いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

【殺人小説家】浙江省・閔記旅館事件について

1995年、中国浙江省で起きた強盗殺人事件について記す。事件は解決済みだが、逮捕当時、犯人のひとりが「現役の人気ミステリー作家」と報じられたことで国外でも話題となった。

 

 日本でも佐川一政『霧の中』や元少年A『絶歌』など犯人による告白本の出版はあるが、本件は作家が罪を犯し、長年発覚を免れて活動を続けていたケースである。本件は2人の犯人がいるが、ここでは“殺人小説家”に焦点を当ててみたい。

 

■事件概要 

1995年11月30日の朝、浙江省湖州市織里鎮・晟舎新街の仁舍通りにある閔記(ミンジ)飯店旅館で4人の遺体が発見された。発見したのは出勤してきた従業員女性だった。

犠牲となったのは、宿のオーナーである閔(ミン)さん夫婦(61・58)と一緒に暮らしていた小学5年生の閔さんの孫(12)、その日、山東省からの出張で宿泊していた男性・于(ウー)さん

ハンマー様の鈍器で頭と顔面を数十回に渡って殴打された外傷が致命傷となったほか、刃物による刺し傷もあり、殺害は29日深夜と推定された。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20170814183043j:plain

閔記飯店旅館 [澎湃新闻より引用]

旅館は1階が食堂、2階の1室がオーナーたちの住居スペース、2階と3階にある4室が宿泊用の部屋となっていた。各宿泊部屋には3人分のベッドがあり、共同便所はあるが入浴施設はない、1泊約6~15元の食堂付き簡易宿泊所といったスタイルだった。利用者は中小企業の出張者がビジネスホテルのようにして使うことが多かった。

 

■チビとノッポ 

駆け付けた湖州警察は、隣の203号室で新たにオーナーと于さんの遺体を発見。現場は封鎖され、「足跡」「カップに付いた指紋」「煙草の吸殻」などが検出されたが、当時の公安局DNAデータベースに該当する記録は見つからなかった。

亡くなった于さんの下着には緑色の財布が縫い付けられており、中には4700元もの現金が発見された。だが店の売上金など100元以上が紛失していたこと、時計・指輪といった貴金属類が奪われていた形跡があること等から強盗目的による殺人事件と考えられた。

 

また調べにより、28日に来店して于さんと同じ203号室に宿泊していた「安徽省訛り」の男性2人の行方が分からなくなっていることが判明。2人が于さんを殺害した後、オーナー家族を襲撃した可能性が高いと見て捜査を続けた。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210512172932j:plain

目撃情報に基づく詳細な似顔絵も公開された。

ひとりは身長160センチ未満の小柄な男で、見た目は40歳前後、色黒の丸顔だった。古びた黒革のジャケットとスニーカーを着用。

もうひとりは30代前半、身長約180センチの痩せ型で、鋭い顔立ち。紺色の庇の付いた帽子と黄色いジャケットを着用。ともに喫煙者だったことも分かっている。

 

しかし男性2人は偽名を使用しており、監視技術が普及していなかったこと、人々の移動の多さなどによって当時の捜査力では身元特定に至らず、湖州南部を中心に捜索は続けられたものの、事件はコールドケースとなった。

 

■宝物

閔さんは元々は織里鎮の白鹤兜村に生まれ育ち、20代前半で結婚して1男2女に恵まれた。村人たちによれば閔さんは“善人”とされ、仲間とのトランプゲームを趣味とし、周囲とのトラブルは確認されなかった。

長男は農業のために村に残り、長女は画家の家に嫁いだ。次女は町の役場近くでレストランを営み、閔さんが48歳の頃に初孫を生んだ。

閔さんは次女のレストランから通りを隔てて向かい側に3階建ての物件を購入し、閔記飯店旅館をオープン。村を離れて普段は旅館で生活し、多忙な娘に代わって孫の世話をしながら暮らしていた。他に孫がなかったこともあり、閔さん夫婦は家宝のように溺愛していた。

 

■地理

湖州は上海から西へ約150キロ、太湖の南岸に位置し、織里鎮はその名の通り、古くから織物産業の盛んな土地柄だった。

とりわけ改革開放(文化大革命後、70年代末からの人民公社解体と各産業の近代化を軸とした社会主義市場経済への路線転換)で急速に産業化が進み、新興都市として知られるようになった。天安門事件により開放路線は一時中断したものの、90年代半ばには製造業を中心に工業化の波が再加速していた。豊富な労働力と国外からの生産拠点誘致により、中国が「世界の工場」と認知されたのもこの時期である。

織里鎮はとくに「こども服の街」として有名で、生産・流通の拠点だった。そのため地方から集まった出稼ぎ労働者だけでなく、発注や買い付けなどのために各地から多くの商売人が訪れていた。

 

■遅れてきた作家

2017年8月11日、捜査当局は安徽省の作家・劉永彪(53)と上海の投資コンサルティング経営・王偉明(64)を強盗殺人の容疑で逮捕した。14日には容疑を認めたことが発表された。

 

捜査の進展はDNA鑑定の解析技術の向上によるもので、2017年、煙草の吸殻に残留していた唾液から、安徽省蕪湖市南陵県の劉氏族のものと判明した。照合と地道な捜査の結果、劉が容疑者として浮かび上がり、8月8日、警官が科学者と称して「地域の健康調査」と偽り、劉から血液サンプルを採取。2日後の鑑定結果により、犯人と特定された。

捜査員は、サンプル採取のときの劉の様子を「落ち着いていてとても協力的だった」と明かした。だがその後の劉自身の証言によれば、かつての事件を想起し、その場で自首することも頭をよぎったが、12歳の息子がそばにいたためその勇気がなかったのだという。

劉は事件後、王と連絡をほとんど取り合っていなかったが、血液採取の直後に電話を掛けている。電話を受けた王は「何年も経っているから大丈夫だ」と慄く劉をなだめた。

 

捜査員が逮捕状をもって家に駆け付けたとき、劉は抵抗する素振りもなく「私はこの日を待っていました」と告げた。

彼は勾留中、自分の逮捕について「罪から逃れられないことは分かっていた。その日を待ち望んでいた。今は足枷を身に付けているが、精神は穏やかに感じる。少なくともここでは悪夢もなくよく眠れる」と語った。

身柄を拘束された際、逮捕以前にしたためていたという妻に宛てた1枚の手紙を警官に託した。劉の妻は、22年前に行われた貧乏作家の「無謀な行動」と、それ以来「精神的な責め苦を負ってきた」という告白を受け取った。 

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210512213729j:plain

劉は安徽省南陵県弋江鎮・中州村に生まれ、中学時代から書くことが好きで、高校を出てからしばしばカメラで写真を撮りながら、詩や小説を書いていたとされる。大学進学失敗後も農作業を好まなかったため、一部の村人からはやや「好吃懒做(なまけもの、ぐうたら)」とも見なされていた。

1985年、合肥文学芸術界連盟主催による定期刊行誌『未来作家』に初めて作品が掲載された。94年には文芸誌『清明』に短編『青春情杯(青春の気持ち)』掲載。その後、創作活動を本格的に志し、自費で魯迅文学院(詩・小説・ルポルタージュ・脚本に特化した文学大学)に進学。

 

2009年、短編集『映画』は安徽省政府の「社会科学文学・芸術出版賞」(安徽文学賞)を受賞。作家協会らが主催となって作品に関するセミナーも開催された。

エッセイ『心灵的舞蹈(魂の踊り)』(2010)、映画脚本『門与窓(ドアと窓)』、長編『难言之隐(言えない隠しごと)』(2011)など精力的に執筆をつづけ、2013年7月に中国作家協会の一員と認められる。水滸伝歴史小説『武松』(2014)はTVドラマのシナリオに採用された。

 

作品の多くは、複雑な人間性の探求が特徴とされており、「私の作品の登場人物に描かれる人間性はほとんどがどれも真実です。下層階級の人々ですが、みんな善良な人ばかりです。私の作品に悪い人間はひとりもいません」と自ら語っている。また制作について「アイデアには反映させたが、あえて(自らを投影した)登場人物にはしない」というポリシーを明かしていることから、事件と作品とはリンクしないものと考えられる。

 

しかし『难言之隐』の序文で、「数々の殺人事件の過去を抱えた美人作家」の物語の構想があると記していたため、それが逮捕後の報道で取り沙汰されることとなった。しかしその作品は2~3万単語ほどで潰えてしまった、と後のインタビューで語っており、犯人の心境と重なるような作品は発表されることはなかった。(中国の小説は奥付に語数が記されており、一般的な小説一冊で概ね15万~30万単語とされる。)

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210513145311j:plain

2015年のインタビューで劉は“書く仕事”について、「かつては高貴なことだと思って献身的に書き、一生の仕事だと思って苦しみながら書き、今は書くことは超楽しいことだと思って喜びながら書いている。偶然にも個性が必要とされているからに他なりません」と語っている。 

逮捕前には、地域の作家として学校に招かれ、小中学生たちに創作指導なども行っていた。指導コースを受講した少女は、劉は活発なタイプではなく、自分の過去や家族について言及することはなかった、と話した。

 

逮捕後、台湾の政治ニュース番組『面対面』のインタビューに対し、劉は、次世代への警句とするため、機会があれば自分の経験、犯した罪を本に書きたいと語った。タイトルは『原罪への償い』とする構想を明かしたが、その希望は叶わなかった。

 劉の作家仲間であり、安徽省南陵県作家協会の元会長・劉福橋(ペンネーム)は、「彼は家族と生活苦のために犯罪の道に手を染めてしまった。文学の同志として、彼は有望な未来に値すると思っていたので、実に残念である」と紅星新聞によるインタビューで語っている。

 

彼の本格的なキャリアは『映画』からと言ってよく、それ以前は「農民作家(アマチュア作家)」のひとりであり、作品の多くは2000年代後半以降となっている。作品そのものに触れていないため作風は判りかねるが、インタビューから滲み上がる劉の実情は「ようやく作家稼業で食えるようになった」といったところではないか。伝統と現代の間、貧しい村落と急速な都市化の間で、もがき苦しんだ“遅れてきた作家”という印象を受ける。

 

また北京市在住のミステリマニア、中文翻訳者の阿井幸作氏は、劉逮捕当時の「中国の有名ミステリー作家」「著名ミステリー作家」と題された日本の報道に反応し、検証記事を書いており、大変興味深く参考にさせていただいた(下リンク)。

honyakumystery.jp

 

■報い

 1992年、劉に娘が誕生したが、彼女は「先天性眼瞼裂症候群」により長さ1センチ、幅2ミリ程しか目を開くことができなかった。その治療には約5000元の費用がかかるとされ、貧農の劉に支払える額ではなかった。

(筆者に当時の貨幣価値はよく分からないが、当事件に関する現地コメントで「犯罪の理由にはならないが、当時の5000元はまだ高額で、借りることもままならなかった」「50平米の家の価格が田舎で15000元、武漢の都市部で3~4万元」「田舎では盗む車さえ走ってなかった」などと書かれていた。現地の人間にとってはこの20数年は隔世の感があることだろう。)

 

95年11月末、同じ中州村出身者だった劉と王は織里鎮を訪れた。当初から商売人たちが多いこの町で盗みを働く計画を企てていた。しかし閔記旅館を狙ったのは「偶然」だった。

28日、同室になった実業家の于さんは恰幅がよく仕立ての良いスーツをまとっていた。貧しい二人の目にはすぐに「標的」として映った。素手では心もとないと考え、翌日、街でハンマーとナイロンロープを調達した。

29日未明、寝静まった于さんに二人は殴りかかったが、彼が隠し持っていた4700元には気づかなかったため、期待に反して時計と指輪と手持ちの20数元しか得ることができなかった。興奮した二人はそのまま閔さんを襲うことを画策し、チェックアウトするように装って203号室に閔さんを連れ出して殺害。202号室にいた閔さんの妻と孫まで死に至らしめ、売上金100元以上を見つけて強奪した。

 

調べによれば、その後、二人の男は上海へ逃亡して別れた。劉は娘を伴なって闇医者に3000元を支払い、目の手術を依頼したが、その結果、娘の眼球が変形して視力は0.08以下になってしまった。

 

2018年6月7日、浙江湖州中級人民法院(李章軍裁判長)で行われた閔記旅館事件の裁判は、湖州市検察庁、党委員会、湖州公安局、浙江省検察院らの最高位が一堂に会して行われ、『新京報』紙は「湖州の司法史上最高水準の裁判」と報じた。

7月30日、判決審で李裁判長は、王、劉両被告に死刑を宣告。並びに生涯にわたる政治的権利の剝奪と個人財産の没収が言い渡された。

 

両被告は起訴事実を認め、誠実に供述に応じ、遺族の前で跪いて謝罪したものの、利己的な動機と深刻な被害、社会的影響は甚大だとして酌量の余地は認められなかった。

 最高人民法院は両死刑判決を支持し、2019年10月22日午後、両名の死刑を執行した。

 

 

・参考;

22年前湖州旅馆4死劫杀案“作家嫌犯”:我的作品里没坏人

浙江湖州:“旅馆灭门案”凶手的双面人生-中国法院网

■紅星新聞;“杀人犯变作家”当事人被执行死刑,好友:很可惜也罪有应得_刘永彪

南方都市報杀人的名作家:内心煎熬常备鼠药,曾想写“身背数条人命”的故事

青物横丁医師射殺事件について

1994年10月、東京都品川区の京浜急行電鉄青物横丁駅構内で発生した医師射殺事件について記す。朝の通勤ラッシュを銃撃が襲うという犯行もさることながら、犯人の理不尽な動機にも戦慄させられるものがあり、その後の医療不信やモンスター・ペイシェント問題にもリンクするように思う。

 

先んじて、被害者のご冥福とご遺族・関係者のみなさまの心の安寧をお祈り致します。

 

■朝の改札口

1994(平成6)年10月25日の8時過ぎ、通勤客で混雑する京浜急行電鉄青物横丁駅の2階改札口付近で、出勤途中だった医師・岡崎武二郎さん(47)が背後から60センチ程の至近距離で銃撃された。銃弾は腹部を貫通し、近くにいた女性の衣服を掠めた後、20メートル離れた改札奥の案内板に当たった。

撃った男は駅近くに止めてあったスクーターを使って現場から逃走。

岡崎さんはすぐに渋谷区の都立病院に搬送され治療を受けたが、同日13時35分頃、肝臓及び下大静脈等の損傷による失血死で亡くなった。

 

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210510204201j:plain

岡崎さんは亡くなる前に、患者の一人であった元会社員・野本正巳(のもとまさみ)(36)の名前を口走っていたことなどから、品川署では病院関係者から詳しい事情を聞いた。

27日夕方には、身体的特徴の記載とともに「拳銃所持」の危険人物として野本を顔写真付きで公開手配した。

28日午後、野本は母親に電話を掛けて犯行を打ち明け、南浦和駅で会う約束をした。母親は警察に通報し、その日の夕方、刑事8人が駅に張り込み、姿を現した野本は逮捕された。野本は容疑を全面的に認めたため、事件発生から4日後に被害を拡大することなく終息した。

 

■大胆過ぎる犯人

銃撃は朝のラッシュアワーを狙った凶行として、各局のワイドショーなどで取り上げられた。当初は病院側も患者のプライバシー保護の観点から情報を出していなかったため、加害者に関する情報は多くは伝えられなかった。

 

逃走中の野本は逐一情報を仕入れており、番組の報道内容に不満を募らせていった。 

28日未明、野本は新宿歌舞伎町のコンビニエンスストアで自らの犯行意図や事の経緯を綴った書面をコピーする。その後、3時頃からタクシーを使ってテレビ局4社(NHK、フジテレビ、日本テレビ、TBS)を周り、偽名を使うなどして警備員に文書を託した。

逮捕前には「撃ったのは俺なんですけど、ちゃんと報道してもらいたい」と日本テレビに抗議の電話を行っている。そのやりとりは放映にも乗り、「出頭する前に病院関係者を撃つ」と新たな犯行予告まで行われた。

 

彼は最終的には自首する心づもりであったが、なんとかして銃撃事件に至るまでの“本当の”経緯を世間に知ってほしかった。 

 

■違和感

野本は高校卒業後、技術系の専門学校を出、都内にある電気機械メーカーに勤めた。仕事の内容は、販売先の機器の保守・点検で、当時の働きぶりは真面目であった。埼玉県浦和市(現・さいたま市)の自宅で母親と二人で暮らしており、別れてしまったが事件前には恋人もいた。

 

1992年8月頃、野本は血尿があったため数か所の病院で診察を受けた。10月3日、鼠径部(太腿の付け根)の痛みを訴え、都立台東病院で泌尿器科医長であった岡崎医師の診察を受け、慢性前立腺炎と診断される。

野本は通院しながら治療を続けたが、腫れなどの違和感は治まらず、93年5月、岡崎医師は鼠経ヘルニアと再診断。6月7日に同医師の執刀で手術を受けることとなった。 

 

術後の経過は客観的に見れば良好だった。しかし野本本人は睾丸に腫れと痛みを感じており、医師や看護師らに症状や原因について説明を求めるようになった。さらに頭痛、不眠、手足のしびれといった心身の不調を訴え、手術から4日後には外出して他院でも診察を受けたが、執刀医でないと分からないとして退けられた。

その後も、体調不良を訴えて退院の延期を求めたが、手術から2週間後に院長の求めにより半ば野本の意に反するかたちで退院させられた。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210510203403j:plain

7月1日、野本は外出中に倒れ、頭痛や手足のしびれを訴えてT病院に救急搬送され、半月ほど入院。その後も、十数か所の医療機関を周り、主にヘルニア手術後に感じるようになった頭痛、しびれ、腹部の膨張感、睾丸の腫れ等の症状を訴えたが、診察では異常は発見されず。医師からは「手術した医師でないと分からない」と納得のいく説明も得られず、ときに精神科の診療を薦められることもあった。

 

野本は次第に自分の身体の異常について、腹部に「ぐるぐる回転するゴム状のもの」が入っており、「皮膚下にある糸状のものが引っ張られて血管や内臓を絞めつけている」と思い込むようになる。そしてその原因として、岡崎医師に手術で体内に「異物」を混入された、自身は人体実験に使われたのではないかとの考えを強めていった。

野本は手術を受けた台東病院に再三押しかけ、術後の症状を訴えたほか、手術内容についての質問状を作成して岡崎医師に説明を求め、8月には自身の手術録を無断で持ち出してコピーするなどした。

 

93年10月3日、野本は腹部に入っている「異物」を除こうと、カッターで自身の腹部を裂き、ハサミを押し込むなどし、救急搬送される。11月末まで入院したが、退院時の診断は、妄想性障害又は精神分裂病の疑いであった(精神分裂病は2002年から統合失調症に改称された)。

退院後にも、「糸の付いた針」を腹部に刺した状態で受診に訪れ、「腹にピアノ線を引っ掛けて(中の異物を)見えるようにしてあるから取るな」と言って、針を抜こうとする医師に抵抗して暴れる騒ぎもあった。

 

その後、A病院精神科で精神分裂病の投薬治療を受け、症状はかなり軽減されたため、94年3月に復職。5月には友人と旅行に行くなど順調に回復していたかに思えた。

しかし7月頃に野本は再び違和感を覚えるようになり、「術後に溶けずに残った糸が体内を移動している」という考えに囚われ、またしても台東病院に説明を求めた。岡崎医師は、そうした症状は妄想による感覚異常だと説明し、(異物混入などについて)具体的な証拠が示されないかぎり今後相談には応じられないと野本の言い分を退けた。

 

手術から犯行までの約1年の間に、野本は数十か所の医療機関で150回以上受診し、自身の身に起きている異常感覚を執拗に訴え、人体実験されたことを証明しようとした。弁護士、警察、ラジオ人生相談にも相談したが相手にされなかった。

人体実験の証拠となるものはレントゲンにも映らず、違和感の除去には至らなかった。このままでは体調悪化により死んでしまうと焦りを募らせ、死ぬ前に自分をこんな体にした岡崎医師を殺害しようと考えた。

8月末に定期預金を解約し、交際していた女性に750万円を渡しており、9月には会社や顧客に迷惑をかける訳に行かないと考え、自ら退職を願い出ている。

 

トカレフを売った男

94年8月、野本は襲撃のために、スタンガン、ハンマー、包丁、催涙スプレーなどを用意。8月末には、岡崎医師の通勤ルート、帰宅ルートの下見と行動監視を行い、具体的な犯行計画を練った。

しかし9月に接近したところを医師に気付かれて逃走を許してしまったことや体力面で劣ることから、包丁などでは殺害できないおそれがあると考え、拳銃の調達を決意する。

 

あてはなかったが、暴力団員であれば拳銃を持っていると考え、浅草のソープランド従業員から地元の組事務所2軒の場所を教えてもらう。一か所では門前払いの扱いだったが、根岸組組員(29)から「入手できるか分からないが考えておく」という返答を貰い、野本は連絡先を預けた。

事務所の留守を任されていた組員は、面倒な客に対してやはり厄介払いのつもりであしらったのだが、野本はこの返答を“I’ll do my best”と解釈した。

 

野本は翌週も組事務所を訪れたが、欲しいなら先に金を持ってこいとこのときも帰され、数日後、30万円を渡して再度調達を依頼した。

10月半ば、組員から「今日取りに行くので金を用意しろ」と連絡を受けて呼び出された野本は、金を持ち逃げされるのではないかと考え、5万円だけ渡そうとした。怒った組員が破談を言い出したので、慌てて金を下ろしてくるふりをして(実は準備してあった)40万円を渡した。

このとき組員が個人の連絡先を渡したため、今度は野本の側から催促の電話が頻繁に掛かってくるようになる。その後、組員は上野・アメ横で買ったモデルガンと弾丸を用意して、野本から更に70万円を引き出した。野本を騙して終わりにするつもりだったのである。

だが野本は失敗の許されないミッションを前に、試射を行おうとしたが弾倉が回転せず弾を込めることもできなかった。「壊れている」とすぐさまクレームを入れて交換を求めた。

Tokarev TT33 (6825679152)

Tokarev TT33, by Askild Antonsen, CC 

 

10月19日、組員はトカレフと実弾7発を手渡した。別れた後、野本はまた偽物ではないかと疑いを抱いて、組員に連絡を取り、射撃方法を確認して、昼間でもひと気のない川口市内の運動場で一発試射を行った。

トカレフヒョードルトカレフによって1929年に開発され、ロシアの極寒でも作動する単純化された構造(安全装置がない)と耐久性を特徴とし、1950年代まで軍用自動拳銃として普及。ソ連国内では小型化し安全装置が付されたマカロフ銃が後継となったが、独立した中国がソ連から技師を呼び兵器の国産化を図られ、朝鮮戦争などで用いられた。その後、中国での独自生産、海外輸出向けの増産、粗悪品の流通により80年代には暴力団などを通じて日本でも不法流通するようになった。

 

組員は野本の逮捕から2日後に拳銃を譲渡したことを認めて自首。

公判では、当初スタンガンを手に「これよりすごいのないか」と言いながら事務所に現れ、「どうしても射殺しなくてはならない相手がいる」と訴えた野本の印象を「シャブ中が来たのかと思った」と述べている。

トカレフの出処について、組員は自首当初「イラン人から入手した」と供述。その後、「ある人物から80万円で買った」「組員ではないが事務所に出入りのあった人物が借金のカタとして置いていった」等と証言を変転させ、その人物は病気ですでに亡くなったと説明。

「本当に使うとは思わなかった」「(野本を)ガンマニアか何かだと思った」と売買の理由を話した。野本は140万円を支払っていたが、価格変動こそあるものの密売相場は15~30万円程度と推定されている。

 

出処についての供述の曖昧さは信用性に乏しく、私欲に駆られて一市民に対して銃器を売り渡し、もたらされた結果は多くの市民を危険に晒し、恐怖に陥れたとして、懲役6年、罰金80万円の判決が下された。

本人は「服役だけでは済まされない」と臓器提供のドナーバンク登録を申し出、足を洗ってカタギになると宣言。妻は「自分の出産の際も都立病院に世話になって感謝していた」と語り、被害関係者に謝罪の手紙を出したことを述べ、反省の態度を見せた。

 

■犯行

トカレフを手に入れた野本は、その日の内に駅で待ち伏せるが、すぐに見失ってしまう。野本は自宅でスクーターを使用していたが、20日には追跡用として新車を購入。

22日・23日は病院が休業なので医師の待ち伏せはしなかったが、違法駐車で撤去されてはかなわないと考え、駅近くのバイク駐輪場を契約している。

24日の朝は医師を発見できず、夕方は待ち伏せていた飲食店で支払いをしている隙に見失ってしまう。

ホテルに戻った野本は弾倉に4発の弾を込めてスライドを引いた状態のトカレフを紙袋で包んだ。誤射しないようにフロントで青マジックを借り、銃口の位置に矢印を書いた。

25日朝、紙袋を携えてスクーターで青物横丁駅へ向かう。駅の本屋で待ち伏せていると、8時頃、医師の姿を見つけて後を追った。他の人を巻き添えにすることがないように、横から医師の顔を確認した上で、至近距離から引き金を引いた。

 

■逃走

犯行後、スクーターからタクシーに乗り換えて別の駅に向かい、母親に「友達のところにいる。自分が外泊したことは言わないでくれ」と口止めの連絡を入れた。

さらにタクシーで移動したのち、千葉県習志野市にある公園の茂みに、弾3発が装てんされた状態の銃、実弾2発、拳銃を入れていた紙袋をそれぞれ離れた位置に投棄。

駅近くの電器店で携帯ラジオ2台と乾電池を購入して、事件の報道を聞こうとした。逃走資金に不安を覚えたため、750万円を渡していた元交際相手の家に出向き、女性から現金約250万円を借りたが、自身の犯行と逃走中であることについては明かさなかった。

 

衣服を改め、タクシーで駅から駅へと関東各地を細かく移動し、偽名でホテルに宿泊。液晶テレビを購入し、ワイドショーの“誤った”報道に憤りを募らせ、筆をとった。野本にとって医師殺害はもはや私怨にとどまらず、人体実験による新たな“犠牲者”を生まないための決死の告発でもあった。

28日正午ごろ、ホテルでテレビを確認すると、自身が公開手配されたことを知る。自首することを決意し、母親に電話を掛けて南浦和駅で待ち合わせた。タクシーで現地へ向かう途中、手元に残った所持金を女性に郵送する手筈を取った。

 

■判決

1995(平成7)年2月に東京地裁で開始された裁判では、野本に精神分裂病の疑いがあり、刑事責任能力のを問えるか否かが最大の争点とされたため、事前に6人の鑑定人によって1年半に及ぶ精神鑑定が行われていた。

妄想性障害と心神耗弱の状態にはあったが善悪の判断や責任能力を有するとした保崎秀夫鑑定と、妄想型精神分裂病の進行により現実世界から切り離され善悪判断をなす能力を欠いていたとする斎藤正彦鑑定が対立した。

 

三上英昭裁判長は、「妄想自体は奇異で理解困難」としながらも、妄想を抱くに至った経緯や動機形成については了解可能と判断。

犯行そのものはある程度、合理的判断のもと沈着冷静に実行に移されており、計画的で「確定的殺意に基づいた極めて残虐な犯行」と刑事責任能力を認め、検察側の求刑15年に対し、懲役12年の判決を下した。

 

■所感

本件は、それまで暴力団や裏社会のものと考えられてきた銃が、突如として市民社会ラッシュアワーを襲ったことで大きな注目を集め、当時国会でも取り上げられるなどした。この事件を知ったうえで銃社会を求める人間がいたとすれば、筆者は友達になれそうもない。

 

1999年には、横浜市立大学病院での患者取り違え事件、都立広尾病院の医療事件などが国民的議論となり、今日でも患者の医療不信やモンスター・ペイシェント問題につながっている。そうした文脈から解釈すれば、本件は精神疾患の絡んだものではあるが「モンスター患者」の草分けといった見方もできる。

医療関係者からすれば、いくら治療しても「違和感」を取り去ることはできず、精神病治療を薦めても忌避されて、挙句の果てに殺されなければならないとなれば、職業上、最悪の脅威である。

 

興味を惹かれた点は、野本が抱えていた“妄想”である。

身体の異常感覚を奇異な表現で執拗に訴え、客観的身体所見を欠く病的状態は、体感幻覚(セネストパチー)と呼ばれる。統合失調症躁鬱病によく見られる症状として知られており、しばしば体内で「寄生虫のように蠢く」「背骨を抜かれる」といった不安神経症的な表現がなされる特徴がある。

また多く発現する部位は口腔内で、「バネ」「ゴム」「ラップ」などが常にあるような異物感、あるいは「歯茎の間からドロドロしたものが出てくる」「口内をコイルのようなものが走り回っている」「偽物の歯が変形したり移動したりする」等といった表現で報告されており、慢性的な体感異常による不安感と不気味さ、周囲の人間に理解されないことが罹患者に更なる心的苦痛を与える。

高齢者に多いことなどから認知症との関連も指摘されている。客観的な医療ケアで根治されないため、投薬やカウンセリングによる精神病治療、心的負担感を緩和するためのセルフマネージメントで対処することが一般的である。

野本の“再発”の原因は判例などからは分からないが、エリサ・ラム事件のように自ら投薬治療をストップしてしまった断薬があったのではないかと考えられる。ラムさんの場合は親許を離れた長期の一人旅が背景にあるが、野本の場合は壮年であり母親のマネージメントはそもそも薄かったと考えられ、入退院により家庭・職場を一時的に離れたことで生活リズムに狂いが生じたことや、一時的な回復を感じたために「薬なしでも大丈夫かもしれない」といった気の迷いが生じたのかもしれない。

 

また野本の犯行を容認するつもりは全くないが、事件前後の諸々の行動は、計画的であり場当たり的、用意周到で杜撰、凶悪ながらも情念的な側面もあり、妙な人間臭さが感じられた。

仮にトカレフを売った組員に誤認や偽証があったにしても、「シャブ中が来たのかと思った」という野本への第一印象についての証言は信憑性が高いように感じられる。(野本もシャブ中も見たことはないが)犯行を前に極度の緊張と昂ぶりと抑えきれない口角泡立てた野本の様子が思い浮かぶ。

 

余談にはなるが、1995年リリースされたTHE TIMERSのアルバム『不死身のタイマーズ』には本件をモチーフとした楽曲『トカレフ(精神異常者)』が収録されている。その気の抜けたピースフルなスカ・ビートと、常軌を逸したマッドネスな歌詞の世界観が妙に癖になる楽曲である。

ピストルを手に入れて

ヤブ医者を殺すのさ

一発で仕留めるさ

朝の改札口で

THE TIMERSトカレフ(精神異常者)』の冒頭)

 

参考

青物横丁医師射殺事件

ニッポンリポート・青物横丁医師射殺事件

東京地方裁判所 平成7年(合わ)26号 判決 - 大判例

青物横丁医師射殺事件 - クール・スーサン(音楽 芸術 医学 人生 歴史)

プチエンジェル事件について

2003年(平成15年)7月、東京都港区赤坂で発生した女児4人誘拐監禁およびその背後にあった少女買春など、いわゆる「プチエンジェル事件」について記す。公式には解決済みとされながら、一方で“日本の闇”と称され今なお語られることの多い怪事件である。 

本稿では、この事件の隠された真実を・・・等というつもりは毛頭ない。

被疑者死亡で捜査が打ち切られたことや被害女児らが未成年だったこともあり、情報のどれもが限定的であり、さればこそ玉虫色の怪事件として扱われている。

概要とともに、事件に係る噂などについて検討し、なぜ今日のようなかたちで伝えられているのかについて考えてみたい。

 

■危険なアルバイト

 2003年7月17日、東京都港区赤坂で女児が助けを求めて花屋へ駆け込み、12時14分に店員が「女の子が助けを求めている」と110番通報した。

駆け付けた警官が保護した少女から事情を聞き、目の前のマンションの一室を捜査した。部屋では女児3人が洋間、浴室などに拘束・監禁されており、部屋のリビングでは犯人とみられる男性1名が死亡しているのが確認された。 

 

被害に遭ったのは、東京都稲城市の市立小学校に通う6年生(当時11歳から12歳)の4人。13日から行方が分からなくなり、捜索中だった少女たちである。花屋の店員もニュースで見知っており、駆け込んできた裸足の少女に「もしかして稲城の子?」と確認してすぐに通報した。彼女は追いかけられているかのように怯え、目の前のマンションに3人の子が手錠を掛けられて閉じ込められていると話し、店員が抱きしめると「自分たちも悪いんです」と体を震わせていたという。

 

7月上旬、少女のひとりが渋谷で女子高生風の女性からアルバイトの勧誘を受けて、ホテルに連れられて「社長」と呼ばれる男から面接を受けた。そのときは連絡先を交換して「いつでもおいで」と帰され、「会ってくれたお礼」として男から金を受け取っていた。

12日(土)、少女は男からアルバイトを依頼され、友人を連れて三人で男と会った。その日も一万円を貰い、少女たちはその足で買い物などに散財したという。

13日(日)13時過ぎ、JR渋谷駅「モヤイ像」前で待ち合わせていた二人が「社長」と共にタクシーに乗り、赤坂のマンションへと連れて来られた。その30分後、前日に「アルバイト」をした少女と別の少女の二人が呼び出され、若い男に連れられてタクシーで同じく赤坂のマンションに移動。

四人の少女を二手に分けて、故意に時間をずらして呼び出されたものと見られ、一斉に連れてくるより監禁しやすくする意図があったと考えられている。

後発の男は、先に着いていた男に女児2人を引き渡すだけで入室はしなかった。 

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210508162007j:plain

マンション11階の角部屋1101号室へ通されると、一人は階下のコンビニへお菓子や飲み物などの買い出しに行かせられた。その間、「社長」は残った少女に「ここに来た意味わかるよね」と態度を豹変させ、手錠を付けて拘束。買い出しから戻った女児も同様に手錠を架せられて監禁された。後発の二人も拘束されて別室に監禁。

抵抗して逃げようとすると、手錠に水の入ったポリタンクや鉄アレイの重しを付けられ、スタンガンを突き付けられて脅迫されて、閉じ込められた。男がマンションを出た形跡はなく、監禁中も度々女児たちの前に姿を見せていた。監禁部屋の出入り口には、椅子や段ボールで逃走を妨げるバリケードが張られていた。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210502083150j:plain

13日深夜、女児らが帰宅せず、携帯電話を持つ少女とも連絡がつかないことから保護者が警察に捜索願を提出。保護者らは「近くの体育館に行く」「スーパーに行く」と聞かされており、級友には「渋谷でいいバイトがある」等と誘っていたこと等から、犯罪に巻き込まれた可能性もあると見て行方を捜していた。

 

男は16日に練炭自殺を図ったと見られ、ひと気がしなくなったのを見計らって17日に少女の一人が手錠を外して脱出。彼女は四人の中で最も小柄で、逃げ出そうとした他の三人は重しや何重もの手錠を架せられていたが、おとなしくしていたため緩い手錠ひとつだけだった。

脱水症状やショック状態の児童もいたため、三人が病院で診察を受けたが入院の必要はなく、夕方には無事退院。渋谷署で両親らと再会し、自宅へ戻った。翌18日の終業式は全員欠席した。監禁中は菓子類と僅かな水が与えられてはいたものの、脱出があと数日遅れていれば命の危険があった。

 

■違法デートクラブ

死亡していた男性は、違法風俗店経営、わいせつビデオ販売をしていた吉里弘太郎(29)で、遺書などは残されていなかった。過去に高校生2人の買春の前科があり、まだ執行猶予中の身だった。

監禁現場となったマンションからは、女子中高生とみられる少女らの写真シール(被害女児とは異なる)、女性用下着や制服、名簿のほか約300万円の現金が押収されている。

吉里は「プチエンジェル」という無店舗型デートクラブを違法に営業していた。プチエンジェルで働いていたことがある元関係者によれば、顧客名簿には2000名以上の名前があったとされ、会員になるには高い入会金を支払わねばならず、その利用者は企業経営者、医者、弁護士などの富裕層が主だったという。

 

プチエンジェルでは、少女らに警戒心を抱かせないように女子高生たちをスカウトマンに雇い、渋谷や新宿で「アルバイト」の勧誘をさせていた。スカウト報酬として中高生1人につき1万円、小学生であれば3万円が支払われた。高額バイトに興味を示す少女が見つかると、ホテルで待機する吉里が直接面接を行ったという。

被害女児のひとりの自室から発見されたチラシには、「30分のアルバイト」「カラオケ5000円・下着提供10000円・ヌード10000円」「H系はなしだから安心!」等と書かれており、吉里の所持する携帯電話の番号も付されていた。

 

■不可解な結末

警視庁は4女児の行方不明を発表したが、氏名や学校名などプライバシーについては報道管制を取った。

その一方で“プチエンジェル”のチラシにあった電話番号から執行猶予中の吉里の存在が浮上したため、同じ16日に「2002年3月の中学2年生の女子生徒(14)に6万円を支払い買春した容疑」で新たに逮捕状が請求されていた。

 

17日、女児発見直後のTV報道には「複数の男女に監禁されていた疑いが強い」「男女2人が逃走している」とする内容も見られたが、翌18日の新聞記事では、吉里を指して「警視庁はこの男が4人を監禁した後、自殺したとみて調べている」と報じられた。

これについて「複数犯報道が急に単独犯と断定する表現に変わった」とする指摘も存在する。

だがこの男女とは、「タクシーで送り届けた男性」と「渋谷で少女をスカウトした女性」のことであり、男女複数名で監禁していたことを示すものではない。事件発覚直後の段階で、少女らの証言から吉里以外の関係者として「警察が男女の行方を捜していた」ものと考えられ、報道側の受け取り方の問題と考えられる。

 

赤坂のマンションは、11日に吉里とは別の男性名義で1カ月間の契約で借りられており、賃料(週9万数千円)は吉里が払っていた。

タクシーで送り届けた男性(24)はほどなく発見され、捜査一課が事情を聞き、関係先と見られる埼玉県内のコインロッカーを捜索した。男性は女児二人をマンションに連れてきてくれと頼まれただけだと説明し、監禁は吉里の単独犯行と見られた。

男性は4年ほど前にチラシ配りのバイトで吉里と知り合い、仕事はないかと連絡を取ったところ、マンションの契約と13日の少女2人の引き渡しを依頼されたのだという(7月22日、毎日)。

スカウト女性は未成年者であったため、取調べ内容の報道はほとんどされなかった。

 

調べにより、吉里が誘拐の前日に都内の量販店で、練炭や七輪、重しに使われた灯油用ポリタンク容器、多数の金属製のおもちゃの手錠やアイマスク(4人分)などを買い込んでマンションに持ち込んでいたことが判明。22日の朝日新聞には「警視庁は当初から自殺するつもりだったのではないかとみている」と記されている。

 

さらに吉里が埼玉県久喜市に借りていたアパートの家宅捜索では、ビデオデッキ10台とテレビ2台のほか、少女ものの猥褻ビデオ1000本以上が押収された。1か月ほど前からアパートに帰っている様子はなく、チラシやビデオの倉庫、ビデオのダビング作業などに使っていた部屋とみられている。

 

監禁現場は地下鉄赤坂駅から300メートルほどの位置にあり、衆議院議員宿舎の裏手。ホテルやマンション、企業の事務所、雑居ビルなどが密集している。 事件直後は消防車やパトカー、捜査車両など約30台が駆けつけ、近くの道路はすべて非常線が張られた。捜査員100人余りが動員されたという。

 

 

■単独犯

事件前の吉里は、赤坂のマンションでも久喜市のアパートでもなく、渋谷の高級ホテルなどを転々としていた。多額の預金があったとされているが、マンションを契約した11日に愛車のフェラーリ2台を手放している。

 

父親は元朝日新聞本社社会部部長を務めていたとされ、警視庁キャップの経験もあった敏腕記者だった。1993年に難病を発症し、命に別状はなかったが療養のために職を離れて長男夫婦が暮らす沖縄へ移住した。ほどなく母親と三男も沖縄へ移住したが、深刻な皮膚炎に悩む吉里は沖縄へ付き添うことなく本州に残って学生生活を過ごした。

母親は音大出身で社会活動にも熱心なタイプで自宅では野菜の栽培をするなど自然派な暮らしを心掛けるインテリ風に周囲からは見られていた。だが沖縄で近隣家族とバーベキューパーティーの最中、小学生が投げた爆竹が左耳元で爆発し、聴覚過敏になってしまった。相手家族に対して起こした損害賠償訴訟では「かわいい子どもの声が刃物のように怖く、女の人の楽しそうなおしゃべりや笑い声は心をぐさりと突き刺します」と述べており、遮蔽用ヘッドホンを着用するなど日常生活にも大きな影を落とした。

96年9月、父親が自殺。八重岳の桜の樹に首を吊った。相次ぐ不幸の影響か、長男は妻と協議離婚に至り、97年に家族は転居。翌年末、母親の世話をしてきた長男も父親の後を追うように近くの野球場で首を吊った。横浜市内に二人の墓所を建てて以来、吉里は親類とも顔を合わせなかった。本件発生当時、母親と三男は沖縄在住と報道されている。

 

吉里は幼少の頃から極度のアトピー性皮膚炎に悩まされており、いわゆる「無気力」なタイプだったとされる。中学卒業後、大阪市内の専門学校でデザインを学んだが、当時親しくしていた知人によれば極度の人見知りだったという。学生時代から何度か自殺未遂を繰り返し、事件前にも周囲には「きっかけがあれば死にたい」と漏らしていた。

学生時代からロリコン趣味を隠しておらず、2001年春に中学2年生に買春行為を行ったとして書類送検される。本件発生時はまだ執行猶予の身柄だった。

同年9月、久喜市のアパートから、大量の猥褻ビデオ販売チラシ、数十人分の顧客リストと見られるメモがごみとして廃棄されており、衛生組合が通報。埼玉県警は一緒に捨てられていた公共料金の郵便物から吉里をマークしたが、販売事実を確認することができず摘発には至らなかった。

 

吉里はホテルの高額な利用料を現金で支払い、プチエンジェルの少女たちの前でも羽振りのよさを見せていた。「少女買春で35億円稼いでいた」といったネット記事も多いが、筆者はこの預金額についてはやや疑わしい情報だと考えている。

かつて新聞記者で重要なポストを担った父親や家族には、一般的なサラリーマンより高額な保険が掛けられていたには違いなく、読売新聞では「多額の遺産を相続した」と記載されていることから「実家が太かった」と捉えることはできる。

だがそれだけの資産家が、裏ビデオ販売、非合法な売春斡旋といった危ない橋で稼ごうとするだろうか。残念ながら筆者にロリコン財産家の気持ちは分からないが、闇買春の管理者というよりも「買う側の人間」のように思え、少女買春が単価5万円、裏ビデオが1本1万円程だとしても35億円もの利益を上げるまでには莫大な量を捌かねばならない。それだけの規模で稼ぎ続けていたとするならば、やはり個人での稼業とは考えづらいものがある。

 

■死因の謎

吉里は、大きなビニールシートをテント状に吊り下げ、床には目張りをし、その中で七輪で練炭を焚いていたと報じられ、警察からは発見当初から「自殺」との見方が示された。遺体は椅子の下に倒れていたとされる。

 

練炭は燃焼時1000度以上にもなることから、椅子の下で焚いていたとしても「熱でビニールが溶けてしまう」との指摘があり、ワイドショー番組でも検証実験が行われたが、練炭の分量や燃焼具合がどれほどのものだったのか、ビニールシートの発見時の状態はどうだったのかは詳しく報じられていない。

その後の解剖で、死因は急性一酸化炭素中毒と確認された。不完全燃焼であっても一酸化炭素中毒は起こりうることから、轟々と燃焼せずとも死に至った可能性はある。

また自殺を思いついたとして、夏の盛りに「練炭」を選ぶ点もやや解せない。トイレや浴室のように限られた狭い空間であればまだしも、広いリビングでわざわざビニールを張った中で行うというのは、変に手間をかけ過ぎな印象を受ける。

 

いずれにせよ「自殺」とする警察発表は「他殺を示す証拠」が出てこなかったことを意味する。明言されていないが、たとえば少女たちが「部屋には吉里一人だった」「他の人間の出入りはなかった」と証言すれば、その状況から自殺と断定せざるを得ない。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210508161208j:plain


 吉里の自殺に至った理由が、この事件の最大の焦点である。

ある日、突然糸が切れたように命を断つ者もあれば(首吊り、電車飛び込みなど)、自身の死に方や死後のことまで念頭に入れて事を運ぶ者もいるが、若い頃から「死にきれなかった」経験を繰り返して生き延びてきた吉里は後者だった。

一般的に自殺と聞くと、「経済的な困窮」「老・病などによる絶望」「仕事や恋愛などによる精神的破綻」といった分かりやすい原因を求めがちである。悪徳稼業とはいえ金回りが良く、老いに苛まれていた訳でもない吉里が、なぜ死を決断したのかは一般にはやや理解し難い面もある。

だが父と兄が自殺し、家族関係が半ば破綻していたことからも、帰るべき自分の居場所のようなものはなく、捜査の網を掻い潜るような荒んだ生活が続いたことで神経が磨り減らされていたにはちがいない。

 

マンションの契約、練炭などの購入から、少女たちの監禁と自殺を同時に計画していたものと考えて差し支えないと思う。単に練炭自殺を目論むのであればひと気のない山や海に出向いて車内で行えば済むことなのに、あえてそうはしなかった。車を売り払い、“死に場所”とするためわざわざ新たにマンションを契約するという行動は、一見不合理で腑に落ちない。吉里は自殺するために少女たちを必要としていた、という見方もできる。

少女買春歴のある吉里が「少女たちに囲まれて死にたい」といった願望を抱いたのだろうか。一か月に渡るホテル滞在中にも自殺を企図していた可能性はあるだろう。だがホテルではなく、1か月先までウィークリーマンションを借りていたことから、死体発見を先延ばしにする意図があったと見られる。

心理学者・小田晋氏は、少女への手錠がサディスムを、自死というかたちがマゾヒズムを示しており、相反する願望を同時にかなえることで男は恍惚に浸っていたのではないかと見解を示している。死を意識しすぎた男が最期に夢見た最高の贅沢だったのであろうか。自分一人では29年間死にきれなかった吉里が、極限まで自分を追い込むために女児を誘拐・監禁し、ようやくその思いを遂げたと見ることもできる。吉里は少女らを商売道具として悪用してきたが、死に際にあっても彼女たちを利用していた。少女なしでは死にきれなかったのではなかろうか。

 

■自殺の理由 

自殺の背景として、吉里が反社会組織(暴力団・半グレなど)から睨まれていた可能性はある。

実態を知らないので憶測になるが、仮に吉里が個人で売春組織を立ち上げたとすれば、スカウト活動などからすぐに足が付き、渋谷界隈を根城にする関係者は黙っていないだろう。生きて逃げられない危機的状況であれば自殺という選択肢もおかしくはない。

逆に反社がバックについていたケースで考えてみると、吉里はビデオ販売や売春管理といった活動から抜けたかったが、辞めさせてもらえない苦境に立たされていたり、着服などの不正が発覚して「けじめ」を迫られていた可能性もある。

あるいは摘発を逃れるために吉里に全ての罪を着せて「トカゲのしっぽ斬り」をされたとする見方も根強い。遺書こそ残さなかったものの、死に際の罪の暴露として「売春組織」の存在を示す名簿等を現場に残したとも考えられる。

 

いずれにせよ想像の域を出ないが、筆者としては、吉里は個人か、組織の末端で、敵対する組織による「見せしめ」で自殺を強要されたのではないかと考えている。

第一に、警察の捜査の手際が良すぎること。もちろん初動捜査が早いことは称えるべきことだが、監禁現場が抑えられていない段階で逮捕状請求に至る潔さは事前にリークがあったのではないかと勘繰りを入れたくなる。手配の内容は誘拐監禁ではなかったものの、偶々タイミングが重なったという訳ではないだろう。つまりは、警察が暴力団からリークを得て、敵対する「反社の資金源(売春組織)潰し」の見取り図に乗っかった、という見方である。

第二に、4女児監禁の理由として強姦や売春、殺害の明確な意図が見られない点である。もちろん監禁状態があと数日も長引けば脱水症状などで女児たちに死の危険はあった。

だが監禁の意図が何だったのかと想像すると、単なる自殺では済まないようにしたかった、少女買春の存在を公にしたかったと見る方が自然ではないか。仮に全員が亡くなっていたとしても、残された証拠は「吉里が児童らを集めて買春組織を営んでいた」ことを示し、大筋は変わらない。敵対組織に対する警告・挑発の意味でも「男の自殺」だけでなく「児童買春組織」の告発が必要だったと解釈する方が収まりよく感じる。

第三に、 警察が顧客への追及をせず早期決着させた点である。風俗客が偽名を用いるのは自明のことであり、夏目漱石や大物芸能人、故人の総理大臣の名前があったとしても、そこは大した問題ではない。だがプチエンジェルの場合、無店舗型であったことから顧客管理を電話番号で行っていた(吉里も複数台の携帯電話を用いていたとされる)。顧客を特定できるのに、あえて摘発しなかったのはなぜか。

ひとつは未成年が売春当事者であり、立件が困難なこと。現在は強制性交などは非親告罪(被害者の告訴なしでも加害者を起訴できる)化されているが、事件当時は当事者不在では事件にできなかった。未成年者自らが(半ば同意して)売春したことを表に出して証言台に立つとはやや考えにくく、仮に告訴する少女がいたとしても、どれほどの刑罰が与えられるだろうか。

もうひとつは名簿を押さえておく必要があったこと。名簿の中身が詳らかにされないために警察関係者や政治家、テレビ関係者、皇族が含まれているといった噂が絶えないわけだが、実際のプチエンジェル利用当事者にとってはいつ摘発されるか分からない監視状態に置かれるため、一定の抑止効果はある。

捜査に協力した反社がいたと表沙汰になれば、警察としては至極きまりが悪い。警察が別の反社に名簿を流すとまでは考えにくいように思うが、名簿を押さえていることだけを表に出しておけば警察としては充分な収穫と考え、早期の幕引きに至ったのではないか。

 

■ジャーナリストの怪死

プチエンジェル事件に関する噂のひとつとして、「その闇に迫ろうとしたフリー・ジャーナリストが東京湾で謎の不審死を遂げた」という尾ひれが付くことがある。

 

2003年9月12日7時頃、東京都江東区海上で、フリーライターとして柏原蔵書(くらがき)、山口六平太のペンネームをもつ染谷悟さん(38)が遺体となって発見された。

上半身は鎖で巻かれ、手足はひもで縛られ、腰にはウェイトベルト(ダイビング用の重り)が付けられた状態で、背中に8か所の刺し傷があった。肺に達した刺し傷が致命傷と見られ、生前に溺れたことを示す所見は得られなかった(殺害後に沈められた)。

 

染谷さんは90年頃からライター業を始め、裏社会系の記事を執筆。関連著作には、犯罪的視点から“鍵”と業界の裏話をまとめた『鍵の聖書 鍵と鍵屋の選び方』(2002)、新宿歌舞伎町界隈の暴力団や風俗業などにまつわる『歌舞伎町アンダーグラウンド』(2003)がある。

 

東京水上署捜査本部は染谷さんが取材活動の中で何らかのトラブルに巻き込まれた可能性があると見て捜査。

その後の調べで、02年9月には当時住んでいた豊島区のアパートで空き巣被害に遭い、カメラやレンズ、パソコンなど77点を盗まれていたこと、03年1月にはベランダフェンスや窓ガラスの破壊、ドアが開けられないように玄関の隙間に物を詰められるなどの嫌がらせ被害を受けており、周囲に「中国人に狙われている。殺されるかもしれない」とも漏らしていた。

9月5日に編集者と電話で仕事の話をして以降、連絡がつかなくなり、7日未明に8月末に買い替えた携帯電話のメールアドレスから「しばらく、旅にでる事にします」という不自然なメールが届いていた。また行方不明直後の6日に、豊島区の路上で染谷さんのカメラが入ったバッグが、後に新宿区で三脚が発見されて警察に拾得物として届けられていた。

 

死亡前に出た週刊誌で社会学宮台真司氏とプチエンジェル事件や少女売春に関する対談が組まれていたことや、7月に『歌舞伎町アンダーグラウンド』が出版されて間もない時期で巻末には「歌舞伎町関係者の恨みを買ったかもしれない」と意味深長な記述をしていたことから両事件が結び付けられたと考えられる。

 

2003年11月22日、東京水上署捜査本部は、錠前師・熊本恭丈(よしひろ)、元自衛官・藤井亮一を死体遺棄容疑で、元カギ会社社長・桜井景三を染谷さんの知人に対し、「事件について何も言うな。余計なことを話せば中国人を使って殺す」などと脅迫した容疑で逮捕。 翌年1月16日、殺人の疑いで再逮捕した(2004年1月16日、産経新聞)。

2002年頃、染谷さんは好意的な記事を書くとしてカギ業界関係者に出資を募っておきながら、契約を反故にしており業界内部から恨みを買っていた。それに対し、染谷さんも一度は契約履行や返済などを約束したものの再び行方をくらませ、業界内で悪質なリーク情報を撒く、すぐに特定されるような中傷記事を書くといった“反撃”を講じていたのだった(詳細はH18東京地裁判例pdf)。桜井らはそれぞれ染谷さんに行方を追っていたが、03年7月頃から協力して追い込みをかけることを計画した。

 

03年8月下旬、染谷さんの行方を突き留めた桜井らは、共謀してレンタカーでの拉致を計画し、制裁を加えようと考えた。20時頃に染谷さんは行きつけの飲み屋に入店。三人は店外で待ち伏せたが、日付が変わっても出てこないことから桜井が入店し様子を窺った。しかし染谷さんは隙を見て非常階段から逃走。

店周辺を捜索したが見当たらず、三人は車で染谷さんの住む豊島区のマンションへ向かった。その間、染谷さんから無言電話を受け、4度目の電話で会話をすると「捜せるもんなら捜してみな。地球のどこかにはいるよ」と言われ、桜井は激昂した。

6日1時20分頃、マンションに到着。窓から室内へ侵入し、手やスラッパー(先端に金属が仕込まれた革の警棒)で染谷さんを暴行し、新宿区にある桜井のマンションへ拉致監禁。染谷さんは謝罪をせず、反抗的態度を取り続けた。解放すれば告発や記事に書かれる恐れがあったため、三人は殺害の準備に取り掛かった。

3時から明け方にかけて、居室内の指紋の拭き取りや染谷さんの所持品の処分、レンタカーの返却、染谷さんの携帯電話から「旅に出る」メールを知人宛に送った。早朝に一度解散し、知人から小型作業船を借りる約束を付け、ウェイトベルトを自宅から持ち込むなどそれぞれ準備をし、夜に再度集合。

22時頃、染谷さんを睡眠薬で眠らせて別のレンタカーで係留地へ移送した。エンジンをかけて沖へ出る途中、染谷さんが船から落ちたため、慌てて連れ戻し「なんで逃げたんだ」と問い詰めたが応答は不明瞭だった。海上で染谷さんの体にウェイトベルトを装着させ、針金で要所を固定。プッシュ式ダガーナイフで多数回突き刺した後、海へ突き落した。

翌日、染谷さんの部屋を掃除。それ以降も染谷さんの携帯電話から各人へ自発的失踪をほのめかすメールを送って、隠蔽工作を続けた。12日朝に岸壁付近に遺体が発見されると、3人はその日のうちに集まり、今後の連絡手段や偽名、逃走などについて話し合いを持った。

 

ライターの染谷さんが金銭トラブルなどで恨みを買って殺害された、というのが事実である。どこのだれが言い出したのかは分からないが、同時期のプチエンジェル事件を盛り上げるための“燃料”にされた印象さえ受ける。染谷さんは複数のペンネームを使い、かつてはバイク雑誌の雇われ編集長、編集プロダクションの運営、写真家としてモノ雑誌の物撮りカメラマン、ファッション誌の立ち上げなど活動分野が多岐にわたり、決して裏もの一筋でやってきた訳ではなく、真相に深く切り込み暴露するといった取材力があった訳ではないと評される。リスクヘッジが取れておらず各所に恨みを買っていた節があることから、悪評やプチエンジェルの噂もライター筋で付き合いのあった人物から出た可能性があるのではないか。

なぜ周囲に「中国人に狙われている」と語ったのかは定かではないものの、桜井らがその筋に捜索や嫌がらせを依頼していたのか、あるいは過去に中国人裏社会でも恨みを買う自覚があったとも考えられる。鍵業界とのトラブルという自覚はあったが、後ろめたい事情から正直に言うには憚られただけという気もしなくもない。

 

本筋とは離れてしまうが、桜井は1990年代に業界初の鍵師養成所「鍵の学校」を運営し、メディアへの露出が多かった人物で、それまで個人経営が当たり前だった業界にチェーン展開を仕掛けるなど当時は知られた存在だった。2019年、宮城刑務所の刑務官・藤田晋悟(31)が桜井受刑者の弟らから計7回に渡り、現金合わせて138万円を受け取り、同受刑者への生活待遇に便宜を図ったことが発覚した。世渡り上手は塀の中でも腕が利くようだ。

 

■政治家叩き

2006年、『週刊現代』2006年6月3日号で、政治家・小沢一郎氏の政治資金管理団体陸山会」が都心をはじめとする一等地に多数の不動産を購入しており、その登記簿上の所有者が小沢一郎氏本人の名義とされていることから、個人資産との区別が不明確に管理されているとの批判記事を掲載。

小沢氏はこれを名誉棄損に当たるとして講談社と編集者らを相手に訴えたが、各マンションが陸山会による運営が為されているかは不明瞭であり、「個人資産と言われても仕方ない」という論評に非はないものとされ、小沢側の主張は退けられた。

2009年11月、市民団体は、陸山会が2004年に東京都世田谷区の土地購入について政治収支報告書に虚偽記載を行ったとして、政治資金規正法違反の容疑で告発。

このとき公開された陸山会の資産情報に記された「赤坂」に所有する土地が、4女児が監禁されていたマンションの所在地と番地が一致したことから奇妙な憶測を呼んだ。陸山会すなわち小沢氏がプチエンジェル事件あるいはプチエンジェルそのものに絡んでいるというのである。陸山会では赤坂周辺のマンション数か所を個人事務所、外国人秘書の宿舎などに使用していた。

 

筆者は、陸山会プチエンジェルとは無関係だと考えている。第一に陸山会が部屋を所有していたマンションの部屋と番地は同じだが、別の建物であること。第二に建物管理者(マンション)は別企業であること。

第三に事件のあった部屋は2003年7月11日(少女たちが監禁される2日前)から借りられており、実態としては「売春斡旋の事務所」としての機能を有していなかったことである。なかには「事件は赤坂で起きたのに報道が“渋谷”に変わった」などという見方もあるようだが、監禁事件は赤坂のマンションで起きたが、プチエンジェルのスカウトや派遣先は渋谷が中心だったことから「報道の切り取り方が変わった」と考えられる。

「政治的圧力が—」「報道規制が掛けられてー」といった憶測は、多分に“反小沢”“反民主党”“反中国”などの政治的バイアスが掛かっているか、陰謀論の風説に思考そのものが毒されているか、当時の国会での小沢叩きに乗じた愉快犯に過ぎないと考えている。

 

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210508160215j:plain

ごく簡単に当時の小沢氏周りの政治動向について触れておく。

1993年、宮沢内閣不信任案が可決。賛成票を投じた羽田・小沢派は自民党を離党し、新生党を結成。自民は過半数割れで、8党派連立による細川護熙内閣が成立。

94年末に海部俊樹を党首とする新進党を結成。しかし羽田・細川らと溝が深まり、97年末に公明党が離脱し、新進党は分党。

98年に党首として自由党結成。野党第一党の座は民主党が得たものの、野党共闘により自民党をけん制した。しかし金融再生法を巡って民主党と対立。その後、野中広務を頼って自自連立交渉を進め、99年に与党復帰を果たした。

小沢復党かとも思われたが、自民党内の反小沢勢力の抵抗にあい、自自連立は一年で終焉。自由党内も連立離脱派(小沢支持)と残留派に分裂し、残留派は保守党を結成。自由党議席は衆参22に半減させたが、2000年衆院選では+4議席と善戦。

2001年、小沢塾を開設。7月の参院選では“小泉フィーバー”により野党は軒並み苦戦を強いられたものの自由党は6議席を死守した。

02年、小沢と民主党鳩山由紀夫により、民主・自由両党の合併が進められたが、合意形成が難航して鳩山は代表辞任を余儀なくされる。小沢は解党準備に向け、自由党から小沢の関連政治団体へ13億6816万円(うち政党助成金5億6096万円)の“寄付”を行った。

03年9月、民主党自由党が正式合併。「政権与党と総理を替える本格的政権交代が何よりも急務」とする大同小異の志のもと、小沢は民主党の菅現行体制維持し、「一兵卒に戻る」として役なしでの合流となった。11月衆院選は初のマニフェスト選挙となり、民主党は40議席増の躍進を遂げ、小沢は代表代行に就任した。

 

監禁事件のあった03年7月は合併に向けた最終調整が行われている渦中であった。仮に小沢氏に絡めた見方をしようとするのであれば、反小沢勢力による“小沢潰しの攻撃材料”として画策されたのであろうか。

たしかに若くして「剛腕」と称された政治手腕や、二大政党制実現に向けた政界再編の「壊し屋」としての権謀術数は、国会内外に多くの反小沢勢力を生んだことは確かである。しかし、小沢氏を貶める思惑があったとするならば、政治家本人の汚職の追及になるのではないか。2004年に発覚する年金未納期間があったことや06年以降に取り沙汰される資金管理問題など、当時の小沢氏は“叩けば埃が出る”状態だったともいえる。なぜわざわざ第三者を殺害して少女買春組織を明るみに出さねばならなかったのか、道理が通らない。

また陸山会所有のマンション付近で監禁事件が起きたことは事実だが、既述の通り衆議院議員宿舎がすぐ裏手に存在する。「政治家が関連していた」とする見立ては可能かもしれないが、特定の政治家を糾弾には不十分であり、むしろそうした発想に至ること自体「書き手に偏向した政治態度がある」ことを暗に示すことになる。

 

■噂と嘘 

皇族のペドフィリアや近親相姦のビデオが存在するといった風説の流布もある。そうした話題を積極的に取り挙げるサイトは、陸山会の噂同様、偏向的なテーマや主張を好んで扱っているように見受けられる。筆者にデマの証拠を示す暇はないが、同様にそうした噂が真実である証拠を示す情報も存在していない。怪情報の流布そのものが目的だからである。

筆者は特定の政治家や皇室に取り立てて強い思い入れはないが、自らの主張や非難の材料として無関係な人身売買、児童買春事件を“政治利用”することは自らの品位さえ貶める卑劣な愚行と言わざるを得ない。被害者は大人の食い物にされ、撒き餌にまでされるこどもたちである。

 

90年代末、ネット上では匿名掲示板が増加し、2000年5月に起きた西鉄バスジャック事件では「犯行予告が書き込まれた」と話題になることもあった(後に掲示板の管理人が「警察からIPアドレスの開示請求はなかった」と説明しており、デマの可能性もある)。TVメディアでは、匿名掲示板について「便所の落書き」「犯罪の温床」といった負の側面ばかりを取り上げていた時期である。

2001年には「鮫島事件」と呼ばれる非実在の事件を不特定多数の書き込みによってさも存在するかのように噂し合うハイパー・リアリティな遊びが流行した。当時はスマートフォン光回線などもなくネット環境そのものが現在ほど整っていなかったこともあり、掲示板内のアングラ的な趣向や洒落を理解した上で「ネタ」として楽しむ文化が濃かった。そのため「深入りすると命取りになる」「公安が絡んでいる」「おっと、だれか来たようだ…」などとまことしやかな怖い噂として人気を博した。

2004年『電車男』書籍化などによって掲示板利用者が劇的に増加(05年ドラマ化により新規流入のピークを迎える)。同じ2004年に洒落怖『きさらぎ駅』が投稿されるなど、この時期は特に利用者同士のカキコミを通じての共同作業で様々な物語が生まれている。

 

見方を変えれば、プチエンジェル事件は匿名掲示板のアングラ期の終わりと流行期の間で発生・派生しており、かつてのアングラ趣味、ネタ的要素を多分に含んだまま、それ以降も語り継がれ、拡散されていったハイブリッドな存在と言える。事件報道が終わった後も、「警察権力が何か隠している」「マスコミの報道がおかしい」「政治的圧力が掛けられている」・・・といった具合に次々と“闇”の部分を付け足して話を膨らませていくこと自体を半ば楽しんでいたのである。

流行によって登場した“まとめサイト”はより恣意的にカキコミだけを拾い上げ、不特定多数によって噂される内容をより“人目に着きやすいかたち”にリフォーム、デフォルメして人々に供給した。多くの人は過去の掲示板書き込み者たちのつぶさなやりとりを一から順に辿ることなく、“掲示板の人々によってまことしやかに語られるストーリー”仕立てにまとめられた「事件風」の情報だけを物語として消費するになった。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210508155443j:plain

こうした匿名性の濫用による「都市伝説化」は時を経て、富豪ジェフリー・エプスタインによる島での小児買春犯罪、“エプスタイン事件”でも踏襲されていく。匿名掲示板の集合心理や情報操作が、場所や言語を越えて実に似通ったものになっていく経緯は非常に興味深いが、深掘りするつもりはない。

 

 

事件には真実と虚像が入り混じり、それが事件をより魅惑的に感じさせる。本稿も無論虚像の一端を担っており、上の「見せしめ」説にも根拠は存在しない。私たちが事件と思ってみているものは、何なのか。知らず知らずのうちに自分の望む情報ばかりを追い、自分の望むかたちへと事実を歪ませて認識しようとしてしまう。

ひとは夢中になればなるほど騙されていることに気付かず騙されてしまう。騙しているのは匿名の他者なのか、読み手である私たち自身なのか。私たちを夢中にするものの正体を一度冷静になって見直す必要がある。

 

 

ハローキティ殺人事件について

1999年春、香港・尖沙咀で発生したとされる通称ハローキティ殺人事件について記す。
 本件は香港の凶悪事件でも極めて残酷な犯行とされ、その凄惨さは綾瀬女子高生コンクリート事件を彷彿とさせる。またその事件発覚の奇妙な経緯などから心霊現象の噂も絶えない。

事件の概略後、拷問の性質について触れ、追って心霊の噂について検討する。

 

■悪夢

1999年5月24日、香港・尖沙咀(ツィムサーツイ)警察署に九龍馬頭圍(マータウワイ)女童院(養護施設)のソーシャルワーカーから不可解な通報を受ける。

施設で保護している少女(13)が「若い女性の幽霊に悩まされている」と訴えるというのだ。少女のあまりの動揺ぶりを察して職員が話を聞いたところ、その内容があまりに克明なので不安に思い、通報したという。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210428093957j:plain

左建物3階が現場 [via hk.appledaily.com 

 施設に入る前の彼女はいわゆる家出少女で、知人の家などを転々としながら当て所もなく暮らしていた。99年の旧正月の時季(2月半ば)、男性の誘いに乗って尖沙咀・グランビル通りにあるアパート3階の一室で生活するようになる。

その後、3人の男たちがその部屋で若い女性を監禁し、一か月近くに渡って凄まじい拷問を加えられた末に女性は死亡した。そのときの光景が脳裏に焼き付いて、被害女性の悪夢を見るようになったというのである。

 

少女は、男たちに靴箱に排便するよう強要されたと言い、犠牲となった女性はその糞便を完食させられていたことなどを話した。彼女を助けるどころか虐待に加担していたために罪悪感に苛まれ、自ら警察に通報することができずにいた。

だが尖沙咀は香港・九龍でも屈指の繁華街である。ソーシャルワーカーは、そんな街のど真ん中で遺体はどうしたのか、と少女に尋ねると、頭以外のほとんどを部屋で処理して捨てたと答えた。

夢の中に現れる女は、少女に向かって「把頭顱還給我(頭を返せ)」と呼びかけてくるのだという。

 

■悪臭

警察は当然、半信半疑ではあった。5月26日、事実確認のため、少女を伴なって事件現場とされるアパートへ捜査に入った。彼女は恐怖のあまり上階に上がることを拒否し、地上から部屋を指し示した。捜査員が指定された部屋の扉を開くと尋常ではない腐敗臭が立ち込めていた。

少女の通報以前にも、「悪臭がする」として地域パトロール員に住民から苦情が入っていたが、原因は“生ごみの匂い”と判断され、そのときは捜査は行われていなかった(関連はないとされたが、このとき担当した女性パトロール員は2000年9月に韓国人の恋人と練炭自殺で亡くなっている)。

 

電気を点けると、廊下の壁には汚れたハローキティの大きな人形(下半身が人魚タイプのもの)がもたれかかっており、台所の鍋の内容物には蛆虫が湧いて、いかにも混沌としたありさまだった。

外の庇の上に置かれた白いゴミ袋からは異様な腐敗物が発見された。またキティ人形の中に固形物があることを確認したため、鑑識の到着を待って開封したところ、中から女性のものとみられる頭蓋骨を発見する。

少女の訴えは嘘ではなく、確かに誰かがこの部屋で殺されていたのである。人形のほか、遺体の処理に用いたとされる土鍋やステンレス鍋、一時的に遺体を保管していた冷蔵庫、残されていたハンマーやトングなどが部屋から押収された。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210428054850j:plain

同26日、現地から連絡を受けた捜査員たちは、葵涌・石籬村のマンション17階に住む陳文樂(33)を緊急逮捕。翌27日には梁勝祖(26)が自ら投降した。捜査開始を知った梁偉倫(19)は中国本土に逃亡し、香港の捜査当局はインターポール、中国公安、入国管理局等に手配を依頼した。

2000年2月24日、身分証を持たなかった梁偉倫は広西チワン族自治区内で検挙され、後に指名手配犯と判明して、3月末に香港へ身柄が引き渡された。

 

2000年10月9日、香港高等裁判所で事件の陪審員裁判が開かれた。その凄惨さから証拠写真などの心理的悪影響を考慮しながらの公判となった。

女性一名に対する監禁、殺人、遺体の損壊と遺棄に関する起訴内容であったが、殺人事件を示す唯一の物証は人形から見つかった頭がい骨だけ。しかも念入りに煮沸されていたことで、DNA鑑定も適わなかった。白いゴミ袋に入っていた異物は心臓、肝臓、腸、肺などの内臓の一部とされたが死因の特定すら不可能だった

 

■悪魔

1999年3月17日、梁たちは陳の命令で樊敏儀さん(23)を彼女の自宅から件のアパート3階の部屋へと拉致した。梁たちは「なぜ金を返済しないのか、なぜ取り立ての電話に出ようとしないのか」と詰問しながら50回以上に渡って彼女を蹴り続けた。

ナイトクラブでホステス勤めをしていた樊さんは、97年に母親の医療費として、陳に数千香港ドルを借金した。この借金については、彼女に薬物依存があったことや陳がプッシャー(麻薬の売人)をしていたことからドラッグの代金だったのではないかとも言われている。

陳は“和胜堂”と呼ばれる反社会組織の元メンバーでポン引きの元締めをしており、梁勝祖と梁偉倫の2人に借金の取り立てを命じた。樊さんは妊娠後も接客を続けさせられていたが、陳は金利を上げるなどして完済させず、執拗に彼女を追い詰めていった。

 f:id:sumiretanpopoaoibara:20210429000840j:plain

 陳は部屋のガラス窓に木板を張って、周囲に音が漏れないようにすると、およそ一か月に渡って彼女に対しておぞましい拷問を連日行った。樊さんには恋人が居り、捜索を続けていたがはたして発見、救出には至らなかった。

 

先に挙げた糞食のほか、男たちによる飲尿の強要もあった。女性の体に熱した油をかけて、木の棒で激しく摩擦して水膨れを引き裂くと、少女にその傷口へ辣油を垂らすように命じた。

男たちはストローを炙って溶けたプラスチックを足の裏に垂らしながら女性に笑うように命じるなどし、笑わなければ更なる拷問を加えた。足の裏は火傷で爛れ、自立困難になっていたが、男たちは腕をワイヤーで天井に固定して、衰弱した彼女を無理矢理立たせ続けた。

 ある晩、被害女性がトイレで瀕死の状態でいるのを見て、男は太腿をライターで炙って生存を確認した。 少女が見たときはまだ女性に反応があったものの、監禁から数週間して樊さんは息絶えた。

少女は、執拗に繰り返された広範な拷問内容について「楽しみのためにやっていたのだと思います」と虐待の異常性を端的に述べた。


3人の男たちは鋸を使って浴槽で犠牲者の遺体を解体。頭部、内臓、胴体は全て土鍋やステンレスの鍋で煮込んだ。少女も“調理担当”をさせられたほか、梁偉倫と3往復して遺体の一部が入ったゴミ袋をゴミ回収トラックに入れて処分した、と具体的に説明した。

陳は頭蓋骨を人形の中へ縫い込む際に「乖乖不要動,我幫你打扮(いい子だからおとなしくしてね、おめかししましょうね)」と冗談を言った。

 

被告らの供述によれば、残った残骸は「犬に食わせろ」と発案があったものの、小分けして埋め立て地などへ投棄していたとされる。その後、警察が近隣で発生したレイプ事件の捜査のために現場アパートへ聞き込み調査に訪れたため、残っていた内臓入りゴミ袋を慌てて(室外の)庇に投げ置いたと供述。

また、同アパートの住人の中には、深夜に女性の悲鳴を聞いた者、ナイフを上下する人影をビデオ撮影していたがデータを消してしまったと証言する者もいた。それらが事実とすれば、寸前のところで発覚を免れていたことになる。

その後、4人は事件発覚をおそれて、人形と残骸を捨て置いたまま、部屋を後にした。

 f:id:sumiretanpopoaoibara:20210430171928j:plain

男たちは死体遺棄を認める一方で、殺人の意図については一様に否認した。お互いに犯行について責任転嫁を続けたが、梁偉倫、梁勝祖の二人は陳が首謀者であり自分たちは指示を受けていたと供述した。そして彼女の直接的な死因は、彼女自身によるメタンフェタミンの過剰摂取であると主張した。

 検察側は勿論のこと、多くの専門家によって、虐待による衰弱死と推量されたが、粉々にされ、鍋で煮込まれ、腐敗しきった臓物や頭蓋骨から、彼らの証言を否定する素材は得られなかった。

 

■判決

3人は精神鑑定の結果、反社会性パーソナリティ障害、性的倒錯や神経症が認定されたものの、刑事責任能力に問題はないとされた。

2000年12月6日、陪審団による審議は「6対1」で証拠不十分により、被告らに殺人ではなく過失致死の罪状を認めた(※本稿では事件の特性上、殺人事件のタイトルとした)。

 

阮雲道裁判長は、①犯罪の深刻さ②再犯の可能性③公衆の保護、の三原則に照らし合わせ、3人に対して最も重い量刑に当たる終身刑の判決を下した(当時の香港には死刑制度が存在しない)。再審には少なくとも20年の服役を要することとし、「近年、稀に見る残忍で変質的、堕落し、冷淡で凶暴、残虐な事件。禽獣にも劣る鬼畜の所業」とあまりの非人道性を厳しく断じた。

 

判決後、3人は直ちに控訴したが、首謀者とされる陳、逃亡を続けた梁偉倫については棄却された。梁勝祖については、樊さんが死亡する前日から現場に居合わせなかったことが認められ、直接的な過失致死を負わないものと判断された。04年3月、上告法廷(高嘉楽裁判長)により禁錮18年に減刑された。

 

事件中で唯一の物的証拠とされた被害者の頭蓋骨は、上訴審が終わり、事件発生からおよそ5年後の04年3月に家族の元に戻されて火葬された。1998年に生まれていた被害者の幼子はカナダへと移住した。

 

■綾瀬女子高生コンクリート詰め事件との類似

監禁には被害者の自由を奪う目的や閉鎖空間に置くことで暴力の発覚を免れる意図がある。他の監禁虐待事件からその拷問の傾向を考えてみたい。

①奴隷型・・・クリーブランド事件、新潟少女監禁事件など。主に性的暴行や金銭目的で拉致監禁し、暴力によって隷属・服従させることが目的のもの。

②支配洗脳型・・・北九州監禁殺人事件、尼崎事件など。とりわけこの二件は他人の家庭に侵入し、自らの腕力ではなく被害者やその身内同士で加虐させ合い、思考判断力を奪っていた。家庭そのものを乗っ取って集団支配する①より洗脳的な犯罪。

③特殊集団型・・・戸塚ヨットスクール事件、オウム真理教信者リンチ事件、ローマ・カトリック教聖職者による性的虐待など。全寮制の私塾や宗教団体などの特殊環境においては独自の理念や教義に基づく教育的指導と称して虐待が発生することがある。通常の監禁には含まれないが、アブグレイブ刑務所での捕虜虐待や左翼集団における内ゲバ(内部抗争)、相撲部屋におけるしごき、病院や福祉施設での虐待等もこれに近いものがある。

④一般集団型・・・堺市監禁殺人、金海女子高生殺人など。金銭目的などの恐喝からリンチへと発展し、加虐そのものが目的へと転じるケースが多い。

www.sankei.com

 

1988年11月から翌89年1月にかけて発生した綾瀬女子高生コンクリート詰め事件は上の分類でいえば④に含まれる。

この事件は足立区内に住む15歳から18歳の非行少年グループによって当時17歳の女子高校生がバイト帰りに拉致監禁され、およそ40日間に渡って暴行・強姦・殺人・死体遺棄を行った凶悪事件である。加害者への匿名報道や量刑の軽さは、その後の少年法改正の議論への引き金ともなった(一方で当時は被害者への保護規制がされておらずセカンドレイプともいえる報道・発言が行われた)。

 

主犯となる4少年は同区内の中学時代の先輩・後輩関係にあった(主犯格4人以外にも十数名が関わっていた)。彼らは高校を離脱しており、88年夏ごろから引ったくりや強姦事件を起こすなどしており、リーダー格のひとりは地元暴力団組織の構成員として的屋などの下働きをすることもあった。

当初は強姦・輪姦が目的とされたが、「さらっちゃいましょうよ」という発言から一人の少年の自室(親兄弟と同居)に略取監禁することが決められた。この少年の両親は共働きで、少年の家庭内暴力を恐れて適切な関与が為されておらず、不良少年たちのたまり場となっていた。

 

しかし裸踊りをさせる、陰部に鉄筋を指す、マッチ棒を指して着火する、肛門への異物挿入、皮膚にライターオイルをかけて着火するなど、おぞましい虐待はとりとめもなくエスカレートしていき、度重なる暴力に耐えかねた女性は「もう殺して」と哀願するようになった。こうした暴行に見られる嗜虐性は香港の事案と非常によく似ている。

被害女性は栄養失調と極度の衰弱により抵抗を示さなくなっていった。89年1月4日、少年の一人が賭けマージャンに負けた腹いせをきっかけにして、いつものように無抵抗の女性への暴行が始まった。飲尿強要や蝋燭を顔面に垂らすなどして凌辱し、転倒して痙攣を起こすなど女性の身体に重篤な事態が迫っていることを認識しつつも加虐を止めなかった(「未必の殺意」の認定)。キックボクシングの練習器具(重さ1.74キロの鉄球)などで勢いをつけて脚や腹部を強打した。その後、女性の太ももに着火行為を始めたが、やがて反応を示さなくなった。

 

翌日、少年らは殺害を隠蔽するため、遺体をバッグに詰め、トラックを借りてドラム缶やセメント、砂材などを調達。遺体をドラム缶に入れてコンクリートやブロックで固定し、不法投棄の多い江東区若洲にある埋め立て地に遺棄した。3月29日、コンクリート詰めの被害者の遺体が草むらで発見され、別件で逮捕され練馬鑑別所に送致されていた2少年に余罪を追及したところ、犯行が明るみとなった。

少年の保護者は、外泊を続ける女友達という認識で、一度は食事を与え、帰宅を促したこともあったが、少年が気付いてすぐに連行し、以後、女性が自発的に脱出を試みることはなくなっていった。女性は「逃げたら自宅に火を点ける」と少年たちに脅されており、捜索願を出させないために「すぐ帰る」と自宅へ電話をかけさせられていた。

 

また監禁は含まれていないが、1988年に起きた名古屋アベック事件も不良グループによる集団犯罪として似た傾向を有している。当初は恐喝目的で接近し、集団リンチから強姦、その後、犯行を隠滅するために絞殺して伊賀市山中に遺棄した事件である。こうした若者による暴力の残虐さをエスカレートさせていく無軌道な拷問殺人は、当時の一部マスコミによって“狂宴的犯罪”と呼ばれた。

いずれも互いの凶悪さを競い合うように拷問の嗜虐性はエスカレートし、当初から殺害の意図まではなかったにせよ、仲間内の関係性(教室内でいじめられっ子を庇えば自分に危害が及ぶと考える思考にも近いかもしれない)や、被害者を解放すれば事件が明るみになるという暗黙の了解などによって歯止めが利かなくなり、なし崩し的に殺害・遺棄へとつながっていく。

番長格の人物によるヘゲモニー(権力掌握)というよりは、仲間内での見栄の張り合い(凶暴さや異常さの誇示)が加害者相互を心理的監視下(共犯関係。逃亡と密告の禁止)に置き、「空気を読むこと」、いわば常軌を逸した“悪ノリ” と“忖度”によって助長された犯罪ともいえるだろう。

綾瀬の事件では被害者の顔面が変形し、衰弱していた12月時点からすでに後始末(殺害や遺棄の手段)について話し合いがなされていた。ハローキティ事件でも樊さんに多くの外傷を与えている時点で、すでに(売春斡旋などによって)借金の取り立てをすることは放棄していたものと考えられる。

多くの殺人事件で言えることだが、加害者の倒錯した思考において金銭的価値、性欲的価値を見出せなくなれば“モノ”の価値は失われる。彼らにとってはそれが人間であろうとも、愛着を失って不用品にされる人形と同じなのである。

 

■霊

殺害現場となったアパートは2012年に取り壊され、16年には新たにホテルが再建されている。

 しかしこの事件には心霊の噂が絶えなかった。公判の最中には、ハローキティ人形や鍋釜、冷蔵庫らが証拠品として提示され、その死臭は廷内のどこにいても漂ってきたという。

「ビデオ撮影をしたが消してしまった」と話した住人は、その後、アパート内で女性の幽霊に遭遇し、金縛りを経験するなどしたため、妻子を連れて転居した。

事件のことを知らずに4階に越してきた新しい住民は「夜中に下の階から女のすすり泣きが聞こえる」と友人に相談した。不安に思って確認したが、事件以降ずっと3階の部屋には住人はない状態だった。

心霊の噂に乗じた悪質な悪戯もあった。ある朝、現場近くの美容院の店員が店の前にキティ人形が置かれているのを発見した。ただそれだけの出来事であっても、事件を知る人々は、あたかも「頭部」が散髪を求めて彷徨ったかのような心象を抱いてしまう。その話がメディアに漏れて心霊騒ぎとなったが、後に閉店後に不審人物が置いていったものだと判明した。

2013年に香港の哲学者・陈定邦さんの妻がバーに訪れた際、通りの向かいの建物からじっと女性の頭がこちらを向いていることに気付いた。そのときは気付かなかったが、その建物は事件現場のアパート跡だったことが分かり、陈さんらは祭壇を建てて犠牲者を懇ろに弔った。

 

筆者は心霊や怪談を否定する人間ではないが、この事件に多くの怪異の尾ひれが付く原因を3つ挙げてみたい。ひとつは「少女の悪夢」から始まったこと。ふたつめは多くの香港人が見知った繁華街であったこと。みっつめは犠牲者の背景。

残虐極まりない殺害方法が詳らかにされる一方で「殺人罪」が適用されなかったことから犠牲者には怨念があって然るべきと思われた。また単なるナイトワーカーの事件としてではなく、厳しい生い立ち(樊さんもまた養児院育ちだった)を経て、幼子と恋人とに恵まれたところで命を奪われて、さぞや無念であったろう、と人々の情念に響いたことも大きいのではないか。

 

 

人間というのは不思議なもので、人殺しを罪と知りながらも人を殺し、人殺しを死罪にかけよと訴える。ある者には殺されて当たり前とまで考えながら、なぜこの人が死ななければならなかったのかとその理不尽に憤る。殺意は殺意を再生産する。香港映画の悪しき習慣として残虐性とグロテスクさを売りとする作品のモチーフにされる不幸はもはや筆舌に尽くしがたいものがある(せめて他のやり方があろうにと)。

行方不明事件が遺族を中途半端な悲しみや苦しみに縛り付けるのとは逆で、“霊になる”とはすなわち死者として認めること、慰むべき対象へと転じたことを意味する。無論、邪な好奇心で心霊を取り扱うべきではないとは思うが、怪談や心霊とされることで人々やその地域に記憶されること自体、筆者は悪いことではないと考えている。

 

被害に遭われた方々のご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

 

*****

・参考

兇案點滴:女督察自殺亡 | 蘋果日報

■香港ニュースボット(2000年10月21日、明報網站)

香港高等法院判決文 

綾瀬コンクリート事件/東京地裁判例pdf

ジャック・ウンターヴェーゲルについて【ウィーンの絞殺魔】

 “ウィーンの絞殺魔”の異名でオーストリアの「シリアルキラーとして知られている」、ジャック・ウンターヴェーゲル(1950-1994)について記す。

 

■生い立ち

ヨハン・ジャック・ウンターヴェーゲルは、ウィーンのウェイトレスと見知らぬ米兵との非嫡出子として生を受けた。幼少期に母親が逮捕され、ヴィミッツという山村で暮らすアルコール依存症の祖父のもとで育った。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20200412132320j:plain

Von Niki.L - Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=90677337

実母のまともな記憶はなく、祖父が持っていた彼女のヌード写真でその姿を知るのみだった。祖父は写真を手に「お前はこの“雌犬”の“穴”から出てきたんだ。お前のせいで時間も金も取られるってのに、あの雌犬は一銭だって送ってきやしない」と言って出来の悪い娘と幼いジャックを責め続けた。

祖父は貧困を理由に少年から教育の機会を奪い、盗みや詐欺、農場荒らし(動物窃盗)の片棒を担がせた(彼の幼少期の思い出の一つは、祖父のカード賭博のイカサマに加担したことだった)。10代になると、強盗のほか、売春のポン引き、性的暴行などに手を染めるようになっていった。

16歳で窃盗罪で逮捕されて以降、青年期のほとんどを矯正施設(少年院)との往復に費やすことになった。真っ当な生き方など教わってこなかった彼は、貧困と虐待が生み出した若年犯罪者の典型ともいえる前半生を送った。

 

■唯一の殺人 

1974年12月12日、ジャックが24歳のとき、ドイツのヘッセンに住む友人アネリーゼとクリスマス・パーティーの帰路で強盗をしようと思い立ち、車でドイツ人女性マーガレット・シェーファーの後をつけた。当然彼らはアルコールやドラッグの影響下にあった。

彼女の家に侵入すると、金を奪い、手かせを付けて、エヴェルスバッハの森へ拉致し、鋼棒で首と頭部を殴打した。着用していたブラジャーの紐を使って絞殺した。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210427122647j:plain

「彼女を殴ったとき、母のことを思い出した」

 

その発言には、彼の悲惨な生い立ちを供述に重ねることで情状酌量を求める意図があったのかもしれない。彼は裁判で強盗については認めたが、殺害の意志はなく過失致死だと主張していた。

だが私欲のためだけに18歳の女性の人生を踏みにじった罪が軽くなることはなく、1976年6月、ザルツブルグ地方裁判所終身刑を言い渡された。74年にストッキングで絞殺された23歳の女性殺害の嫌疑もかけられたが、こちらは証拠不十分とされた。

 

■転機

しかしジャックは獄中でのリハビリテーションの一環として読み書きを習得すると、詩や戯曲、自伝や小説といった執筆活動に勤しむようになる。サークルを作り、朗読会や子ども向け作品の制作も行った。

初等教育を受ける機会さえなかった彼の目覚ましい“変貌”ぶりは、ノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネックアンドレア・ウォルフマイヤーらドイツ・オーストリア圏の知識人たちの目に留まる。

無学な殺人犯であっても再教育と良心のリハビリによって更生できることを証明する“模範囚”としてジャックを擁護し、終身刑で社会復帰への門戸が閉ざしてしまうのはおかしいとして、赦免・釈放を求めるキャンペーンが行われた。

 

83年に獄中から発表された自伝『Fegefeuer oder Die Reise ins Zuchthaus(煉獄または刑務所への旅)』はベストセラーとなり、88年にはウィルヘルム・ヘンストラー監督・脚本により映画化もされた。85年から89年にかけて12冊の文芸誌『ヴォルト・ブリュッヘ(ことばの架け橋)』を発行。この活動と執筆者たちは、ドイツの社会思想家インゲボルグ・ドレヴィッツによる囚人文学賞を受賞した。

彼の獄中作家としての活躍は米国でも反響を呼び、イギリスの連続殺人鬼“Jack The Ripper(切り裂きジャック)”をもじって“Jack The Writer(物書きジャック)”などと紹介された。

 

88年3月、刑法第46条が改正され、終身刑を受けた者であっても15年以上の服役を経て著しい更生が認められ、再犯はないと仮定される場合において、仮釈放を認める方針が加えられた。彼の刑期は16年に減免され、90年5月23日に仮釈放を認められることとなる。

 

■煉獄からの脱出

出所後、ジャックは著述のほか、公共放送のゲストや雑誌インタビューなどにも登場し、犯罪やセックスワークに詳しい元アウトローのジャーナリストとして精力的に活動を開始した。

ダブルのスーツを着こなし紳士然とした彼の振舞いは、不幸な生い立ちから見事に立ち直った“社会実験”の成功モデルであることを人々に印象付けた。彼は各種パーティーに引っ張り凧となり、Seitenblickegesellschaft、いわば社会的成功を遂げた文化人のひとりと捉えられていた。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210427123358j:plain

「これまでの人生はもうおしまいだ。次に取り掛かろう」

 

しかし、野に放たれた元囚人は、後半生をかけて社会に寄与する生き方を望んではいなかった。 

ジャックが出所して半年後、プラハ近郊のヴルタヴァ川でニーソックスだけを履いた全裸遺体が発見された。性的暴行の痕跡はなかったが、全身には多数の傷跡があり、死因は絞殺だった。その後もグラーツ、ルステナウ、ウィーンなどヨーロッパ各地で計8人のセックスワーカーの女性が殺害された。

そもそもオーストリアでは売春婦を狙った殺人は年間1~2件程度と極めてまれであった。遺体の多くは森などの屋外に遺棄されており、なぜ急にセックスワーカーばかりが立て続けに襲われるようになったのかは誰の目にも不審に思われた。(ウィーン医科大の法医学博士アンドレア・ベルツィアノヴィチの調査によれば、1959年~94年の間でオーストリア国内の売春婦の殺人は54人とされる)

 

警察は、ジャックへの疑いを強めていたが、いわば法律を変えてまで釈放した有名人を再逮捕するとなると捜査は慎重に慎重を期さねばならず、容疑者の断定を避けていた。

だがメディアはすでにシリアルキラーの存在を報道しはじめ、その中で元捜査官オーガスト・シェナーは各地の事件報告から、「元囚人」による犯行との類似性を指摘した。被害者たちはことごとくブラジャーの紐かストッキングで絞殺されていたのである。

さらに皮肉なことだがジャーナリストのひとりとして、ジャック自身もウィーン警察署長に取材をし、91年に“歓楽街の恐怖”としてセックスワーカー連続殺人についての記事を書いている。

 

91年6月から7月にかけて、ジャックは“仕事”のために訪米し、“ナイト・ストーカー”リチャード・ラミレスに倣ってロサンゼルスのセシルホテルに滞在していた。LAPD(ロサンゼルス市警)の送迎を受けながら、本来の仕事である犯罪や性風俗の調査、現地での雑誌の取材などをこなしている。彼の滞在した5週間の間に、周辺で3人のセックスワーカーの女性がブラジャーの紐で首を絞められる連続殺人が起きている。 

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

帰国後、ジャックへの捜査が開始されたが、彼は事件への関与を否定し、表面上は捜査員に対して協力的だった。グラーツ警察はジャックへの監視警戒を続け、彼の述べたアリバイはいずれも成立しないことが判明すると、92年1月に証人尋問を求めた。

 

■逃亡と逮捕

しかしジャックは行方をくらませる。当時ウィーンで知り合った18歳の恋人ビアンカ・ムラックは、バー“マルディグラ”でホステスをさせられていたが、捜査の手が及ぶ前に彼女も行方をくらませていた。警察は、2月15日に二人に対する指名手配を公表した。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210426091529p:plain

Bianca Mrak

同日、ジャックはパリ、スイスを経由し、マイアミ行きの飛行機でアメリカへと高飛びした。その後、ビアンカの知人と連絡をとり、金や新聞記事をアメリカに送るよう手配をつけた。

しかしこの金策裏目に出た。オーストリアで騒ぎが大きくなると、送金役の人物(マヌエラ.O、アイリーン.Pとも言われる)が関係者から摘発を受け、警察の手中に落ちる。

92年2月27日、マイアミの銀行で原稿料の前借を受け取ろうとしたジャックとビアンカは、待ち伏せていたFBIに逮捕された。後年、ビアンカは自伝の中で、逃亡中は彼が有罪になるかどうかなんて考えていなかった、と記した。

陪審員の皆さん、私たちは今後2か月間、逃げも隠れも致しません。そして私は不毛なお芝居などしたくありません。どうぞお寛ぎください。ご不明な点がございましたら、お気軽にお問い合わせください。何でも、本当に何でもお答えします。

ほら、私は殺人者ではないので、隠すものが何もないという大きな利点があります。私が嘘をついているのか、その目でご判断ください。(Vice.com)

オーストリアに身柄を引き渡されたジャックは11人の殺害容疑で起訴されたが、終始無実を訴えた。

検察側は遺体に付着した繊維痕の中から、ジャックが着用していたチーフやズボンと一致するものを検出していた。更に万全を期すため、オーストリアで初となる証拠品のDNA鑑定を行い、彼の車に残されたブロンドの毛髪が犠牲者ブランカ・ボコヴァのものと一致した。逆に見れば、そこまでしなければジャックを有罪にできなかった、彼の表向きの生活に決定的な“ボロ”が出なかったともいえるかもしれない。

 

■終幕

彼の日記には、673日間で152人の女性との快楽的関係が詩的表現で綴られていた。また勾留中に確認できただけで約40通のラブレターが、ときに写真入りで送られてきた。

精神科医ラインハルト・ハラーがジャックに女性ファンについて尋ねたところ、彼なりに3つの分類を示した。ひとつは殺人者と寝たいと望む古風で“お堅い”未亡人、ひとつは無実を確信して救いたいと願う人たち、そして自らの人生を「檻から出ることができない殺人者」に捧げるグルーピー(狂信的ファン)。彼は魅力的で人たらしの狡猾なプレイボーイだった。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210308013028j:plain

Jack Unterweger mugshot

しかし「現場近辺のホテルで読書をしていた」といった彼の不明瞭なアリバイは、陪審員の目にはもはや“下手な芝居”にしか映らなかった。担当弁護士アストリッド・ワグナーは、勾留中の彼に恋愛感情を抱いていたが、晴れて無罪に導くには経験が浅かった。

特別法医リン・ヘロルド博士は、犯行時の独特の結び目にはシェーファー殺害との共通点があったと指摘し、精神科医はジャックを自己愛性人格障害と診断したが刑事責任能力に問題はないとした。2件については遺体の損傷が大きく死因の特定ができなかったため罪に問えなかったが、9件に関してジャックの犯行と認められた。94年6月28日、仮釈放なしの「2度目の終身刑」判決が下された。

 

判決からおよそ6時間後、男は独房内で自らの靴とスウェットパンツの紐を使って首を吊った。上訴前(法律上は刑が確定していない状態)だったことから、彼は厳密には「連続殺人犯」ではない。若い頃、1人の女性を殺害した「元囚人」としてこの世を去ったことになる。

オーストリア国民党のマイケル・グラフは「彼の最高の殺人」と、“お決まりのやり方”で自死した元囚人に対して不適切な皮肉を述べた。

 

■真偽と妄想 

一般に流布されている彼の前半生(上記の“生い立ち”の部分)は、彼の自伝によるところが大きい。つまり“貧困と虐待の犠牲者”としてのエピソードは、彼の“シナリオ”という可能性も大いにある。

自らの学びや知識人との交流の中で、虚偽記憶が生成されたり、自分“たち”に有利なストーリーを形成したとしてもおかしくはない。かつて彼を擁護したリベラル派知識人たちは彼の中にひとつの神話を夢見たことを悟り、責任の一端を謝罪する者もいた。

 

RMAオーストリア地域新聞)系メディアmeinbezirk.atに掲載されたフリージャーナリスト、ピーター・プガニック氏の記事では、ジャックの小学校時代の「恩師」の娘にあたるイングリッド・サビッツァー・ヴィツムさんの証言を取り挙げている。

彼女が父親から聞いた話では、ジャックの祖父フェルディナンド・ヴィーザーはアルコール依存と賭博好きで知られていたという。次から次へと女性を連れ込んでは暴力を振るったため、女性たちはすぐに居なくなった。ネグレクト(育児放棄)された彼にトイレットペーパーの使い方を教えたのもその恩師だった。許しがたい家庭環境で育ったジャックは一年生の初めからすぐに周囲とケンカを始め、クラスの問題児だった。ジャックにひどい偏見を持つ牧師もいたが、恩師はその都度彼を庇っていた。そうしたこともあって彼は収監中も恩師に対して手紙を綴り、釈放後にも2度、華やかないでたちで恩師の元へ訪れたという。

 

上の記事を読んで、筆者は何の根拠もない妄想に囚われるようになった。

ジャックが自伝で「母親のヌード写真を見せられた」と記したが、はたしてそれは本当の母親だったのかという疑問はだれしも思い浮かべると思う。単に“女性”を指し示す意味でポルノ写真に映っていた第三者を使って「お前はここから生まれたんだよ」と説明したようにも思える。ひとつ疑い始めると、生い立ちのエピソード全てが創作であるようにも思え、どこまでが真実でどこまでがフィクションなのか非常に見えづらくなっていた。

だがジャックの祖父が女たらしで暴力的であること、実際にネグレクトな祖父のもとで育ったことが事実とすれば、更なる推論が思い浮かぶ。ジャックの祖父は「本当に祖父だったのか」という見方である。

 

たとえば、祖父が老年で授かった子どもなのではないか。要は、ジャックの祖父は彼の父親なのではないか、ということだ。祖父が「ジャックの母親」として見せていたヌード写真は逃げられた“元カノ”のものだったのではないか。父親自身が、あるいは彼を父親と認めたくなかったジャックが、父親の存在を曖昧にしてしまったという可能性である。

あるいは、祖父が自分の娘に性的虐待を加えて身ごもらせた可能性。つまり祖父であり、父親でもあるケースだ。ジャックの母親が親許に戻らない理由として十分に考えられる。

女性の出入りが頻繁だったことから考えると、祖父の恋人の連れ子だった可能性もあるのではないか。男の暴力に耐えきれず、実の母は逃げ出して、幼いジャックだけが残された。祖父は実は赤の他人というケースである。しかし捨て殺すにはあまりに不憫で忍びなく、とはいえ自ら育児ができる訳でもない。それゆえ次々と母親代わりとなる女性を求めて連れ込んでいたと見るのは非現実的だろうか。

 

 

 

知識人たちを魅了し、模範的な元囚人という肩書を手に入れた男は、はたして「浄化」することはなく、反社会的人格の上にハリボテの社会性を身に付けただけであったが、いずれにせよ彼の不幸な生い立ちはフィクションではなかったようだ。

 多くの犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

 

*****

・参考

"Jack Unterweger war ein Kind der Wimitz" - St. Veit 

10 Jahre nach Unterwegers Tod: Bianca Mrak rechnet ab! • NEWS.AT

Jack Unterweger: Der Party-Killer | profil.at

Jack Unterweger Teil I | Mord und Totschlag

http://www.causa-jack-unterweger.com/paypalipn/eBook_Wenn_der_Achter_im_Zenit_steht.pdf

リチャード・ラミレスについて【ナイト・ストーカー】

“ナイト・ストーカー”の異名で知られるアメリカのシリアルキラー、リチャード・ラミレス(1960~2013)について記す。

 

■生い立ち

1960年2月、リチャードはテキサス州エルパソのメキシコ移民の家で7人きょうだいの末っ子(五男)として生まれる。鉄道会社に勤める父親は敬虔なカトリック教徒で勤勉に働いたが、家庭内では妻子に暴力を振るった。

リチャードは2歳の頃、タンスによじ登ろうとして転落し、前頭葉損傷の大怪我を負った。さらに5歳の頃にはブランコが頭に直撃したことをきっかけにてんかんの発作を起こすようになった。虐待被害やこうした頭部への衝撃・損傷は、多くのシリアルキラーに見られる共通の兆候だと解されている。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210424034943j:plain

Richard Ramirez, mugshot, 1984

幼少から家族と教会のミサに通っていたが、皮肉なことに信心深い父親と神の教えである聖書は、彼を悪の道へと導くことになる。

 

成長

リチャードは少年時代から窃盗や軽犯罪の常習犯だったが、他の少年たちと積極的に徒党を組むことはなかった。後に獄中で回答したアンケートでは、「友達に好かれていると思うところは?」という質問に対し、「友達はつくらない、付き合うだけだ」と記している。

だが10歳頃になると、ベトナム帰りで元グリーンベレーの従兄弟ミゲルと関係を深めた。ミゲルは少年にマリファナの味を教え、戦地で女性に対して行った強姦や首の切断などの虐待について、写真を交えて語り聞かせた。

73年5月、ミゲルは家で妻と口論となり撃ち殺したが、目の前にいた13歳の少年が元軍人の犯行を止められるはずもなかった。男は精神障害とされて実刑を免れ、4年ほど保護施設に収容された。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210427005035p:plain

孤立を深めた少年はハードロックやホラー映画、大麻LSDを好み、聖書に書かれていた「悪魔」に魅せられ、悪魔崇拝へと傾倒していった。だが“アシッドキング”として知られるリッキー・カッソ(※)が“黒円の騎士団”で仲間とつるんでいたようなものとは異なり、グループ活動や儀式・魔術などの実践は行っていなかった。

(※リッキー・カッソも10代で悪魔崇拝者となった。1984年、17歳のとき、麻薬トラブルをきっかけに友人ゲイリー・ラウワーズを滅多刺しにし、目玉を切り裂いて殺害。“悪魔が殺った”“使い魔のカラスが食べた”と友人たちに吹聴して、森に埋めた遺体を見せて自慢した。事件発覚当初、黒円の騎士団はカルト教団だと報じられていたが、実態はヘヴィメタル・ロックやオカルト趣味を介してドラッグ売買をする不良グループだった。彼は逮捕の2日後に房内で首つり自殺した。)

 

以来、父親と反目して家から追い出され、姉夫婦と暮らすようになる。しかし姉の夫は性倒錯者で、女性を狙ったストーキングや“覗き趣味”を少年に仕込むことになる。

学校を中退してホテルに勤めるようになったが、客室への侵入と窃盗を繰り返し、レイプ未遂が発覚して職を追われた。

 

■LA

1982年、リチャードは故郷を離れ、カルフォルニアに移り住むと、コカインと強盗を繰り返すホームレスの日々を送った。路頭に迷いながら、車が見つかれば車上荒らしをしてそのまま座席で眠り、侵入しやすい家を見つけては金品を奪い、金ができれば簡易宿舎でドラッグに溺れ、自動車窃盗などにより短い服役を3度繰り返した。

 

当時、ロサンゼルス・ダウンタウンスキッド・ロウ(LAのドヤ街、犯罪多発地域)にも出入りし、セシルホテルでの滞在歴があったことでも知られている。

セシルホテルは1924年に開業後、27年にパーシー・オーモンド・クックが妻子との和解の失敗を苦に拳銃で自殺したことをはじめとして、2015年までに確認されているだけで16人に及ぶ自殺者・他殺による犠牲者・不審死が出ている。壁に狂気が宿る“The Suicide(自殺ホテル)”などと呼ばれるようになり、その荒んだ空気は新たな悲劇やシリアルキラーたちを呼び込んだ。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210308015202j:plain

男は14階の一部屋に一泊14ドルで滞在した。

知られるかぎり部屋の中で殺害したり、遺体を部屋に持ち帰ったことはなかったが、事後に血まみれになった衣服を路地裏のダンプスター(ゴミ集積用の大型容器)に捨て、裸足に血だらけの下着だけという姿で部屋に戻ってくることはあった。だがそんなやらかし立てほやほやのイカれた狂人にちょっかいを出す“愚か者”はそのホテルにはいなかった。

 

ホテルは600室ある半分が長期居住区・半分が通常の宿泊施設とされている。

かつて長期居住していたケネス・ギヴンス氏は、エリサ・ラムさんの失踪を追った犯罪ドキュメンタリー『事件現場から;セシルホテル失踪事件』(Netflix, 2021)に出演し、1980年代当時の無法状態について語っている。

「自分は6階より上に行くことはなかった。セシルの場合、大抵は高層階から死人が出た。やつらは野郎を捕まえてくると、部屋に拉致ってぼこぼこにしたあと、窓から放り投げることさえあった。気を付けていないと、翼なしでその高さから飛ぶ羽目になる」

 

(尚、2013年に同ホテルで起きたエリサ・ラムさんの事件、ラミレスに倣って同地で宿泊し3人のセックスワーカーを殺害したと見られている“ウィーンの絞殺魔”ジャック・ウンターヴェーゲルについては別稿をご参照いただきたい。)
sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

 

 

 

■ナイト・ストーカーの誕生

84年6月28日、リチャードはロサンゼルス市郊外グラッセルパークのアパートの一室に侵入するも、大きな成果が得られなかったために住人のジェニー・ヴィンカウ(79)を強姦の上、めった刺しにして殺害した。この凶行により男は暴力の味を知り、やがて見境なく犯行を重ねていくことになる。

 

85年3月、リチャードはコンドミニアムのガレージに待ち伏せ、車で帰宅したマリア・ヘルナンデスを22口径で銃撃。続けて部屋の中にいた同居人デイル・オカザキを銃殺した。しかしマリアは発砲を受けた際、手で咄嗟に頭を庇い、奇跡的にも手に持っていた車のキーに銃弾が跳ね返たため、致命傷を負わずに済んだ。侵入者は顔を晒していながらも、命乞いする彼女を残して立ち去った。現場には男が被っていたロックバンドのキャップが残されていた。

その40分ほど後、モントレーパークの路上で一台の車を止めると乗っていた学生ツァイ・リアンユーを引きづり下ろして射殺し、車を強奪して逃走した。

その10日後の深夜未明、郊外の住宅街に住む夫婦宅を襲撃し、就寝中の夫ヴィンセント・ザザラの頭部を撃ち抜くと、妻マキシンに金品を要求。マキシンは侵入者が目を離した隙をついて防犯用ショットガンを身構えたが、弾丸が装填されていなかった。これに激怒したリチャードは彼女を射殺し、胸を切り裂き、目玉をほじくり出して持ち去った。

深夜のロス郊外で立て続けに強盗、強姦、殺人を繰り返す残忍な犯行に対し、メディアは“Valley Intruder(谷の侵入者)”と呼んで報道した。

 

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210427014938j:plain

その後も、12歳の子どもをクローゼットに閉じ込めて母親をレイプする、高齢姉妹に瀕死の重傷を負わせながら女性の太腿や壁に口紅で「逆五芒星(悪魔のシンボル)」を描く、マチェーテ中南米で用いられる山刀・鉈)で喉を掻き切る、襲撃に用いたハンマーやバールをそのまま捨て置く、脅迫の際に悪魔への忠誠を誓わせるといった様々な手口が用いられ、多くの痕跡が現場に残された。

(後に彼の所持品として数多くのブロマイド、エロ写真が発見され、SMの加虐趣味やいわゆる“脚フェチ”だったことも知られている。)

 

猟奇性と大胆さはエスカレートし、LAの夏の夜を恐怖のどん底に陥れた。闇に紛れて家々を襲う黒づくめの殺人鬼、毛むくじゃらで虫歯まみれの悪臭を漂わせる不潔な悪魔は、新たに“ナイト・ストーカー”との異名が冠された。

 

彼の犯行はほとんどがその場の思いつきに過ぎなかった。生かすも殺すも気分次第、顔を見られても気にしなかった。当然コカインなどの影響で暴走していたこともあるだろう。

性犯罪には比較的、加害者の性向(被害対象者の人種・年齢・性別、外見的特徴、犯行手段など)が現れるものと考えられていたが、彼の標的は一貫性を欠いていた。従来のプロファイリングに当てはまらない性質だったことで、各犯行のつながりを発見するまでに大きな遅れを取った。

しかし現場に残された数々の証拠品、被害生存者の証言や周囲から得られたタレコミ、当時導入されたばかりの“指紋解析”により、前科のあったリチャード・ラミレスに容疑が絞り込まれていった。

 

■逮捕

アリゾナ州ツーソンにいる兄弟の元を訪れたリチャードは、不在と知ってやむなくLAに戻った。85年8月31日、男はエル・マトン(殺人者)と共にリカーショップに立ち寄ると、新聞に載った自分の指名手配写真を見て一貫の終わりだと悟った。潜伏を試みようとヒスパニック系住民の多く住む地域に立ち入ったが、住人たちはナイト・ストーカーを匿うことはなかった。

事件のせいで住民たちは警察や周囲から一層睨まれる生活を余儀なくされており、むしろ同じヒスパニックの面汚しとして、子どもや老人を犯した鬼畜として、犯人である彼を憎んでいた。住民らは市中で男を追い回し、横っ面に鋼棒で一撃を浴びせると、身柄を拘束してリンチに掛けた。彼らの怒りはすさまじく、冷血な犯行を繰り返して指名手配を受けた極悪非道な男は、その後駆け付けた警官に対して助けを請うたほどだった。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210427030618j:plain


 その後の彼は、悪びれる風もなく裁判やメディアを翻弄した。弁護士の選任や裁判所の地域に難癖をつけて公判を遅らせ、取材カメラを見つけると微笑みながら左手にある逆五芒星のタトゥーを掲げ「Hail Satan」と叫んでアピールした。挑発や罵倒といった悪態の限りを尽くし、神も社会も恐れぬ悪魔的言動によってグルーピー(狂信的ファン、追っかけ)を生み出した。

逮捕から3年以上経ってようやく審理が開始されるも、痴情のもつれから陪審員の一人フィリス・イヴォンヌ・シングルダリーが愛人に殺害されるなどトラブルが相次ぎ、「リチャードのために悪魔が裁判を妨害している」といった声すら聞かれた。

89年9月20日、13人の殺害、5人の殺人未遂、11人の性的暴行、14件の強盗による有罪判決を受け、延べ12回分の死刑と59年の懲役刑が下された。

 

死刑判決後、リチャードは記者団に対し「Hey, Big deal. Death always went with the territory. See you in Disneyland.(いやー、大したもんだ。人に死はつきもの。ディズニーランド(「刑務所」のスラング)でお会いしましょう!」 と述べた。

 

2009年、DNA鑑定の結果、それまで未解決となっていた9歳の少女メイ・レオンへの強姦殺人にも関与していたことが判明。グルーピーの一人だったドリーン・リオイは男の無実を信じて85年から75通もの手紙のやりとりの末、96年に獄中結婚していたが、少女に対する罪が明らかになるとパートナーに別れを告げた。

リチャードは獄中での多くの時間を再審請求に費やしたが、2006年に州最高裁はそれまでの死刑判決を支持、米最高裁は再審請求の最終棄却を決定し、ガス室送りを待つ日々を送った。2013年6月7日、男はB細胞リンパ腫(白血球のガン)による合併症によって、53歳で生涯を閉じた。彼の死後、遺体の引取手はしばらく現れなかった。

 

 

*****

・参考

US serial killer Richard Ramirez dies in hospital | US crime | The Guardian

戦争の闇を背負った子供たち アメリカで連続殺人鬼が多い理由 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

エリサ・ラム事件について

 2013年に起きたエリサ・ラム(藍可兒)の怪死事件について。

もしかするとその若いカナダ人女性の死因や経緯には本来“事件”と呼ぶべき要素は含まれていなかったかもしれない。しかし、今世紀、世界中で最も繰り返し検索され、言及され、検証され続けているその現象を、筆者はひとつの事件と捉えている。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210308015202j:plain

ロサンゼルスは歴史的に見ると温暖な気候を生かした農産・牧畜が中心の地域だった。19世紀半ばにメキシコから分離してアメリカ領になると、油田開発などにより急速な工業化・都市化が進んだ。1900年におよそ10万人だった人口は、20年代には100万人近くにまで急成長した。それまで東海岸中心だった映画界の変革によって映画の街ハリウッドが形成されたのもこの時期に当たる。

1924年、セシルホテルは主にビジネス旅行者や中産階級向けを見込んで700室を備える大型ホテルとして開業された。しかし直後の大恐慌の影響と長引く不況、LAハイウェイの開通、ダウンタウンの衰退などによって経営不振に陥り、ダウングレードを余儀なくされる。(※2011年以降、Hotel CecilはThe Stay on Mainに改称されたが、本稿では便宜上、よく知られている「セシルホテル」の呼称で扱う)

 

戦後は、スキッド・ロウ(ドヤ街)から1ブロックという立地も手伝って、麻薬使用や取引の場として、売春婦たちのプレイグラウンドとして、犯罪者たちの隠れ家として、人生に絶望し行き場をなくした人が最期に訪れる場所として使われることが多くなり、数々の悲劇を生んだ悪名高いホテルとして知られることとなる。

所有者が変わり、内部はリニューアルされた。2000年代後半はLAダウンタウン再開発の機運にともなって、外国人旅行者やユース向けの低価格ホステル路線へと軸足を移し、新たな歴史を歩み始めたかに思えた。

 

■失踪

2013年2月初旬、ロサンゼルスのダウンタウンでカナダ・ブリティッシュコロンビア州バーナビー在住の大学生エリサ・ラムさん(21)が行方不明になった。

彼女はブリティッシュコロンビア大学に通っていたが1月後半から長期の休みをつくって(授業を取らず)アメリカ西海岸をめぐる一人旅の最中で、 1月27日からセシルホテルに宿泊していた。

そもそも両親は娘の一人旅に乗り気ではなかったため、ラムさんは毎日カナダの親許へ安否確認の電話を入れていたが、その様子は明るかったという。2月1日から急に連絡が途絶えたことで親は心配となり、LAPD(ロス市警)へ捜索を依頼して、自らもLAへ向かった。ホテル側でも31日とされていたチェックアウトの予定がいつまでも更新されないことを不審に思って確認したが、彼女からの応答はなかった。

 

1月31日の午後、彼女は近くの本屋ラストブックストアで、土産に本やレコードを購入。「旅行の途中なので荷物が重くなる」といった話をしており、書店員ケイティさんは「とても社交的で活発、とてもフレンドリーでした」と彼女の印象を記憶していた。

しかしその晩、ホテルのロビーに一人でいるところを目撃されたのを最後に、彼女は行方をくらませていた。出入り口のカメラにも外出する様子は映っていなかった。つまりホテル内で忽然と姿を消してしまったのである。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20190616231242j:plain

ホテルは共同部屋を含めておよそ600室あり、多数の利用客もいたため、即座に全室を確認することはままならなかった(殺人事件と断定されていないため強制捜査はできなかった)。警察犬を動員して可能な範囲で捜索を行ったが、追跡は失敗し、行き先は分からなかった。

5階にあった彼女の部屋は雑然としていたが、何者かに荒らされた形跡は確認されなかった。遺留品は、衣類やコンピューター、財布、処方薬、土産のほか、次の行き先へのバスのチケットも発見されており、自発的な失踪とは考えづらかった。

 

2月6日、LAPD強盗殺人課は「事件の可能性がある」として彼女の写真とプロフィールを公開し、翌日、記者会見を開いて市民からの情報を募った。身長約163センチ、体重52キロ、黒髪に茶色い瞳、英語と広東語に堪能な中国系カナダ人、と説明された(ご両親は香港からの移民だった)。

しかし、高校生以上の失踪者ともなると、世間は「自発的な家出」と見なす傾向が強い。「21歳のカナダ人女性が失踪」というニュースは、年間3000人以上の行方不明者が出る大都市ロサンゼルスでは注目を集めることはなく、有力な情報は得られなかった。

 

■最後の目撃者

失踪から2週間後の2月13日、失踪直前にエレベーター内の監視カメラに収められた映像が公開されたことにより、彼女は世界的な注目を集めることとなる。撮影は1月31日深夜0時過ぎとされる。

荒い画質によって時間表記がグリッチ上に潰れており、早送りやスロー再生、ジャンプカット(抜き取り)などの加工・編集を疑う向きが囁かれている。だがLAPDは動画について説明的なコメントを一切出していない。 尚、当時、ホテルのマネージャーを務めていたエイミー・プライスさんは、Netflixの事件ドキュメンタリー番組『事件現場から:セシルホテル失踪事件』(2021)に登場し、画像は編集されたものではないことを断言している。

赤いパーカーを着たラムさんは、エレベーター内に入ったかと思うと、外の様子をこわごわと窺ったり、隅に身を隠すようなそぶりを見せる。それはまるで誰かに追いかけられている様子を思わせる。

しかし全ての階のボタンを押したかと思うとエレベーターを降り、手をひらひらさせて“誰か”に身振り手振りをしながら話し掛けているかのような行動をとる。しかし相手の姿は映ることなく、結局、彼女はエレベーターで移動することなくフレームから去ってしまう。

(エレベーターのボタンに顔を接近させている様子は、人によって奇妙な動作に見えるかもしれない。これは、普段は眼鏡を必要としていたが、このとき裸眼だったためだと考えられている)

扉がなかなか閉まらない理由としては複数階のボタンとともに「HOLD(開けたまま)」ボタンを押してしまったことが指摘されており、一度HOLDしてから閉まるまで114秒かかったとする検証もある)

 

本人を貶すつもりはないが、公表された映像は見る者を不安にさせた。その様子は、夢遊病者のように脈絡がなく、精神錯乱者や薬物乱用者が幻覚を相手にしているようにも見え、あるいは“不可視な存在”に操られていたとする超自然的な憶測さえ呼んだ。多くの人の脳裏には、彼女の不可解な行動が一種の“悪魔憑き”のようなイメージと重なったのではないだろうか。

 

■見えない犯人

初期には、彼女がSNS上で「どこかいい場所を教えて」などと書き込みをしていたことから、ネット上で知り合った人物の存在を疑う者もいた。映像から見切れた位置にだれかパートナー(犯人)が居て、鬼ごっこやかくれんぼのようにふざけ合っていたのではないか、とする仮説もあった。

また彼女は旅の途中で携帯電話を紛失したことをブログに綴っていた。このことから旅慣れない彼女を狙った人物が電話を盗んでトラッキングし、ストーキングしていたのではないかとの推測もなされた。

また周辺地域の治安は悪く麻薬常用者も多い。人身売買や強姦を目論む犯人と知り合って、違法ドラッグを盛られて逃げ出したため奇妙な行動になったのではないかとする意見も見られた。とあるボディ・ランゲージの専門家は、そのジェスチャーから意味を導き出すことができず、パーティー・ドラッグやレイプ・ドラッグが使用された可能性を指摘した。

 

誘拐されたにせよ、ホテルであれば大型のトランクを持ち運んでも何ら疑われることはない。彼女を見つける手がかりさえ出てこない中、旅先で若い女性が一人でいればどんな事件に巻き込まれていても不思議はないように思えた。

北米でのオカルト的熱狂はすぐに中国の動画サイトに飛び火し、リリース10日間で300万再生、コメント数は4万件を超えた(多くの複製動画を生むとともに、その後1000万再生を越えた)。

 

■ したいことをする

ラムさんはいくつかのSNSやブログに取り組んでおり、2021年4月現在も閲覧可能な状態で残されている。それらは彼女のキャラクターを知る上で手掛かりになるが、穿った見方をすれば、ドラマ化や映画化の契約要件には「web上に彼女が生きていた“痕跡”を保存すること」も含まれていたのかもしれない。

慰霊の意味も込めて、生前の彼女について少しだけ触れておこう。

2010年からBlogspot上で『Ether field』というブログを開始。2011年3月から、tumbler上の『nouvelle / nouveau』(どちらも仏語で「新しい」を意味する形容詞。男性形をヌーヴェル、女性形をヌーヴォーと表す)というショートブログを開設。同時並行で続けていたが、2012年以降は主に後者をメインに投稿していた。

どちらもファッション誌のスナップやアートフォトを転載する記事が多い一方で、“自撮り”やライフフォトを掲載することはなかった。今日的なファッション・美容・ライフスタイル関連のインフルエンサーのように高度にデザイン化・専門化・商業化された統一感のあるものではなく、ときにフェミニズムや政治、ウェブ文化に関する持論などをとりとめもなく記すこともある、学生らしいブログである。

 

tumblerには『ファイト・クラブ』原作者としても知られる小説家チャック・パラニュークの「You're always haunted by the idea you're waisting your life(あなたは“自分は人生の無駄遣いをしているのではないか”という考えにいつも追われている)」という一文が掲げられている。閲覧者に向けられた諧謔性というよりかは、ブログ主自身に対する自省・自戒として掲げられたものと解釈できる。

 

公開捜査の段階で、彼女の両親は娘が精神疾患を抱えていることを明かすことを良しとしなかったが、ブログの自己紹介欄では「双極性鬱病など多くの問題を抱えている」とオープンにしていた。「人見知りではあるが、他人との会話を楽しんでいるし、むしろ必要なことだ」と記しており、ネット上での匿名のやりとりを期待し、「読者が私のことをどう思っているか知りたい」としてリクエストも行っていた。

投稿記事は、以前よりも短文が目立つようになり、とりとめのないインスピレーション、著名人の至言などが連日投稿されていた。「昼夜逆転」「ジャンクフードに運動不足」「仕事しんどい」と病苦で思うようにいかない生活や自分を卑下するような内容も見られた。

2012年4月のBlogspotでは、通学がままならず学業に失敗したことをひどく後悔する投稿もあった(本人には向学心があり、大学院への進学も考えていた)。

 f:id:sumiretanpopoaoibara:20210423021433j:plain

筆者が彼女の文章を読んで感じたのは、自己肯定感の低さ(あるいは自己啓発意識の高さ)、米国に対するあこがれ(あるいはカナダに対する物足りなさ)、若者が誰しも抱く承認欲求(あるいは現状の評価に対する不満足や劣等感)、書く行為が好きだということ・・・彼女の内省的な感覚は、ブログやSNSをする人間にとってはごく当たり前のもので、精神障害による病的な影響や事件そのものとはあまり関係がないように思える。

ただ生前は記事にリアクションを寄せる読者はあまり多くはなかった(皮肉なことに彼女の死後、脚光を浴びることとなった)。これは仲間や誰かのために書かれた文章というより、彼女が自分自身のために続けていた習慣、一種の精神安定剤だったのだと思う。

 

2013年に入ると「西海岸旅行」についての投稿が散見されるようになる。

1月18日~バンクーバー、22日~サンディエゴ、26日~ロサンゼルス、その後、サンタバーバラサンタクルスサンノゼ、サンフランシスコを周る長期計画だった。

旅の冒頭から空港で迷子になって乗り継ぎに失敗し、(映画『ターミナル』の「トム・ハンクスのように」)毛布を借りて二晩を明かしたり、友人から借りていたブラックベリー(携帯電話)を紛失したりと、トラブルに見舞われながらも旅の様子をfacebookやtumblerで発信していた。交通手段は電車とバスに限られていたが、動物園やテレビの収録見学、徒歩での散策と、いろんな場所へ精力的に足を運んでいる。

今日はがっつり寝て、長めの熱いシャワー、3$の馬鹿げた夕飯を胃袋に流し込んだ。なんと生産的で楽しいことか。

サンディエゴに着いてからは、日常生活から完全に離れ、ガチでなんにもしていない。

私は自分のしたいことをする

結局、私は自宅の居心地のよさが好きで、時々、完全に暴走しちゃうところがあるんだよね。一目惚れした男の子にいきなり電話しちゃったりだとか・・・

ホステルでの人間観察が好き。 

がっつり休んで疲れも取れたし、明日からもっと外に出て冒険せにゃ・・・

1.水族館

2.動物園

3.博物館(無料なの‼‼)

4. コロナドかポイント・ロマでホエールウォッチング?

(意訳。2013年1月25日・サンディエゴ、『nouvelle / nouveau』)

1月14日の日記には、「気になる人がいるんだけどー」と「左手首にタトゥーを入れたコントラバス奏者の男の子」に関する記述が現れ、18・19日には「2回会った」だけで「イイ感じかなと思って」告ったけど、相手にその気はなく「拒否られた」と報告されている。

やりとりの詳細までは記されていないが、初出時の舞い上がった書きぶりや「玉砕」後の様子からして、「恋に恋してる」暴走モードの自覚はあった、それなりにダメージを受けてはいるが、自死を決断するような深刻な失恋ではなかったと想像される。

一種の躁状態だったと見ることも可能だが、彼女は自身の劣等感も手伝って、年齢の割には恋愛に奥手だったのかな、と感じた。

尚、彼がブログに登場するのは旅行間際なので、元々は“傷心旅行”にする意図はなかったと思われる。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210423020151j:plain

[by Jan Vašek via Pixabay]

旅行については、直前にも「オススメあったら教えてくれると嬉しい」とリクエストしていることから、厳密な予定や明確な目的があった訳ではなく、気の向くままに、半ばノープランで飛び込んだ感がある。だが引きこもりがちで「運動が必要だ」と自覚していた点から見ても、漠然と西海岸の晴れやかな気候を求めていたのかもしれない。

己の不甲斐なさやうまくいかない学生生活を変えようと、心機一転するために旅行を思いついたような印象を受けた。自分に対するフラストレーションを発散するバックパッカー、古風な言い方をすれば“自分探しの旅”とカテゴライズしてもよいと思う。

 

1月29日、LAに到着した彼女は、1920年代に建てられた宿泊施設に興奮し、愛読書だった『グレート・ギャツビー』の時代に思いを馳せて喜んだ。それが彼女自身による最後の投稿となった。

 

■水

その後、彼女の滞在先だったセシルホテルでは水道に関する苦情(濁っている、味や匂いがおかしい、シャワーの水圧低下等)が複数寄せられるようになった。

2013年2月19日の朝、原因調査に訪れたメンテナンス作業員が屋上に4つある貯水槽(1000ガロンの重力給水式)を確認したところ、その中のひとつから女性の遺体が発見される。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210420011425j:plain

21日、遺体がラムさんのものであることが確認されたが、警察は“事件”と“非常に奇妙な事故”の両面から捜査を続けた。遺体の状況には多くの疑問が生じ、より一層の物議を醸した。

①貯水タンクの上部ハッチ(重さ約9キロ)は開いていた(※)。

②タンク内の4分の3は水で満たされていた(遺体はタンクに浮かんでいた)。

③彼女は全裸姿だった(衣類等はタンク内にあり、カメラ映像で身に付けていたものと一致。赤いパーカー、黒い短パン、Tシャツ、サンダル、黒の下着、時計とカードキーが見つかっている)

④タンクは直径6フィート・高さ10フィート(約1.8メートル/3メートル)。脚立などは発見されなかった。

⑤タンク上部のハッチは約54センチ四方で狭く、捜索隊員は中に入ることができなかった(電動工具で底に切れ込みを入れて遺体を回収した)

⑥屋上に通じる扉は施錠され、警報アラーム装置も作動していたため、ゲストが意図せず(誤って)侵入することはできなかった。

⑦失踪中に警察犬を伴なって屋上でも捜索活動は行われていたが、追跡反応を示さず、タンク内の確認は行わなかった。

死因は特定されなかった

(警察の公式発表によれば、強姦による外傷、銃創や刺し傷などの他殺を示す証拠はなく、死因は不明だった)

(検死解剖では、肛門開口部周辺に血液が溜まっている指摘があった。担当した法医学者デビッド・クラッツォウ氏は、肛門部の変質は腐敗性によるものと説明しており、検体の分解によって「打撲痕などの外傷を確認することは困難」だと見解を示した。つまり外傷を受けた可能性を明確に否定するものではなく、腐敗の進行により外傷を確認できる状態ではなかったと解釈できる)

(薬物検査を担当したジェイソン・トヴァール博士は、体内から彼女が所持していた4種の処方薬成分が検出されたが、既存の毒物や違法薬物、アルコール類などは検出されていないと発表。しかし「Interestingly(興味深いことに)」処方薬の成分は、彼女の服用すべき規定量に対して極めて少なかった)

※①の上部ハッチの状態について、「閉じられていた」「施錠されていた」とする誤報が多く、余計に人々を混乱させ“怪死”の憶測を広げる結果につながった。

 

2013年9月、エリサの両親デビッドさんとインナさんは、セシルホテルを相手取り、施設の安全管理の責任を問う訴訟を起こした。出廷したメンテナンス作業員のサンティアゴ・ロペスさんは「ハッチが開いていて中を見ると、水槽の上部から約12インチのところにアジア人の女性が顔を上にして横たわっているのを見た」と当時の状況を証言している。

彼は水に関する苦情のあった各部屋を確認したのち、扉の警報ロックを解除して屋上階へ上がった。タンクは大型なので、上部ハッチにアクセスするためにハシゴを使用した。4つあるタンクのうち3つは蓋を閉じて施錠された状態で、1つだけハッチが開いていた。タンク内を覗いてみると、遺体と赤いパーカーが浮かんでいるのが見えたという。ロペスさんは本人との面識はなかったが、すでに警察に行方不明の捜査協力を行っていたため彼女が思い当たり、無線ですぐに通報を要請した。

尚、裁判ではホテル側の過失は認められなかった。

 

 

2013年6月22日、当局は、ラムさんの持病である双極性障害うつ病を主な原因とした「偶発的な事故」による溺死と判断し、捜査の終を宣言した。

彼女は当初、5階の別室で共同宿泊を行っていたが、ルームメイトのベッドに意味不明なメモを置くなどして苦情を受け、ホテル側から個室を割り当てられて移動していた。つまりすでにホテル到着の時点で、彼女には不可解な兆候が現れていたと受け取ることができる。死亡当時の彼女は処方薬が適切に使用されなかったことにより、症状が悪化していたとする見方である。

尚、彼女がどのように貯水タンクに入ったかは解明されていない

 

■妄想 

筆者も「病理的な妄想」が原因で起こった事故の可能性が極めて高いと考えている。憶測を述べるならば、彼女は自らの意思で休薬・断薬を試みていたのではないかという気がしてならない。

精神疾患の症状として、ものごとに不合理な自己解釈を当てはめてしまうこと、いわゆる強い「思い込み」がある。彼女の中で、恋も勉強も頑張りたいのに頑張れない、自分の病気が良くならないのは、「薬」の副作用なのではないかという考えに至ったとしても不思議はない(精神病と診断されていなくとも人はこうした発想に陥りやすい)。

あるいは旅による気分の高揚が、「薬なしでも大丈夫かもしれない」と彼女に思わせてしまったのかもしれない。彼女は新たな自分に生まれ変わるために、旅の途中で薬からの脱却を決意したのではないか。

たとえば共同部屋であれば、「あの人が自分の悪口を言う」「物を盗った」というような症状となって現れる(現れていた)かもしれない。だが個室に移された彼女は狭い部屋の中で一人ぼっちに浸りながら、「見えない敵」を生み出してしまった

人によっては休薬そのものを自殺行為と呼ぶかもしれない。だが彼女は「見えない敵」によって殺されたのである。

f:id:sumiretanpopoaoibara:20210423011548j:plain

“事故”の様子はたとえば次のように想起される。

悪質な妄想に耐えきれなくなった彼女は衝動的に部屋を飛び出す。だがホテル内の廊下は両側が部屋で埋め尽くされており、非常に閉塞感が強い。動画などを見れば分かるが、逃げ場のない空間であり、ますます「追いかけられる」心理が働く。

ようやく行き着いたエレベーター内での「隠れる」「見回す」動作は、非実在ストーカーの「存在」を示している。しかしボタンを押してもエレベーターは移動しない(「HOLD」ボタンを押したことによる)。彼女は「動かない」と錯覚したのか、エレベーターでの逃走を諦めて廊下に戻る。このとき不可解なやり取りによって、一時的に逃げ隠れる必要がなくなったのかもしれない。

しかし廊下で再び恐怖に駆られた彼女はいつしかフロアの隅へと追いやられていった。

追い詰められた彼女は窓の外に見えた非常階段へと飛び移った。しかし彼女は「上」に向かって逃げてしまう。

非常階段の最上部には屋上につながるハシゴが存在する(ある中国人動画クリエイターは、窓~非常階段~ハシゴを使ったルートはあまりに“脱出”が容易なので驚いたと語っている)。妄想はいつまでも彼女から離れようとはせず、屋上でも彼女を追い詰める。彼女は身を隠すため、配管やタンクの壁を伝ってタンクの上によじ登る(高校時代に陸上部だったため運動能力には長けていたものと考えられる)。

自ら逃げ場をなくしていった彼女は、タンク内に飛び込む。しかし着衣の重みで沈んでしまうため、慌てて着ていたものを脱ぎ捨てる。溺れなかったとしてもタンク内は大量の水に満たされており、閉塞空間である。屋外であれば周囲の灯もあるが、タンク内となれば完全な闇に包まれ、心理的パニックに陥っても不思議はない。

明晰な思考や判断力は奪われ、低体温で体力もみるみるうちに失われていく。たとえ開口部に手が届いたとしても、そこには彼女に襲い掛かろうとする“魔の手”が立ちふさがっていた。彼女は自らの妄想と意思によって、タンクの中に「閉じ込められていた」と考えられる。

 

■偶然 

現場が事件フリークにとって悪名高い“セシル”であったこと以外にも奇妙な偶然が重なった。

ひとつは、ウォルター・サレス監督の映画『ダーク・ウォーター』(2005)との類似性。

Jホラー映画の金字塔『リング』のコンビとして知られる鈴木光司原作と中田秀夫監督のタッグ作品『仄暗い水の底から』のハリウッド・リメイク版である。小説は“水”にまつわる7つの恐怖オムニバス集で、映画はその中の『浮遊する水』という短編をベースとしている。

ネタバレは自重するが、シングルマザーと幼い娘が引っ越してきた古びたマンションで様々な奇怪な現象に巻き込まれる内容で、「濁った水道水」、「貯水タンク事故」への疑惑、「エレベーター」でのパニックなど、事件と符合する描写は確かに多い。鈴木氏はかつての家事・育児経験、あるいは趣味のヨット航海など実体験の中から着想を得たと語っている。

 

もうひとつは、事件と同時期に「結核」が流行していたこと。

米国疾病対策センターは「ここ10年で最大の発生」としてスキッド・ロウでの結核の流行を食い止める措置を講じていた。その感染者特定に使用される標準検査キットのネーミングが“lam-ERISA”と呼ばれるものだった(結核に含まれるリポアラビノマンノンに反応して発色する酵素結合免疫吸着測定法の呼称で、人名を表すものではない)。

心ないオカルティストたちは喜々として事件に関連付けようとし、陰謀論のモチーフのひとつとなった。

 

また不可解な出来事として、彼女が行方不明となった後、2月7・13・16日にもtumblerの更新が計5回行われている。いわゆる“リブログ”と呼ばれる他人の投稿を再投稿する機能(Twitterでいうところのリツイート)で、生前の彼女も頻繁に行っていた。

これを彼女の霊的現象として捉える向きもある。だが彼女自身が何かしらの自動更新機能(人気投稿やお気に入りアカウントの投稿がリブログされるなど)を予めセットしていたか、何者かによってアカウントをハッキングされた、と見る方が妥当に思う。

あるいはレアケースではあるが「携帯電話を拾ったか盗んだかした人物」がアクセスしたと考える方がまだ現実的かと思われる。

 

■周辺事件と人種問題について

最後に異なる2つの事件の話を付け加えておきたい。

ひとつは、エリサの失踪とときを同じくして発生し、LAPDに不当解雇されたと訴えたクリストファー・ジョーダン・ドーナー事件である。

 

www.abc.net.au

正直さと誠実さを取り柄としていたドーナーは10代の頃から警官を志すようになり、南ユタ大学卒業後の2002年に米海軍予備役に入隊、その後、警察学校を経て07年にLAPDに就職した。

指導役の捜査官テレサエヴァンスとペアを組み、認知症統合失調症を抱えた市民が起こしたある騒動への対応を任された。その後、エヴァンスは厳しい業績評価をドーナーに下し、一方のドーナーは騒動を収めたエヴァンスには「当該市民への不必要な暴行があった」と内部告発した。

当該市民は「騒ぎの中で暴行を受けたこと」を家族に話していたものの、懲戒審査の公聴会では「質疑応答が困難」とみなされ、証言として認められなかった。結局、ドーナーの告発は虚偽と判断され、08年に解雇。激昂したドーナーは州控訴裁にLAPDを訴えるも、彼には「不当解雇」を立証する術がなく、11年10月、「ドーナーの主張を信用できない」とするLAPD側の主張が認められることとなる。

 

13年2月1日、ドーナーはジャーナリストに向けて自らの主張をまとめたDVD等を送りつけると、3日、カルフォルニア州アーヴァインで20代のカップルを射殺。一人はドーナーを非難した元上官の娘だった。4日、オンライン上でTo:Americaとするマニフェストを公開。

“will bring unconventional and asymmetrical warfare to those in LAPD uniform(ロス市警に対して従来とは異なる一方的な交戦を行う)” と復讐を宣言し、“Unfortunately, this is a necessary evil that I do not enjoy but must partake and complete for substantial change to occur within the LAPD and reclaim my name.(私も楽しんでいるつもりはない。残念ながら、これは私自身の名誉挽回、そしてLAPDの根本的な内部変革のための“必要悪”なのだ) ”と殺害の動機を公表した。

以降、名指しされた元上官ら数十名に対しボディガードが配備され、カルフォルニア州全域で厳重警戒態勢が敷かれた。

 

彼はロドニー・キング事件(1991。スピード違反をきっかけとしたカーチェイス後、警官隊が非武装のキングに対して50数回もの殴打を繰り返した事件。個人撮影によるビデオがメディアで紹介されると、アフリカ系アメリカ人に対する差別だとして翌年のロサンゼルス暴動に発展した)やランパート・スキャンダル(90年代後半、ランパートブロック担当の警官数十名が、証拠の捏造や偽証での不当逮捕、押収した麻薬の盗難・転売、銀行強盗など犯罪行為とそれらの隠蔽に関わったことが発覚した米国最大の警察腐敗事件。犯行の多くをギャングの仕業だとでっち上げていた)を引き合いに出して、警察組織の構造や権力の腐敗は変わっていないと訴えた。

マニフェストは告発文の体裁を取ったが、後半はほとんど理路整然としない内容であった。メディアはこれを「解雇の逆恨み」と表現した。しかし軍隊や警察で経験を積んだ彼の危険性は明らかだった(自身の射撃スキルを示すため、弾丸が貫通した2.5センチのコインと「1MOA(約91メートル)」と書いたメモがDVDに同封されていた)。

キング事件を例示していることからも、彼は不当解雇を人種差別問題だと認識していた。警察組織の面子をかけて、あるいは社会全体が警察への不満をバイラルする前に解決しなければならない極めて緊急性の高い重大事件として、LAPDは捜査に全力を挙げた。

 

エリサ事件と同時期に起きたこのドーナー事件はLAPDにとって最重要案件だったことは間違いない。警察に手抜かりや捜査漏れがあったかどうか筆者は確かめる術を持たないものの、「いつどこで何が起こるか分からない」性質上、ほかの事件捜査への心理的影響(注意力の低下)や、人員投入ができず集中捜査が行えないなどの物理的影響はあったといえるのではないか。

 

7日、警官2名が銃撃され一人が即死。数時間後、炎上したドーナーの車輛が発見されるが、本人は尚も逃走を続けたため、周辺地域で一斉捜索が開始された。10日、ドーナーをテロリスト認定し、100万ドルの報奨金を掛けて捜索を拡大。

12日、ドーナーがカージャックしたトラックが発見され、警察は追跡とともに包囲網を展開した。銃撃で警官一人を殺害ののち、山小屋に立て籠もった。警察は周辺を封鎖し、催涙ガスの使用と解体車を動員。ドーナーの降伏を求めた。やがて花火型の催涙ガス弾から小屋に発火。小屋内部での発砲によってガス爆発を起こし、小屋は大炎上した。その後、焼け跡からドーナーの遺体が発見され、銃創が確認されたことから自殺と断定された。

 

*****

もうひとつは、同年3月4日にLAから程近いオレンジカウンティーニューポートビーチで遺体となって発見されたティナ・ホアン事件である。ジャーナリストのマレリーズ・ファンデルメルウェ氏は、この事件とエリサ事件を関連付け、警察の捜査対応の遅れの背景に人種差別が含まれているのではないかと不信感を示している。

latimesblogs.latimes.com

ティナさんはビーチの砂に顔を埋めるようなうつ伏せ状態で発見され、当初から事件性が疑われた。検死で性的外傷は確認されなかったと発表されたものの、死因については不明とされた。現場周辺の治安はLAダウンタウンに比べれば良好だった。

彼女の居住地ベルフラワーから現場までは30マイル(約50キロ)ほど離れており、もっと近くにもビーチがあるにもかかわらずなぜこの場所に至ったのかは不明であった。

彼女は20歳のベトナムアメリカ人で、カルフォルニアネバダ、フロリダの三州で売春関連の逮捕歴があり、遺体発見の1週間前にも売春で逮捕され、3月末に出廷予定の裁判を抱えていた。

彼女を担当していた弁護士は、生後2か月の彼女の赤ん坊の安否を気遣った(詳報はないが無事を祈りたい)。OC保安局は5月になって彼女は「殺害」されたと断定したが、やはり正確な死因は公表されなかった。

 

ネット上では「近隣で起きた若い女性被害者」という共通点から早々にエリサ事件との関連を唱える者もあった。

だが捜査の遅れや不透明さに関して、アジア系人種、職業などに対する偏見や差別から捜査を怠ったとする疑いへと変化していった。

その後、近郊でセックスワーカーを狙ったシリアルキラーの逮捕はあったものの、本件はその犯行には含まれていなかった。はたしてこの事件はコールドケースとされたままである。

 

*****

 

 筆者は被差別意識に乏しいため、欧米でのアジア人差別の現状や根深さについてあまり把握できているとは言いがたい。21世紀の中国における驚異的な経済成長は、おそらく20世紀までのアジア人像とは違ったモデルを世界に印象付けている。さらに2019年後半に始まる新型コロナウイルス感染症Covid-19の世界的流行は、アジア系の人々にとって新たな人種差別やヘイトクライムの火種にされてしまった感もある。当たり前のことだが、アジア人嫌悪の状況は刻一刻と変化している。

エリサ・ラム事件は人種問題を孕むのかについては、他のヘイトクライムなどの考察を深めた上で今後の課題としていきたい。


 

最後になりましたが、エリサ・ラムさんはじめ被害に遭われたみなさんのご冥福とご家族の心の安寧をお祈りいたします。 God bless you. Good journey…

 

 

*****

参考

nouvelle/nouveau: Archive

lopez-declaration.pdf

Elisa-Lam-Autopsy-Report.pdf

Police arrest two men suspected in sex workers’ deaths – Orange County Register

Downtown LA’s Hotel Cecil could reopen in late 2021 - Curbed LA

Body of Woman Found on Sand in Newport Beach – NBC Los Angeles

Woman Found Dead on OC Beach Was Homicide Victim: LAist

The Elisa Lam mystery: Still no answers | Daily Maverick