【殺人小説家】浙江省・閔記旅館事件について

1995年、中国浙江省で起きた強盗殺人事件について記す。事件は解決済みだが、逮捕当時、犯人のひとりが「現役の人気ミステリー作家」と報じられたことで国外でも話題となった。

 

 日本でも佐川一政『霧の中』や元少年A『絶歌』など犯人による告白本の出版はあるが、本件は作家が罪を犯し、長年発覚を免れて活動を続けていたケースである。本件は2人の犯人がいるが、ここでは“殺人小説家”に焦点を当ててみたい。

 

■事件概要 

1995年11月30日の朝、浙江省湖州市織里鎮・晟舎新街の仁舍通りにある閔記(ミンジ)飯店旅館で4人の遺体が発見された。発見したのは出勤してきた従業員女性だった。

犠牲となったのは、宿のオーナーである閔(ミン)さん夫婦(61・58)と一緒に暮らしていた小学5年生の閔さんの孫(12)、その日、山東省からの出張で宿泊していた男性・于(ウー)さん

ハンマー様の鈍器で頭と顔面を数十回に渡って殴打された外傷が致命傷となったほか、刃物による刺し傷もあり、殺害は29日深夜と推定された。

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閔記飯店旅館 [澎湃新闻より引用]

旅館は1階が食堂、2階の1室がオーナーたちの住居スペース、2階と3階にある4室が宿泊用の部屋となっていた。各宿泊部屋には3人分のベッドがあり、共同便所はあるが入浴施設はない、1泊約6~15元の食堂付き簡易宿泊所といったスタイルだった。利用者は中小企業の出張者がビジネスホテルのようにして使うことが多かった。

 

■チビとノッポ 

駆け付けた湖州警察は、隣の203号室で新たにオーナーと于さんの遺体を発見。現場は封鎖され、「足跡」「カップに付いた指紋」「煙草の吸殻」などが検出されたが、当時の公安局DNAデータベースに該当する記録は見つからなかった。

亡くなった于さんの下着には緑色の財布が縫い付けられており、中には4700元もの現金が発見された。だが店の売上金など100元以上が紛失していたこと、時計・指輪といった貴金属類が奪われていた形跡があること等から強盗目的による殺人事件と考えられた。

 

また調べにより、28日に来店して于さんと同じ203号室に宿泊していた「安徽省訛り」の男性2人の行方が分からなくなっていることが判明。2人が于さんを殺害した後、オーナー家族を襲撃した可能性が高いと見て捜査を続けた。

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目撃情報に基づく詳細な似顔絵も公開された。

ひとりは身長160センチ未満の小柄な男で、見た目は40歳前後、色黒の丸顔だった。古びた黒革のジャケットとスニーカーを着用。

もうひとりは30代前半、身長約180センチの痩せ型で、鋭い顔立ち。紺色の庇の付いた帽子と黄色いジャケットを着用。ともに喫煙者だったことも分かっている。

 

しかし男性2人は偽名を使用しており、監視技術が普及していなかったこと、人々の移動の多さなどによって当時の捜査力では身元特定に至らず、湖州南部を中心に捜索は続けられたものの、事件はコールドケースとなった。

 

■宝物

閔さんは元々は織里鎮の白鹤兜村に生まれ育ち、20代前半で結婚して1男2女に恵まれた。村人たちによれば閔さんは“善人”とされ、仲間とのトランプゲームを趣味とし、周囲とのトラブルは確認されなかった。

長男は農業のために村に残り、長女は画家の家に嫁いだ。次女は町の役場近くでレストランを営み、閔さんが48歳の頃に初孫を生んだ。

閔さんは次女のレストランから通りを隔てて向かい側に3階建ての物件を購入し、閔記飯店旅館をオープン。村を離れて普段は旅館で生活し、多忙な娘に代わって孫の世話をしながら暮らしていた。他に孫がなかったこともあり、閔さん夫婦は家宝のように溺愛していた。

 

■地理

湖州は上海から西へ約150キロ、太湖の南岸に位置し、織里鎮はその名の通り、古くから織物産業の盛んな土地柄だった。

とりわけ改革開放(文化大革命後、70年代末からの人民公社解体と各産業の近代化を軸とした社会主義市場経済への路線転換)で急速に産業化が進み、新興都市として知られるようになった。天安門事件により開放路線は一時中断したものの、90年代半ばには製造業を中心に工業化の波が再加速していた。豊富な労働力と国外からの生産拠点誘致により、中国が「世界の工場」と認知されたのもこの時期である。

織里鎮はとくに「こども服の街」として有名で、生産・流通の拠点だった。そのため地方から集まった出稼ぎ労働者だけでなく、発注や買い付けなどのために各地から多くの商売人が訪れていた。

 

■遅れてきた作家

2017年8月11日、捜査当局は安徽省の作家・劉永彪(53)と上海の投資コンサルティング経営・王偉明(64)を強盗殺人の容疑で逮捕した。14日には容疑を認めたことが発表された。

 

捜査の進展はDNA鑑定の解析技術の向上によるもので、2017年、煙草の吸殻に残留していた唾液から、安徽省蕪湖市南陵県の劉氏族のものと判明した。照合と地道な捜査の結果、劉が容疑者として浮かび上がり、8月8日、警官が科学者と称して「地域の健康調査」と偽り、劉から血液サンプルを採取。2日後の鑑定結果により、犯人と特定された。

捜査員は、サンプル採取のときの劉の様子を「落ち着いていてとても協力的だった」と明かした。だがその後の劉自身の証言によれば、かつての事件を想起し、その場で自首することも頭をよぎったが、12歳の息子がそばにいたためその勇気がなかったのだという。

劉は事件後、王と連絡をほとんど取り合っていなかったが、血液採取の直後に電話を掛けている。電話を受けた王は「何年も経っているから大丈夫だ」と慄く劉をなだめた。

 

捜査員が逮捕状をもって家に駆け付けたとき、劉は抵抗する素振りもなく「私はこの日を待っていました」と告げた。

彼は勾留中、自分の逮捕について「罪から逃れられないことは分かっていた。その日を待ち望んでいた。今は足枷を身に付けているが、精神は穏やかに感じる。少なくともここでは悪夢もなくよく眠れる」と語った。

身柄を拘束された際、逮捕以前にしたためていたという妻に宛てた1枚の手紙を警官に託した。劉の妻は、22年前に行われた貧乏作家の「無謀な行動」と、それ以来「精神的な責め苦を負ってきた」という告白を受け取った。 

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劉は安徽省南陵県弋江鎮・中州村に生まれ、中学時代から書くことが好きで、高校を出てからしばしばカメラで写真を撮りながら、詩や小説を書いていたとされる。大学進学失敗後も農作業を好まなかったため、一部の村人からはやや「好吃懒做(なまけもの、ぐうたら)」とも見なされていた。

1985年、合肥文学芸術界連盟主催による定期刊行誌『未来作家』に初めて作品が掲載された。94年には文芸誌『清明』に短編『青春情杯(青春の気持ち)』掲載。その後、創作活動を本格的に志し、自費で魯迅文学院(詩・小説・ルポルタージュ・脚本に特化した文学大学)に進学。

 

2009年、短編集『映画』は安徽省政府の「社会科学文学・芸術出版賞」(安徽文学賞)を受賞。作家協会らが主催となって作品に関するセミナーも開催された。

エッセイ『心灵的舞蹈(魂の踊り)』(2010)、映画脚本『門与窓(ドアと窓)』、長編『难言之隐(言えない隠しごと)』(2011)など精力的に執筆をつづけ、2013年7月に中国作家協会の一員と認められる。水滸伝歴史小説『武松』(2014)はTVドラマのシナリオに採用された。

 

作品の多くは、複雑な人間性の探求が特徴とされており、「私の作品の登場人物に描かれる人間性はほとんどがどれも真実です。下層階級の人々ですが、みんな善良な人ばかりです。私の作品に悪い人間はひとりもいません」と自ら語っている。また制作について「アイデアには反映させたが、あえて(自らを投影した)登場人物にはしない」というポリシーを明かしていることから、事件と作品とはリンクしないものと考えられる。

 

しかし『难言之隐』の序文で、「数々の殺人事件の過去を抱えた美人作家」の物語の構想があると記していたため、それが逮捕後の報道で取り沙汰されることとなった。しかしその作品は2~3万単語ほどで潰えてしまった、と後のインタビューで語っており、犯人の心境と重なるような作品は発表されることはなかった。(中国の小説は奥付に語数が記されており、一般的な小説一冊で概ね15万~30万単語とされる。)

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2015年のインタビューで劉は“書く仕事”について、「かつては高貴なことだと思って献身的に書き、一生の仕事だと思って苦しみながら書き、今は書くことは超楽しいことだと思って喜びながら書いている。偶然にも個性が必要とされているからに他なりません」と語っている。 

逮捕前には、地域の作家として学校に招かれ、小中学生たちに創作指導なども行っていた。指導コースを受講した少女は、劉は活発なタイプではなく、自分の過去や家族について言及することはなかった、と話した。

 

逮捕後、台湾の政治ニュース番組『面対面』のインタビューに対し、劉は、次世代への警句とするため、機会があれば自分の経験、犯した罪を本に書きたいと語った。タイトルは『原罪への償い』とする構想を明かしたが、その希望は叶わなかった。

 劉の作家仲間であり、安徽省南陵県作家協会の元会長・劉福橋(ペンネーム)は、「彼は家族と生活苦のために犯罪の道に手を染めてしまった。文学の同志として、彼は有望な未来に値すると思っていたので、実に残念である」と紅星新聞によるインタビューで語っている。

 

彼の本格的なキャリアは『映画』からと言ってよく、それ以前は「農民作家(アマチュア作家)」のひとりであり、作品の多くは2000年代後半以降となっている。作品そのものに触れていないため作風は判りかねるが、インタビューから滲み上がる劉の実情は「ようやく作家稼業で食えるようになった」といったところではないか。伝統と現代の間、貧しい村落と急速な都市化の間で、もがき苦しんだ“遅れてきた作家”という印象を受ける。

 

また北京市在住のミステリマニア、中文翻訳者の阿井幸作氏は、劉逮捕当時の「中国の有名ミステリー作家」「著名ミステリー作家」と題された日本の報道に反応し、検証記事を書いており、大変興味深く参考にさせていただいた(下リンク)。

honyakumystery.jp

 

■報い

 1992年、劉に娘が誕生したが、彼女は「先天性眼瞼裂症候群」により長さ1センチ、幅2ミリ程しか目を開くことができなかった。その治療には約5000元の費用がかかるとされ、貧農の劉に支払える額ではなかった。

(筆者に当時の貨幣価値はよく分からないが、当事件に関する現地コメントで「犯罪の理由にはならないが、当時の5000元はまだ高額で、借りることもままならなかった」「50平米の家の価格が田舎で15000元、武漢の都市部で3~4万元」「田舎では盗む車さえ走ってなかった」などと書かれていた。現地の人間にとってはこの20数年は隔世の感があることだろう。)

 

95年11月末、同じ中州村出身者だった劉と王は織里鎮を訪れた。当初から商売人たちが多いこの町で盗みを働く計画を企てていた。しかし閔記旅館を狙ったのは「偶然」だった。

28日、同室になった実業家の于さんは恰幅がよく仕立ての良いスーツをまとっていた。貧しい二人の目にはすぐに「標的」として映った。素手では心もとないと考え、翌日、街でハンマーとナイロンロープを調達した。

29日未明、寝静まった于さんに二人は殴りかかったが、彼が隠し持っていた4700元には気づかなかったため、期待に反して時計と指輪と手持ちの20数元しか得ることができなかった。興奮した二人はそのまま閔さんを襲うことを画策し、チェックアウトするように装って203号室に閔さんを連れ出して殺害。202号室にいた閔さんの妻と孫まで死に至らしめ、売上金100元以上を見つけて強奪した。

 

調べによれば、その後、二人の男は上海へ逃亡して別れた。劉は娘を伴なって闇医者に3000元を支払い、目の手術を依頼したが、その結果、娘の眼球が変形して視力は0.08以下になってしまった。

 

2018年6月7日、浙江湖州中級人民法院(李章軍裁判長)で行われた閔記旅館事件の裁判は、湖州市検察庁、党委員会、湖州公安局、浙江省検察院らの最高位が一堂に会して行われ、『新京報』紙は「湖州の司法史上最高水準の裁判」と報じた。

7月30日、判決審で李裁判長は、王、劉両被告に死刑を宣告。並びに生涯にわたる政治的権利の剝奪と個人財産の没収が言い渡された。

 

両被告は起訴事実を認め、誠実に供述に応じ、遺族の前で跪いて謝罪したものの、利己的な動機と深刻な被害、社会的影響は甚大だとして酌量の余地は認められなかった。

 最高人民法院は両死刑判決を支持し、2019年10月22日午後、両名の死刑を執行した。

 

 

・参考;

22年前湖州旅馆4死劫杀案“作家嫌犯”:我的作品里没坏人

浙江湖州:“旅馆灭门案”凶手的双面人生-中国法院网

■紅星新聞;“杀人犯变作家”当事人被执行死刑,好友:很可惜也罪有应得_刘永彪

南方都市報杀人的名作家:内心煎熬常备鼠药,曾想写“身背数条人命”的故事