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【プレインフィールドの屍食鬼】エド・ゲイン

映画『サイコ』『羊たちの沈黙』などにインスピレーションを与えたと言われる伝説的殺人鬼エド・ゲイン。実在の彼は2件の殺人を認めたが、それ以上に人々を震撼させたのは彼の秘蔵コレクションだった。

尚、『悪魔のいけにえ(テキサス・チェーンソー)』(1974)のレザーフェイスは映画批評でエド・ゲインとの類似性が指摘されたもので、監督・脚本のトビー・フーバーは祖父から聞かされた話を源泉とした殺人鬼で、エド事件については制作後に学んだと話している。

 

生い立ち

エドワード・セオドア・ゲインは、1906年8月27日にアメリカ・ウィスコンシン州ラクロス郡で気弱な父ジョージと狂信的な母オーガスタの間に生を受けた。長男ヘンリー・ジョージ・ゲインはエドより7歳年長だった。アルコール依存症だったジョージは定職に就くこともままならず、大工や皮なめしなどの請負仕事を転々とし、妻の営む小さな食料品店が家計を支えていた。

極めて保守的な聖書主義をとる古ルター派プロイセン人移民の娘として育てられたオーガスタはだらしない夫を憎んでいたが、宗教的信念から離婚に踏み切ることもできずにいた。夫への苛立ちも反映されてか、敬虔な彼女は息子たちをあらゆる罪から遠ざけようと厳しくしつけ、とりわけ色欲の邪悪さをヘンリーと幼いエドワードに叩き込み純潔主義を説いた。

オーガスタは地元ラクロスの町を「はきだめ」呼ばわりし、1915年頃、家族は店を売り払ってプレインフィールド郊外の人里離れた土地に居を移した。エド少年は生徒数12人の学校に通う以外の時間をほぼ農場の中で過ごしたとされる。少年は「貪欲な読書家」であったが、内気な性格と怠惰な目、発語に障害があったと評され、他の子どもたちと溶け込むのに苦労していた。また人間のあらゆる行いが罪に通じると信じていたオーガスタは息子たちの外での交遊を罰したという。

 

Ed Gein's house

エドが12歳のとき、バスタブでマスターベーションに興じているのを母親に見つかり、彼女は息子の性器を掴んで「男の呪い」と罵った。オーガスタは常にジョージを罵倒し、息子たちに身体的虐待を与え、性的堕落へと引き込む一般女性への嫌悪と男性の弱さを刷り込み、セックスをすれば破滅すると常々抑圧して心的発達を歪ませていった。彼女の中には男性嫌悪と女性蔑視が共存していた。後年の心理学者らの研究によれば、孤立した環境で極度の保護下に置かれていたエドは、家長として君臨する母親への憧憬と自己同一化を強めていったと示唆されている。

エドワードは14歳で学校を中退。機械も乏しい当時、家族四人で79ヘクタールもの土地を手入れし続けるのは困難だったが、気難しい家族を敬遠してか手助けをする者もなく、働けども暮らしは決して楽にはならなかった。

 

家族との別れ

1940年4月、父ジョージ・ゲインは肺炎の合併症により66歳で帰らぬ人となった。オーガスタは40年来の連れ合いの死を嘆くでもなく、相変わらず彼の怠惰で罪深い性格のため罰が下ったのだと言って呪い続けた。農場の継続は立ち行かなくなり、兄弟は雑役夫として手伝い仕事を外に求めることとなった。エドはベビーシッター等をしながら母オーガスタへの献身を益々深めていたが、兄ヘンリーは二児を育てる独身女性と交際するようになり、同棲しようと計画を立てていた。

42年にはエドの許に徴兵通知が届いたが、目の腫瘍が元で身体検査に引っかかり入隊できなかった。身体検査に訪れた際のミルウォーキーまでのおよそ150マイル(241キロ)の移動が、彼の生涯最長の長旅となった。

 

1944年5月、兄ヘンリーは43歳のとき謎の死を遂げた。その日、エドとヘンリーは近所で雑草の焼き払い作業に追われていたが、延焼が広がってしまい消防隊が出動する火災に発展してしまう。エドは火の拡大を食い止めようと奮闘していたところ、兄を見失ったと語った。ヘンリーの遺体は火災現場から離れた場所で発見され、火傷の痕跡はなく、検視官は死因を消火活動中の窒息死と認定。警察は「愚鈍なエド」に対して犯罪性を追及することなく、事故死として処理された。

犯罪小説家ハロルド・シェクターエドの伝記『Deviant』(1989)のなかで、ヘンリーの頭部にひどい打撲傷があったと報告して「兄殺し」を仄めかしている。

当時の兄弟関係からすれば、宗教虐待の被害を自覚した兄が母親の物言いを非難したり、乳離れしようとしない弟を侮辱したりといった衝突は日常茶飯事だったと推測される。当然オーガスタも長子の交際、出奔の考えを口汚く罵ったであろう。母の教えに盲目的に従うエドも、兄の変節を女にたぶらかされた末の堕落と捉えたかもしれない。

あるいはエドが人並みに計算高い悪人だったとすれば、父ジョージの死後、兄に農場の所有権を移譲されたことを妬ましく思っていたかも分からない。時期は定かではないが、家族の死没後、エドは兄名義の土地も売却している。

精神科医のジョージ・W・アーント博士は、ウィスコンシン州矯正委員会と協力してこの事件を研究し、振り返ってみるとゲインがヘンリーを殺害した可能性は大いにありうるとして、ヘンリーの死こそが「カインとアベル」の側面だったのではないかと記している。(カインとアベル旧約聖書・創世記に登場するアダムとイヴの息子。人類最初の殺人を起こした兄弟としてしばしば物語のモチーフとされる)

反証として、エドが兄の殺害後に火を放ったならば焼け跡の中心で、少なくとも大火傷を負った状態で発見されていなければ道理に合わない。農作業小屋にでも閉じ込めて火を放つといったことさえ難しくはないだろう。筆者としては、当時の医療事情による死因の特定不明であり、「兄殺し」は後世のこじつけのように思われるがはたして真実は明らかではない。一方で、兄という外界への階(きざはし)が絶たれてしまったことは彼の孤立を深める重大な岐路となった。

オーガスタ・ヴィルヘルミーネ・ゲイン

オーガスタとエド、暴君と従順な下僕のような母子二人暮らしもそれほど長くは続かなかった。ヘンリーの死後まもなく彼女は脳卒中を引き起こして麻痺を患い、介護が必要な身体となった。その責任はエドの肩に圧し掛かり、医学書を片手に母親の世話を続けた。一層籠りきりの生活を送ることになった男の部屋には、やがて病理学、人体解剖、墓荒らし、頭部圧縮等をテーマとする書籍が積み重なった。

1945年12月29日、最愛の母オーガスタ・ゲインは2度目の脳卒中に襲われて67歳でその生涯を閉じた。ただ一人残された息子は彼女と過ごした時間を閉じ込めるために寝室と居間に板を打ちつけて覆い囲った。唯一の理解者にして愛の対象を失った天涯孤独のエドは悲しみに打ちひしがれた。

生活は荒みきり、ボロを身にまとって異臭を放ち、精神の不調は周囲の誰の目にも明らかだった。畑仕事のほか道路の建設作業員や農作業手伝いとして生計を立てながら、孤立した農家での母親との幸福な時間に執着する墓守のように隠遁生活を送っていた。変わり者だが礼儀正しく周囲との目立ったトラブルもなかったとされている。生活スペースは廃墟のように荒れ果てカストリ雑誌や冒険小説、食人やナチズムの残虐非道を描いた読み物で溢れていった。

 

隠遁者

1957年11月16日、プレインフィールドで金物店を営む女主人バニース・カナヴァー・ウォーデンさん(58歳)が突如消息を絶った。その日はほとんど客がなく異変が報告されたのは夕方になる頃で、バニースさんの息子で副保安官をしていたフランク・アーネスト・フォーデンが現場に駆けつけた。レジの現金が持ち出され、店の奥には血痕が続いていた。

住民の一人は、今朝、店の裏手から貨物自動車が去って行ったと話した。フランクは昨夜エドが来店して1ガロンの不凍液を注文し、母親をローラースケートに誘おうとしていたことを思い出した。売上帳簿を見返してみると今朝書かれた最後の伝票に不凍液の販売が記されていた。

この日の夕方、エド・ゲイン(当時51歳)は食料雑貨店に来店していたところを逮捕された。バニースさんの所在を探してワウシャラ郡保安局がエドの自宅農場を家宅捜索し、小屋で女性の首なし遺体を発見する。

遺体は両脚から吊り下げられ、両手を開いて固定されており、腹がぱっくりと裂かれて内臓が取り出され、血抜きが施されていた。まるでシカの屠殺の要領であった。殺害には22口径ライフル銃が使用されており、「解体作業」が一段落して買い物に出掛けたらしかった。被害者の頭部は麻袋に入れられ、心臓はストーブの前のビニル袋に分けて置かれていたのが見つかった。殺人犯の目的は人を殺すことではなかった。

逮捕当時のエド・ゲイン

荒廃した男の部屋に目を凝らすと、家具や内装品は解体現場以上におぞましい代物だった。椅子やごみ箱、ランプシェードに張られているのは人間の皮膚、ベッドの柱には頭蓋骨が取り付けられていた。引き出しのノブにも得体の知れない肉片が付いており、よく見れば女性の乳首だった。

一画には女性物のドレスが大切に保管されていた。母親の遺品だろうか。タンスには女性の頭の皮を剥いて縫い合わせたフェイスマスク、女性の体皮で加工されたコルセットとレギンス、女性の乳首を張り合わせたベルトもあった。それは遺品ではなく彼が自分のために作り上げた代物だった。

頭蓋骨がそのまま箱詰めされて保管されていたものもあれば、頭頂部をくりぬいてスープ皿にしたものもあった。靴箱には切り取られた外陰部がまるでジュエリーか何かのように陳列されていた。骨、唇、ツメ、鼻といったあらゆる部位が部屋の意匠として施されていた。言ってしまえば、男は人知れず死体の山の中で暮らしていたのである。

 

どれほどの余罪があるのか、何人の遺体が存在したのか、長年他人を寄せ付けなかったこの家で何が起きていたのか。取り調べの中で、エドはバニースさん殺しのほか、箱に保管していた女性の頭蓋骨について54年から行方不明となっていた酒場の女主人メアリー・ホーガンさんの殺害を自供したが、それ以外は墓の盗掘によって得られた遺体から作った記念品だと主張した。

母親の死後、エドは内なる願望を叶えるために近郊の3つの墓地に足繫く通うようになった。母親似の女性が亡くなったと訃報を聞いて墓荒らしを企てたのである。母親の遺物は確認されなかったが、当時はまだ男の加工技術が追い付かずうまくいかなかったのかもしれない。屍姦の目的はなかったのかという質問に対して、「腐敗の臭気に断念した」といかにも真実らしく答えている。人肉食については繰り返し否定している。10年余で盗掘した遺体は40体とも言われている。

獣の皮をなめすように人の生皮を加工して家具や食器、さらには男を騙そうとはしない「純潔の女性」に自ら生まれ変わるために、女性の皮膚でボディスーツをつくりあげた。それを着てかつて母親が欲しがっていた「女の子」に成り代わり、そして敬愛する母親そのものへと自己同一化を果たした。それは法的にも人道的にも明らかな逸脱行為だが、「悪い女性」に取り込まれず「良い女性」とひとつになる、母オーガスタの教えを彼なりに踏まえて出したひとつの結論のようにも思える。彼女ならば息子の行いを何と評したのであろうか。

荒れた室内は原形をとどめていない死体の山だった

エド・ゲインの犯罪と狂気は一躍全米に知れ渡るところとなり、各地からそのコレクションを一目見たいと野次馬が田舎町に詰めかけ、一種のオカルト・スポットと化してしまった。当局は混乱の長期化を避けるため、ゲインの農場を競売に出した。

1958年3月、競売に掛けられた「恐怖の館」は犯罪博物館になるのではないかとも噂されたが、その前夜、原因不明の火災によって建物は焼失。焼け跡と農場を購入した都市開発企業は完全な農地へと転換し、町に漂う悪評を一掃した。遺体の輸送に使われた錆びついたフォード車も競売に掛けられ、およそ100万円で売却され一時的に見世物として展示された後、行方知れずとなった。

取り調べの最中、捜査員による身体的暴力が問題となり、酒屋店主メアリーさん殺しは自白強要に当たるとして不起訴となった。金物屋店主バニースさん殺しで第一級殺人罪に問われたが統合失調症と鑑定されて刑事責任に問えないとして無罪判決が下される。同時期に近郊で起きたいくつかの女性失踪について今日でも関与の疑いが議論されているが、証拠不十分のためか、刑事責任能力なしとの見通しのため放棄されたのか、それ以上の嫌疑を負うことはなかった。

墓標は1999年に盗まれワシントンで発見された

ウィスコンシン州ワウパンにある州立中央病院で長期収容となり、後にマディソンのメンドゥータ州立病院へと搬送されたエド・ゲインは、1984年7月26日、肺がんによる呼吸不全で78歳で亡くなった。皮肉なことに、彼の墓標は1999年に一度盗まれ、2年後にワシントン州シアトル近郊で回収された。

言うまでもなくエドが墓荒らし、人皮加工者へと変貌していったのは、母親の教えと死による影響が大きい。だが、年齢の順通りに彼女の死後も兄ヘンリーが生き残っていれば、墓荒らしの時点で問題が明るみとなり、ここまで悲惨な結末には至らなかったようにも思える。

近くでその変調に気づいてくれるひと、逸脱と犯罪行為へのエスカレートを必死で止めてくれるひとが必要なのはあらゆる犯罪者、元犯罪者にとっても同じことである。