いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

ハローキティ殺人事件について

1999年春、香港・尖沙咀で発生したとされる通称ハローキティ殺人事件について記す。
 本件は香港の凶悪事件でも極めて残酷な犯行とされ、その凄惨さは綾瀬女子高生コンクリート事件を彷彿とさせる。またその事件発覚の奇妙な経緯などから心霊現象の噂も絶えない。

事件の概略後、拷問の性質について触れ、追って心霊の噂について検討する。

 

■悪夢

1999年5月24日、香港・尖沙咀(ツィムサーツイ)警察署に九龍馬頭圍(マータウワイ)女童院(養護施設)のソーシャルワーカーから不可解な通報を受ける。

施設で保護している少女(13)が「若い女性の幽霊に悩まされている」と訴えるというのだ。少女のあまりの動揺ぶりを察して職員が話を聞いたところ、その内容があまりに克明なので不安に思い、通報したという。

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左建物3階が現場 [via hk.appledaily.com 

 施設に入る前の彼女はいわゆる家出少女で、知人の家などを転々としながら当て所もなく暮らしていた。99年の旧正月の時季(2月半ば)、男性の誘いに乗って尖沙咀・グランビル通りにあるアパート3階の一室で生活するようになる。

その後、3人の男たちがその部屋で若い女性を監禁し、一か月近くに渡って凄まじい拷問を加えられた末に女性は死亡した。そのときの光景が脳裏に焼き付いて、被害女性の悪夢を見るようになったというのである。

 

少女は、男たちに靴箱に排便するよう強要されたと言い、犠牲となった女性はその糞便を完食させられていたことなどを話した。彼女を助けるどころか虐待に加担していたために罪悪感に苛まれ、自ら警察に通報することができずにいた。

だが尖沙咀は香港・九龍でも屈指の繁華街である。ソーシャルワーカーは、そんな街のど真ん中で遺体はどうしたのか、と少女に尋ねると、頭以外のほとんどを部屋で処理して捨てたと答えた。

夢の中に現れる女は、少女に向かって「把頭顱還給我(頭を返せ)」と呼びかけてくるのだという。

 

■悪臭

警察は当然、半信半疑ではあった。5月26日、事実確認のため、少女を伴なって事件現場とされるアパートへ捜査に入った。彼女は恐怖のあまり上階に上がることを拒否し、地上から部屋を指し示した。捜査員が指定された部屋の扉を開くと尋常ではない腐敗臭が立ち込めていた。

少女の通報以前にも、「悪臭がする」として地域パトロール員に住民から苦情が入っていたが、原因は“生ごみの匂い”と判断され、そのときは捜査は行われていなかった(関連はないとされたが、このとき担当した女性パトロール員は2000年9月に韓国人の恋人と練炭自殺で亡くなっている)。

 

電気を点けると、廊下の壁には汚れたハローキティの大きな人形(下半身が人魚タイプのもの)がもたれかかっており、台所の鍋の内容物には蛆虫が湧いて、いかにも混沌としたありさまだった。

外の庇の上に置かれた白いゴミ袋からは異様な腐敗物が発見された。またキティ人形の中に固形物があることを確認したため、鑑識の到着を待って開封したところ、中から女性のものとみられる頭蓋骨を発見する。

少女の訴えは嘘ではなく、確かに誰かがこの部屋で殺されていたのである。人形のほか、遺体の処理に用いたとされる土鍋やステンレス鍋、一時的に遺体を保管していた冷蔵庫、残されていたハンマーやトングなどが部屋から押収された。

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同26日、現地から連絡を受けた捜査員たちは、葵涌・石籬村のマンション17階に住む陳文樂(33)を緊急逮捕。翌27日には梁勝祖(26)が自ら投降した。捜査開始を知った梁偉倫(19)は中国本土に逃亡し、香港の捜査当局はインターポール、中国公安、入国管理局等に手配を依頼した。

2000年2月24日、身分証を持たなかった梁偉倫は広西チワン族自治区内で検挙され、後に指名手配犯と判明して、3月末に香港へ身柄が引き渡された。

 

2000年10月9日、香港高等裁判所で事件の陪審員裁判が開かれた。その凄惨さから証拠写真などの心理的悪影響を考慮しながらの公判となった。

女性一名に対する監禁、殺人、遺体の損壊と遺棄に関する起訴内容であったが、殺人事件を示す唯一の物証は人形から見つかった頭がい骨だけ。しかも念入りに煮沸されていたことで、DNA鑑定も適わなかった。白いゴミ袋に入っていた異物は心臓、肝臓、腸、肺などの内臓の一部とされたが死因の特定すら不可能だった

 

■悪魔

1999年3月17日、梁たちは陳の命令で樊敏儀さん(23)を彼女の自宅から件のアパート3階の部屋へと拉致した。梁たちは「なぜ金を返済しないのか、なぜ取り立ての電話に出ようとしないのか」と詰問しながら50回以上に渡って彼女を蹴り続けた。

ナイトクラブでホステス勤めをしていた樊さんは、97年に母親の医療費として、陳に数千香港ドルを借金した。この借金については、彼女に薬物依存があったことや陳がプッシャー(麻薬の売人)をしていたことからドラッグの代金だったのではないかとも言われている。

陳は“和胜堂”と呼ばれる反社会組織の元メンバーでポン引きの元締めをしており、梁勝祖と梁偉倫の2人に借金の取り立てを命じた。樊さんは妊娠後も接客を続けさせられていたが、陳は金利を上げるなどして完済させず、執拗に彼女を追い詰めていった。

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 陳は部屋のガラス窓に木板を張って、周囲に音が漏れないようにすると、およそ一か月に渡って彼女に対しておぞましい拷問を連日行った。樊さんには恋人が居り、捜索を続けていたがはたして発見、救出には至らなかった。

 

先に挙げた糞食のほか、男たちによる飲尿の強要もあった。女性の体に熱した油をかけて、木の棒で激しく摩擦して水膨れを引き裂くと、少女にその傷口へ辣油を垂らすように命じた。

男たちはストローを炙って溶けたプラスチックを足の裏に垂らしながら女性に笑うように命じるなどし、笑わなければ更なる拷問を加えた。足の裏は火傷で爛れ、自立困難になっていたが、男たちは腕をワイヤーで天井に固定して、衰弱した彼女を無理矢理立たせ続けた。

 ある晩、被害女性がトイレで瀕死の状態でいるのを見て、男は太腿をライターで炙って生存を確認した。 少女が見たときはまだ女性に反応があったものの、監禁から数週間して樊さんは息絶えた。

少女は、執拗に繰り返された広範な拷問内容について「楽しみのためにやっていたのだと思います」と虐待の異常性を端的に述べた。


3人の男たちは鋸を使って浴槽で犠牲者の遺体を解体。頭部、内臓、胴体は全て土鍋やステンレスの鍋で煮込んだ。少女も“調理担当”をさせられたほか、梁偉倫と3往復して遺体の一部が入ったゴミ袋をゴミ回収トラックに入れて処分した、と具体的に説明した。

陳は頭蓋骨を人形の中へ縫い込む際に「乖乖不要動,我幫你打扮(いい子だからおとなしくしてね、おめかししましょうね)」と冗談を言った。

 

被告らの供述によれば、残った残骸は「犬に食わせろ」と発案があったものの、小分けして埋め立て地などへ投棄していたとされる。その後、警察が近隣で発生したレイプ事件の捜査のために現場アパートへ聞き込み調査に訪れたため、残っていた内臓入りゴミ袋を慌てて(室外の)庇に投げ置いたと供述。

また、同アパートの住人の中には、深夜に女性の悲鳴を聞いた者、ナイフを上下する人影をビデオ撮影していたがデータを消してしまったと証言する者もいた。それらが事実とすれば、寸前のところで発覚を免れていたことになる。

その後、4人は事件発覚をおそれて、人形と残骸を捨て置いたまま、部屋を後にした。

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男たちは死体遺棄を認める一方で、殺人の意図については一様に否認した。お互いに犯行について責任転嫁を続けたが、梁偉倫、梁勝祖の二人は陳が首謀者であり自分たちは指示を受けていたと供述した。そして彼女の直接的な死因は、彼女自身によるメタンフェタミンの過剰摂取であると主張した。

 検察側は勿論のこと、多くの専門家によって、虐待による衰弱死と推量されたが、粉々にされ、鍋で煮込まれ、腐敗しきった臓物や頭蓋骨から、彼らの証言を否定する素材は得られなかった。

 

■判決

3人は精神鑑定の結果、反社会性パーソナリティ障害、性的倒錯や神経症が認定されたものの、刑事責任能力に問題はないとされた。

2000年12月6日、陪審団による審議は「6対1」で証拠不十分により、被告らに殺人ではなく過失致死の罪状を認めた(※本稿では事件の特性上、殺人事件のタイトルとした)。

 

阮雲道裁判長は、①犯罪の深刻さ②再犯の可能性③公衆の保護、の三原則に照らし合わせ、3人に対して最も重い量刑に当たる終身刑の判決を下した(当時の香港には死刑制度が存在しない)。再審には少なくとも20年の服役を要することとし、「近年、稀に見る残忍で変質的、堕落し、冷淡で凶暴、残虐な事件。禽獣にも劣る鬼畜の所業」とあまりの非人道性を厳しく断じた。

 

判決後、3人は直ちに控訴したが、首謀者とされる陳、逃亡を続けた梁偉倫については棄却された。梁勝祖については、樊さんが死亡する前日から現場に居合わせなかったことが認められ、直接的な過失致死を負わないものと判断された。04年3月、上告法廷(高嘉楽裁判長)により禁錮18年に減刑された。

 

事件中で唯一の物的証拠とされた被害者の頭蓋骨は、上訴審が終わり、事件発生からおよそ5年後の04年3月に家族の元に戻されて火葬された。1998年に生まれていた被害者の幼子はカナダへと移住した。

 

■綾瀬女子高生コンクリート詰め事件との類似

監禁には被害者の自由を奪う目的や閉鎖空間に置くことで暴力の発覚を免れる意図がある。他の監禁虐待事件からその拷問の傾向を考えてみたい。

①奴隷型・・・クリーブランド事件、新潟少女監禁事件など。主に性的暴行や金銭目的で拉致監禁し、暴力によって隷属・服従させることが目的のもの。

②支配洗脳型・・・北九州監禁殺人事件、尼崎事件など。とりわけこの二件は他人の家庭に侵入し、自らの腕力ではなく被害者やその身内同士で加虐させ合い、思考判断力を奪っていた。家庭そのものを乗っ取って集団支配する①より洗脳的な犯罪。

③特殊集団型・・・戸塚ヨットスクール事件、オウム真理教信者リンチ事件、ローマ・カトリック教聖職者による性的虐待など。全寮制の私塾や宗教団体などの特殊環境においては独自の理念や教義に基づく教育的指導と称して虐待が発生することがある。通常の監禁には含まれないが、アブグレイブ刑務所での捕虜虐待や左翼集団における内ゲバ(内部抗争)、相撲部屋におけるしごき、病院や福祉施設での虐待等もこれに近いものがある。

④一般集団型・・・堺市監禁殺人、金海女子高生殺人など。金銭目的などの恐喝からリンチへと発展し、加虐そのものが目的へと転じるケースが多い。

www.sankei.com

 

1988年11月から翌89年1月にかけて発生した綾瀬女子高生コンクリート詰め事件は上の分類でいえば④に含まれる。

この事件は足立区内に住む15歳から18歳の非行少年グループによって当時17歳の女子高校生がバイト帰りに拉致監禁され、およそ40日間に渡って暴行・強姦・殺人・死体遺棄を行った凶悪事件である。加害者への匿名報道や量刑の軽さは、その後の少年法改正の議論への引き金ともなった(一方で当時は被害者への保護規制がされておらずセカンドレイプともいえる報道・発言が行われた)。

 

主犯となる4少年は同区内の中学時代の先輩・後輩関係にあった(主犯格4人以外にも十数名が関わっていた)。彼らは高校を離脱しており、88年夏ごろから引ったくりや強姦事件を起こすなどしており、リーダー格のひとりは地元暴力団組織の構成員として的屋などの下働きをすることもあった。

当初は強姦・輪姦が目的とされたが、「さらっちゃいましょうよ」という発言から一人の少年の自室(親兄弟と同居)に略取監禁することが決められた。この少年の両親は共働きで、少年の家庭内暴力を恐れて適切な関与が為されておらず、不良少年たちのたまり場となっていた。

 

しかし裸踊りをさせる、陰部に鉄筋を指す、マッチ棒を指して着火する、肛門への異物挿入、皮膚にライターオイルをかけて着火するなど、おぞましい虐待はとりとめもなくエスカレートしていき、度重なる暴力に耐えかねた女性は「もう殺して」と哀願するようになった。こうした暴行に見られる嗜虐性は香港の事案と非常によく似ている。

被害女性は栄養失調と極度の衰弱により抵抗を示さなくなっていった。89年1月4日、少年の一人が賭けマージャンに負けた腹いせをきっかけにして、いつものように無抵抗の女性への暴行が始まった。飲尿強要や蝋燭を顔面に垂らすなどして凌辱し、転倒して痙攣を起こすなど女性の身体に重篤な事態が迫っていることを認識しつつも加虐を止めなかった(「未必の殺意」の認定)。キックボクシングの練習器具(重さ1.74キロの鉄球)などで勢いをつけて脚や腹部を強打した。その後、女性の太ももに着火行為を始めたが、やがて反応を示さなくなった。

 

翌日、少年らは殺害を隠蔽するため、遺体をバッグに詰め、トラックを借りてドラム缶やセメント、砂材などを調達。遺体をドラム缶に入れてコンクリートやブロックで固定し、不法投棄の多い江東区若洲にある埋め立て地に遺棄した。3月29日、コンクリート詰めの被害者の遺体が草むらで発見され、別件で逮捕され練馬鑑別所に送致されていた2少年に余罪を追及したところ、犯行が明るみとなった。

少年の保護者は、外泊を続ける女友達という認識で、一度は食事を与え、帰宅を促したこともあったが、少年が気付いてすぐに連行し、以後、女性が自発的に脱出を試みることはなくなっていった。女性は「逃げたら自宅に火を点ける」と少年たちに脅されており、捜索願を出させないために「すぐ帰る」と自宅へ電話をかけさせられていた。

 

また監禁は含まれていないが、1988年に起きた名古屋アベック事件も不良グループによる集団犯罪として似た傾向を有している。当初は恐喝目的で接近し、集団リンチから強姦、その後、犯行を隠滅するために絞殺して伊賀市山中に遺棄した事件である。こうした若者による暴力の残虐さをエスカレートさせていく無軌道な拷問殺人は、当時の一部マスコミによって“狂宴的犯罪”と呼ばれた。

いずれも互いの凶悪さを競い合うように拷問の嗜虐性はエスカレートし、当初から殺害の意図まではなかったにせよ、仲間内の関係性(教室内でいじめられっ子を庇えば自分に危害が及ぶと考える思考にも近いかもしれない)や、被害者を解放すれば事件が明るみになるという暗黙の了解などによって歯止めが利かなくなり、なし崩し的に殺害・遺棄へとつながっていく。

番長格の人物によるヘゲモニー(権力掌握)というよりは、仲間内での見栄の張り合い(凶暴さや異常さの誇示)が加害者相互を心理的監視下(共犯関係。逃亡と密告の禁止)に置き、「空気を読むこと」、いわば常軌を逸した“悪ノリ” と“忖度”によって助長された犯罪ともいえるだろう。

綾瀬の事件では被害者の顔面が変形し、衰弱していた12月時点からすでに後始末(殺害や遺棄の手段)について話し合いがなされていた。ハローキティ事件でも樊さんに多くの外傷を与えている時点で、すでに(売春斡旋などによって)借金の取り立てをすることは放棄していたものと考えられる。

多くの殺人事件で言えることだが、加害者の倒錯した思考において金銭的価値、性欲的価値を見出せなくなれば“モノ”の価値は失われる。彼らにとってはそれが人間であろうとも、愛着を失って不用品にされる人形と同じなのである。

 

■霊

殺害現場となったアパートは2012年に取り壊され、16年には新たにホテルが再建されている。

 しかしこの事件には心霊の噂が絶えなかった。公判の最中には、ハローキティ人形や鍋釜、冷蔵庫らが証拠品として提示され、その死臭は廷内のどこにいても漂ってきたという。

「ビデオ撮影をしたが消してしまった」と話した住人は、その後、アパート内で女性の幽霊に遭遇し、金縛りを経験するなどしたため、妻子を連れて転居した。

事件のことを知らずに4階に越してきた新しい住民は「夜中に下の階から女のすすり泣きが聞こえる」と友人に相談した。不安に思って確認したが、事件以降ずっと3階の部屋には住人はない状態だった。

心霊の噂に乗じた悪質な悪戯もあった。ある朝、現場近くの美容院の店員が店の前にキティ人形が置かれているのを発見した。ただそれだけの出来事であっても、事件を知る人々は、あたかも「頭部」が散髪を求めて彷徨ったかのような心象を抱いてしまう。その話がメディアに漏れて心霊騒ぎとなったが、後に閉店後に不審人物が置いていったものだと判明した。

2013年に香港の哲学者・陈定邦さんの妻がバーに訪れた際、通りの向かいの建物からじっと女性の頭がこちらを向いていることに気付いた。そのときは気付かなかったが、その建物は事件現場のアパート跡だったことが分かり、陈さんらは祭壇を建てて犠牲者を懇ろに弔った。

 

筆者は心霊や怪談を否定する人間ではないが、この事件に多くの怪異の尾ひれが付く原因を3つ挙げてみたい。ひとつは「少女の悪夢」から始まったこと。ふたつめは多くの香港人が見知った繁華街であったこと。みっつめは犠牲者の背景。

残虐極まりない殺害方法が詳らかにされる一方で「殺人罪」が適用されなかったことから犠牲者には怨念があって然るべきと思われた。また単なるナイトワーカーの事件としてではなく、厳しい生い立ち(樊さんもまた養児院育ちだった)を経て、幼子と恋人とに恵まれたところで命を奪われて、さぞや無念であったろう、と人々の情念に響いたことも大きいのではないか。

 

 

人間というのは不思議なもので、人殺しを罪と知りながらも人を殺し、人殺しを死罪にかけよと訴える。ある者には殺されて当たり前とまで考えながら、なぜこの人が死ななければならなかったのかとその理不尽に憤る。殺意は殺意を再生産する。香港映画の悪しき習慣として残虐性とグロテスクさを売りとする作品のモチーフにされる不幸はもはや筆舌に尽くしがたいものがある(せめて他のやり方があろうにと)。

行方不明事件が遺族を中途半端な悲しみや苦しみに縛り付けるのとは逆で、“霊になる”とはすなわち死者として認めること、慰むべき対象へと転じたことを意味する。無論、邪な好奇心で心霊を取り扱うべきではないとは思うが、怪談や心霊とされることで人々やその地域に記憶されること自体、筆者は悪いことではないと考えている。

 

被害に遭われた方々のご冥福とご遺族の心の安寧をお祈りいたします。

 

 

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・参考

兇案點滴:女督察自殺亡 | 蘋果日報

■香港ニュースボット(2000年10月21日、明報網站)

香港高等法院判決文 

綾瀬コンクリート事件/東京地裁判例pdf