなすりつけて自己の刑責を軽く見せかけようとしていても不思議はない。

そのうえ、松原太郎医師の鑑定によりKの知的水準は「11歳9か月の児童のそれに一致」する程度とされ、今で言うところのボーダーに当たり、知能指数73で「精神薄弱者の上限界に該当」すると評価された。「気が小さく」「誰の言うことでも善悪を問わずよく聞く」ので「他人に利用されやすい」特徴が指摘されている。

遺体や靴の発見場所は一帯でも山奥というような場所で、Kは自動車免許を有しておらず、運転にも習熟していなかった。そのためK単独による犯行ではない、との見方が自然と思われた。

取調や公判で共謀の日時について問われると、7日とも11日とも変遷し、記憶がないと供述することもあった。取調官とのやりとりで誘導があれば、容易に虚偽の自白を誘発するおそれがあり、自白の信用性には慎重な吟味が必要とされた。

 

1975年10月27日、金沢地裁は、Kの能力や性格から「単独犯行を否認するひとつの証左となる」との見解を示し、自白は信用に足るとして、主犯格SはKへの強盗殺人未遂と併せて死刑、従犯Kには懲役8年を言い渡した。

Kは控訴せずに服役。「主犯」とされたSは控訴したものの、1982年1月19日、名古屋高裁は、原審判決の一部に事実誤認があるとしたものの、有罪認定そのものは維持され、控訴を棄却した。

以下、裁判の争点についていくつかみていきたい。

 

凶器の矛盾

凶器として、頭蓋骨に陥没骨折を負わせた鈍器による打撃、あるいは着衣の損傷から刃物による刺突によって死亡した可能性が考えられる。

Kが犯行凶器に似ているとした根切りヨキを鑑定人が骨折箇所と照合したところ、類似するヨキの形状であれば骨折を生じせしむるに矛盾はないとされた。ただし、自白にある「仰向けに倒れている被害者の足元または胴の横から頭部めがけて振り下ろした」とする状況下では形成されず、打撃の向きには矛盾があるという。

また刃物で複数回刺したうえでヨキで1発殴ったという状況からして、殴打は「とどめの一撃」というべきもので、手加減なしに相当な力が加わるはずである。だがそれにしては骨折の程度が軽すぎるとの意見書もあった。Kの言う犯行様態にはそぐわないことになるはずだが、判決では「推認されるヨキの形状と骨折面が矛盾しない」点のみが重視された。

 

被害者着衣(背広、長袖シャツ、メリヤスシャツ)の刃物によって生じたとみられる損傷は計11か所。幅約2センチ、峰幅3~4ミリと推認されている。

Kの供述によれば、Sが車内で切り出し小刀でDさんの左脇腹を刺したのを皮切りにDさんを追いかけながら複数回刺し、さらにヨキのミネで頭部を殴りつけたとされている。

車内で至近距離から刺した際に最も深手の傷を負うと思われるが、メリヤス下着の左脇腹には切り出し小刀に該当するような切り跡はなかった。

検察側は公判で「切り出し小刀」を証拠提出したが、それはKに対する傷害で用いられた凶器であり、鑑定によりDさん殺害と同一の凶器とはいえないと確認された。Sの居宅や勤め先の工場では徹底的な捜索が繰り返されたものの、Dさん殺害に該当する凶器は発見されなかった。

しかし一審金沢地裁は、鑑定について「両事件の凶器が同一ではありえない」とするものではなく「凶器の同一性を断定することはできない」という意味だとする解釈をもって「同一のものである可能性が相当高いもの」と認定し、先の小刀を「極めて有力な物的証拠」と評価した。

鑑定人は、各分野の専門知識によって裁判官の判断能力の不足部分を補充する機能を持つ。他方で、裁判官の経験則などによる心証形成を抑制する、客観的な心証によって裁判官の主観を間接的に規制する歯止めの役割もある。

さすがに二審ではこの推定有罪ともいえる強引な「同一凶器説」は踏襲されず、原審判決における事実誤認と否定された。この段階で、Kの供述する凶器を裏付ける客観的事実は存在しないことになる。

 

暗い森

Kによれば、犯行当夜、Dさんに「福井に遊びに行こう」と言って車に乗せた。その後、「かつてSが住んでいた家に寄っていく」と言って福井とは逆方向に走行し、結局寄らずに別方向に走り、国道364号の山の一本道に入って「大便がしたいから脇道に停める」等と言い訳して犯行現場となった南又林道に進んだとされる。

温泉街を離れれば暗い夜道とはいえ、元タクシー運転手で近郊の道路事情に精通していたDさんが疑問も抱かず、黙って現場に連れていかれたという状況はどうにも解せない。

イメージ

事件当日は月齢27.3日で、犯行時刻ごろに月は出ていなかった。供述では、車内のルームランプを点けていたというが、遺棄現場は河原も川面も認識できないほどの暗闇であった。

自白では死体の隠匿について、橋から落とした後、川に入って橋の下に引きずり込み、Kがいくつか石を渡すと、Sがそれらを死体の周囲に置き、木株で覆ったという。漆黒の闇の中、川に入ってそうした作業が可能だろうか、Kの目にSの動きがつぶさに見えていたとは思えない。

また現場で被害者の靴が脱げ落ちていたため、持ち帰って片山津町の草原に棄てたと自供しているが、犯行途中の混乱と視界のない中でどうやって気づいたというのか。なぜ周囲の川や山、帰り道に棄てずに持ち帰ろうとしたのかといった点も判然としない。

 

Kによれば、車には死体を埋めるつもりでスコップも用意されていた。結局使わずに工場に戻したと供述しているが、小刀、ヨキと共にこのスコップも発見されなかった。凶器の隠匿ならいざ知らず、犯行に使用しなかった道具まで念を入れて隠匿したというのだろうか。Sの身辺でスコップが紛失したといった情報は確認されなかった。

それ以外についても、体験していない状況を想像で供述した疑いのある場面は多々見受けられ、供述全体のどれほどが想像によって補完されたものか疑いが払しょくできない。知能程度の問題で、前後関係を系統立てて説明するなど不得手なことはあったかもしれないが、それでも供述の部分部分では鮮明に説明されていたのはなぜなのか。

 

ブルーバードの血痕

犯行車両とされたSのブルーバードには、後部座席ビニールカバーの縫い目の糸に、人血の付着した痕跡が2箇所あったとされる。これが被害者のものとなれば、Kの自白を裏付ける客観的な補強証拠となりえた。

しかし極微量であったため血液型の判定まではできず、被害者との一致は特定されていない。ビニールカバーの上にはビニールマットが被せてあったが、そちらから血液反応は検出されなかった。

Kの自白によれば、ビニールマットに付着した血痕を濡れた布切れで拭いたという。しかしマット表面は突起で覆われており、布で拭くほどの出血があれば完全に拭き取りきれずに隙間に残ると考えられた。

血の付着していた箇所は、後部席右側の、座った人の膝裏が当たる付近に相当し、Kの供述で血が付いていたとする場所とは異なる。

だが一審判決では、拭き取り作業の際に布から転移した可能性も排除できないとする想定まで考慮に入れられ、だれのものともいつのものとも知れない極微量の血痕が、「Sと犯行を結び付ける有力な状況証拠」と認定された。しかしマットや他の部位から検出されていないことからも、車内で脇腹を刺した際に付着したとするのは無理筋に思われる。

上告審では、弁護側が東京慈恵医大・内藤道興助教授(当時)に検証を依頼した結果、「人血である」としていた中島鑑定の方法では人血であるとの鑑定結果を得ることは不可能だとして疑問を呈した。K供述を裏付けるかに見えた情況証拠は、証明の効力を失った。

 

裏付けなき自白は証拠価値そのものを失う。

刑事訴訟法319条第2項;被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない。

K供述には曖昧な部分やいくつもの矛盾があったが、それでも不明瞭さについては知能水準の問題として棚上げされ、充分な検討はなされなかった。しかしそんな脆弱な自白供述を抜きにすれば、Sが事件に関わった証拠は皆無と言えた。

1989年(平成元年)6月22日、最高裁第一小法廷・大内恒夫裁判長は、原審判決を破棄し、高裁での審議差戻しを命じた。

差戻し審では、岡山大・石津日出雄教授の鑑定により、マットカバー検出の血液も被害者とは異なるものであったことが判明した。

翌90年7月27日、名古屋高裁・山本卓裁判長は、SによるDさん殺しについて無罪判決を言い渡した。Kに対する殺人未遂容疑は、後に強盗致死未遂として起訴され、こちらは懲役8年と宣告されたが、未決勾留日数ですでに服役分を終えたとして放免された。

Sにとって逮捕から18年目にようやく果たされた雪冤であり、1972年に無罪確定した仁保事件以来の死刑判決差戻しでの逆転無罪となった。

 

 

所感

Kは8年の刑期を終えたが、はたして彼の単独犯行でSを首謀者に仕立て上げ、巻き添えにしただけだったのだろうか。

無論、取り調べでの警察の誘導もあったであろう。犯人しか知りえない「秘密の暴露」であるかに思われた被害者の靴の発見も当局による捏造証拠かもしれないが確認する術はない。

Kの知能程度や日常に関する資料に乏しく確証はないが、はたして彼一人で犯行が可能だったのかには大きな疑問が残る。2003年に滋賀県東近江市の湖東記念病院で起きた人工呼吸器事件で西山美香さんが犯人に担がれたように、Kもまた供述弱者であることから捜査機関に利用されたのではないかという疑念が拭えない。つまりSではないパートナー、真犯人が別にいた可能性である。

今日の厳罰化を強く求める世論において、度々誤解と偏見をもって持ち出されるのが刑法39条「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」

である。

責任能力を持たない者に対して罰しないことは近代刑法における常道とも言えるだが、残酷な結果に対するやり場のない報復感情や被害者、被害者家族への共感、全体的な重罰化の動きなどから度々議論の俎上に上がる。「知的障害者だからといって減刑されるのはおかしい」「弁護人は精神錯乱状態なら何をやっても許されると思っているのか」と人々は結果に対する不公平感を骨髄反射的に訴える。

精神鑑定ははたして刑事責任能力を問うべき事象なのかを先んじて見定める尺度にすぎない。古今東西を問わず動物を相手取った訴訟は行われているが、飼い主を振り落としてケガをさせた馬は傷害罪に問われるのか、赤ん坊を殺した野犬を絞首刑に処すべきか、と問われれば隔離や殺処分など対処する必要こそあれ、審理や刑罰には適さないように思われる。では6歳児が拳銃使用により人を射殺した場合、その責任は6歳児にあるといえるのか。10歳児ならば?

責任能力がないという限りにおいて刑事裁判では動物や子どもと同じく心神喪失心神耗弱者は許されるべき、保護されるべきと筆者は考える。無論慎重な精神鑑定は必要となるが、責任回避のために行われるものではない。たとえば飲酒運転や薬物濫用者による結果行為に対しては、自らの制御を行使しなかった「原因において自由な行為」として責任能力が争われる。

鑑定留置は、生物学的要素において犯行前の生活状態などから総合的に判定される刑事裁判にふさわしい事犯か否かの判定に過ぎない。本件で主犯とされたSさんについて刑事責任能力は認められているが、結果的には冤罪だった。刑法39条が存在しなければ、自己防衛や反証能力に乏しいSさんのごとき冤罪被害は飛躍的に増え、検挙率向上に一役買うことは容易に想像される。

冤罪事件の最大の不幸は、無実の市民や家族の人生が奪われ、その後も完全には払拭できない禍根を残すことにある。だがとりわけ殺人の公訴時効撤廃前のこうした事案では、真犯人が野放しにされることや、捜査機関に対する不信感を根付かせることも負の側面として大きい。

被害者のご冥福をお祈りいたします。

 

 

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参照

・辻脇葉子『山中事件-共犯者自白と自由心証主義-』

最高裁判例(昭和57(あ)223)・破棄差戻判決

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/260/050260_hanrei.pdf

名張毒ぶどう酒事件

事件の発生

三重県名張市の葛尾公民館の会合で振るまわれたぶどう酒を口にした参加者たちが次々に異常を訴え、女性5人がその場で死亡、12人が重軽傷を負う惨事となった。

 

凶事は1961年(昭和36年)3月28日午後8時頃、生活改善クラブ「三奈(みな)の会」の年次総会後に開かれた懇親会の席で起こった。

「三奈」の名は隣接する三重県名張市葛尾と奈良県山辺山添村の会員で構成されたことに由来する。当時は若い世代の親睦や暮らしぶりを変えようという農村活動が各地で盛んに行われ、名張駅から車で20分余の彼の地も例外ではなかった。

総会には男性13人・女性20人が参加しており、懇親会では女性たちが支度した手料理のほか、男性向けに日本酒が、女性向けにぶどう酒が用意されていた。女性参加者のうち被害を免れた3人はぶどう酒の注がれた湯のみ茶碗にまだ口を付けていなかった。

ぶどう酒を口にした女性たちの顔色はみるみる青紫に変わり、目を剝き、歯を食いしばり、口や鼻から血を出す者もあり、楽しみにされていた親睦の宴は瞬時に惨憺たる地獄絵図と化した。

現場に駆け付けた警察は女性ばかりの被害者や状況確認から、ぶどう酒に何らかの毒物が混入されたものと判断する。

 

販売した林酒店で入荷した「三線ポートワイン1.8L」の内容物をすべて確認したが、毒物混入が認められるものは一本もなかった。同製品は広く市販されていたが同様の中毒被害は報告されていないことから、製造・流通の過程ではなく購入後に毒物の混入があったものと推測される。

その後、三重県衛生研究所、三重県警鑑識課による毒物検査、医師らの診断書、三重県医大の遺体解剖により、ぶどう酒に有機リン系テップ剤が入った農薬の混入が判明する。テップ剤は加水希釈した際の分解が速く、毒性が減衰して無毒化することから毒物指定されてはいなかった。その性質から宴会の時刻に近接した時間帯に混入されたものと考えられた。

 

逮捕

名張署はぶどう酒調達の経緯を確認し、購入を決めた三奈会会長の奥西樽雄氏(以下「会長」)、酒を買い付けて会長宅まで運んだ農協職員の石原利一氏、会長宅から公民館まで運び込んだ奥西勝(当時35歳。敬称略)の3人を重要参考人として監視を付け、連日事情聴取を続けた。

死亡者には、会長の妻フミ子さん(30歳)、奥西の妻チヱ子さん(34歳)、奥西と情交関係にあった北浦ヤス子さん(36歳)も含まれていた。

事件当日、石原氏は酒を購入した後、偶々通りがかった薪炭商の神田赳さんに声を掛けて荷物の輸送車に便乗させてもらい、2.6キロ離れた会長宅へと向かった。酒は車上から会長の妻フミ子さんに手渡され、玄関の土間に置かれた。会長宅の台所では料理の支度が行われて女性たちが出入りしており、終始監視下にあった訳ではないが視界に入る位置にあった。

午後5時20分頃、会長宅を訪れた奥西によって酒は公民館へと運ばれ、「囲炉裏の間」に置かれていた。5時半頃には会場準備で人が集まっていたにもかかわらず、毒を入れる犯行場面を目撃した者はなかった。総会は午後7時頃に始まり、話がまとまると8時頃から懇親会へと移行。囲炉裏の間は総会会場となった6畳二間をつなげた広間からも見渡せる位置にあり、その間、不審な行動をとる者は確認されていなかった。

警察はその日、集落に部外者の出入りがなかったことを確認し、住民による犯行と断定。犯人特定につながる証拠を探したが、毒物混入の目撃はなく、毒薬の容器などは発見されなかった。酒瓶の「蓋」がいくつか見つかりはしたが古いものが多く、該当の蓋ははっきりしなかった。

 

逮捕直後の記者会見

奥西は当初容疑を否認していたが、厳しい追及を受けて「妻がやったと思う」などと供述。事件から5日後の4月2日に「公民館で自分が農薬ニッカリンTを入れた」と自白するに至り、翌3日に逮捕された。

逮捕後、報道陣の前で会見が行われ、やつれた顔の奥西は「自分のちょっとした気持ちからこんな大きな事件に…亡くなられた人や入院されている方、また家族のみなさんに何とお詫び申し上げてよいか分かりません」と首を垂れた。

奥西は夫と死別して後家になったヤス子さんと1年半ほど不倫関係にあり、集落内では公然の事実とされていた。それが秋ごろ、妻チヱ子さんに発覚して険悪となり、双方から関係解消を迫られた上、村の女性たちからも非難されて三角関係をさっぱり清算したかった。自分に疑いが掛かりづらくする犯跡隠滅のためにあえて集会での集団毒殺に及んだ、というのが警察の見立てた動機であった。

 

100㏄入りニッカリンTは前年8月に黒田薬品商会で購入したもので、元々の瓶は近くを流れる名張川に遺棄したと供述。持ち運びには前日つくった手製の竹筒を用い、公民館で一人になった隙を見て混入した後、囲炉裏で竹筒を燃やしたと述べた。しかし名張川で薬瓶の捜索が行われたがガラスの一片も発見されず、竹筒を燃やしたとされる囲炉裏や捨て灰からも薬剤の化学反応は検出できなかった。

洗いざらい白状したかに思われた奥西だったが、起訴直前になって「強要誘導の取り調べを受け、嘘の自白調書をつくられてしまった」と否認に転じる。獄中手記によれば、取調官から「家族の者が村落民から迫害を受けて土下座、謝罪をさせられた」と聞かされ、「家族を救うためにはお前が早く自白することより他にないのだ」と詰め寄られた旨が綴られている。

村落でそうした家族への迫害が事実行われたものか、心的な揺さぶりをかけようと取調官が作話したものかは判断付きかねる。しかし身体的拘束下で事実を確認する術もないなかそのような話を聞かされては、たとえ真犯人でなくてももはや「自白」を選択する以外に道はなかったといえる。

 

見えざる力

逮捕前、奥西と同じく重要参考人とされた三奈の会会長も警察から「お前がぶどう酒購入を決めたんだろう」と厳しい追及を受けていた。

3月26日に役員が集まって2日後の総会に向けて打ち合わせが行われたが、会長はその場にいなかった。話し合いで、折詰の準備、菓子、男性会員向けの清酒2本の購入などが決められた。だが懇親会はここ3年ばかり前から始まったもので、女性用のぶどう酒を出すか否かは資金面の不安もあったため、その点は会長の裁量に託された。事件当日となる28日、会長は勤め先である農協から公民館へ支給される助成金があることを確認し、ぶどう酒の購入を決断。部下の石原氏に清酒2本とぶどう酒1本の買い付けを命じていた。

 

翌3月29日の取り調べで会長は、懇親会に移る支度の最中に妻がぶどう酒を持ってきて「栓が堅いから抜いて」と頼まれてコルク栓を手で抜いてやったと証言している。このとき包装紙や瓶の栓や王冠もついていなかったため、先に妻が自分で開けようとしたのではないかと述べていた。

だが不思議なことに事件直後、石原氏も「着席したときに(奥西の妻)チヱ子さんが栓を抜いてと言うので瓶の栓を噛んでテコの原理で傾けたところ簡単に抜けた」と証言しており、なぜか31日に至って「(会長の妻)フミ子さんの依頼だった」と訂正している。1本しかないはずのぶどう酒の蓋を、2人の男性に2度開けさせたのだろうか。

4月1日の取り調べで「このような事件を起こすような理由があると思われる人物」の心当たりを挙げさせられた会長が第一に挙げたのは妻フミ子さんの名前であった。妻と姑は長年折り合いが悪く、フミ子さんはなじられたり手を挙げられたりしたことがきっかけで精神的に不安定になり、宗教団体に通うようになっていた。義母は会合に参加する立場にはなかったが、家名を汚す当てつけによる復讐が目的とも考えられた。

第二に、酒が飲めない訳ではないのにその日に限って口を付けていなかった女性の名を挙げ、第三に、集落内で三角関係のあった奥西勝の名を挙げた。

奥西勝の方は疑わしい人物として自身の妻の名を挙げる前に、やはり会長の妻フミ子さんを挙げていた。以前には義母(会長の実母)と喧嘩したフミ子さんが奥西の家に飛び込んできて匿ってやったことがあった。また3月23日か24日頃、フミ子さんが姑と喧嘩して「川にハマるか薬でも飲むかして死んでしまいたい、と口にしていた」と妻から伝え聞かされたという。

疑問に思われるのは、なぜ会長も奥西も死ぬ可能性のない男たちではなく、命を落とした妻の名を挙げたのか。

少なくとも奥西は86年の第5次再審請求に至っても「今も、そういうことはちょっと頭から離れません」として妻チヱ子さんへの疑いを払拭できていなかった。亡くなった妻のエプロンに小瓶と栓抜きを発見したためだと証言したが、警察は亡くなった女性たちへの捜査を充分尽くしていたのか。チヱ子さんが喧嘩の際に本件のような犯行を仄めかしていたのか、奥西の供述には推測と曖昧な記憶が入り混じっておりはっきりしたことは分からない。

 

物的証拠がほとんど出ないことから、捜査の主眼は住民証言が大きなウェイトを占めることとなる。とりわけ重要となるのは被告人以外に犯行可能な人物がいたか否かである。そんななか事件直後と4月半ば以降で、複数の重要証言が不可解な変遷を示した。

酒を販売した副野清枝と店主林局子は、3月29日から4月16日まで複数回の聴取で石原氏への販売時刻を「午後2時半から3時頃」だとしていた。しかし4月19日に至るや二人とも口を揃えて、時計を見ておらず、時刻の目安となるバスの通過を見かけてもなく、曇天で時間の観念がなかったと言い出した。「4時を過ぎていたのではないかと言われれば、或いはそうではないかと思います。一番確実に言えることは昼ごはんと晩ごはんの間ということ」と不自然なほどに曖昧な証言に改めていた。

酒を買い届けた石原氏の言い分も、4月11日までの聞き取りでは「酒を届け渡したのは2時頃もしくは2時か3時頃」としていたものを、勘違いがあったとして、21日聴取に至るや届けたのは「午後4時半から5時」と、より時間帯を限定して遅い時刻にずらしている。

会長宅で酒を受け取ったのは、会長の亡き妻フミ子さんで、そばに会長の妹・稲盛民さんがいた。民さんは元々離れて暮らしていたが、出産を控えて義母・稲盛ゆうさんに送られてこの日会長宅を訪れていた。二人はゆうさんをバス停まで見送るため、午後4時から5時10分頃まで約1時間余は家を空けており、見送り先の三重交通上野営業所に対しても3人の行動確認が取られている。

つまり酒の受け取りは、フミ子さんたちが外出した午後4時より前か、見送りから戻った5時10分より後ということになるが、検察側は後者を採用し、会長宅に運ばれてからほとんど間を置かずに奥西が公民館へ運んだというスケジュールが組み立てられた。

 

住民たちの時刻に関する不自然な変遷には、会長宅から公民館に運ぶまでのタイムラグはほとんどなかった、奥西以外に犯行の機会がなかったことを示そうという「見えざる力」が住民たちに働いたとしか考えられない。それが捜査当局による誘導だったのか、あるいは奥西が犯人でなくてはならないと考える人物による圧力か、ともすればその両方だったのかは分からない。しかし住民証言の変遷の一致は単なる誤認や記憶違いではなく、何らかの意図によって誘導され、口裏を合わせているように思われた。

 

逮捕後間もない4月9日の奥西の調書を一部抜粋する。

被告人36・4・9司
問、あなたは、ぶどう酒にニッカリンの液を入れることを決意したのは何時ですか。
答、三月二八日午後五時週ぎ私方隣りの奥西楢雄さんの家に行った時、表出入口の入った直ぐ左側の小縁に酒二升とともにぶどう酒が置いてあり、今夜の総会に飲むぶどう酒であることを坂峰富子さんから聞かされた時でありました。(中略)私がニッカリンをぶどう酒に入れることを決意したのは先刻申しました通り楢雄さんの家に行って、今夜の総会に飲むぶどう酒であることを坂峰富子さんから聞いた時であります。時間は午後五時一〇分から二〇分までの間でありました。確かな時間は時計を見ておりませんので判りませんが、仕事を済まして家に帰ったのが午後四時四〇分頃でした。それから直ぐ、牛の運動をさせておりました。この時間が二〇分か二五分位であったと思います。それから直ぐ作業服を脱いでジャンパーに着替え、出て来たのでありますから、時間は、大体申し上げた時刻になると思います。それから酒とぶどう酒を持って寺(会場)に行き、直ぐ後から来た坂峰富子さんが机を並べて会場の準備をしてから出て行きましたので、そこで私が一人となったので、用意して来たニッカリンを竹筒からぶどう酒に入れたのですが、この時間が午後五時二〇分頃から三〇分頃までの問であったと思います。

前述のように、ぶどう酒の購入決定は、28日の午前中に会長が農協で予算の確認をするまで為されていなかった。にも拘らず、奥西の証言では、なぜかその機会を見越してニッカリンTを前夜に拵えた竹筒に入れて携えており、いつ会員が入ってくるかも分からない準備中の僅かな隙をついて混入したことになっている。

 

三角関係と事前準備

奥西はヤス子さんと前年秋頃からの情交関係を認めたが、はたして三人の関係は実際に人殺しへ、それも無関係な村の女性たちを巻き添えにしてまでも果たされねばならないようなところまで追いつめられていたものだったのか。

奥西は農業の傍ら、日銭を得るためにチヱ子さんと富士建設片平採石場で砕石仕事に従事していた。それも現場へはヤス子さんと三人一緒に通っており、仲間内の飲み会では奥西とヤス子さんが同じ酒を間接キスのように飲み継いだことからチヱ子さんが憤慨したこともあったという。村民たちは家族同然の身近な付き合いで、ヤス子さんとチヱ子さんも毎日のように顔を合わせており、あくまで仮定の話だが、いざとなれば互いに相手を殺害する機会はあったものと想像できる。

では警察・検察側の見立て通り、奥西が三角関係の清算をすると共に疑いの目を逸らすために周囲の女性たちをも手に掛けたというのだろうか。妻か愛人かいずれかを連れ立って村を離れるなど、いくらでも他に手立てがあったのではないか。

 

被害者のひとり福岡二三子さんは、事件前のチヱ子さんの様子について次のように供述している。

チヱ子さんは「うちの父ちゃんがストッキングとコンパクトを買って来てくれた。」と言っていました。それが三月一五日に勝さんら男の役員が名古屋に行ったのですが、そのみやげだったとの事でした。私は勝さんがチヱ子さんをいじめていると思っていたら三月頃にはチエ子さんにコンパクト等を買って来たというのですから勝さんもいいところがあるのだと思った。三月一七日に有馬温泉に行きましたがその途中チヱ子さんの話では小遣銭五〇〇円を勝さんがくれたとのことであり、「勝さんに何か買って帰らなければ」と言っており有馬で三〇〇円のタバコケースを買って帰えられました。こんな訳で先月頃はチエ子さんも勝さんとヤス子さんのことについては悩んでいた模様は見受けられません。

奥西は一方の北浦ヤス子さんにはこけし人形一個を名古屋土産として与えていた。3月18日頃にも名張市内の洋傘店で婦人用洋傘2本を購入し、チヱ子さんとヤス子さんにそれぞれ一本を与えている。10日後に惨劇を繰り広げる人物にしては悠長に過ぎ、追い詰められている様子は皆目見られないのである。白沢今朝造さんは、奥西がチヱ子さん、ヤス子さんらに「四月二日に赤目に一緒に行こう」と話していたことを証言している。

 

事件前夜に奥西は薬剤を持ち込むための竹筒を準備していたと自白している。

3月27日夜7時過ぎ、一回り以上年下の山田清・治兄弟が奥西家を訪れていた。父親が石切り場の石工をしていた縁から兄弟は奥西夫婦のことを兄貴・姉さんと呼んで慕い、普段から風呂を借りたりテレビを見させてもらいに遊びに来る親しい間柄であった。奥西が夕飯の最中に風呂を借り、その後も8時過ぎまでテレビを見ていたが、奥西の自白に兄弟が準備の妨げになった旨は出てこない。

自白では風呂場の焚口の前で立ったままで直径ニセンチ位、長さ六センチ位の竹筒中にニッカリンを移し入れたとなっている。地裁は自白にある同じ条件のもとでニッカリン一〇〇CC入り瓶から女竹筒に水を移し入れる実験を試みたが、焚口の前は暗く、手さぐりで移し入れはしたものの溢れ出てしまい、「竹筒の三分の二まで」で注入を止める加減をすることはできなかった。

しかし高裁は、被告は山田兄弟の来訪を別の日と勘違いしていた供述に着目し、来訪が準備作業に特段支障がなかったものと判断。また地裁に提出された検証では前提に誤りがあった、実際には電灯が点いており移し替え作業は不可能とはいえないとして、被告人に事前準備は可能だったと認定した。

 

逆転死刑

1964年12月23日、津地方裁判所・小川潤裁判長は、検察側の自白誘導があったと指摘し、自白と前後して住民側の証言する時刻が変遷しているのは不自然で捜査当局による示唆誘導があったと判断。「時刻の訂正は検察官の並々ならぬ努力の所産と容易に読み取ることができる」と厳しく非難し、奥西以外にも会長宅で毒物を入れることは不可能ではなかった、被告のみ犯行が可能だったとするのは誤りだとして、無罪判決を言い渡した。

 

「犯行間際」の目撃証言者となった坂峰富子さんは5時の時報を聞いてから会場準備のために会長宅へと向かった。だが会長宅から100メートル程手前の倉庫前で知人に呼び止められ、5時12~13分までその場にとどまっていた。石原氏が同乗させてもらった神田氏は酒を渡した直後にすぐ近くの家で荷降ろしをしたと証言しており、検察が主張するように5時10分頃に酒の受け渡しがあったとすれば、4人は重なり合うタイミングがあったはずだがそうした証言はしていない。地裁は検察側の「5時10分受け渡し」説を論理的に打破し、午後4時前に会長宅に運ばれたものとして他の人間にも混入可能であったことを証明した。

判決後、記者団から無実であれば逮捕後になぜあのような謝罪会見をしたのかと質問された奥西は「(事件を)やったやったと言われるけど事実ではないから自分としては(会見で)どう言えばいいやら分からんと言ったら、辻警部補が『こういうことを言え』と下書きをこしらえて半時間ぐらい“勉強”させられた。(逮捕会見で)言うたことは自分の意志ではないということです」と虚偽の謝罪であったことを明らかにした。

 

ところが1969年9月10日、名古屋高等裁判所・上田孝造裁判長は原判決を破棄し、死刑判決を下す。一審判決から一転して、自白強要を疑う理由が微塵もなく、住民証言における時刻の変遷をたどれば理路整然としていると判断する。

奥西が酒を携えて公民館へと向かう際、前述の坂峰富子さんが一足遅れでついていった。検察側は、4月7日の富子さんの検面調書にある、午後5時20分前後に「囲炉裏の間には奥西一人しかいなかった」ことを犯行機会の根拠とした。彼女が公民館と会長宅との往復に要した「空白の10分間」で奥西が毒物を混入した、それ以外に犯行可能なタイミングはなかったと主張していた。

坂峰富子36・4・7検

フミ子さんが「そこにある酒を持って行って」と言いましたので勝さんがそこに置いてあった酒二本ぶどう酒一本を三本とも自分一人でかかえて奥西さんの家を出て……私より二、三歩先きにさっさと行ってしまいました。……勝さんが二、三歩先きに奥西楢雄さんの家を出た時間は五時一五分頃だと思いますが私が勝さんにつづいて楢雄さんの家を出ましたら井岡百合子さんに会いました。……私が勝さんより四五秒くらい遅れて公民館についたことになる。

 奥西楢雄さんの家を出て(雑巾と竹柴を持って)公民館の方へ歩いてきました。ちょうど私が宮坂さんの家の前あたりまで来た時、石原房子さんが「遅うなってすみません」と肩越しに声をかけてきました。その時石原さんは「五時二〇分で二〇分超過やな」と言っていたので私はその会ったときに五時二〇分かと思いましたが後からよく石原さんに聞いてみますと自分の家で時計を見ていて五時二〇分になったから家を出てそこへやってきたということですから五時二五分から三〇分頃というのが本当の時間ではないかと思います。そしてそれから間もなく石原さんと一緒に公民館につきその中に入りますと勝一人が前と同じ場所にぶどう酒と酒の瓶を置いたまま自分も同じ場所にあぐらをかいたまま何もしないで囲炉裏のそばに坐っていました。

検察側が提示した数少ない物証のひとつとして火鉢から見つかった「四つ足替え栓」があったが、顕微鏡による形相鑑定によれば、栓の表面についた傷が自白を検証した際に奥西が歯でこじ開けた傷と一致すると認定された(松倉鑑定)。本来、歯の噛み痕による鑑定に個人特定の推認力は認められていない。そうした覆すことが難しい曖昧な証拠を捻り出すところにも捜査機関の拠り所のなさが表れている。

だが判決文では、同一視できる条痕が認められなかったからといって直ちに被告人の歯牙による痕跡ではないと断定するのは拙速などとして証拠性の否認を避けている。

 

1972年6月15日、最高裁判所・岩田誠裁判長は弁護側の上告を棄却。死刑判決が確定する。

その後、弁護費用を工面できなかった奥西は、拘置所から自力で四度の再審請求を行おうと試みるも再審理の要件となる新証拠が得られず、すべて却下された。

 

97年10月から日弁連の再審支援が決定し、改めて弁護団が立ち上げられた。第5次再審請求では弁護団が松倉鑑定に対して、そもそもの顕微鏡の倍率が異なる捏造写真を用いていることを明らかにし、傷を三次元解析した土生(はぶ)鑑定で両者の傷は全く一致していないとの分析結果を導き出した。

しかし最高裁・大野正男裁判長は「松倉鑑定は新証拠によってその証明力が減殺されたが、犯行の機会に関する状況証拠と信用性の高い自白を総合すれば、有罪認定に合理的な疑いが生ずる余地はない」として特別抗告を棄却する。

 

第6次再審請求審では、捜査を指揮した名張警察署長のノートを新証拠として提出。

事件当初、坂峰富子さんは新聞記者に対して別の証言を行っていた。ぶどう酒を横に置いた奥西は囲炉裏に火を点けて石原房子さんと話し出し、富子さんは会長宅に雑巾を取りに戻り、再び公民館へ戻ったときには他の女性たちも来ていたと記事にはある。

署長の遺した捜査ノートにも、事件3、4日後の富子さんの証言として「雑巾をもって会場に行ったら勝は房子さんといろりで向き合って坐っていた」と記事に合致する内容が記されている。すなわち彼女の証言も事件から日が経って「奥西だけが公民館に一人でいた」旨にすり替わったことを裏付けている。検察側が「空白の10分」の拠り所とした富子さんにも「見えざる力」が働いていたのである。奥西はそれまでの公判でも終始一貫して公民館で一人きりになったことはなかったと主張し続けていた。

房子さんはといえば、囲炉裏の間から玄関先、公民館の周囲を箒で掃いていたと言い、その間、奥西は囲炉裏番をしながら炭火を5、6個の火鉢に火分けしていたと言う。そのとき「わしは今日会長に立候補したからお前らにぶどう酒を奢ったんやで」と奥西が冗談めかしくぶどう酒の瓶を見せつけた旨を話している。これから毒物を混入しよう、目の前の女たちを殺してしまおうという人物が為せる業であろうか。

 

今日の裁判員裁判においては証拠開示の法整備が進んだが、再審請求審において証拠開示のルールはなく、検察側がどんな証拠を揃えているかは公開されていない。裁判所側は職権で証拠の開示を勧告することができるが、検察側には開示に応じる法的義務はない。証拠が開示されるか否かは、裁判所や検察側の裁量に任されているのが現状である。

 

現在地

事件から7回忌に当たる年、地区の共同墓地に犠牲者の慰霊塔が建立された。5人の名は刻まれず「不慮災厄五尊霊」と記されている。葛尾公民館は八柱神社の上にあったが、当時の建物は1987年に取り壊されて別の場所に移築され、旧公民館跡地はゲートボール場になった。

事件当時、110人だった葛尾地区の人口は、流出や後継者不足によって30名程にまで減少している。事件当事者もほとんどが亡くなり、検察側、裁判所側の「時間切れ」を画策するかのような持久戦は今日の「審理の迅速化」方針からすれば著しく逆行している。

 

2005年4月、第7次再審請求に対し、名古屋高裁・小出錞一裁判長により再審開始が決定された。

「悲願でした。本当にうれしいです。ここに来てから一番うれしい日です」「命の限り頑張ります」そのとき奥西勝、79歳。視力は衰え、開始決定の文書を自分で読むこともできなくなっていた。

弁護側は、生産中止により長年入手できなかった農薬「ニッカリンT」の現物をインターネットで募って入手することに成功し、赤色着色料が含まれていることを確認した。事件から40年以上が経っていたが、情報技術の進歩によって新たに「証拠」の尻尾を掴むことができたのである。

食事会で振舞われたぶどう酒は前年、前々年とも赤ぶどう酒であったが、事件で用いられたぶどう酒は白だった。「ニッカリンT」を入れれば異物混入は一目瞭然である。もし自白通りに奥西が犯行を企てていたとしても、白ぶどう酒の現物を前にすればさすがに思いとどまるに違いなかった。また当時の成分分析を再現した結果、実際に使用された農薬は「Sテップ」である可能性が高いと主張した。

しかし、検察側はこの決定に異議申し立てを行い、2006年12月、名古屋高裁・門野博裁判長は再審開始の原決定を取り消し。最高裁を行きつ戻りつした挙句、2013年10月、最高裁桜井龍子裁判長は弁護側の特別抗告を棄却。開かずの扉にようやく手が掛かったかに見えた第7次再審請求の棄却が確定した。

尚、再審開始決定を出した小出裁判長は2006年2月末で依願退職。取り消し決定を出した門野裁判長は東京高裁の裁判長に栄転している。裁判所という組織における再審開始のタブー、そのおぞましいヒエラルキーが垣間見える。

 

奥西は肺炎をこじらせて八王子医療刑務所に収容されていたが、2015年10月4日、89歳で息を引き取った。奥西の再審申し立ての意志は妹の岡美代子さんに引き継がれ、現在も再審開始と雪冤に向けた取り組みが続けられている。尚、産経新聞の2021年の記事によれば、再審請求の意志をもつ岡さん以外の親族はいないとされる。

第10次再審請求では、検察側証拠のひとつでぶどう酒の王冠を覆っていた「封緘紙」の再鑑定を行い、2020年10月、製造段階で用いられる業務用の糊とは異なる、市販の合成樹脂製の糊の成分があったとする新証拠を提出。真犯人が毒物混入後に貼り直して偽装工作した可能性が考えられ、公民館での奥西の実行は不可能だったという裏付けになる。

だが2022年3月、名古屋高裁・鹿野伸二裁判長は、封緘紙の再鑑定結果は「科学的根拠を有する合理的なものとは言えない」とし、「封緘紙が巻いてあった」としていた村人3人の供述調書を「一般的に関心を持って観察する対象ではない」として却下。再審開始を認めなかった。

 

筆者の真犯人に関する見解としては、毒物を以てして若い女性をまとめて手に掛けるという仕業からすれば、三奈の会に参加していなかった人物が会長宅で毒物を混入したものと考えている。男性であれば腕力を行使する可能性が高く、それも会員でないとすれば比較的高齢女性と見てよいのではないか。全員への殺意はなく、参加女性数名への害心から食中毒程度の騒ぎを狙ったつもりだったのかもしれない。なぜ狭い村社会で捜査の手が及ばなかったのかは諸兄の想像に頼るほかない。

 

ときに自白を偏重し、ときに供述調書を認めようとしない裁判官の自由心証主義は審理が長引けば長引くほどにその危うさを露呈している。自白の強要や証拠隠し、証拠捏造などもってのほかだが、一般の社会通念さえ認めない独特の倫理観、自らの襟を正そうとしない裁判所の姿勢はいつまで固持されるのか。今を生きる国民には事件の風化を阻止することと共に、冤罪被害者を速やかに救済する再審法の見直しが託されている。

 

犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

 

 

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/086/080086_hanrei.pdf

名古屋高等裁判所 昭和40年(う)78号 判決 - 大判例

日野町酒店経営女性強盗殺人事件・日野町事件

犯行の動機、目的がはっきりせず迷宮入りが危ぶまれた酒店店主殺しで、3年後、常連客のひとりが逮捕された。事件発生から38年、確定判決から28年が経過した現在も元受刑者の雪冤を果たすべく遺族による死後再審請求が続けられている。

 

事件の概要

1985年1月18日、滋賀県蒲生郡日野町の椿野台団地造成地の草むらで高齢女性の遺体が発見された。女性は前月の84年12月から行方が分からなくなっていた同町豊田の自宅兼店舗で「ホームラン酒店」を営んでいた池元はつさん(69歳)と判明。

はつさんは12月28日夜まで平常通り酒店を営業していたが、翌29日朝10時半には所在が分からなくなっており、親類や地区の隣組などで捜索活動を行っていた。自宅から発見場所まで約8キロ離れており、遺体には首をひもで絞められたような痕跡があった。

 

酒店では土間に椅子を並べて量り売りでコップ酒を販売提供していたことから、飲み屋のように通う常連の「壺入り客」も多く、28日は午後7時半の客が最後とみられた。店ははつさん一人で切り盛りしており、室内からは住居奥の10畳間の押し入れに保管されていたベージュ色の手提げ金庫が紛失していた。

 

滋賀医大・龍野嘉紹教授の解剖により、舌骨の骨折などから死因は手指による頸部圧迫に基づく窒息死とされた。近隣住民の証言や食後30分前後とみられる消化状態から、死亡時刻は28日夜8時40分頃と推定された。

 

85年4月28日になって日野町石原の山林で山菜採りに訪れた住民が破壊された手提げ金庫を発見。

警察は被害者宅から犯人が奪ったものとみて強盗殺人事件と断定し、店の内情に詳しい地元民や出入り関係者らを中心に捜査を進めたが、犯人に結び付く物証などの有力な手掛かりは見つからなかった。

 

県警の焦り

警察は是が非でも犯人検挙を果たさねばならない事情があった。

地元署では以前から頭部切断死体遺棄事件が未解決のままとなっていた。

更に、その当時はグリコ・森永事件が国民から大きな注目を集めており、とりわけ滋賀県警は世論だけでなく警察組織全体から批判の槍玉にあげられていた。

 

グリコ・森永事件は84~85年にかけて、江崎グリコ社長の誘拐や青酸入り菓子を撒くなどして大手食品メーカー各社を立て続けに脅迫した未解決事件である。

1984年11月、犯人グループはハウス食品に対して現金1億円の引き渡しを要求。14日夜に受け渡しが行われることとなり、大阪・京都府警の合同捜査本部は近郊に多数の捜査員を配備して警戒に当たらせ、グループの摘発を期して現場に来る実行犯への尾行・接触はしないよう厳命していた。

当初は現金引き渡し場所として京都市内のレストランを指定した犯人は指定場所を次々と変え、名神高速道路の滋賀県・大津サービスエリア、草津パーキングエリアへと現金輸送車を東進させた。その間も以前から犯人グループのひとりと目された「キツネ目の男」の目撃が付近から報告されていた。

捜査本部は滋賀県警にも共助要請したが、名神高速道路エリア内は大阪府警が担当すると指示があり、犯人への接触を禁じていた。犯人側は、草津PAから名古屋方面に向かい、「白い布」が見えたらその下の缶に入れた指示書に従うよう指示。草津PAから東方約5キロ地点の防護フェンスに布があったものの、缶や指示書は発見できず。名神高速と交差する県道を一時封鎖したが犯人の姿はなく、その日の合同捜査は打ち切られた。

一方、事件捜査を聞かされていなかった所轄の滋賀県警外勤署員が「白い布」地点に近い栗東町川辺の県道近くで無灯火の不審な白色のライトバンを確認。パトカーを横付けして職務質問のため署員が近寄ると、ライトバンは急発進して逃走。その後、乗り捨てられているのが発見され、無線傍受装置から犯人グループの車両と思われた。

犯人の取り逃しやその行動が捜査本部の作戦を台無しにしたなど滋賀県警に対する批判が起こり、当該の警官は辞職を余儀なくされた。犯人側から各社への脅迫はその後も続いたが、このときが犯行グループとの最大の接点とされた。

翌85年8月7日には滋賀県警本部長・山本昌二が退職の当日に公舎の庭で焼身自殺を遂げる。遺書はないが犯人取り逃がしの失態を苦にしたものと見られている。マスコミや国民による非難の声も大きかったが、立場上、警察組織内部からの責任追及も苛烈を極めたことと想像される。

8月12日、犯人側から「くいもんの会社 いびるの もお やめや」との声明文が送り付けられ、一連の事件は終息。「しが県警の 山もと 死によった しがには ナカマもアジトも あらへんのに あほやな」「たたきあげの 山もと 男らしうに 死によった さかいに わしら こおでん やることに した」というのが終結の理由として記されていた。

 

悪名を馳せることとなった滋賀県警としてはもはや失態は許されず、必ずや名誉を挽回せねばならない立場にあったが、本件でも早期決着とはいかず、事件1年後には地元紙に「迷宮入りか」の文字が躍ることとなる。

 

3年越しの逮捕

事件から3年余が過ぎた1988年3月、日野署は酒店の壺入り客のひとりだった阪原弘(ひろむ・当時53歳)への聴取を再開。取り調べ3日目に「酒代ほしさに殺した」と男は自白を開始し、3月12日、強盗殺人容疑で逮捕され、大津地検へ送検された。

 

阪原は85年9月17日の段階で任意聴取を受けていたが、本人は関与を全面否定、妻のつや子さんも「(夫は)事件当夜、知人宅に泊まりに行っていた」と供述。指紋採取やポリグラフ検査まで行われたが、そのときはシロと判断されていた。

この任意聴取も「失踪時の捜索活動や後の葬儀に出席していなかった」という論拠で嫌疑をかけられたもので、逆説的にそれだけ決め手に欠ける警察側の苦境をも意味した。被害者とは隣組も別であり、日頃から親しくしてはいたが周辺住民全員が捜し回ったり葬儀に参列していた訳でもなく、疑惑の根拠としては薄弱すぎるものであった。

だが86年3月に着任した捜査主任官は改めて阪原への身辺調査を進め、被害者の着衣から採取された微物と阪原の職場の作業服に付着していた鉄粒が一致するとの検査結果を得て、88年の本格的な取り調べに至った。

 

しかしそもそも「酒代ほしさ」という動機には矛盾があった。阪原家では子どもたちもすでに自立して夫婦も共働きに出ており、合わせて2千数百万円にもなる充分な蓄えがあった。事件当時は娘たちの結婚も間近に控え、家族は満ち足りた生活を送っていた。

否認を続けた阪原に対して、取調官3人は首根っこを掴んだり椅子ごと蹴り飛ばしたり、先のとがった鉛筆の束で頭を刺すといった暴行を繰り返し、家族への脅迫と取れる発言で精神的に追い詰めていった。否認しても取調官は納得しない、抵抗を続ければ罪が重くされるのではないか、と阪原は弱気になり、とうとう自分がやりましたと口にすると、3人はにやりと笑みをこぼしたという。

逮捕後、阪原の長女・美和子さんは自分はやっていない、お前達だけでも信じてほしいと嘆く父親に「やってもいないのにどうして自白なんかしたんよ」と叱責した。阪原は「お前たちのためなんや」「どんなに叩かれても蹴られても怒鳴られても我慢は出来た。でも刑事から『(娘の)嫁ぎ先に行ってガタガタにしたろうか』と言われて我慢できんかった」と涙ながらに語った。こどもたちは、お父さんは自分がどうなっても構わないと言うが「私たちが殺人犯の子や孫にされていいのか」と阪原の過ちを責め、そこで阪原も取り返しのつかないことをしたとようやく我に返った。

 

3月21日、金庫が発見された石原山での引当捜査が行われ、阪原は送電用の鉄塔から約50メートル離れた発見地点の傾斜地まで捜査員たちを案内した。29日の死体の見つかった宅地造成地での引当捜査でも現場へと先導し、後の公判では犯人しか知りえない「秘密の暴露」とみなされることとなった。

4月2日、強盗殺人罪で起訴。

 

無期懲役

1985年5月17日、大津地方裁判所で第一回公判が開始。

検察側は決定的な証拠はなかったものの、情況証拠を積み重ねて犯行を立証、弁護側は自白の信用性・任意性を争点とし、客観的事実との食い違いを追及し、その審理は7年半に及んだ。

被告人が全面的に否認した公訴事実は次のようなものである。

12月28日夜8時40分頃、店内の土間にいた被告人は、部屋続きの6畳間で帳面を付けていた被害者の右背後に回り込んで前後から両手で首を絞めつけて殺害。9時ごろ、死体を軽トラックの荷台に載せて運び、町内の宅地造成地に遺棄した。

再び店に戻ると金庫を奪い、ひと気のない山林でホイルレンチを用いて無理やりこじ開け、中にあった現金約5万円を奪ったというもの。

自宅兼店舗の略図。
犯人はなぜか10畳間押し入れの手提げ金庫だけを奪った

阪原の自白証言を見ていくと多くの矛盾があった。

使用された車両は2サイクルエンジンの軽トラックで、遺体を積む際に店の前の坂道をバックで上ってきたとされる。夜の閑静な住宅地ではそのエンジン音が大きく響き渡る。

まして向かいの住人女性は「事件当夜の8時過ぎ、被害者がだれかと話している声が聞こえた」と証言。相手の声は聞かれず電話か客人か、会話の全容などは分からなかったものの、周囲の静けさや家屋の遮音性が低かった状況を示す一方、異常な物音や悲鳴などは聞かれていなかった。同じ家に住む男性も軽トラの音は耳にしなかったという。

 

また酒店から遺棄現場までのルートも不可解なもので、犯行時刻でも車通りのある「日野ギンザ」と呼ばれる市街地を通過したとされている。軽トラックの荷台では腰ほどの高さしかなく、通りには街灯も多い。目隠しで覆わなければ通行人や後方車からでも目に付きやすく、バスなどが横切れば車内からでも丸見えの状態である。更には土地鑑のある者ならば避けるであろう警察署の目の前を通過するという道順を示していた。

 

奪ったとされるベージュ色の手提げ金庫は奥の10畳間の押し入れにあったもので、店の客がその所在を知っていたとは考えにくい。また店のレジ(現金約3000円)、店舗部分とつながる6畳間には売上げ管理用の緑色の手提げ金庫(現金約3000円)、東の6畳間には家具に模した据え置き型の金庫(現金約29万円)があったが、いずれも中の現金は手付かずのまま残されていた。据え置き型金庫にはカギを差したままの状態で、被害者が使ってそのままの状態にしていたものと思われる。

検察側は帳簿整理のためにベージュ色の手提げ金庫も6畳間に持ち出していたと推測したが、親族によれば被害者の亡き夫が収集していた古銭や記念硬貨などの遺品が入っていたと見られている。目の前のレジなどの金には手を付けず、東の6畳間の金庫には気づかないという不可解な物盗りで、酒代ほしさに売上金を狙ったという自白とは噛みあわない。

山で見つかったベージュ色の手提げ金庫には、上蓋に幅15ミリ、深さ2.5ミリの凹み傷が確認されていた。自白によれば、ホイルレンチを用いて上蓋部分を支点にてこの原理でカギを破壊してこじ開けたとされている。だが自白に基づく再現実験では取手部分が破損するだけで解錠させることはできなかった。何か別の器具を用いたとも考えられるが、そもそも犯人が付けた傷とも断定できない。

 

検察側は情況証拠として、酒店から直近の交差点で夜7時45分前後に被告人の歩く姿と駐車された軽トラックを見かけたとする目撃証言が提出された。この証言は事件発生の4か月後に出てきたものである。

だが別の女性は、上の目撃よりも犯行時刻に近い夜8時と8時半前後に同じ交差点を往復していたが、該当するような軽トラックは停車されていなかったと断言しており、そのことは事件直後から警察には何度も伝えていたという。

 

85年の任意聴取の際に採取されていた被告人の指紋と、被害者方の机の引き出しにあった丸鏡から検出した指紋が合致し、室内を物色した間接証拠とされた。だが常識的に考えれば、素手で犯行に及んでいれば机や扉、発見された金庫などいたるところから指紋が検出されるのが自然に思われる。室内を荒探ししたというより、以前に被害者の手鏡を借りた場面の方が納得しやすいのではないか。

アリバイ証言で宿泊先となったとされる知人、酒盛りに同席したとされる人たちは、警察の聴取に対してその場に被告人はいなかったと証言。被告人は虚偽のアリバイ証言をしたとみなされ、これは有罪の心証を深めることとなった。

 

さらに検察側は審理終盤の論告求刑の直前になって予備的訴因の追加を行い、犯行日時、殺害現場の範囲を拡大し、被害品を曖昧な内容へと変更した

殺害時刻を「午後8時40分頃」から「夜8時頃から翌朝8時半までの間」と半日以上もの幅をとって延長、殺害現場は「被害者宅の店舗6畳間」から「日野町およびその周辺地域」へと拡大した。盗品被害についても金庫から奪ったとされる「5万円」はなきものとされ、10円硬貨、5銭硬貨ほか16点(時価不詳)と2000円相当の手提げ金庫そのものが被害金額とされ、裁判所は刑事訴訟法312条に則って訴因変更を全て認めた。

第三百十二条 裁判所は、検察官の請求があるときは、公訴事実の同一性を害しない限度において、起訴状に記載された訴因又は罰条の追加、撤回又は変更を許さなければならない。

② 裁判所は、審理の経過に鑑み適当と認めるときは、訴因又は罰条を追加又は変更すべきことを命ずることができる。

③ 裁判所は、訴因又は罰条の追加、撤回又は変更があつたときは、速やかに追加、撤回又は変更された部分を被告人に通知しなければならない。

④ 裁判所は、訴因又は罰条の追加又は変更により被告人の防禦に実質的な不利益を生ずる虞があると認めるときは、被告人又は弁護人の請求により、決定で、被告人に充分な防禦の準備をさせるため必要な期間公判手続を停止しなければならない。

検察側は罪となる事実を立証しなくてはならず、証拠から特定された訴因が「公訴事実の同一性を害しない限度において」追加されることには問題はない。だが検察側が一方的に犯行可能性を抽象化することで、いつ・どこで為されたかも分からない事件裁判が罷り通ってよいものなのか。

結審後、担当陪席裁判官から弁護人に内緒で追加の指摘があったと報じられ、検察側は裁判所からの誘導の事実を認めている。それまでの訴因では自白の信用性が維持できないことを案じ、裁判官から対応策を授けたとみられている。その点でも「有罪ありきの審理」を急ぐ裁判所の姿勢が浮き彫りとなった。栃木県の今市事件・控訴審でみられた後出しの訴因変更とよく似通った手口である。

弁護側は、ひとつの裁判でふたつの訴訟を防御させられるに等しく、訴因変更が本来とは異なる検察側の「逃げ道」に用いられている現状がある。時代劇の悪代官と奉行所のごとき腐敗、検察と裁判所の構造的癒着など言語道断である。

阪原の次女・則子さんは、裁判官は父が無実と分かってくれるはずだと信じてきたが、訴因変更の誘導記事を見て、「(裁判所と検察は)グルなんやなって。こんなんで無罪なんかありえへんわなって」「真犯人を連れて行っても『それでも阪原広が犯人や』って言われるんじゃないかっていうくらいひどい判決」とその実態に失望したという。

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1995年6月30日、大津地裁(中川隆司裁判長)は無期懲役判決を下す。

微物鑑定の結果については犯人との結びつきは不明と判断するほかなく証拠価値はないとし、自白については事実認定ができるほど信用性が高いとは言えないと判断。

また発見された金庫が犯人の手でこじ開けられたとすると犯行前に施錠されたままだったということになる。出納管理などの際に6畳間に持ち出されていたとすれば開いていなければおかしいと疑問も呈している。しかし客観的事実との食い違いに気づきながらも、判決はホイルレンチでの破壊という検察側のストーリーを事実と認定。

「目撃情報」「丸鏡の指紋」「引当捜査での現場指示」「捜索活動や葬儀への不参加」「虚偽のアリバイ供述」といった情況証拠のみで被告人が犯人であることに矛盾はないと認定した。

 

二審・大阪高裁(田崎文夫裁判長)は、一審とは逆に、それぞれの情況証拠は被告人と犯行を結び付けるものではないと判断しながら、自白について一部疑問は残るが根幹部分は十分信用できるとした。アリバイの虚偽性などと併せて判断すればその犯人性は揺るがないとして、1997年5月30日、控訴を棄却。

2000年9月27日、最高裁判所第三小法廷は上告を棄却。

10月13日に弁護側の異議申し立てを棄却し、無期懲役が確定した。

 

受刑者となった阪原は翌2001年に剖検記録等の証拠保全を請求。自白の殺害方法と客観的事実が異なること、丸鏡の指紋、金庫の傷、遺体の手首結束などの鑑定、知人宅で寝込んでいたと証言する知人の証言テープなどを加えて新証拠とした再審請求を11月に行った。翌年には日弁連などの支援を得、阪原の家族らは地元で冤罪への理解を懸命に呼びかけている。

新証拠の中でもとりわけ殺害方法に関する鑑定は、自白供述の根幹部分の信頼を覆すものと期待されている。被害者の首にはひもで絞めた痕があり、顔と首に指でできたような痕が残されていた。当時の解剖所見では「扼殺」とされ、自白は右後方から両手で前後から挟み込むようにして絞めた後、念のために背後から紐でもう一度締め直したものとされていた。

だが大阪府監察医事務所・河野朗久医師は窒息にひもを用いた「絞殺」の可能性が高いと指摘し、輪っか状にしたひもを頭上から通して首元で締め上げたことが窺われ、指の跡は犯人が締め付けた痕ではなく被害者がひもを斥けようと抵抗してできた、いわゆる「吉川線」だという。

 

さらに証拠開示を追及した結果、警察から検察側へ送致した証拠目録一覧表を獲得。これはその後の開示請求に役立っただけでなく、速やかな公判前整理手続きを促す証拠一覧開示制度の法改正へとつながった。

刑訴法316条の14第2項

証人、鑑定人、通訳人又は翻訳人 その氏名及び住居を知る機会を与え、かつ、その者の供述録取書等のうち、その者が公判期日において供述すると思料する内容が明らかになるもの(当該供述録取書等が存在しないとき、又はこれを閲覧させることが相当でないと認めるときにあっては、その者が公判期日において供述すると思料する内容の要旨を記載した書面)を閲覧する機会(弁護人に対しては、閲覧し、かつ、謄写する機会)を与えること。

2006年3月27日、大津地裁(長井秀典裁判長)は阪原の再審請求を棄却した。

弁護側の主張する数々の自白の矛盾を認めながらも、犯行形態など客観的証拠との食いちがいは記憶違いに基づくものと説明可能とし、知人によるアリバイ証言についても事件発生から時間経過があるため信用性に疑問があるとして認めなかった。

徳島ラジオ商殺し事件で再審開始決定を出した元裁判官の秋山賢三弁護士は、脆弱な情況証拠、曖昧な自白であっても検察の言うことを想像力で補おうとする「疑わしきは検察官の利益に」という慣行が裁判所には蔓延っていると指摘する。

 

弁護団は大阪高裁に即時抗告したものの、その後、体調を崩した阪原は長期入院を要し、2011年3月18日に帰らぬ人となった。享年75歳。

「学もない、法も分からない自分がどうすればいいのか分かりません」

晩年、入院先で支援者が撮影したビデオ映像には、弱々しい老父がことばを絞り出している様子が見受けられる。お人よし過ぎる性格だったという阪原を、しっかり者の妻が支えていたと語られる。取調官らはそうした性格に付け込んだのか、彼は最期まで冤罪の理不尽に苦しみ続けた。

「生きて無実を晴らしてやれなかった、助けられなかった父に許してほしい」

翌年、遺族は阪原の遺志を継ぎ、被害者がコードレスフォンを用いていたとする新証拠を加えて、第2次再審請求を申し立てた。

弁護団は自白の突き崩しを狙って金庫遺棄現場での引当捜査で撮影された際のネガの公開を請求。確定判決では元受刑囚が自発的に案内した証拠として重視されていたが、現場に向かう阪原を正面から捉えた写真があり、弁護側はそれをもって阪原が先導していた訳ではないことの証拠としたい狙いがあった。だが改めてネガで確認してみると、帰り道の阪原の写真を証拠書類では先導して案内するものと紹介していた順序を入れ替える捏造が判明。

更に状況を確認すると、現場まで数十メートルまで車で近づける小径があったにもかかわらず、阪原は400メートル余り手前で車を離れ、獣道のような斜面を右往左往、登り下りしながら鉄塔までたどり着き、更に50メートル以上下った松の木の根元に遺棄したと説明したされる。殺害から時間も経った明け方近くとされているが、極寒の中、どうして金庫を捨てるためにそんな場所まで立ち入ったと言えるだろうか。鉄塔の目印や、腰ひもをもった捜査官の指示誘導などでの案内が疑われている。

この疑惑から弁護団、裁判所は更なる証拠開示を検察側に求めることとなった。

また2012年9月には弁護団が求めていた裁判官による非公式の現場視察が実現した。

2018年7月11日、大津地裁(今井輝幸裁判長)は再審開始を決定。

地裁は、事実認定の根幹とされたた自白における殺害様態、死体遺棄、金庫の強取、室内物色の重要部分で信用性を認めることはできず、客観的事実とのずれは記憶の欠落では説明がつかないと判断。取り調べにおいて強要があった可能性を認め、自白の任意性を否定した。引当捜査における捜査官による場所の誘導指示については認めなかったものの、無意識的な相互作用によって案内できた可能性があるとして有罪の根拠とするには合理的な疑いがあるとした。

17日、検察は再審開始決定に対して大阪高裁に即時抗告。

これに対し、開始決定を出した裁判官3人が大阪高裁に「看過できない重大な理解不足がほぼ全体にわたって随所に見受けられる」と検察を批判する意見書を提出していたことが京都新聞の取材で分かっている。検察への反論意見書は10ページにわたり、ここまで詳述したものは異例だと言う。

 

2023年2月27日、大阪高裁(石川恭司裁判長)は再審開始を認めた大津地裁の決定を支持し、検察側の即時抗告を棄却。

3月6日、検察側は最高裁への特別抗告を行う。再審開始の可否はいまだ決していない。

 

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所感

自白が再審の争点となるのは当然の流れだが、これだけ自白を否定する客観的事実が明らかになって尚、条件付きで「自白は信用できる」と言い張ってきた裁判所は時代錯誤の自白偏重へと陥っているかに思える。

また被害者の通話記録など警察から検察へも渡っていない元受刑者の無実を示しうる証拠も埋もれていることが考えられる。警察と検察の力関係によるものなのか、集められた証拠のすべてが全て裁判で俎上に上がるということはない。

無実の人でもだれでも構わないから「犯人」を挙げてくれと国民は考えていない。取り調べでの脅迫、証拠の隠蔽、捏造、どんな手を使ってでも厳刑を与えよという近世以前に逆行する国家に権力を仮託した覚えはない。捜査員も取調官も検察官、裁判官も人はだれしも過ちを犯す可能性がある。しかし国民は結託した冤罪を望んではおらず、公正な審理と真実の先にのみ真相解明を求めているのである。

過去の数多の冤罪からそのやりくちは大きく逸脱しておらず20世紀も21世紀の今日も同じような過ちが刑事司法では常態化している。冤罪を負け戦と捉えて反省をしようとしない、法や制度設計にフィードバックされていない現状を物語っている。そうした態度は冤罪犠牲者のみならず、事件被害者にも不誠実な態度だと私は思う。

 

被害者のご冥福をお祈りいたしますとともに、阪原さんの名誉回復の実現を願います。

 

 

参考

平成24年・大津地裁・再審開始決定

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/121/088121_hanrei.pdf

令和5年・大阪高裁・抗告棄却決定

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/004/092004_hanrei.pdf

吉展ちゃん事件

1963(昭和38)年に東京都台東区で起きた男児誘拐殺人事件について記す。
前の東京オリンピックの前年、人々にとって「人攫い」といえば労働力や売春に従事させる人身売買目的が主流だった時代に起きた「身代金」目的の犯行は、その社会的影響やその後も多くの模倣犯罪を生み出したことも含めて「昭和最大の誘拐事件」といわれる。

■ 事件の発生

3月31日の夕方過ぎ、東京都台東区入谷(現松が谷)で家のすぐ隣にある入谷南公園で遊んでいた男児の行方が分からなくなった。建築業を営む村越繁雄さんの長男・吉展ちゃん(4歳)である。当初、両親は迷子と考え、下谷北署に通報した。
周辺での聞き込み捜査により、男児は公園の洗面所近くで水鉄砲をして遊んでいたとされ、その後30代の男と会話していたとの目撃情報から、誘拐の可能性もあるとして捜査本部が設置された。

男児の行方不明から2日後の4月2日17時48分、村越さんが営む工務店の従業員が電話に応対すると、男の声で「身代金50万円」を準備するよう指示される。当時の大卒国家公務員の初任給が1万7100円、2021年現在は約13倍の22万5840円であるから、単純計算すれば現在の650万円相当の額と換算される。
警察は人命救助の観点から各機関に報道自粛を要請し、吉展ちゃん解放に向けた水面下でのやりとりが続けられた。プライバシー保護や被害拡大防止のための報道協定が結ばれたのはこの事件がはじめてである。

翌3日19時15分、「こどもは帰す、現金を用意しておくように」と電話が入る。当時、日本電信電話公社は「通信の守秘義務」を理由に、警察捜査にも発信局や回線特定の「逆探知」を認めていなかった。本件を契機として同年に「逆探知」が認められることとなる。
4日、22時18分の電話では親が男児の安否確認を求め、通話の引き延ばしによって犯人の音声を録音することに成功した。この録音についても警察ではなく被害者家族が機材を用意し、自主的に行っていたものである。
その後も具体的な身代金引き渡しのやりとりを進め、6日5時30分に「上野駅前の住友銀行脇の電話ボックスに現金を持ってこい、警察へは連絡するな」と指定。しかし犯人は警察の張り込みを警戒したのか姿を見せず、吉展ちゃんの母・豊子さんは「現金は持って帰ります、また連絡ください」と書置きを残して自宅へ戻る。

7日1時25分、犯人は豊子さんに「今すぐ一人で持ってこい」と改めて受け渡しが指示される。自宅から300m程の自動車販売店・品川自動車の脇に停めてある軽三輪自動車を指定される。
豊子さんはトヨエースに乗車して自宅を離れ、すぐに目印の男児の靴を見つけて、約束の50万円入り封筒を置いた。
だがこのとき母親の出発の伝達ができておらず、捜査員5人は遅れて家の裏口から迂回して徒歩で現場に向かったため現場到着が遅れた。その僅かな時間差を突いて犯人は封筒を奪取し逃走。捜査員のひとりは受け渡し場所へ向かう途中で現場方面から歩いてくる背広姿の男とすれ違っていたが、現場に向かうことに気が急いていて職務質問の機会さえ逃していた。
手許に男児の靴だけが戻り、以来犯人からの連絡は途絶えることとなる。男児の生命にかかわる事態をおそれて本物の紙幣が用意されていたが、「追跡」までは想定していなかったのか紙幣ナンバーは確認されていなかった。
13日には原文兵警視総監がマスコミを通じて「親に返してやってほしい」と異例の犯人への呼びかけを行ったが、反応は返ってこなかった。19日、公開捜査に踏み切ったものの1万件に及ぶ情報提供が寄せられ、却って有力情報の絞り込みや裏付け捜査に多大な時間を要することとなる。
25日、下谷北署捜査本部は「犯人の声」をラジオ、テレビを通じて全国に放送。この試みも本邦初とされ、人攫いをしたうえ金まで奪った凶悪犯の「声」は人々の大きな関心を集めた。公開から正午までに220件を超す情報が寄せられたという。

■影響

早期解決が叶わず公開捜査となったことで、生還を願う人々によって情報提供を求める街頭でのビラ配りなど吉展ちゃんを探す運動が全国に広まった。一方、各地で模倣した誘拐事件が頻発したこと等から警察のあり方、捜査手法や法律について再検討を望む世論が高まりを見せた。1963年5月には国会でも議論され、翌年刑法第225条の2として、身代金目的の略取・誘拐等「近親者その他略取され又は誘拐された者の安否を憂慮する者の憂慮に乗じてその財物を交付させる目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。」の項目が追加された。
65年3月には、ボニージャックス、ザ・ピーナッツフランク永井らが所属会社の垣根を越え、事件を主題にした楽曲「かえしておくれ今すぐに」をリリースするなど、社会的影響は甚大だった。

当時の情報募集のビラ

当時は営利目的の誘拐に関する捜査のノウハウが確立されていなかった。録音機材や逆探知が導入できていなかったこと、報道協定による周知の遅れ、身代金のナンバーが控えられていなかったこと等、現代ではありえないような失態が頻発していた。

音声公開された4月25日、偶々ラジオで「犯人の声」を耳にした日本語学者の金田一春彦(当時東京外国語大学教授)がそのアクセントについて、「青」や「3番目」といった言葉のアクセント、鼻濁音の使い方などから宮城・福島・山形の「奥州南部」または茨城・栃木の出身者ではないかと何気なくつぶやいた。NHKとつながりのあった妻珠江さんがその旨をNHKに連絡してマスコミが嗅ぎつけ、翌日の朝日新聞にその推察が取り上げられた。会話内容や口調から「教養の低い人と見られる」が「高圧的な言葉遣いをしている」と指摘し、犯人像として「戦前に軍隊に籍を持ち、下士官勤めをしていた人ではないか」と述べている。
またロシア文学アイヌ学、言語学に詳しい東北大学鬼春人教授は、1963年5月11日に河北新報に「吉展ちゃん事件、犯人の声を追う―言語基層学的研究から―」を寄稿、翌64年7月には中央公論に「吉展ちゃん事件を推理する」と題した論考を展開し、録音テープに残された「犯人の声」を手掛かりに、声紋や方言などから出生地や育ちを科学的に分析し、科学捜査の手法としての声紋鑑定導入を後押しした。そのなかで福島・栃木・茨城の県境にルーツがあるとの見解を示している(1965年2月に弘文堂から『吉展ちゃん事件の犯人その科学的推理』として刊行)。また脅迫電話の主を「40~55歳くらい」と分析した。

事件当時、日本の犯罪捜査分野では声紋鑑定が導入されておらず、犯人の「声」を重視するまでに大きな後れを取った。捜査担当者は事件発生から2カ月半経った6月下旬になって科警研にテープを持ち込み、物理研究室技官鈴木隆雄氏が音声鑑定を担当することとなった。しかし音声の音響的特徴(フォルマント、ピッチ、波形)を抽出するソナグラフといった分析機器もなく、鑑定は東京外国語大学で音声学を専門とする秋山和儀教授に依頼された(科警研がソナグラフを導入し、音声鑑定の研究を開始したのは64年以降である)。

65年3月、警視庁は捜査本部を解散し、専従による特捜班を設置。暗礁に乗り上げた捜査状況を一新して見直す目論見から、昭和を代表する叩き上げの敏腕刑事として名高い平塚八兵衛氏も特捜班に名を連ねた。

■足の悪い男

小原保は福島県石川郡石川町の貧農に生まれ、11人きょうだいの10番目の子どもとして生まれた。小学4年生の頃、骨髄炎を悪化させて右足を悪くした。2度の手術と歩行訓練の甲斐あって杖なしで歩けるまでにはなったが、見た目にも湾曲して引きずるようになり、学業にも大きな後れをきたした。周囲からいじめを受け、劣等感や生活苦が発育を歪ませたのか、小学生にして盗癖が身についてしまう。
親は脚が不自由な保に手に職を付けさせようと、14歳で時計職人の許に弟子入りさせた。しかし職人の一家が疫痢にかかったため実家に戻る羽目となる。仙台の障害者職業訓練所で改めて時計修理工の課程を修了し、市内の時計店で勤めを始めたが、今度は自らが肋膜炎を患ったため再び帰省を余儀なくされた。20歳のときデパートの時計部の職にありつき2年程勤めたが、同僚女性に脚のことをからかわれて逆上し離職してしまう。
就職と失業を繰り返す流浪を続けて借金はかさみ、窃盗や横領の前科を重ねるようになった。その後、東京へと流れ着き、荒川区で小料理屋の女将と懇ろとなり同棲生活を送った。女性は10才ほど年の離れた身寄りのない元芸者だった。行き場のない足の悪い男が不憫に思われたのかもしれない。
誘拐事件発生後の1963年8月、小原は賽銭泥棒で懲役1年6か月の執行猶予付き判決を受け、同棲相手と別れた後、12月に工事現場から盗んだカメラを質入れしたことが発覚して再び逮捕。翌64年4月に懲役2年が確定し、前橋刑務所に服役した。

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誘拐事件当時、20万円程の借金があったことや脅迫電話の声質と似ていたこと等から小原は捜査リストに挙がっていた。当初の通報をしたのは4月25日に放送で「犯人の声」を聞いた小原の弟からだった。
しかし小原本人は取り調べに対して、事件発生当時の3月27日から4月3日にかけて福島県金策のために出向いていたと供述し、郷里でもそれらしい目撃証言が複数あったことからアリバイとして認められた。
小原は女に出処不明の金を預けていたが身代金の金額とは合わず、嘘発見器の判定はシロ、また不自由な脚で速やかに逃走できたのかもあやしく、脅迫電話の「声」が40~55歳代と推定された年齢に一致しないこと等から一度はシロと判断された。
だが先述の秋山鑑定では従来とは異なる「30歳前後」と推定され、事件直後の5月に文化放送記者伊藤登によるインタビュー取材で得られていた小原の録音テープと照合した結果、「よく似ている」と指摘された。

■アリバイ崩し

特捜班は改めて元時計修理工小原保を取り調べるため東京拘置所に移管させた。
小原は元同棲相手の女性に20万円を渡しており、その出処について「時計の密輸」を持ちかけてきたブローカーから横領した金だと供述した。しかし実弟から(小原が女性に金を渡した後の時期に)30万円近くの大金を所持しているのを見たとの情報が入っており、裏付け捜査の結果、身代金を奪われた7日以降の一週間で小原は計42万円近くの支出が確認される。
また確かに足に障害は残っているものの、堀を飛び越えるなどある程度は俊敏な挙動が可能だったとする情報も得られ、逃げ切ることは可能だったとみなされた。
しかし小原は横領元のブローカーの素性については黙秘しており、4月に得た大金と誘拐事件との関連を否認したまま勾留期限を迎え、身柄は前橋へと戻された。

事件当時福島にいたとするアリバイについて、事件当日となる3月31日の目撃証言をしていたのは雑貨商の老婆だった。老婆が30日に親戚男性から「藁ボッチ(作物や樹木の防寒に被せる藁)で野宿していた男を追い払った」と聞かされており、「その翌日」に足の不自由な男が橋を渡る姿を目撃していたため、これが小原であろうとされた。だが裏付けを進めていくと、親戚男性は男を追い払った後、駐在に不審者として報告し、その日の夕方に藁ボッチを片付けていた。改めて駐在の記録を遡ってみると通報は29日のことと判明する。これにより老婆が足の不自由な男を目撃したのは「その翌日」の30日だったと確認された。
脅迫電話のあった「4月2日」の目撃証言は、前述の親戚男性の母親で「孫の通院」の際に小原を見掛けたというものであった。しかし改めて確認してみると、孫には3月28日と4月2日の受診履歴があった。目撃したときの通院理由は「草餅の食べ過ぎ」による腹痛で、よくよく確認してみれば餅は旧暦の「上巳の節供」に供されたものと判明する。その年の上巳の節供は3月27日に当たり、病院で目撃したのは4月2日の受診日ではなく「3月28日」の出来事だったのである。
また29日の行動について、小原は実家へ赴いたが長らく会っていない気まずさから対面が憚られ、土蔵の落とし鍵を開けて忍び込み、掛けてあったコメの凍み餅(しみもち、東北や信州に伝わる保存食。紐で固定した餅を水に浸し、軒先などに吊るして干す。水で戻して調理する)を食べて一夜を明かしたと供述していた。しかし土蔵は改修されてかつての落とし鍵ではなく南京錠に換えられており、その年は不作によりコメの凍み餅をつくっていなかった。小原のアリバイ供述は虚偽と判明したのである。

1965年7月3日、最終手段としてFBIへの声紋鑑定を依頼するため、音声採取の目的で捜査班は小原を取調室に呼び出した。具体的な取調べを進めることは許可されておらず、雑談だけと指示されていた。しかし平塚らは福島での裏付け捜査によりアリバイが崩れていると小原に告げて、揺さぶりをかける。小原はそれにも動じない。
話しを変えざるを得なかった平塚刑事が雑談をする中で、不意に火事の話題となった。小原は「山手線か何かの電車から日暮里町の大火災を目撃した」と口にしたのである。
日暮里大火は4月2日14時56分頃、寝具製造会社で発生した火災が折からの強風によって煽られ、周辺倉庫や1000トン以上の特殊可燃物が集積されたゴム工場に飛び火し、日中で避難がしやすかったことから死者こそなかったものの7時間にわたって燃え続け、36棟、5098平米を焼失した大災害である。
「福島にいたやつがどうして日暮里の火事が見えるんだ」
大火は最初の脅迫電話と同日に起きており、「4月3日まで福島にいた」とする自らの供述と矛盾することになる。墓穴を掘った小原は追い詰められ、4月に得た大金が身代金だったことを認める供述へと転んでいった。
7月4日、身柄を警視庁に移され、誘拐・恐喝の容疑で逮捕。全面自供をはじめ、5日未明、供述通り、荒川区南千住の円通寺墓地から男児の遺体が発見された。「何でもいいから生きていてほしかった」と泣き伏す母豊子さんの姿が伝えられ、国民は哀悼に暮れた。
都監察医だった上野正彦氏は、その口元に2年で発芽するネズミモチが生え出ているのを見つけ、土中に2年間もの長きにわたって埋められていた事実を改めて感じ入り冥福を祈ったと語っている。その後、境内には被害者供養のため「よしのぶ地蔵」が建立された。

■結末

小原は営利誘拐、恐喝に加え、殺人、死体遺棄で起訴され、1966年3月17日に東京地裁で死刑判決を受けた。弁護側は、小原は失踪を報じた翌日の新聞で吉展ちゃんだと知り、身代金の要求を思いついたくらいで、誘拐に計画性はなかったとして控訴。同年9月、東京高裁は控訴棄却。67年10月、最高裁は上告棄却を決定し、死刑が確定する。

67年春、小原は上告審の担当弁護人を解任し、急遽別の国選弁護人が求められていた。受任した白石正明弁護士によれば、金に困って重大な事件を起こしたが、小原はおとなしい人物だったという。福島県会津疎開した経験や当時よく山登りをしていた話をすると、男は心を開いたようだったと語る。弁護士3年目の若手で、被告人と比較的年が近かったことも影響していたのかもしれない。

そして一審、二審で認めていた殺害に関する自白について、「殺害するため墓地へ連れて行き、首を蛇側のバンドで占めたうえ、両手でもう一度絞めて窒息死させた」というのは事実ではなく、「誘拐後に墓地で休んでいたらアベックがやってきたため、男児に騒がれては困ると手で口を塞いでいたところ、気付いたら亡くなっていた」と話し、殺意を否定したという。
事実であれば、殺人ではなく、量刑に死刑のない傷害致死罪にあたる。
また「足に障害があっても俊敏に動けた」とする逃走についても否定し、盗んだ「自転車」で素早く持ち去ったと弁護士に明かした。

村越様、ゆるしてください。わしが保を産んだ母親でごぜえます。
…保が犯人だというニュースを聞いて、吉展ちゃんのお母さんやお父さんにお詫びに行こうと思ったけれど、あまりの非道に足がすくんでだめです。ただただ針のむしろに座っている気持ちです。

…保よ、だいそれた罪を犯してくれたなあ。

わしは吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、おまえをかわいがっていたつもりだ。おまえはそれを考えたことはなかったのか。

保よ、おまえは地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから。それで、わしも村越様と世間の人にお詫びをする…。どうか皆様、ゆるしてくださいとは言いません。ただこのお詫びを聞き届けてくださいまし。

保の母トヨによる手記である。どれほど鬼畜の所業を犯した罪人であれ、母親は深い愛をもって育て、離れていても子の罪を我がことと同じように責任を受け入れる心づもりが感じられる。母の言葉で小原の罪が洗われるわけではないが、胸が締め付けられる。親の愛情の欠乏やひどくすれば虐待を受けて精魂歪む凶悪犯ならいざ知らず、なぜこの母にして小原のような冷血漢が育ってしまったのかと彼女の不幸に同情したくなる。


死刑確定後、教誨師は小原の心の支えに短歌を勧め、福島誠一名義で投稿活動に励んだ。
1971年12月22日、前日にその執行を知らされた死刑囚は辞世の句を編んだ。

明日の死を前にひたすら打ちつづく鼓動を指に聴きつつ眠る


津田塾女装替え玉受験事件

津田塾は日本初の女子留学生・津田梅子が1900年に麹町で開いた女子英学塾を前身とする名門私立女子大学である。

幼くして米国の価値観の中で育ち、フィラデルフィアにあるブリンマー大学で生物学の功績を修めた梅子は、帰国後、日本の女子教育のあり方に疑問を強めた。明治の女子教育といえば、高貴な華族子女を対象とし、イエ制度の影響の強い家政学が主であり、男子が修める高等教育とは質の異なるものだった。

梅子は婦女子も同等の高等学問を積んで力を発揮し、男子と切磋琢磨し合うことこそ自立への道につながるとの信念を掲げ、華族・平民の別なき新たな女子教育を推進した。

 

1970年代半ば、国は高度経済成長をひた走りながらも富の分配は追いついておらず、都市ではライフスタイルの転換は起きていたが、庶民の暮らし全体として見れば大きく好転してはいなかった。

団塊世代流入や女子進学率の向上もあり進学希望者は増加していたが、裕福とはいえない家庭では断念する者が多かった。大学進学率はおよそ2割、受験競争は過酷を極めていた。一方で詰め込み教育への批判も高まり、日本教職組合は学校週5日制(週休2日制)導入を提起し、教育政策の見直しを求めたのも同時期(1972年)のことである。

その当時、津田塾は「女子の東大」とも称され、私学でも早稲田・慶應に並ぶ高い人気を誇り、優秀な女子たちが入学試験でしのぎを削った。

 

事件の発生

1975年(昭和50年)2月14日、東京都小平市に拠点を置く津田塾大学であってはならない事件が発覚する。

 

13日の入学試験終了後のこと、受験生のひとりから大学の試験官に申告があった。

あの人、男の人ではないかしら

見れば、白いタートルネックのセーターに赤茶色のパンタロン、縞柄の七分コート、身の丈165センチほどのその受験生は周りの18、19歳の女子たちに比べて大層老け込んでおり、強い違和感があった。

試験官が近づいて横目に見ると、手は妙に骨ばって、顔にひげ剃り跡のようなものもあった。

だが受験票の証明写真はその受験生の顔立ちと同一であることから、大学当局としても対応は慎重にならざるをえない。

調べてみれば出身は東海地方の名門高校。不審に思った大学側は連絡を取ってみたが、高校の教頭は「受験勉強の疲れが出ているのではないか」などと首をかしげるばかりで電話では埒が明かない。

出願状況を確認してみると、その受験生は翌日の別学科の試験も受けることが分かった。

14日、大学職員が件の受験生と同じ高校出身の受験者2人をつかまえて受験写真を見せると、2人は名前の学生と写真の人は“絶対に別人”だと断言する。

試験終了後、“別人”とされた受験者は会場に居残るように指示された。

職員が「あなたは〇〇さんですか」と尋ねると、受験者は「ハイ、そうです」と女っぽい裏声で答えた。

続いて生年月日を問われると、あっさり観念し、別人による“替え玉”で受験したことを白状した。

「一体あなたはどなたなんですか」

父親です

女装男は取り乱した様子もなく「なにとぞご内聞に」と平身低頭、替え玉行為を謝罪したという。

彼はまもなく50歳になろうかという年齢で、当時は娘の通う高校の英語教師をしていたが、事件発覚により勤め先に辞表を提出。娘は卒業保留となった。当の試験の方は、合格水準以上の出来栄えだったとされるが、もちろん違反行為により失格である。

 

3人の娘をもつ作家の井上ひさし氏は替え玉事件の話を聞いて「すばらしい話です」「涙なくしては聞けない心温まる話」と絶賛。推理作家・小林久三氏は「異様だとは思いません」「切実感がありますねえ。自分が代わりに受けられたら、ってだれでも一度は思いますからね」と父親の行動に理解を示した。

「父親必読」「女装替え玉受験に見る悲しき父性愛の訴えるもの」と冠して、週刊朝日では両人へのインタビュー等と共に、我が子のためを思って身を挺した父親をだれも笑うことはできないとの論調で誌面を展開。世の父親たちの共感を呼んだ。

 

疑問

『戦後ニッポン犯罪史』を著した在野史家・礫川全次氏は、古来から好まれる女装文化に触れ、この替え玉受験をした「父親は女装という手段を思いつき、実行した。娘を含め、家族もそれを知っていてあえて制止しなかったのである」と記述している。

筆者は週刊朝日記事しか確認できてないが、家族が父親の女装替え玉受験を知っていたとの内容は出てこない。

礫川氏の持論としてそう記したのか、家族との合意形成があった根拠となる情報が他で報道されていたのか、不見識ゆえ分からない。

 

娘は校内でも成績はトップクラスで、実力的に「間違いなく合格できたはず」と評価されており、父親による替え玉受験という無謀に関係者は首をひねったとされる。

もちろん教員という立場からも父親の主導と思われ、本人が実行した訳だが、はたして妻や娘らは共犯関係だったのかというと筆者は疑問に思う。

 

成城大・石川弘義助教授(社会心理学)は替え玉受験した父親について、子の心配で居ても立っても居られなくなる親心には一定の理解を示したうえで、「しかし、これ、本当は女親の心理ですね」と指摘する。

「仮にこの替え玉作戦が成功しても、父の権威を確立するわけにはいかなかったでしょう。母親が二人できたようなものでね。だから単純な『娘かわいや』ではないかもしれません。擬似近親相姦というか、ほら、嫁に行く娘を殺してしまう。あんな感じ…」

 

フロイトエディプス・コンプレックス概念では、男児は父親に対して潜在的な敵意「父親を殺して母親を独占したい」という願望をもつとされる。それゆえ父親が息子に示す愛情は、息子が社会的にもつ意味により、父親はその自己中心的な期待を満たすかぎりにおいて息子を愛するという条件付きの愛情だと理解される。裏を返せば、息子の出来が悪ければ我が子と認められないのが父親なのだ。それに対して母性愛は生物学的必然として我が子に対して無条件に捧げられると解されている。

つまり石川助教授は、父親がその枠組みを超えて娘への無条件の愛を発露させて、女装替え玉受験した、だから家父長制として見ればNGだよね、という見方である。社会評論としては現象に対するひとつの見解として誤りではないように思えるが、はたしてそれが真実だろうか。

続く「擬似近親相姦」「嫁に行く娘を殺してしまう」の意味するところも、おそらくはクリアするであろう名門大学受験によって娘に「父親殺し」が為されることを恐怖し、自立させずにおくためにその可能性を排除することを意味している。父親が娘の替え玉となることで、彼女の自立を妨げたという結果につながる。

 

事件からおよそ半世紀が経とうとしている。

今日ではテレビを点ければ、LGBTQを自認する人々や異性装愛好者らを見ない日はない。1975年であれば十把一絡げにオカマだオトコオンナだと揶揄されたであろう。非当事者における好き嫌いの程度や支持不支持について宗教・政治上の立場の違いこそあれ、そうした自認、志向、表現をもつ人々の存在や男/女の二極で割り切ることのできない性的グラデーションについては理解が進んできている。

2023年7月に起きた北海道ススキノ首切り事件では、被害者男性が女装愛好家だったことでも大きな注目を集めた。男性は妻帯者で、普段は周りの同僚たちと同じく男性装で勤務しながら、週末になると女装姿でクラブやバーに足を運んで夜な夜なガールハントに精を出し、旅先では出会った人々に女装を勧めていたと報じられている。家族がどう感じていたのかは不明だが、彼個人としては男性として生活しながら女装趣味と奔放な異性愛を両立していた訳だ。

 

検討

家父長制も形骸化し、そうした新たな人間観や家族観が次々と再発見されていく中で、本事件について見直しを試みたい。

父親は「子殺し」をしたかったのではなく、別の自分を生きようとしていたのではないかという検討である。

 

父親は海軍経理学校の出身で、おそらくは18、19歳頃の在学中に終戦を迎えた。

経理学校は兵学校や機関学校より少数で、大戦中は採用数も増加したが海経36期(1943年12月入校)は約250名、海経37期(1944年10月入校)は約500名とされる。全国の旧制中学から集められた英才たちは海軍生徒として少尉候補生へと養成された。

彼も秀才だったにちがいないが、海軍出仕の道は断たれ、戦後に通信教育で教諭資格を取得した。経済事情や生家の家庭状況などは分からないが、子どもの頃から「御国のため」と日々学問に勤しみながら、はたしてその夢は叶わぬものとなった。少年時代の同窓には戦場に散った者もあったはずであり、戦地にも行かず生き延びたことで「エリート」としてある種の恥辱や挫折を味わった世代、戦争が生み落とした苦学生とも言えるだろう。

       ( --以下、筆者の妄想となる-- )

教諭という安定した職にありつき、家庭を築いて子どもも育った。受験戦争や高校紛争といった騒動に繰り返し頭を抱えながらも、そうではなかったはずの自分がいつも心の何処かに棲みついて彼のアイデンティティを蝕んだ。

時代は変わったと自分に言い聞かせ、生徒たちの進路を後押ししてやるのが教師の務め、娘にも英才教育して大学まで面倒を見るのが親の務めだと信じてきた。

(しかし、俺はどうだ。)

娘の自立を前に、ふと立ち止まって考えたとき父親は娘に憧れ、激しく嫉妬していることに気づいた。

自分も女であれば、こんな苦悩に煩わされることなく仕事や結婚を受け入れること、人生を正面から受けとめることができたのかもしれない。

 

津田塾に実力で合格できるほど成績優秀な娘であれば、第一志望は国立大だった可能性も充分ある。父親が娘や高校の正規ルートを介さず、教諭の立場を利用して秘密裡に津田塾への入試を企てた可能性はなかったのだろうか。

他の共学の難関私大ではなく、彼が選んだのは名門女子大への替え玉受験だった。

それは単なるリスクや一か八かの賭けではなく、むしろ彼にとって転生するために必要な通過儀礼だったのではないかと思えてならない。

父親は娘のために無謀なトライアルに臨んだのではなく、彼自身のための、過去の自分との訣別を意図していたというのが筆者の推論である。