いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

プチエンジェル事件について

2003年(平成15年)7月、東京都港区赤坂で発生した女児4人誘拐監禁およびその背後にあった少女買春など、いわゆる「プチエンジェル事件」について記す。公式には解決済みとされながら、一方で“日本の闇”と称され今なお語られることの多い怪事件である。 

本稿では、この事件の隠された真実を・・・等というつもりは毛頭ない。

被疑者死亡で捜査が打ち切られたことや被害女児らが未成年だったこともあり、情報のどれもが限定的であり、さればこそ玉虫色の怪事件として扱われている。

概要とともに、事件に係る噂などについて検討し、なぜ今日のようなかたちで伝えられているのかについて考えてみたい。

 

■危険なアルバイト

 2003年7月17日、東京都港区赤坂で女児が助けを求めて花屋へ駆け込み、12時14分に店員が「女の子が助けを求めている」と110番通報した。

駆け付けた警官が保護した少女から事情を聞き、目の前のマンションの一室を捜査した。部屋では女児3人が洋間、浴室などに拘束・監禁されており、部屋のリビングでは犯人とみられる男性1名が死亡しているのが確認された。 

 

被害に遭ったのは、東京都稲城市の市立小学校に通う6年生(当時11歳から12歳)の4人。13日から行方が分からなくなり、捜索中だった少女たちである。花屋の店員もニュースで見知っており、駆け込んできた裸足の少女に「もしかして稲城の子?」と確認してすぐに通報した。彼女は追いかけられているかのように怯え、目の前のマンションに3人の子が手錠を掛けられて閉じ込められていると話し、店員が抱きしめると「自分たちも悪いんです」と体を震わせていたという。

 

7月上旬、少女のひとりが渋谷で女子高生風の女性からアルバイトの勧誘を受けて、ホテルに連れられて「社長」と呼ばれる男から面接を受けた。そのときは連絡先を交換して「いつでもおいで」と帰され、「会ってくれたお礼」として男から金を受け取っていた。

12日(土)、少女は男からアルバイトを依頼され、友人を連れて三人で男と会った。その日も一万円を貰い、少女たちはその足で買い物などに散財したという。

13日(日)13時過ぎ、JR渋谷駅「モヤイ像」前で待ち合わせていた二人が「社長」と共にタクシーに乗り、赤坂のマンションへと連れて来られた。その30分後、前日に「アルバイト」をした少女と別の少女の二人が呼び出され、若い男に連れられてタクシーで同じく赤坂のマンションに移動。

四人の少女を二手に分けて、故意に時間をずらして呼び出されたものと見られ、一斉に連れてくるより監禁しやすくする意図があったと考えられている。

後発の男は、先に着いていた男に女児2人を引き渡すだけで入室はしなかった。 

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マンション11階の角部屋1101号室へ通されると、一人は階下のコンビニへお菓子や飲み物などの買い出しに行かせられた。その間、「社長」は残った少女に「ここに来た意味わかるよね」と態度を豹変させ、手錠を付けて拘束。買い出しから戻った女児も同様に手錠を架せられて監禁された。後発の二人も拘束されて別室に監禁。

抵抗して逃げようとすると、手錠に水の入ったポリタンクや鉄アレイの重しを付けられ、スタンガンを突き付けられて脅迫されて、閉じ込められた。男がマンションを出た形跡はなく、監禁中も度々女児たちの前に姿を見せていた。監禁部屋の出入り口には、椅子や段ボールで逃走を妨げるバリケードが張られていた。

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13日深夜、女児らが帰宅せず、携帯電話を持つ少女とも連絡がつかないことから保護者が警察に捜索願を提出。保護者らは「近くの体育館に行く」「スーパーに行く」と聞かされており、級友には「渋谷でいいバイトがある」等と誘っていたこと等から、犯罪に巻き込まれた可能性もあると見て行方を捜していた。

 

男は16日に練炭自殺を図ったと見られ、ひと気がしなくなったのを見計らって17日に少女の一人が手錠を外して脱出。彼女は四人の中で最も小柄で、逃げ出そうとした他の三人は重しや何重もの手錠を架せられていたが、おとなしくしていたため緩い手錠ひとつだけだった。

脱水症状やショック状態の児童もいたため、三人が病院で診察を受けたが入院の必要はなく、夕方には無事退院。渋谷署で両親らと再会し、自宅へ戻った。翌18日の終業式は全員欠席した。監禁中は菓子類と僅かな水が与えられてはいたものの、脱出があと数日遅れていれば命の危険があった。

 

■違法デートクラブ

死亡していた男性は、違法風俗店経営、わいせつビデオ販売をしていた吉里弘太郎(29)で、遺書などは残されていなかった。過去に高校生2人の買春の前科があり、まだ執行猶予中の身だった。

監禁現場となったマンションからは、女子中高生とみられる少女らの写真シール(被害女児とは異なる)、女性用下着や制服、名簿のほか約300万円の現金が押収されている。

吉里は「プチエンジェル」という無店舗型デートクラブを違法に営業していた。プチエンジェルで働いていたことがある元関係者によれば、顧客名簿には2000名以上の名前があったとされ、会員になるには高い入会金を支払わねばならず、その利用者は企業経営者、医者、弁護士などの富裕層が主だったという。

 

プチエンジェルでは、少女らに警戒心を抱かせないように女子高生たちをスカウトマンに雇い、渋谷や新宿で「アルバイト」の勧誘をさせていた。スカウト報酬として中高生1人につき1万円、小学生であれば3万円が支払われた。高額バイトに興味を示す少女が見つかると、ホテルで待機する吉里が直接面接を行ったという。

被害女児のひとりの自室から発見されたチラシには、「30分のアルバイト」「カラオケ5000円・下着提供10000円・ヌード10000円」「H系はなしだから安心!」等と書かれており、吉里の所持する携帯電話の番号も付されていた。

 

■不可解な結末

警視庁は4女児の行方不明を発表したが、氏名や学校名などプライバシーについては報道管制を取った。

その一方で“プチエンジェル”のチラシにあった電話番号から執行猶予中の吉里の存在が浮上したため、同じ16日に「2002年3月の中学2年生の女子生徒(14)に6万円を支払い買春した容疑」で新たに逮捕状が請求されていた。

 

17日、女児発見直後のTV報道には「複数の男女に監禁されていた疑いが強い」「男女2人が逃走している」とする内容も見られたが、翌18日の新聞記事では、吉里を指して「警視庁はこの男が4人を監禁した後、自殺したとみて調べている」と報じられた。

これについて「複数犯報道が急に単独犯と断定する表現に変わった」とする指摘も存在する。

だがこの男女とは、「タクシーで送り届けた男性」と「渋谷で少女をスカウトした女性」のことであり、男女複数名で監禁していたことを示すものではない。事件発覚直後の段階で、少女らの証言から吉里以外の関係者として「警察が男女の行方を捜していた」ものと考えられ、報道側の受け取り方の問題と考えられる。

 

赤坂のマンションは、11日に吉里とは別の男性名義で1カ月間の契約で借りられており、賃料(週9万数千円)は吉里が払っていた。

タクシーで送り届けた男性(24)はほどなく発見され、捜査一課が事情を聞き、関係先と見られる埼玉県内のコインロッカーを捜索した。男性は女児二人をマンションに連れてきてくれと頼まれただけだと説明し、監禁は吉里の単独犯行と見られた。

男性は4年ほど前にチラシ配りのバイトで吉里と知り合い、仕事はないかと連絡を取ったところ、マンションの契約と13日の少女2人の引き渡しを依頼されたのだという(7月22日、毎日)。

スカウト女性は未成年者であったため、取調べ内容の報道はほとんどされなかった。

 

調べにより、吉里が誘拐の前日に都内の量販店で、練炭や七輪、重しに使われた灯油用ポリタンク容器、多数の金属製のおもちゃの手錠やアイマスク(4人分)などを買い込んでマンションに持ち込んでいたことが判明。22日の朝日新聞には「警視庁は当初から自殺するつもりだったのではないかとみている」と記されている。

 

さらに吉里が埼玉県久喜市に借りていたアパートの家宅捜索では、ビデオデッキ10台とテレビ2台のほか、少女ものの猥褻ビデオ1000本以上が押収された。1か月ほど前からアパートに帰っている様子はなく、チラシやビデオの倉庫、ビデオのダビング作業などに使っていた部屋とみられている。

 

監禁現場は地下鉄赤坂駅から300メートルほどの位置にあり、衆議院議員宿舎の裏手。ホテルやマンション、企業の事務所、雑居ビルなどが密集している。 事件直後は消防車やパトカー、捜査車両など約30台が駆けつけ、近くの道路はすべて非常線が張られた。捜査員100人余りが動員されたという。

 

 

■単独犯

事件前の吉里は、赤坂のマンションでも久喜市のアパートでもなく、渋谷の高級ホテルなどを転々としていた。多額の預金があったとされているが、マンションを契約した11日に愛車のフェラーリ2台を手放している。

 

父親は元朝日新聞本社社会部部長を務めていたとされ、警視庁キャップの経験もあった敏腕記者だった。1993年に難病を発症し、命に別状はなかったが療養のために職を離れて長男夫婦が暮らす沖縄へ移住した。ほどなく母親と三男も沖縄へ移住したが、深刻な皮膚炎に悩む吉里は沖縄へ付き添うことなく本州に残って学生生活を過ごした。

母親は音大出身で社会活動にも熱心なタイプで自宅では野菜の栽培をするなど自然派な暮らしを心掛けるインテリ風に周囲からは見られていた。だが沖縄で近隣家族とバーベキューパーティーの最中、小学生が投げた爆竹が左耳元で爆発し、聴覚過敏になってしまった。相手家族に対して起こした損害賠償訴訟では「かわいい子どもの声が刃物のように怖く、女の人の楽しそうなおしゃべりや笑い声は心をぐさりと突き刺します」と述べており、遮蔽用ヘッドホンを着用するなど日常生活にも大きな影を落とした。

96年9月、父親が自殺。八重岳の桜の樹に首を吊った。相次ぐ不幸の影響か、長男は妻と協議離婚に至り、97年に家族は転居。翌年末、母親の世話をしてきた長男も父親の後を追うように近くの野球場で首を吊った。横浜市内に二人の墓所を建てて以来、吉里は親類とも顔を合わせなかった。本件発生当時、母親と三男は沖縄在住と報道されている。

 

吉里は幼少の頃から極度のアトピー性皮膚炎に悩まされており、いわゆる「無気力」なタイプだったとされる。中学卒業後、大阪市内の専門学校でデザインを学んだが、当時親しくしていた知人によれば極度の人見知りだったという。学生時代から何度か自殺未遂を繰り返し、事件前にも周囲には「きっかけがあれば死にたい」と漏らしていた。

学生時代からロリコン趣味を隠しておらず、2001年春に中学2年生に買春行為を行ったとして書類送検される。本件発生時はまだ執行猶予の身柄だった。

同年9月、久喜市のアパートから、大量の猥褻ビデオ販売チラシ、数十人分の顧客リストと見られるメモがごみとして廃棄されており、衛生組合が通報。埼玉県警は一緒に捨てられていた公共料金の郵便物から吉里をマークしたが、販売事実を確認することができず摘発には至らなかった。

 

吉里はホテルの高額な利用料を現金で支払い、プチエンジェルの少女たちの前でも羽振りのよさを見せていた。「少女買春で35億円稼いでいた」といったネット記事も多いが、筆者はこの預金額についてはやや疑わしい情報だと考えている。

かつて新聞記者で重要なポストを担った父親や家族には、一般的なサラリーマンより高額な保険が掛けられていたには違いなく、読売新聞では「多額の遺産を相続した」と記載されていることから「実家が太かった」と捉えることはできる。

だがそれだけの資産家が、裏ビデオ販売、非合法な売春斡旋といった危ない橋で稼ごうとするだろうか。残念ながら筆者にロリコン財産家の気持ちは分からないが、闇買春の管理者というよりも「買う側の人間」のように思え、少女買春が単価5万円、裏ビデオが1本1万円程だとしても35億円もの利益を上げるまでには莫大な量を捌かねばならない。それだけの規模で稼ぎ続けていたとするならば、やはり個人での稼業とは考えづらいものがある。

 

■死因の謎

吉里は、大きなビニールシートをテント状に吊り下げ、床には目張りをし、その中で七輪で練炭を焚いていたと報じられ、警察からは発見当初から「自殺」との見方が示された。遺体は椅子の下に倒れていたとされる。

 

練炭は燃焼時1000度以上にもなることから、椅子の下で焚いていたとしても「熱でビニールが溶けてしまう」との指摘があり、ワイドショー番組でも検証実験が行われたが、練炭の分量や燃焼具合がどれほどのものだったのか、ビニールシートの発見時の状態はどうだったのかは詳しく報じられていない。

その後の解剖で、死因は急性一酸化炭素中毒と確認された。不完全燃焼であっても一酸化炭素中毒は起こりうることから、轟々と燃焼せずとも死に至った可能性はある。

また自殺を思いついたとして、夏の盛りに「練炭」を選ぶ点もやや解せない。トイレや浴室のように限られた狭い空間であればまだしも、広いリビングでわざわざビニールを張った中で行うというのは、変に手間をかけ過ぎな印象を受ける。

 

いずれにせよ「自殺」とする警察発表は「他殺を示す証拠」が出てこなかったことを意味する。明言されていないが、たとえば少女たちが「部屋には吉里一人だった」「他の人間の出入りはなかった」と証言すれば、その状況から自殺と断定せざるを得ない。

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 吉里の自殺に至った理由が、この事件の最大の焦点である。

ある日、突然糸が切れたように命を断つ者もあれば(首吊り、電車飛び込みなど)、自身の死に方や死後のことまで念頭に入れて事を運ぶ者もいるが、若い頃から「死にきれなかった」経験を繰り返して生き延びてきた吉里は後者だった。

一般的に自殺と聞くと、「経済的な困窮」「老・病などによる絶望」「仕事や恋愛などによる精神的破綻」といった分かりやすい原因を求めがちである。悪徳稼業とはいえ金回りが良く、老いに苛まれていた訳でもない吉里が、なぜ死を決断したのかは一般にはやや理解し難い面もある。

だが父と兄が自殺し、家族関係が半ば破綻していたことからも、帰るべき自分の居場所のようなものはなく、捜査の網を掻い潜るような荒んだ生活が続いたことで神経が磨り減らされていたにはちがいない。

 

マンションの契約、練炭などの購入から、少女たちの監禁と自殺を同時に計画していたものと考えて差し支えないと思う。単に練炭自殺を目論むのであればひと気のない山や海に出向いて車内で行えば済むことなのに、あえてそうはしなかった。車を売り払い、“死に場所”とするためわざわざ新たにマンションを契約するという行動は、一見不合理で腑に落ちない。吉里は自殺するために少女たちを必要としていた、という見方もできる。

少女買春歴のある吉里が「少女たちに囲まれて死にたい」といった願望を抱いたのだろうか。一か月に渡るホテル滞在中にも自殺を企図していた可能性はあるだろう。だがホテルではなく、1か月先までウィークリーマンションを借りていたことから、死体発見を先延ばしにする意図があったと見られる。

心理学者・小田晋氏は、少女への手錠がサディスムを、自死というかたちがマゾヒズムを示しており、相反する願望を同時にかなえることで男は恍惚に浸っていたのではないかと見解を示している。死を意識しすぎた男が最期に夢見た最高の贅沢だったのであろうか。自分一人では29年間死にきれなかった吉里が、極限まで自分を追い込むために女児を誘拐・監禁し、ようやくその思いを遂げたと見ることもできる。吉里は少女らを商売道具として悪用してきたが、死に際にあっても彼女たちを利用していた。少女なしでは死にきれなかったのではなかろうか。

 

■自殺の理由 

自殺の背景として、吉里が反社会組織(暴力団・半グレなど)から睨まれていた可能性はある。

実態を知らないので憶測になるが、仮に吉里が個人で売春組織を立ち上げたとすれば、スカウト活動などからすぐに足が付き、渋谷界隈を根城にする関係者は黙っていないだろう。生きて逃げられない危機的状況であれば自殺という選択肢もおかしくはない。

逆に反社がバックについていたケースで考えてみると、吉里はビデオ販売や売春管理といった活動から抜けたかったが、辞めさせてもらえない苦境に立たされていたり、着服などの不正が発覚して「けじめ」を迫られていた可能性もある。

あるいは摘発を逃れるために吉里に全ての罪を着せて「トカゲのしっぽ斬り」をされたとする見方も根強い。遺書こそ残さなかったものの、死に際の罪の暴露として「売春組織」の存在を示す名簿等を現場に残したとも考えられる。

 

いずれにせよ想像の域を出ないが、筆者としては、吉里は個人か、組織の末端で、敵対する組織による「見せしめ」で自殺を強要されたのではないかと考えている。

第一に、警察の捜査の手際が良すぎること。もちろん初動捜査が早いことは称えるべきことだが、監禁現場が抑えられていない段階で逮捕状請求に至る潔さは事前にリークがあったのではないかと勘繰りを入れたくなる。手配の内容は誘拐監禁ではなかったものの、偶々タイミングが重なったという訳ではないだろう。つまりは、警察が暴力団からリークを得て、敵対する「反社の資金源(売春組織)潰し」の見取り図に乗っかった、という見方である。

第二に、4女児監禁の理由として強姦や売春、殺害の明確な意図が見られない点である。もちろん監禁状態があと数日も長引けば脱水症状などで女児たちに死の危険はあった。

だが監禁の意図が何だったのかと想像すると、単なる自殺では済まないようにしたかった、少女買春の存在を公にしたかったと見る方が自然ではないか。仮に全員が亡くなっていたとしても、残された証拠は「吉里が児童らを集めて買春組織を営んでいた」ことを示し、大筋は変わらない。敵対組織に対する警告・挑発の意味でも「男の自殺」だけでなく「児童買春組織」の告発が必要だったと解釈する方が収まりよく感じる。

第三に、 警察が顧客への追及をせず早期決着させた点である。風俗客が偽名を用いるのは自明のことであり、夏目漱石や大物芸能人、故人の総理大臣の名前があったとしても、そこは大した問題ではない。だがプチエンジェルの場合、無店舗型であったことから顧客管理を電話番号で行っていた(吉里も複数台の携帯電話を用いていたとされる)。顧客を特定できるのに、あえて摘発しなかったのはなぜか。

ひとつは未成年が売春当事者であり、立件が困難なこと。現在は強制性交などは非親告罪(被害者の告訴なしでも加害者を起訴できる)化されているが、事件当時は当事者不在では事件にできなかった。未成年者自らが(半ば同意して)売春したことを表に出して証言台に立つとはやや考えにくく、仮に告訴する少女がいたとしても、どれほどの刑罰が与えられるだろうか。

もうひとつは名簿を押さえておく必要があったこと。名簿の中身が詳らかにされないために警察関係者や政治家、テレビ関係者、皇族が含まれているといった噂が絶えないわけだが、実際のプチエンジェル利用当事者にとってはいつ摘発されるか分からない監視状態に置かれるため、一定の抑止効果はある。

捜査に協力した反社がいたと表沙汰になれば、警察としては至極きまりが悪い。警察が別の反社に名簿を流すとまでは考えにくいように思うが、名簿を押さえていることだけを表に出しておけば警察としては充分な収穫と考え、早期の幕引きに至ったのではないか。

 

■ジャーナリストの怪死

プチエンジェル事件に関する噂のひとつとして、「その闇に迫ろうとしたフリー・ジャーナリストが東京湾で謎の不審死を遂げた」という尾ひれが付くことがある。

 

2003年9月12日7時頃、東京都江東区海上で、フリーライターとして柏原蔵書(くらがき)、山口六平太のペンネームをもつ染谷悟さん(38)が遺体となって発見された。

上半身は鎖で巻かれ、手足はひもで縛られ、腰にはウェイトベルト(ダイビング用の重り)が付けられた状態で、背中に8か所の刺し傷があった。肺に達した刺し傷が致命傷と見られ、生前に溺れたことを示す所見は得られなかった(殺害後に沈められた)。

 

染谷さんは90年頃からライター業を始め、裏社会系の記事を執筆。関連著作には、犯罪的視点から“鍵”と業界の裏話をまとめた『鍵の聖書 鍵と鍵屋の選び方』(2002)、新宿歌舞伎町界隈の暴力団や風俗業などにまつわる『歌舞伎町アンダーグラウンド』(2003)がある。

 

東京水上署捜査本部は染谷さんが取材活動の中で何らかのトラブルに巻き込まれた可能性があると見て捜査。

その後の調べで、02年9月には当時住んでいた豊島区のアパートで空き巣被害に遭い、カメラやレンズ、パソコンなど77点を盗まれていたこと、03年1月にはベランダフェンスや窓ガラスの破壊、ドアが開けられないように玄関の隙間に物を詰められるなどの嫌がらせ被害を受けており、周囲に「中国人に狙われている。殺されるかもしれない」とも漏らしていた。

9月5日に編集者と電話で仕事の話をして以降、連絡がつかなくなり、7日未明に8月末に買い替えた携帯電話のメールアドレスから「しばらく、旅にでる事にします」という不自然なメールが届いていた。また行方不明直後の6日に、豊島区の路上で染谷さんのカメラが入ったバッグが、後に新宿区で三脚が発見されて警察に拾得物として届けられていた。

 

死亡前に出た週刊誌で社会学宮台真司氏とプチエンジェル事件や少女売春に関する対談が組まれていたことや、7月に『歌舞伎町アンダーグラウンド』が出版されて間もない時期で巻末には「歌舞伎町関係者の恨みを買ったかもしれない」と意味深長な記述をしていたことから両事件が結び付けられたと考えられる。

 

2003年11月22日、東京水上署捜査本部は、錠前師・熊本恭丈(よしひろ)、元自衛官・藤井亮一を死体遺棄容疑で、元カギ会社社長・桜井景三を染谷さんの知人に対し、「事件について何も言うな。余計なことを話せば中国人を使って殺す」などと脅迫した容疑で逮捕。 翌年1月16日、殺人の疑いで再逮捕した(2004年1月16日、産経新聞)。

2002年頃、染谷さんは好意的な記事を書くとしてカギ業界関係者に出資を募っておきながら、契約を反故にしており業界内部から恨みを買っていた。それに対し、染谷さんも一度は契約履行や返済などを約束したものの再び行方をくらませ、業界内で悪質なリーク情報を撒く、すぐに特定されるような中傷記事を書くといった“反撃”を講じていたのだった(詳細はH18東京地裁判例pdf)。桜井らはそれぞれ染谷さんに行方を追っていたが、03年7月頃から協力して追い込みをかけることを計画した。

 

03年8月下旬、染谷さんの行方を突き留めた桜井らは、共謀してレンタカーでの拉致を計画し、制裁を加えようと考えた。20時頃に染谷さんは行きつけの飲み屋に入店。三人は店外で待ち伏せたが、日付が変わっても出てこないことから桜井が入店し様子を窺った。しかし染谷さんは隙を見て非常階段から逃走。

店周辺を捜索したが見当たらず、三人は車で染谷さんの住む豊島区のマンションへ向かった。その間、染谷さんから無言電話を受け、4度目の電話で会話をすると「捜せるもんなら捜してみな。地球のどこかにはいるよ」と言われ、桜井は激昂した。

6日1時20分頃、マンションに到着。窓から室内へ侵入し、手やスラッパー(先端に金属が仕込まれた革の警棒)で染谷さんを暴行し、新宿区にある桜井のマンションへ拉致監禁。染谷さんは謝罪をせず、反抗的態度を取り続けた。解放すれば告発や記事に書かれる恐れがあったため、三人は殺害の準備に取り掛かった。

3時から明け方にかけて、居室内の指紋の拭き取りや染谷さんの所持品の処分、レンタカーの返却、染谷さんの携帯電話から「旅に出る」メールを知人宛に送った。早朝に一度解散し、知人から小型作業船を借りる約束を付け、ウェイトベルトを自宅から持ち込むなどそれぞれ準備をし、夜に再度集合。

22時頃、染谷さんを睡眠薬で眠らせて別のレンタカーで係留地へ移送した。エンジンをかけて沖へ出る途中、染谷さんが船から落ちたため、慌てて連れ戻し「なんで逃げたんだ」と問い詰めたが応答は不明瞭だった。海上で染谷さんの体にウェイトベルトを装着させ、針金で要所を固定。プッシュ式ダガーナイフで多数回突き刺した後、海へ突き落した。

翌日、染谷さんの部屋を掃除。それ以降も染谷さんの携帯電話から各人へ自発的失踪をほのめかすメールを送って、隠蔽工作を続けた。12日朝に岸壁付近に遺体が発見されると、3人はその日のうちに集まり、今後の連絡手段や偽名、逃走などについて話し合いを持った。

 

ライターの染谷さんが金銭トラブルなどで恨みを買って殺害された、というのが事実である。どこのだれが言い出したのかは分からないが、同時期のプチエンジェル事件を盛り上げるための“燃料”にされた印象さえ受ける。染谷さんは複数のペンネームを使い、かつてはバイク雑誌の雇われ編集長、編集プロダクションの運営、写真家としてモノ雑誌の物撮りカメラマン、ファッション誌の立ち上げなど活動分野が多岐にわたり、決して裏もの一筋でやってきた訳ではなく、真相に深く切り込み暴露するといった取材力があった訳ではないと評される。リスクヘッジが取れておらず各所に恨みを買っていた節があることから、悪評やプチエンジェルの噂もライター筋で付き合いのあった人物から出た可能性があるのではないか。

なぜ周囲に「中国人に狙われている」と語ったのかは定かではないものの、桜井らがその筋に捜索や嫌がらせを依頼していたのか、あるいは過去に中国人裏社会でも恨みを買う自覚があったとも考えられる。鍵業界とのトラブルという自覚はあったが、後ろめたい事情から正直に言うには憚られただけという気もしなくもない。

 

本筋とは離れてしまうが、桜井は1990年代に業界初の鍵師養成所「鍵の学校」を運営し、メディアへの露出が多かった人物で、それまで個人経営が当たり前だった業界にチェーン展開を仕掛けるなど当時は知られた存在だった。2019年、宮城刑務所の刑務官・藤田晋悟(31)が桜井受刑者の弟らから計7回に渡り、現金合わせて138万円を受け取り、同受刑者への生活待遇に便宜を図ったことが発覚した。世渡り上手は塀の中でも腕が利くようだ。

 

■政治家叩き

2006年、『週刊現代』2006年6月3日号で、政治家・小沢一郎氏の政治資金管理団体陸山会」が都心をはじめとする一等地に多数の不動産を購入しており、その登記簿上の所有者が小沢一郎氏本人の名義とされていることから、個人資産との区別が不明確に管理されているとの批判記事を掲載。

小沢氏はこれを名誉棄損に当たるとして講談社と編集者らを相手に訴えたが、各マンションが陸山会による運営が為されているかは不明瞭であり、「個人資産と言われても仕方ない」という論評に非はないものとされ、小沢側の主張は退けられた。

2009年11月、市民団体は、陸山会が2004年に東京都世田谷区の土地購入について政治収支報告書に虚偽記載を行ったとして、政治資金規正法違反の容疑で告発。

このとき公開された陸山会の資産情報に記された「赤坂」に所有する土地が、4女児が監禁されていたマンションの所在地と番地が一致したことから奇妙な憶測を呼んだ。陸山会すなわち小沢氏がプチエンジェル事件あるいはプチエンジェルそのものに絡んでいるというのである。陸山会では赤坂周辺のマンション数か所を個人事務所、外国人秘書の宿舎などに使用していた。

 

筆者は、陸山会プチエンジェルとは無関係だと考えている。第一に陸山会が部屋を所有していたマンションの部屋と番地は同じだが、別の建物であること。第二に建物管理者(マンション)は別企業であること。

第三に事件のあった部屋は2003年7月11日(少女たちが監禁される2日前)から借りられており、実態としては「売春斡旋の事務所」としての機能を有していなかったことである。なかには「事件は赤坂で起きたのに報道が“渋谷”に変わった」などという見方もあるようだが、監禁事件は赤坂のマンションで起きたが、プチエンジェルのスカウトや派遣先は渋谷が中心だったことから「報道の切り取り方が変わった」と考えられる。

「政治的圧力が—」「報道規制が掛けられてー」といった憶測は、多分に“反小沢”“反民主党”“反中国”などの政治的バイアスが掛かっているか、陰謀論の風説に思考そのものが毒されているか、当時の国会での小沢叩きに乗じた愉快犯に過ぎないと考えている。

 

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ごく簡単に当時の小沢氏周りの政治動向について触れておく。

1993年、宮沢内閣不信任案が可決。賛成票を投じた羽田・小沢派は自民党を離党し、新生党を結成。自民は過半数割れで、8党派連立による細川護熙内閣が成立。

94年末に海部俊樹を党首とする新進党を結成。しかし羽田・細川らと溝が深まり、97年末に公明党が離脱し、新進党は分党。

98年に党首として自由党結成。野党第一党の座は民主党が得たものの、野党共闘により自民党をけん制した。しかし金融再生法を巡って民主党と対立。その後、野中広務を頼って自自連立交渉を進め、99年に与党復帰を果たした。

小沢復党かとも思われたが、自民党内の反小沢勢力の抵抗にあい、自自連立は一年で終焉。自由党内も連立離脱派(小沢支持)と残留派に分裂し、残留派は保守党を結成。自由党議席は衆参22に半減させたが、2000年衆院選では+4議席と善戦。

2001年、小沢塾を開設。7月の参院選では“小泉フィーバー”により野党は軒並み苦戦を強いられたものの自由党は6議席を死守した。

02年、小沢と民主党鳩山由紀夫により、民主・自由両党の合併が進められたが、合意形成が難航して鳩山は代表辞任を余儀なくされる。小沢は解党準備に向け、自由党から小沢の関連政治団体へ13億6816万円(うち政党助成金5億6096万円)の“寄付”を行った。

03年9月、民主党自由党が正式合併。「政権与党と総理を替える本格的政権交代が何よりも急務」とする大同小異の志のもと、小沢は民主党の菅現行体制維持し、「一兵卒に戻る」として役なしでの合流となった。11月衆院選は初のマニフェスト選挙となり、民主党は40議席増の躍進を遂げ、小沢は代表代行に就任した。

 

監禁事件のあった03年7月は合併に向けた最終調整が行われている渦中であった。仮に小沢氏に絡めた見方をしようとするのであれば、反小沢勢力による“小沢潰しの攻撃材料”として画策されたのであろうか。

たしかに若くして「剛腕」と称された政治手腕や、二大政党制実現に向けた政界再編の「壊し屋」としての権謀術数は、国会内外に多くの反小沢勢力を生んだことは確かである。しかし、小沢氏を貶める思惑があったとするならば、政治家本人の汚職の追及になるのではないか。2004年に発覚する年金未納期間があったことや06年以降に取り沙汰される資金管理問題など、当時の小沢氏は“叩けば埃が出る”状態だったともいえる。なぜわざわざ第三者を殺害して少女買春組織を明るみに出さねばならなかったのか、道理が通らない。

また陸山会所有のマンション付近で監禁事件が起きたことは事実だが、既述の通り衆議院議員宿舎がすぐ裏手に存在する。「政治家が関連していた」とする見立ては可能かもしれないが、特定の政治家を糾弾には不十分であり、むしろそうした発想に至ること自体「書き手に偏向した政治態度がある」ことを暗に示すことになる。

 

■噂と嘘 

皇族のペドフィリアや近親相姦のビデオが存在するといった風説の流布もある。そうした話題を積極的に取り挙げるサイトは、陸山会の噂同様、偏向的なテーマや主張を好んで扱っているように見受けられる。筆者にデマの証拠を示す暇はないが、同様にそうした噂が真実である証拠を示す情報も存在していない。怪情報の流布そのものが目的だからである。

筆者は特定の政治家や皇室に取り立てて強い思い入れはないが、自らの主張や非難の材料として無関係な人身売買、児童買春事件を“政治利用”することは自らの品位さえ貶める卑劣な愚行と言わざるを得ない。被害者は大人の食い物にされ、撒き餌にまでされるこどもたちである。

 

90年代末、ネット上では匿名掲示板が増加し、2000年5月に起きた西鉄バスジャック事件では「犯行予告が書き込まれた」と話題になることもあった(後に掲示板の管理人が「警察からIPアドレスの開示請求はなかった」と説明しており、デマの可能性もある)。TVメディアでは、匿名掲示板について「便所の落書き」「犯罪の温床」といった負の側面ばかりを取り上げていた時期である。

2001年には「鮫島事件」と呼ばれる非実在の事件を不特定多数の書き込みによってさも存在するかのように噂し合うハイパー・リアリティな遊びが流行した。当時はスマートフォン光回線などもなくネット環境そのものが現在ほど整っていなかったこともあり、掲示板内のアングラ的な趣向や洒落を理解した上で「ネタ」として楽しむ文化が濃かった。そのため「深入りすると命取りになる」「公安が絡んでいる」「おっと、だれか来たようだ…」などとまことしやかな怖い噂として人気を博した。

2004年『電車男』書籍化などによって掲示板利用者が劇的に増加(05年ドラマ化により新規流入のピークを迎える)。同じ2004年に洒落怖『きさらぎ駅』が投稿されるなど、この時期は特に利用者同士のカキコミを通じての共同作業で様々な物語が生まれている。

 

見方を変えれば、プチエンジェル事件は匿名掲示板のアングラ期の終わりと流行期の間で発生・派生しており、かつてのアングラ趣味、ネタ的要素を多分に含んだまま、それ以降も語り継がれ、拡散されていったハイブリッドな存在と言える。事件報道が終わった後も、「警察権力が何か隠している」「マスコミの報道がおかしい」「政治的圧力が掛けられている」・・・といった具合に次々と“闇”の部分を付け足して話を膨らませていくこと自体を半ば楽しんでいたのである。

流行によって登場した“まとめサイト”はより恣意的にカキコミだけを拾い上げ、不特定多数によって噂される内容をより“人目に着きやすいかたち”にリフォーム、デフォルメして人々に供給した。多くの人は過去の掲示板書き込み者たちのつぶさなやりとりを一から順に辿ることなく、“掲示板の人々によってまことしやかに語られるストーリー”仕立てにまとめられた「事件風」の情報だけを物語として消費するになった。

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こうした匿名性の濫用による「都市伝説化」は時を経て、富豪ジェフリー・エプスタインによる島での小児買春犯罪、“エプスタイン事件”でも踏襲されていく。匿名掲示板の集合心理や情報操作が、場所や言語を越えて実に似通ったものになっていく経緯は非常に興味深いが、深掘りするつもりはない。

 

 

事件には真実と虚像が入り混じり、それが事件をより魅惑的に感じさせる。本稿も無論虚像の一端を担っており、上の「見せしめ」説にも根拠は存在しない。私たちが事件と思ってみているものは、何なのか。知らず知らずのうちに自分の望む情報ばかりを追い、自分の望むかたちへと事実を歪ませて認識しようとしてしまう。

ひとは夢中になればなるほど騙されていることに気付かず騙されてしまう。騙しているのは匿名の他者なのか、読み手である私たち自身なのか。私たちを夢中にするものの正体を一度冷静になって見直す必要がある。