いつしかついて来た犬と浜辺にいる

気になる事件と考えごと

消えた司祭と消された司祭

消えた司祭

1984年7月20日(金)深夜から21日(土)にかけて、アメリカ・モンタナ州西部の町・ローナン聖心教区に住むローマカトリックの司祭ジョン・パトリック・ケリガン(当時58歳)が行方不明となった。

ケリガン神父は7月18日に「常任牧師」としてこの地に転任してきたばかりで、21日にははじめての説教会を行う予定だった。

 

ローナンはフラットヘッド湖の南10キロにサリッシュ族インディアン居留地として拓かれた歴史をもつ人口2000人に満たない小さな町である。モンタナ州が成立する以前からローマカトリックの教区のひとつとされており、今日では半数以上が白人で、残りがインディアンと混血で占められる。

日本人にとってはなじみが薄いかもしれないが、各教会はインディアンへの強制移住と同化教育の拠点とされてきた歴史的経緯もあり、住民との結びつきが非常に強い。

 

ケリガン神父が最後に目撃されたのは7月20日午後11時少し前で、4番街のパン屋「デノー・ベーカリー」に姿を見せて、店主のボブや地元客らと雑談を交わしていた。

身長180センチ超、90キロ近い大柄な体、赤いショートパンツ、白いTシャツ、テニスシューズというラフないでたちは見るからに健康そうで、ジョギング帰りらしく「夏の夜風が心地いい」「町の様子を知るには散歩が一番です」等と笑顔で話した。

また「明日は(説教会のほかにも)プレーンズで葬儀と結婚式に出る予定があるので忙しくなりそうです」と言って店を後にし、教会に隣接する牧師用住宅へ帰っていった。

ジョン・ケリガン神父

21日の夕方、ローナンの教区民100人超がミサに集まった。教区は4月から司祭の不在が続いており、住民たちは赴任してきた新しい牧師のお出ましを心待ちにしていた。ケリガン神父は車で1時間ほどの所にあるプレーンズから赴任してきたベテランの司祭ではあったが、教区民たちは彼のことをほとんど何も知らなかった。

しかし15分、20分と待てども司祭は姿を見せず、焦れた人々は席を立ち、やがて片付けが始まってしまった。初回のミサをすっぽかすなど通常ありえないことだが、プレーンズでの用事が忙しくて定刻までに戻れなかったのだろうか、と昨夜パン屋で行き会った人々は訝しんだ。何人かは心配して司祭の住居に電話を入れてみたが応答はなかった。

翌日曜日の朝のミサにもケリガン神父は現れず、教区民たちも事件か事故か何かしらの異常事態を感じ取った人々は安否確認の連絡や自力での捜索を始めたが、結局23日(月)に行方不明届が提出された。

 

7月29日、ローナンから約10キロ北、フラットヘッド湖の南東部で果物売りの露天商が店を開く場所を探していると、道端に血まみれの衣類やワイヤーハンガーを見つけた。シャツや靴、ウインドブレーカーが「積み重ねたように」捨てられており、シャツのポケットには100ドル札が入っていた。

金曜夜にパン屋で目撃された着衣とは異なったが、犯罪研究所の鑑定で遺留品に付いていた頭髪が捜索中のケリガン神父のものと一致が確認された。ワイヤーハンガーは大きく変形しており、首を絞めるか、押さえつけるために使用されたものと推認された。

 

翌30日には数マイル離れたポルソン市街を見下ろせる丘地で、神父が乗っていた茶色の車両「シボレー・マリブ」が放置されているのが見つかった。車のキーは20~30メートル離れた草むらに落ちていた。

内外から指紋は検出されず、入念に拭き取られていた。助手席周辺やトランク内には大量の血痕が見つかった。トランクの中から、1200ドル入ったケリガンの財布(道路脇で見つかった着衣とともにおよそ200ドル入った財布が見つかったとの情報もある)、血の付いたシャベルと枕カバーが発見され、事件性が強く疑われたものの周辺から遺体などは発見されなかった。

 

いくつかの噂

小さな田舎町で起きた神父失踪という大事件に、住民らは周辺で起きていたいくつかの変事との関連を疑った。

ケリガン神父がローナン教区へ赴任してきたのと同じ7月18日のこと、同地から北東およそ80キロに位置するモンタナ州立刑務所で4人の受刑者が脱走し、州所有の車を強奪して逃走する騒ぎが起きていた。

うち2人の脱獄囚は後に近郊で女性を強姦する事件を起こし、神父もそうした悪党に鉢合わせてしまったのではないかと想像された。

神父の人柄まではよく知らないが、脱獄囚や強盗犯に遭遇すれば正義感から説得を試みると考えられ、相手から怒りを買って返り討ちにされたのではないかといった不穏な憶測が人々の間で膨らんでいった。

 

また7月22日、ローナンから約90キロ南のミズーラの町では、数学教師のカーティス・ホルメンさん(31歳)が行方不明になっていた。夕方、トラックのバッテリーを交換しに行くと言って自宅を出たきり帰らず、翌日の恋人との映画の予定にも現れなかった。立て続けの男性失踪に人々は戦々恐々となった。

こちらは12日後、プラシッド湖近くの古い伐採道路で置き去りにされていたホルメンさんのピックアップトラックが発見された。争った形跡はなく、車内には森林地図が広げられ、彼の眼鏡と財布は車内に残されていたが、車のキーがなくなっていた。やはり遺体は見つからず、不可解な失踪状況は共通していた。

調べによれば、ホルメンさんは過去に1年かけて北米各地を放浪した経験があり、その当時は毎週家族と連絡を取り合っていたというが、今回は何の音沙汰もなかった。地元出身者ではなく、2年前に離婚してモンタナ州に移住してきた。

トラックが見つかったのは非常に険しい地域だったが、彼にはアウトドアの趣味があったため、散策中に遭難したか、野生動物に襲われた可能性も考えられた。だが逆に野山や野生動物の危険性を知る人間が遅い時刻に見知らぬ山道に入ること自体、不自然にも思われた。

彼には2万ドル以上の貯えもあり困窮した経済状況ではなかった。サクラメントで暮らすホルメンさんの兄は、春先に会ったときは「どこかよそよそしい感じがした」と話しており、何か相談事を抱えていたかもしれないと懸念を示した。

神父のいなくなったローナンとホルメンさんの暮らすミズーラの町は、同じルート93の中継地で、およそ1時間程度という地理的つながりや時期的な近接性から関連が噂に挙がった。

 

遡って2年前の出来事を思い起こす者もあった。

1982年6月13日の朝、ホワイト・サルファー・スプリングスに向かっていたはずの聖公会ジェームズ・オーティス・アンダーソン牧師も行方不明となっていた。彼はケリガン神父と同僚だった時期があり、警察ではその点も含めて関連が調べられた。

ジェームズ・アンダーソン神父

大半の所持品は神父の部屋に普段通りに残されており、机の上は説教の原稿が広げられたままになっていた。しかし住所録、日頃から愛用していたアフガンの毛織物、拳銃が見当たらなかった。クレジットカードや銀行口座はその後も使用されることはなかった。

82年10月にはアンダーソン神父の車フォルクスワーゲンシロッコがビッグベルト山脈のホワイトガルチ森林地帯で発見された。800メートルほど離れた尾根では、彼の旧約聖書、祈祷書、眼鏡、帽子、牧師用のカラーなどが見つかった。眼下にタウンゼントの町や湖を見下ろせる高台だった。

彼は精神疾患を患っていたとみられ、教会の職を解かれるおそれがあったという。また家庭でも妻と離婚協議中で、失踪の半年前には生命保険の受取人を妻から雇い主であるセントジョンズ聖公会教会に変更していた。親権などをめぐって係争中だった妻によれば「彼は運転が下手で、自力でそんな山奥まで運転できたとは思えない」「子どものことばかり考えるような人で、子どもを置き去りにするような真似をしないのではないか」と話した。

その現場状況や精神状態を鑑みれば自死が懸念され、山中で捜索が行われたもののやはり遺体は出ておらず、自身や第三者による自殺に見せかけた偽装工作だった可能性も排除できない。現在もアンダーソン神父は行方不明者として登録されている。

 

暗礁

「捜査は全く進んでおらず、人々は非常に悲しみ、苛立ちを募らせている」

ポルソンで仕えるアーネスト・バーンズ神父は地元紙にそう語ったが、事件の主任捜査官ポール・チョマ氏によれば「教会関係者ら多くの人が情報提供に応じてくれない」とAP通信の記者にぼやいていた。

小さなコミュニティの中で発言すればすぐに周知されてしまい、恨みを買ったり、排斥の対象にされる恐れがあってのことなのか。それとも現地当局の捜査能力の低さ、住民と捜査員との普段からの信頼関係に起因するものなのか。

先述のパン屋の店主ボブ・デノー氏は「しばらくの間は顔を合わせればだれもが神父の話題で持ちきりだったさ」と振り返る。だが大量の血痕や遺留品が見つかっているにもかかわらず犯人に直結する証拠はなく、様々な憶測が飛び交ったが、捜査の進捗は聞かれなくなった。

 

失踪したジョン・パトリック・ケリガン氏は1926年、モンタナ州ビュートの出身。地元中学を出た後、シアトルのセント・エドワード神学校に学び、地元に戻って聖職につき、1954年に叙階を授かり、セント・パトリック教区でキャリアを始めた。在職30年のベテラン神父であった。

かつて同僚だった神父は「彼は田舎町の教区を愛していました」と語り、社交的で州内に多くの友人を築いたと振り返る。カウボーイに憧れて、よく着飾っては牧場の牛の世話や焼き印作業を手伝っていたという。赴任早々の出来事とはいえ田舎暮らしや転勤には慣れており、自発的失踪や自死につながる要因はすぐに浮かんではこなかった。

 

だが刑事たちは基礎捜査を進めるうちに、30年間で13回の勤務地異動は多すぎるのではないかと考えるようになった。

ビュートの聖パトリック教区、ハミルトンの聖フランシス教区、ウォーカービルの聖ローレンス教区、ディロンの聖ローズ教区、ビュートの聖アン教区、ブラウニングのリトルフラワー教区、ドラモンドの聖マイケル教区、ホワイト・サルファー・スプリングスの聖バーソロミュー教区、ショトーの聖ジョセフ教区、80年から84年までがプレインズの聖ジェームズ教区といった具合に。

各教会やその土地土地で司祭を入れ替える事情は様々とは思うが、60年代には3つの教会を掛け持ちしていた時期さえあった。なぜ大きな教会に移ったり、定住を望んだりしなかったのだろうか。

さらにケリガン神父の履歴を埋めていくとある特異点が見出された。彼には83年にニューメキシコ州ジェメス・スプリングスの「ラクレート奉仕者修道会」で過ごした時期があったことが判明する。同修道会は修練や研究のために寄宿する一般的な修道会とは異なり、アルコールや薬物依存症、うつ病、性的逸脱など、いわゆる道を踏み外した聖職者のための更生施設の役割があった。

教会関係者らは口が重く、ケリガン神父が送られた理由はすぐに明らかにはならなかったが、表向きの健康そうな笑顔の裏に「別の内面」が秘められていたのではないかと想像された。その輪郭ははっきりとしないが、神父が抱えていた個人的な問題が数々の異動の原因であろうと捜査員たちは憶測を強めていった。

 

消された司祭

ケリガン事件の主任捜査官チョマ氏はニューメキシコ州の警察関係者らと連絡を取り合った。件のパラクレート奉仕者修道会にケリガン神父が異動する9か月前に、ある別のカトリックの司祭が不可解な死を遂げていたことを突きとめる。

 

1982年8月7日(木)夕方、ニューメキシコ州サンタフェの聖フランシス大聖堂に一本の電話が入る。

電話を掛けてきた「マイケル・カルメロ」を名乗る男は、「祖父が発作で死を迎えつつあり、最期の祈りを捧げにきてほしい」と祈祷しに来てほしい旨を懇願した。

電話に出たパトリック・ジェラード神父は視力が弱く車での外出が難しいとして、同僚のレイナルド・ジョン・リベラ神父(57歳)に話を引き継ぐと、彼は男の要請に応じて車に乗り込んだ。

カルメロなる男は、ウェルド付近を車で走行中だったらしく、「ラ・バハダの丘にあるパーキングに青色のピックアップトラックを停めて待つ」と話していた。サンタフェからは車で1時間もかからない距離だが、ウェルドは人里離れた山間部にかつてあった炭鉱町ですでにゴーストタウン化した地域だった。

 

しかしその晩、リベラ神父は教会に戻らず、3日後、州間ハイウェイ25号線のウェルド出口付近の牧草地に泥まみれの状態で死亡しているのが発見された。

仰向けで片手を伸ばした格好で見つかり、腹部を銃で1発撃たれ、首にも絞められた痕があった。剖検により、拘束されていた痕跡が認められ、首の索痕にはワイヤーハンガー様の金属コードが使用されたと推認された。

ウェルド周辺にあった公衆電話はすべて故障して放棄されたものしか残っておらず、教会に入った電話は別の場所から掛けられていたことが判明する。「カルメロ」なる人物が嘘を騙って牧師を呼び出したと考えられ、警察では男がサンタフェから電話をかけて教会を出た神父を追尾し、犯行に及んだものと推測した。

またウェルドの廃屋や山間部に運べば遺体の発見を遅らせることは容易な環境だとする見方から、犯人はあえて交通量の多いハイウェイ沿いに遺体を放置したと考えられた。

陰惨な殺人に胸を痛めたサンタフェ教区民たちは現場に急ぎ十字架を設けて神父を悼み、慰霊の祈りを捧げた。

 

神父が乗っていた茶色の1974年製シボレー・マリブは、遺体発見現場から南西およそ200キロ離れたグランツ近郊を通る州間ハイウェイ40号線のパーキングで見つかった。車のキーはなく、ガソリンタンクは空だった。遺体や車からリベラ神父の財布、眼鏡、聖餐の式具が入ったバッグが見つからなかった。鑑識で第三者の指紋が検出されたものの、拭き取ったような形跡が確認された。

 

車両発見の後、ニューメキシコ州西部の酒場で「車を盗まれた」と話し、小切手を換金しようとする見慣れない男がいたとの情報が入り、身元を突きとめたが事件とは無関係として解放された。その男は以前に飲酒運転をして近くのアルバカーキで服役しており、車を没収されて現に移動手段を失ったために難儀していただけだった。

サンタフェでは、事件直前に仮出所した39歳の受刑者に注意が向けられた。男は窃盗、強盗、麻薬の使用や密売などで刑務所と外を20年来往復していた。アルバカーキで受講することになっていた麻薬更生プログラムに姿を現さず、リベラ神父の呼び出し前夜にサンタフェ市街で目撃されていた。8月10日に大聖堂で催されたリベラ神父の葬儀には3000人が参列。同じ日に男は捕まったが、車内で検出された指紋と明らかに一致しなかった。

計画的な殺人犯が実名を使わないであろうことは分かり切っていたが、アリゾナ州に住む同名男性にもポリグラフ検査が実施され、検査の結果、無実が証明された。

現地当局は、全米各州で聖職者とトラブルを起こした人物、教会で強盗を働いた人物、真偽不明のタレコミなどあらゆる可能性から犯人検挙に臨んだがたどりつくことができず、84年にモンタナでのケリガン神父失踪の報を聞いて手口が似通っていることを直感した。

レイナルド・リベラ神父

リベラ神父殺人にはケリガン神父の失踪と多くの共通点があった。

二人ともフランシスコ会の会員であったこと、生まれ年が近い同世代であること、茶色のシボレー車に乗っていたこと。さらに二件とも夏場の近い時期に発生しており、犯行車両の指紋が拭き取られていたこと、おそらくワイヤーハンガーが凶器に使用されたことなどは犯罪プロファイルとして共通項に挙げられる。

共通とまでは言えないが、単純な強盗・恐喝に属さず、事件を隠蔽する意図が見られないなど犯行様態はいずれも謎めいたものに映った。サンタフェ警察ギルバート・ウリバリ副署長は「同一犯による連続事件」と個人的な見解を公に述べたが、ほかの警察関係者からは無関係、偶然の一致とする見方もあった。しかし地理的にも時間的にもそれほど隔てず偶然とは思えないほどの共通点や類似点があり、「決定的な証拠がある訳ではないが刑事の直感からそうとしか思えない」とウリバリ副署長は主張している。

犯人は年齢などから標的を選んでいるようにも見られたが、FBIの心理プロファイルによれば、特定の人物ではなくカトリック教会に対する復讐を動機とする犯人像が導かれたという。リベラ神父事件では「最期の祈り」を要望したことから、犯人は元々カトリックに信頼を寄せていたと考えられた。だが、たとえば近親者の死などの災難に陥ったとき、教会が彼の十分な助けとならず、逆恨みして神父を標的とした報復に及んでいるものと推測された。

1988年にはテレビ番組『未解決ミステリー』で両事件を絡めた放映内容が話題となり、そのときは1000件超の情報提供がもたらされたが両事件の核心にたどり着くことはできなかった。

 

疑惑

再び事件が動き出すのは、2002年にボストン・グローブ紙が告発したローマカトリック聖職者による児童への性的虐待疑惑の記事によってである。

一連の報道をきっかけにカトリックに対する性的虐待の告発は数千人規模にまで達した。被害者の8割以上が男児とされ、司祭・教会・教区を相手取った集団民事訴訟が全米各地で行われた。ある者は暴力的に制圧されて、ある者はカードゲームの罰ゲームなどとして虐待は巧妙に行われていたことが判明した。

大半の教区では虐待が発覚しても加害神父を別の場所へ異動させて、体面を保つ場当たり的な対応が慣習化した。聖職者の叙位は神との契約に等しい側面を持つ。そうした慣習拡大の背景として、大司教や教会組織にとって教区から「解任者」を出すことは不名誉と捉えられ、自分たちの任命責任や指導責任を問われる不安もあったかもしれない。

科学的治療のリソースや精神医療のアプローチに乏しかった当時は、ほとんど精神論的に職場復帰が目指されていた。結果的に性犯罪者をたらいまわしにすることとなり、虐待の被害を拡大させ、組織的な隠蔽の巧妙化へとつながったと指摘されている。

さらに北米にとどまらず中南米、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアと世界各地で同様の虐待事例が繰り返されてきたことが明るみとなる。司祭個々人の資質や単一教会における因習といった次元ではなく、無反省に事件を隠蔽し続けてきた教団組織の体質的問題として議論され、ローマ法王庁の責任を問う世界規模の大事件となった。

(※データのない個人的な妄想に過ぎないが、何も20世紀になって虐待の組織的隠蔽が波及したとは筆者は思わない。北米ネイティブ・アメリカン居留地では19世紀以降、教会を母体として寄宿学校が営まれており、正史として記録されたものはあまりないと考えられるが大航海時代から植民地主義の時代を通じて綿々と繰り返されてきたことではないだろうか。)

 

聖職者の独身制と児童虐待の関連を問う研究は多いが、たとえば教職者による性的虐待比率よりは低いとのデータも報告されている。プロテスタントでは司祭よりも関係ボランティアによる虐待が多いとする報告もある。独身司祭の教理上の優位性はあるかもしれないが、それ自体が虐待につながるとみなせる決定的な理論とは言えない。

尚、一般的な小児性愛に関する研究では、虐待者の大多数が異性愛者(成人男性が女児を、成人女性が男児を標的とするケース)とされており、カトリック聖職者への告発比率とは対照的である。

 

過去にも1983年にルイジアナ州ラファイエット教区で司祭を務めていたギルバート・ゴースによる児童性的虐待が発覚して騒ぎとなった。ゴースは司法取引の末、72年から83年の間で37人に対する児童の性的虐待を認め、刑期を短縮されて95年に釈放された。だが移住先のテキサスで3歳男児に対する性的虐待で起訴され、97年に保護観察処分を受けた。専門家の間では問題視されていたが、インターネットがそれほど普及していなかった当時のこと、全国的な騒動の火種とまではならなかった。

さらに遡れば1947年にパラクレート奉仕者修道会を設立したジェラルド・フィッツジェラルド神父は、異常性愛(当時の同性愛者らを含む)からの回復は困難だとして当初受け入れを拒否していた。

だがフィッツジェラルド神父の意見は聞き入れられることはなく、おそらくは教会組織や大司教らの要請により、受け入れが増加していったものとみられる。そうした聖職者向けリハビリ施設の存在は54年まで公に語られてこなかったのも後ろめたさや触れられたくない側面があったためであろう。

当時から児童への性的虐待で送り込まれてくる司祭もいたとされ、フィッツジェラルド神父は経験則からその人心操作的で反省なく同じような過ちを繰り返す性質を「悪魔的」という強い言葉で非難していた。52年から69年に亡くなるまで国内の各司教や教皇パウロ6世を含むバチカンに「俗人化し、聖職復帰を認めない」ように進言し続けていた(申し入れは聞き入れられなかった)。

 

2011年にローマカトリック教会ヘレナ教区でも集団での民事訴訟が開始され、2015年4月、和解条件のひとつとして、教区での性的児童虐待が認められた加害が疑われた司祭・修道女ら80人の名前と所属が公表される。

https://www.bishop-accountability.org/diocesan_lists/Helena_2015_04_29_List_of_Alleged_Perpetrators.pdf

リストに連なる虐待容疑者のひとりとして消えた司祭ケリガン神父の名前が浮上した。

ケリガン神父失踪事件に1985年から携わったレイク郡の元保安官ゲルドリッチ氏は、神父の虐待報道を受けて、「当局では当時からその疑惑を関知していた」と述べているが、当時どこまで尻尾を掴めていたのか、追及する気があったのかは定かではない。

 

仮説

2000年代以降の一般的な仮説としては、性的虐待の被害者ないし被害者家族がケリガン神父に報復したことが想定されている。彼がその日「プレーンズに行く」と話していたことも、前任地でその相手と会う約束をしていたのではないか、と。デートで事に及ぼうとしたら返り討ちに遭ったシチュエーションは最もシンプルで、勧善懲悪的な結末を求めがちな私たちにとっても想像しやすい。

だが元保安官のゲルドリッチ氏は、強盗説とともに、被害者による報復説も斥けている。ヘレナ教区でも神父による虐待を把握していたということは、被害者が地元警察などにも相談していた可能性は高い。捜査機関は可能なかぎり被害者(たち)に接触したと思われ、プレーンズでも被害者探しが行われていたはずだ。

当然、虐待被害者を公表することはできないだろうが、ゲルドリッチ氏の言葉を信用するならば、対象者(虐待被害者)はすでに調査済みであり、全員から「シロ」の確証を得ていたのかもしれない。

 

また同一犯説を採る人の中には、茶色いフォード車、年齢の近さなどから、リベラ神父の殺害はケリガン神父との人違いだったのではないかといった見方もある。被害者家族による代理報復であればそうした人違いは起こりうる。

しかしリベラ神父の場合、電話を掛けてきた犯人「カルメロ」はリベラ神父本人を呼び出したかったのかどうかがそもそも怪しい。電話を最初に受けたジェラード神父が自ら(誰かに運転を頼むなどして)出動する可能性もありえたし、逆にリベラ神父に何か別の予定があって出向けない状況だって起こりえた。

またリベラ神父が性的児童虐待者だったとする公式な情報はない。そして聖餐の式具や眼鏡を奪われている点は、犯行の「記念品」という猟奇性が顕著である。やはりFBIプロファイリングの指摘通り、「カルメロ」はカトリックあるいは聖フランシス大聖堂に勤める神父であればだれでもよかった性格の犯行のように思われる。

 

同時期、性的逸脱が発端と囁かれる殺人事件でも司祭が犠牲者となっていた。

パトリック・ライアン神父(49歳)はテキサス州デンバーシティという人口4700人の小さな町の教区司祭だった。

1981年12月、彼は偽名でテキサス州オデッサのモーテルに泊り、翌日、全裸で腕を縛られて刃物でなぶられ、血まみれになって死んでいるのが発見された。数週間前から神父と肉体関係を重ねていたジェームズ・レイヨス氏が容疑者として逮捕・起訴された。彼はネイティブアメリカンの同性愛者である。

オデッサから160キロ離れたニューメキシコ州での目撃者証言や買い物レシートといったアリバイ証拠は無視され、テキサスの保守的な土地柄や当時のゲイに対する強い偏見からレイヨス氏は有罪判決を下された。

しかし獄中から無実を訴え続け、弁護団や支援者らは、彼が300キロ以上離れた場所でスピード違反の切符を切られていたことなど新たなアリバイ証拠を掴んだ。さらに2022年、オデッサ署員はレイヨス氏の指紋が検出されていなかったことに疑問を抱き、現場モーテルと財布から採取されていた指紋に着目して、該当する3人を割り出した。

すでに3人は死亡していたが、暴力事件の前科持ちで、その晩モーテルを利用していた客だった。事件は同性愛者の痴情のもつれなどではなく、犯人は神父が同性愛者であることを知っており、性交渉を持ち掛けるなどしてモーテルへとおびき出し、強盗と凌辱に及んだものと考えるのが自然であった。2023年、レイヨス氏は40年ぶりに無実と認められた。

同性愛者に対する差別感情は殺人の動機になりうる。少なくとも当時の北米社会にはそうした人間が少なからず存在した。司祭に期待される社会的役割からの逸脱として強い嫌悪感を抱かせるものだったにちがいなく、それは翻せば犯人の深い信仰の表現であったかもしれない。

同じように考えてみると、直接虐待を受けていない人物であっても、ケリガン神父が性的逸脱者・児童虐待者であると気づけば猛烈な嫌悪感を抱き、殺害の動機になりえたかもしれない。それは熱心な一信徒であれ、同業者、厳格な神父であれ。

 

最後に陰謀論を付け加えるならば、元捜査員らは殺人犯にたどり着いていながらも、あえて見逃しているケースはないだろうか。

地元の特権階級や警察関係者だからといった理由ではない。神父の犯した罪と虐待被害者が下した報復とを天秤にかけたとき、虐待被害者側に正義があるという判断が下されたのではなかろうか。

殺人と性的児童虐待とを法の天秤に掛ければ、殺人の方がより重い裁きを受けると定められている。しかし自分が子をもつ身になれば、子どもが受けた心身への傷害や家族が被った深刻な苦痛、その後も続く地域での生きづらさなどを汲みとり、法の物差しに異議を唱えたくなるのが市民感情というものだ。

相手は昨日今日よそから赴任してきたばかりの神父である。捜査員からすれば幼い頃から顔なじみの父子に共感や同情を示すのは当たり前であり、地域の治安を守る意味では彼らを逮捕するよりも変態神父を排除すべきとの結論に至っても不自然ではない。

殺害を肯定したいのではない。過去エントリ『ゲイリー・プラウシェの復讐』でも扱ったテーマだが、あらゆる情状を加味すれば、復讐という過ちは赦されうる余地が生まれるという考え方もある。

自警意識が強く、郷土愛の強い保安官ならば、司祭の皮を被った「悪魔」を駆逐することにこそ義を見出すのではないかと感じたまでである。

sumiretanpopoaoibara.hatenablog.com

はたしてケリガン神父は消えたのか、消されたのか、他の事件との関連は依然として解明されてはいない。

 

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James Reyos - Innocence Project of Texas

Early Alarm for Church on Abusers in the Clergy - The New York Times

The Vanishing of a Priest - Flathead Beacon

Article clipped from The Santa Fe New Mexican - Newspapers.com™

James Otis Anderson – The Charley Project

Curtis A. Holmen – The Charley Project